漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

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九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。

 
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作年:747年天寶六年47

卷別:    卷一六一              文體:    五言古詩

詩題:    古風,五十九首之四十八

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李白index- 26 《747年天寶六年47歳 春、揚州金陵,月当塗、丹陽横山に隠れる。後、溧陽、金陵、兗州に帰り年を越》1097kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4033 

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17

 

 

古風,五十九首之四十八

(この詩は、古風,五十九首 其三で見た秦の始皇帝は、絶対英主であったものを詠ったものである。)

秦皇按寶劍,赫怒震威神。

秦の始皇帝は、絶対英主であって、赫怒して神威を振るい、天下ことごとく僣服した。

逐日巡海右,驅石駕滄津。

それから四方端まで巡行し、日を遂うて、次第に東海の岸を通り、日のいずるところまで橋をかけて、そこへ行ってみたいと思う。

徵卒空九宇,作橋傷萬人。

そのために、九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。

但求蓬島藥,豈思農雇春。

ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。

力盡功不贍,千載為悲辛。

国の力は疲弊して、それら一つも成功せず、やがて始皇帝が崩御すると、間もなく、秦も滅亡してしまったので、それ以来千年も経過しても、不老長寿に大きな変化はなく、人をして悲辛の念に堪えられないということなのだ。

(古風,五十九首の四十八)

秦皇 寶劍を按じ,赫怒 威神を震う。

日を逐うて海右を巡り,石を驅って滄津を駕す。

卒を徵して九宇を空しうし,橋を作って萬人を傷く。

但だ 蓬島の藥を求め,豈に農雇の春を思わんや。

力盡きて 功 贍【にぎわ】はず,千載 為に悲辛。

春秋戦国勢力図 

 

『古風,五十九首之四十八』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之四十八

秦皇按寶劍,赫怒震威神。

逐日巡海右,驅石駕滄津。

徵卒空九宇,作橋傷萬人。

但求蓬島藥,豈思農雇春。

力盡功不贍,千載為悲辛。

(含異文)           

秦皇按寶劍,赫怒震威神。逐日巡海右,驅石駕滄津【驅石架滄津】。

徵卒空九宇,作橋傷萬人。但求蓬島藥,豈思農雇春。力盡功不贍,千載為悲辛。

 

(下し文)

(古風,五十九首の四十八)

秦皇 寶劍を按じ,赫怒 威神を震う。

日を逐うて海右を巡り,石を驅って滄津を駕す。

卒を徵して九宇を空しうし,橋を作って萬人を傷く。

但だ 蓬島の藥を求め,豈に農雇の春を思わんや。

力盡きて 功 贍【にぎわ】はず,千載 為に悲辛。

 

(現代語訳)

(この詩は、古風,五十九首 其三で見た秦の始皇帝は、絶対英主であったものを詠ったものである。)

秦の始皇帝は、絶対英主であって、赫怒して神威を振るい、天下ことごとく僣服した。

それから四方端まで巡行し、日を遂うて、次第に東海の岸を通り、日のいずるところまで橋をかけて、そこへ行ってみたいと思う。

そのために、九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。

ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。

国の力は疲弊して、それら一つも成功せず、やがて始皇帝が崩御すると、間もなく、秦も滅亡してしまったので、それ以来千年も経過しても、不老長寿に大きな変化はなく、人をして悲辛の念に堪えられないということなのだ。

 

banri03 

(訳注)

古風,五十九首之四十八

(この詩は、古風,五十九首 其三で見た秦の始皇帝は、絶対英主であったものを詠ったものである。)

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

index-26-1-#1 《古風五十九首之三》Ⅳ-1 747年天寶六年47歳 464<index-26-1-#1> Ⅰ李白詩1145 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4273

 

 

秦皇按寶劍,赫怒震威神。

秦の始皇帝は、絶対英主であって、赫怒して神威を振るい、天下ことごとく僣服した。

威神 神の威光。神の威力。神威とおなじ。

 

逐日巡海右,驅石駕滄津。

それから四方端まで巡行し、日を遂うて、次第に東海の岸を通り、日のいずるところまで橋をかけて、そこへ行ってみたいと思う。

海右 海の西岸。東海に面する岸のこと。

驅石 「始皇帝、石橋を造り、海を過ぎて、日の出国をみむと欲す神ひとあり、能く石を駆て海に下す。陽城の十一山、石ことごとく起立し、巍巍東に傾いて、相従って行く状の如し。石去ること速やかなら坐れば、神輒これを鞭うち、石、皆血を流す。」

駕 架けるに同じ。

滄津 大海。滄海。

 

徵卒空九宇,作橋傷萬人。

そのために、九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。

九宇 九州。

 

但求蓬島藥,豈思農雇春。

ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。

蓬島藥 蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥

農雇春 になって農業を奨励すること。左傳·昭十七年》「九爲九農正。以此八,幷上鴳爲九。鳸鳻鶞,夏 ,秋竊藍,冬竊黃,桑竊脂,棘竊丹,行唶唶,宵嘖嘖。」とある

 

力盡功不贍,千載為悲辛。

国の力は疲弊して、それら一つも成功せず、やがて始皇帝が崩御すると、間もなく、秦も滅亡してしまったので、それ以来千年も経過しても、不老長寿に大きな変化はなく、人をして悲辛の念に堪えられないということなのだ。

 雁門関、別名を西陘関

37-#2 《古風五十九首之三十七》Index-26Ⅳ-1 747年天寶六年47歳466古風,五十九首之三十七燕臣昔慟哭, <37-#2> Ⅰ李白詩1199 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4543

浮雲は、天子の居ます宮闕を蔽い、陰険な者たちにより、この朝廷は暗闇のようになった。真昼の太陽の輝きが照らすことさえ難しくなっている。それほど正当なことが天子に届かないものになっているのだ。

 
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 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
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37-#2

《古風五十九首之三十七》Index-26-1 747年天寶六年47466古風,五十九首之三十七燕臣昔慟哭, <37-#2> Ⅰ李白詩1199 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4543

 

 

37巻一  古風,五十九首之三十七

製作年:  747  天寶六年  47

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之十七 

作地點: 婺州(江南東道 / 婺州 / 婺州

及地點:  金華 (江南東道 婺州 金華)     

崑崙山 (隴右道東部 肅州 崑崙山)     

 

古風,五十九首之三十七

(この詩も、感嘆の詩で、李白が高力士らの讒言にあって、長安を追放された後作ったもの。)

燕臣昔慟哭、五月飛秋霜。

鄒衍は燕国に忠誠を尽くしたにもかかわらず獄につながれ、その時点を仰いで、慟哭すると真夏である五月というのに、秋に降りるはずの霜が飛んだという。

庶女號蒼天、震風擊齊堂。

また、斉の娘が嫁して寡婦となったが、無実の罪を着せられたため、悲しみのため天に向かって号泣したところ、天が感じて雷を起こし、そのため斉の景公の高殿に雷撃があった、景公も傷ついたのだ。

精誠有所感、造化為悲傷。

つまり、天を感じさせる誠さえあれば、天も悲しんでくれるものだ」。誠実に生きることがたいせつだ、自分も誠実に生きてきた。姦物どもの非難・中傷はあろうが、天も知って悲しんでくれるであろうというのがそれである。

#2

而我竟何辜、遠身金殿旁。

ところで、「誠実に生きている自分には何の罪があるのか、天子のおられる金殿の傍らからこの身を遠ざけられてしまうのだ」。

浮云蔽紫闥、白日難回光。

浮雲は、天子の居ます宮闕を蔽い、陰険な者たちにより、この朝廷は暗闇のようになった。真昼の太陽の輝きが照らすことさえ難しくなっている。それほど正当なことが天子に届かないものになっているのだ。

群沙穢明珠、眾草凌孤芳。

思えは宮中には誠実ならざる姦物が多くけがれてしまっている。こうした何の考えのしないただの草の集まりみたいな朝廷の現状を嘆き、なさけなくなるのだ。

古來共嘆息、流淚空沾裳。

それは昔から毎々あることであって、嘆かわしいことであった。これを思うと、ただ涙が流れて着物をぬらせてしまう。

 

(古風,五十九首之三十七)

燕臣 昔 慟哭すれば、五月 秋霜を飛ばす。

庶女 蒼天に 號けべば、震風 齊堂を擊つ。

精誠 感ずる所有り、造化 為に悲傷。

 

而して我 竟に何んぞ辜【つみ】か、身を遠ざく金殿の旁。

浮云【ふうん】 紫闥【したつ】を蔽い、白日 光を回らし難し。

群沙 明珠を穢【けが】し、眾草 孤芳 凌【しの】ぐ。

古來 共に嘆息、流淚 空しく裳を沾【うるお】す。

閶闔門001

 

『古風,五十九首之三十七』 現代語訳と訳註

(本文)#2

而我竟何辜、遠身金殿旁。

浮云蔽紫闥、白日難回光。

群沙穢明珠、眾草凌孤芳。

古來共嘆息、流淚空沾裳。

 

(下し文)

(古風,五十九首之三十七)#2

而して我 竟に何んぞ辜【つみ】か、身を遠ざく金殿の旁。

浮云【ふうん】 紫闥【したつ】を蔽い、白日 光を回らし難し。

群沙 明珠を穢【けが】し、眾草 孤芳 凌【しの】ぐ。

古來 共に嘆息、流淚 空しく裳を沾【うるお】す。

 

(現代語訳)

(この詩も、感嘆の詩で、李白が高力士らの讒言にあって、長安を追放された後作ったもの。)

ところで、「誠実に生きている自分には何の罪があるのか、天子のおられる金殿の傍らからこの身を遠ざけられてしまうのだ」。

浮雲は、天子の居ます宮闕を蔽い、陰険な者たちにより、この朝廷は暗闇のようになった。真昼の太陽の輝きが照らすことさえ難しくなっている。それほど正当なことが天子に届かないものになっているのだ。

思えは宮中には誠実ならざる姦物が多くけがれてしまっている。こうした何の考えのしないただの草の集まりみたいな朝廷の現状を嘆き、なさけなくなるのだ。
それは昔から毎々あることであって、嘆かわしいことであった。これを思うと、ただ涙が流れて着物をぬらせてしまう。

 

 玄武門

(訳注)

古風,五十九首之三十七

(この詩も、感嘆の詩で、李白が高力士らの讒言にあって、長安を追放された後作ったもの。)

高力士は、李白によって、脱靴の恥を懐き、清平楽の詞の語を摘まんで楊貴妃に譖し、法遂せられたのである。

 

而我竟何辜。 遠身金殿旁。
ところで、「誠実に生きている自分には何の罪があるのか、天子のおられる金殿の傍らからこの身を遠ざけられてしまうのだ」。


浮云蔽紫闥。 白日難回光。
浮雲は、天子の居ます宮闕を蔽い、陰険な者たちにより、この朝廷は暗闇のようになった。真昼の太陽の輝きが照らすことさえ難しくなっている。それほど正当なことが天子に届かないものになっているのだ。


群沙穢明珠。 眾草凌孤芳。
思えは宮中には誠実ならざる姦物が多くけがれてしまっている。こうした何の考えのしないただの草の集まりみたいな朝廷の現状を嘆き、なさけなくなるのだ。
○群沙 ただ集まっている砂。誠実ならざる姦物が多い 

 けがれている。荒れ果てる。


古來共嘆息。 流淚空沾裳。
それは昔から毎々あることであって、嘆かわしいことであった。これを思うと、ただ涙が流れて着物をぬらせてしまう。
長安城皇城図 

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ると真夏である五月というのに、秋に降りるはずの霜が飛んだという。また、斉の娘が嫁して寡婦となったが、無実の罪を着せられたため、悲しみのため天に向かって号泣したところ、天が感じて雷を起こし、そのため斉の景公の高殿に雷撃があった、景公も傷ついたのだ。

 
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37巻一  古風,五十九首之三十七

製作年:  747  天寶六年  47

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之十七 

作地點: 婺州(江南東道 / 婺州 / 婺州

及地點:  金華 (江南東道 婺州 金華)     

崑崙山 (隴右道東部 肅州 崑崙山)     

 

 

古風,五十九首之三十七

(この詩も、感嘆の詩で、李白が高力士らの讒言にあって、長安を追放された後作ったもの。)

燕臣昔慟哭、五月飛秋霜。

鄒衍は燕国に忠誠を尽くしたにもかかわらず獄につながれ、その時点を仰いで、慟哭すると真夏である五月というのに、秋に降りるはずの霜が飛んだという。

庶女號蒼天、震風擊齊堂。

また、斉の娘が嫁して寡婦となったが、無実の罪を着せられたため、悲しみのため天に向かって号泣したところ、天が感じて雷を起こし、そのため斉の景公の高殿に雷撃があった、景公も傷ついたのだ。

精誠有所感、造化為悲傷。

つまり、天を感じさせる誠さえあれば、天も悲しんでくれるものだ」。誠実に生きることがたいせつだ、自分も誠実に生きてきた。姦物どもの非難・中傷はあろうが、天も知って悲しんでくれるであろうというのがそれである。

#2

而我竟何辜、遠身金殿旁。

浮云蔽紫闥、白日難回光。

群沙穢明珠、眾草凌孤芳。

古來共嘆息、流淚空沾裳。

 

(古風,五十九首之三十七)

燕臣 昔 慟哭すれば、五月 秋霜を飛ばす。

庶女 蒼天に 號けべば、震風 齊堂を擊つ。

精誠 感ずる所有り、造化 為に悲傷。

 

而して我 竟に何んぞ辜【つみ】か、身を遠ざく金殿の旁。

浮云【ふうん】 紫闥【したつ】を蔽い、白日 光を回らし難し。

群沙 明珠を穢【けが】し、眾草 孤芳 凌【しの】ぐ。

古來 共に嘆息、流淚 空しく裳を沾【うるお】す。

 

春秋戦国勢力図 

『古風,五十九首之三十七』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之三十七

燕臣昔慟哭、五月飛秋霜。

庶女號蒼天、震風擊齊堂。

精誠有所感、造化為悲傷。

 

(下し文)

(古風,五十九首之三十七)

燕臣 昔 慟哭すれば、五月 秋霜を飛ばす。

庶女 蒼天に 號けべば、震風 齊堂を擊つ。

精誠 感ずる所有り、造化 為に悲傷。

 

(現代語訳)

(この詩も、感嘆の詩で、李白が高力士らの讒言にあって、長安を追放された後作ったもの。)

鄒衍は燕国に忠誠を尽くしたにもかかわらず獄につながれ、その時点を仰いで、慟哭すると真夏である五月というのに、秋に降りるはずの霜が飛んだという。

また、斉の娘が嫁して寡婦となったが、無実の罪を着せられたため、悲しみのため天に向かって号泣したところ、天が感じて雷を起こし、そのため斉の景公の高殿に雷撃があった、景公も傷ついたのだ。
つまり、天を感じさせる誠さえあれば、天も悲しんでくれるものだ」。誠実に生きることがたいせつだ、自分も誠実に生きてきた。姦物どもの非難・中傷はあろうが、天も知って悲しんでくれるであろうというのがそれである。

 

(訳注)

古風,五十九首之三十七

(この詩も、感嘆の詩で、李白が高力士らの讒言にあって、長安を追放された後作ったもの。)

高力士は、李白によって、脱靴の恥を懐き、清平楽の詞の語を摘まんで楊貴妃に譖し、法遂せられたのである。

 

燕臣昔慟哭、五月飛秋霜。

鄒衍は燕国に忠誠を尽くしたにもかかわらず獄につながれ、その時点を仰いで、慟哭すると真夏である五月というのに、秋に降りるはずの霜が飛んだという。

○燕臣 鄒衍(前305-240)天地万物は陰陽二つの性質を持ち、その消長によって変化する(日・春・南・男などが陽、月・秋・夜・女・北などが陰)とする陰陽説と、万物組成の元素を土・木・金・火・水とする五行説とをまとめ、自然現象から世の中の動き、男女の仲まであらゆることをこの陰陽五行説によって説明。彼の説は占いや呪術とも結びついて後世に多大な影響を与えた。どれほど影響があるかは「陽気」「陰気」という言葉や、曜日の名前を思い浮かべればすぐわかる。

○飛秋霜 秋に降りる霜が降り、風に飛んだ。

 

庶女號蒼天。 震風擊齊堂。
また、斉の娘が嫁して寡婦となったが、無実の罪を着せられたため、悲しみのため天に向かって号泣したところ、天が感じて雷を起こし、そのため斉の景公の高殿に雷撃があった、景公も傷ついたのだ。
庶女 斉の娘が嫁して寡婦となったが、無実の罪を着せられた。



精誠有所感。 造化為悲傷。
つまり、天を感じさせる誠さえあれば、天も悲しんでくれるものだ」。誠実に生きることがたいせつだ、自分も誠実に生きてきた。姦物どもの非難・中傷はあろうが、天も知って悲しんでくれるであろうというのがそれである。

17 《古風五十九首之十七》Index-26Ⅳ-1 747年天寶六年47歳465古風,五十九首之十七金華牧羊兒, <17> Ⅰ李白詩1165 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4373

顧みれば崑崙山に攀じ登り、仙術に使う瓊蕊の花を摘み取って、それと一緒に精魄を煉りあげれば、虚無の道であり、こんな世俗に居続けるのはつまらないことであると思うのだ。

 
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor14-385《玉蝴蝶一首》孫光憲(45)Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-568-14-(385) 花間集 巻第八 (四十八首)漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4387 
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17 《古風五十九首之十七》Index-26-1 747年天寶六年47465古風,五十九首之十七金華牧羊兒, <17> Ⅰ李白詩1165 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4373

 

 

製作年:  747  天寶六年  47

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之十七 

作地點: 婺州(江南東道 / 婺州 / 婺州

寫及地點:  金華 (江南東道 婺州 金華)     

崑崙山 (隴右道東部 肅州 崑崙山)     

 

 

古風,五十九首之十七 

(金華山中で羊を放牧しながら、神仙となった黄初平への憧れ、仙人の術業を学びたいと詠う。)

金華牧羊兒,乃是紫煙客。

黄初平はもと金華山の山中へ羊を放牧して居たものであったが、道を学んで紫煙にまたがる神仙となった。

我願從之遊,未去髮已白。

我はこの人にしたがって教えを受けたいと思っているが、まだこの地を去らぬうちにこんな様に白髪頭になってしまった。

不知繁華子,擾擾何所迫。

それにつけても一刻も早く、世俗に暇乞いをして、早くそこに行きたいと思っている、

崑山採瓊蕊,可以煉精魄。

顧みれば崑崙山に攀じ登り、仙術に使う瓊蕊の花を摘み取って、それと一緒に精魄を煉りあげれば、虚無の道であり、こんな世俗に居続けるのはつまらないことであると思うのだ。

 

(古風,五十九首の十七) 

金華 牧羊の兒,乃ち是れ紫煙の客。

我 之に從って遊ばんことを願えども,未だ去らざるは 髮已に白きことなり。

知らず 繁華の子,擾擾として 何所れにか迫らん。

崑山 瓊蕊を採り,以って精魄を煉る可し。

 

太白山00 

『古風,五十九首之十七』 現代語訳と訳註

(本文)

金華牧羊兒,乃是紫煙客。

我願從之遊,未去髮已白。

不知繁華子,擾擾何所迫。

崑山採瓊蕊,可以煉精魄。

 

(下し文)

(古風,五十九首の十七) 

金華 牧羊の兒,乃ち是れ紫煙の客。

我 之に從って遊ばんことを願えども,未だ去らざるは 髮已に白きことなり。

知らず 繁華の子,擾擾として 何所れにか迫らん。

崑山 瓊蕊を採り,以って精魄を煉る可し。

 

(現代語訳)

(金華山中で羊を放牧しながら、神仙となった黄初平への憧れ、仙人の術業を学びたいと詠う。)

黄初平はもと金華山の山中へ羊を放牧して居たものであったが、道を学んで紫煙にまたがる神仙となった。

我はこの人にしたがって教えを受けたいと思っているが、まだこの地を去らぬうちにこんな様に白髪頭になってしまった。

それにつけても一刻も早く、世俗に暇乞いをして、早くそこに行きたいと思っている、

顧みれば崑崙山に攀じ登り、仙術に使う瓊蕊の花を摘み取って、それと一緒に精魄を煉りあげれば、虚無の道であり、こんな世俗に居続けるのはつまらないことであると思うのだ。

 

 

(訳注)

古風,五十九首之十七

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

(金華山中で羊を牧しながら、神仙となった黄初平への憧れ、仙人の術業を学びたいと詠う。)

 黄初平に憧れているうちに白髪頭になってしまった、世上はなぜこうも忙しないのか、崑崙山に行けば仙人になれるのに、といった内容。

 

 

金華牧羊兒,乃是紫煙客。

黄初平はもと金華山の山中へ羊を放牧して居たものであったが、道を学んで紫煙にまたがる神仙となった。

○牧羊兒 黄初平のこと。黄初平(こう・しょへい、328-386年?)、晋代中国の仙人。「黄」は「皇」と書く場合がある。黄大仙(道教系寺院)に本尊として祀られる。[は牧羊を生業としていたが、ある時、道士に見込まれて何処ともなく行ってしまった。40年間行方不明の後に、兄が黄初平を見つける。兄が、昔飼っていた羊の所在を聞くと、路傍の羊の石の所へ行き、黄初平が仙術をかけると石が本物の羊に戻ったという。

 

我願從之遊,未去髮已白。

我はこの人にしたがって教えを受けたいと思っているが、まだこの地を去らぬうちにこんな様に白髪頭になってしまった。

 

不知繁華子,擾擾何所迫。

それにつけても一刻も早く、世俗に暇乞いをして、早くそこに行きたいと思っている、

○繁華 人が多く集まり、にぎわっていること。また、そのさま。

○擾擾 ごたごたと乱れているさま。騒がしいさま。

 

崑山採瓊蕊,可以煉精魄。

顧みれば崑崙山に攀じ登り、仙術に使う瓊蕊の花を摘み取って、それと一緒に精魄を煉りあげれば、虚無の道であり、こんな世俗に居続けるのはつまらないことであると思うのだ。

○崑崙山 中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。 崑崙奴とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。

○精魄 仙術である金丹を練ること。道教の道士が金石を砕いて練って作ったという不老不死の薬。
 

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しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。

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古風,五十九首之三

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

明斷自天、大略駕群才。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

收兵鑄金人、函谷正東開。

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

刑徒七十萬、起土驪山隈。』

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

 
古風,五十九首之三

秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。

劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。

明斷 天よりき、大略 群才を駕す。

兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。

功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。

刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』

尚采不死藥、茫然使心哀。

しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。

徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。

額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。

大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか

徐市載秦女、樓船幾時回。

徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
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但見三泉下、金棺葬寒灰。

いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
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尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。

連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。

額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。

鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。

徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。

但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。

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泰山の夕日02

 

『古風,五十九首之三』 現代語訳と訳註

(本文)#2

尚采不死藥、茫然使心哀。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。

徐市載秦女、樓船幾時回。

但見三泉下、金棺葬寒灰。

 

(下し文)

尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。

連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。

額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。

鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。

徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。

但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。

 

(現代語訳)

しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。
大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
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(訳注)#2

古風,五十九首之三

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山に木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。始皇帝は天下巡遊を始めた。皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。

 

 toujidaimap216

尚采不死藥、茫然使心哀。
しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
○尚採不死薬 「史記」始皇本紀三十二年「韓終・侯公・石生に仙人の不死の薬を求めさせた」。始皇帝は秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。
徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
連弩 数本ないし数十本の矢を連続して発射できるような仕掛の石弓。

海魚 大鮫。

○連弩射海魚 始皇本紀、二十八年「斉の人、徐市らが上書して「海中に三つの神山があり、蓬莱・方丈・瀛洲と申して、仙人が住んでおります。斎戒して童男童女を連れ、仙人を探したいと思います」と言った。そこで徐市を派遣し、董男童女数千人を出して海上に仙人を求めさせた」。三十七年「方士の徐市らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費用が多いだけだったので、罰せられることを恐れ、いつわって、「蓬莱では神薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられて、島に行くことができないのです。上手な射手を附けていただけば、現われたら連弩で射るのですが」と言った。……そこで海上に行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら、始皇みずから連弩で射ようと、琅邪から労山・成山(いずれも山東省)まで行ったが、ついに現われなかった。之罘に行くと大魚が出たので、一魚を射殺した」。 

崔嵬 高くて急な、石山の形容。

 

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。
額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。
五嶽 陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。

           東岳泰山(山東省泰安市泰山区)標高1,545m

           南岳衡山(湖南省衡陽市衡山県)標高1,298m

           中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)標高1,440m

           西岳華山(陝西省渭南市華陰市)標高2,160m

           北岳恒山(山西省大同市渾源県)標高2,016,m

神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。

この五岳を象徴図形にしたものが五岳真形図(「五嶽眞形圖」)である。

 

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。
大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか。
鬈鬣 ひれとひげ。○蓬莱 海上にあるといわれる仙人の島。

 

徐市載秦女、樓船幾時回。
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
徐市【じょふく】秦の始皇帝をだましたイカサマ師である。徐福ともいう。日本に来て住んだという。紀州にその墓がある。『史記』には「徐福または徐市は斉の国琅邪の人なり。」と記載されている。中国正史のなかで徐福について初めて触れたのは司馬遷であり、『史記』の「秦始皇本紀」および「准南衝山列伝」に取りあげられている。

楼船 二階づくりの屋形船。

 

但見三泉下、金棺葬寒灰。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
三泉 始皇本紀に,「始皇初即位,穿治酈山,及並天下,天下徒送詣七十餘萬人,穿三泉,下銅而致槨,宮觀百官奇器怪徙藏滿之。」(始皇を驪山に葬る。始皇帝が初めて帝位に即いた時、驪山のふもとに陵をつくるため穴を掘り、天下をあわせたのちは、天下の徒刑の罪人七十余万人をつかって三泉の下まで掘り、銅を以て下をふさぎ、外棺を入れた。塚の中に宮殿や百官の席をつくり、珍奇な器物をいっぱい入れた)。司馬遷は『史記』で 「穿三泉,下而致椁,宫观百官,奇器异怪徙藏之。以水银为百川江河大海,机相灌上具天文,下具地理,以人为烛,度不者久之」とあり(秦の始皇帝の陵墓は、非常に地下深く掘られています。まず、溶かした銅の液で床を埋めた後、棺おけを置きます。地下宮殿には、文武百官の席を設けただけではなく、数え切れないほどの宝物を所蔵しています。また、盗掘を防止するため、宮殿の門に矢などの防止用の道具が設置されています。さらに、陵墓内で水銀による海や川を作り、機械の力でそれを流動させるようにしており、お墓の吹き抜けには太陽や月、星などを飾り、地下には実物を真似した山水やお城や村などの風景も見られます。そして、所々に人魚の油で火を点した(ともした)蝋燭があり、これらの蝋燭は長く点しても消えません。」)

三泉とは、地下水の層を三つ掘りぬいた深い地底。始皇陵:秦の始皇帝の陵墓。原名は驪山(りざん)(山とは陵墓の意味)。陝西省臨潼県の東約5kmに位置する。墳丘は方形台状で,高さ76m,基底部は東西345m,南北350mの正方形を呈す。二重の城牆をめぐらし,内城牆は幅10m,残高1m余。また外城牆は幅67m,残高1mで周長約6300mの南北に長い長方形をなす。内城には6門,外城には4門が検出されている。延べ70万人の刑徒を動員して造営したと伝えられる墳丘自体には,いまだ発掘調査の手がおよんでいないが,周辺には陵墓と関係のある秦代の遺跡が各所で発見されている。

○寒灰 つめたい灰。死骸は火葬しないが、次第に風化して灰になることをいう。

 

 この詩も、神仙を願うことに反対しているのではない。また始皇帝をひきあいにだして、玄宗を諷刺したというものでもなく、ただ神仙の道を求める資格が、なかったことをいっているのである。晩年の豪奢と強権、宦官に任せた始皇帝には、不老長寿を求める資格はない、たとえ徐市(徐福)に始皇帝を欺く意志があったとしてもである。

中國歴史rihaku00 

 ○韻 哉、來、才、開、台、隈、哀、嵬、雷、萊、回、灰。


        
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index-26-1-1 《古風五十九首之三》Ⅳ-1 747年天寶六年47歳 464index-26-1-1> Ⅰ李白詩1145 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4273

 

 

3巻一  

古風,五十九首之三

秦皇掃六合。虎視何雄哉。揮劍決浮云。諸侯盡西來。

明斷自天。大略駕群才。收兵鑄金人。函谷正東開。

銘功會稽嶺。騁望琅琊台。刑徒七十萬。起土驪山隈。

尚采不死藥。茫然使心哀。連弩射海魚。長鯨正崔嵬。

額鼻象五岳。揚波噴云雷。鬈鬣蔽青天。何由睹蓬萊。

徐市載秦女。樓船幾時回。但見三泉下。金棺葬寒灰。

 

 

李白は、神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励されると考えており、真理としての宇宙観には多様性があるとするのが道教の思想であると考えていた。食生活においてはとりわけ、酒飲むことを基本とし、この相乗効果として、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きすると考えていた。次に李白に人生の集大成とも思われる「古風」五十九首のうちで道教に関するものと思われるものを見ていこう。この詩は、神仙思想というものから見れば、始皇帝の行った数々のことはおろかなことである、神仙を愚弄したものであり、結果は、「金棺の寒灰を葬る。」と。

 

 

古風,五十九首之三

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

明斷自天、大略駕群才。

收兵鑄金人、函谷正東開。

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

刑徒七十萬、起土驪山隈。』

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

 

尚采不死藥、茫然使心哀。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。

徐市載秦女、樓船幾時回。

但見三泉下、金棺葬寒灰。

しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、思うようにならず茫然と心をかなしませた。

海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをするというので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。

額と鼻は五嶽のかたち(象)をしており、大波をかき揚げ、雲雷を噴きだした。

ひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これでどうして蓬莱などが見られるというのか

徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。

いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。

 

 

古風,五十九首之三

秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。

劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。

明斷 天よりき、大略 群才を駕す。

兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。

功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。

刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』

 

尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。

連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。

額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。

鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。

徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。

但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。

泰山の夕日02 

 

『古風,五十九首之三』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之三

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

明斷自天、大略駕群才。

收兵鑄金人、函谷正東開。

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

 

(下し文)

古風,五十九首之三

秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。

劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。

明斷 天よりき、大略 群才を駕す。

兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。

功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。

刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』

 

(現代語訳)

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

終南山03 

(訳注)

古風,五十九首之三

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山に木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。始皇帝は天下巡遊を始めた。皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。

 

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

〇秦皇 始皇帝は、中国戦国時代の秦王。姓は嬴、諱は政。現代中国語では、始皇帝、または秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。 中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。。

〇六合【りくごう】天地と四方。上下四方。また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。天下国家。始皇帝はまた五行思想(地、木、金、火、水)も取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は次の徳を持つとし、それは「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた。

○虎視 猛虎がニラミをきかすこと。勢意の盛んで強いことのたとえ。

 

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

○揮劍決浮雲 「荘子」に「天子の剣は、上は浮雲を決り、下は地紀(大地の根本)を断つ。」とあるのにもとづくもの。

○諸侯尽西来 戦国時代の諸侯、すなわち斉・楚・燕・韓・魏・趙の六国の王たちは皆降伏して当時は一番西に位置したので(西のかた)秦に来た。中国初めての統一国家とされているが、実質的には隋王朝の国の体をなした国家、すなわち、律令国家体制こそが初めての統一国家といえるもののではなかろうか。

 

明斷自天、大略駕群才。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

○明断 英明な決断力。

○大略 大計画。

 

收兵鑄金人、函谷正東開。

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

○収兵鋳金人 「史記」の始皇本紀の二十六年の条に「天下の兵(武器)を収めて咸陽に集め、これをとかして鐘鐻(しょうきょ:鐘や鼓をかける台)と金人(銅製の大人形)十二をつくり、重さはそれぞれ千石(一石は普通人がかつげる重さ)で、宮廷に置いた」とある。

○函谷 秦の東境にある関所の名。いまの河南省の西端。秦は自然の要塞でもあるここを厳重守っていたが、六国を滅ぼして天下を統一したので「東に開」いたわけである。

 

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

○銘功会稽嶺 「史記」の始皇本紀、三十七年に「会稽山(浙江省紹興)に登って大禹(夏の商王)を祭り、南海を望んで石を立て、文字を刻んで秦の徳をたたえた」とある。杭州が中国南部統治の要衝地であった。その象徴ともいえる山が会稽山である。地図上での南は海南方面であるが李白の時代唐時は交通手段が川・運河であったためこの地を南としていた。○騁望琅琊台 琅邪は琅琊とも、また琅邪とも書く。同じく始皇本紀、二十八年「南のかた琅邪山(山東省諸城県東南)に登って大いに楽しみ、滞留三か月、平民三万戸を琅邪山のふもとに移し、十二年間免税することにし、琅邪台を作って石を立て、秦の徳をたたえた」。この地が最東の要衝地であった。

 

刑徒七十萬、起土驪山隈。』

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

○刑徒七十万 同じく始皇本紀、三十五年「始皇は阿房宮を作った。東西五百歩つまり3,000尺・南北五十丈つまり500尺という。なお、メートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。ウィキペディア中国語版では、693m116.5mと記述されている。 二階建で上は万人を坐らすことができ、下は五丈の旗を建てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。その建築に任じた刑徒の数は70余万に昇った。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。」。○驪山 いまの陝西省臨潼県の東南、つまり咸陽の東の郊外にある山。泰山の道観 


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