漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

Index-21Ⅱ―16-741年開元二十九年41歳

302 《卷23-43詠鄰女東窗海石榴》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <302> Ⅰ李白詩1590 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6498

李白  詠鄰女東窗海石榴   

魯女東窗下,海榴世所稀。珊瑚映綠水,未足比光輝。

清香隨風發,落日好鳥歸。願為東南枝,低舉拂羅衣。

無由共攀折,引領望金扉。
(国一番の美女が隣に住んでいて、その窓下の椿の花を見て詠う。)

隣の家にいる魯女の住む部屋の東窓のもとに植えたツバキの花は世にもまれなものである。サンゴが東海の緑水に映えるも、いまだその花の光輝ある姿に比しがたいというものである。そして、この花の清香は、したがって発し、夕日が沈むころには、珍しい小鳥がその花に宿せんがために帰ってくる。我、願わくば、その木の東南の枝となり、低く挙がって、魯女が木のほとりに来た時には、おもむろに羅衣を払いたいと思うのである。何はともあれ、隣家ではあるものの、余人して、その枝を攀折することもできず、ただ首をのばして、その東隣の女の住んでいる部屋の金色の門扉を望むのみである。

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年:       開元二十九年

寫作時間:           741

寫作年紀:           41

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    詠鄰女東窗海石榴

 

 

詠鄰女東窗海石榴

魯女東窗下,海榴世所稀。

珊瑚映綠水,未足比光輝。

清香隨風發,落日好鳥歸。

願為東南枝,低舉拂羅衣。

無由共攀折,引領望金扉。

(国一番の美女が隣に住んでいて、その窓下の椿の花を見て詠う。)

隣の家にいる魯女の住む部屋の東窓のもとに植えたツバキの花は世にもまれなものである。

サンゴが東海の緑水に映えるも、いまだその花の光輝ある姿に比しがたいというものである。

そして、この花の清香は、したがって発し、夕日が沈むころには、珍しい小鳥がその花に宿せんがために帰ってくる。

我、願わくば、その木の東南の枝となり、低く挙がって、魯女が木のほとりに来た時には、おもむろに羅衣を払いたいと思うのである。

何はともあれ、隣家ではあるものの、余人して、その枝を攀折することもできず、ただ首をのばして、その東隣の女の住んでいる部屋の金色の門扉を望むのみである。

 

(鄰女東窗の海石榴を詠ず)

魯女 東窗の下,海榴 世の稀なる所。

珊瑚 綠水に映じ,未だ光輝を比する足らず。

清香 風に隨って發し,落日 好鳥歸る。

願わくば 東南の枝と為り,低く舉って 羅衣を拂わん。

共に攀折する由無く,領を引いて 金扉を望む。

 

 

『詠鄰女東窗海石榴』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

詠鄰女東窗海石榴

魯女東窗下,海榴世所稀。

珊瑚映綠水,未足比光輝。

清香隨風發,落日好鳥歸。

願為東南枝,低舉拂羅衣。

無由共攀折,引領望金扉。

(下し文)

(鄰女東窗の海石榴を詠ず)

魯女 東窗の下,海榴 世の稀なる所。

珊瑚 綠水に映じ,未だ光輝を比する足らず。

清香 風に隨って發し,落日 好鳥歸る。

願わくば 東南の枝と為り,低く舉って 羅衣を拂わん。

共に攀折する由無く,領を引いて 金扉を望む。

(現代語訳)
(国一番の美女が隣に住んでいて、その窓下の椿の花を見て詠う。)

隣の家にいる魯女の住む部屋の東窓のもとに植えたツバキの花は世にもまれなものである。

サンゴが東海の緑水に映えるも、いまだその花の光輝ある姿に比しがたいというものである。

そして、この花の清香は、したがって発し、夕日が沈むころには、珍しい小鳥がその花に宿せんがために帰ってくる。

我、願わくば、その木の東南の枝となり、低く挙がって、魯女が木のほとりに来た時には、おもむろに羅衣を払いたいと思うのである。

何はともあれ、隣家ではあるものの、余人して、その枝を攀折することもできず、ただ首をのばして、その東隣の女の住んでいる部屋の金色の門扉を望むのみである。


(訳注)

詠鄰女東窗海石榴

(国一番の美女が隣に住んでいて、その窓下の椿の花を見て詠う。)

○鄰女東窗 『文選』巻19に載る「登徒子好色賦」に記されているよく知られた逸話で、美男として有名な中国の文人・宋玉が「自分は決して好色ではない、隣に住んでいた国一番の美女が牆(かき)からその姿を見せ、3年間のぞき込まれ誘惑され続けたが心を動かした事は一度も無かった、私のことを好色と称する登徒子(とうとし)こそ好色である」と王の前で反論した故事(宋玉東牆)を引いているもので、塀(墻・牆)からのぞき込んでいる姿をその故事中の美女に比しており、石燕はこれをもって「倩兮女」を多くの人を弄んだ淫婦の霊ではなかろうかと述べている。

○海石榴 ツバキ科ツバキ属の常緑樹の総称。 園芸品種が多く、庭木として重用される。 花は赤・白の他、桃色の品種もある。 果実は球形で、黒い種子からは椿油(つばきあぶら)をとる。

 

魯女東窗下,海榴世所稀。

隣の家にいる魯女の住む部屋の東窓のもとに植えたツバキの花は世にもまれなものである。

 

珊瑚映綠水,未足比光輝。

サンゴが東海の緑水に映えるも、いまだその花の光輝ある姿に比しがたいというものである。

○珊瑚映綠水 潘岳 《河陽庭前安石榴賦序》「似琉璃之棲鄧林,若珊瑚之映綠。」とある。

 

清香隨風發,落日好鳥歸。

そして、この花の清香は、したがって発し、夕日が沈むころには、珍しい小鳥がその花に宿せんがために帰ってくる。

○清香隨風發 《古詩十九首之五》「清商隨風發,中曲正徘徊。」(琴と笛の和調で澄んだ音調で秋のもの悲しい声調の曲が風にのってひびいてくるが、曲の中ほどで、正規の引きであったり、ためらいかけた音階であったりする。)に基づいている。

古詩十九首 (5) 漢詩<92>Ⅱ李白に影響を与えた詩524 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1389

 

願為東南枝,低舉拂羅衣。

我、願わくば、その木の東南の枝となり、低く挙がって、魯女が木のほとりに来た時には、おもむろに羅衣を払いたいと思うのである。

 

無由共攀折,引領望金扉。

何はともあれ、隣家ではあるものの、余人して、その枝を攀折することもできず、ただ首をのばして、その東隣の女の住んでいる部屋の金色の門扉を望むのみである。

○引領望金扉 《文選王延壽<魯靈光殿賦>》「遂排金扉而北入, 宵藹藹而晻曖。」 張銑注:扉門扉也。

李白301 《巻十八06答友人贈烏紗帽》(改訂版)Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <301> Ⅰ李白詩1589 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6493

李白  答友人贈烏紗帽   

領得烏紗帽,全勝白接山人不照鏡,稚子道相宜。
(友人が上下通じたる禮帽である烏紗帽を贈ってくれたことにより、この詩を以て答礼の意を表した。)

君はから烏紗帽を頂戴したが、なるほど、白接羅の帽子よりすべてに勝って、なかなか立派である。山人たる我は、あいにく、鏡を持ち合わせていない、隠遁すべき人間が街にいるのであるが、この私が鏡を見るまでのことはないのだ、山簡ではないけれど子供たちはこの帽子がよく似合ってるといっているくらいであるから、此処に御礼を申し上げる。
李白301 《巻十八06答友人贈烏紗帽》(改訂版)Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <301> Ⅰ李白詩1589 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6493

 

 
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  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
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  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七八              文體:    五言

詩題:    答友人贈烏紗帽

 

 

答友人贈烏紗帽

(友人が上下通じたる禮帽である烏紗帽を贈ってくれたことにより、この詩を以て答礼の意を表した。)

領得烏紗帽,全勝白接離。

君はから烏紗帽を頂戴したが、なるほど、白接羅の帽子よりすべてに勝って、なかなか立派である。

山人不照鏡,稚子道相宜。

山人たる我は、あいにく、鏡を持ち合わせていない、隠遁すべき人間が街にいるのであるが、この私が鏡を見るまでのことはないのだ、山簡ではないけれど子供たちはこの帽子がよく似合ってるといっているくらいであるから、此処に御礼を申し上げる。

(友人の烏紗帽を贈れるに答う)

烏紗帽を領し得て、全く白接に勝る。

山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜【よろ】しと道【い】う。

 

『答友人贈烏紗帽』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

答友人贈烏紗帽

領得烏紗帽,全勝白接

山人不照鏡,稚子道相宜。

(下し文)
(友人の烏紗帽を贈れるに答う)

烏紗帽を領し得て、全く白接に勝る。

山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜【よろ】しと道【い】う。

(現代語訳)
(友人が上下通じたる禮帽である烏紗帽を贈ってくれたことにより、この詩を以て答礼の意を表した。)

君はから烏紗帽を頂戴したが、なるほど、白接羅の帽子よりすべてに勝って、なかなか立派である。

山人たる我は、あいにく、鏡を持ち合わせていない、隠遁すべき人間が街にいるのであるが、この私が鏡を見るまでのことはないのだ、山簡ではないけれど子供たちはこの帽子がよく似合ってるといっているくらいであるから、此処に御礼を申し上げる。

(訳注)

答友人贈烏紗帽

(友人が上下通じたる禮帽である烏紗帽を贈ってくれたことにより、この詩を以て答礼の意を表した。)

烏紗帽 絹で出来た礼装用の黒い帽子。中華古今注 「武德九年十一月,太宗詔曰:『自今以後,天子服烏紗帽,百官士庶皆同服之。』」とあって烏紗帽は、上下通じたる禮帽である。


領得烏紗帽,全勝白接蘺。

君はから烏紗帽を頂戴したが、なるほど、白接羅の帽子よりすべてに勝って、なかなか立派である。

白接羅:白い接羅(せつり)。接羅は帽子の一種。昔、荊の地方長官だった山簡が被っていたことで有名。

烏紗帽を領得して、全く白接蘺()に勝(まさ)る。山簡は竹林の七賢人である山濤の息子だが、それよりなにより酔ってこの白接蘺を前後反対に被り町なかで馬に乗ったほどの「酔っぱらい」ぶりで名高い。              
「山公」と言えば酔っぱらいの代名詞であり、李白はしばしば自分をこの山簡に例えている。 

山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一人、山濤の子。公は一般に尊称であるが、ここでは、とくに尊敬と親しみの気特がこもっている。山簡、あざなは季倫。荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。話は「世説」にある。 ○高陽 嚢陽にある池の名。

李白が山簡をうたっている詩

巻○ID 詩題

詩句

6302-04楽府梁甫吟

「君不見高陽酒徒起草中。 」

143巻四18襄陽曲四首其二

「山公醉酒時。 酩酊高陽下。頭上白接()。 倒著還騎馬。 」

145巻四20襄陽曲四首其四

「且醉習家池。 莫看墮淚碑。 山公欲上馬。 笑殺襄陽兒。 」

240巻七秋浦歌十七首 其七

「醉上山公馬。 寒歌寧戚牛。 空吟白石爛。 淚滿黑貂裘。 」

3329-03憶襄陽舊游贈馬少府巨

「昔為大堤客。 曾上山公樓。 開窗碧嶂滿。 拂鏡滄江流。 高冠佩雄劍。 長揖韓荊州。 」

37110-17江夏贈韋南陵冰

「人悶還心悶。 苦辛長苦辛。 愁來飲酒二千石。 寒灰重暖生陽春。 山公醉後能騎馬。 」

475巻十四12留別廣陵諸公 (一作留別邯鄲故人)

「臥海不關人。 租遼東田。 乘興忽復起。 棹歌溪中船。 臨醉謝葛強。 山公欲倒鞭。 」

500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序

「不致百金。吾友揚子云。 弦歌播清芬。 雖為江寧宰。 好與山公群。 」

513卷十五16魯郡堯祠送竇明府薄華還西京 時久病初起作

「何不令皋繇擁彗橫八極。 直上青天掃浮云。高陽小飲真瑣瑣。 山公酩酊何如我。 」

754巻二十一32 峴山懷古

「訪古登峴首。 憑高眺襄中。天清遠峰出。 水落寒沙空。 弄珠見游女。 醉酒懷山公。感嘆發秋興。 長松鳴夜風。 」

 


山人不照鏡,稚子道相宜。

山人たる我は、あいにく、鏡を持ち合わせていない、隠遁すべき人間が街にいるのであるが、この私が鏡を見るまでのことはないのだ、山簡ではないけれど子供たちはこの帽子がよく似合ってるといっているくらいであるから、此処に御礼を申し上げる。
○山人 山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。ここでは李白自身のことを指す。



 

 

 

 

 

 

 

帽子01


帽子02

帽子03

 

 

 唐太宗戴幞頭

 禮官戴幞頭

 兩文人戴幞頭

 

 

帽子04

帽子05

帽子06

 

 

 羅幞

 

 

 

 

 

 

 


  
 時代を遡ると、元代の雑劇に登場する山人は例外なくみな占い師であり、かつ自称ではなく他称である。また陸遊の〈新裁道帽示帽工〉(《劍南詩稿》卷39)では、「山人手段雖難及」と帽子作りの職人を山人と呼んでおり、《東京夢華録》巻 5 〈京瓦技芸〉等にみえる張山人は都会の寄席芸人であるなど、総じて山人とは「技術之士」(《太平廣記》巻72「張山人」)であったといえる。同じ現象は唐代にも見られる。宋初の《文苑英華》巻231「隠逸二・山人」に収める唐代の山人の詩の多くには売薬についての記述が見える。そもそも山人という語の出典は、南斉の孔稚圭「北山移文」(《文選》巻43)の「山人去兮曉猿驚」にあり、本来山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。いわゆる「終南の捷径」によって官途を求めた李泌のような人物もまた山人であったし、李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。現に李白は「答友人贈烏紗帽」(《李白集校注》巻19)で「山人不照鏡、稚子道相宜」と自ら山人を称している 

  
「山公」
李白と道教48襄陽歌 ⅰ

李白と道教(7)襄陽曲49から52

阮籍 詠懐詩 、 白眼視    嵆康 幽憤詩

秋浦歌十七首 其七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集251/350

秋浦歌十七首 其九 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -253/350

秋浦歌十七首 其十一 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集-255/350

 

烏紗帽00烏紗帽平巾幘(さく)帽00平巾幘(さく)

 

 

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李白  《巻十八04早秋單父南樓酬竇公衡》#2  

散為飛雨川上來,遙帷卻卷清浮埃。知君獨坐青軒下,此時結念同所懷。

我閉南樓看道書,幽簾清寂在仙居。曾無好事來相訪,賴爾高文一起予。
その雲が散じて、飛雨となって川上に降りそそいでくれば、誠に心地良いことになり、そうすれば俗界から離れた寝牀の周りのとばりを巻き上げて、空地に浮んでいる塵埃をも清めてしまうことになる。そのとき、貴殿は、さだめて青軒の下に獨坐したことであろうが、たがいの胸の内は同心結であって、思うところは互いに同じことを考えているのである。我は、今しも、この早秋の清々しさに乗じて、南楼の窓扉を閉じて、道教の書籍を読みふけって、簾影静かに垂れて、四隣清寂であり、これこそ、仙居となるのである。ただ、それでは、好事者の來訪することもないということであり、寂しくてたまらないから、貴殿が名文を寄せてくれれば、予の詩興を呼び起こしてくれるのでよろしく頼む。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七八              文體:    雜言古詩

詩題:    早秋單父南樓酬竇公衡

作地點:              目前尚無資料

及地點:單父 (河南道 宋州 單父)    

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳        

交遊人物/地點:竇公衡      當地交遊(河南道 宋州 單父)

 

 

早秋單父南樓酬竇公衡

(早秋七月のころ、單父の南樓のおいて、竇公衡に酬い答えて作ったもの)

白露見日滅,紅顏隨霜凋。

白露は日が登ればやがて消えていくものだし、紅顔は霜に随って凋みゆくものである。

別君若俯仰,春芳辭秋條。

貴殿と別れてから、歳月頻りに過ぎ去り、試みに俯仰するうち、春の花も香りも散り去り、秋の枝となり、時序匇匇とうつりかわっていったのである。

泰山嵯峨夏雲在,疑是白波漲東海。

その間、夏のころには、泰山嵯峨として、奇峰を為せる夏雲がとどまって動かずにあった、さながら白波が東海に漲っているのかと思われるようであった。

散為飛雨川上來,遙帷卻卷清浮埃。

その雲が散じて、飛雨となって川上に降りそそいでくれば、誠に心地良いことになり、そうすれば俗界から離れた寝牀の周りのとばりを巻き上げて、空地に浮んでいる塵埃をも清めてしまうことになる。

知君獨坐青軒下,此時結念同所懷。

そのとき、貴殿は、さだめて青軒の下に獨坐したことであろうが、たがいの胸の内は同心結であって、思うところは互いに同じことを考えているのである。

我閉南樓看道書,幽簾清寂在仙居。

我は、今しも、この早秋の清々しさに乗じて、南楼の窓扉を閉じて、道教の書籍を読みふけって、簾影静かに垂れて、四隣清寂であり、これこそ、仙居となるのである。

曾無好事來相訪,賴爾高文一起予。

ただ、それでは、好事者の來訪することもないということであり、寂しくてたまらないから、貴殿が名文を寄せてくれれば、予の詩興を呼び起こしてくれるのでよろしく頼む。

 

(早秋 單父南樓にて竇公衡に酬ゆ)

白露 日を見て滅し,紅顏 霜に隨って凋む。

君に別れて 俯仰するが若く,春芳 秋條を辭す。

泰山 嵯峨として 夏雲在り,疑うらくは是れ白波の東海に漲るかと。

 

散じて 飛雨と為って川上に來り,遙帷 卻って卷いて 浮埃を清む。

知る君が 獨坐す 青軒の下,此の時 結念 懷う所を同じゅうす。

我 南樓を閉じて道書を看る,幽簾 清寂 仙居に在り。

曾て好事の來って相い訪う無し,爾の高文に賴って 一び予を起せ。

 

 

『早秋單父南樓酬竇公衡』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

散為飛雨川上來,遙帷卻卷清浮埃。

知君獨坐青軒下,此時結念同所懷。【此時結念同懷者】。

我閉南樓看道書,幽簾清寂在仙居。

曾無好事來相訪,賴爾高文一起予。

(下し文)
散じて 飛雨と為って川上に來り,遙帷 卻って卷いて 浮埃を清む。

知る君が 獨坐す 青軒の下,此の時 結念 懷う所を同じゅうす。

我 南樓を閉じて道書を看る,幽簾 清寂 仙居に在り。

曾て好事の來って相い訪う無し,爾の高文に賴って 一び予を起せ。

(現代語訳)
その雲が散じて、飛雨となって川上に降りそそいでくれば、誠に心地良いことになり、そうすれば俗界から離れた寝牀の周りのとばりを巻き上げて、空地に浮んでいる塵埃をも清めてしまうことになる。

そのとき、貴殿は、さだめて青軒の下に獨坐したことであろうが、たがいの胸の内は同心結であって、思うところは互いに同じことを考えているのである。

我は、今しも、この早秋の清々しさに乗じて、南楼の窓扉を閉じて、道教の書籍を読みふけって、簾影静かに垂れて、四隣清寂であり、これこそ、仙居となるのである。

ただ、それでは、好事者の來訪することもないということであり、寂しくてたまらないから、貴殿が名文を寄せてくれれば、予の詩興を呼び起こしてくれるのでよろしく頼む。


(訳注)

早秋單父南樓酬竇公衡

(早秋七月のころ、單父の南樓のおいて、竇公衡に酬い答えて作ったもの)741年開元二十九年41歳の作。

單父 (河南道 宋州 單父) 単県(ぜんけん)は中華人民共和国山東省菏沢市に位置する県。古名を単父(ぜんほ)という。

竇公衡 

《太平廣記》「崔圓,開元二十三年應將帥舉科,又於河南府充貢進士。其日正於福唐觀試,遇敕下,便於試場中喚將拜執戟參謀河西軍事。應制時,與越州剡縣尉竇公衡同場並坐,親見其事。公衡之名位,略見於此。」

【解説】

初句四句は歳月の匇匇たることをいい、泰山嵯峨の六句は、彼方の夏の景色、我閉南樓ノ四句は、此処の早秋の景色を言い、結句二句において、酬答の意を寓したものである。

 

散為飛雨川上來,遙帷卻卷清浮埃。

その雲が散じて、飛雨となって川上に降りそそいでくれば、誠に心地良いことになり、そうすれば俗界から離れた寝牀の周りのとばりを巻き上げて、空地に浮んでいる塵埃をも清めてしまうことになる。

遙帷卻卷 文選.江淹.《雜體詩.王徵君》「鍊藥矚虛幌,汎瑟臥遙帷。」(藥を鍊りて虛幌を矚【み】,瑟を汎して遙帷に臥す。)“我は窓のほとりで薬を練ったり、俗界から離れた寝牀の周りのとばりの中に横たわって瑟琴を掻き鳴らす”

江淹《王徵君〈養疾〉微》《昭明文選·卷三十一》

窈藹瀟湘空、翠澹無滋。

寂歷百草晦、欻吸鵾雞悲。

清陰往來遠、月華散前墀。

鍊藥矚虛幌、汎瑟臥遙帷。

水碧驗未黷、金膏靈詎緇。

北渚有帝子、蕩瀁不可期。

悵然山中暮、懷痾屬此詩。

 

知君獨坐青軒下,此時結念同所懷。

そのとき、貴殿は、さだめて青軒の下に獨坐したことであろうが、たがいの胸の内は同心結であって、思うところは互いに同じことを考えているのである。

青軒 仙界の様子をいう。南齊虞炎《詠簾詩》「青軒明月時,紫殿秋風日。」とある。

結念  南朝宋謝靈運《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》詩:結念屬霄漢, 孤景莫與諼。(念いを結び霽漢【しょうかん】に属【つ】け、弧景【こけい】与【とも】に 諼【わす】るる莫し。)

思いを胸に結ぶ、すると空が晴れ渡ってきて、この気に入っている風景は忘れることはないようにしたい。

*故郷始寧への思い、隠棲したいと思うこと。半官半隠の生活。○霽漢 (天空)漢の国の空が晴れ渡る ○諼 うつわる、 わすれる、 かまびすしい、 いつわる。

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》門在永嘉 謝霊運<30>#2 詩集 405  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1032

 

我閉南樓看道書,幽簾清寂在仙居。

我は、今しも、この早秋の清々しさに乗じて、南楼の窓扉を閉じて、道教の書籍を読みふけって、簾影静かに垂れて、四隣清寂であり、これこそ、仙居となるのである。

 

曾無好事來相訪,賴爾高文一起予。

ただ、それでは、好事者の來訪することもないということであり、寂しくてたまらないから、貴殿が名文を寄せてくれれば、予の詩興を呼び起こしてくれるのでよろしく頼む。

好事來相訪 《漢書》:揚雄家素貧,嗜酒,人希至其門,時有好事者載酒餚從遊學。

高文 江淹詩:文選·江淹·雜體詩三十首之四「高文一何綺、小儒安足為。」(高文は一に何ず綺しき、小儒は安ぞ為るに足らん。)“諸士の作る高尚な文章は本当にまあ美しく立派で、小儒の輩などはどうしてそういうものを為すことができようか”

雜體詩三十首之四《魏文帝〈遊宴〉曹丕》

置酒坐飛閣、逍遙臨華池。

神飆自遠至、左右芙蓉披。

綠竹夾清水、秋蘭被幽涯。

月出照園中、冠珮相追隨。

客從南楚來、為我吹參差。

淵魚猶伏浦、聽者未云疲。

高文一何綺、小儒安足為。

肅肅廣殿陰、雀聲愁北林。

眾賓還城邑、何以慰吾心。

300-#1 《巻十八04早秋單父南樓酬竇公衡》#1Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <300-#1> Ⅰ李白詩1601 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6553

李白  早秋單父南樓酬竇公衡   

白露見日滅,紅顏隨霜凋。別君若俯仰,春芳辭秋條。

泰山嵯峨夏雲在,疑是白波漲東海。
(早秋七月のころ、單父の南樓のおいて、竇公衡に酬い答えて作ったもの)白露は日が登ればやがて消えていくものだし、紅顔は霜に随って凋みゆくものである。貴殿と別れてから、歳月頻りに過ぎ去り、試みに俯仰するうち、春の花も香りも散り去り、秋の枝となり、時序匇匇とうつりかわっていったのである。その間、夏のころには、泰山嵯峨として、奇峰を為せる夏雲がとどまって動かずにあった、さながら白波が東海に漲っているのかと思われるようであった。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七八              文體:    雜言古詩

詩題:    早秋單父南樓酬竇公衡

作地點:              目前尚無資料

及地點:單父 (河南道 宋州 單父)    

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳        

交遊人物/地點:竇公衡      當地交遊(河南道 宋州 單父)

 

 

早秋單父南樓酬竇公衡

(早秋七月のころ、單父の南樓のおいて、竇公衡に酬い答えて作ったもの)

白露見日滅,紅顏隨霜凋。

白露は日が登ればやがて消えていくものだし、紅顔は霜に随って凋みゆくものである。

別君若俯仰,春芳辭秋條。

貴殿と別れてから、歳月頻りに過ぎ去り、試みに俯仰するうち、春の花も香りも散り去り、秋の枝となり、時序匇匇とうつりかわっていったのである。

泰山嵯峨夏雲在,疑是白波漲東海。

その間、夏のころには、泰山嵯峨として、奇峰を為せる夏雲がとどまって動かずにあった、さながら白波が東海に漲っているのかと思われるようであった。

散為飛雨川上來,遙帷卻卷清浮埃。

知君獨坐青軒下,此時結念同所懷。

我閉南樓看道書,幽簾清寂在仙居。

曾無好事來相訪,賴爾高文一起予。

 

(早秋 單父南樓にて竇公衡に酬ゆ)

白露 日を見て滅し,紅顏 霜に隨って凋む。

君に別れて 俯仰するが若く,春芳 秋條を辭す。

泰山 嵯峨として 夏雲在り,疑うらくは是れ白波の東海に漲るかと。

 

散じて 飛雨と為って川上に來り,遙帷 卻って卷いて 浮埃を清む。

知る君が 獨坐す 青軒の下,此の時 結念 懷う所を同じゅうす。

我 南樓を閉じて道書を看る,幽簾 清寂 仙居に在り。

曾て好事の來って相い訪う無し,爾の高文に賴って 一び予を起せ。

 

 

『早秋單父南樓酬竇公衡』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

早秋單父南樓酬竇公衡

白露見日滅,紅顏隨霜凋。

別君若俯仰,春芳辭秋條。

泰山嵯峨夏雲在,疑是白波漲東海。

(下し文)
(早秋 單父南樓にて竇公衡に酬ゆ)

白露 日を見て滅し,紅顏 霜に隨って凋む。

君に別れて 俯仰するが若く,春芳 秋條を辭す。

泰山 嵯峨として 夏雲在り,疑うらくは是れ白波の東海に漲るかと。

(現代語訳)
(早秋七月のころ、單父の南樓のおいて、竇公衡に酬い答えて作ったもの)

白露は日が登ればやがて消えていくものだし、紅顔は霜に随って凋みゆくものである。

貴殿と別れてから、歳月頻りに過ぎ去り、試みに俯仰するうち、春の花も香りも散り去り、秋の枝となり、時序匇匇とうつりかわっていったのである。

その間、夏のころには、泰山嵯峨として、奇峰を為せる夏雲がとどまって動かずにあった、さながら白波が東海に漲っているのかと思われるようであった。

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00
(訳注)

早秋單父南樓酬竇公衡

(早秋七月のころ、單父の南樓のおいて、竇公衡に酬い答えて作ったもの)741年開元二十九年41歳の作。

單父 (河南道 宋州 單父) 単県(ぜんけん)は中華人民共和国山東省菏沢市に位置する県。古名を単父(ぜんほ)という。

竇公衡 

《太平廣記》「崔圓,開元二十三年應將帥舉科,又於河南府充貢進士。其日正於福唐觀試,遇敕下,便於試場中喚將拜執戟參謀河西軍事。應制時,與越州剡縣尉竇公衡同場並坐,親見其事。公衡之名位,略見於此。」

【解説】

初句四句は歳月の匇匇たることをいい、泰山嵯峨の六句は、彼方の夏の景色、我閉南樓ノ四句は、此処の早秋の景色を言い、結句二句において、酬答の意を寓したものである。

卷十五    19          單父東樓秋夜送族弟沈之秦 時凝弟在席

卷十五    20          送族弟凝至晏() 單父三十里

卷十六    23          送族弟單父主簿凝攝宋城主簿至郭南月橋

巻十八    4            早秋單父南樓酬竇公衡

巻十九    6            秋獵孟諸夜歸置酒單父東樓觀妓

巻二十    4            登單父陶少府半月台

登單父陶少府半月台 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白191

單父東樓秋夜送族弟沈之秦  李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白192

 

白露見日滅,紅顏隨霜凋。

白露は日が登ればやがて消えていくものだし、紅顔は霜に随って凋みゆくものである。

白露見日滅 春の日は長くなってゆくさまを表現した句。

紅顏隨霜凋 顏にしわが増えてゆき、髪に白髪が増えてゆく。

 

別君若俯仰,春芳辭秋條。

貴殿と別れてから、歳月頻りに過ぎ去り、試みに俯仰するうち、春の花も香りも散り去り、秋の枝となり、時序匇匇とうつりかわっていったのである。

春芳辭秋條 梁簡文帝《長沙宣武王碑》:“秋條下葉,春卉含芳。”(秋條 葉を下し,春卉芳を含む。)に基づく。

 

泰山嵯峨夏雲在,疑是白波漲東海。

その間、夏のころには、泰山嵯峨として、奇峰を為せる夏雲がとどまって動かずにあった、さながら白波が東海に漲っているのかと思われるようであった。

泰山 山東省泰安市にある山。高さは1,545m 封禅の儀式が行われる山として名高い。 道教の聖地である五つの山のひとつ。五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも尊いとされる。ユネスコの世界遺産に登録されている。

嵯峨 山などの高く険しいさま。
汜水関などの地図 

299 《卷十六04魯郡堯祠送張十四遊河北》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <299> Ⅰ李白詩1587 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6483

李白  魯郡堯祠送張十四遊河北   

猛虎伏尺草,雖藏難蔽身。有如張公子,骯髒在風塵。

豈無橫腰劍,屈彼淮陰人。擊筑向北燕,燕歌易水濱。

歸來泰山上,當與爾為鄰。

(魯郡の堯祠に於て、張某が河北に遊ぶというので送って作った)

猛虎が、髙さ一尺ほどの草叢に伏して居るとしたら、どんなにかくれて居る積りであつても、その身を蔽いかくすことは出来ない、というように、士の此世に在るも、正にこれと同じように、全然韜晦しようとしでも、やはり、人の目につき、毀誉褒貶、必ず之にともなうものである。成帝と張放の仲のようなわが張公子の如き交友は、天晴の才能あれども、兎角不遇で、風塵の中に躊躇している。もとより、腰下には宝刀を佩びて居るから、失敬にも人を軽侮する彼の淮陰の少年輩をつかまえて、目に物見せてくれることのできないはずもない。しかし、そんな事はせず、これより、筑を撃ちつつ、北燕地方に向うとのことで、易水の辺に於ては、古の荊軻を弔い、燕歌「易水歌」を唱へで、感慨に堪へぬことであろう。かくて、帰ってこられたなら泰山に登ろうではないか、そうして、この魯郡の地に再び歸ってきたならば、汝と隣同士、に住んで、成帝と張放のように日夕追随、たがいに慰め合うことにしよう。

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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    魯郡堯祠送張十四遊河北

作地點:              目前尚無資料

及地點:              堯祠 (河南道 兗州 瑕丘)    

兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡        

河北道 (河北道 無第二級行政層級 無第三級行政層級) 別名:河北        

淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)   

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳        

交遊人物/地點:張謂          當地交遊(河南道 兗州 瑕丘)

 

 

魯郡堯祠送張十四遊河北

(魯郡の堯祠に於て、張某が河北に遊ぶというので送って作った)

猛虎伏尺草,雖藏難蔽身。

猛虎が、髙さ一尺ほどの草叢に伏して居るとしたら、どんなにかくれて居る積りであつても、その身を蔽いかくすことは出来ない、というように、士の此世に在るも、正にこれと同じように、全然韜晦しようとしでも、やはり、人の目につき、毀誉褒貶、必ず之にともなうものである。

有如張公子,骯髒在風塵。

成帝と張放の仲のようなわが張公子の如き交友は、天晴の才能あれども、兎角不遇で、風塵の中に躊躇している。

豈無橫腰劍,屈彼淮陰人。

もとより、腰下には宝刀を佩びて居るから、失敬にも人を軽侮する彼の淮陰の少年輩をつかまえて、目に物見せてくれることのできないはずもない。

擊筑向北燕,燕歌易水濱。

しかし、そんな事はせず、これより、筑を撃ちつつ、北燕地方に向うとのことで、易水の辺に於ては、古の荊軻を弔い、燕歌「易水歌」を唱へで、感慨に堪へぬことであろう。

歸來泰山上,當與爾為鄰。

かくて、帰ってこられたなら泰山に登ろうではないか、そうして、この魯郡の地に再び歸ってきたならば、汝と隣同士、に住んで、成帝と張放のように日夕追随、たがいに慰め合うことにしよう。

 

(魯郡 堯祠にて 張十四の河北に遊ぶを送る)

猛虎 尺草に伏し,藏れると雖も身を蔽い難し。

張公子の如く有り,骯髒 風塵に在り。

豈に橫腰の劍、彼の淮陰の人に屈する無らんや。

筑を擊って 北燕に向い,燕歌 易水の濱。

歸り來って 泰山の上,當に爾と與に鄰と為すべし。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->李白の足跡0000
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『魯郡堯祠送張十四遊河北』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

魯郡堯祠送張十四遊河北

猛虎伏尺草,雖藏難蔽身。

有如張公子,骯髒在風塵。

豈無橫腰劍,屈彼淮陰人。

擊筑向北燕,燕歌易水濱。

歸來泰山上,當與爾為鄰。

(下し文)
(魯郡 堯祠にて 張十四の河北に遊ぶを送る)

猛虎 尺草に伏し,藏れると雖も身を蔽い難し。

張公子の如く有り,骯髒 風塵に在り。

豈に橫腰の劍、彼の淮陰の人に屈する無らんや。

筑を擊って 北燕に向い,燕歌 易水の濱。

歸り來って 泰山の上,當に爾と與に鄰と為すべし。

(現代語訳)
(魯郡の堯祠に於て、張某が河北に遊ぶというので送って作った)

猛虎が、髙さ一尺ほどの草叢に伏して居るとしたら、どんなにかくれて居る積りであつても、その身を蔽いかくすことは出来ない、というように、士の此世に在るも、正にこれと同じように、全然韜晦しようとしでも、やはり、人の目につき、毀誉褒貶、必ず之にともなうものである。

成帝と張放の仲のようなわが張公子の如き交友は、天晴の才能あれども、兎角不遇で、風塵の中に躊躇している。

もとより、腰下には宝刀を佩びて居るから、失敬にも人を軽侮する彼の淮陰の少年輩をつかまえて、目に物見せてくれることのできないはずもない。

しかし、そんな事はせず、これより、筑を撃ちつつ、北燕地方に向うとのことで、易水の辺に於ては、古の荊軻を弔い、燕歌「易水歌」を唱へで、感慨に堪へぬことであろう。

かくて、帰ってこられたなら泰山に登ろうではないか、そうして、この魯郡の地に再び歸ってきたならば、汝と隣同士、に住んで、成帝と張放のように日夕追随、たがいに慰め合うことにしよう。


(訳注)

魯郡堯祠送張十四遊河北

(魯郡の堯祠に於て、張某が河北に遊ぶというので送って作った)

この詩は、例の魯郡の堯祠に於て、張某の河北に遊ぶを送って作ったのである。

《卷十五18送薛九被讒去魯》、《卷十六01送魯郡劉長史遷弘農長史》と同時期の作品である。

唐書地理志、「河北道は、蓋し古の幽・冀の二州の境、孟・懐・魏・博・相・衛・貝・渲・刑・惠・鎮・冀・深・趙・滄・景・徳・定・易・幽・琢・瀛・莫・平・嬀・薊・營の二十九州あり」と見える。

河北道是唐朝的一个道,所州府包括:州、相州、魏州、博州、州、州、邢州、州、冀州、德州、棣州、州、瀛州、深州、莫州、定州、恒州、易州、幽州、嬀州、檀州、州、平州、州、安

張十四の名字は不詳。

297-#1 《卷十五18送薛九被讒去魯》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297> Ⅰ李白詩1585 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6473

298 《卷十六01 送魯郡劉長史遷弘農長史》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <298> Ⅰ李白詩1586 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6478

 

猛虎伏尺草,雖藏難蔽身。

猛虎が、髙さ一尺ほどの草叢に伏して居るとしたら、どんなにかくれて居る積りであつても、その身を蔽いかくすことは出来ない、というように、士の此世に在るも、正にこれと同じように、全然韜晦しようとしでも、やはり、人の目につき、毀誉褒貶、必ず之にともなうものである。

尺草 髙さ一尺ほどの草叢。

 

有如張公子,骯髒在風塵。

成帝と張放の仲のようなわが張公子の如き交友は、天晴の才能あれども、兎角不遇で、風塵の中に躊躇している。

張公子 同姓であることで、漢の張放をもじっていう。

張放(ちょう ほう、? - 紀元前7年)は、中国の前漢時代の人物。宣帝の時の将軍張安世の玄孫にあたり、漢の成帝の従兄弟である。

張放は富平侯張臨と元帝の妹である敬武公主から生まれ、父の死により富平侯を受け継ぐ。

成帝に寵愛され、成帝の許皇后の妹を娶り、成帝から屋敷や莫大な下賜を賜る。侍中・中郎将となり、屯兵を監督し、将軍のように幕府を開くことを許された。成帝と寝起きを共にすることもあり、成帝が身分を隠してお忍びで城外へ出る際には「日夕追随」常に付き従った(なお、『漢書』趙皇后伝によると成帝はお忍びの際に富平侯家の人間「張公子」と称している)。

骯髒 ・()とは、(1) 汚い,汚れた.【反】干(2) (倫理的に)汚い,卑劣な.・髒の意味は、(衣服・身体・家屋・庭・食べ物などが)汚い,汚れている,垢じみている,不潔である.

・骯髒戰爭: 汚い戦争。社會不安、暴力或政治顛覆等行為,所做出的回應,是一場由國家所支持的戰爭,發動者以威脅、恐嚇的手段來要求國家安定。

 

豈無橫腰劍,屈彼淮陰人。

もとより、腰下には宝刀を佩びて居るから、失敬にも人を軽侮する彼の淮陰の少年輩をつかまえて、目に物見せてくれることのできないはずもない。

淮陰人 《漢書韓信傳》:「韓信,淮陰人也。」《史記.淮陰侯列傳》「淮陰侯韓信,是淮陰人。」で始まる淮陰出身の韓信がその淮陰で失敬、軽侮されたことをいう。淮陰(現:江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけのこと。御礼なんて望んでいない」と語ったという。

ある日のこと、韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。

 

擊筑向北燕,燕歌易水濱。

しかし、そんな事はせず、これより、筑を撃ちつつ、北燕地方に向うとのことで、易水の辺に於ては、古の荊軻を弔ひ、燕歌「易水歌」を唱へで、感慨に堪へぬことであろう。

易水 北京の南西を流れる川で、白河に合流する。詩経をはじめ、古代詩でよくみかける。燕 荊軻《易水歌》「風蕭蕭兮易水寒,壯士一去兮不復還。」

 

歸來泰山上,當與爾為鄰。

かくて、帰ってこられたなら泰山に登ろうではないか、そうして、この魯郡の地に再び歸ってきたならば、汝と隣同士、に住んで、成帝と張放のように日夕追随、たがいに慰め合うことにしよう。

泰山 山東省泰安市にある山。高さは1,545m 封禅の儀式が行われる山として名高い。 道教の聖地である五つの山のひとつ。五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも尊いとされる。

當與爾為鄰 陶潜 《示周續之祖企謝景夷三郎時三人共在城北講禮校書詩》「老夫有所愛,思與爾為鄰。願言謝諸子,從我潁水濱。
隋末群雄割拠図00 

298-#3 《卷十六03送魯郡劉長史遷弘農長史》#3 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <298-#3> Ⅰ李白詩1599 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6543

李白  送魯郡劉長史遷弘農長史-#3  

魯縞如白煙,五縑不成束。臨行贈貧交,一尺重山嶽。

相國齊晏子,贈行不及言。託陰當樹李,忘憂當樹萱。

他日見張祿,綈袍懷舊恩。
そのうえは、貴殿が窮迫を憐れみ、置き土産として、魯國に産する白絹を贈られたが、その絹は、いかにも精緻をきわめて、さながら白煙の如く、五匹では数こそ揃わぬが、ここにおいて壮行に当たって、貧交の中で贈るには、大したものでも、一尺ごとに、誠心が籠っていて、その徳は、山岳よりも重い。それは、むかし、昔の晏子の云つたとおり、人の行を贈るには、言葉を以てするのが第一であるから、私はここに、晏子に倣うべきで、君に餞するに「言を以てしよう」と思う。もし木陰に身を寄せようと欲せば、李樹を植うべく、もし憂いを忘れむと欲せば、萱草を植えたが善い。つまり、人の徳あるものにまじわれば、以て庇蔭すべく、人の才華あるものに変れば、以て欣賞することが出来るので、何につけても、交わりを選ぶのが第一である。私は、いつまでも貧賎に甘んじて居るものでないので、かの范睢が秦に入って張禄と称し、やがて相位に登ったと同じく、いつかは、相当に立身しないものでもないから、その時は、かの綈袍に比すべき君の旧恩を憶って必ずこれに報いるであろう。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送魯郡劉長史遷弘農長史

作地點:              目前尚無資料

及地點:兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡         

虢州 (河東道 虢州 虢州) 別名:弘農郡        

鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)      

交遊人物/地點:劉長史      當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

仲尼且不敬,況乃尋常人。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

閉門木葉下,始覺秋非春。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

-#2

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。

軒后上天時,攀龍遺小臣。

しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。

及此留惠愛,庶幾風化淳。

依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。貴殿は、賢人の存在を認めない魯郡から、黄帝の遺跡たる弘農に転任されたることだから、まことにめでたい。

-#3

魯縞如白煙,五縑不成束。

そのうえは、貴殿が窮迫を憐れみ、置き土産として、魯國に産する白絹を贈られたが、その絹は、いかにも精緻をきわめて、さながら白煙の如く、五匹では数こそ揃わぬが、

臨行贈貧交,一尺重山嶽。

ここにおいて壮行に当たって、貧交の中で贈るには、大したものでも、一尺ごとに、誠心が籠っていて、その徳は、山岳よりも重い。

相國齊晏子,贈行不及言。

それは、むかし、昔の晏子の云つたとおり、人の行を贈るには、言葉を以てするのが第一であるから、私はここに、晏子に倣うべきで、君に餞するに「言を以てしよう」と思う。

託陰當樹李,忘憂當樹萱。

もし木陰に身を寄せようと欲せば、李樹を植うべく、もし憂いを忘れむと欲せば、萱草を植えたが善い。つまり、人の徳あるものにまじわれば、以て庇蔭すべく、人の才華あるものに変れば、以て欣賞することが出来るので、何につけても、交わりを選ぶのが第一である。

他日見張祿,綈袍懷舊恩。

私は、いつまでも貧賎に甘んじて居るものでないので、かの范睢が秦に入って張禄と称し、やがて相位に登ったと同じく、いつかは、相当に立身しないものでもないから、その時は、かの綈袍に比すべき君の旧恩を憶って必ずこれに報いるであろう。

(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1

魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。

仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。

白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。

門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。
-#2

聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。

寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。

軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。

此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。

-#3

魯縞は白煙の如く,五縑 束を成さず。

行に臨んで貧交に贈る,一尺 山嶽よりも重し。

相國 齊の晏子,行を贈って言に及ばず。

陰を託する當に李を樹うべく,憂を忘るる當に萱を樹うべし。

他日 張祿を見,綈袍【ていほう】舊恩を懷わん。

 

洛陽 函谷関 嵩山005 

『送魯郡劉長史遷弘農長史』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

-
#3

魯縞如白煙,五縑不成束。

臨行贈貧交,一尺重山嶽。

相國齊晏子,贈行不及言。

託陰當樹李,忘憂當樹萱。

他日見張祿,綈袍懷舊恩。

(下し文)
-
#3

魯縞は白煙の如く,五縑 束を成さず。

行に臨んで貧交に贈る,一尺 山嶽よりも重し。

相國 齊の晏子,行を贈って言に及ばず。

陰を託する當に李を樹うべく,憂を忘るる當に萱を樹うべし。

他日 張祿を見,綈袍【ていほう】舊恩を懷わん。

(現代語訳)
-#3

そのうえは、貴殿が窮迫を憐れみ、置き土産として、魯國に産する白絹を贈られたが、その絹は、いかにも精緻をきわめて、さながら白煙の如く、五匹では数こそ揃わぬが、

ここにおいて壮行に当たって、貧交の中で贈るには、大したものでも、一尺ごとに、誠心が籠っていて、その徳は、山岳よりも重い。

それは、むかし、昔の晏子の云つたとおり、人の行を贈るには、言葉を以てするのが第一であるから、私はここに、晏子に倣うべきで、君に餞するに「言を以てしよう」と思う。

もし木陰に身を寄せようと欲せば、李樹を植うべく、もし憂いを忘れむと欲せば、萱草を植えたが善い。つまり、人の徳あるものにまじわれば、以て庇蔭すべく、人の才華あるものに変れば、以て欣賞することが出来るので、何につけても、交わりを選ぶのが第一である。

私は、いつまでも貧賎に甘んじて居るものでないので、かの范睢が秦に入って張禄と称し、やがて相位に登ったと同じく、いつかは、相当に立身しないものでもないから、その時は、かの綈袍に比すべき君の旧恩を憶って必ずこれに報いるであろう。

汜水関などの地図
(訳注) -#3

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)

魯郡は、兗州弘農郡の虢州で、河南道に属し、もと上州である。元来、上州の刺史別駕の下には、長史一人あって、從五品である。長史といえば、今の縣参事官くらすということであろう。劉は、名字ともに不詳。この詩は、劉某が魯郡の長史から、弘農の長史に栄転したことに因って、その行を送るが爲に作ったのである。魯國において、この地方特有の考え方で正当な評価を受けていなかったが、弘農の長史に栄転であるから、評価も変わるであろう。

起首の八句は、劉某が魯郡に於で志を得ざることを写し、次の八句は、弘農に遷れば、大に得意なるべきを叙し、魯鎬の四句は、別に臨んで物を贈られたるを謝し、以下六句は、ここに言を贈るということに及び、以て牧結としたのである。

 

魯縞如白煙,五縑不成束。

そのうえは、貴殿が窮迫を憐れみ、置き土産として、魯國に産する白絹を贈られたが、その絹は、いかにも精緻をきわめて、さながら白煙の如く、五匹では数こそ揃わぬが、

魯縞 魯国に産する白絹。

五縑 良品質の固織の絹織物であっても、一束に満たない五匹であるから数がそろわないという意。

・縑 「かたお(固織)り」目を緻密(ちみつ)に固く織った平織りの絹布。かとりぎぬ。〉細緻的絲絹。淮南子.齊俗:「縑之性黃,染之以丹則赤。」

 

臨行贈貧交,一尺重山嶽。

ここにおいて壮行に当たって、貧交の中で贈るには、大したものでも、一尺ごとに、誠心が籠っていて、その徳は、山岳よりも重い。

貧交 貧賤時交往的朋友。 《史記貨殖列傳》「 陶朱公十九年之中三致千金, 再分散與貧交、疏昆弟。」

 

相國齊晏子,贈行不及言。

それは、むかし、昔の晏子の云つたとおり、人の行を贈るには、言葉を以てするのが第一であるから、私はここに、晏子に倣うべきで、君に餞するに「言を以てしよう」と思う。

晏子 氏は晏、諱は嬰、字は仲、諡は平。莱の夷維の人。父は晏弱(晏桓子)。子は晏圉(あんぎょ)。妻の名及び生まれは史書に記載なし。霊公、荘公光、景公の3代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った。名宰相として評価が高く、晏平仲、もしくは晏子と尊称される。『晏子春秋』(あんししゅんじゅう)は、中国春秋時代の斉において、霊公 、荘公、景公の3代に仕え宰相となった、晏嬰に関する言行録をまとめたものである。内篇6巻及び外篇2巻の計8巻からなり、全215章に分かれる[1]。中国山東省における銀雀山漢簡の発見により、『晏子春秋』の成書年代は、戦国時代から秦朝末期の間と見られている。

《晏子春秋》「曾子、将に行かんとす,晏子、之を送って曰く:“君子は人にるに以ってするも,言を以ってするに若かず。」(晏子春秋)

 

託陰當樹李,忘憂當樹萱。

もし木陰に身を寄せようと欲せば、李樹を植うべく、もし憂いを忘れむと欲せば、萱草を植えたが善い。つまり、人の徳あるものにまじわれば、以て庇蔭すべく、人の才華あるものに変れば、以て欣賞することが出来るので、何につけても、交わりを選ぶのが第一である。

樹李 桃李を樹うるもの、夏は休息するを得、秋にその実を得る。

樹萱 《詩経「国風・衛風・伯兮」》「焉得諼草 言樹之背」(焉んぞ諼草を得て 言【ここ】に之を背に樹ゑん。)毛 傳「諼草, 令人忘憂。」(諼草は人をして、憂いをあわれしむ。)とある

 

他日見張祿,綈袍懷舊恩。

私は、いつまでも貧賎に甘んじて居るものでないので、かの范睢が秦に入って張禄と称し、やがて相位に登ったと同じく、いつかは、相当に立身しないものでもないから、その時は、かの綈袍に比すべき君の旧恩を憶って必ずこれに報いるであろう。

張祿 史記 《史記》卷七十九〈范睢蔡澤列傳·范睢〉

(范睢蔡澤列傳·范睢)

范睢既相秦,秦號曰張祿,而魏不知,以為范睢已死久矣。

范睢がすでに秦を補佐し、秦は号して張禄といった。しこうして、魏は知らず、范睢はすでに死んで久しいと思った。

魏聞秦且東伐韓、魏,魏使須賈於秦。

魏は秦がまさに東に、韓、魏を討たんとしていると聞き、魏は須賈をして秦に行かせた。

范睢聞之,為微行,敝衣閒步之邸,見須賈。

范睢はこれを聞き、そまつな身なりをして行こうと思い、やぶれた衣服で人目をしのんで歩き邸に行き、須賈を見た。

須賈見之而驚曰:「范叔固無恙乎!」

須賈はこれを見て驚いて曰く、「范叔(范睢)はまことに無事だったのか」と。

范睢曰:「然。」須賈笑曰:「范叔有於秦邪?」曰:「不也。睢前日得過於魏相,故亡逃至此,安敢乎!」

范睢曰く、「然り」と。須賈は笑って曰く、「范叔(范睢)は秦で遊説しているのか?」と。(范睢)曰く、「していません。わたしは、以前の日、魏相魏斉に於いて過(あやま)ちを得て、故に逃亡してここに至ったので、どうして敢(あ)えて遊説しましょうか」と。

須賈見之而驚曰:「范叔固無恙乎!」

須賈はこれを見て驚いて曰く、「范叔(范睢)はまことに無事だったのか」と。

范睢曰:「然。」須賈笑曰:「范叔有於秦邪?」曰:「不也。睢前日得過於魏相,故亡逃至此,安敢乎!」

范睢曰く、「然り」と。須賈は笑って曰く、「范叔(范睢)は秦で遊説しているのか?」と。(范睢)曰く、「していません。わたしは、以前の日、魏相魏斉に於いて過(あやま)ちを得て、故に逃亡してここに至ったので、どうして敢(あ)えて遊説しましょうか」と。

 

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李白  送魯郡劉長史遷弘農長史-#2  

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

軒后上天時,攀龍遺小臣。及此留惠愛,庶幾風化淳。
承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送魯郡劉長史遷弘農長史

作地點:              目前尚無資料

及地點:兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡         

虢州 (河東道 虢州 虢州) 別名:弘農郡        

鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)      

交遊人物/地點:劉長史      當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

仲尼且不敬,況乃尋常人。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

閉門木葉下,始覺秋非春。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

-#2

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。

軒后上天時,攀龍遺小臣。

しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。

及此留惠愛,庶幾風化淳。

依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。

-#3

魯縞如白煙,五縑不成束。

臨行贈貧交,一尺重山嶽。

相國齊晏子,贈行不及言。

託陰當樹李,忘憂當樹萱。

他日見張祿,綈袍懷舊恩。

 

(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1

魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。

仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。

白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。

門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。
-#2

聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。

寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。

軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。

此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。

-#3

魯縞は白煙の如く,五縑 束を成さず。

行に臨んで貧交に贈る,一尺 山嶽よりも重し。

相國 齊の晏子,行を贈って言に及ばず。

陰を託する當に李を樹うべく,憂を忘るる當に萱を樹うべし。

他日 張祿を見,綈袍【ていほう】舊恩を懷わん。

 

汜水関などの地図 

『送魯郡劉長史遷弘農長史』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

-
#2

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

軒后上天時,攀龍遺小臣。

及此留惠愛,庶幾風化淳。

(下し文)
-
#2

聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。

寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。

軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。

此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。


(現代語訳)
-#2

承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。

しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。

しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。

依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。


(訳注) -#2

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)

魯郡は、兗州弘農郡の虢州で、河南道に属し、もと上州である。元来、上州の刺史別駕の下には、長史一人あって、從五品である。長史といえば、今の縣参事官くらすということであろう。劉は、名字ともに不詳。この詩は、劉某が魯郡の長史から、弘農の長史に栄転したことに因って、その行を送るが爲に作ったのである。魯國において、この地方特有の考え方で正当な評価を受けていなかったが、弘農の長史に栄転であるから、評価も変わるであろう。

起首の八句は、劉某が魯郡に於で志を得ざることを写し、次の八句は、弘農に遷れば、大に得意なるべきを叙し、魯鎬の四句は、別に臨んで物を贈られたるを謝し、以下六句は、ここに言を贈るということに及び、以て牧結としたのである。

 

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。

鼎湖鄰 鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    黄帝は、首山の胴を採掘して荊山の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、龍が出現した。あごひげをたらして下って、黄帝を天上に迎えに来た。黄帝は、こうして龍にまたがり昇ることになった。群臣や後宮の女官で従うことを許された者は、わずか七十人あまりだった。小臣はみな昇ることを許されなかった。彼らは天に昇りたくて龍のひげをにぎってはなさなかった。そのため龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた。小臣たちはその弓を抱いて泣いた。後世、その場所を鼎湖【ていこ】と名づけ、その弓を烏号【うごう】といった。李白《巻1809答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄》「鼎湖夢淥水,龍駕空茫然。」

149-2 《答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄 (2)Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<149-2> Ⅰ李白詩1343 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5263

 

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。

寶鏡匣蒼蘚 《太平廣記》卷四百六十三〈禽鳥四秦吉了〉「昔者吾聞黃帝鑄十五鏡。其第一橫徑一尺五寸,法滿月之數也。」とある。

丹經埋素塵 抱朴子 「黃帝陟王屋而受丹經,即此事也。」

 

軒后上天時,攀龍遺小臣。

しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。

軒后上天 黄帝の別称、公孫軒轅。姓は公孫、名は軒轅。姓は姫姓とも姒氏とも言われ、また帝鴻氏とも呼ばれる。黄帝の友人・無為子および臣下のもので従って昇天したもの七十二人、従えなかった他の小臣は、落ちた竜の髯と帝の弓を抱いて号泣したという(劉向『列仙伝』など)。 いずれにせよ、黄帝の身体は竜とともに天に昇ってしまい、今でも人民政府が祭っている黄帝の陵墓は、黄帝の衣や冠だけが収められた、いわゆる「衣冠塚」だということである。

 

及此留惠愛,庶幾風化淳。

依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。

 

洛陽 函谷関 嵩山005 

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李白  送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。仲尼且不敬,況乃尋常人。

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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送魯郡劉長史遷弘農長史

作地點:              目前尚無資料

及地點:兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡         

虢州 (河東道 虢州 虢州) 別名:弘農郡        

鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)      

交遊人物/地點:劉長史      當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

仲尼且不敬,況乃尋常人。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

閉門木葉下,始覺秋非春。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

-#2

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

軒后上天時,攀龍遺小臣。

及此留惠愛,庶幾風化淳。

-#3

魯縞如白煙,五縑不成束。

臨行贈貧交,一尺重山嶽。

相國齊晏子,贈行不及言。

託陰當樹李,忘憂當樹萱。

他日見張祿,綈袍懷舊恩。

 

(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1

魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。

仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。

白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。

門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。
-#2

聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。

寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。

軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。

此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。

-#3

魯縞は白煙の如く,五縑 束を成さず。

行に臨んで貧交に贈る,一尺 山嶽よりも重し。

相國 齊の晏子,行を贈って言に及ばず。

陰を託する當に李を樹うべく,憂を忘るる當に萱を樹うべし。

他日 張祿を見,綈袍【ていほう】舊恩を懷わん。

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00洛陽 函谷関 嵩山005 

 

『送魯郡劉長史遷弘農長史』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。

仲尼且不敬,況乃尋常人。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

閉門木葉下,始覺秋非春。

(下し文)
(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1

魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。

仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。

白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。

門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。

(現代語訳)
(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。


(訳注)

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)

魯郡は、兗州弘農郡の虢州で、河南道に属し、もと上州である。元来、上州の刺史別駕の下には、長史一人あって、從五品である。長史といえば、今の縣参事官くらすということであろう。劉は、名字ともに不詳。この詩は、劉某が魯郡の長史から、弘農の長史に栄転したことに因って、その行を送るが爲に作ったのである。魯國において、この地方特有の考え方で正当な評価を受けていなかったが、弘農の長史に栄転であるから、評価も変わるであろう。

 

魯國一杯水,難容橫海鱗。

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

橫海鱗 大魚。「海いっぱいになるほど大きな魚。転じて大人物のこと。 《宋書謝晦傳》:偉哉橫海鱗, 壯矣垂天翼, 一旦失風水, 翻為螻蟻食。”

 

仲尼且不敬,況乃尋常人。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

○仲尼 氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。

 

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

 

閉門木葉下,始覺秋非春。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

閉門木葉下,始覺秋非春 『白氏文集』(白楽天)「燕子楼中霜月夜秋来只為一人長。 [燕子楼(えんしろう)中(ちゅう)の霜月(そうげつ)の夜秋来たって只一人のために長し。」

大江千里(23番) 『古今集』「月見ればちぢに物こそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」

 

《白氏文集卷十五・燕子樓》「滿窗明月滿簾霜、被冷燈殘払臥床、燕子樓中霜月夜、秋來只爲一人長。」(満窓の明月、満簾の霜 被は冷やかに、燈は残【うす】れて臥床を払ふ 燕子楼の中の霜月の夜よ 秋来たって只一人の為に長し)
李白の足跡0000 

297-#4 《卷十五18送薛九被讒去魯》#4 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#4> Ⅰ李白詩1596 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6528

李白  送薛九被讒去魯#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。沙丘無漂母,誰肯飯王孫。
ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

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年:41年開元二十九年41

卷別:    卷一七五              文體:    五言古詩

詩題:    送薛九被讒去魯

作地點:              目前尚無資料

及地點:瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門             

交遊人物/地點:薛九          當地交遊

 

 

送薛九被讒去魯 #1

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

#3

#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

信陵奪兵符,為用侯生言。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

春申一何愚,刎首為李園。

ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。

借問笑何人,笑人不好士。

そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

 

(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 眾口に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。
#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

 

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00 

『送薛九被讒去魯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

(下し文)
#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

(現代語訳)
#4

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。

そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。

君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。

顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。


(訳注) #4

送薛九被讒去魯

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

李白の足跡0000 

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。

四公子 平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は賓客を好み、それにより成果を上げた、という点において賢者であるとされる。

黃泉 春秋左氏傳「不及黃泉,無相見也。」とあり史記鄭世家集解引服虔注に「天玄地黃,泉在地中,故曰黃泉。」とし、「黃泉死所葬。」とみえる。

 

借問笑何人,笑人不好士。

そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。

 

爾去且勿諠,桃李竟何言。

君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。

桃李 徳のある人は、自分からは何も言わなくても、その徳を慕って人々が自然に集まってくることのたとえ。《「史記・李将軍列伝》「桃李成蹊」(「桃李不言、下自成蹊。」桃李もの言わざれど下自ら蹊を成す)

 

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

沙邱 瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門

沙邱城下寄杜甫 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白190

故郷の淮陰に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分を侮辱した少年、居候させていた亭長を探して呼び出した。まず、老女には使い切れないほどの大金を与えた。次いで、かつての少年には「あの時、殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登ることができたのだ」と言い、中尉(治安維持の役)の位につけた。亭長には「世話をするなら、最後までちゃんと面倒を見よ」と戒め、百銭を与えた。

 

宿五松山下荀媼家

令人慚漂母,三謝不能餐。

淮陰書懷寄王宗成

暝投淮陰宿,欣得漂母迎。斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

猛虎行

張良未遇韓信貧,劉項存亡在兩臣。暫到下邳受兵略,來投漂母作主人。

玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首之二

飢從漂母食,閑綴羽陵簡。

送薛九被讒去魯

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

 
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李白  送薛九被讒去魯》#3

毛公一挺劍,楚趙兩相存。孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

信陵奪兵符,為用侯生言。春申一何愚,刎首為李園。
#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

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年:41年開元二十九年41

卷別:    卷一七五              文體:    五言古詩

詩題:    送薛九被讒去魯

作地點:              目前尚無資料

及地點:瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門             

交遊人物/地點:薛九          當地交遊

 

 

送薛九被讒去魯 #1

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

#3

#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

信陵奪兵符,為用侯生言。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

春申一何愚,刎首為李園。

ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

 

(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 眾口に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。
#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

 

 

『送薛九被讒去魯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

信陵奪兵符,為用侯生言。

春申一何愚,刎首為李園。

(下し文)
#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。

(現代語訳)
#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。



(訳注)

送薛九被讒去魯

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

 

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

毛公 紀元前259年、秦軍は更に趙の首都・邯鄲を包囲した。平原君は救援を求めるために楚へと赴いた。この時に客の一人の毛遂と言う者が同行したいと名乗り出てきた(毛遂自薦)。平原君は「賢人と言うものは錐を嚢中(袋の中)に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものです。先生が私の所へ着てから3年になるが、評判を聞いていません。お留まり下さい。」と断った。毛遂はこれに「私は今日こそ嚢中に入りたいと思います。私を早くから嚢中に入れておけば、先どころか柄まで出ていましたよ。」と答え、この返答が気に入った平原君は毛遂を連れて行くことにした。これが「嚢中の錐」の原典である。

平原君は楚に入り、楚の考烈王に合従(同盟)を説いたが、楚は前に秦に侵攻されたこともあって脅威に思い中々まとまらない。毛遂は剣を握って考烈王の前に立ち、「白起は楚の首都を焼いて楚の祖先を辱めました。合従は趙のためではない、楚のためである」と説いて考烈王はこれを受け入れた。これに喜んだ平原君は帰国後に毛遂を上客とした。

毛遂自薦の故事は、戦国七雄時代(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)に、秦に攻め込まれ

た趙の王平原君が、楚に救いを求めに行った折り、趙の食客(特別な技術・才能をもち、

客として召し抱えられた人)の毛遂が自ら名乗り出て、楚王との交渉を成功させ、秦と

の戦いに勝利をおさめたという話です。(『史記』平原君虞卿列伝)

 

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

孟嘗習狡兔 ずるいウサギは巣を3つ持っているということで、)逃げ道をいくつもつくり用意周到である.

《戰國策》卷十一〈齊四·齊人有馮諼者〉“孟嘗君就國於薛,未至百里,民扶老攜幼,迎君道中。孟嘗君顧謂馮諼:「先生所為文市義者,乃今日見之。」馮諼曰;「狡兔有三窟,僅得免其死耳。今君有一窟,未得高枕而臥也。請為君復鑿二窟。」孟嘗君予車五十乘,金五百斤,西遊於梁,謂惠王曰:「齊放其大臣孟嘗君於諸侯,諸侯先迎之者,富而兵強。」於是,梁王虛上位,以故相為上將軍,遣使者,黃金千斤,車百乘,往聘孟嘗君。馮諼先驅誡孟嘗君曰:「千金,重幣也;百乘,顯使也。齊其聞之矣。」梁使三反,孟嘗君固辭不往也。齊王聞之,君臣恐懼,遣太傅黃金千斤,文車二駟,服劍一,封書謝孟嘗君曰:「寡人不祥,被於宗廟之祟,沉於諂諛之臣,開罪於君,寡人不足為也。願君顧先王之宗廟,姑反國統萬人乎?」馮諼誡孟嘗君曰:「願請先王之祭器,立宗廟於薛。」廟成,還報孟嘗君曰:「三窟已就,君姑高枕為樂矣。」”

 

信陵奪兵符,為用侯生言。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

奪兵符 王の臥内の兵符を盗む 侯嬴は信陵君に手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきだと説いた。国軍を動かすために、王の手元から軍に命令を下すための割符を魏王の寵愛する姫に盗ませ、将軍の晋鄙がこれを疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪うようを説いた。

信陵君は国境の城に出向き、割符を見せ、軍を率いていた晋鄙将軍に交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言ったため、やむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なお、これに前後して侯嬴は信陵君がいる方向へ、自らの命を手向けとするべく自刎した。

信陵君は、中国戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。三代昭王の末子。姓は姫、氏は魏、諱は無忌。戦国四君の一人。大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。

侯生言 侯嬴の謀。信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

 

春申一何愚,刎首為李園。

ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。

春申一何愚,刎首為李園 春申君の食客のひとりに李園がいた。李園の妹は美人でいずれ楚の考烈王に差し出して出世しようと企んでいた。春申君はその妹を寵愛していた。その後、李園の妹は春申君の子を身篭る。これに対して李園は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君に李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができると唆した。春申君はこの策を真に受けてしまい、考烈王に進言し李園の妹を献上した。李園の妹は王后となり、李園は高位に登った。

その後、李園は事の露見を恐れて春申君の命を狙うようになった。春申君の食客の朱英は危機感を覚え、李園の殺害を命じるよう春申君に言ったが、春申君は李園を軽く見ていたのでこれを相手にしなかった。身の危険を感じた朱英は間もなくそのまま逃亡した。

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李白  送薛九被讒去魯#2   

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。田家養老馬,窮士歸其門。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。卻斬美人首,三千還駿奔。
鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

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詩題:    送薛九被讒去魯

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及地點:瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門             

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送薛九被讒去魯 #1

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

#3

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

信陵奪兵符,為用侯生言。

春申一何愚,刎首為李園。

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

 

(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 眾口に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。

#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

 

 

『送薛九被讒去魯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

田家養老馬,窮士歸其門。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

卻斬美人首,三千還駿奔。

(下し文)
#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

(現代語訳)
鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。


(訳注) #2

送薛九被讒去魯

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

 

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

 

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

○田家養老馬 田子方の老馬を贖うという故事に基づく。《淮南子人間訓》 田子方見老馬於道, 喟然有志焉, 以問其御曰: '此何馬也?'其御曰: '此故公家畜也。 老罷而不為用, 出而鬻之。”田子方曰:“少而貪其力,老而棄其身,仁者弗為也。”束帛以贖之。疲武聞之,知所以歸心矣。

 

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

○蛾眉笑躄者 《史記》卷七十六〈平原君虞卿列傳平原君〉

平原君趙勝者趙之諸公子也

平原君趙勝という者は、趙の諸(もろもろ)の公子である。

諸子中勝最賢喜賓客賓客蓋至者數千人

諸(もろもろ)の子の中で趙勝が最も賢(かしこ)く、賓客(ひんきゃく)を喜び、賓客(ひんきゃく)のおおむね至った者は数千人。

平原君相趙惠文王及孝成王

平原君趙勝は趙恵文王及び趙孝成王を補佐し、

三去相三復位封於東武城

三たび宰相をやめて、三たび宰相に復位(ふくい)し、東武城に封ぜられた。

平原君家樓臨民家

平原君趙勝の家の高楼(こうろう)は民家に臨(のぞ)んでいた。

民家有躄者槃散行汲

民家にはいざりの者がおり、よろめきながら水を汲(く)みに行った。

平原君美人居樓上臨見大笑之

平原君の美人が高楼の上に居(お)り臨(のぞ)み見て、これを大いに笑った。

明日躄者至平原君門請曰

明くる日、いざりの者が平原君趙勝の門に至り、請(こ)うた、曰く、

臣聞君之喜士士不遠千里而至者

「わたしは君(平原君趙勝)の士を喜ぶことを聞きました。士の千里(せんり)を遠(とお)くとせずして至るのは、

以君能貴士而賤妾也

君を以って士を貴(たっと)び、妾(そばめ)を賤(いや)しむことができるからです。

臣不幸有罷癃之病而君之后宮臨而笑臣

わたしは不幸にも不治の病が有り、しこうして、君(平原君趙勝)の後宮が臨(のぞ)み見て、わたしを笑いました。

臣願得笑臣者頭平原君笑應曰諾

わたしは願わくはわたしを笑った者の頭(あたま)を得たい」と。平原君趙勝は笑って応(こた)えて曰く、「承知した」と。

躄者去平原君笑曰

いざりの者が去(さ)り、平原君趙勝は笑って曰く、

觀此豎子乃欲以一笑之故殺吾美人不亦甚乎

このような小僧(こぞう)をかんがみよ。すなわち一度笑った故(ゆえ)を以って吾(わ)が美人を殺そうと欲するは、なんと甚(はなは)だしいことではないか」と。

終不殺居餘賓客門下舍人稍稍引去者過半

とうとう殺さなかった。一年余りがたって、賓客、門下の舎人が稍稍(しょうしょう)と次第に引き去(さ)る者が半数を越えた。

平原君怪之曰勝所以待諸君者未嘗敢失禮

平原君趙勝はこれを不思議に思い、曰く、「わたしの諸君(しょくん)をもてなす方法は未(いま)だ嘗(かつ)て敢(あ)えて礼(れい)を失(うしな)ったことはない。

而去者何多也門下一人前對曰

しかし去(さ)った者がどうして多いのだろうか」と。門下(もんか)の一人が前に出て応(こた)えて曰く、

以君之不殺笑躄者以君為愛色而賤士士即去耳

「君(平原君趙勝)のいざりを笑った者を殺さなかったことを以って、君(平原君趙勝)を以って色(いろ)を愛(め)でて士を賤(いや)しむと為し、士はすなわち去(さ)っただけであります」と。

於是平原君乃斬笑躄者美人頭

ここに於いて平原君趙勝はすなわちいざりの者を笑った美人の頭を斬った。

自造門進躄者因謝焉其后門下乃復稍稍來

自(みずか)ら門にいたりいざりの者に進(すす)め、因(よ)りて謝(しゃ)した。その後、門下はすなわちふたたび稍稍(しょうしょう)と次第に来るようになった。

是時齊有孟嘗魏有信陵

この時、斉には孟嘗君田文がおり、魏には信陵君魏無忌がおり、

楚有春申故爭相傾以待士 

楚には春申君黄歇がおり、故(ゆえ)に互いに耳をそばだてて士をもてなすことを争(あらそ)った。

 

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

○駿奔 駿は大急ぎという意。奔は駆け込むさまをいう。大急ぎでその門に駆け込んできた。

296 《巻十四02別魯頌》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <296> Ⅰ李白詩1584 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6468

李白  別魯頌  

誰道泰山高,下卻魯連節。誰云秦軍眾,摧卻魯連舌。

獨立天地間,清風灑蘭雪。夫子還倜儻,攻文繼前烈。

錯落石上松,無為秋霜折。贈言鏤寶刀,千庶不滅。

(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七四              文體:    五言古詩

詩題:    別魯頌

作地點:              目前尚無資料

及地點:泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

 

 

別魯頌

(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

誰道泰山高,下卻魯連節。

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。

誰云秦軍眾,摧卻魯連舌。

誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。

獨立天地間,清風灑蘭雪。

かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。

夫子還倜儻,攻文繼前烈。

わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。

錯落石上松,無為秋霜折。

彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。

贈言鏤寶刀,千庶不滅。

そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

 

(魯頌に別る)

誰か泰山を高しと道ふ、下却す魯蓮の節。

誰か秦軍を衆しと云ふ、摧卻す魯連の舌。

獨立す天地の間、清風、蘭雪に灑ぐ。

夫子、還た倜儻、文を攻めて、前烈に繼ぐ。

錯落たり石上の松、秋ほう霜に折らるるなし。

贈言 寶刀に鏤むれば、千歳 庶はくば滅せざらむ。

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00 

 

『別魯頌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

別魯頌

誰道泰山高,下卻魯連節。

誰云秦軍,摧卻魯連舌。

獨立天地間,清風灑蘭雪。

夫子還倜儻,攻文繼前烈。

錯落石上松,無為秋霜折。

贈言鏤寶刀,千庶不滅

(下し文)
(魯頌に別る)

誰か泰山を高しと道ふ、下却す魯蓮の節。

誰か秦軍を衆しと云ふ、摧卻す魯連の舌。

獨立す天地の間、清風、蘭雪に灑ぐ。

夫子、還た倜儻、文を攻めて、前烈に繼ぐ。

錯落たり石上の松、秋ほう霜に折らるるなし。

贈言 寶刀に鏤むれば、千歳 庶はくば滅せざらむ。


(現代語訳)
(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。

誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。

かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。

わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。

彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。

そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

李白の足跡0000
(訳注)

別魯頌

(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

魯頌は人名。この詩は魯頌に別るるに際し、同姓の故を以て、古しへの魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。

魯仲連 (約前305年—前245年),有時簡稱魯連。戰國時代齊國茌平人(今山東省茌平縣王老望魯店村),為遊名士。曾就學於稷下學宮,不願出任官職。由於他的遊技巧卓越,有著名的「義不帝秦」辯論。成為現代「和事佬」的代名詞。《漢書》藝文志有《仲連子》14篇。

斉の人。特異卓抜な計画が好きで、宮仕えを厭い、好んで高節を堅持した。B.C.258秦軍が趙の邯鄲を包囲し、趙は魏に救援を求めた。魏安釐王は客将の新垣衍を邯鄲に潜入させ、 平原君を通じて趙孝成王に「使者を秦に遣わし尊んで帝と称するなら、 秦は喜んで兵を引き揚げるだろう」と言わせようとした。魯仲連はたまたま趙に遊説しており、平原君に新垣衍と合わせてくれるよう請うた。

魯仲連は説いて自説を取りやめるよう新垣衍を説得し、結局新垣衍は再拝して取りやめた。

秦軍が去った後、平原君は魯仲連を封じようとしたが「天下の士が貴いのは、人のために禍を除き災難を払い、紛争を解いて身に受けるところがないからである。 金を受けるのは商人のすることで連のできるところではない」と言って去り、生涯再び会わなかった。

斉の将軍田単が長狄を討とうとして、魯仲連に会いに出かけた。魯仲連は「将軍が狄をお攻めになっても、降すことはできますまい」 と言った。田単は挨拶もせずに憤然と立ち去った。しかし田単は狄を3ヶ月攻めたが降すことができなかった。

田単は再び魯仲連に見えた。魯仲連は「将軍が即墨におられたときは、決死の覚悟があり、士卒には生き延びる未練はありませんでした。たから強い燕を破ることができたのです。 ところが、いまや将軍には掖邑の領地があり、生きる楽しみがあって、死ぬ覚悟がありません。これが勝てない原因です」と言った。

田単はそこで気を奮い起こして、ついに狄を討ち破った。

燕の将軍が斉を攻め、聊城を取った。聊城の人が燕王に将軍のことを讒言したため、将軍は誅殺されることを恐れて、国に帰らなかった。 田単は聊城を討ったが、一年経っても落ちなかった。

魯仲連は燕将に書簡をもって 「孫臏や管夷吾や曹沫は小恥を知り、 小節をおこなうことができなかったのではなく、わが身を殺し、家系を断ち、子孫を絶やして功名の立たないのを智者の振舞いとしなかったのである。

願わくば公にも、その一を選んで実行されますように」と言った。

燕将は書簡を見て泣くこと3日、帰国することも降ることもできないので自殺した。田単はついに聊城をおとしいれた。

田単は王にこのことを言上し、爵位を与えようとしたが、魯仲連は逃げて海浜に隠れ「わたしは富貴の身となって人主に屈するより、むしろ貧賤のまま世を軽んじ、 思いのままに振舞いたい」と言った。

 

誰道泰山高,下卻魯連節。

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。

下卻 ~より劣っているという意。

泰山 山東省中部にある名山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。中国五岳の一。古来信仰の対象となり、秦・漢時代から皇帝が封禅 (ほうぜん) の儀式を行った所。玉皇廟など古跡が多い。

 

 

誰云秦軍眾,摧卻魯連舌。

誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。

摧卻魯連舌 魯仲連の舌先で摧かれる。

嘲魯連子 韓愈(韓退之) <165>Ⅱ中唐詩771 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2839

 

獨立天地間,清風灑蘭雪。

かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。

 

夫子還倜儻,攻文繼前烈。

わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。

倜儻 才気があって優れていること。 「倜儻不羈(てきとうふき)」は、「信念と独立心を持ち、安易に人に左右されない」

前烈 前人のすぐれた功績。《文選.司馬相如.巴蜀檄》:「名聲施於無窮,功烈著而不滅。」 功業。

 

錯落石上松,無為秋霜折。

彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。

錯落 。いろいろと、ふぞろいの物が入り混じっているさま。▽「参差」は長短・高低入り混じり、ふぞろいなさま。「錯落」はたくさんの物がごたごた入り混じるさま。

 

贈言鏤寶刀,千庶不滅。

そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

鏤寶刀 南朝梁·江淹·古意報袁功曹詩「故人贈寶劍, 鏤以瑤華文。」に基づく。

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李白  贈從弟冽 #3  

降霖雨,公輸造雲梯。羌戎事未息,君子悲塗泥。

報國有長策,成功羞執圭。無由謁明主,杖策還蓬藜。

他年爾相訪,知我在磻溪。
むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。

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 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog766年-107杜甫 《巻1535夔州歌十絕句,十首之五》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-107 <970> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6505 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七一              文體:    五言古詩

詩題:    贈從弟冽

作地點:              兗州(河南道 / 兗州 / 兗州)

及地點:              漆園 (河南道 曹州 漆園)    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸     

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:李冽          當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

贈從弟冽

(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

楚人不識鳳,重價求山雞。

楚人は、鳳を知っていないものであることに因り、山鶏を鳳凰だといわれると、それを本当だと思って、高い價を以て之を買うという。

獻主昔云是,今來方覺迷。

あるいは、楚王に献ぜむとしたという昔ばなしもあるけれど、自分自身のことも、その通りで、格別すぐれても居ない自分の才芸を非常に貴いものと思い込んで、天子に献せむとし、その時分は、善いことと思っていたが、つい近ごろに成って、それは心の迷に過ぎないということを自覚したのである。

自居漆園北,久別咸陽西。

かくて、西、長安を去って、北の方、漆園の地に来たのも、すでに久しきを経ている。

風飄落日去,節變流鶯啼。

風は飄って、落日、西に沈み、節序しきりに変じて、もう鶯も来て啼く春となった。

(從弟冽に贈る)

楚人 鳳を識らず,價いを重くし 山雞を求む。

主獻じて 昔 是なりと云う,今 來って方に迷を覺る。

漆園の北に居りて自り,久しく別る 咸陽の西。

風は飄って 落日去り,節變じて 流鶯啼く。

#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。

なんといっても北の地の事であるから、桃李は、なお寒を怕れて咲き出してはいないし、桃李の下ならず、幽関の下に、游人きたり聚まりはしないので、蹊すらもできない。

逢君發花萼,若與青雲齊。

かくて、君に遇うて、花萼の親を重ねて兄弟のようにしていると、どうやら、青雲の上に登ったような気がしてくる。

及此桑葉綠,春蠶起中閨。

兎角する内に、桑の葉が出て緑になってくるし、家家の閨中に於ては、春蠶を飼うために忙しくなってきている。

日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

うららかな日の差し上る頃に、『皂,戴。』布穀の鳥が鳴けば、いよいよ野良仕事をする時がきたというので、農家においては、犂鋤や犁鋤を携えて、毎日畑へ出かけるようになる。

顧余乏尺土,東作誰相攜。

但し、自分は、尺士をすこしだに有していないので、誰と共に、田疇に耕すべきであろうか、人人がこのように農繁期の時分に、全くなすこともなくして、のらくらと遊んでいるだけである。

#2

桃李 寒 未だ開かず,幽關 豈に蹊に來らんや。

君に逢うて花萼を發し,青雲と齊しきが若し。

此の桑葉の綠なるに及び,春蠶 中閨に起る。

日出でて 布穀 鳴き,田家 鋤犁を擁す。

顧りみるに余 尺土に乏しく,東作 誰か相い攜えん。

#3

降霖雨,公輸造雲梯。

むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。

羌戎事未息,君子悲塗泥。

今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。

報國有長策,成功羞執圭。

そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。

無由謁明主,杖策還蓬藜。

何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。

他年爾相訪,知我在磻溪。

しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。

 

#3

霖雨を降し,公輸は雲梯を造る。

羌戎 事 未だ息まず,君子 塗泥を悲しむ。

國に報ゆるに長策有り,功を成すも 執圭を羞ず。

明主に謁するに由無く,策を杖いて蓬藜に還る。

他年 爾 相い訪わば,我が磻溪に在るを知らん。

 

李白の足跡0000 

『贈從弟冽』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

降霖雨,公輸造雲梯。

羌戎事未息,君子悲塗泥。

報國有長策,成功羞執圭。

無由謁明主,杖策還蓬藜。

他年爾相訪,知我在磻溪。

(下し文)
#3

は霖雨を降し,公輸は雲梯を造る。

羌戎 事 未だ息まず,君子 塗泥を悲しむ。

國に報ゆるに長策有り,功を成すも 執圭を羞ず。

明主に謁するに由無く,策を杖いて蓬藜に還る。

他年 爾 相い訪わば,我が磻溪に在るを知らん。

(現代語訳)
#3

むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。

今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。

そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。

何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。

しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。


(訳注) #3

贈從弟冽

(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

 

降霖雨,公輸造雲梯。

むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。

○霖雨 《尚書》卷十〈商書命上〉命之曰:「若金,用汝作礪。若濟巨川,用汝作舟楫。若大旱,用汝作霖雨。」(若し金ならば、汝を用て礪と作さん。若し巨川を濟[わた]らば、汝を用て舟楫と作さん。若し大いに旱せば、汝を用て霖雨と作さん。)

○公輸 公輸般、公輸盤、公輸子ともいい,魯の哀公(494‐前468)の時代の人で,魯の昭公の子ともいわれるが定かでなく,また一説には魯班と公輸は別人ともいう。《墨子》に公輸の一編があり,公輸般が楚国のために〈雲梯(うんてい)〉と呼ばれる高く長い攻城の器具を作り宋を攻めようとしたことが記される。また同書の魯問篇に,竹木を削って(鵲(かささぎ),あるいは鳶(とび)ともいう)を作り,飛ばすと3日間も落ちることがなかったという。

 

羌戎事未息,君子悲塗泥。

今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。

羌戎 古代西域の異民族,羌族。 戎は古代兵器をいい、军队事:兵戎。投笔从戎。戎装。

塗泥 どろまみれになること。また、どろみち。ぬかるみ。苦しみの表現。

 

報國有長策,成功羞執圭。

そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。

長策 遠大なはかりごと。長計。

執圭 《周禮》「王執鎮圭,公執桓圭,侯執信圭,伯執躬圭,子執穀璧,男執蒲璧。」王は鎮圭を執り,公は桓圭を執り,侯は信圭を執り、伯は躬圭を執る。子は穀璧を執る,男は蒲璧を執る。圭とは古代、祭祀において玉器を用いること。それぞれの階級に応じた玉器もちいること、授かることをいう。

 

無由謁明主,杖策還蓬藜。

何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。

杖策 鞭を杖にする。左思·招隱詩二首之一「杖策招隱士,荒塗橫古今。」唐杜甫《1464常徵君》:“儿扶犹杖策,卧病一秋。”

 

他年爾相訪,知我在磻溪。

しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。

磻溪 傳姜太公垂釣磻溪,直鉤無餌,離水三尺,愿者上鉤。其實,他是藉釣魚養望等待出仕時機罷了。

溪中有泉,謂之茲泉,泉水潭積,自成淵渚,即《呂氏春秋》所謂太公釣茲泉也。今人謂之凡谷,石壁 ... 其投竿跽餌,兩膝遺跡猶存,是有磻溪之稱也。

295-#2 《卷11-14贈從弟冽》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <295-#2> Ⅰ李白詩1590 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6498

李白  贈從弟冽#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。逢君發花萼,若與青雲齊。

及此桑葉綠,春蠶起中閨。日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

顧余乏尺土,東作誰相攜。
なんといっても北の地の事であるから、桃李は、なお寒を怕れて咲き出してはいないし、桃李の下ならず、幽関の下に、游人きたり聚まりはしないので、蹊すらもできない。かくて、君に遇うて、花萼の親を重ねて兄弟のようにしていると、どうやら、青雲の上に登ったような気がしてくる。兎角する内に、桑の葉が出て緑になってくるし、家家の閨中に於ては、春蠶を飼うために忙しくなってきている。うららかな日の差し上る頃に、『皂,戴。』布穀の鳥が鳴けば、いよいよ野良仕事をする時がきたというので、農家においては、犂鋤や犁鋤を携えて、毎日畑へ出かけるようになる。但し、自分は、尺士をすこしだに有していないので、誰と共に、田疇に耕すべきであろうか、人人がこのように農繁期の時分に、全くなすこともなくして、のらくらと遊んでいるだけである。

295-#2 《卷11-14贈從弟冽》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <295-#2> Ⅰ李白詩1590 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6498

 

 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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86-#1 送區册序 韓愈(韓退之) 804年貞元20年 37歳<1503> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6499 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog9欧陽烱《巻五48浣渓沙 三首 其一》『花間集』246全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6502 
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 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七一              文體:    五言古詩

詩題:    贈從弟冽

作地點:              兗州(河南道 / 兗州 / 兗州)

及地點:              漆園 (河南道 曹州 漆園)    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸     

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:李冽          當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

贈從弟冽

(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

楚人不識鳳,重價求山雞。

楚人は、鳳を知っていないものであることに因り、山鶏を鳳凰だといわれると、それを本当だと思って、高い價を以て之を買うという。

獻主昔云是,今來方覺迷。

あるいは、楚王に献ぜむとしたという昔ばなしもあるけれど、自分自身のことも、その通りで、格別すぐれても居ない自分の才芸を非常に貴いものと思い込んで、天子に献せむとし、その時分は、善いことと思っていたが、つい近ごろに成って、それは心の迷に過ぎないということを自覚したのである。

自居漆園北,久別咸陽西。

かくて、西、長安を去って、北の方、漆園の地に来たのも、すでに久しきを経ている。

風飄落日去,節變流鶯啼。

風は飄って、落日、西に沈み、節序しきりに変じて、もう鶯も来て啼く春となった。

#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。

なんといっても北の地の事であるから、桃李は、なお寒を怕れて咲き出してはいないし、桃李の下ならず、幽関の下に、游人きたり聚まりはしないので、蹊すらもできない。

逢君發花萼,若與青雲齊。

かくて、君に遇うて、花萼の親を重ねて兄弟のようにしていると、どうやら、青雲の上に登ったような気がしてくる。

及此桑葉綠,春蠶起中閨。

兎角する内に、桑の葉が出て緑になってくるし、家家の閨中に於ては、春蠶を飼うために忙しくなってきている。

日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

うららかな日の差し上る頃に、『皂,戴。』布穀の鳥が鳴けば、いよいよ野良仕事をする時がきたというので、農家においては、犂鋤や犁鋤を携えて、毎日畑へ出かけるようになる。

顧余乏尺土,東作誰相攜。

但し、自分は、尺士をすこしだに有していないので、誰と共に、田疇に耕すべきであろうか、人人がこのように農繁期の時分に、全くなすこともなくして、のらくらと遊んでいるだけである。

#3

降霖雨,公輸造雲梯。

羌戎事未息,君子悲塗泥。

報國有長策,成功羞執圭。

無由謁明主,杖策還蓬藜。

他年爾相訪,知我在磻溪。

 

(從弟冽に贈る)

楚人 鳳を識らず,價いを重くし 山雞を求む。

主獻じて 昔 是なりと云う,今 來って方に迷を覺る。

漆園の北に居りて自り,久しく別る 咸陽の西。

風は飄って 落日去り,節變じて 流鶯啼く。

#2

桃李 寒 未だ開かず,幽關 豈に蹊に來らんや。

君に逢うて花萼を發し,青雲と齊しきが若し。

此の桑葉の綠なるに及び,春蠶 中閨に起る。

日出でて 布穀 鳴き,田家 鋤犁を擁す。

顧りみるに余 尺土に乏しく,東作 誰か相い攜えん。

#3

霖雨を降し,公輸は雲梯を造る。

羌戎 事 未だ息まず,君子 塗泥を悲しむ。

國に報ゆるに長策有り,功を成すも 執圭を羞ず。

明主に謁するに由無く,策を杖いて蓬藜に還る。

他年 爾 相い訪わば,我が磻溪に在るを知らん。

 

 

『贈從弟冽』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。

逢君發花萼,若與青雲齊。

及此桑葉綠,春蠶起中閨。

日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

顧余乏尺土,東作誰相攜。

(下し文)

桃李 寒 未だ開かず,幽關 豈に蹊に來らんや。

君に逢うて花萼を發し,青雲と齊しきが若し。

此の桑葉の綠なるに及び,春蠶 中閨に起る。

日出でて 布穀 鳴き,田家 鋤犁を擁す。

顧りみるに余 尺土に乏しく,東作 誰か相い攜えん。


(現代語訳)
なんといっても北の地の事であるから、桃李は、なお寒を怕れて咲き出してはいないし、桃李の下ならず、幽関の下に、游人きたり聚まりはしないので、蹊すらもできない。

かくて、君に遇うて、花萼の親を重ねて兄弟のようにしていると、どうやら、青雲の上に登ったような気がしてくる。

兎角する内に、桑の葉が出て緑になってくるし、家家の閨中に於ては、春蠶を飼うために忙しくなってきている。

うららかな日の差し上る頃に、『皂,戴。』布穀の鳥が鳴けば、いよいよ野良仕事をする時がきたというので、農家においては、犂鋤や犁鋤を携えて、毎日畑へ出かけるようになる。

但し、自分は、尺士をすこしだに有していないので、誰と共に、田疇に耕すべきであろうか、人人がこのように農繁期の時分に、全くなすこともなくして、のらくらと遊んでいるだけである。


(訳注)

#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。

なんといっても北の地の事であるから、桃李は、なお寒を怕れて咲き出してはいないし、桃李の下ならず、幽関の下に、游人きたり聚まりはしないので、蹊すらもできない。

桃李 司馬遷《史記李將軍列傳論》「諺曰:『桃李不言,下自成蹊。』此言雖小,可以諭大也。」(諺に曰はく、「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」此の言小なりと雖も、以て大をふべきなり。)

 

逢君發花萼,若與青雲齊。

かくて、君に遇うて、花萼の親を重ねて兄弟のようにしていると、どうやら、青雲の上に登ったような気がしてくる。

花萼 花房、小さな花が集まって房のような形になったもの。ここでは、兄弟にたとう。

 

及此桑葉綠,春蠶起中閨。

兎角する内に、桑の葉が出て緑になってくるし、家家の閨中に於ては、春蠶を飼うために忙しくなってきている。

 

日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

うららかな日の差し上る頃に、『皂,戴。』布穀の鳥が鳴けば、いよいよ野良仕事をする時がきたというので、農家においては、犂鋤や犁鋤を携えて、毎日畑へ出かけるようになる。

布穀 《爾雅》曰:『皂,戴。』即首上勝也。頭上尾起,故曰戴勝。而農事方起,此鳥飛鳴于桑間,云五穀可布種也,故曰布穀。

鋤犁 犂鋤・犁鋤。 からすきとすき。農具。 耕作。

 

顧余乏尺土,東作誰相攜。

但し、自分は、尺士をすこしだに有していないので、誰と共に、田疇に耕すべきであろうか、人人がこのように農繁期の時分に、全くなすこともなくして、のらくらと遊んでいるだけである。

東作 農繁期。尚書 平秩東作:春の農事時期になれば、通常整然として東方から奮い立つようにうごきはじめること。

平は通常にする、秩は整然とする、東は東方、作は奮い立つこと。

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李白  贈從弟冽  

楚人不識鳳,重價求山雞。獻主昔云是,今來方覺迷。

自居漆園北,久別咸陽西。風飄落日去,節變流鶯啼。

(この詩は、徒弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

楚人は、鳳を知っていないものであることに因り、山鶏を鳳凰だといわれると、それを本当だと思って、高い價を以て之を買うという。あるいは、楚王に献ぜむとしたという昔ばなしもあるけれど、自分自身のことも、その通りで、格別すぐれても居ない自分の才芸を非常に貴いものと思い込んで、天子に献せむとし、その時分は、善いことと思っていたが、つい近ごろに成って、それは心の迷に過ぎないということを自覚したのである。かくて、西、長安を去って、北の方、漆園の地に来たのも、すでに久しきを経ている。風は飄って、落日、西に沈み、節序しきりに変じて、もう鶯も来て啼く春となった。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七一              文體:    五言古詩

詩題:    贈從弟冽

作地點:              兗州(河南道 / 兗州 / 兗州)

及地點:              漆園 (河南道 曹州 漆園)    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸     

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:李冽          當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

贈從弟冽

(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

楚人不識鳳,重價求山雞。

楚人は、鳳を知っていないものであることに因り、山鶏を鳳凰だといわれると、それを本当だと思って、高い價を以て之を買うという。

獻主昔云是,今來方覺迷。

あるいは、楚王に献ぜむとしたという昔ばなしもあるけれど、自分自身のことも、その通りで、格別すぐれても居ない自分の才芸を非常に貴いものと思い込んで、天子に献せむとし、その時分は、善いことと思っていたが、つい近ごろに成って、それは心の迷に過ぎないということを自覚したのである。

自居漆園北,久別咸陽西。

かくて、西、長安を去って、北の方、漆園の地に来たのも、すでに久しきを経ている。

風飄落日去,節變流鶯啼。

風は飄って、落日、西に沈み、節序しきりに変じて、もう鶯も来て啼く春となった。

#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。

逢君發花萼,若與青雲齊。

及此桑葉綠,春蠶起中閨。

日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

顧余乏尺土,東作誰相攜。

#3

降霖雨,公輸造雲梯。

羌戎事未息,君子悲塗泥。

報國有長策,成功羞執圭。

無由謁明主,杖策還蓬藜。

他年爾相訪,知我在磻溪。

 

(從弟冽に贈る)

楚人 鳳を識らず,價いを重くし 山雞を求む。

主獻じて 昔 是なりと云う,今 來って方に迷を覺る。

漆園の北に居りて自り,久しく別る 咸陽の西。

風は飄って 落日去り,節變じて 流鶯啼く。

#2

桃李 寒 未だ開かず,幽關 豈に蹊に來らんや。

君に逢うて花萼を發し,青雲と齊しきが若し。

此の桑葉の綠なるに及び,春蠶 中閨に起る。

日出でて 布穀 鳴き,田家 鋤犁を擁す。

顧りみるに余 尺土に乏しく,東作 誰か相い攜えん。

#3

霖雨を降し,公輸は雲梯を造る。

羌戎 事 未だ息まず,君子 塗泥を悲しむ。

國に報ゆるに長策有り,功を成すも 執圭を羞ず。

明主に謁するに由無く,策を杖いて蓬藜に還る。

他年 爾 相い訪わば,我が磻溪に在るを知らん。

 

 

『贈從弟冽』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈從弟冽

楚人不識鳳,重價求山雞。

獻主昔云是,今來方覺迷。

自居漆園北,久別咸陽西。

風飄落日去,節變流鶯啼。

(下し文)
(從弟冽に贈る)

楚人 鳳を識らず,價いを重くし 山雞を求む。

主獻じて 昔 是なりと云う,今 來って方に迷を覺る。

漆園の北に居りて自り,久しく別る 咸陽の西。

風は飄って 落日去り,節變じて 流鶯啼く。

(現代語訳)
(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

楚人は、鳳を知っていないものであることに因り、山鶏を鳳凰だといわれると、それを本当だと思って、高い價を以て之を買うという。

あるいは、楚王に献ぜむとしたという昔ばなしもあるけれど、自分自身のことも、その通りで、格別すぐれても居ない自分の才芸を非常に貴いものと思い込んで、天子に献せむとし、その時分は、善いことと思っていたが、つい近ごろに成って、それは心の迷に過ぎないということを自覚したのである。

かくて、西、長安を去って、北の方、漆園の地に来たのも、すでに久しきを経ている。

風は飄って、落日、西に沈み、節序しきりに変じて、もう鶯も来て啼く春となった。


(訳注)

贈從弟冽

(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

 

楚人不識鳳,重價求山雞。

楚人は、鳳を知っていないものであることに因り、山鶏を鳳凰だといわれると、それを本当だと思って、高い價を以て之を買うという。

楚人不識鳳 太平廣記 「楚人有擔山雞者,路人問曰:“何鳥也?”擔者欺之曰:“鳳皇也。”路人曰:“我聞有鳳皇久矣,今真見之。汝賣之乎?”曰:“然。乃酬千金,弗與;請加倍,乃與之。方將獻楚王,經宿而鳥死。路人不遑惜其金,惟恨不得以獻耳。國人傳之,鹹以爲真鳳而貴,宜欲獻之,遂聞于楚王。王感其欲獻己也,召而厚賜之,過買鳳之十倍矣。」とあるに基づく。

(楚人、山雞を擔う者有り,路人 問うて曰く:“何の鳥ぞ也?”擔者 之を欺いて曰く:“鳳皇なり。”路人曰く:“我 有鳳皇を聞くこと久し矣,今 真に之を見る。汝 之を賣るか?”曰く:“然り。と。乃ち千金を酬ゆ,與えず;請う加倍せん,乃ち之を與う。方に將に楚王に獻ぜんとす,經宿にして鳥死す。路人 其の金を惜うるに遑あらず,惟だ以って獻ずるを得ざるを恨むのみ。國人之を傳へ,鹹な以爲えらく 真鳳にして貴し,宜なり之を獻ぜんと欲すするやと,遂に楚王に聞す。王 其の己に獻ぜむと欲するに感し,召して 厚く之に賜い,鳳を買うの過ぐること十倍。)

 

獻主昔云是,今來方覺迷。

あるいは、楚王に献ぜむとしたという昔ばなしもあるけれど、自分自身のことも、その通りで、格別すぐれても居ない自分の才芸を非常に貴いものと思い込んで、天子に献せむとし、その時分は、善いことと思っていたが、つい近ごろに成って、それは心の迷に過ぎないということを自覚したのである。

 

自居漆園北,久別咸陽西。

かくて、西、長安を去って、北の方、漆園の地に来たのも、すでに久しきを経ている。

漆園北 太平嚢宇記 漆園故城。在曹州寃句縣北十七里。莊周為漆園吏即此。其城古屬蒙縣。

 

風飄落日去,節變流鶯啼。

風は飄って、落日、西に沈み、節序しきりに変じて、もう鶯も来て啼く春となった。

294-#2 《卷九01秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <294-#2> Ⅰ李白詩1588 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6488

李白  秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗  

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

時來極天人,道在豈吟嘆。樂毅方適趙,蘇秦初韓。

卷舒固在我,何事空摧殘。

というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。

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 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
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年:-741年開元二十九年41

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              煉藥院 (都畿道 河南府 潁陽)           

交遊人物:元丹丘            當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

 

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

木落識秋,瓶冰知天寒。

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といえば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

投分三十載,榮枯同所歡。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

長吁望青雲,鑷白坐相看。

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

 

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。

時來極天人,道在豈吟嘆。

しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。

卷舒固在我,何事空摧殘。

おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。

 

(秋日鍊藥院に白髪を錦し元六兄林宗に贈る)

木落ちて、歳の秋たるを識り、瓶氷って、天の寒さを知る。

桂枝日に己に緑に、雪を払うて雲端を凌ぐ。

弱齢、光景に接し、矯翼、鴻鸞を攀づ。

投分三十載、栄枯、所歓を同じうす。

長吁、青雲を望み、白を鑷して坐して相看る。

 

秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。

窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。

時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。

樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓にく。

卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。

 

 

『秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

時來極天人,道在豈吟嘆。

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

卷舒固在我,何事空摧殘。


(下し文)
秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。

窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。

時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。

樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓にく。

卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。

(現代語訳)
というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。

ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。

しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。

それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。

おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。


(訳注)

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

鍊藥院というのは、道観の名であって、その字の示す通とおり、道士輩がここでで長生延命の薬を錬るのである。その縁起等は一切わからぬが、要するに、格別広大な道院でもなく、又後には亡びて仕舞ったものと見える。それから、元六兄林宗は、元林宗、排行は六にあたる人で、矢張鍊藥院の道士であるが、元丹邱のことである。

この詩は、秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗という人におくったのである。

 

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。

○危冠 髙い冠。

 

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。

○窮與鮑生賈 《史》「記管仲曰、吾始困時、嘗与鮑叔賈。分財利多自与。鮑叔不以我為貪。知我貧也。吾嘗為鮑叔謀事、而更窮困。鮑叔不以我為愚。知時有利不利也。吾嘗三仕三見逐於君。」(管仲曰く、吾始め困しみし時、嘗て鮑叔と賈す。財利を分かつに多く自ら与ふ。鮑叔我を以て貪と為さず。我の貧なるを知ればなり。吾嘗て鮑叔の為に事を謀りて、更に窮困す。鮑叔我を以て愚と為さず。時に有利と不利と有るを知ればなり。吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐はる。)

○飢從漂母餐 「漂母進食」の故事。前漢の韓信は家が貧乏であった。そこで准陰下郷県の南昌亭という宿場の長の家に居候をしていた。亭長の妻は彼を迷惑がり、朝早く飯をたいて寝床の中で食べてしまった。食事時に彼が行くと、もう食べ物はなく、彼のために飯の仕度したくはしなかった。韓信はこれは自分をいやがっているのだと悟り、自分から見切りをつけてそこを出てしまった。それから、准陰の城下にやって来て准水の流れで釣りをしていた。一人の洗濯ばあさんが彼の困っている様を見てかわいそうに思い、彼を数十日もの間食べさせてやった。彼は感謝して、「お前さんの恩は決して忘れやしないよ。今にきっとうんとお返しするからね」と言うと、ばあさんは「とんでもない。大の男が食べることもできないのがかわいそうだから、お前さまに食べさせてあげたのさ。どうして、最初からお礼なんかあてにしてはいませんよ」とて、彼の返礼など問題にしていなかった。そして、彼が高祖に従い手柄を立てて楚王になると、彼はその洗濯ばあさんを呼んでその恩に報いるべく千金を与え、下郷の亭長にはわずか銭百文だけしか与えないで、「お前はちっぽけな男だ。わしに恩徳を施し遂げられなかった」と言った。

 

時來極天人,道在豈吟嘆。

しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。

 

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。

○樂毅方適趙 《史記卷八十樂毅列傳》是燕昭王問伐齊之事

斉湣王田地は自(みずか)ら誇(ほこ)り、百姓は堪(た)えられなくなった。ここに於いて燕昭王姫平は斉を討(う)つ事をたずねた。

樂毅對曰齊霸國之餘業也地大人眾未易獨攻也

燕亞卿楽毅は応(こた)えて曰く、「斉の国を覇(は)して残した業績(ぎょうせき)とは、地が大きくなり、人々が多くなったことで、未(ま)だ単独で攻(せ)めるのは容易(ようい)ではありません。

王必欲伐之莫如與趙及楚魏

王(燕昭王姫平)が必ずこれ(斉)を討(う)つことを欲するならば、趙、及び楚、魏とともにするにこしたことはありません」と。

於是使樂毅約趙惠文王別使連楚魏

ここに於いて燕亞卿楽毅をして趙恵文王趙何に約束させ、別の使者をして楚、魏を属(ぞく)させ、

令趙嚪說秦以伐齊之利

趙に令(れい)して、秦に斉を討(う)つことの利(り)を以って誘(さそ)い説(と)かせた。

諸侯害齊湣王之驕暴皆爭合從與燕伐齊

諸侯は斉湣王田地の驕(おご)りたかぶって態度が荒々しいのを憎(にく)み、皆(みな)合従を争(あらそ)って燕とともに斉を討(う)とうとした。

樂毅還報燕昭王悉起兵使樂毅為上將軍

燕亞卿楽毅は還(かえ)り報告した。燕昭王姫平はことごとく兵を起(お)こし、燕亞卿楽毅をして、燕上将軍と為(な)し、

趙惠文王以相國印授樂毅

趙恵文王趙何は趙相国印を以って燕亞卿上将軍楽毅に授(さず)けた。

樂毅於是并護趙楚韓魏燕之兵以伐齊破之濟西

燕亞卿上将軍楽毅はここに於いて、趙、楚、韓、魏、燕の兵を併(あわ)せ統率(とうそつ)し、斉を討(う)つを以って済(川名)の西にこれを破(やぶ)った。

○蘇秦初 史記 蘇秦列伝

蘇秦列伝における事跡である。

洛陽の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に縦横の術を学んだ。数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族に嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、恵文王に進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。

その後は燕の文公に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。この時、韓の宣恵王を説いた際に、後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」という言辞を述べた。

趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとするもので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。

合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。

合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場が微妙になったために斉に移った。その目的は斉の国力を弱め、燕の利益を図ることにあった。斉では湣王に取り立てられたが、そのため対立者により暗殺された。死ぬ直前に湣王に対して「私が死んだら私の遺体に対し車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために斉で謀反を企てた』としてください。そうすれば私を殺した者が出てくるでしょう」と言った。湣王は蘇秦の遺言に従うと、蘇秦を殺した者が自首してきたので捕らえて処刑した。

張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦の魂胆で、秦による趙への出兵を張儀に止めさせる狙いがあった。

 

卷舒固在我,何事空摧殘。

おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。

294-#1 《卷九01秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <294-#1> Ⅰ李白詩1587 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6483

李白  秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗  

木落識秋,瓶冰知天寒。桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。投分三十載,榮枯同所歡。

長吁望青雲,鑷白坐相看。
(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

294-#1 《卷九01秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <294-#1> Ⅰ李白詩1587 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6483

 

 
 2015年8月20日の紀頌之5つのBlog 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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年:-741年開元二十九年41

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              煉藥院 (都畿道 河南府 潁陽)           

交遊人物:元丹丘            當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

 

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

木落識秋,瓶冰知天寒。

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

投分三十載,榮枯同所歡。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

長吁望青雲,鑷白坐相看。

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

 

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

時來極天人,道在豈吟嘆。

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

卷舒固在我,何事空摧殘。

 

(秋日鍊藥院に白髪を錦し元六兄林宗に贈る)

木落ちて、歳の秋たるを識り、瓶氷って、天の寒さを知る。

桂枝日に己に緑に、雪を払うて雲端を凌ぐ。

弱齢、光景に接し、矯翼、鴻鸞を攀づ。

投分三十載、栄枯、所歓を同じうす。

長吁、青雲を望み、白を鑷して坐して相看る。

 

秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。

窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。

時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。

樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓にく。

卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。

 

 

『秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

木落識秋,瓶冰知天寒。

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

投分三十載,榮枯同所歡。

長吁望青雲,鑷白坐相看。

(下し文)
(秋日鍊藥院に白髪を錦し元六兄林宗に贈る)

木落ちて、歳の秋たるを識り、瓶氷って、天の寒さを知る。

桂枝日に己に緑に、雪を払うて雲端を凌ぐ。

弱齢、光景に接し、矯翼、鴻鸞を攀づ。

投分三十載、栄枯、所歓を同じうす。

長吁、青雲を望み、白を鑷して坐して相看る。

(現代語訳)
(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。


(訳注)

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

鍊藥院というのは、道観の名であって、その字の示す通とおり、道士輩がここでで長生延命の薬を錬るのである。その縁起等は一切わからぬが、要するに、格別広大な道院でもなく、又後には亡びて仕舞ったものと見える。それから、元六兄林宗は、元林宗、排行は六にあたる人で、矢張鍊藥院の道士であるが、元丹邱のことである。

この詩は、秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗という人におくったのである。

 

木落識秋,瓶冰知天寒。

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

木落識秋,瓶冰知天寒 淮南子 「見一葉落、而知歳之將暮、睹瓶中之冰、而知天下之寒。」(一葉の落るを見て、歳の将に暮なんとするを知り、瓶中の氷を睹て、天下の寒きを知る。)に基づく。

 

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

 

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

弱齡 壮年。

光景 風采ということ。

 

投分三十載,榮枯同所歡。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

投分 自己の分限を投入すること、つまり、「莫逆の交じりを結ぶ」『莫逆の友』 ばくぎゃくのとも 梁書より 意味-無二の親友のこと。 注釈-「莫逆」は「逆らうこと莫なし」の意で、互いの息がピッタリと合い、逆らう気持ちなど全く生じない友の意。 「莫逆」は「ばくげき」とも読み、「莫逆の友」の結ぶ交わりを「莫逆の交わり」という。

 

長吁望青雲,鑷白坐相看。

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

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李白  東魯見狄博通  

去年別我向何處,有人傳道遊江東。

謂言掛席度滄海,卻來應是無長風。

(名門の後裔である狄博通に再びまみえた時、賦して贈ったもの)

貴方は、去年私と別れて旅路に向われたが、いずこに行かれたのか人のうわさを聞いたところ、江東に遊んでおられるということであった。此れも聞いたことだが、帆をかけて、大海を渉られた事であろうし、それがために、帰って来るのが遅かったのであり、長風の便りがなかったのもうなずけるというものである。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一六八              文體:    七言古詩

詩題:    東魯見狄博通

作地點:              目前尚無資料

及地點:              兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡         

交遊人物:狄博通                當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

東魯見狄博通

(名門の後裔である狄博通に再びまみえた時、賦して贈ったもの)

去年別我向何處,有人傳道遊江東。

貴方は、去年私と別れて旅路に向われたが、いずこに行かれたのか人のうわさを聞いたところ、江東に遊んでおられるということであった。

謂言掛席度滄海,卻來應是無長風。

此れも聞いたことだが、帆をかけて、大海を渉られた事であろうし、それがために、帰って来るのが遅かったのであり、長風の便りがなかったのもうなずけるというものである。

 

 (東魯に狄博通を見る)

去年 我に別れて 何處にか向う,人有り 傳へて道う 江東に遊ぶ。

謂う言【なら】く 席を掛けて滄海を度る,卻って來る 應に是れ 長風無かるべし。

 河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00

 

『東魯見狄博通』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

東魯見狄博通

去年別我向何處,有人傳道遊江東。

謂言掛席度滄海,卻來應是無長風。

(下し文)
(
東魯に狄博通を見る)

去年 我に別れて 何處にか向う,人有り 傳へて道う 江東に遊ぶ。

謂う言【なら】く 席を掛けて滄海を度る,卻って來る 應に是れ 長風無かるべし。

(現代語訳)
(名門の後裔である狄博通に再びまみえた時、賦して贈ったもの)

貴方は、去年私と別れて旅路に向われたが、いずこに行かれたのか人のうわさを聞いたところ、江東に遊んでおられるということであった。

此れも聞いたことだが、帆をかけて、大海を渉られた事であろうし、それがために、帰って来るのが遅かったのであり、長風の便りがなかったのもうなずけるというものである。


(訳注)

東魯見狄博通

(名門の後裔である狄博通に再びまみえた時、賦して贈ったもの)

東魯 河南道兗州、別名魯郡、魯中。

狄博通 梁公狄仁傑の曾孫、戸部郎中光濟の孫で、名門の後裔のもので、しかるべき人物であったのであろう。ある。

仁傑(てき じんけつ, 630(貞観4) - 700(久視元年))は中国唐代の政治家。高宗・中宗・睿宗・武則天に仕えた。唐代で太宗の時代に続いて安定していたといわれる武則天の治世において最も信頼され、長年に渡って宰相を務めた。

中国の主要行政官庁であった六部の一つで国家財政を管轄をしていた光濟。

 

去年別我向何處,有人傳道遊江東

貴方は、去年私と別れて旅路に向われたが、いずこに行かれたのか人のうわさを聞いたところ、江東に遊んでおられるということであった。

江東 長江がランドマークで下流域の最下留地方を言い、長江の南側をこうなんという。

 

謂言掛席度滄海,卻來應是無長風。

此れも聞いたことだが、帆をかけて、大海を渉られた事であろうし、それがために、帰って来るのが遅かったのであり、長風の便りがなかったのもうなずけるというものである。

長風 非常に遠くから吹いてくる風。また、遠くまで吹いていく強い風。勢いの盛んなことにたとえていう。

滄海 あおあおとした広い海。あおうなばら。滄海変じて桑田となる《儲光羲「献八舅東帰」から》広い海原が桑畑に変わる。世の中の移り変わりの激しいことのたとえ。桑田変じて海となる。桑田変じて滄海となる。滄海桑田。
江南東道 婺州 東陽00 

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李白  搗衣篇#4

瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。

摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。
かくて、瓊筵寶幄の中に居て、連枝の模様ある錦の被を着て寐ると、燈火の光は、熒熒として輝き.濁り寝の淋しさを痛切に感ずるのである。そこで、相思の種たる夫の枕を留め置き、鋏を取り出して、蘭の花を摘み取って之を佩びようと思いたつのである。夫が此に居ない故に、佩びて見た處で何にも成らぬと思い諦めたものの、涙ぱらぱらと落ちてくる故に、幸運の真紅に染めた手巾を取って涙を拭ふと、氤氳として、活力が戻ってくるようであり、一人で過ごす夜はつらい。明年もし更に遠き邊塞の方へでも行かれるというならば、その時こそ、われは、巫山の神女、瑤姫のように、陽臺一段の雲となり、夫の地の上の雲となるのであるから、そのことを、夫に知らせたいと願うものである。

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 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    搗衣篇

作地點:              目前尚無資料

及地點:              交河 (隴右道西部 西州 交河)           

 

 

搗衣篇

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

閨裡佳人年十餘,顰蛾對影恨離居。

閨中に一人いる佳人、年はやつと十五六、つひ近ごろ嫁ったばかりで、早くも夫と別れて、ひとり空牀を守って居る。

忽逢江上春歸燕,銜得雲中尺素書。

そこで、眉を顰め、おのが影を顧みつつ、夫と別れ居ることを痛く怨んでいる。その処へ、春、北地から飛んできた江上の燕が、雲中より下って口に銜えていた手紙を置いていった。

玉手開緘長歎息,狂夫猶戍交河北。

佳人は、その手紙を取り、繊繊たる玉手を以て、その封を開くと、それは、夫からの書信であって、今は西域の交河に駐屯して居るということが書いてあった。

#2

萬里交河水北流,願為雙燕泛中洲。

交河は、萬里を隔てて、その水は北に流れるというが、願わくば、君と我と、この手紙を届けて呉れた其の燕のようになり、雙雙影を聯ねて、交河の中の洲の上に留まって居たい。無論、君とならば、連塞夷蠻の地でも、決して、厭いはしない。

君邊雲擁青絲騎,妾處苔生紅粉樓。

しかし、それも単なる願望に過ぎず、両地全く懸け離れて、君の留まるあたりは、青い絲の手綱を手にせる騎兵が羣れて居るであらうが、雲に隔られて、それとも見え分かず、わが居る処では、紅粉の粧さびしげに、楼中にひとり残り、外との来往も、絶えて居るから、上り口には苔さへ生える位。

樓上春風日將歇,誰能攬鏡看愁髮。

折しも、楼上には、東風吹き入り、やがて、日も暮れなんとして居るが、誰が此時に皆って、鏡を取り上げて、乱れたる髪を照らし見ようか。とても、その様な心持になれぬので、夫の居らぬ間は、化粧もせぬ故に、鏡を見る必要もないのである。

#3

曉吹員管隨落花,夜搗戎衣向明月。

かくて、暁には、管笛を吹いて、落花、落葉の行衛を追い日を過し、夜は、夫の着る戎衣を砧で打って、月の光を眺めるばかりしている。

明月高高刻漏長,真珠簾箔掩蘭堂。

秋の夜長、明月は、高く天に冲し、水時計の響き緩くなって、夜は次第に更け行くと、眞珠の箔を飾りにした廉をおろして蘭堂を掩っておちつける。

橫垂寶幄同心結,半拂瓊筵蘇合香。

閨には「同心結」をなせる太い房の付いている戸ばりを横にしてから下に垂らす、綺麗な席を半ば打ち拂うて、蘇合という外國渡来の名香を焚き、夫が居なくも、矢張り居るときとおなじように、さっぱりと部屋の中を片づけるのも、せめてもの心やりである。

#4

瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。

かくて、瓊筵寶幄の中に居て、連枝の模様ある錦の被を着て寐ると、燈火の光は、熒熒として輝き.濁り寝の淋しさを痛切に感ずるのである。

有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。

そこで、相思の種たる夫の枕を留め置き、鋏を取り出して、蘭の花を摘み取って之を佩びようと思いたつのである。

摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。

夫が此に居ない故に、佩びて見た處で何にも成らぬと思い諦めたものの、涙ぱらぱらと落ちてくる故に、幸運の真紅に染めた手巾を取って涙を拭ふと、氤氳として、活力が戻ってくるようであり、一人で過ごす夜はつらい。

明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。

明年もし更に遠き邊塞の方へでも行かれるというならば、その時こそ、われは、巫山の神女、瑤姫のように、陽臺一段の雲となり、夫の地の上の雲となるのであるから、そのことを、夫に知らせたいと願うものである。

 

(搗衣篇)#1

閨裡の佳人 年十餘,蛾を顰め 影に對して離居を恨む。

忽ち逢う 江上 春歸の燕,銜み得たり 雲中尺素の書。

玉手 緘を開いて 長しえに歎息し,狂夫 猶お戍す 交河の北。

#2

萬里 交河 水 北流し,願わくば 雙燕と為って 中洲に泛ばん。

君の邊 雲は擁す 青絲の騎,妾が處 苔は生ず 紅粉樓。

樓上の春風 日 將に歇まんとす,誰か能く 鏡を攬って 愁髮を看ん。

#3

曉に員管を吹いて 落花に隨い,夜は戎衣を搗って 明月に向う。

明月 高高として刻漏長く,真珠の簾箔 蘭堂を掩う。

橫に寶幄を垂る 同心結,半ば瓊筵を拂う 蘇合香。

#4

瓊筵 寶幄 連枝の錦,燈燭 熒熒として 孤寢を照らす。

便有り 金剪刀憑り將って,君が為に 留下す 相思の枕。

庭蘭を摘み盡せども 君を見ず,紅巾 淚を拭うて 氤氳を生ず。

明年 若更に邊塞を征すれば,願わくば陽臺一段の雲と作らん。

李白の足跡0000 

 

『搗衣篇』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。

有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。

摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。

明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。

(下し文)
#4

瓊筵 寶幄 連枝の錦,燈燭 熒熒として 孤寢を照らす。

便有り 金剪刀憑り將って,君が為に 留下す 相思の枕。

庭蘭を摘み盡せども 君を見ず,紅巾 淚を拭うて 氤氳を生ず。

明年 若更に邊塞を征すれば,願わくば陽臺一段の雲と作らん。

(現代語訳)
かくて、瓊筵寶幄の中に居て、連枝の模様ある錦の被を着て寐ると、燈火の光は、熒熒として輝き.濁り寝の淋しさを痛切に感ずるのである。

そこで、相思の種たる夫の枕を留め置き、鋏を取り出して、蘭の花を摘み取って之を佩びようと思いたつのである。

夫が此に居ない故に、佩びて見た處で何にも成らぬと思い諦めたものの、涙ぱらぱらと落ちてくる故に、幸運の真紅に染めた手巾を取って涙を拭ふと、氤氳として、活力が戻ってくるようであり、一人で過ごす夜はつらい。

明年もし更に遠き邊塞の方へでも行かれるというならば、その時こそ、われは、巫山の神女、瑤姫のように、陽臺一段の雲となり、夫の地の上の雲となるのであるから、そのことを、夫に知らせたいと願うものである。


(訳注) #4

搗衣篇(擣衣)

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

【題義】擣衣篇は、古楽府には見えない。これは、もしかすると、李白が始めて作った新題であるかも知れないといわれている。その内容に就いては、蕭士贇が「これ亦戍婦の詩なり」といった一語だけで述べている。

搗衣(擣衣)【とうい】砧【きぬた】で衣を打つこと。「擣【う】つ砧を臼にいれ、布を杵(棒杵)でつく。砧でつくのは洗濯ではなく、冬用の厚いごわごわした布を柔軟にするため。

 

瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。

かくて、瓊筵寶幄の中に居て、連枝の模様ある錦の被を着て寐ると、燈火の光は、熒熒として輝き.濁り寝の淋しさを痛切に感ずるのである。

連枝錦 連枝の模様を織りだした錦地。

 

有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。

そこで、相思の種たる夫の枕を留め置き、鋏を取り出して、蘭の花を摘み取って之を佩びようと思いたつのである。

 

摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。

夫が此に居ない故に、佩びて見た處で何にも成らぬと思い諦めたものの、涙ぱらぱらと落ちてくる故に、幸運の真紅に染めた手巾を取って涙を拭ふと、氤氳として、活力が戻ってくるようであり、一人で過ごす夜はつらい。

紅巾 紅色に染めた手拭き。

氤氳 天地の気が盛んなさま。生気・活力が盛んなさま。古代指陰陽二氣交會和合之狀。 《白虎通嫁娶》引《易》「天地氤氳,萬物化淳。」

 

明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。

明年もし更に遠き邊塞の方へでも行かれるというならば、その時こそ、われは、巫山の神女、瑤姫のように、陽臺一段の雲となり、夫の地の上の雲となるのであるから、そのことを、夫に知らせたいと願うものである。

陽臺一段雲 男女の密会・情交のたとえ。「巫山の雲」「巫山の雨」「巫山の雲雨」とも。《語源》楚 (ソ)の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と情交を結んだという故事。陽臺:宋玉高唐賦「朝朝暮暮,陽臺之下。」、朝は雲に、夕方は雨になると告げて姿を消 した。一段雲:宋玉『高唐賦』「昔者楚襄王與宋玉遊於雲夢之台,望高之觀,其上獨有雲氣兮直上,忽兮改容,須臾之間,變化無窮。

宋玉『高唐賦』「昔者楚襄王與宋玉遊於雲夢之台,望高之觀,其上獨有雲氣,兮直上,忽兮改容,須臾之間,變化無窮。王問玉曰:“此何氣也?”玉對曰:“所謂朝雲者也。”王曰:“何謂朝雲?”玉曰:“昔者先王嘗遊高唐,怠而晝寢,夢見一婦人曰:‘妾,巫山之女也。爲高唐之客。聞君遊高唐,願薦枕席。’王因幸之。去而辭曰:‘妾在巫山之陽,高丘之阻,旦爲朝雲,暮爲行雨。朝朝暮暮,陽臺之下。’旦朝視之,如言。故爲立廟,號曰朝雲。」
巫山十二峰002 

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李白  搗衣篇#3

曉吹員管隨落花,夜搗戎衣向明月。明月高高刻漏長,真珠簾箔掩蘭堂。

橫垂寶幄同心結,半拂瓊筵蘇合香。
かくて、暁には、管笛を吹いて、落花、落葉の行衛を追い日を過し、夜は、夫の着る戎衣を砧で打って、月の光を眺めるばかりしている。

秋の夜長、明月は、高く天に冲し、水時計の響き緩くなって、夜は次第に更け行くと、眞珠の箔を飾りにした廉をおろして蘭堂を掩っておちつける。

閨には「同心結」をなせる太い房の付いている戸ばりを横にしてから下に垂らす、綺麗な席を半ば打ち拂うて、蘇合という外國渡来の名香を焚き、夫が居なくも、矢張り居るときとおなじように、さっぱりと部屋の中を片づけるのも、せめてもの心やりである。

292-#3 《巻五 33搗衣篇》-#3Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <292-#3> Ⅰ李白詩1584 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6468

 

 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    搗衣篇

作地點:              目前尚無資料

及地點:              交河 (隴右道西部 西州 交河)           

 

 

搗衣篇

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

閨裡佳人年十餘,顰蛾對影恨離居。

閨中に一人いる佳人、年はやつと十五六、つひ近ごろ嫁ったばかりで、早くも夫と別れて、ひとり空牀を守って居る。

忽逢江上春歸燕,銜得雲中尺素書。

そこで、眉を顰め、おのが影を顧みつつ、夫と別れ居ることを痛く怨んでいる。その処へ、春、北地から飛んできた江上の燕が、雲中より下って口に銜えていた手紙を置いていった。

玉手開緘長歎息,狂夫猶戍交河北。

佳人は、その手紙を取り、繊繊たる玉手を以て、その封を開くと、それは、夫からの書信であって、今は西域の交河に駐屯して居るということが書いてあった。

#2

萬里交河水北流,願為雙燕泛中洲。

交河は、萬里を隔てて、その水は北に流れるというが、願わくば、君と我と、この手紙を届けて呉れた其の燕のようになり、雙雙影を聯ねて、交河の中の洲の上に留まって居たい。無論、君とならば、連塞夷蠻の地でも、決して、厭いはしない。

君邊雲擁青絲騎,妾處苔生紅粉樓。

しかし、それも単なる願望に過ぎず、両地全く懸け離れて、君の留まるあたりは、青い絲の手綱を手にせる騎兵が羣れて居るであらうが、雲に隔られて、それとも見え分かず、わが居る処では、紅粉の粧さびしげに、楼中にひとり残り、外との来往も、絶えて居るから、上り口には苔さへ生える位。

樓上春風日將歇,誰能攬鏡看愁髮。

折しも、楼上には、東風吹き入り、やがて、日も暮れなんとして居るが、誰が此時に皆って、鏡を取り上げて、乱れたる髪を照らし見ようか。とても、その様な心持になれぬので、夫の居らぬ間は、化粧もせぬ故に、鏡を見る必要もないのである。

#3

曉吹員管隨落花,夜搗戎衣向明月。

かくて、暁には、管笛を吹いて、落花、落葉の行衛を追い日を過し、夜は、夫の着る戎衣を砧で打って、月の光を眺めるばかりしている。

明月高高刻漏長,真珠簾箔掩蘭堂。

秋の夜長、明月は、高く天に冲し、水時計の響き緩くなって、夜は次第に更け行くと、眞珠の箔を飾りにした廉をおろして蘭堂を掩っておちつける。

橫垂寶幄同心結,半拂瓊筵蘇合香。

閨には「同心結」をなせる太い房の付いている戸ばりを横にしてから下に垂らす、綺麗な席を半ば打ち拂うて、蘇合という外國渡来の名香を焚き、夫が居なくも、矢張り居るときとおなじように、さっぱりと部屋の中を片づけるのも、せめてもの心やりである。

#4

瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。

有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。

摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。

明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。

 

(搗衣篇)#1

閨裡の佳人 年十餘,蛾を顰め 影に對して離居を恨む。

忽ち逢う 江上 春歸の燕,銜み得たり 雲中尺素の書。

玉手 緘を開いて 長しえに歎息し,狂夫 猶お戍す 交河の北。

#2

萬里 交河 水 北流し,願わくば 雙燕と為って 中洲に泛ばん。

君の邊 雲は擁す 青絲の騎,妾が處 苔は生ず 紅粉樓。

樓上の春風 日 將に歇まんとす,誰か能く 鏡を攬って 愁髮を看ん。

#3

曉に員管を吹いて 落花に隨い,夜は戎衣を搗って 明月に向う。

明月 高高として刻漏長く,真珠の簾箔 蘭堂を掩う。

橫に寶幄を垂る 同心結,半ば瓊筵を拂う 蘇合香。

#4

瓊筵 寶幄 連枝の錦,燈燭 熒熒として 孤寢を照らす。

便有り 金剪刀憑り將って,君が為に 留下す 相思の枕。

庭蘭を摘み盡せども 君を見ず,紅巾 淚を拭うて 氤氳を生ず。

明年 若更に邊塞を征すれば,願わくば陽臺一段の雲と作らん。

 

李白の足跡0000 

『搗衣篇』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

曉吹員管隨落花,夜搗戎衣向明月。

明月高高刻漏長,真珠簾箔掩蘭堂。

橫垂寶幄同心結,半拂瓊筵蘇合香。

(下し文) #3

曉に員管を吹いて 落花に隨い,夜は戎衣を搗って 明月に向う。

明月 高高として刻漏長く,真珠の簾箔 蘭堂を掩う。

橫に寶幄を垂る 同心結,半ば瓊筵を拂う 蘇合香。

(現代語訳)
かくて、暁には、管笛を吹いて、落花、落葉の行衛を追い日を過し、夜は、夫の着る戎衣を砧で打って、月の光を眺めるばかりしている。

秋の夜長、明月は、高く天に冲し、水時計の響き緩くなって、夜は次第に更け行くと、眞珠の箔を飾りにした廉をおろして蘭堂を掩っておちつける。

閨には「同心結」をなせる太い房の付いている戸ばりを横にしてから下に垂らす、綺麗な席を半ば打ち拂うて、蘇合という外國渡来の名香を焚き、夫が居なくも、矢張り居るときとおなじように、さっぱりと部屋の中を片づけるのも、せめてもの心やりである。


(訳注) #3

搗衣篇(擣衣)

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

【題義】擣衣篇は、古楽府には見えない。これは、もしかすると、李白が始めて作った新題であるかも知れないといわれている。その内容に就いては、蕭士贇が「これ亦戍婦の詩なり」といった一語だけで述べている。

搗衣(擣衣)【とうい】砧【きぬた】で衣を打つこと。「擣【う】つ砧を臼にいれ、布を杵(棒杵)でつく。砧でつくのは洗濯ではなく、冬用の厚いごわごわした布を柔軟にするため。

 

曉吹員管隨落花,夜搗戎衣向明月。

かくて、暁には、管笛を吹いて、落花、落葉の行衛を追い日を過し、夜は、夫の着る戎衣を砧で打って、月の光を眺めるばかりしている。

○員管 管笛

 

明月高高刻漏長,真珠簾箔掩蘭堂。

秋の夜長、明月は、高く天に冲し、水時計の響き緩くなって、夜は次第に更け行くと、眞珠の箔を飾りにした廉をおろして蘭堂を掩っておちつける。

○刻漏 水時計の響き緩くなる。

○真珠簾箔 簾の上に真珠の箔を飾りに付けている。

○蘭堂 香木で作った奥座敷。

 

橫垂寶幄同心結,半拂瓊筵蘇合香。

閨には「同心結」をなせる太い房の付いている戸ばりを横にしてから下に垂らす、綺麗な席を半ば打ち拂うて、蘇合という外國渡来の名香を焚き、夫が居なくも、矢張り居るときとおなじように、さっぱりと部屋の中を片づけるのも、せめてもの心やりである。

○寶幄 りっぱなとばり。

○同心結 結同心 同心結を結うこと。連環回文様式の絶対にほどけない結び方。また、同心結は、(男女の)ちぎりを結ぶことと。錢唐 蘇小(蘇小小)『西陵歌』「妾乘油壁車,郞乘靑踪馬。何處結同心、西陵松柏下。」(妾(わたくし)は 油壁の車に乘り,郞(あなた)は 靑の馬に 乘る。何處(いづこ)にか 同心を 結ばん、西陵の 松柏の下(もと)。)とみえる。蘇小小『西陵歌』ここでは、タペストリーのように寝牀の垂れ幕の中心にぶら下げ飾るということである。

○瓊筵 〔玉で飾った敷物の意〕 天子の宴席。また,宴席の美称。

○蘇合香 外国産の貴き香料。

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李白  搗衣篇#2

萬里交河水北流,願為雙燕泛中洲。君邊雲擁青絲騎,妾處苔生紅粉樓。

樓上春風日將歇,誰能攬鏡看愁髮。
交河は、萬里を隔てて、その水は北に流れるというが、願わくば、君と我と、この手紙を届けて呉れた其の燕のようになり、雙雙影を聯ねて、交河の中の洲の上に留まって居たい。無論、君とならば、連塞夷蠻の地でも、決して、厭いはしない。しかし、それも単なる願望に過ぎず、両地全く懸け離れて、君の留まるあたりは、青い絲の手綱を手にせる騎兵が羣れて居るであらうが、雲に隔られて、それとも見え分かず、わが居る処では、紅粉の粧さびしげに、楼中にひとり残り、外との来往も、絶えて居るから、上り口には苔さへ生える位。折しも、楼上には、東風吹き入り、やがて、日も暮れなんとして居るが、誰が此時に皆って、鏡を取り上げて、乱れたる髪を照らし見ようか。とても、その様な心持になれぬので、夫の居らぬ間は、化粧もせぬ故に、鏡を見る必要もないのである。

292-#2 《巻五 33搗衣篇》-#2Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <292-#2> Ⅰ李白詩1583 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6463

 
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 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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292-#2 《巻五 33搗衣篇》-#2Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <292-#2> Ⅰ李白詩1583 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6463 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    搗衣篇

作地點:              目前尚無資料

及地點:              交河 (隴右道西部 西州 交河)           

 

 

搗衣篇

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

閨裡佳人年十餘,顰蛾對影恨離居。

閨中に一人いる佳人、年はやつと十五六、つひ近ごろ嫁ったばかりで、早くも夫と別れて、ひとり空牀を守って居る。

忽逢江上春歸燕,銜得雲中尺素書。

そこで、眉を顰め、おのが影を顧みつつ、夫と別れ居ることを痛く怨んでいる。その処へ、春、北地から飛んできた江上の燕が、雲中より下って口に銜えていた手紙を置いていった。

玉手開緘長歎息,狂夫猶戍交河北。

佳人は、その手紙を取り、繊繊たる玉手を以て、その封を開くと、それは、夫からの書信であって、今は西域の交河に駐屯して居るということが書いてあった。

#2

萬里交河水北流,願為雙燕泛中洲。

交河は、萬里を隔てて、その水は北に流れるというが、願わくば、君と我と、この手紙を届けて呉れた其の燕のようになり、雙雙影を聯ねて、交河の中の洲の上に留まって居たい。無論、君とならば、連塞夷蠻の地でも、決して、厭いはしない。

君邊雲擁青絲騎,妾處苔生紅粉樓。

しかし、それも単なる願望に過ぎず、両地全く懸け離れて、君の留まるあたりは、青い絲の手綱を手にせる騎兵が羣れて居るであらうが、雲に隔られて、それとも見え分かず、わが居る処では、紅粉の粧さびしげに、楼中にひとり残り、外との来往も、絶えて居るから、上り口には苔さへ生える位。

樓上春風日將歇,誰能攬鏡看愁髮。

折しも、楼上には、東風吹き入り、やがて、日も暮れなんとして居るが、誰が此時に皆って、鏡を取り上げて、乱れたる髪を照らし見ようか。とても、その様な心持になれぬので、夫の居らぬ間は、化粧もせぬ故に、鏡を見る必要もないのである。

#3

曉吹員管隨落花,夜搗戎衣向明月。

明月高高刻漏長,真珠簾箔掩蘭堂。

橫垂寶幄同心結,半拂瓊筵蘇合香。

#4

瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。

有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。

摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。

明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。

 

(搗衣篇)#1

閨裡の佳人 年十餘,蛾を顰め 影に對して離居を恨む。

忽ち逢う 江上 春歸の燕,銜み得たり 雲中尺素の書。

玉手 緘を開いて 長しえに歎息し,狂夫 猶お戍す 交河の北。

#2

萬里 交河 水 北流し,願わくば 雙燕と為って 中洲に泛ばん。

君の邊 雲は擁す 青絲の騎,妾が處 苔は生ず 紅粉樓。

樓上の春風 日 將に歇まんとす,誰か能く 鏡を攬って 愁髮を看ん。

#3

曉に員管を吹いて 落花に隨い,夜は戎衣を搗って 明月に向う。

明月 高高として刻漏長く,真珠の簾箔 蘭堂を掩う。

橫に寶幄を垂る 同心結,半ば瓊筵を拂う 蘇合香。

#4

瓊筵 寶幄 連枝の錦,燈燭 熒熒として 孤寢を照らす。

便有り 金剪刀憑り將って,君が為に 留下す 相思の枕。

庭蘭を摘み盡せども 君を見ず,紅巾 淚を拭うて 氤氳を生ず。

明年 若更に邊塞を征すれば,願わくば陽臺一段の雲と作らん。

李白の足跡0000 

 

『搗衣篇』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

萬里交河水北流,願為雙燕泛中洲。

君邊雲擁青絲騎,妾處苔生紅粉樓。

樓上春風日將歇,誰能攬鏡看愁髮。

(下し文)
#2

萬里 交河 水 北流し,願わくば 雙燕と為って 中洲に泛ばん。

君の邊 雲は擁す 青絲の騎,妾が處 苔は生ず 紅粉樓。

樓上の春風 日 將に歇まんとす,誰か能く 鏡を攬って 愁髮を看ん。

(現代語訳)
交河は、萬里を隔てて、その水は北に流れるというが、願わくば、君と我と、この手紙を届けて呉れた其の燕のようになり、雙雙影を聯ねて、交河の中の洲の上に留まって居たい。無論、君とならば、連塞夷蠻の地でも、決して、厭いはしない。

しかし、それも単なる願望に過ぎず、両地全く懸け離れて、君の留まるあたりは、青い絲の手綱を手にせる騎兵が羣れて居るであらうが、雲に隔られて、それとも見え分かず、わが居る処では、紅粉の粧さびしげに、楼中にひとり残り、外との来往も、絶えて居るから、上り口には苔さへ生える位。

折しも、楼上には、東風吹き入り、やがて、日も暮れなんとして居るが、誰が此時に皆って、鏡を取り上げて、乱れたる髪を照らし見ようか。とても、その様な心持になれぬので、夫の居らぬ間は、化粧もせぬ故に、鏡を見る必要もないのである。


(訳注) #2

搗衣篇(擣衣)

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

【題義】擣衣篇は、古楽府には見えない。これは、もしかすると、李白が始めて作った新題であるかも知れないといわれている。その内容に就いては、蕭士贇が「これ亦戍婦の詩なり」といった一語だけで述べている。

○搗衣(擣衣)【とうい】砧【きぬた】で衣を打つこと。「擣【う】つ砧を臼にいれ、布を杵(棒杵)でつく。砧でつくのは洗濯ではなく、冬用の厚いごわごわした布を柔軟にするため。

 

萬里交河水北流,願為雙燕泛中洲。

交河は、萬里を隔てて、その水は北に流れるというが、願わくば、君と我と、この手紙を届けて呉れた其の燕のようになり、雙雙影を聯ねて、交河の中の洲の上に留まって居たい。無論、君とならば、連塞夷蠻の地でも、決して、厭いはしない。

交河 交河城は、紀元前2世紀に、この地に住んでいた車師人によって建てられた。『漢書』西域伝にも、「車師前国、王治交河城、河水分流繞城下、故号交河(車師前国の国王は交河を治めた。河の水が故城を分けていることから交河と呼ばれた)」とある。

中洲 洲中と同じ。川中の洲の中。

 

君邊雲擁青絲騎,妾處苔生紅粉樓。

しかし、それも単なる願望に過ぎず、両地全く懸け離れて、君の留まるあたりは、青い絲の手綱を手にせる騎兵が羣れて居るであらうが、雲に隔られて、それとも見え分かず、わが居る処では、紅粉の粧さびしげに、楼中にひとり残り、外との来往も、絶えて居るから、上り口には苔さへ生える位。

青絲騎 馬の手綱が青い糸で編んだものを馬に付けて乗っている人。

紅粉 この詩の寡婦がお化粧をしていること。

 

樓上春風日將歇,誰能攬鏡看愁髮。

折しも、楼上には、東風吹き入り、やがて、日も暮れなんとして居るが、誰が此時に皆って、鏡を取り上げて、乱れたる髪を照らし見ようか。とても、その様な心持になれぬので、夫の居らぬ間は、化粧もせぬ故に、鏡を見る必要もないのである。
安史の乱当時の勢力図 

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李白  搗衣篇-#1  

閨裡佳人年十餘,顰蛾對影恨離居。

忽逢江上春歸燕,銜得雲中尺素書。

玉手開緘長歎息,狂夫猶戍交河北。
(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)閨中に一人いる佳人、年はやつと十五六、つひ近ごろ嫁ったばかりで、早くも夫と別れて、ひとり空牀を守って居る。そこで、眉を顰め、おのが影を顧みつつ、夫と別れ居ることを痛く怨んでいる。その処へ、春、北地から飛んできた江上の燕が、雲中より下って口に銜えていた手紙を置いていった。佳人は、その手紙を取り、繊繊たる玉手を以て、その封を開くと、それは、夫からの書信であって、今は西域の交河に駐屯して居るということが書いてあった。

292-#1 《巻五 33搗衣篇》-#1Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <292-#1> Ⅰ李白詩1582 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6458
 

 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    搗衣篇

作地點:              目前尚無資料

及地點:              交河 (隴右道西部 西州 交河)           

 

 

搗衣篇

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

閨裡佳人年十餘,顰蛾對影恨離居。

閨中に一人いる佳人、年はやつと十五六、つひ近ごろ嫁ったばかりで、早くも夫と別れて、ひとり空牀を守って居る。

忽逢江上春歸燕,銜得雲中尺素書。

そこで、眉を顰め、おのが影を顧みつつ、夫と別れ居ることを痛く怨んでいる。その処へ、春、北地から飛んできた江上の燕が、雲中より下って口に銜えていた手紙を置いていった。

玉手開緘長歎息,狂夫猶戍交河北。

佳人は、その手紙を取り、繊繊たる玉手を以て、その封を開くと、それは、夫からの書信であって、今は西域の交河に駐屯して居るということが書いてあった。

#2

萬里交河水北流,願為雙燕泛中洲。

君邊雲擁青絲騎,妾處苔生紅粉樓。

樓上春風日將歇,誰能攬鏡看愁髮。

#3

曉吹員管隨落花,夜搗戎衣向明月。

明月高高刻漏長,真珠簾箔掩蘭堂。

橫垂寶幄同心結,半拂瓊筵蘇合香。

#4

瓊筵寶幄連枝錦,燈燭熒熒照孤寢。

有便憑將金剪刀,為君留下相思枕。

摘盡庭蘭不見君,紅巾拭淚生氤氳。

明年若更征邊塞,願作陽臺一段雲。

 

(搗衣篇)#1

閨裡の佳人 年十餘,蛾を顰め 影に對して離居を恨む。

忽ち逢う 江上 春歸の燕,銜み得たり 雲中尺素の書。

玉手 緘を開いて 長しえに歎息し,狂夫 猶お戍す 交河の北。

#2

萬里 交河 水 北流し,願わくば 雙燕と為って 中洲に泛ばん。

君の邊 雲は擁す 青絲の騎,妾が處 苔は生ず 紅粉樓。

樓上の春風 日 將に歇まんとす,誰か能く 鏡を攬って 愁髮を看ん。

#3

曉に員管を吹いて 落花に隨い,夜は戎衣を搗って 明月に向う。

明月 高高として刻漏長く,真珠の簾箔 蘭堂を掩う。

橫に寶幄を垂る 同心結,半ば瓊筵を拂う 蘇合香。

#4

瓊筵 寶幄 連枝の錦,燈燭 熒熒として 孤寢を照らす。

便有り 金剪刀憑り將って,君が為に 留下す 相思の枕。

庭蘭を摘み盡せども 君を見ず,紅巾 淚を拭うて 氤氳を生ず。

明年 若更に邊塞を征すれば,願わくば陽臺一段の雲と作らん。

 

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『搗衣篇』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

搗衣篇

閨裡佳人年十餘,顰蛾對影恨離居。

忽逢江上春歸燕,銜得雲中尺素書。

玉手開緘長歎息,狂夫猶戍交河北。

(下し文)
(搗衣篇)#1

閨裡の佳人 年十餘,蛾を顰め 影に對して離居を恨む。

忽ち逢う 江上 春歸の燕,銜み得たり 雲中尺素の書。

玉手 緘を開いて 長しえに歎息し,狂夫 猶お戍す 交河の北。

(現代語訳)
(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

閨中に一人いる佳人、年はやつと十五六、つひ近ごろ嫁ったばかりで、早くも夫と別れて、ひとり空牀を守って居る。

そこで、眉を顰め、おのが影を顧みつつ、夫と別れ居ることを痛く怨んでいる。その処へ、春、北地から飛んできた江上の燕が、雲中より下って口に銜えていた手紙を置いていった。

佳人は、その手紙を取り、繊繊たる玉手を以て、その封を開くと、それは、夫からの書信であって、今は西域の交河に駐屯して居るということが書いてあった。


(訳注)

搗衣篇(擣衣)

(十五で嫁に来て、直ぐに夫を送り出した。はじめだけ西域の交河に駐屯して居ると手紙を寄せたがそれ以降、音信不通、秋になれは夫のために砧を擣つが、一人寝の閨で涙にくれる。戍婦の情を詠う。)

【題義】擣衣篇は、古楽府には見えない。これは、もしかすると、李白が始めて作った新題であるかも知れないといわれている。その内容に就いては、蕭士贇が「これ亦戍婦の詩なり」といった一語だけで述べている。

○搗衣(擣衣)【とうい】砧【きぬた】で衣を打つこと。「擣【う】つ砧を臼にいれ、布を杵(棒杵)でつく。砧でつくのは洗濯ではなく、冬用の厚いごわごわした布を柔軟にするため。

杜甫 《0770 擣衣》

亦知戍不返,秋至拭清砧。已近苦寒月,況經長別心。

寧辭擣衣倦,一寄塞垣深。用盡閨中力,君聽空外音。

搗衣(擣衣) 杜甫 <295> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1352 杜甫詩 700- 415

擣衣 楽府題、雜曲歌辞。謝惠連《擣衣》

絹布を砧でうって白練り絹に詩、衣を製する。秋の風物詩として手、出征の夫に送るために作業する女性について詠うものである。

擣衣 謝惠連 詩<83-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩513 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1356

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『詩経』豳風(ひんぷう)「七月」(ふみづき)

七月流火、九月授衣。

一之日觱發、二之日栗烈。

無衣無褐、何以卒

三之日于耜、四之日舉趾、同我婦子。

饁彼南畝、田畯至喜。

(七月には流る火あり、九月衣を授く。

一の日は觱發たり、二の日は栗烈たり。

衣無く褐無くんば、何を以てかを卒へん。

三の日 于(ここ)に耜(し)し、四の日 趾(あし)を舉ぐ、我が婦子とともに。

彼の南畝に饁(かれひ)す、田畯至り喜ぶ。)

に基づく句である。

<大意>七月には火星が西に流れる、九月には家族に衣を与えねばならぬ、十一月には風が寒くなり、十二月には激しく吹く、衣がなければ、どうして年を越せようか、明けて三月には鋤の手入れをし、四月には足を上げて耕さねばならぬ、我が妻子とともに、南の畑で働いていると、田んぼの役人さんがやってきて、喜びなさるだろう(流火:火は火星のこと、それが西へ流れるのを流火という、一之日:十一月をさす、田畯:田んぼを管轄する役人)

 

閨裡佳人年十餘,顰蛾對影恨離居。

閨中に一人いる佳人、年はやつと十五六、つひ近ごろ嫁ったばかりで、早くも夫と別れて、ひとり空牀を守って居る。

顰蛾 眉をひそめる。

離居 わかれている。

 

忽逢江上春歸燕,銜得雲中尺素書。

そこで、眉を顰め、おのが影を顧みつつ、夫と別れ居ることを痛く怨んでいる。その処へ、春、北地から飛んできた江上の燕が、雲中より下って口に銜えていた手紙を置いていった。

尺素 《1尺の絹布の意で、文字を書くのに用いたところから》短い手紙。尺書。短い絹、手紙に使う。

 

玉手開緘長歎息,狂夫猶戍交河北。

佳人は、その手紙を取り、繊繊たる玉手を以て、その封を開くと、それは、夫からの書信であって、今は西域の交河に駐屯して居るということが書いてあった。

狂夫 ここでは夫のことで、初めだけ手紙をよこしてその後、無しのつぶてであることから、自分の夫を故意に罵っていう。王維〈洛陽女兒行〉:「狂夫富貴在青春,意氣驕奢劇季倫。」唐.杜甫〈狂夫〉詩:「欲填溝壑唯疏放,自笑狂夫老更狂。」狂妄無知的人。《詩經.齊風.東方未明》:「折柳樊圃,狂夫瞿瞿。」

交河 交河城は、紀元前2世紀に、この地に住んでいた車師人によって建てられた。『漢書』西域伝にも、「車師前国、王治交河城、河水分流繞城下、故号交河(車師前国の国王は交河を治めた。河の水が故城を分けていることから交河と呼ばれた)」とある。

交河故城、交河古城、交河城址は中華人民共和国、新疆ウイグル自治区トルファン市の西方11キロに位置する世界最大、最古級の版築で築かれた都市遺跡。中国でただ一つ残る漢代からの都市遺跡でもある。遺跡は柳葉形の台地上に位置し周囲は約30メートルの断崖に囲まれ自然の要害をなしている。
長安と西域 地図01 安史期のアジアssH

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李白  鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】-#2

此時惜別詎堪聞,此地相看未忍分。重吟真曲和清吹,卻奏仙歌響綠雲。

綠雲紫氣向函關,訪道應尋緱氏山。莫學吹笙王子晉,一遇浮丘斷不還。
この時、我我は、別を惜むが故に、折角の名曲も聞くに堪へぬようで、今度は何時逢えるかと思ふと、まことに、別るるに忍びない。しかし、仙人は、重ねて眞曲を吟じて、鳳笙の淸聲に和し、又仙歌を唱へて、その響きが緑雲に徹するほどであった。その緑雲は、かの老子の「紫氣東來」と同じく、飛飛として函谷関に向ひ、やがて、仙人も、その地に至り、そして、上古仙人の遺跡である緱氏山を尋ねるであろうが、かの王子晋が常に鳳笙を弄び、一たび浮邱公に出会って登仙し、再び人間に還ってこなかったといふやうことは、しばらく、まねをせずにいてもらいたい。何となれば、別離の情長くつきず、是非もう一度逢ひたいと思うからで、緱氏山を過ぎて後はとにかく、長安に入って浮丘である天子に拝謁し、それからここへ還ってほしいというのである。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              崑崙山 (隴右道東部 肅州 崑崙山)    

故函谷關 (都畿道 陜州 故函谷關) 別名:秦關            

緱氏山 (都畿道 河南府 緱氏)          

 

 

鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】

(神仙を学んだあなたは王子喬のように十五にして、笙を吹いたというが、今天子に朝見するので送るにあたって王子晋のように登仙して帰ってこなかったということが無いように戻ってきてほしい。)

仙人十五愛吹笙,學得崑丘彩鳳鳴。

生まれながらにして仙人の天分を備へた我が相知の一少年は、年十五にして、笙を吹くことを学び、崑崙山に棲んで居る彩鳳の鳴き聲を學び得て、極めて上手に吹き鳴らすように成った。

始聞鍊氣餐金液,復道朝天赴玉京。

その間、常に仙術を稽古し、気を錬って、太乙金液をも服して居たが、近ごろは、天子の御招きに因って、俄に都に上ることになった。

玉京迢迢幾千里,鳳笙去去無窮已。

長安の都は、ここを隔つること幾千里で、一たび立ち去らば、鳳笙の聲も再び聞くことはできない。

欲歎離聲發絳脣,更嗟別調流纖指。

そこで、別離の一曲を吹かむが為に、紅き唇を動かし、又細い指で調子を取って、しきりに心を悩まして居る。

-#2

此時惜別詎堪聞,此地相看未忍分。

この時、我我は、別を惜むが故に、折角の名曲も聞くに堪へぬようで、今度は何時逢えるかと思ふと、まことに、別るるに忍びない。

重吟真曲和清吹,卻奏仙歌響綠雲。

しかし、仙人は、重ねて眞曲を吟じて、鳳笙の淸聲に和し、又仙歌を唱へて、その響きが緑雲に徹するほどであった。

綠雲紫氣向函關,訪道應尋緱氏山。

その緑雲は、かの老子の「紫氣東來」と同じく、飛飛として函谷関に向ひ、やがて、仙人も、その地に至り、そして、上古仙人の遺跡である緱氏山を尋ねるであろうが、かの王子晋が常に鳳笙を弄び、一たび浮邱公に出会って登仙し、再び人間に還ってこなかったといふやうことは、しばらく、まねをせずにいてもらいたい。

莫學吹笙王子晉,一遇浮丘斷不還。

何となれば、別離の情長くつきず、是非もう一度逢ひたいと思うからで、緱氏山を過ぎて後はとにかく、長安に入って浮丘である天子に拝謁し、それからここへ還ってほしいというのである。

 

鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】#1

仙人 十五 笙を吹く愛す,學び得たり 崑丘 彩鳳の鳴くを。

始めて聞く 氣を鍊って金液を餐するを,復た道う 天に朝して玉京に赴くと。

玉京 迢迢 幾千里,鳳笙 去去 窮まり已む無し。

歎ぜんと欲す 離聲の絳脣に發するを,更に嗟す 別調の流纖指。

-#2

此の時 別を惜む 詎ぞ聞くに堪えん,此の地 相い看て未だ分るるに忍びず。

重ねて真曲を吟じて 清吹に和し,卻って仙歌を奏して 綠雲に響く。

綠雲 紫氣 函關に向う,道を訪う 應に尋ぬべし 緱氏山。

學ぶ莫れ 吹笙の王子晉,一たび 浮丘に遇えば 斷じて還らず。

 

 

『鳳吹笙曲』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
-#2

此時惜別詎堪聞,此地相看未忍分。

重吟真曲和清吹,卻奏仙歌響綠雲。

綠雲紫氣向函關,訪道應尋緱氏山。

莫學吹笙王子晉,一遇浮丘斷不還。

(下し文)-#2

此の時 別を惜む 詎ぞ聞くに堪えん,此の地 相い看て未だ分るるに忍びず。

重ねて真曲を吟じて 清吹に和し,卻って仙歌を奏して 綠雲に響く。

綠雲 紫氣 函關に向う,道を訪う 應に尋ぬべし 緱氏山。

學ぶ莫れ 吹笙の王子晉,一たび 浮丘に遇えば 斷じて還らず。

(現代語訳)
この時、我我は、別を惜むが故に、折角の名曲も聞くに堪へぬようで、今度は何時逢えるかと思ふと、まことに、別るるに忍びない。

しかし、仙人は、重ねて眞曲を吟じて、鳳笙の淸聲に和し、又仙歌を唱へて、その響きが緑雲に徹するほどであった。

その緑雲は、かの老子の「紫氣東來」と同じく、飛飛として函谷関に向ひ、やがて、仙人も、その地に至り、そして、上古仙人の遺跡である緱氏山を尋ねるであろうが、かの王子晋が常に鳳笙を弄び、一たび浮邱公に出会って登仙し、再び人間に還ってこなかったといふやうことは、しばらく、まねをせずにいてもらいたい。

何となれば、別離の情長くつきず、是非もう一度逢ひたいと思うからで、緱氏山を過ぎて後はとにかく、長安に入って浮丘である天子に拝謁し、それからここへ還ってほしいというのである。


(訳注) -#2

鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】

(神仙を学んだあなたは王子喬のように十五にして、笙を吹いたというが、今天子に朝見するので送るにあたって王子晋のように登仙して帰ってこなかったということが無いように戻ってきてほしい。)

鳳笙篇も楽府題である。李白の此詩に就いて、蕭士贇は、「遊仙の詩」と言ったが、王琦は、

「この詩は、是れ一道流詔に応じて京に入るを送るの作、謂はゆる仙人十五愛吹笙は、正に其人を実指す、古事を泛用するに非ざるなり。謂はゆる朝天赴玉京とは、その京に入って朝見するをいう。その超昇、軽擧を謂ふに非や。舊註、遊仙の詩を以て之に擬す、その旨を矢へり」といって居るが、なる程、この方が切實であるから、今これにしたがうことにする。

 

此時惜別詎堪聞,此地相看未忍分。

この時、我我は、別を惜むが故に、折角の名曲も聞くに堪へぬようで、今度は何時逢えるかと思ふと、まことに、別るるに忍びない。

 

重吟真曲和清吹,卻奏仙歌響綠雲。

しかし、仙人は、重ねて眞曲を吟じて、鳳笙の淸聲に和し、又仙歌を唱へて、その響きが緑雲に徹するほどであった。

 

綠雲紫氣向函關,訪道應尋緱氏山。

その緑雲は、かの老子の「紫氣東來」と同じく、飛飛として函谷関に向ひ、やがて、仙人も、その地に至り、そして、上古仙人の遺跡である緱氏山を尋ねるであろうが、かの王子晋が常に鳳笙を弄び、一たび浮邱公に出会って登仙し、再び人間に還ってこなかったといふやうことは、しばらく、まねをせずにいてもらいたい。

紫氣 紫氣東來。. 隠君子として周の図書館の司書をつとめていた。孔子は洛陽に出向いて彼の教えを受けている。あるとき周の国勢が衰えるのを感じ、牛の背に乗って西方に向かった。函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜(いんき、中文版)の求めに応じて上下二巻の書を書き上げた。それが現在に伝わる『道徳経』である。《列仙傳》「老子西遊,關令尹喜望見有紫氣浮關,而老子果乘青牛而過也。」

函關 函谷関

緱氏山 緱氏山(こうしざん)は、河南省洛陽市偃師市にある霊山。洛陽から嵩山に至る途中にある。有名な仙人である王子晋(王子喬、昇仙太子)がいたことで知られる。魏晋南北朝時代以来,赤松子とならんで古代の仙人の代表とされ,詩文や絵画に登場することが多い。王子喬が升仙の後,白鶴に乗って出現し人々に挨拶したとされる偃師(えんし)の緱氏山(こうしざん)には彼の廟がある。王子晋を信仰した則天武后は、聖暦2年(6992月、嵩山とともに昇仙太子廟に「升仙太子碑」を建てたが、飛白書という特殊な書体で書かれたものとして有名。

嵩山の孫太沖(そんたいちゅう)は、玄宗の命令を受けて、昇仙太子廟で金丹(九転丹)を製造している。

 

莫學吹笙王子晉,一遇浮丘斷不還。

何となれば、別離の情長くつきず、是非もう一度逢ひたいと思うからで、緱氏山を過ぎて後はとにかく、長安に入って浮丘である天子に拝謁し、それからここへ還ってほしいというのである。

王子晉 漢・劉向『列仙傳』「王子喬者。周靈王太子也。好吹笙作鳳凰鳴。遊伊洛之間。道士浮丘公。接以上嵩山。三十餘年。後求之於山。見桓良曰。告我家。七月七日、待我於緱氏山頭。果乘白鶴。駐山嶺。望之不到。舉手謝時人。數日而去。後立祠於緱氏及嵩山。」王子喬というのは、周の霊王の太子晋のことである。たくみに笙を吹いて鳳凰の鳴くような音をたてた。伊洛の地に遊歴の砌、道士浮丘公というもの、これを伴って嵩高山に登ってしまった。三十余年の後に、これを山上で捜すと、桓良というものの前にあらわれて、「七月七日に、予を緱氏山の頂上で待っているように、家人に伝えてほしい」といった。その日になると、果たして白い鶴に乗ってきて山頂にとまった。遠くからは見えても、そこまで行くことができない。手をあげて人々に別れを告げ、数日して飛び去った。後日、緱子氏の麓や嵩山の頂には、その祠が立てられた。(漢・劉向『太平廣記』《列仙傳》

浮丘 浮丘公古代族神伝説中的仙人。《文選·謝靈運》:“遇浮丘公,長絶子徽音。” 李善注引《列仙》:“ 王子晋好吹笙,道人浮丘公接以上嵩山。”

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鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】#1

仙人十五愛吹笙,學得崑丘彩鳳鳴。始聞鍊氣餐金液,復道朝天赴玉京。

玉京迢迢幾千里,鳳笙去去無窮已。欲歎離聲發絳脣,更嗟別調流纖指。
(神仙を学んだあなたは王子喬のように十五にして、笙を吹いたというが、今天子に朝見するので送るにあたって王子晋のように登仙して帰ってこなかったということが無いように戻ってきてほしい。)生まれながらにして仙人の天分を備へた我が相知の一少年は、年十五にして、笙を吹くことを学び、崑崙山に棲んで居る彩鳳の鳴き聲を學び得て、極めて上手に吹き鳴らすように成った。その間、常に仙術を稽古し、気を錬って、太乙金液をも服して居たが、近ごろは、天子の御招きに因って、俄に都に上ることになった。長安の都は、ここを隔つること幾千里で、一たび立ち去らば、鳳笙の聲も再び聞くことはできない。そこで、別離の一曲を吹かむが為に、紅き唇を動かし、又細い指で調子を取って、しきりに心を悩まして居る。

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 2015年8月13日の紀頌之5つのBlog 
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 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
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79-#9 (改訂)《巻0211送靈師》-#9 韓愈(韓退之) 804年貞元20年 37歳<1493> Ⅱ【11分割】-#9 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6449 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
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 孟郊張籍     
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              崑崙山 (隴右道東部 肅州 崑崙山)    

故函谷關 (都畿道 陜州 故函谷關) 別名:秦關            

緱氏山 (都畿道 河南府 緱氏)          

 

 

鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】

(神仙を学んだあなたは王子喬のように十五にして、笙を吹いたというが、今天子に朝見するので送るにあたって王子晋のように登仙して帰ってこなかったということが無いように戻ってきてほしい。)

仙人十五愛吹笙,學得崑丘彩鳳鳴。

生まれながらにして仙人の天分を備へた我が相知の一少年は、年十五にして、笙を吹くことを学び、崑崙山に棲んで居る彩鳳の鳴き聲を學び得て、極めて上手に吹き鳴らすように成った。

始聞鍊氣餐金液,復道朝天赴玉京。

その間、常に仙術を稽古し、気を錬って、太乙金液をも服して居たが、近ごろは、天子の御招きに因って、俄に都に上ることになった。

玉京迢迢幾千里,鳳笙去去無窮已。

長安の都は、ここを隔つること幾千里で、一たび立ち去らば、鳳笙の聲も再び聞くことはできない。

欲歎離聲發絳脣,更嗟別調流纖指。

そこで、別離の一曲を吹かむが為に、紅き唇を動かし、又細い指で調子を取って、しきりに心を悩まして居る。

-#2

此時惜別詎堪聞,此地相看未忍分。

重吟真曲和清吹,卻奏仙歌響綠雲。

綠雲紫氣向函關,訪道應尋緱氏山。

莫學吹笙王子晉,一遇浮丘斷不還。

 

鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】#1

仙人 十五 笙を吹く愛す,學び得たり 崑丘 彩鳳の鳴くを。

始めて聞く 氣を鍊って金液を餐するを,復た道う 天に朝して玉京に赴くと。

玉京 迢迢 幾千里,鳳笙 去去 窮まり已む無し。

歎ぜんと欲す 離聲の絳脣に發するを,更に嗟す 別調の流纖指。

-#2

此の時 別を惜む 詎ぞ聞くに堪えん,此の地 相い看て未だ分るるに忍びず。

重ねて真曲を吟じて 清吹に和し,卻って仙歌を奏して 綠雲に響く。

綠雲 紫氣 函關に向う,道を訪う 應に尋ぬべし 緱氏山。

學ぶ莫れ 吹笙の王子晉,一たび 浮丘に遇えば 斷じて還らず。

 

 

『鳳吹笙曲』 現代語訳と訳註解説
(
本文)#1

鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】

仙人十五愛吹笙,學得崑丘彩鳳鳴。

始聞鍊氣餐金液,復道朝天赴玉京。

玉京迢迢幾千里,鳳笙去去無窮已。

欲歎離聲發絳脣,更嗟別調流纖指。

(下し文)
鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】#1

仙人 十五 笙を吹く愛す,學び得たり 崑丘 彩鳳の鳴くを。

始めて聞く 氣を鍊って金液を餐するを,復た道う 天に朝して玉京に赴くと。

玉京 迢迢 幾千里,鳳笙 去去 窮まり已む無し。

歎ぜんと欲す 離聲の絳脣に發するを,更に嗟す 別調の流纖指。

(現代語訳)
(神仙を学んだあなたは王子喬のように十五にして、笙を吹いたというが、今天子に朝見するので送るにあたって王子晋のように登仙して帰ってこなかったということが無いように戻ってきてほしい。)

生まれながらにして仙人の天分を備へた我が相知の一少年は、年十五にして、笙を吹くことを学び、崑崙山に棲んで居る彩鳳の鳴き聲を學び得て、極めて上手に吹き鳴らすように成った。

その間、常に仙術を稽古し、気を錬って、太乙金液をも服して居たが、近ごろは、天子の御招きに因って、俄に都に上ることになった。

長安の都は、ここを隔つること幾千里で、一たび立ち去らば、鳳笙の聲も再び聞くことはできない。

そこで、別離の一曲を吹かむが為に、紅き唇を動かし、又細い指で調子を取って、しきりに心を悩まして居る。


(訳注)

鳳吹笙曲【鳳笙篇送別】

(神仙を学んだあなたは王子喬のように十五にして、笙を吹いたというが、今天子に朝見するので送るにあたって王子晋のように登仙して帰ってこなかったということが無いように戻ってきてほしい。)

鳳笙篇も楽府題である。李白の此詩に就いて、蕭士贇は、「遊仙の詩」と言ったが、王琦は、

「この詩は、是れ一道流詔に応じて京に入るを送るの作、謂はゆる仙人十五愛吹笙は、正に其人を実指す、古事を泛用するに非ざるなり。謂はゆる朝天赴玉京とは、その京に入って朝見するをいう。その超昇、軽擧を謂ふに非や。舊註、遊仙の詩を以て之に擬す、その旨を矢へり」といって居るが、なる程、この方が切實であるから、今これにしたがうことにする。

 

仙人十五愛吹笙,學得崑丘彩鳳鳴。

生まれながらにして仙人の天分を備へた我が相知の一少年は、年十五にして、笙を吹くことを学び、崑崙山に棲んで居る彩鳳の鳴き聲を學び得て、極めて上手に吹き鳴らすように成った。

○崑丘 崑崙山:中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。 崑崙奴とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。

 

始聞鍊氣餐金液,復道朝天赴玉京。

その間、常に仙術を稽古し、気を錬って、太乙金液をも服して居たが、近ごろは、天子の御招きに因って、俄に都に上ることになった。

○金液 太乙金液。《神仙傳/卷八》「藥之上者,唯有九轉還丹及太乙金液,服之,皆立便登天。」(薬の上なるもの、九轉還丹、及び、太乙金液あり、これを服すれば皆立どころに天に登る)とある。

○玉京 天帝の住まいするところ。長安。

 

玉京迢迢幾千里,鳳笙去去無窮已【鳳笙去去無邊已】

長安の都は、ここを隔つること幾千里で、一たび立ち去らば、鳳笙の聲も再び聞くことはできない。

○迢迢 1 はるかに遠いさま。2 他より高いさま。また、すぐれているさま。

 

欲歎離聲發絳脣,更嗟別調流纖指。

そこで、別離の一曲を吹かむが為に、紅き唇を動かし、又細い指で調子を取って、しきりに心を悩まして居る。

○絳脣 紅脣。李凊照の詞牌に《點絳唇》があり、少女期の紅唇を、実に初々しい感情が歌われている。

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