送二季之江東 李白
初發強中作,題詩與惠連。多慚一日長,不及二龍賢。
西塞當中路,南風欲進船。雲峰出遠海,帆影掛清川。
禹穴藏書地,匡山種杏田。此行俱有適,遲爾早歸旋。
(季某という二人兄弟の高唐に行くのを送った詩。)その地、会稽には、禹穴といって、太古、三皇五帝が書を蔵した洞窟があるし、盧山には、董奉の遺跡として、杏を植えさせた山田があるから、その地を見るだけでも価値がある。
231 《巻17-27 送二季之江東》Index-14 Ⅱ― 9-734年開元二十二年34歳 <231> Ⅰ李白詩1473 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5913
年:734年開元二十二年34歳
卷別: 卷一七七 文體: 五言古詩
詩題: 送二季之江東
作地點: 鄂州(江南西道 / 鄂州 / 鄂州)
及地點:禹穴 (江南東道 越州 會稽)
廬山 (江南西道 江州 廬山) 別名:廬嶽、匡山
西塞 (江南西道 鄂州 鄂州)
送二季之江東
(季某という二人兄弟の高唐に行くのを送った詩。)
初發強中作,題詩與惠連。
六朝期、謝靈運は、はじめて強中を出発するときに、一族の甥弟謝惠連に、詩を作って与えたというが、自分も、今、丁度、その心境にある。
多慚一日長,不及二龍賢。
自分は、君らに対して、一日の長を以て、上に立って居るが、生来才拙にして、平衡淵の二龍に比すべき君らの賢に及ばないのは、まことに慚愧に堪えないことだと思っている。
西塞當中路,南風欲進船。
これから君たちは、江東にむかって船でゆくのだが、西塞山は、その中路に当たり、南風の吹く季節であるから、船を進めるには少し骨が折れる事であろう。
雲峰出遠海,帆影掛清川。
峰勢を為す雲は遠海の上に湧き出て、帆影は清川に罹って、四顧ただ空濶、さだめて旅愁の凄惨であることは免れないであろう。
禹穴藏書地,匡山種杏田。
その地、会稽には、禹穴といって、太古、三皇五帝が書を蔵した洞窟があるし、盧山には、董奉の遺跡として、杏を植えさせた山田があるから、その地を見るだけでも価値がある。
此行俱有適,遲爾早歸旋。
その地、会稽には、禹穴といって、太古、三皇五帝が書を蔵した洞窟があるし、盧山には、董奉の遺跡として、杏を植えさせた山田があるから、その地を見るだけでも価値がある。
(二季の江東に之くを送る)
初めて強中を發して作り,詩を題して惠連に與う。
多く慚づ 一日の長,二龍の賢に及ばざる。
西塞 中路に當り,南風 船を進んと欲す。
雲峰 遠海を出で,帆影 清川に掛る。
禹穴 藏書の地,匡山 種杏の田。
此の行 俱に適有り,遲つ 爾じが早く歸旋するを。
『送二季之江東』 現代語訳と訳註解説
(本文)
送二季之江東
初發強中作,題詩與惠連。
多慚一日長,不及二龍賢。
西塞當中路,南風欲進船。
雲峰出遠海,帆影掛清川。
禹穴藏書地,匡山種杏田。
此行俱有適,遲爾早歸旋。
(下し文)
(二季の江東に之くを送る)
初めて強中を發して作り,詩を題して惠連に與う。
多く慚づ 一日の長,二龍の賢に及ばざる。
西塞 中路に當り,南風 船を進んと欲す。
雲峰 遠海を出で,帆影 清川に掛る。
禹穴 藏書の地,匡山 種杏の田。
此の行 俱に適有り,遲つ 爾じが早く歸旋するを。
(現代語訳)
(季某という二人兄弟の高唐に行くのを送った詩。)
六朝期、謝靈運は、はじめて強中を出発するときに、一族の甥弟謝惠連に、詩を作って与えたというが、自分も、今、丁度、その心境にある。
自分は、君らに対して、一日の長を以て、上に立って居るが、生来才拙にして、平衡淵の二龍に比すべき君らの賢に及ばないのは、まことに慚愧に堪えないことだと思っている。
これから君たちは、江東にむかって船でゆくのだが、西塞山は、その中路に当たり、南風の吹く季節であるから、船を進めるには少し骨が折れる事であろう。
峰勢を為す雲は遠海の上に湧き出て、帆影は清川に罹って、四顧ただ空濶、さだめて旅愁の凄惨であることは免れないであろう。
その地、会稽には、禹穴といって、太古、三皇五帝が書を蔵した洞窟があるし、盧山には、董奉の遺跡として、杏を植えさせた山田があるから、その地を見るだけでも価値がある。
その地、会稽には、禹穴といって、太古、三皇五帝が書を蔵した洞窟があるし、盧山には、董奉の遺跡として、杏を植えさせた山田があるから、その地を見るだけでも価値がある。
送二季之江東
(季某という二人兄弟の高唐に行くのを送った詩。)
同時期の江東に送るシリーズ。
(改訂版)巻14-35 江夏別宋之悌 李白350- 201
巻15-2 送張舍人之江東
巻17-23 江夏送友人【江夏祖友人】
巻17-25 江夏送張丞
初發強中作,題詩與惠連。
六朝期、謝靈運は、はじめて強中を出発するときに、一族の甥弟謝惠連に、詩を作って与えたというが、自分も、今、丁度、その心境にある。
初發強中作 強中は地名。謝靈運《登臨海嶠、發疆中作、與從弟惠連、可見羊何共和之。》臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。
登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<66-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩475 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1242
謝靈運 東晋・南朝宋の詩人・文学者。本籍は陳郡陽夏。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山水を詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖とされる。 六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。
惠連 謝惠連397年もしくは407年 - 433年)は、南朝宋の文学者。本貫は陳郡陽夏県。詩人としては、族兄の謝霊運の「大謝」に対し、「小謝」と併称され、後世では南斉の謝朓とあわせて「三謝」とも呼ばれる。
多慚一日長,不及二龍賢。
自分は、君らに対して、一日の長を以て、上に立って居るが、生来才拙にして、平衡淵の二龍に比すべき君らの賢に及ばないのは、まことに慚愧に堪えないことだと思っている。
二龍 『世説新語』「謝子徹と許子將の兄弟を見て、平衡淵に二龍あり。」とあるのに基づく。
西塞當中路,南風欲進船。
これから君たちは、江東にむかって船でゆくのだが、西塞山は、その中路に当たり、南風の吹く季節であるから、船を進めるには少し骨が折れる事であろう。
西塞 西塞山のことで、湖北省武昌の東にあり長江に臨むところだが、航行の難所といわれていた。
雲峰出遠海,帆影掛清川。
峰勢を為す雲は遠海の上に湧き出て、帆影は清川に罹って、四顧ただ空濶、さだめて旅愁の凄惨であることは免れないであろう。
雲峰 入道雲が湧き出で、天工が変わりやすいことをいう。
禹穴藏書地,匡山種杏田。
その地、会稽には、禹穴といって、太古、三皇五帝が書を蔵した洞窟があるし、盧山には、董奉の遺跡として、杏を植えさせた山田があるから、その地を見るだけでも価値がある。
禹穴 禹は中国の第一王朝の創建者であり、古代中国の歴史上の1世代の“聖王”である。4000年程前、中国大陸での洪水が多く、大禹は命令を受けて治水に取り組む。:“八年外にあって、家門の前を三度過ぎても門をくぐらず。”庶民の辛い経験などもあり、ついに治平工事を行なった。それから、このことを《史書》に記載し、大禹は“不安な大越(紹興)市民を水害から救った。この計画は、爵へ恩恵であり、彼の功績である”会議の場所が茅山だったため、“会稽山”(“稽“が“計”と発音が同じ為使われた)と改名する。禹が皇帝になった後、“巡守大越(見守り続けた大越)”ここで病死してしまったため、会稽山の麓に埋葬した。禹陵は古くは、禹穴と呼ばれ、大禹の埋葬地となった。大禹陵は会稽山とは背中合わせにあり、前には、禹池がある。
匡山 匡山は盧山の事で、長江中流域の要衝である九江,湖口を山下にひかえ,軍事上の拠点としてもしばしば歴史に登場する。周代に匡(きよう)氏の7兄弟がここに廬を結んで隠棲して登仙したという伝説により,匡山・匡廬とも呼ばれる。その後も陶潜(淵明)が隠棲するなど,隠士・道士のすみかともなった。
種杏田 は神仙伝にある董奉の隠遁の地で地域の住民の病気を治すために、重病は杏5株、軽病は1株を続けて数年で、鬱蒼とした森になったという故事に基づくもの。
《神仙傳》卷六〈董奉〉~
董奉者,字君異,候官人也。……奉居山不種田,日為人治病,亦不取錢,重病愈者,使栽杏五株,輕者一株,如此數年計得十萬餘株。郁然成林,……後杏子大熟,於林中作一草倉,示時人曰:「欲買杏者,不須報奉,但將穀一器置倉中,即自往取一器杏去。」常有人置穀來少,而取杏去多者,林中群虎出吼逐之,……奉每年貨杏得穀,旋以賑救貧乏,供給行旅不逮者,歲二萬餘斛。……奉在人間三百餘年乃去,顏狀如三十時人也。
此行俱有適,遲爾早歸旋。
そこで、君たちの遠行、定めて適意の事であるのであるが、自分は、少しでも早く帰ってきてほしいと思うので、適当なところで切り上げて帰ってきてもらいたいと思う次第である。
歸旋 歸も旋も共に帰るということで、どうしても帰ってほしいことを表す語である。謝靈運<過始寧墅>詩》「揮手告鄉曲, 三載期歸旋, 且為樹枌檟, 無令孤愿言。」しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。とある。