漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

Index-18 Ⅱ―13-738年開元二十六年38歳

260-#2 《巻二十一34經下邳圯橋懷張子房 -#2》(改訂版Ver..2.1)Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <260-#2> Ⅰ李白詩1524 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6168

李白  經下邳圯橋懷張子房#2

潛匿遊下,豈曰非智勇。我來橋上,懷古欽英風。

惟見碧流水,曾無石公。歎息此人去,蕭條徐泗空。

今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。


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 2015年6月18日の紀頌之5つのBlog 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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年:738年開元二十六年38

卷別:  卷一八一        文體:  五言古詩

詩題:  經下邳圯橋懷張子房

作地點:        下邳(河南道 / 泗州 / 下邳)

及地點:圯橋 (河南道 泗州 下邳)  

博浪沙 (都畿道 鄭州 陽武)       

下邳 (河南道 泗州 下邳)         

徐州 (河南道 徐州 徐州) 別名:彭城、徐方        

泗州 (河南道 泗州 泗州)         

 

(改訂版Ver..2.1

經下邳圯橋懷張子房  #1

(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。

子房未虎嘯,破不為家。

むかし張子房が未だ漢の高祖にはまだ遭遇していない頃、すなわち、獲物を決めかねた虎がほえているだけという時で、何でも韓のために仇を取ろうとして財産を売り払ってでも家のことなどこころにとめることをしなかった。
滄海得壯士,椎秦博浪沙。

かくて、蒼海公のところで力士を得て、百二十斤の鉄鎚を作り、それでもって秦の始皇帝を博浪沙中で狙撃したが、副車に当たっただけで、目的を達する事は無かった。

報韓雖不成,天地皆振動。

こうして、五世韓に仕えた恩に報いるために企てた復讐は不成功におわったが、そのことによって天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けた。
#2

潛匿遊下,豈曰非智勇。

そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し、その間に勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。
我來橋上,懷古欽英風。

今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。 

惟見碧流水,曾無石公。

しかし、この遺跡とても、別に見るべきものはなく、碧流の水が、むかしのままに、橋下を走るだけで、子房に兵書を授けた黄石公は、神仙だというが、賓際あった人かどうかわからぬ。 

歎息此人去,蕭條徐泗空。

おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。

 

(下【かひ】の【いきょう】を經て張子房を懷う)
子房 未だ虎嘯せざり、
を破って 家を為さず。 
滄海に 壯士を得、秦を椎【つい】す 博浪沙。 
韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動。

#2
潜匿【せんとく】して 下
に遊ぶ、豈 智勇に 非ずと 曰わんや。
我來る 
の上り、古を懐うて、英風を欽す。
唯だ見る 碧流の水、曾て 黄石公  無し。
嘆息す 此の人去りて、蕭條として 徐泗【じょし】の空しきを。

rihakustep足跡 

 

(改訂版Ver..2.1

『經下邳圯橋懷張子房』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#2

潛匿遊下邳,豈曰非智勇。

我來圯橋上,懷古欽英風。

惟見碧流水,曾無黃石公。

歎息此人去,蕭條徐泗空。

(下し文) #2

潜匿【せんとく】して 下邳に遊ぶ、豈 智勇に 非ずと 曰わんや。

我來る 圯橋の上り、古を懐うて、英風を欽す。

唯だ見る 碧流の水、曾て 黄石公  無し。

嘆息す 此の人去りて、蕭條として 徐泗【じょし】の空しきを。

(現代語訳) #2

そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し、その間に勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。
今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。 

しかし、この遺跡とても、別に見るべきものはなく、碧流の水が、むかしのままに、橋下を走るだけで、子房に兵書を授けた黄石公は、神仙だというが、賓際あった人かどうかわからぬ。 

おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。

李白の足跡0000
(訳注) (改訂版Ver..2.1

經下邳圯橋懷張子房  #2

(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。

下邳:かひ いまの江蘇省北端の邳県の東にある。

圯橋:いきょう 土橋。

張子房 張良(ちょうりょう、生年未詳― 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。漢の高祖(鋸鰯の参謀として漢の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。
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潛匿游下邳、豈曰非智勇。』
そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し、その間に勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。
潛匿 ひそかに潜伏しかくれる。

○游 勉強する。

○智勇 智略と勇気を備えること。
張良が下邳に潜伏していることと、李白、張旭らが逃避しているのを重ねている。

 

我來圯橋上、懷古欽英風。 
今、我、子房が黄石公にであった下邳の圯橋の上に来ており、古の事を思い出すと、張良の英雄の風姿が慕わしくてたまらない。 

圯橋:いきょう 土橋。

 うやまう。つつしむ。


惟見碧流水、曾無黃石公。 
しかし、この遺跡とても、別に見るべきものはなく、碧流の水が、むかしのままに、橋下を走るだけで、子房に兵書を授けた黄石公は、神仙だというが、賓際あった人かどうかわからぬ。 

そこにはただ目の前には苔むした青々とした水の流れがあるだけで、かの黃石公はもとより姿を現わすはずがないのだ。
曾無 「曾」は「無」を強調する字。

○英風 英雄の風貌。


嘆息此人去、蕭條徐泗空。』2
おもえば、張良一度この世から去ってより、この徐泗一帯の地は、蕭条として、人物を出さず、まことに、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、嘆息に堪えぬことである。

徐泗 徐州と泗州。いまの江薪省徐州から安徽省池原にいたる一帯の地方。下邸はこの地方にある。

260-#1 《巻二十一34經下邳圯橋懷張子房 -#1》(改訂版Ver..2.1)Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <260-#1>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1523 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6163

李白  經下邳圯橋懷張子房  #1

子房未虎嘯,破不為家。滄海得壯士,椎秦博浪沙。報韓雖不成,天地皆振動。
(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。

むかし張子房が未だ漢の高祖にはまだ遭遇していない頃、すなわち、獲物を決めかねた虎がほえているだけという時で、何でも韓のために仇を取ろうとして財産を売り払ってでも家のことなどこころにとめることをしなかった。
260-#1 《巻二十一34經下邳圯橋懷張子房 -#1》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <260-#1>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1523 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6163

 
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 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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260-#1 《巻二十一34經下邳圯橋懷張子房 -#1》(改訂版Ver..2.1)Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <260-#1>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1523 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6163 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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年:738年開元二十六年38

卷別:  卷一八一        文體:  五言古詩

詩題:  經下邳圯橋懷張子房

作地點:        下邳(河南道 / 泗州 / 下邳)

及地點:圯橋 (河南道 泗州 下邳)  

博浪沙 (都畿道 鄭州 陽武)       

下邳 (河南道 泗州 下邳)         

徐州 (河南道 徐州 徐州) 別名:彭城、徐方        

泗州 (河南道 泗州 泗州)         

 

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經下邳圯橋懷張子房  #1

(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。

子房未虎嘯,破不為家。

むかし張子房が未だ漢の高祖にはまだ遭遇していない頃、すなわち、獲物を決めかねた虎がほえているだけという時で、何でも韓のために仇を取ろうとして財産を売り払ってでも家のことなどこころにとめることをしなかった。
滄海得壯士,椎秦博浪沙。

かくて、蒼海公のところで力士を得て、百二十斤の鉄鎚を作り、それでもって秦の始皇帝を博浪沙中で狙撃したが、副車に当たっただけで、目的を達する事は無かった。

報韓雖不成,天地皆振動。

こうして、五世韓に仕えた恩に報いるために企てた復讐は不成功におわったが、そのことによって天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けた。
#2

潛匿遊下邳,豈曰非智勇。

我來圯橋上,懷古欽英風。

惟見碧流水,曾無黃石公。

歎息此人去,蕭條徐泗空。

 

(下【かひ】の【いきょう】を經て張子房を懷う)
子房 未だ虎嘯せざり、
を破って 家を為さず。 
滄海に 壯士を得、秦を椎【つい】す 博浪沙。 
韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動。
潜匿【せんとく】して 下
に遊ぶ、豈 智勇に 非ずと 曰わんや。
我來る 
の上り、古を懐うて、英風を欽す。
唯だ見る 碧流の水、曾て 黄石公  無し。
嘆息す 此の人去りて、蕭條として 徐泗【じょし】の空しきを。

李白の足跡0000 

 (改訂版Ver..2.1

『經下邳圯橋懷張子房』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

經下邳圯橋懷張子房  #1

子房未虎嘯,破不為家。

滄海得壯士,椎秦博浪沙。

報韓雖不成,天地皆振動。

(下し文)
(下邳【かひ】の圯橋【いきょう】を經て張子房を懷う)

子房 未だ虎嘯せざり、を破って 家を為さず。

滄海に 壯士を得、秦を椎【つい】す 博浪沙。

韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動。

潜匿【せんとく】して 下邳に遊ぶ、豈 智勇に 非ずと 曰わんや。

(現代語訳)
(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。

むかし張子房が未だ漢の高祖にはまだ遭遇していない頃、すなわち、獲物を決めかねた虎がほえているだけという時で、何でも韓のために仇を取ろうとして財産を売り払ってでも家のことなどこころにとめることをしなかった。
かくて、蒼海公のところで力士を得て、百二十斤の鉄鎚を作り、それでもって秦の始皇帝を博浪沙中で狙撃したが、副車に当たっただけで、目的を達する事は無かった。

こうして、五世韓に仕えた恩に報いるために企てた復讐は不成功におわったが、そのことによって天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けた。

(訳注)
(改訂版Ver..2.1

經下邳圯橋懷張子房  #1

(齊魯に遊んだ時、河南道 泗州下邳の圯橋を通りかかって、そこがこの地の出身である張子房の故跡であることを懷いおこしてつくったのである。

下邳:かひ いまの江蘇省北端の邳県の東にある。

圯橋:いきょう 土橋。

張子房 張良(ちょうりょう、生年未詳― 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。漢の高祖(鋸鰯の参謀として漢の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。
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子房未虎嘯、破不為家。 
むかし張子房が未だ漢の高祖にはまだ遭遇していない頃、すなわち、獲物を決めかねた虎がほえているだけという時で、何でも韓のために仇を取ろうとして財産を売り払ってでも家のことなどこころにとめることをしなかった。
子房 張良。

虎嘯 虎がうそぶく、仕留める獲物を特定しないで空吼えをしていること。義臣が聖主にあって出世し天下に羽振をきかせること。別に秦の始皇帝が天下に横暴を繰り返した。ここでは、賢臣が聖王と遭遇するという意味に用いた。

 資産を売り払うこと。

滄海得壯士、椎秦博浪沙。』 
かくて、蒼海公のところで力士を得て、百二十斤の鉄鎚を作り、それでもって秦の始皇帝を博浪沙中で狙撃したが、副車に当たっただけで、目的を達する事は無かった。

滄海 滄海君。異民族の酋長。

○椎 椎(ハンマー)を投げつける。史記留侯世家に、財産を売り払って、蒼海公のところで力士を得て、百二十斤の鉄鎚を作り、それでもって秦の始皇帝を博浪沙中で狙撃した。

 秦の始皇帝。

博浪沙 いまの河南省原陽県(陽武)。開封の近くにある。

 

報韓雖不成、天地皆振動。
こうして、五世韓に仕えた恩に報いるために企てた復讐は不成功におわったが、そのことによって天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けた。
○報韓 秦に敗れた韓の敵討ち。

天地皆振動 秦の始皇帝の徹底した統治に嫌気を持っていた人々、天下に離散した韓の関係者たちの喝采を浴びたこと。

 

(下【かひ】の【いきょう】を經て張子房を懷う)
子房 未だ虎嘯せざり、
を破って 家を為さず。 
滄海に 壯士を得、秦を椎【つい】す 博浪沙。 
韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動。
潜匿【せんとく】して 下
に遊ぶ、豈 智勇に 非ずと 曰わんや。
我來る 
の上り、古を懐うて、英風を欽す。
唯だ見る 碧流の水、曾て 黄石公  無し。
嘆息す 此の人去りて、蕭條として 徐泗【じょし】の空しきを。


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・秦が韓を滅ぼした時、張良はまだ少年であったが、家財を投げ出して暗殺者を求め、秦の始皇帝を襲うと決意した。
・家柄からして、韓のために仇を報いざるを得なかったのである。
・かれは滄海君という異民族の酋長に力強い男を世話してもらう。
・大きなハンマーを作り、秦の始皇帝を博浪沙というところに行幸していたのを狙撃させた。
・狙いは外れて予備の車にあたった。
・始皇帝は大いに怒った。天下に犯人をもとめ、捜索は非常にきびしかった。

・張良は変名して下邳に身をかくしていた。ある日のこと、張良がぶらぶら散歩して下邸の土橋にさしかかると、一人のじいさんがそまつな着物をきて張良のそばに寄ってきた。
・いきなり、自分の靴を橋の下におとし、張良の顔をみて言った。「小僧、靴をとってきてくれ!」張良はびっくりした。
・殴ってやろうかと思ったが、年よりだから、がまんして降りていき靴を拾った。
・じいさんは言った。「わしにはかせろ」張良は是や靴を拾った以上仕方がない。膝まずいて、はかせてやった。
・じいさんは足で受け、笑って立ち去った。張良があっけにとられて後姿を見送っていると、しばらくして引きかえしてきたじいさんが言った。「小僧、教えがいのある奴だ。五日のち、明け方にわしと此所で会おう」
・張良は怪しみながらも「はい」と答えた。五日たって夜明けに張良が行くと、じいさんは先に来ている。
・そして怒って言う。「老人と約束してで遅れるとは何事だ!#!」去りながら言った。
・「五日のち、朝早く会おう」こんどは番鶏がなくころ張良は行った。じいさんはやっぱ。先に来ていた。・また怒って言う。「おくれるとは何事だ!」「五日のち、もっと早く来い」と。
・張良、こんどこそはと、夜中にもならないうちに行った。しばらくするとじいさんがやってきて、はじめてニコニコした。「こうこなくちゃいかん」
・一篇の書をとり出して言った。「これを読めば、王者の師となれる。十年のち、出世る。十三年のち、小僧はわしを済北の穀城山のふもとに見つけるであろう、黄石がつまりわしなんだ」言いおわると、さっと姿をけした。
・夜が明けてその書をよく見ると、太公望の兵書であった。張良はふしぎに思ったが、毎日これを通読した。やがて高祖が兵をあげると手柄を立てたのだ。
・十三年のち、高祖に従って済北を過ぎたとき、張良ははたして黄色の石を見つけたので、とってきてそれをまつったということである。

259 《巻十七03送友人》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <259>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1522 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6158

李白  送友人  

青山橫北郭,白水繞東城。此地一為別,孤蓬萬里征。

浮雲遊子意,落日故人情。揮手自茲去,蕭蕭班馬鳴。

(友人が遠くに往くのを見送るために作った詩。)草木が青々と茂っている山が、城郭の北側に横たわっている、澄んだ水は 城郭の東側をめぐっている。今、この地において、ひとたび別れることになれば、さながら、風に吹かれてひとつだけで風に飛びさすらう根なし蓬のように、万里の遠きに征遊するのである。 浮雲は、もとより定まる事は無く、旅人の心であり、「遊子の意」、また、かくのごとく落日は、まさに今、沈もうとしており、「故人恋恋の情」いかにべきであろうか。

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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七七              文體:    五言律詩

詩題:    送友人

作地點:              南陽(山南東道 / 鄧州 / 南陽)

及地點:白水 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:淯水、白河             

 

(改訂版Ver..2.1

送友人

(友人が遠くに往くのを見送るために作った詩。)

青山橫北郭,白水繞東城。

草木が青々と茂っている山が、城郭の北側に横たわっている、澄んだ水は 城郭の東側をめぐっている。

此地一為別,孤蓬萬里征。

今、この地において、ひとたび別れることになれば、さながら、風に吹かれてひとつだけで風に飛びさすらう根なし蓬のように、万里の遠きに征遊するのである。 
浮雲遊子意,落日故人情。

浮雲は、もとより定まる事は無く、旅人の心であり、「遊子の意」、また、かくのごとく落日は、まさに今、沈もうとしており、「故人恋恋の情」いかにべきであろうか。
揮手自茲去,蕭蕭班馬鳴。

しかるに、君は意を決して、ここより去りろうとしている、蕭蕭、ヒヒーンヒヒーンと、別れゆく馬もものさびしく嘶くが、君は即ちその馬に乗って行くのである。
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(友人を送る)

青山 北郭に橫たわり,白水 東城を遶【めぐ】る。

此地 一たび別れを爲し,孤蓬 萬里に 征【ゆ】く。

浮雲 遊子の意,落日 故人の情。

手を揮【ふる】ひて 茲より去れば,蕭蕭として 班馬 鳴く。

 

安陸・南陽・嚢陽 李白00

(改訂版Ver..2.1

『送友人』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

青山橫北郭,白水繞東城。

此地一為別,孤蓬萬里征。

浮雲遊子意,落日故人情。

揮手自茲去,蕭蕭班馬鳴。

(下し文)
(
友人を送る)

青山 北郭に橫たわり,白水 東城を遶【めぐ】る。

此地 一たび 別れを爲し,孤蓬 萬里に 征【ゆ】く。

浮雲 遊子の意,落日 故人の情。

手を揮【ふる】ひて 茲より去れば,蕭蕭として 班馬 鳴く。

(現代語訳)
(友人が遠くに往くのを見送るために作った詩。)

草木が青々と茂っている山が、城郭の北側に横たわっている、澄んだ水は 城郭の東側をめぐっている。
今、この地において、ひとたび別れることになれば、さながら、風に吹かれてひとつだけで風に飛びさすらう根なし蓬のように、万里の遠きに征遊するのである。 
浮雲は、もとより定まる事は無く、旅人の心であり、「遊子の意」、また、かくのごとく落日は、まさに今、沈もうとしており、「故人恋恋の情」いかにべきであろうか。
しかるに、君は意を決して、ここより去りろうとしている、蕭蕭、ヒヒーンヒヒーンと、別れゆく馬もものさびしく嘶くが、君は即ちその馬に乗って行くのである。

(訳注) (改訂版Ver..2.1

送友人

(友人が遠くに往くのを見送るために作った詩。)

人を送るために、しばし同行してゆく。澄んだ水が、都市(城市)の東側をめぐっている。

 

青山橫北郭,白水繞東城。

草木が青々と茂っている山が、城郭の北側に横たわっている、澄んだ水は 城郭の東側をめぐっている。
・青山 草木が青々と茂っているはる山。また、墓所とすべき山。ここでは、前者の意。 孟浩然《過故人莊》「故人具雞黍,邀我至田家。綠樹村邊合,青山郭外斜。開筵面場圃,把酒話桑麻。待到重陽日,還來就菊花。」

311  孟浩然   過故人莊 

・橫 よこたわる。動詞。

・北郭 都市の城郭の北側。南陽の城郭の北側にある市、庶民にとって市場を意味するものである。

・白水 澄んだ水。 

・遶 じょう めぐる。めぐらす。とりまく。 

・東城 城郭の東側。城東と同じ。

 

此地一為別,孤蓬萬里征。

今、この地において、ひとたび別れることになれば、さながら、風に吹かれてひとつだけで風に飛びさすらう根なし蓬のように、万里の遠きに征遊するのである。 
・此地 この地(で)。この場所(で)。 

・一爲 ひとたび…をなす(やいなや)。ひとたび…をす(れば)。 

・別 別れること。離別。名詞。

・孤蓬 こほう ヤナギヨモギが(根が大地から離れて)風に吹かれて、ひとつだけで、風に飛ばされてさすらうさま。日本のヨモギとは大きく異なり、風に吹かれて転がるように風に飛ばされる。(風に飛ばされて)転がってゆく蓬。飛蓬。「蓬」は、日本のヨモギとは異なる。蓬が枯れて、根元の土も風に飛ばされてしまい、根が大地から離れて、枯れた茎が輪のようになり、乾いた黄土高原を風に吹かれて、恰も紙くずが風に飛ばされるが如く回りながら、黄砂とともに流れ去ってゆく。曹植《雜詩六首 其二》「轉蓬離本根, 飄飄隨長風。」轉蓬は本根より離れ,飄颻として長く風に隨う。転びゆく蓬は、もとの根より離れ、ひらひらと、遠く風の吹くまにまにひるがえってとばされる。

・萬里 遙かな行程をいう。 

・征 旅に出る。行く。

 

浮雲遊子意,落日故人情。

浮雲は、もとより定まる事は無く、旅人の心であり、「遊子の意」、また、かくのごとく落日は、まさに今、沈もうとしており、「故人恋恋の情」いかにべきであろうか。
・浮雲 浮かび漂う雲。漂う雲のように行方定まらないこと。

・遊子 旅人。家を離れて他郷に旅立つ人。ここでは、李白の友人を指す。 

・意 心。・落日 夕陽。 

・故人 旧知の友人。 

・情 思い。

 

揮手自茲去,蕭蕭班馬鳴。

しかるに、君は意を決して、ここより去りろうとしている、蕭蕭、ヒヒーンヒヒーンと、別れゆく馬もものさびしく嘶くが、君は即ちその馬に乗って行くのである。
・揮手 手を振る。 

・自茲去 …より ここ。 去る。行く。

・蕭蕭 馬の嘶く声。また、もの寂しいさま。 

・班馬 離れ馬。 

李白の足跡003

,蕭蕭として 班馬 鳴く。

258 《卷十六27送侯十一》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <258> Ⅰ李白詩1521 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6153

李白  送侯十一  

朱亥已擊晉,侯嬴尚隱身。時無魏公子,豈貴抱關人。

余亦不火食,遊梁同在陳。空餘湛盧劍,贈爾託交親。

かくの如く君が不遇であるばかりか、予もまた火食せず、今しも、梁に遊歴しているが、丁度、孔子が陳蔡の野に苦しんだと同じである。さはれ、湛盧に比すべき名剣だけが残っているから、ここに別れを為すに際し、この詩を君に贈って、二人の親交の表徴としようとおもうのである。

258 《卷十六27送侯十一》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <258> Ⅰ李白詩1521 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6153

 
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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送侯十一

作地點:              陳州(河南道 / 陳州 / 陳州)

及地點:              陳州 (河南道 陳州 陳州) 別名:淮陽             

交遊人物/地點:侯十一      當地交遊(河南道 陳州 陳州)

 

 

送侯十一

朱亥已晉,侯尚隱身。

今や朱亥に比すべき君の門下は、すでに晉鄙の様な人を椎殺し、著著と場面が進行するに拘わらず、侯嬴に此すべき肝腎の大立物たる君が出できて活動すべき筈であるのに、なお身を隠して引っ込んでいるのは、どうしたことか。

時無魏公子,豈貴抱關人。

刻下の世、魏の公子信陵君の様な人が無く、従って、関門の番人の如き餞しき地位に居るものを貴ばないのは、尤も至極な事である。

余亦不火食,遊梁同在陳。

かくの如く君が不遇であるばかりか、予もまた火食せず、今しも、梁に遊歴しているが、丁度、孔子が陳蔡の野に苦しんだと同じである。

空餘湛盧劍,贈爾託交親。

さはれ、湛盧に比すべき名剣だけが残っているから、ここに別れを為すに際し、この詩を君に贈って、二人の親交の表徴としようとおもうのである。

 

(侯十一を送る)

朱亥 已に晉を擊ち,侯嬴 尚お身を隱す。

時に魏の公子無くんば,豈に抱關の人を貴ばんや。

余 亦た火食せず,梁に遊ぶは 陳に在るに同じ。

空しく湛盧の劍を餘し,爾に贈って交親を託す。

 

 

『送侯十一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送侯十一

朱亥已擊晉,侯嬴尚隱身。

時無魏公子,豈貴抱關人。

余亦不火食,遊梁同在陳。

空餘湛盧劍,贈爾託交親。

(下し文)
送侯十一

朱亥已擊晉,侯嬴尚隱身。

時無魏公子,豈貴抱關人。

余亦不火食,遊梁同在陳。

空餘湛盧劍,贈爾託交親。

(現代語訳)
(戦国、信陵君のもとにいた賢人侯嬴というべき老侠、賢人である侯某をおくる)

今や朱亥に比すべき君の門下は、すでに晉鄙の様な人を椎殺し、著著と場面が進行するに拘わらず、侯嬴に此すべき肝腎の大立物たる君が出できて活動すべき筈であるのに、なお身を隠して引っ込んでいるのは、どうしたことか。

刻下の世、魏の公子信陵君の様な人が無く、従って、関門の番人の如き餞しき地位に居るものを貴ばないのは、尤も至極な事である。

かくの如く君が不遇であるばかりか、予もまた火食せず、今しも、梁に遊歴しているが、丁度、孔子が陳蔡の野に苦しんだと同じである。

さはれ、湛盧に比すべき名剣だけが残っているから、ここに別れを為すに際し、この詩を君に贈って、二人の親交の表徴としようとおもうのである。


(訳注)

送侯十一

(戦国、信陵君のもとにいた賢人侯嬴というべき老侠、賢人である侯某をおくる)

同姓の故に、侯嬴を以て其の人に此したのは、例の慣用手段である。次の二句は、自分のことを述べ、結二句は、自他の交親に及んだのである。

 

朱亥已擊晉,侯嬴尚隱身。

今や朱亥に比すべき君の門下は、すでに晉鄙の様な人を椎殺し、著著と場面が進行するに拘わらず、侯嬴に此すべき肝腎の大立物たる君が出できて活動すべき筈であるのに、なお身を隠して引っ込んでいるのは、どうしたことか。

朱亥 侯嬴 朱亥:信陵君の評判を高めることになった肉屋の若者。

侯嬴 老人で門番であったが賢者であることで新陵君が度量が大きいとの評判を高めた。 逸話 魏の公子と食客(信陵君・侯嬴・朱亥)任侠の士を詠うもの、侠客行は侠遊二十五曲の一つである。

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時無魏公子,豈貴抱關人。

刻下の世、魏の公子信陵君の様な人が無く、従って、関門の番人の如き餞しき地位に居るものを貴ばないのは、尤も至極な事である。

 

余亦不火食,遊梁同在陳。

かくの如く君が不遇であるばかりか、予もまた火食せず、今しも、梁に遊歴しているが、丁度、孔子が陳蔡の野に苦しんだと同じである。

不火食 煮た物を食べないこと。陳蔡之厄といわれるもの。《莊子集釋》卷九下〈雜篇讓王〉「孔子窮於陳蔡之間,七日不火食,」に基づく。

 

空餘湛盧劍,贈爾託交親。

さはれ、湛盧に比すべき名剣だけが残っているから、ここに別れを為すに際し、この詩を君に贈って、二人の親交の表徴としようとおもうのである。

湛盧劍 越王允常が欧冶子に造らせた五振りの剣「純鈞」・「湛盧」・「豪曹」・「魚腸」・「巨闕」があり、「湛盧剣」は薛燭によれば、これを帯びる者は敵を討つことが出来、謀反を企む臣下がいれば、他国に去らせることが出来るという。允常はこれを呉に贈るが、呉王闔閭の暴虐無道ぶりを嫌った湛盧は自ら楚に飛んでいったので、楚の昭王はいながらにしてこの剣を手に入れた。

 

 

(侯十一を送る)

朱亥 已に晉を擊ち,侯嬴 尚お身を隱す。

時に魏の公子無くんば,豈に抱關の人を貴ばんや。

余 亦た火食せず,梁に遊ぶは 陳に在るに同じ。

空しく湛盧の劍を餘し,爾に贈って交親を託す。

257 《卷十五01南陽送客》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <257> Ⅰ李白詩1520 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6148

斗酒勿為薄,寸心貴不忘。坐惜故人去,偏令遊子傷。

離顏怨芳草,春思結垂楊。揮手再三別,臨岐空斷腸。

別れの顔は、至福の芳草の時を得たことを棄ててゆくのを怨めしと眺めるようであり、春の情思は、しだれかかる柳を折楊柳に結び、それで君の旅行を送るのである。かくて、手をあげて、再三、離別の言葉を述べ、路の別れる処に佇んで、空しく断腸するばかりである。

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年:38年開元二十六年38

卷別:    卷一七五              文體:    五言律詩

詩題:    南陽送客

作地點:              南陽(山南東道 / 鄧州 / 南陽)

及地點:南陽 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:南都         

 

 

南陽送客

(南陽において、客の遠行を贈ったもの。)

斗酒勿為薄,寸心貴不忘。

この一斗の酒だからと言って、我が心が薄いと思うことしてほしくない、わが寸心を汲み取り、どうぞ忘れるなどしてくれるな。

坐惜故人去,偏令遊子傷。

今や客中に客を送り、故人のここを去ることを惜しんで、偏に遊子のこの心を傷めることになるのである。

離顏怨芳草,春思結垂楊。

別れの顔は、至福の芳草の時を得たことを棄ててゆくのを怨めしと眺めるようであり、春の情思は、しだれかかる柳を折楊柳に結び、それで君の旅行を送るのである。

揮手再三別,臨岐空斷腸。

 

(南陽に客を送る)

斗酒、薄しと爲す勿れ、寸心、忘れざるを貴ぶ。

坐に故人の去るを憎み、偏に遊子をして傷ましむ。

離顔、芳草を怨み、春思、垂楊を結ぶ。

てを揮って再三別る、岐に臨んで、空しく断腸。

 

 

『南陽送客』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

南陽送客

斗酒勿為薄,寸心貴不忘。

坐惜故人去,偏令遊子傷。

離顏怨芳草,春思結垂楊。

揮手再三別,臨岐空斷腸。

(下し文)
南陽に客を迭る

斗酒、薄しと爲す勿れ、寸心、忘れざるを貴ぶ。

坐に故人の去るを憎み、偏に遊子をして傷ましむ。

離顔、芳草を怨み、春思、垂楊を結ぶ。

てを揮って再三別る、岐に臨んで、空しく断腸。


(現代語訳)
(南陽において、客の遠行を贈ったもの。)

この一斗の酒だからと言って、我が心が薄いと思うことしてほしくない、わが寸心を汲み取り、どうぞ忘れるなどしてくれるな。

今や客中に客を送り、故人のここを去ることを惜しんで、偏に遊子のこの心を傷めることになるのである。

別れの顔は、至福の芳草の時を得たことを棄ててゆくのを怨めしと眺めるようであり、春の情思は、しだれかかる柳を折楊柳に結び、それで君の旅行を送るのである。

かくて、手をあげて、再三、離別の言葉を述べ、路の別れる処に佇んで、空しく断腸するばかりである。


(訳注)

南陽送客

(南陽において、客の遠行を贈ったもの。)

 

斗酒勿為薄,寸心貴不忘。

この一斗の酒だからと言って、我が心が薄いと思うことしてほしくない、わが寸心を汲み取り、どうぞ忘れるなどしてくれるな。

斗酒 一斗の酒。今の一升ばかりの量である。古詩に斗酒相娯楽、聊厚不爲薄とあるに本づく。古詩十九首之三「斗酒相娯楽、聊厚不為薄。」せめては一斗の酒を酌みかわしてともに楽しむことであり、そうすれば結構これで十分であるし、不足などとは考えない。

・聊厚不為薄 酒を飲んで楽しみ,多少厚くても厭わず,又,薄しともしない,転じて,しばらく,之は結構なご馳走だと思い,つまらぬものと思うまい.

古詩十九首之三 (3) 漢詩<90>Ⅱ李白に影響を与えた詩522 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1383

 

坐惜故人去,偏令遊子傷。

今や客中に客を送り、故人のここを去ることを惜しんで、偏に遊子のこの心を傷めることになるのである。

 

離顏怨芳草,春思結垂楊。

別れの顔は、至福の芳草の時を得たことを棄ててゆくのを怨めしと眺めるようであり、春の情思は、しだれかかる柳を折楊柳に結び、それで君の旅行を送るのである。

結垂楊 思いを込めて、その証しとして、結同心する。

 

揮手再三別,臨岐空斷腸。

かくて、手をあげて、再三、離別の言葉を述べ、路の別れる処に佇んで、空しく断腸するばかりである。

揮手 手を挙げて辞別することをいう。

 

 

 

 

南陽に客を迭る

斗酒、薄しと爲す勿れ、寸心、忘れざるを貴ぶ。

坐に故人の去るを憎み、偏に遊子をして傷ましむ。

離顔、芳草を怨み、春思、垂楊を結ぶ。

てを揮って再三別る、岐に臨んで、空しく断腸。

 

 
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256 -#3 《巻十四11潁陽別元丹丘之淮陽 -#3》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <256 -#3> Ⅰ李白詩1519 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6143

李白  潁陽別元丹丘之淮陽#3

當餐黃金藥,去為紫陽賓。萬事難並立,百年猶崇晨。

別爾東南去,悠悠多悲辛。前志庶不易,遠途期所遵。

已矣歸去來,白雲飛天津。

庶わくは、前志を変えることなく、あくまで修養をなし、たとえ途遠くして、容易に到り難きにせよ、その遵由するところを期して、次第に工夫を積むが善い。己んぬるかな、「いざ帰りいざ。」白雲一片、天津橋上に飛び、さながら心ありげに、君を送るが如く、君の此行、必ずしも不成功に終ることも無かろうと思う。

 

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 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
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胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹丘歌 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6. 潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

06-07

8.西岳云台歌送丹丘子 

743年天寶二年

18-11

9.以詩代書答元丹丘 

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 以上の十三首である。

 

 

年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七四              文體:    五言古詩

詩題:    潁陽別元丹丘之淮陽

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              潁陽 (都畿道 河南府 潁陽)              

陳州 (河南道 陳州 陳州) 別名:淮陽           

汴州 (河南道 汴州 汴州) 別名:梁               

交遊人物:元丹丘                當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

 

潁陽別元丹丘之淮陽 #1

(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。)

吾將元夫子,異姓為天倫。

われと元夫子とは、異姓でありながら、天倫の兄弟も同じである。

本無軒裳契,素以煙霞親。

軒車冠裳、即ち在官上の交契とては無いが、本来、煙霞の癖を同じうして、あい親んで居た。

嘗恨迫世網,銘意未伸。

恨むらくは、世の塵網に迫られて、心上に銘記したる本意を十分に伸べることが出凍す、つまり、この世を脱出しかねる。

松柏雖寒苦,羞逐桃李春。

松柏は如何に寒に遇って苦しんだとしても、桃李の春をおって、世人に媚びることを羞じ、自ら孤高に甘んじている。

#2

悠悠市朝間,玉顏日緇磷。

かくて、悠悠たる市朝の間に在って、玉顔は、日にまし黒すんで痩せて行く。

所失重山岳,所得輕埃塵。

われ等の共にせんとする出世間願望は、山岳よりも重く、世に於で得るところの功名富貴は、塵埃よりも軽い。

精魄漸蕪穢,衰老相憑因。

こういう風に、浮世に跼蹐して居る間に、精魄は日に蕪雑に帰し、衰老は相因って、到底救い難いようになる。

我有錦囊訣,可以持君身。

われに錦嚢の仙方があって、これを以て、君の身を支持して行くことが出来るが、

#3

當餐金藥,去為紫陽賓。

それは、外でもない、餐するにあたっては黄金の薬を食し、そして、紫陽真人の処に往って修養をすることである。

萬事難並立,百年猶崇晨。

すべて、世間の万事は、並び立たず、百年の久しきも、ほんの朝飯前の短い間である。

別爾東南去,悠悠多悲辛。

かくて、汝が東南に去ろうとするのを送れば、わが心、悠悠として、悲辛の情多く、殆んど堪えられない。

前志庶不易,遠途期所遵。

庶わくは、前志を変えることなく、あくまで修養をなし、たとえ途遠くして、容易に到り難きにせよ、その遵由するところを期して、次第に工夫を積むが善い。

已矣歸去來,白雲飛天津。

己んぬるかな、「いざ帰りいざ。」白雲一片、天津橋上に飛び、さながら心ありげに、君を送るが如く、君の此行、必ずしも不成功に終ることも無かろうと思う。

 

(潁陽にて、元丹丘の淮陽に之くに別る)
吾、元夫子と、異姓にして天倫たり。

本と軒裳の契なく、素より煙霞を以て親む。

かつて恨む、世網に迫られ、銘意 倶に未だ伸びざるを。

松柏は寒苦と雖も、桃李の春を逐ふを羞づ。

#2

悠悠たる市朝の間,玉顏 日に緇磷。

失う所ろは山岳よりも重く,得る所は埃塵よりも輕し。

精魄 漸く蕪穢,衰老 相い 憑因す。

我に 錦囊の訣有り,可以て君が身を持つべし。

#3

當に の藥を餐し,去って 紫陽の賓と為るべし。

萬事 並び立ち難く,百年 猶お 崇晨。

爾が 東南に去るに別る,悠悠として 悲辛多し。

前志 庶わくば 易らず,遠途 遵う所を期す。

已んぬるかな 歸るなん去來【いざ】,白雲 天津に飛ぶ。

 

都畿道河南道01 

『潁陽別元丹丘之淮陽』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#3

當餐黃金藥,去為紫陽賓。

萬事難並立,百年猶崇晨。

別爾東南去,悠悠多悲辛。

前志庶不易,遠途期所遵。

已矣歸去來,白雲飛天津。

(下し文) #3

當に 黃金の藥を餐し,去って 紫陽の賓と為るべし。

萬事 並び立ち難く,百年 猶お 崇晨。

爾が 東南に去るに別る,悠悠として 悲辛多し。

前志 庶わくば 易らず,遠途 遵う所を期す。

已んぬるかな 歸るなん去來【いざ】,白雲 天津に飛ぶ。


(現代語訳)
それは、外でもない、餐するにあたっては黄金の薬を食し、そして、紫陽真人の処に往って修養をすることである。

すべて、世間の万事は、並び立たず、百年の久しきも、ほんの朝飯前の短い間である。

かくて、汝が東南に去ろうとするのを送れば、わが心、悠悠として、悲辛の情多く、殆んど堪えられない。

庶わくは、前志を変えることなく、あくまで修養をなし、たとえ途遠くして、容易に到り難きにせよ、その遵由するところを期して、次第に工夫を積むが善い。

己んぬるかな、「いざ帰りいざ。」白雲一片、天津橋上に飛び、さながら心ありげに、君を送るが如く、君の此行、必ずしも不成功に終ることも無かろうと思う。


(訳注) #3

潁陽別元丹丘之淮陽 

(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。)

舊唐書「潁陽載初元年,析河南、伊闕、嵩陽三縣置武臨縣。開元十五年,改為潁陽。」(載初元年、河南、伊闕、崇陽の三堰を研いて、武臨縣を置く。開元十五年改めて穎陽となし、河南府に隷す。准陽郡は即ち陳州なり、河南道に属す)とある。都畿道 河南府 潁陽。

李白の足跡0000 

當餐黃金藥,去為紫陽賓。

それは、外でもない、餐するにあたっては黄金の薬を食し、そして、紫陽真人の処に往って修養をすることである。

黃金藥 《抱朴子仙藥》「 仙藥之上者為丹砂,次者為黃金。」

紫陽賓 《周氏冥通記》「第一紫陽左眞人,治葛衍山,周君;第二紫陽古()真人,治嶓冢山,王君」とある。

 

萬事難並立,百年猶崇晨。

すべて、世間の万事は、並び立たず、百年の久しきも、ほんの朝飯前の短い間である。

崇晨 崇朝に同じ、旦より食事に至るまでをいう。

 

別爾東南去,悠悠多悲辛。

かくて、汝が東南に去ろうとするのを送れば、わが心、悠悠として、悲辛の情多く、殆んど堪えられない。

 

前志庶不易,遠途期所遵。

庶わくは、前志を変えることなく、あくまで修養をなし、たとえ途遠くして、容易に到り難きにせよ、その遵由するところを期して、次第に工夫を積むが善い。

 

已矣歸去來,白雲飛天津。

己んぬるかな、「いざ帰りいざ。」白雲一片、天津橋上に飛び、さながら心ありげに、君を送るが如く、君の此行、必ずしも不成功に終ることも無かろうと思う。

歸去來 陶淵明(とうえんめい)「帰去来辞」より。「来」は助辞〕 故郷に帰るために,官職をやめてその地を去ること。「かえりなんいざ」と訓読されてきた。

天津 洛陽の天神橋。李白《巻4-34 洛陽陌》「白玉誰家郎,回車渡天津。看花東陌上,驚動洛陽人。」誰の家だろうかこんなにも白玉に飾られた豪奢なかざったいえの貴族のむすこいる家は?その貴公子は車を回らして、天神橋を渡って歓楽街を過ぎる。洛陽の城門から入って東の大路へ行って悠然と花を見る。その豪華華美の姿は洛陽の人々を驚かすばかりである。

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李白  潁陽別元丹丘之淮陽#2

悠悠市朝間,玉顏日緇磷。所失重山岳,所得輕埃塵。

精魄漸蕪穢,衰老相憑因。我有錦囊訣,可以持君身。

われ等の共にせんとする出世間願望は、山岳よりも重く、世に於で得るところの功名富貴は、塵埃よりも軽い。こういう風に、浮世に跼蹐して居る間に、精魄は日に蕪雑に帰し、衰老は相因って、到底救い難いようになる。

 

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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七四              文體:    五言古詩

詩題:    潁陽別元丹丘之淮陽

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              潁陽 (都畿道 河南府 潁陽)              

陳州 (河南道 陳州 陳州) 別名:淮陽           

汴州 (河南道 汴州 汴州) 別名:梁               

交遊人物:元丹丘                當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

 

潁陽別元丹丘之淮陽 #1

(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。)

吾將元夫子,異姓為天倫。

われと元夫子とは、異姓でありながら、天倫の兄弟も同じである。

本無軒裳契,素以煙霞親。

軒車冠裳、即ち在官上の交契とては無いが、本来、煙霞の癖を同じうして、あい親んで居た。

嘗恨迫世網,銘意未伸。

恨むらくは、世の塵網に迫られて、心上に銘記したる本意を十分に伸べることが出凍す、つまり、この世を脱出しかねる。

松柏雖寒苦,羞逐桃李春。

松柏は如何に寒に遇って苦しんだとしても、桃李の春をおって、世人に媚びることを羞じ、自ら孤高に甘んじている。

#2

悠悠市朝間,玉顏日緇磷。

かくて、悠悠たる市朝の間に在って、玉顔は、日にまし黒すんで痩せて行く。

所失重山岳,所得輕埃塵。

われ等の共にせんとする出世間願望は、山岳よりも重く、世に於で得るところの功名富貴は、塵埃よりも軽い。

精魄漸蕪穢,衰老相憑因。

こういう風に、浮世に跼蹐して居る間に、精魄は日に蕪雑に帰し、衰老は相因って、到底救い難いようになる。

我有錦囊訣,可以持君身。

われに錦嚢の仙方があって、これを以て、君の身を支持して行くことが出来るが、それは、外でもない、黄金の薬を餐し、そして、紫陽真人の処に往って修養をすることである。

#3

當餐黃金藥,去為紫陽賓。

萬事難並立,百年猶崇晨。

別爾東南去,悠悠多悲辛。

前志庶不易,遠途期所遵。

已矣歸去來,白雲飛天津。

 

(潁陽にて、元丹丘の淮陽に之くに別る)
吾、元夫子と、異姓にして天倫たり。

本と軒裳の契なく、素より煙霞を以て親む。

かつて恨む、世網に迫られ、銘意 倶に未だ伸びざるを。

松柏は寒苦と雖も、桃李の春を逐ふを羞づ。

#2

悠悠たる市朝の間,玉顏 日に緇磷。

失う所ろは山岳よりも重く,得る所は埃塵よりも輕し。

精魄 漸く蕪穢,衰老 相い 憑因す。

我に 錦囊の訣有り,可以て君が身を持つべし。

#3

當に 黃金の藥を餐し,去って 紫陽の賓と為るべし。

萬事 並び立ち難く,百年 猶お 崇晨。

爾が 東南に去るに別る,悠悠として 悲辛多し。

前志 庶わくば 易らず,遠途 遵う所を期す。

已んぬるかな 歸るなん去來【いざ】,白雲 天津に飛ぶ。

 

 

『潁陽別元丹丘之淮陽』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#2

悠悠市朝間,玉顏日緇磷。

所失重山岳,所得輕埃塵。

精魄漸蕪穢,衰老相憑因。

我有錦囊訣,可以持君身。

(下し文)
悠悠たる市朝の間,玉顏 日に緇磷。

失う所ろは山岳よりも重く,得る所は埃塵よりも輕し。

精魄 漸く蕪穢,衰老 相い 憑因す。

我に 錦囊の訣有り,可以て君が身を持つべし。

(現代語訳)
かくて、悠悠たる市朝の間に在って、玉顔は、日にまし黒すんで痩せて行く。

われ等の共にせんとする出世間願望は、山岳よりも重く、世に於で得るところの功名富貴は、塵埃よりも軽い。

こういう風に、浮世に跼蹐して居る間に、精魄は日に蕪雑に帰し、衰老は相因って、到底救い難いようになる。

われに錦嚢の仙方があって、これを以て、君の身を支持して行くことが出来るが、それは、外でもない、黄金の薬を餐し、そして、紫陽真人の処に往って修養をすることである。


(訳注) #2

潁陽別元丹丘之淮陽 #1

(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。)

舊唐書「潁陽載初元年,析河南、伊闕、嵩陽三縣置武臨縣。開元十五年,改為潁陽。」(載初元年、河南、伊闕、崇陽の三堰を研いて、武臨縣を置く。開元十五年改めて穎陽となし、河南府に隷す。准陽郡は即ち陳州なり、河南道に属す)とある。都畿道 河南府 潁陽。

 

悠悠市朝間,玉顏日緇磷。

かくて、悠悠たる市朝の間に在って、玉顔は、日にまし黒すんで痩せて行く。

緇磷 すり減らされ黒ずむ。《論語·陽貨》「不曰堅乎?磨而不磷。不曰白乎?涅而不緇。」.

 

所失重山岳,所得輕埃塵。

われ等の共にせんとする出世間願望は、山岳よりも重く、世に於で得るところの功名富貴は、塵埃よりも軽い。

塵埃 1 ちりとほこり。2 世の中の、もろもろの汚れたもの。俗世間の事柄。

 

精魄漸蕪穢,衰老相憑因。

こういう風に、浮世に跼蹐して居る間に、精魄は日に蕪雑に帰し、衰老は相因って、到底救い難いようになる。

蕪穢 土地などが、荒れはてること。また、そのさま。ぶわい。

 

我有錦囊訣,可以持君身。

われに錦嚢の仙方があって、これを以て、君の身を支持して行くことが出来るが、それは、外でもない、黄金の薬を餐し、そして、紫陽真人の処に往って修養をすることである。

錦囊訣 錦嚢の仙方、金丹。道教の道士が金石を砕いて練って作ったという不老不死の薬。

 

 

胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹丘歌 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6. 潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

06-07

8.西岳云台歌送丹丘子 

743年天寶二年

18-11

9.以詩代書答元丹丘 

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 以上の十三首である。

56 -#1 《巻十四11潁陽別元丹丘之淮陽 -#1》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <256 -#1> Ⅰ李白詩1517 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6133

李白  潁陽別元丹丘之淮陽 #1

吾將元夫子,異姓為天倫。

本無軒裳契,素以煙霞親。

嘗恨迫世網,銘意俱未伸。

松柏雖寒苦,羞逐桃李春。

(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。) #1

われと元夫子とは、異姓でありながら、天倫の兄弟も同じである。

軒車冠裳、即ち在官上の交契とては無いが、本来、煙霞の癖を同じうして、あい親んで居た。

 

256 -#1 《巻十四11潁陽別元丹丘之淮陽 -#1》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <256 -#1> Ⅰ李白詩1517 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6133

 

 
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 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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56 -#1 《巻十四11潁陽別元丹丘之淮陽 -#1》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <256 -#1> Ⅰ李白詩1517 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6133 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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(1)漁父辞 屈原『楚辞・九歌』東君 屈原《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> 
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 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七四              文體:    五言古詩

詩題:    潁陽別元丹丘之淮陽

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              潁陽 (都畿道 河南府 潁陽)              

陳州 (河南道 陳州 陳州) 別名:淮陽           

汴州 (河南道 汴州 汴州) 別名:梁               

交遊人物:元丹丘                當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

 

潁陽別元丹丘之淮陽 #1

(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。)

吾將元夫子,異姓為天倫。

われと元夫子とは、異姓でありながら、天倫の兄弟も同じである。

本無軒裳契,素以煙霞親。

軒車冠裳、即ち在官上の交契とては無いが、本来、煙霞の癖を同じうして、あい親んで居た。

嘗恨迫世網,銘意未伸。

恨むらくは、世の塵網に迫られて、心上に銘記したる本意を十分に伸べることが出凍す、つまり、この世を脱出しかねる。

松柏雖寒苦,羞逐桃李春。

松柏は如何に寒に遇って苦しんだとしても、桃李の春をおって、世人に媚びることを羞じ、自ら孤高に甘んじている。

#2

悠悠市朝間,玉顏日緇磷。

所失重山岳,所得輕埃塵。

精魄漸蕪穢,衰老相憑因。

我有錦囊訣,可以持君身。

#3

當餐黃金藥,去為紫陽賓。

萬事難並立,百年猶崇晨。

別爾東南去,悠悠多悲辛。

前志庶不易,遠途期所遵。

已矣歸去來,白雲飛天津。

 

(潁陽にて、元丹丘の淮陽に之くに別る)
吾、元夫子と、異姓にして天倫たり。

本と軒裳の契なく、素より煙霞を以て親む。

かつて恨む、世網に迫られ、銘意 倶に未だ伸びざるを。

松柏は寒苦と雖も、桃李の春を逐ふを羞づ。

#2

悠悠たる市朝の間,玉顏 日に緇磷。

失う所ろは山岳よりも重く,得る所は埃塵よりも輕し。

精魄 漸く蕪穢,衰老 相い 憑因す。

我に 錦囊の訣有り,可以て君が身を持つべし。

#3

當に 黃金の藥を餐し,去って 紫陽の賓と為るべし。

萬事 並び立ち難く,百年 猶お 崇晨。

爾が 東南に去るに別る,悠悠として 悲辛多し。

前志 庶わくば 易らず,遠途 遵う所を期す。

已んぬるかな 歸るなん去來【いざ】,白雲 天津に飛ぶ。

 

 

『潁陽別元丹丘之淮陽』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

潁陽別元丹丘之淮陽 #1

吾將元夫子,異姓為天倫。

本無軒裳契,素以煙霞親。

嘗恨迫世網,銘意俱未伸。

松柏雖寒苦,羞逐桃李春。


(下し文)
(潁陽にて、元丹丘の淮陽に之くに別る)
吾、元夫子と、異姓にして天倫たり。

本と軒裳の契なく、素より煙霞を以て親む。

かつて恨む、世網に迫られ、銘意 倶に未だ伸びざるを。

松柏は寒苦と雖も、桃李の春を逐ふを羞づ。


(現代語訳)
(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。) #1

われと元夫子とは、異姓でありながら、天倫の兄弟も同じである。

軒車冠裳、即ち在官上の交契とては無いが、本来、煙霞の癖を同じうして、あい親んで居た。

恨むらくは、世の塵網に迫られて、心上に銘記したる本意を十分に伸べることが出凍す、つまり、この世を脱出しかねる。

松柏は如何に寒に遇って苦しんだとしても、桃李の春をおって、世人に媚びることを羞じ、自ら孤高に甘んじている。


(訳注)

潁陽別元丹丘之淮陽 #1

(潁陽において、元丹丘の淮陽に行くに別れ、即ち、これを送った時の詩である。)

舊唐書「潁陽載初元年,析河南、伊闕、嵩陽三縣置武臨縣。開元十五年,改為潁陽。」(載初元年、河南、伊闕、崇陽の三堰を研いて、武臨縣を置く。開元十五年改めて穎陽となし、河南府に隷す。准陽郡は即ち陳州なり、河南道に属す)とある。都畿道 河南府 潁陽。

 

吾將元夫子,異姓為天倫。

われと元夫子とは、異姓でありながら、天倫の兄弟も同じである。

天倫 《穀梁傳隱公元年》:兄弟, 天倫也。” 范寧注:兄先弟後, 天之倫次。”とある。

 

本無軒裳契,素以煙霞親。

軒車冠裳、即ち在官上の交契とては無いが、本来、煙霞の癖を同じうして、あい親んで居た。

軒車 大夫以上所乘有帷幕的馬車。《莊子.讓王》:「子貢乘大馬,中紺而表素,軒車不容巷,往見原憲。」《文選.古詩十九首.冉冉孤生竹》:「思君令人老,軒車來何遲。」攻城的車子。

冠裳 官吏的全套禮服。中原漢人服飾。道士日常所戴帽子和所衣服。

 

嘗恨迫世網,銘意俱未伸。

恨むらくは、世の塵網に迫られて、心上に銘記したる本意を十分に伸べることが出凍す、つまり、この世を脱出しかねる。

銘意 心上に銘記したる本意をいう。・銘1 金石・器物などに事物の来歴や人の功績を記したもの。「碑に―を刻む」2 特にすぐれた物品につける特定の名。「―を付ける」3 製作物に入れる製作者の名。4 心に刻み込んでいる戒めなどの言葉。

 

松柏雖寒苦,羞逐桃李春。

松柏は如何に寒に遇って苦しんだとしても、桃李の春をおって、世人に媚びることを羞じ、自ら孤高に甘んじている。

松柏 《論語子罕》「歲寒, 然後知松柏之後凋也。

桃李 《史記·李將軍列傳》「桃李不言,下自成蹊.

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李白  春日歸山寄孟浩然-#2

香氣三天下,鐘聲萬壑連。荷秋珠已滿,松密蓋初圓。

鳥聚疑聞法,龍參若護禪。愧非流水韻,叨入伯牙弦。
えも言われぬ妙香は、三天よりくだって、煩悩を敲き破る鐘の聲は、萬壑に連るが如くである。わが此詩は、流水の曲の如き神韻を存するものでもないのに、唯だ平生の知己たる故を以て、伯牙に比すべき君の琴絃に入ることは、まことに有り難いが、翻って又恥かしい次第である。

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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七三              文體:    五言古詩

詩題:    春日歸山寄孟浩然

作地點:              襄陽(山南東道 / 襄州 / 襄陽)

 

交遊人物:孟浩然              當地交遊(山南東道 襄州 襄陽)

 

 

春日歸山寄孟浩然

(春の日が訪れたので、山寺の修行の場に帰ったので、そこでの興を述べて、孟浩然に寄せる。)

朱紱遺塵境,青山謁梵筵。

われ既に朱の官服となることをすてて、塵境を去り、そして春の青山に上って、梵宮の法筵に謁したのである。

金繩開覺路,寶筏度迷川。

たとえば、法華経に謂う「離垢国の道が、黄金の縄で境界がしてあって、少しもまぎらわしくなることはざれないという」と同じく、ここに法話を承ると、自然に、悟覺の路を開くことも出きるし、又、尊い筏に乗って、迷の川波を超えて行くようなものである。

嶺樹攢飛栱,巖花覆谷泉。

さてこの寺から見る景色はといえば、嶺頂の樹木には、鳥獣のむれつどい、巌花は、谷の泉を覆って絶景を作る。

塔形標海月,樓勢出江煙。

寺の塔は高く聳えて、滄海の朝日を受け、楼閣は、巍然としで江煙を抽き出て居るのである。

 

香氣三天下,鐘聲萬壑連。

えも言われぬ妙香は、三天よりくだって、煩悩を敲き破る鐘の聲は、萬壑に連るが如くである。

荷秋珠已滿,松密蓋初圓。

折しも、蓮の花は、初秋にほころびて、露は珠をつくり、松は、こんもりと茂って、上の方は円かに、笠の様に開いて居る。

鳥聚疑聞法,龍參若護禪。

まことに、尊い靈境であるから、鳥は衆まって、説法を開くかと疑われ、龍は、高僧の傍に參して、さながら、禅を護するが如くである。

愧非流水韻,叨入伯牙弦。

わが此詩は、流水の曲の如き神韻を存するものでもないのに、唯だ平生の知己たる故を以て、伯牙に比すべき君の琴絃に入ることは、まことに有り難いが、翻って又恥かしい次第である。

 

(春日 山に歸り 孟浩然に寄す)

朱紱 塵境を遺れ,青山 梵筵に謁す。

金繩 覺路を開き,寶筏 迷川を度る。

嶺樹 飛栱を攢め,巖花 谷泉を覆う。

塔形 海月を標し,樓勢 江煙を出ず。

 

香氣 三天より下り,鐘聲 萬壑 連る。

荷 秋にして 珠 已に滿にして,松 密にして 蓋 初めて圓なり。

鳥 聚りて 法を聞くかと疑い,龍 參して 禪を護するが若し。

愧づ 流水の韻に非ずして,叨りに 伯牙の弦に入るを。

 

 Ta唐 長安近郊圖  新02

『春日歸山寄孟浩然』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

香氣三天下,鐘聲萬壑連。

荷秋珠已滿,松密蓋初圓。

鳥聚疑聞法,龍參若護禪。

愧非流水韻,叨入伯牙弦。

(下し文)
香氣 三天より下り,鐘聲 萬壑 連る。

荷 秋にして 珠 已に滿にして,松 密にして 蓋 初めて圓なり。

鳥 聚りて 法を聞くかと疑い,龍 參して 禪を護するが若し。

愧づ 流水の韻に非ずして,叨りに 伯牙の弦に入るを。

(現代語訳)
えも言われぬ妙香は、三天よりくだって、煩悩を敲き破る鐘の聲は、萬壑に連るが如くである。

折しも、蓮の花は、初秋にほころびて、露は珠をつくり、松は、こんもりと茂って、上の方は円かに、笠の様に開いて居る。

まことに、尊い靈境であるから、鳥は衆まって、説法を開くかと疑われ、龍は、高僧の傍に參して、さながら、禅を護するが如くである。

わが此詩は、流水の曲の如き神韻を存するものでもないのに、唯だ平生の知己たる故を以て、伯牙に比すべき君の琴絃に入ることは、まことに有り難いが、翻って又恥かしい次第である。


(訳注)

春日歸山寄孟浩然

(春の日が訪れたので、山寺の修行の場に帰ったので、そこでの興を述べて、孟浩然に寄せる。)

 

香氣三天下,鐘聲萬壑連。

えも言われぬ妙香は、三天よりくだって、煩悩を敲き破る鐘の聲は、萬壑に連るが如くである。

・三天 即ち三界、欲界、色界、無色界を合称する。

 

荷秋珠已滿,松密蓋初圓。

折しも、蓮の花は、初秋にほころびて、露は珠をつくり、松は、こんもりと茂って、上の方は円かに、笠の様に開いて居る。

・松密蓋初圓 玉策記に「千歳の松、四邊按起、上杪長ぜず、望んで之を観れば、偃蓋の如きあり」とある。

 

鳥聚疑聞法,龍參若護禪。

まことに、尊い靈境であるから、鳥は衆まって、説法を開くかと疑われ、龍は、高僧の傍に參して、さながら、禅を護するが如くである。

・鳥聚 法苑珠林に「舎衛園の祇樹精舎、衆集まるの時、獼猴飛鳥、羣類数千、悉く來って法を聴き、寂寞聲なし。事、竟れば、即ち去り、各おの止まるところに還る。犍椎適ま鳴れば、すでに復た来集す。」とある。

 

愧非流水韻,叨入伯牙弦。

わが此詩は、流水の曲の如き神韻を存するものでもないのに、唯だ平生の知己たる故を以て、伯牙に比すべき君の琴絃に入ることは、まことに有り難いが、翻って又恥かしい次第である。

・伯牙 呂氏春秋に「伯牙、琴を鼓す、鍾子期、これを聴く。志に流水に在り、鍾子期日く、善いかな琴.湯湯乎として流水の若し」とある。
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李白  春日歸山寄孟浩然  #1

朱紱遺塵境,青山謁梵筵。金繩開覺路,寶筏度迷川。

嶺樹攢飛栱,巖花覆谷泉。塔形標海月,樓勢出江煙。

(春の日が訪れたので、山寺の修行の場に帰ったので、そこでの興を述べて、孟浩然に寄せる。)われ既に朱の官服となることをすてて、塵境を去り、そして春の青山に上って、梵宮の法筵に謁したのである。たとえば、法華経に謂う「離垢国の道が、黄金の縄で境界がしてあって、少しもまぎらわしくなることはざれないという」と同じく、ここに法話を承ると、自然に、悟覺の路を開くことも出きるし、又、尊い筏に乗って、迷の川波を超えて行くようなものである。さてこの寺から見る景色はといえば、嶺頂の樹木には、鳥獣のむれつどい、巌花は、谷の泉を覆って絶景を作る。

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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七三              文體:    五言古詩

詩題:    春日歸山寄孟浩然

作地點:              襄陽(山南東道 / 襄州 / 襄陽)

 

交遊人物:孟浩然              當地交遊(山南東道 襄州 襄陽)

 

 

春日歸山寄孟浩然

(春の日が訪れたので、山寺の修行の場に帰ったので、そこでの興を述べて、孟浩然に寄せる。)

朱紱遺塵境,青山謁梵筵。

われ既に朱の官服となることをすてて、塵境を去り、そして春の青山に上って、梵宮の法筵に謁したのである。

金繩開覺路,寶筏度迷川。

たとえば、法華経に謂う「離垢国の道が、黄金の縄で境界がしてあって、少しもまぎらわしくなることはざれないという」と同じく、ここに法話を承ると、自然に、悟覺の路を開くことも出きるし、又、尊い筏に乗って、迷の川波を超えて行くようなものである。

嶺樹攢飛栱,巖花覆谷泉。

さてこの寺から見る景色はといえば、嶺頂の樹木には、鳥獣のむれつどい、巌花は、谷の泉を覆って絶景を作る。

塔形標海月,樓勢出江煙。

寺の塔は高く聳えて、滄海の朝日を受け、楼閣は、巍然としで江煙を抽き出て居るのである。

 

香氣三天下,鐘聲萬壑連。

荷秋珠已滿,松密蓋初圓。

鳥聚疑聞法,龍參若護禪。

愧非流水韻,叨入伯牙弦。

 

(春日 山に歸り 孟浩然に寄す)

朱紱 塵境を遺れ,青山 梵筵に謁す。

金繩 覺路を開き,寶筏 迷川を度る。

嶺樹 飛栱を攢め,巖花 谷泉を覆う。

塔形 海月を標し,樓勢 江煙を出ず。

 

香氣 三天より下り,鐘聲 萬壑 連る。

荷 秋にして 珠 已に滿にして,松 密にして 蓋 初めて圓なり。

鳥 聚りて 法を聞くかと疑い,龍 參して 禪を護するが若し。

愧づ 流水の韻に非ずして,叨りに 伯牙の弦に入るを。

 

李白の足跡0000 

『春日歸山寄孟浩然』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

春日歸山寄孟浩然

朱紱遺塵境,青山謁梵筵。

金繩開覺路,寶筏度迷川。

嶺樹攢飛栱,巖花覆谷泉。

塔形標海月,樓勢出江煙。

(下し文)
(
春日 山に歸り 孟浩然に寄す)

朱紱 塵境を遺れ,青山 梵筵に謁す。

金繩 覺路を開き,寶筏 迷川を度る。

嶺樹 飛栱を攢め,巖花 谷泉を覆う。

塔形 海月を標し,樓勢 江煙を出ず。

(現代語訳)
(春の日が訪れたので、山寺の修行の場に帰ったので、そこでの興を述べて、孟浩然に寄せる。)

われ既に朱の官服となることをすてて、塵境を去り、そして春の青山に上って、梵宮の法筵に謁したのである。

たとえば、法華経に謂う「離垢国の道が、黄金の縄で境界がしてあって、少しもまぎらわしくなることはざれないという」と同じく、ここに法話を承ると、自然に、悟覺の路を開くことも出きるし、又、尊い筏に乗って、迷の川波を超えて行くようなものである。

さてこの寺から見る景色はといえば、嶺頂の樹木には、鳥獣のむれつどい、巌花は、谷の泉を覆って絶景を作る。

寺の塔は高く聳えて、滄海の朝日を受け、楼閣は、巍然としで江煙を抽き出て居るのである。


(訳注)

春日歸山寄孟浩然

(春の日が訪れたので、山寺の修行の場に帰ったので、そこでの興を述べて、孟浩然に寄せる。)

 

朱紱遺塵境,青山謁梵筵。

われ既に朱の官服となることをすてて、塵境を去り、そして春の青山に上って、梵宮の法筵に謁したのである。

・朱紱 赤い綬、有位者の佩びるもの。昇進して高官としての朱い官服となること。

《再經胡城縣》 唐・杜荀鶴

去歳曾經此縣城,縣民無口不冤聲。

今來縣宰加朱紱,便是生靈血染成。

(再び胡城縣を經ふ) 

去歳 曾て  此の縣城を經しとき,縣民 口として 冤聲ならざるは無かりき。

來たるに 縣宰は  朱紱を加ふ,便ち是れ 生靈の 血を染めて成りしもの。

・梵筵 梵宮の筵。① 梵天の宮殿の法筵に謁す。 寺、寺院の法筵に謁す。

 

金繩開覺路,寶筏度迷川。

たとえば、法華経に謂う「離垢国の道が、黄金の縄で境界がしてあって、少しもまぎらわしくなることはざれないという」と同じく、ここに法話を承ると、自然に、悟覺の路を開くことも出きるし、又、尊い筏に乗って、迷の川波を超えて行くようなものである。

・金繩 法華経に「國を離垢と名づく、瑠璃を地と為す。八交道あり、黄金を縄となし、以て其側を界す。」とある。

・覺路,寶筏 法苑珠林に「迷津を曩識に渉せば、微塵の數窮め易く、覺路を初心に返せば僧祁の期満ち難し。」とある。翻訳名義功徳施論に「もし、川を渉らんと欲せば、まづまさに筏を取るべし、彼岸にいたらば、既にこれを棄てて去る」とある。韻會に、『筏、説文に海中の大船、廣韻に大を筏といい、小を桴という。方言に、篺、これ筏という。竹木を編み、河に浮べて、以て物を運ぶ、南土、篺となづけ、北土、筏と名づく。」とある。

 

嶺樹攢飛栱,巖花覆谷泉。

さてこの寺から見る景色はといえば、嶺頂の樹木には、鳥獣のむれつどい、巌花は、谷の泉を覆って絶景を作る。

・飛栱 鳥獣のことを合称して言う。

 

塔形標海月,樓勢出江煙。

寺の塔は高く聳えて、滄海の朝日を受け、楼閣は、巍然としで江煙を抽き出て居るのである。
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254-#3 《卷12-12淮陰書懷寄王宗成-#3》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <254-#3>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1514 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6118

李白  淮陰書懷寄王宗成#3  斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

予為楚壯士,不是魯諸生。有德必報之,千金恥為輕。緬書羈孤意,遠寄棹歌聲。
それに、恩徳を受けたならばかならずこれに報いることは致すところであるが、千金のお金ぐらいでは、まことに軽少で、それくらいでは恥ずべきことと心得ていることころだ。このように孤客の羈懐を書面にしたため、船頭の舟歌の聲に託して、遠くの君に寄せるので、君も定めて、その意を諒とされることと思っている。

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(改訂版Ver..2.1

年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七二              文體:    五言古詩

詩題:    淮陰書懷寄王宗成【淮陰書懷寄王宗城】

作地點:              淮陰(淮南道 / 楚州 / 淮陰)

及地點:              淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)    

沙墩 (淮南道 楚州 淮陰)  

梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑           

交遊人物/地點:王宋城      書信往來(河南道 宋州 宋城)

 

(改訂版Ver..2.1

淮陰書懷寄王宗成

(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)

沙墩至梁苑,二十五長亭。

私はここに来る途中、沙墩を過ぎたところで、君の居る梁苑の地までは、二十五長亭であるから250里の所まで来ている。

大舶夾雙艣,中流鵝鸛鳴。

その間には、川があって、大船には櫓を二挺つけ、中流において舟人が騒ぐ声は、まるで鵝鸛の啼き騒ぐ声のようである。

雲天掃空碧,川嶽涵餘清。

時おりしも、天には、雲晴れ盡して、碧色に住みわたり、大江も山岳共に余清のなかに涵している。

飛鳧從西來,適與佳興并。

やがて、飛鳧が西の方から来るのを見て、たまたま佳興をましてくるのである。

#2

眷言王喬,婉孌故人情。

振り返ってみれば、故事に「王喬の舄(くつ)」というのがあるが同姓であるから君も彼に比すると思っている、美しい友情、思いやるものである。
復此親懿會,而增交道榮。

再会してこのような懿親の団欒、歓談をして、よりいっそうの交道の榮を正しくし、また増したいと思っている。
沿洄且不定,飄忽悵徂征。

なにぶん、川に沿って上下することが、難しいために、意の如くにはならない。飄忽として、そのまま旅を続ける。
暝投淮陰宿,欣得漂母迎。

それから、日暮れになって淮陰に着き、投宿し、幸いにも韓信の故事の 漂母のような方が迎えてくれる。
#3

斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

漂母のような老女の斗酒、黃雞の煮込んだ料理の御馳走にあずかり、この一食のあいだにも、この素心の誠、温まるもてなしにたいし感激した。

予為楚壯士,不是魯諸生。

私は楚の雄壮な武士である韓信にも比すべきものであり、けっして魯の孔子の里の儒家思想の人間ではない。
有德必報之,千金恥為輕。

それに、恩徳を受けたならばかならずこれに報いることは致すところであるが、千金のお金ぐらいでは、まことに軽少で、それくらいでは恥ずべきことと心得ていることころだ。

緬書羈孤意,遠寄棹歌聲。

このように孤客の羈懐を書面にしたため、船頭の舟歌の聲に託して、遠くの君に寄せるので、君も定めて、その意を諒とされることと思っている。

 

(淮陰にて懐を書して王宋城に寄す。)#1

沙墩より梁苑に至る、二十五長亭。

大舶、雙艣を夾み、中流に鵝鸛鳴く。

雲天、空碧を掃ひ、川嶽、餘清を涵す。

飛鳧、西より来たり、適ま 佳興と幷す。

#2

眷言の王喬の、婉孌、故人の惰。

復た此に 親懿 會し,而も 交道の榮を增す。

沿洄 且つ定らず,飄忽として 徂征を悵む。

暝して 淮陰に投じて宿し,漂母の迎えるを得たるを欣ぶ。

#3

斗酒 黃雞を烹,一餐 素誠。を感ず

予は楚の壯士 為り,是れ魯の諸生ならず。

德 有れば 必ず之に報い,千金 恥じて輕しと為す。

緬として羈孤の意を書し,遠く 棹歌の聲に寄す。

 李白の足跡0000

 

(改訂版Ver..2.1

『淮陰書懷寄王宗成』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
3
#3

斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

予為楚壯士,不是魯諸生。

有德必報之,千金恥為輕。

緬書羈孤意,遠寄棹歌聲。

(下し文) #3

斗酒 黃雞を烹,一餐 素誠。を感ず

予は楚の壯士 為り,是れ魯の諸生ならず。

德 有れば 必ず之に報い,千金 恥じて輕しと為す。

緬として羈孤の意を書し,遠く 棹歌の聲に寄す。

(現代語訳)
漂母のような老女の斗酒、黃雞の煮込んだ料理の御馳走にあずかり、この一食のあいだにも、この素心の誠、温まるもてなしにたいし感激した。

私は楚の雄壮な武士である韓信にも比すべきものであり、けっして魯の孔子の里の儒家思想の人間ではない。
それに、恩徳を受けたならばかならずこれに報いることは致すところであるが、千金のお金ぐらいでは、まことに軽少で、それくらいでは恥ずべきことと心得ていることころだ。

このように孤客の羈懐を書面にしたため、船頭の舟歌の聲に託して、遠くの君に寄せるので、君も定めて、その意を諒とされることと思っている。


(訳注) (改訂版Ver..2.1

淮陰書懷寄王宗成

(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)

淮陰 徐州臨淮郡は、淮水流域にあたる。漢書地理志によれば、淮水流域は肥沃な粘土質の赤土が広がり、草木は密集して生えていて、人々は異民族とともに暮らしているという。五色の羽をもった雉が生息し、真珠・絹とともに重要な献上物であったと云う。現在の江蘇省淮安市に位置する。秦代に設置される。南北朝時代になると東魏により懐恩県(または淮恩県)と改称され淮陰郡の郡治とされた。その後北周により寿張県、583年(開皇3年)には淮陰県と改称されたが、大業初年に山陽県に編入された。

667年(乾封2年)、唐朝は再び淮陰県を設置

宋城縣 河南道 宋州 宋城(x-8)

 

斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

漂母のような老女の斗酒、黃雞の煮込んだ料理の御馳走にあずかり、この一食のあいだにも、この素心の誠、温まるもてなしにたいし感激した。


予為楚壯士,不是魯諸生。

私は楚の雄壮な武士である韓信にも比すべきものであり、けっして魯の孔子の里の儒家思想の人間ではない。
○楚壯士 李白が、淮陰に在るによってそのため、淮陰の故事を持って喩えとした。楚の国は韓信を指して言うが、多くの勇壮な武士を出している地である。

○魯諸生 山東省魯の孔子の里。李白は儒教を評価していない


有德必報之,千金恥為輕。

それに、恩徳を受けたならばかならずこれに報いることは致すところであるが、千金のお金ぐらいでは、まことに軽少で、それくらいでは恥ずべきことと心得ていることころだ。


緬書羈孤意,遠寄棹歌聲。
このように孤客の羈懐を書面にしたため、船頭の舟歌の聲に託して、遠くの君に寄せるので、君も定めて、その意を諒とされることと思っている。

○棹歌 棹をひいて歌うこと。船頭の舟歌。

254-#2 《卷12-12淮陰書懷寄王宗成-#2》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <254-#2>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1513 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6113

李白  淮陰書懷寄王宗成-#2  

眷言王喬,婉孌故人情。復此親懿會,而增交道榮。

沿洄且不定,飄忽悵徂征。暝投淮陰宿,欣得漂母迎。
なにぶん、川に沿って上下することが、難しいために、意の如くにはならない。飄忽として、そのまま旅を続ける。それから、日暮れになって淮陰に着き、投宿し、幸いにも韓信の故事の漂母のような方が迎えてくれる。
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254-#2 《卷12-12淮陰書懷寄王宗成-#2》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <254-#2>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1513 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6113

 
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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七二              文體:    五言古詩

詩題:    淮陰書懷寄王宗成【淮陰書懷寄王宗城】

作地點:              淮陰(淮南道 / 楚州 / 淮陰)

及地點:              淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)    

沙墩 (淮南道 楚州 淮陰)  

梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑           

交遊人物/地點:王宋城      書信往來(河南道 宋州 宋城)

 

 

淮陰書懷寄王宗成

(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)

沙墩至梁苑,二十五長亭。

私はここに来る途中、沙墩を過ぎたところで、君の居る梁苑の地までは、二十五長亭であるから250里の所まで来ている。

大舶夾雙艣,中流鵝鸛鳴。

その間には、川があって、大船には櫓を二挺つけ、中流において舟人が騒ぐ声は、まるで鵝鸛の啼き騒ぐ声のようである。

雲天掃空碧,川嶽涵餘清。

時おりしも、天には、雲晴れ盡して、碧色に住みわたり、大江も山岳共に余清のなかに涵している。

飛鳧從西來,適與佳興并。

やがて、飛鳧が西の方から来るのを見て、たまたま佳興をましてくるのである。

#2

眷言王喬,婉孌故人情。

振り返ってみれば、故事に「王喬の舄(くつ)」というのがあるが同姓であるから君も彼に比すると思っている、美しい友情、思いやるものである。
復此親懿會,而增交道榮。

再会してこのような懿親の団欒、歓談をして、よりいっそうの交道の榮を正しくし、また増したいと思っている。
沿洄且不定,飄忽悵徂征。

なにぶん、川に沿って上下することが、難しいために、意の如くにはならない。飄忽として、そのまま旅を続ける。
暝投淮陰宿,欣得漂母迎。

それから、日暮れになって淮陰に着き、投宿し、幸いにも韓信の故事の 漂母のような方が迎えてくれる。
#3

斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

予為楚壯士,不是魯諸生。

有德必報之,千金恥為輕。

緬書羈孤意,遠寄棹歌聲。

 

 

(淮陰にて懐を書して王宋城に寄す。)#1

沙墩より梁苑に至る、二十五長亭。

大舶、雙艣を夾み、中流に鵝鸛鳴く。

雲天、空碧を掃ひ、川嶽、餘清を涵す。

飛鳧、西より来たり、適ま 佳興と幷す。

#2

眷言の王喬の、婉孌、故人の惰。

復た此に 親懿 會し,而も 交道の榮を增す。

沿洄 且つ定らず,飄忽として 徂征を悵む。

暝して 淮陰に投じて宿し,漂母の迎えるを得たるを欣ぶ。

#3

斗酒 黃雞を烹,一餐 素誠。を感ず

予は楚の壯士 為り,是れ魯の諸生ならず。

德 有れば 必ず之に報い,千金 恥じて輕しと為す。

緬として羈孤の意を書し,遠く 棹歌の聲に寄す。

都畿道河南道01 

 

(改訂版Ver..2.1

『淮陰書懷寄王宗成』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
#2

眷言王喬,婉孌故人情。

復此親懿會,而增交道榮。

沿洄且不定,飄忽悵徂征。

暝投淮陰宿,欣得漂母迎。

(下し文) #2

眷言の王喬の、婉孌、故人の惰。

復た此に 親懿 會し,而も 交道の榮を增す。

沿洄 且つ定らず,飄忽として 徂征を悵む。

暝して 淮陰に投じて宿し,漂母の迎えるを得たるを欣ぶ。

(現代語訳)
振り返ってみれば、故事に「王喬の舄(くつ)」というのがあるが同姓であるから君も彼に比すると思っている、美しい友情、思いやるものである。
再会してこのような懿親の団欒、歓談をして、よりいっそうの交道の榮を正しくし、また増したいと思っている。
なにぶん、川に沿って上下することが、難しいために、意の如くにはならない。飄忽として、そのまま旅を続ける。
それから、日暮れになって淮陰に着き、投宿し、幸いにも韓信の故事の 漂母のような方が迎えてくれる。

(訳注) (改訂版Ver..2.1

淮陰書懷寄王宗成

(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)

淮陰 徐州臨淮郡は、淮水流域にあたる。漢書地理志によれば、淮水流域は肥沃な粘土質の赤土が広がり、草木は密集して生えていて、人々は異民族とともに暮らしているという。五色の羽をもった雉が生息し、真珠・絹とともに重要な献上物であったと云う。現在の江蘇省淮安市に位置する。秦代に設置される。南北朝時代になると東魏により懐恩県(または淮恩県)と改称され淮陰郡の郡治とされた。その後北周により寿張県、583年(開皇3年)には淮陰県と改称されたが、大業初年に山陽県に編入された。

667年(乾封2年)、唐朝は再び淮陰県を設置

宋城縣 河南道 宋州 宋城(x-8)

 

眷言王喬舄、婉孌故人情。 
振り返ってみれば、故事に「王喬の舄(くつ)」というのがあるが同姓であるから君も彼に比すると思っている、美しい友情、思いやるものである。
眷言 ふりかえって云う。

○王喬舄 底を二重にした冠位の履。王喬は所管の役人だったころ、九族の集う時節ということで王家に集まったが、その時期にはずれ、禁令にも違反しているとして、上奏され、不遇であった。いとこの王基は毋丘倹を平定したあと、安楽郷侯の爵位を賜り、王喬の教育してくれた。この王基の徳にむくいたいと精進した。のち、王喬は関内侯の爵位を賜った。王喬のいとこ王基に教育され、その上で冠位の靴を貰ったことに由来する。

婉孌 えんれん 年若く美しい。したう、すなお、 みめよい。

故人情 友情。



復此親懿會、而增交道榮。 
再会してこのような懿親の団欒、歓談をして、よりいっそうの交道の榮を正しくし、また増したいと思っている。
懿親 親しい親戚。うるわしい、ふかい。

交道 交際していく上での筋道。李白《巻一59古風五十九首、其五十九》「世途多翻覆,交道方嶮巇。」


沿洄且不定、飄忽悵徂征。
なにぶん、川に沿って上下することが、難しいために、意の如くにはならない。飄忽として、そのまま旅を続ける。
○飄 飄蓬。

徂征 行ったり戻ったり。


暝投淮陰宿、欣得漂母迎。』 
それから、日暮れになって淮陰に着き、投宿し、幸いにも韓信の故事の 漂母のような方が迎えてくれる。
漂母 史記、韓信の故事。淮陰にいたころ貧乏だった。人の家に居候ばかりして、嫌われていた。ある日、綿晒しに来たおばあさんが、釣りをしていた韓信を植えている様子を見て、食事をとらせた。綿晒しが終わるまで、数十日食事をさせてくれた。漂は綿をさらすこと。

李白詩「漂母」

巻 ID

詩題

句・聯

204巻五 37

猛虎行 ( 此詩蕭士()云是偽作 )

來投漂母作主人、賢哲棲棲古如此。

301巻八15

玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首其二

飢從漂母食、 閑綴羽陵簡。

323巻八卷八37

贈新平少年

千金答漂母、萬古共嗟稱。

330卷九卷九

九秋日煉藥院鑷白發贈元六兄林宗

窮與鮑生賈、飢從漂母餐。

422巻十二12

淮陰書懷寄王宗成 (一作王宗城 )

暝投淮陰宿、欣得漂母迎。

515卷十五18

送薛九被讒去魯

沙丘無漂母、誰肯飯王孫。

742巻二十一20

宿五松山下荀媼家

令人慚漂母、三謝不能餐。

 李白の足跡0000

254-#1 《卷12-12淮陰書懷寄王宗成-#1》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <254-#1>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1512 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6108

李白  淮陰書懷寄王宗成 #1  

沙墩至梁苑,二十五長亭。大舶夾雙艣,中流鵝鸛鳴。

雲天掃空碧,川嶽涵餘清。飛鳧從西來,適與佳興并。
(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)私はここに来る途中、沙墩を過ぎたところで、君の居る梁苑の地までは、二十五長亭であるから250里の所まで来ている。その間には、川があって、大船には櫓を二挺つけ、中流において舟人が騒ぐ声は、まるで鵝鸛の啼き騒ぐ声のようである。

254-#1 《卷12-12淮陰書懷寄王宗成-#1》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <254-#1>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1512 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6108

 
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254-#1 《卷12-12淮陰書懷寄王宗成-#1》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <254-#1>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1512 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6108 
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 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
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 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog杜甫 《1939 同元使君舂陵行 -#3》【6分割】 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-52 <917-#3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6110 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一七二              文體:    五言古詩

詩題:    淮陰書懷寄王宗成【淮陰書懷寄王宗城】

作地點:              淮陰(淮南道 / 楚州 / 淮陰)

及地點:              淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)    

沙墩 (淮南道 楚州 淮陰)  

梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑           

交遊人物/地點:王宋城      書信往來(河南道 宋州 宋城)

 

(改訂版Ver..2.1) 

淮陰書懷寄王宗成

(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)

沙墩至梁苑,二十五長亭。

私はここに来る途中、沙墩を過ぎたところで、君の居る梁苑の地までは、二十五長亭であるから250里の所まで来ている。

大舶夾雙艣,中流鵝鸛鳴。

その間には、川があって、大船には櫓を二挺つけ、中流において舟人が騒ぐ声は、まるで鵝鸛の啼き騒ぐ声のようである。

雲天掃空碧,川嶽涵餘清。

時おりしも、天には、雲晴れ盡して、碧色に住みわたり、大江も山岳共に余清のなかに涵している。

飛鳧從西來,適與佳興并。

やがて、飛鳧が西の方から来るのを見て、たまたま佳興をましてくるのである。

#2

眷言王喬舃,婉孌故人情。

復此親懿會,而增交道榮。

沿洄且不定,飄忽悵徂征。

暝投淮陰宿,欣得漂母迎。

#3

斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

予為楚壯士,不是魯諸生。

有德必報之,千金恥為輕。

緬書羈孤意,遠寄棹歌聲。

 

(改訂版Ver..2.1) 

(淮陰にて懐を書して王宋城に寄す。)#1

沙墩より梁苑に至る、二十五長亭。

大舶、雙艣を夾み、中流に鵝鸛鳴く。

雲天、空碧を掃ひ、川嶽、餘清を涵す。

飛鳧、西より来たり、適ま 佳興と幷す。

#2

眷言の王喬の舃、婉孌、故人の惰。

復た此に 親懿 會し,而も 交道の榮を增す。

沿洄 且つ定らず,飄忽として 徂征を悵む。

暝して 淮陰に投じて宿し,漂母の迎えるを得たるを欣ぶ。

#3

斗酒 黃雞を烹,一餐 素誠。を感ず

予は楚の壯士 為り,是れ魯の諸生ならず。

德 有れば 必ず之に報い,千金 恥じて輕しと為す。

緬として羈孤の意を書し,遠く 棹歌の聲に寄す。

都畿道河南道01 

(改訂版Ver..2.1) 

『淮陰書懷寄王宗成』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

淮陰書懷寄王宗成

沙墩至梁苑,二十五長亭。

大舶夾雙艣,中流鵝鸛鳴。

雲天掃空碧,川嶽涵餘清。

飛鳧從西來,適與佳興并。

(下し文)
(淮陰にて懐を書して王宋城に寄す。)#1

沙墩より梁苑に至る、二十五長亭。

大舶、雙艣を夾み、中流に鵝鸛鳴く。

雲天、空碧を掃ひ、川嶽、餘清を涵す。

飛鳧、西より来たり、適ま 佳興と幷す。

(現代語訳)
(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)

私はここに来る途中、沙墩を過ぎたところで、君の居る梁苑の地までは、二十五長亭であるから250里の所まで来ている。

その間には、川があって、大船には櫓を二挺つけ、中流において舟人が騒ぐ声は、まるで鵝鸛の啼き騒ぐ声のようである。

時おりしも、天には、雲晴れ盡して、碧色に住みわたり、大江も山岳共に余清のなかに涵している。

やがて、飛鳧が西の方から来るのを見て、たまたま佳興をましてくるのである。


(訳注) #1
(改訂版Ver..2.1)

淮陰書懷寄王宗成

(淮陰に流寓していた時、賦して宋城縣令の王某に贈った)

淮陰 徐州臨淮郡は、淮水流域にあたる。漢書地理志によれば、淮水流域は肥沃な粘土質の赤土が広がり、草木は密集して生えていて、人々は異民族とともに暮らしているという。五色の羽をもった雉が生息し、真珠・絹とともに重要な献上物であったと云う。現在の江蘇省淮安市に位置する。秦代に設置される。南北朝時代になると東魏により懐恩県(または淮恩県)と改称され淮陰郡の郡治とされた。その後北周により寿張県、583年(開皇3年)には淮陰県と改称されたが、大業初年に山陽県に編入された。

667年(乾封2年)、唐朝は再び淮陰県を設置

宋城縣 河南道 宋州 宋城(x-8)

 

沙墩至梁苑,二十五長亭

私はここに来る途中、沙墩を過ぎたところで、君の居る梁苑の地までは、二十五長亭であるから250里の所まで来ている。

沙墩 淮南道 楚州 淮陰。

梁苑 前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

長亭 古時於路旁,每十里設一長亭,五里設一短亭,供行人憩息。因此,近城的十里長亭常為人們送別的地方。

 

大舶夾雙艣,中流鵝鸛鳴。

その間には、川があって、大船には櫓を二挺つけ、中流において舟人が騒ぐ声は、まるで鵝鸛の啼き騒ぐ声のようである。

大舶 おおきなふね。

夾雙艣 櫓を二挺つけてはさんでいる。

鵝鸛鳴 舟人が騒ぐ声は、まるで鵝鸛の啼き騒ぐ声のようである。

 

雲天掃空碧,川嶽涵餘清。

時おりしも、天には、雲晴れ盡して、碧色に住みわたり、大江も山岳共に余清のなかに涵している。

 

飛鳧從西來,適與佳興并。

やがて、飛鳧が西の方から来るのを見て、たまたま佳興をましてくるのである。

 

 

 

 

(淮陰書懷寄王宗成)

沙墩至梁苑,二十五長亭。大舶夾雙艣,中流鵝鸛鳴。

雲天掃空碧,川嶽涵餘清。飛鳧從西來,適與佳興并。

 

眷言王喬舃,婉孌故人情。復此親懿會,而增交道榮。

沿洄且不定,飄忽悵徂征。暝投淮陰宿,欣得漂母迎。

 

斗酒烹黃雞,一餐感素誠。予為楚壯士,不是魯諸生。

有德必報之,千金恥為輕。緬書羈孤意,遠寄棹歌聲。

 

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李白  贈孟浩然  

吾愛孟夫子,風流天下聞。紅顏棄軒冕,白首臥松雲。

醉月頻中聖,迷花不事君。高山安可仰,徒此揖清芬。

(この詩は、世にもちいられず隠者としてその心を清廉に、且つ高尚にしたその処から、孟浩然に贈ったものである。)孟夫子の風流の盛名は、天下に聞こえ、その人は、わが最も愛するところである。孟夫子は、紅顔の年若き頃より、軒冕を著ける役人などは、すべて棄てて仕舞って、白首に至るまで、山中に住み、青松白雲を友として、隠者の生活を送って居た。

 

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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一六八              文體:    五言律詩

詩題:    贈孟浩然

作地點:              襄陽(山南東道 / 襄州 / 襄陽)

交遊人物/地點:孟浩然      當地交遊(山南東道 襄州 襄陽)

 

 

贈孟浩然

(この詩は、世にもちいられず隠者としてその心を清廉に、且つ高尚にしたその処から、孟浩然に贈ったものである。)

吾愛孟夫子,風流天下聞。

孟夫子の風流の盛名は、天下に聞こえ、その人は、わが最も愛するところである。

紅顏棄軒冕,白首臥松雲。

孟夫子は、紅顔の年若き頃より、軒冕を著ける役人などは、すべて棄てて仕舞って、白首に至るまで、山中に住み、青松白雲を友として、隠者の生活を送って居た。

醉月頻中聖,迷花不事君。

そこで、ある時は、月に酔うて、頻りに聖人の称ある極上の酒に中てられたと称し、ある時は、花に心を楽ましめて、君に事へることなどは、全く念頭にも無い。

高山安可仰,徒此揖清芬。

かくの如き高尚の心は、さながら高山の如くで、容易に人に仰がしめないから、その人を見ようと思っても、滅多に遇われず、唯だ芳わしき其名を聞いて、これを慕うのみである。

 

(孟浩然に贈る)

吾は愛す 孟夫子【もうふうし】、風流は 天下に聞こゆ。
紅顔  軒冕を棄て、白首  松雲に臥す。
月に酔いて頻りに聖に中【あた】り、に迷いて君に事【つか】えず。
高山  安【いずく】んぞ仰ぐ可けんや、徒らに此に清芬【せいふん】を揖【ゆう】す。

李白の足跡0000 

 

『贈孟浩然』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈孟浩然

吾愛孟夫子,風流天下聞。

紅顏棄軒冕,白首臥松雲。

醉月頻中聖,迷花不事君。

高山安可仰,徒此揖清芬。


(下し文)
(孟浩然に贈る)

吾は愛す 孟夫子【もうふうし】、風流は 天下に聞こゆ。

紅顔  軒冕を棄て、白首  松雲に臥す。

月に酔いて頻りに聖に中【あた】り、に迷いて君に事【つか】えず。

高山  安【いずく】んぞ仰ぐ可けんや、徒らに此に清芬【せいふん】を揖【ゆう】す。

(現代語訳)
(この詩は、世にもちいられず隠者としてその心を清廉に、且つ高尚にしたその処から、孟浩然に贈ったものである。)

孟夫子の風流の盛名は、天下に聞こえ、その人は、わが最も愛するところである。

孟夫子は、紅顔の年若き頃より、軒冕を著ける役人などは、すべて棄てて仕舞って、白首に至るまで、山中に住み、青松白雲を友として、隠者の生活を送って居た。

そこで、ある時は、月に酔うて、頻りに聖人の称ある極上の酒に中てられたと称し、ある時は、花に心を楽ましめて、君に事へることなどは、全く念頭にも無い。

かくの如き高尚の心は、さながら高山の如くで、容易に人に仰がしめないから、その人を見ようと思っても、滅多に遇われず、唯だ芳わしき其名を聞いて、これを慕うのみである。


(訳注)

(贈孟浩然)

(この詩は、世にもちいられず隠者としてその心を清廉に、且つ高尚にしたその処から、孟浩然に贈ったものである。)

孟浩然(もう こうねん689 - 740年)は盛唐の代表的な詩人。襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。字も浩然。一説には、名は浩だとも言われる。若い頃から各地を放浪し、義侠の振る舞いで人々と交流した。また後漢の龐徳公や後年の皮日休ゆかりの鹿門山(襄陽市)に隠棲したこともあった。玄宗の世となってから長安に赴き仕官しようとするが、科挙に及第していないのでかなわなかった。しかしながら、孟浩然を気に入った韓朝宗との約束をすっぽかして朝廷への推薦をだめにしたり、いざ玄宗の前に出ても不平不満を詩にして玄宗を怒らせるなど、立身出世には関心が薄かったようにもみえる。

孟浩然の詩は広く知れ渡り、王維・李白・張九齢らと親しく交際した(李白には「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」という作品がある)。740年、背中にできものがあって調子の悪かった孟浩然は、訪ねてきた王昌齢を歓待するあまり容態を悪化させて亡くなった。

自然を題材にした詩が評価されており、詩のなかに人生の愁いと超俗とを行き来する心情を詠みこんでいる。日本では五言絶句「春暁」が特に有名である。詩の特徴から王維と孟浩然は「王孟」と並称された。『孟浩然集』がある。

孟浩然 詩ブログ index40首)

 

吾愛孟夫子,風流天下聞。

孟夫子の風流の盛名は、天下に聞こえ、その人は、わが最も愛するところである。

 

紅顏棄軒冕,白首臥松雲。

孟夫子は、紅顔の年若き頃より、軒冕を著ける役人などは、すべて棄てて仕舞って、白首に至るまで、山中に住み、青松白雲を友として、隠者の生活を送って居た。

軒冕 古代中国で、大夫(たいふ)以上の人の乗る車と、かぶる冠。 高位高官。また、その人。
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醉月頻中聖,迷花不事君。

そこで、ある時は、月に酔うて、頻りに聖人の称ある極上の酒に中てられたと称し、ある時は、花に心を楽ましめて、君に事へることなどは、全く念頭にも無い。

○中聖 聖人の称ある極上の酒に中てられたと称すこと。三国志「徐邈任尚書郎時,朝廷禁酒,但徐邈喜歡喝酒,竟然私自喝酒,更加喝醉了。校事趙達走來詢問公事,徐邈則「中聖人」。趙達於是向曹操報告,曹操大怒,幸好為徐邈解求情才得以免於處刑。」とある。

 天使に使えること。朝廷での仕事。
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高山安可仰,徒此揖清芬。

かくの如き高尚の心は、さながら高山の如くで、容易に人に仰がしめないから、その人を見ようと思っても、滅多に遇われず、唯だ芳わしき其名を聞いて、これを慕うのみである。

○高山安可仰 詩経、小雅 「高山仰止、景行行止。四牡騑騑、六轡如琴。爾新昏、以慰我心。」(高山は仰ぎ、景行は行く。四牡 騑騑たり、六轡 琴の如し。覯爾の新昏を覯て、以て我が心を慰せん。)あの高い岡にのぼって薪木取りのクヌギ(婚礼の象徴)、その葉は豊かでみずみずしい。そのように私がおまえを覯て愛することは常に新鮮で心はそれを写し豊かで水水しいものだ。 (これからもさまざまなことはあろう)高山は仰ぎ見るもの、広い道は行くべきもの。四牡(四頭立ての馬車)は止まらずに行く、私のその手綱さばきは琴の演奏のように美しく見事なものだ(安心してくれ)。お前の新昏(ぶり、というより結婚できたこと自体に)を覯て、私の心は慰められる。

清芬 盛んににおうさま。本来はよい香りにいうが、悪臭にもいう。「花の香りがと漂う」「酒気をとさせる」 
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->襄陽一帯地図000
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252-#2 《卷六02南都行 #2》Index-18 Ⅱ―12-738年開元二十六年38歳 <252-#2> Ⅰ李白詩1510 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6098

李白  南都行 #2  

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。
それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁つつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。

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 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一六六              文體:    五言古詩

詩題:    南都行

作地點:              南陽(山南東道 / 鄧州 / 南陽)

及地點:南陽 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:南都         

武闕山 (山南東道 鄧州 南陽)         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

紅陽城 (河南道 許州 舞陽)             

白水 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:淯水、白河           

 

李白の足跡0000

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

南都信佳麗,武闕橫西關。

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

白水真人居,萬商羅廛闤。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

高樓對紫陌,甲第連青山。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。此地多英豪,邈然不可攀。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

陶朱與五羖,名播天壤間。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

 

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

その清らかな馨で唱へる歌は、流雲を遏むべく、巧みなる舞は、従容として、長閑に見える。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

かくて、遊遨の風は、南陽と洛陽一帯の地に盛んであって、衣冠きらびやかに、立派な車に乗れる貴人どもは、風に随って、此方へ聚まって来る。

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

かくて、馬を漢の時代からの紅陽の城址に走らし、鷹を呼んで白河の岸に小鳥狩りをするといふような風俗は、むかしも、今も、変わることはない。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁へつつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。

 

(南都行)

南都、信に、佳麗、武闕、西關に横ふ。

白水眞人の居、萬商、廛闤【てんかん】を羅ぬ。

高楼、紫陌に対し、甲第、青山に連る。

この地、英豪多く、邈然として攀ずべからず。

陶朱と五羖と、名は播く天壌の間。

 

麗華は玉色秀で、漢女は朱顔 嬌たり。

清歌、流雲を遏め、豔舞、餘間あり。

遨遊、宛洛 盛んに、冠蓋、風に随って還る。

馬を走らす 紅陽城、鷹を呼ぶ 白河の灣。

誰か識らん、臥龍の客、長吟すれば、愁鬢 班たり。

 

東都南都襄陽武昌山南東道舂陵03

 

『南都行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

(下し文)
麗華は玉色秀で、漢女は朱顔 嬌たり。

清歌、流雲を遏め、豔舞、餘間あり。

遨遊、宛洛 盛んに、冠蓋、風に随って還る。

馬を走らす 紅陽城、鷹を呼ぶ 白河の灣。

誰か識らん、臥龍の客、長吟すれば、愁鬢 班たり。

(現代語訳)
それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。

その清らかな馨で唱へる歌は、流雲を遏むべく、巧みなる舞は、従容として、長閑に見える。

かくて、遊遨の風は、南陽と洛陽一帯の地に盛んであって、衣冠きらびやかに、立派な車に乗れる貴人どもは、風に随って、此方へ聚まって来る。

かくて、馬を漢の時代からの紅陽の城址に走らし、鷹を呼んで白河の岸に小鳥狩りをするといふような風俗は、むかしも、今も、変わることはない。

それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁つつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。


(訳注) #2

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

○南都 南部は南陽のこと、後漢の光武の故里であって、即位の後は、都を洛陽に建て、ここを別都として、南都と号した。後漢の張衛は、南都賦を作ったが、李白も、亦た南陽の風土を詠じて、この篇を作つたのである。南陽は、襄陽に近いところであるから、これも、李白が襄陽に遊んだ時分の作である。

 


麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。

○麗華 光武帝の陰皇后 陰 麗華(いん れいか、5 - 64年)は、後漢の光武帝(劉秀)の皇后で明帝の母。諡は烈(諡号としては光烈皇后)。異母兄に陰識、同母弟に陰興、陰訢、陰就がいる。劉秀と同じ南陽郡(今の河南省と湖北省にまたがる)の新野県出身の豪族陰氏の娘で、近隣でも評判の美女として、挙兵前の光武帝もあこがれるほどであったという。更始1年(23年)に劉秀に嫁いだ。建武1年(25年)に劉秀が即位すると貴人として洛陽に迎えられた。しかしこの時、光武帝が後に娶った郭昌の娘の郭聖通(郭貴人)が先に男子の劉彊を産んでいた。光武帝は陰貴人を皇后に擁立したいと思うものの、陰麗華は男子を産んでいないことを理由に断った。建武2年(26年)に劉彊は皇太子になり、郭貴人が皇后に立てられた。建武4年(28年)、陰麗華は劉荘を産んだ。建武17年(41年)に、郭皇后がそのわがままな性格から、光武帝に疎まれるようになり皇后を廃されたため、陰麗華は皇后に、建武19年(43年)に劉荘は皇太子に立てられることになった。建武中元2年(57年)に光武帝が亡くなると、劉荘が即位し、陰麗華は皇太后となる。陰麗華の生活は、皇后になってからも質素であったという。また、己の一族には政治に関与させないようにした聡明な女性でもあった。このため、明帝皇后の馬皇后と並んで、中国史上でも優れた皇后の一人として称えられている。

○秀玉色 玉貌、世に類なき絶世の美人であること。・玉色:《禮記.玉藻》:「盛氣顛實揚休,玉色。」漢.鄭玄.注:「色不變也。」比操行堅貞。

○漢女 漢水の女神。孟浩然《萬山潭作》漢水の神の名。文選、張衡《南都賦》「耕父揚光於清泠之淵、游女弄珠於漢皐之曲。」(耕父 光を清泠の淵に揚げ、游女 珠を漢皐之曲に弄ぶ。)耕父揚光於淸冷之淵、遊女弄珠於漢睪之曲。〈注曰:遊女,漢女也。鄭大夫交甫於漢見之,而贈之橘柚。南陽の財宝と山岳について述べる部分にある。鄭耕甫が漢皐臺で二人の女神からふたつの珠を贈られたが、その珠は鶏卵ほどの大きさであった。

孟浩然  萬山潭作

垂釣坐磐石,水清心亦閑。

魚行潭樹下,猿掛島藤間。

游女昔解佩,傳聞於此山。

求之不可得,沿月棹歌還。

盛唐詩 萬山潭作 孟浩然<42> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -349

○嬌朱顏 

 

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

その清らかな馨で唱へる歌は、流雲を遏むべく、巧みなる舞は、従容として、長閑に見える。

 

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

かくて、遊遨の風は、南陽と洛陽一帯の地に盛んであって、衣冠きらびやかに、立派な車に乗れる貴人どもは、風に随って、此方へ聚まって来る。

○宛洛 南陽と洛陽。

○冠蓋 衣冠きらびやかに、立派な車にのること。高級官吏の官帽と服飾に銜えて立派な車に乘るようになること。後には、以って達官した貴人を稱することに用いる。南朝宋.鮑照《代放歌行》「冠蓋縱橫至,車騎四方來。」とある。

 

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

かくて、馬を漢の時代からの紅陽の城址に走らし、鷹を呼んで白河の岸に小鳥狩りをするといふような風俗は、むかしも、今も、変わることはない。

○紅陽城 紅陽侯の居城。前漢王立の侯国である紅陽侯国は南陽にあり、王立は光武帝ら南陽の劉氏と交流を持ち、彼らに恩があった。王立の子である王丹は中山太守となり、後に光武帝に降伏して将軍となり、戦死した。光武帝は哀れんで、王丹の子の王泓を武桓侯とした。

○白河 灣 襄陽で漢水に合流する河川。

 

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁つつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。

○臥龍 諸葛 亮(しょかつ りょう)のこと。後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。伏龍、臥龍とも呼ばれる。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。

『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。

諸葛亮は襄陽の西、20里隆中で晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。
襄陽一帯地図000 

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南都行

南都信佳麗,武闕橫西關。白水真人居,萬商羅廛

高樓對紫陌,甲第連青山。此地多英豪,邈然不可攀。

陶朱與五羖,名播天壤間。
(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

 

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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一六六              文體:    五言古詩

詩題:    南都行

作地點:              南陽(山南東道 / 鄧州 / 南陽)

及地點:南陽 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:南都         

武闕山 (山南東道 鄧州 南陽)         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

紅陽城 (河南道 許州 舞陽)             

白水 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:淯水、白河           

 

 

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

南都信佳麗,武闕橫西關。

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

白水真人居,萬商羅廛闤。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

高樓對紫陌,甲第連青山。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。
此地多英豪,邈然不可攀。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

陶朱與五羖,名播天壤間。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

 

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

 

(南都行)

南都、信に、佳麗、武闕、西關に横ふ。

白水眞人の居、萬商、廛闤【てんかん】を羅ぬ。

高楼、紫陌に対し、甲第、青山に連る。

この地、英豪多く、邈然として攀ずべからず。

陶朱と五羖と、名は播く天壌の間。

 

麗華は玉色秀で、漢女は朱顔 嬌たり。

清歌、流雲を遏め、豔舞、餘間あり。

遨遊、宛洛 盛んに、冠蓋、風に随って還る。

馬を走らす 紅陽城、鷹を呼ぶ 白河の灣。

誰か識らん、臥龍の客、長吟すれば、愁鬢 班たり。

安陸・南陽・嚢陽 李白00 

 

『南都行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

南都行

南都信佳麗,武闕橫西關。

白水真人居,萬商羅廛

高樓對紫陌,甲第連青山。

此地多英豪,邈然不可攀。

陶朱與五羖,名播天壤間。

(下し文)
(
南都行)

南都、信に、佳麗、武闕、西關に横ふ。

白水眞人の居、萬商、廛【てんかん】を羅ぬ。

高楼、紫陌に対し、甲第、青山に連る。

この地、英豪多く、邈然として攀ずべからず。

陶朱と五羖と、名は播く天壌の間。

(現代語訳)
(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。
古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。


(訳注)

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

○南都 南部は南陽のこと、後漢の光武の故里であって、即位の後は、都を洛陽に建て、ここを別都として、南都と号した。後漢の張衛は、南都賦を作ったが、李白も、亦た南陽の風土を詠じて、この篇を作つたのである。南陽は、襄陽に近いところであるから、これも、李白が襄陽に遊んだ時分の作である。

 李白の足跡0000

南都信佳麗,武闕橫西關。

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

○武闕 武闕山という山名。西弘農の界にある。張衡《南都賦》「爾其地勢,則武闕關其西,桐柏揭其東。」(爾して其の地勢は,則ち 武闕 其の西を關し,桐柏 其の東を揭つ。)その説文に、武闕山為關在西也。武闕山為關而在西,弘農界也。【武闕山為關在西也。漢書音義,文穎曰:武闕山為關而在西,弘農界也。漢書曰:南陽之平陽縣有桐柏山。】

 

白水真人居,萬商羅廛闤。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

○白水眞人 後漢の光武帝か指す、後漢書に「玉莽、位を篁し、劉氏も忌悪し、錢文

後漢書 “王莽位忌惡劉氏、以錢文有金刀、故改爲貨泉、或以貨泉字文為「白水真人」。”とあり、宋書 莽忌惡漢,而錢文有金,乃改鑄貨泉以易之 光武 起 舂陵 白水郷

に金あり、乃ち賀長も改鰻して、以て之ね易ふ。すでにして、光武、舂陵の白水郷に起る、貨泉の文、白水眞人たるなり。

光武帝(こうぶてい、前6 - 57[1])は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽(湖北省棗陽市)の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された[2]。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。

○萬商 漢書に「南陽に其俗香春、嵐力む上び商賀な好む」とある。

○廓醜 市宅と市垣。

 

高樓對紫陌,甲第連青山。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。

○紫陌 町中の大逆。

○甲第 好宅、かみ屋敷。

 

此地多英豪,邈然不可攀。

この地は、景色の勝れて居るばかりでなく、山水、偉人を生ずといった通おり、むかしから、英豪が頻りに輩出し、すでに千歳を隔て、高風邈然としで攀じるべからざるも、人をして、懐舌の念を起さしめる。

 はるかなさま。李白《巻一12古風五十九首 其十二》長揖萬乘君、 還歸富春山。 清風洒六合、 邈然不可攀。 使我長嘆息、冥棲岩石間。」(万乗の君に長揖して、還帰す 富春山。清風 六合に灑ぎ、邈然(ばくぜん)として 攀()ずべからず。我をして 長く嘆息し、巌石の間に冥棲せしむ)万乗の天子、光武帝にたいし最敬礼をした、そして、さっさと富春山へと帰っていった。すがすがしい風格が天地四方にいきわたった、しかしそれは遠くはるかなことで、とても手がとどきそうにないようなことだわたしに長いためいきをつかせたこと、せめて洞窟の奥深くひっそりした中で静かにくらしてみたいと思わせたことだったのだ。

《卷9-18             遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅》「目色送飛鴻、邈然不可攀。」(目色 飛鴻を送り、 邈然として攀ず可からず。)ここに遊びに来たが、主人は飛ぶ雁に見惚れているのか、客が来ても、まるで相手にせず、ばくぜんとして取りすがりようがないくらいである。

 

陶朱與五羖,名播天壤間。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

○陶朱 史記に「范蠡、その重宝をふところにし、問行して以て去り、陶に止まる。、以爲らく、これ天下の中、交易有無の道通ず、生む爲して富みをい致すベしと。ここに於て、陶朱公と號す」とある。

越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。

○五羖 五羖大夫のことで、春秋時代の秦の宰相であった百里奚のことである。献公の娘(太子申生(英語版)の同母妹で生母は斉の公女)が秦の穆公に嫁ぐことになり、百里奚はその召使いとして秦に入国した。ある日のこと、穆公の家臣の一人が百里奚と政治について語り合い、その賢哲を知って「百里奚を宰相に据えれば秦は千里を拓くでしょう」と言って穆公に推挙した。百里奚はこれを嫌って国外へと逃亡し、楚に流れて奴隷とされたが穆公の家臣に見つけ出され羊の皮5枚(五羖)で買い戻され、秦に連れ戻された。これに由来して百里奚は五羖大夫と号するようになった。

穆公は連れ戻された百里奚と国事について三日三晩語り合い、彼に国政をあずけることを決めた。ときに百里奚70余歳。

百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。

また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。更に百里奚は、彼がかつて世話になった親友の蹇叔の登用を穆公に薦め、それを受けて穆公は蹇叔を秦へと招聘し、上大夫とした。
襄陽一帯地図000 

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