李白 經下邳圯橋懷張子房#2
潛匿遊下邳,豈曰非智勇。我來圯橋上,懷古欽英風。
惟見碧流水,曾無黃石公。歎息此人去,蕭條徐泗空。
今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。
260-#2 《巻二十一34經下邳圯橋懷張子房 -#2》(改訂版Ver..2.1)Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <260-#2> Ⅰ李白詩1524 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6168
年:738年開元二十六年38歳
卷別: 卷一八一 文體: 五言古詩
詩題: 經下邳圯橋懷張子房
作地點: 下邳(河南道 / 泗州 / 下邳)
及地點:圯橋 (河南道 泗州 下邳)
博浪沙 (都畿道 鄭州 陽武)
下邳 (河南道 泗州 下邳)
徐州 (河南道 徐州 徐州) 別名:彭城、徐方
泗州 (河南道 泗州 泗州)
(改訂版Ver..2.1)
經下邳圯橋懷張子房 #1
(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。)
子房未虎嘯,破產不為家。
むかし張子房が未だ漢の高祖にはまだ遭遇していない頃、すなわち、獲物を決めかねた虎がほえているだけという時で、何でも韓のために仇を取ろうとして財産を売り払ってでも家のことなどこころにとめることをしなかった。
滄海得壯士,椎秦博浪沙。
かくて、蒼海公のところで力士を得て、百二十斤の鉄鎚を作り、それでもって秦の始皇帝を博浪沙中で狙撃したが、副車に当たっただけで、目的を達する事は無かった。
報韓雖不成,天地皆振動。
こうして、五世韓に仕えた恩に報いるために企てた復讐は不成功におわったが、そのことによって天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けた。
#2
潛匿遊下邳,豈曰非智勇。
そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し、その間に勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。
我來圯橋上,懷古欽英風。
今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。
惟見碧流水,曾無黃石公。
しかし、この遺跡とても、別に見るべきものはなく、碧流の水が、むかしのままに、橋下を走るだけで、子房に兵書を授けた黄石公は、神仙だというが、賓際あった人かどうかわからぬ。
歎息此人去,蕭條徐泗空。
おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。
(下邳【かひ】の圯橋【いきょう】を經て張子房を懷う)
子房 未だ虎嘯せざり、產を破って 家を為さず。
滄海に 壯士を得、秦を椎【つい】す 博浪沙。
韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動。
#2
潜匿【せんとく】して 下邳に遊ぶ、豈 智勇に 非ずと 曰わんや。
我來る 圯橋の上り、古を懐うて、英風を欽す。
唯だ見る 碧流の水、曾て 黄石公 無し。
嘆息す 此の人去りて、蕭條として 徐泗【じょし】の空しきを。
(改訂版Ver..2.1)
『經下邳圯橋懷張子房』 現代語訳と訳註解説
(本文) #2
潛匿遊下邳,豈曰非智勇。
我來圯橋上,懷古欽英風。
惟見碧流水,曾無黃石公。
歎息此人去,蕭條徐泗空。
(下し文) #2
潜匿【せんとく】して 下邳に遊ぶ、豈 智勇に 非ずと 曰わんや。
我來る 圯橋の上り、古を懐うて、英風を欽す。
唯だ見る 碧流の水、曾て 黄石公 無し。
嘆息す 此の人去りて、蕭條として 徐泗【じょし】の空しきを。
(現代語訳) #2
そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し、その間に勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。
今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。
しかし、この遺跡とても、別に見るべきものはなく、碧流の水が、むかしのままに、橋下を走るだけで、子房に兵書を授けた黄石公は、神仙だというが、賓際あった人かどうかわからぬ。
おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。
經下邳圯橋懷張子房 #2
(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。)
○下邳:かひ いまの江蘇省北端の邳県の東にある。
○圯橋:いきょう 土橋。
○張子房 張良(ちょうりょう、生年未詳― 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。漢の高祖(鋸鰯の参謀として漢の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。
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潛匿游下邳、豈曰非智勇。』
そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し、その間に勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。
○潛匿 ひそかに潜伏しかくれる。
○游 勉強する。
○智勇 智略と勇気を備えること。
張良が下邳に潜伏していることと、李白、張旭らが逃避しているのを重ねている。
我來圯橋上、懷古欽英風。
今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。
○圯橋:いきょう 土橋。
○欽 うやまう。つつしむ。
惟見碧流水、曾無黃石公。
しかし、この遺跡とても、別に見るべきものはなく、碧流の水が、むかしのままに、橋下を走るだけで、子房に兵書を授けた黄石公は、神仙だというが、賓際あった人かどうかわからぬ。
そこにはただ目の前には苔むした青々とした水の流れがあるだけで、かの黃石公はもとより姿を現わすはずがないのだ。
○曾無 「曾」は「無」を強調する字。
○英風 英雄の風貌。
嘆息此人去、蕭條徐泗空。』#2
おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。
○徐泗 徐州と泗州。いまの江薪省徐州から安徽省池原にいたる一帯の地方。下邸はこの地方にある。