九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。
48 《古風五十九首之四十八》Index-26Ⅳ-1 747年天寶六年47歳467古風,五十九首之四十八秦皇按寶劍, <48> Ⅰ李白詩1211 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4603
作年:747年天寶六年47歲
卷別: 卷一六一 文體: 五言古詩
詩題: 古風,五十九首之四十八
index-26 | Ⅳ-2 | 李白index- 26 《747年天寶六年47歳 春、揚州金陵,五月当塗、丹陽横山に隠れる。後、溧陽、金陵、兗州に帰り年を越》1097kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4033 | 46歳 | 17 首 |
古風,五十九首之四十八
(この詩は、古風,五十九首 其三で見た秦の始皇帝は、絶対英主であったものを詠ったものである。)
秦皇按寶劍,赫怒震威神。
秦の始皇帝は、絶対英主であって、赫怒して神威を振るい、天下ことごとく僣服した。
逐日巡海右,驅石駕滄津。
それから四方端まで巡行し、日を遂うて、次第に東海の岸を通り、日のいずるところまで橋をかけて、そこへ行ってみたいと思う。
徵卒空九宇,作橋傷萬人。
そのために、九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。
但求蓬島藥,豈思農雇春。
ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。
力盡功不贍,千載為悲辛。
国の力は疲弊して、それら一つも成功せず、やがて始皇帝が崩御すると、間もなく、秦も滅亡してしまったので、それ以来千年も経過しても、不老長寿に大きな変化はなく、人をして悲辛の念に堪えられないということなのだ。
(古風,五十九首の四十八)
秦皇 寶劍を按じ,赫怒 威神を震う。
日を逐うて海右を巡り,石を驅って滄津を駕す。
卒を徵して九宇を空しうし,橋を作って萬人を傷く。
但だ 蓬島の藥を求め,豈に農雇の春を思わんや。
力盡きて 功 贍【にぎわ】はず,千載 為に悲辛。
『古風,五十九首之四十八』 現代語訳と訳註
(本文)
古風,五十九首之四十八
秦皇按寶劍,赫怒震威神。
逐日巡海右,驅石駕滄津。
徵卒空九宇,作橋傷萬人。
但求蓬島藥,豈思農雇春。
力盡功不贍,千載為悲辛。
(含異文):
秦皇按寶劍,赫怒震威神。逐日巡海右,驅石駕滄津【驅石架滄津】。
徵卒空九宇,作橋傷萬人。但求蓬島藥,豈思農雇春。力盡功不贍,千載為悲辛。
(下し文)
(古風,五十九首の四十八)
秦皇 寶劍を按じ,赫怒 威神を震う。
日を逐うて海右を巡り,石を驅って滄津を駕す。
卒を徵して九宇を空しうし,橋を作って萬人を傷く。
但だ 蓬島の藥を求め,豈に農雇の春を思わんや。
力盡きて 功 贍【にぎわ】はず,千載 為に悲辛。
(現代語訳)
(この詩は、古風,五十九首 其三で見た秦の始皇帝は、絶対英主であったものを詠ったものである。)
秦の始皇帝は、絶対英主であって、赫怒して神威を振るい、天下ことごとく僣服した。
それから四方端まで巡行し、日を遂うて、次第に東海の岸を通り、日のいずるところまで橋をかけて、そこへ行ってみたいと思う。
そのために、九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。
ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。
国の力は疲弊して、それら一つも成功せず、やがて始皇帝が崩御すると、間もなく、秦も滅亡してしまったので、それ以来千年も経過しても、不老長寿に大きな変化はなく、人をして悲辛の念に堪えられないということなのだ。
(訳注)
古風,五十九首之四十八
(この詩は、古風,五十九首 其三で見た秦の始皇帝は、絶対英主であったものを詠ったものである。)
古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。
index-26-1-#1 《古風五十九首之三》Ⅳ-1 747年天寶六年47歳 464<index-26-1-#1> Ⅰ李白詩1145 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4273
秦皇按寶劍,赫怒震威神。
秦の始皇帝は、絶対英主であって、赫怒して神威を振るい、天下ことごとく僣服した。
威神 神の威光。神の威力。神威とおなじ。
逐日巡海右,驅石駕滄津。
それから四方端まで巡行し、日を遂うて、次第に東海の岸を通り、日のいずるところまで橋をかけて、そこへ行ってみたいと思う。
海右 海の西岸。東海に面する岸のこと。
驅石 「始皇帝、石橋を造り、海を過ぎて、日の出国をみむと欲す神ひとあり、能く石を駆て海に下す。陽城の十一山、石ことごとく起立し、巍巍東に傾いて、相従って行く状の如し。石去ること速やかなら坐れば、神輒これを鞭うち、石、皆血を流す。」
駕 架けるに同じ。
滄津 大海。滄海。
徵卒空九宇,作橋傷萬人。
そのために、九州から人夫を募集して、石を海中に投じ、そこに橋を造りかけるところまでうまくいかず、負傷者が多く出たのである。
九宇 九州。
但求蓬島藥,豈思農雇春。
ただ、そこから、蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥をしきりにもとめて、春になって農業を奨励するなどと言うことは少しも念頭になかったのである。
蓬島藥 蓬莱山の神仙三島にあるという長生不死の仙藥
農雇春 になって農業を奨励すること。左傳·昭十七年》「九鳸爲九農正。以此八鳸,幷上鳸鴳爲九。春鳸鳻鶞,夏鳸竊 ,秋鳸竊藍,冬鳸竊黃,桑鳸竊脂,棘鳸竊丹,行鳸唶唶,宵鳸嘖嘖。」とある
力盡功不贍,千載為悲辛。
国の力は疲弊して、それら一つも成功せず、やがて始皇帝が崩御すると、間もなく、秦も滅亡してしまったので、それ以来千年も経過しても、不老長寿に大きな変化はなく、人をして悲辛の念に堪えられないということなのだ。