李白 宮中行樂詞,八首之六
今日明光裡,還須結伴遊。春風開紫殿,天樂下朱樓。
豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。更憐花月夜,宮女笑藏鉤。
(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)
明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。
743年(41)李白359 巻四27-《宮中行樂詞,八首之六》(今日明光裡,) 359Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(41) <李白359> Ⅰ李白詩1699 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7043
年:743年天寶二年43歳 94首-(41)
卷別: 卷一六四 文體: 樂府
詩題: 宮中行樂詞,八首之六
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
及地點:明光殿 (京畿道 京兆府 長安)
交遊人物/地點:
宮中行樂詞,八首之六
(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)
今日明光裡,還須結伴遊。
明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。
春風開紫殿,天樂下朱樓。
春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。
豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。
なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。
更憐花月夜,宮女笑藏鉤。
それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。
(宮中行楽詞 其の六)
今日 明光の裏、還た須らく伴を結んで遊ぶべし。
春風 紫殿を開き、天樂 珠樓に下る。
豔舞 全く巧を知る。 嬌歌 半ば羞じんと欲す。
更に憐れむ 花月の夜、 宮女 笑って鉤を藏するを。
『宮中行樂詞,八首之六』 現代語訳と訳註解説
(本文)
宮中行樂詞,八首之六
今日明光裡,還須結伴遊。
春風開紫殿,天樂下朱樓。
豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。
更憐花月夜,宮女笑藏鉤。
(下し文)
(宮中行楽詞 其の六)
今日 明光の裏、還た須らく伴を結んで遊ぶべし。
春風 紫殿を開き、天樂 珠樓に下る。
豔舞 全く巧を知る。 嬌歌 半ば羞じんと欲す。
更に憐れむ 花月の夜、 宮女 笑って鉤を藏するを。
(現代語訳)
(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)
明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。
春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。
なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。
それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。
(訳注)
宮中行樂詞,八首之六
(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)
宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。
長く宮中に住む宮妓の他に、玄宗の時代から長安と洛陽の宮殿にほど近い街区に、左右二つの芸妓養成のための外教坊が設けられた。ここでも多数の芸妓が養成されたが、この芸妓は宮廷の専用に充てられ、宦官によって管理された。彼女たちが宮妓と異なるのは、宮中には住まず、必要な時に呼び出され宮中の御用に供された点にある。記録によれば、右教坊の芸妓の多くは歌がうまく、左教坊のものは舞いが上手だった。彼女たちは宮妓と同じょうに民間から選抜された技芸練達の人々であった。玄宗は彼女たちをたいへん愛したが、しかし「侠遊(民間の遊里)の盛んなるを奪うを欲せず、未だ嘗て置きて宮禁(宮中)に在らしめず」)と詩人に詠まれた名歌妓の念奴、「凌波曲」(玄宗が夢の中で龍宮の女に頼まれて作ったといわれる詩曲)をよく舞った新豊の女芸人謝阿蛮(『明皇雑録』補遺)、『教坊記』に記載されている歌舞妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘、裳大娘、それに竿木妓の王大娘、および、杜甫の「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」という詩に出てくる、剣舞の名手公孫大娘などは、みな長安の外教坊に所属する芸妓であったらしい。
今日明光裡,還須結伴遊。
明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。
51. 明光 漢代の宮殿の名。「三輔黄図」という宮苑のことを書いた本に「武帝、仙を求め、明光宮を起し、燕趙の美女二千人を発して之に充たす」とある。
52. 還須結伴遊 『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。①形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。②彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きる。③「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、④「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。
春風開紫殿,天樂下朱樓。
春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。
53. 紫殿 唐の大明宮にもある。「三輔黄図」にはまた「漢の武帝、紫殿を起す」とある。漢の武帝が神仙の道を信じ、道士たちにすすめられて、大規模な建造物をたくさん建てたことは、吉川幸次郎「漢の武帝」(岩波新書)にくわしい。玄宗も同じように道教のために寄進している。
54. 天樂 玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。○梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。○霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。
豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。
なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。
55. 豔舞全知巧 張雲容がその代表であろう。全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。
56. 嬌歌半欲羞 許和子(永新)のこと。『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている
更憐花月夜,宮女笑藏鉤。
それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。
57. 憐花 北斉の後主高給が寵愛した馮淑妃の名。燐は同音の蓮とも書かれる。もとは穆皇后の侍女であったが、聡明で琵琶、歌舞に巧みなのが気に入られて穆皇后への寵愛がおとろえ、後宮に入った。開元年間の後期の、念奴のことであろう。『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。
58. 蔵鉤 遊戯の一種。魏の邯鄲淳の「芸経」によると、じいさん、ばあさん、こどもたちがこの遊戯をしていたという三組にわかれ、一つの鈎を手の中ににぎってかくしているのを、他の組のものが当て、たがいに当てあって勝敗をきそう。漢の武帝の鈎弋夫人は、幼少のころ、手をにぎったまま開かなかった。武帝がその拳にさわると、ふしぎと閲いたが、手の中に玉の釣をにぎっていた。蔵鈎の遊戯は鈎弋夫人の話から起ったといわれている。
これをもとに宮妓たちの間では送鉤という遊びをしていた。二組の遊びで、艶めかしい遊びに変化したようだ。