漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

320Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首

744年-046-#1卷182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8117

182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

201727

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Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-046-#1卷182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8117

 

 

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744年-集06 【字解集】 送族弟綰・送程劉二侍御・前有樽酒行・春日行Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8099

 

 

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Ⅲ 杜詩

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767年-70 灩澦 杜詩詳注(卷一九(四)一六五○)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8137

 

 

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767年-集-4字解 【字解集】 a槐葉冷淘・ b上後園山・c季夏送弟韶字解 杜詩詳注Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8131

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

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杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

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(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

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杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

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744-046-#1182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8117

(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。また、胡である異民族の者たちに誇るため、新たに賦を作って昇平の盛を叙し、天子の狩猟に耽らせられるを諫めて、短書を草して、上疏したことがある。私はただ、至尊の眷顧に答えんとしたままででなにも、ことさらに、功名をたてて、歴史上不朽の名を迎えようというような考えはない。

 

 

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大明宮正面 003李白集校注タイトル太白山00 

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李白  烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 東方漸高奈樂何。

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)  呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

李太白集巻一44

烏  棲  曲

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

423 <1000

 

 
  2016年3月15日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  06

文體:

樂府

李太白集 

02-06

 

 

詩題:

烏棲曲

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 姑蘇台

 

交遊人物:

 

 

 

 

 

-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

  卷162_6 《烏棲曲》李白 

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 

東方漸高奈樂何。 


烏棲曲 
烏棲の曲。(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。 
呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌楚舞歡未畢、青山猶銜半邊日。 

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

銀箭金壺漏水多、起看秋月墜江波。 
そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。


大明宮の圖003
『烏棲曲』現代語訳と訳註解説
(
本文)

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

東方漸高奈樂何。

(下し文)
(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。

呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。

銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。

東方漸く高く 楽しみを奈何。

(現代語訳)
烏棲曲(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

霓裳羽衣舞002
(訳注) 

烏棲曲

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

1 烏棲曲 梁簡文帝、梁の元帝、蕭子顯、並びに此の題有り之を作る。《樂府詩集巻四十八》に「清商曲辞、西曲歌」の歌中に烏夜啼を列して後よりなる。男女の歓楽を詠うものが多い。また、李白詩に、これに倣った「大堤曲」「襄陽歌」「丁都護歌」「荊州歌」「採連曲」などある。

2 本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」とある。

3 蕭士贇は「この樂府は然り深く國風諷刺の體を得り、盛んに其の美を言うて、美ならざる者、自ら見わる。」という。

 

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

4 姑蘇台 春秋時代の末期、呉王の開聞と夫差が、父子二代をかけて築いた姑蘇山の宮殿。現在の江蘇省蘇州市、もしくはその西南約一五キロ、横山の北がその跡とされる。16世紀に王世貞撰よってかかれた《豔異編--第五卷》に、「越王越謀滅,畜天下奇寶、美人、異味進於。殺三牲以祈天地,殺龍蛇以祠川岳。矯以江南億萬民輸為傭保。越又有美女二人,一名夷光,二名修明(即西施、鄭旦之別名),以貢於處以椒華之房,貫細珠為簾幌,朝下以蔽景,夕卷以待月。二人當軒並坐,理鏡靚妝於珠幌之,竊窺者莫不動心驚魂,謂之神人。王妖惑忘政。」(越王 越謀し滅さんとし,天下の奇寶、美人、異味を畜えて進む。三牲を殺し 以て天地を祈り,龍蛇を殺し 以て川岳を祠る。矯って以て江南億萬民を輸して傭保為らしむ。越 又た、美女二人有り,一名は夷光,二名は修明(即ち西施、鄭旦の別名である),以て貢ぐ。處らしむるに椒華の房を以てし,細珠を貫いて簾幌と為し,朝に下し 以て景を蔽い,夕に卷き以て月を待つ。二人 軒に當って並坐し,鏡を理めて珠幌の靚妝し,竊に窺うもの動心驚魂せざるは莫し,之れ神人と謂う。王 妖惑し 政を忘る。

《述異記》に王夫差築姑蘇之臺、三年乃成。周旋詰屈横亘五里、崇飾土木、殫耗人力、妓數千人、上立春宵為長夜之飲、造千石酒鍾、夫差作天池池中造青龍舟、舟中盛陳妓樂、日與西施為水嬉。」(王夫差 姑蘇之臺、三年乃る。周旋詰屈 横に亘る五里、土木を崇飾し、人力を殫耗し、妓數千人、上に春宵立てて夜の飲をし、千石の酒鍾を造り、夫差 天池を作し 池中に青龍舟を造り、舟中盛に妓樂を陳じ、日に西施と水嬉を為す。

《述異記》は、中国の南朝梁の任昉が撰したとされる志怪小説集。2巻。 ... 隋書』や『旧唐書』の「経籍志」および『新唐書』「芸文志」で著録される『述異記』10巻は、撰者を祖沖之としている。

5 呉王 夫差をさす。

6 裏  なか。

7 西施  呉王夫差の歓心を買うために、越王勾践から夫差に献上された美女。

李白8  蘇台覧古

(2)西施ものがたり

 

  

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

8 呉歌楚舞  呉(江蘇地方)の歌、楚(湖南・湖北地方)の舞い。ここでは、呉王の歓楽の象徴としての長江中流・下流地方の歌舞をいう。

・呉歌《樂府詩集》卷四十四引《晉書·樂志》にく「歌雜曲,並出江南。東晉已來,稍有增廣。其始皆徒歌,既而被之管弦。」とあり、呉歌は、南方の流行歌。

・楚舞 《史記留侯世家》:「高帝謂戚夫人曰:『為我楚舞,吾為若楚歌.』歌曰:「鴻鴈高飛,一舉千里。羽翮已就,橫四海。橫四海,當可奈何!雖有矰繳,尚安所施!」(鴻鵠高く飛んで、一挙に千里。羽翼すでに就って、四海を横絶す。四海を横絶すれば、 当に如何すべき。矰繳あれど、何処に施さん。)といった南方に行われた舞曲。

9 半邊日 青い山脈が、まだ太陽の半輪を衝えている。夕陽が半ば青山に沈み隠れた状態をいう。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

10 銀箭 水時計の漏水桶に泛べる銀の箭。「箭」は時刻の目盛りを指し示すハリである。江總詩「虬水銀箭莫相催」

11 金壷 金属製の水時計の壷。鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

12 漏水多 水時計の底から水が多く漏れる。長時間の経過を示す。夜は夜明けまでの五更に別れるので、上の桶の水が下の桶に流れ落ちてゆくので、時間の長さを水の量で表現したもの。

 

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

13 漸高 (空が)次第に白く明るくなる。ここでは、「高」は「塙」「呆」の音通で用いられている。

14 奈楽何 (たとえ夜空が白もうとも)歓楽を尽くすことに支障はない。


(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お衝んと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。

 

 

 

【字解】

   烏棲曲

士贇曰樂録烏栖曲者/鳥獸三十一曲之一也

 

姑蘇臺上烏棲時呉王裏醉西施齊賢曰賀知章見/太白烏栖曲嘆賞

曰此詩可/以泣鬼神呉歌楚舞歡未畢青山欲半邊日銀箭

壺漏水多起看秋月墜江波東方漸高柰樂何士贇曰/此詩雖

只樂府然深得國風諷刺之體盛言/其美而不美者自見觀者其毋忽諸

 

 

  烏棲曲梁簡文帝梁元帝蕭子顯並有此題之作/樂府詩集列于西曲歌中烏夜啼之後

姑蘇臺上烏棲時裏醉西施歌楚舞歡未

青山欲繆本/作猶銜半邊日銀箭金壺一作金/壺丁丁漏水多起看

秋月墜江波東方漸髙奈樂何

述異記王夫差/築姑蘇之臺三年乃成周旋詰曲横亘五里崇飾土木殫耗人力官妓千/

立春宵為長夜之飲造千石酒鍾作天池池中造青龍舟舟中盛陳妓樂日與西施為水

晉書 /歌雜曲並出江南 漢書 為我楚舞 

江總詩「虬水銀箭莫」相催 鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」

 

743年(96)李太白集944巻二十四56思邊  414-2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 96首-(96) Ⅰ李白詩1780 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7440

李白  思邊

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。

李太白集巻二十四56

思  邊

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Index-23

743年天寶二年43歳 

96-96

414 <1000

 

 

 
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743

天寶二年

43

96-96

卷別:

卷一八四

文體:

七言古詩

李太白集944巻二十四56

詩題:

思邊

【春怨】

序文

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門

交遊人物/地點:

詩文:

 

 

 

 

思邊

(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。

 

(邊を思う)

去年 何れの時か 君 妾と別れ,南園の綠草に 蝴蝶飛ぶならん。

 何れの時か 妾 君を憶う,西山の白雪に 晴雲暗しならん。

玉關 此れを去ること三千里,音書を寄さんと欲すれど 那んぞ聞く可けんや。

 

 

『思邊』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

思邊

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

(下し文)
(邊を思う)

去年 何れの時か 君 妾と別れ,南園の綠草に 蝴蝶飛ぶならん。

 何れの時か 妾 君を憶う,西山の白雪に 晴雲暗しならん。

玉關 此れを去ること三千里,音書を寄さんと欲すれど 那んぞ聞く可けんや。


(現代語訳)
思邊(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。

今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。

玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。


(訳注)

思邊

(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

1 解説 去年のことと今年のことを対比して、筆をおこしたのは、初唐、盛唐詩の常套である。

張協詩、謝朓詩の古詞に倣って作ったものである。玉関の二句が足されたところは、対比から共通の事項で總収したのである。一作には【春怨】とする。743年天寶二年43歳 96-96)この詩を含めこの前後の詩は昨時年度は間違っていないが、特定しにくいので同年の最後に掲載したものである。

 

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。

2 去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶 この二句は、古詩二首を習ったもの、遠地に在って帰郷を思う詩《文選張協〈雜詩〉之八》「借問此何時,胡蝶飛南園。」(借問す 此れ何なる時ぞ,胡蝶は南園に飛ぶならん。 2.夫に見放された女の恨みを述べる詩、南朝齊謝朓の文選《和王主簿季哲怨情》:「花叢亂數蝶,風簾入雙燕。」(花叢には數蝶亂れ,風簾に雙燕入る。

雜詩十首其八

述職投邊城, 羈束戎旅間. 下車如昨日, 望舒四五圓。

借問此何時? 胡蝶飛南園. 流波戀舊浦, 行雲思故山。

閩越衣文蛇, 胡馬願度燕. 風土安所習, 由來有固然。

 

和王主簿季哲怨情

掖庭聘國,長門失歡宴。相逢詠蘼蕪,辭寵悲團扇。

花叢亂數蝶,風簾入雙燕。徒使春帶,坐惜紅粧變。

平生一顧重,宿昔千金賤。故人心尚爾,故心人不見。

 

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。

西山白雪暗晴雲 長安からの西に向かって遠望すると、太白山、隴山が渭水を挟んで並び立ち、その山々に雪が残っている。その山々にまだ冬の厚い雲が垂れこめていて、其処から続く西域に不安なものを感じさせる。

 

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。

玉關 玉門関のことで、敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされる。その後、六朝時代には交通の要綱として栄え、唐代に再建された際は安西の東側に建設された。同じく南西に設置された陽関とともに、西域交通で北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していた。玉門関は、中国で古代より文化人が辺境の地での戦いや孤独な生活を思い詠嘆する地で、唐代の詩人王之渙は「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須(もち)いん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。俗称は小方盤城。

 

 

 

李白<春怨・思邊・怨情・學古思邊>【字解】

 

1 白馬 若い貴族の出征。「白馬将軍」の名でも知られる公孫瓚がおり、中国の東漢(後漢)〜三国時代初期の人物であり、群雄の一人として北平を中心に勢威を振るった。白馬に乗せた選りすぐりの精兵を率い、自身も武勇に優れていたことから「白馬長史」と呼ばれ、異民族からは恐怖の対象だった。

『優秀な人間は、取り立ててやっても当然と思うだけで恩義を感じない』という理由で、凡庸な人物を重用した。その一方で、当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで莫大な利益を得ていたという。また、龐徳が白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れた。 

2 金羈 金をよりこんだ白い手綱。

3 遼海 現在の遼寧省。南満州。

4 羅帷 うすぎぬのとばり。

5 繡被 刺繍で飾ったかけ布団。

6 落月 沈みかけた月。沈みかけた月は性を連想させる。 

7 燭 ともしび。 

8 飛花入 春満開の花びらが舞い散って、戸口から中に入ってくる。梁、簡文帝《序愁賦》「玩飛花之入,看斜暉之度寮。」とあるに基づく。飛花 春満開の花びらが舞い散っている。

9 笑床空 空牀に人無きをあざけり笑う。この笑うという意味は、咲くという意味があり、それが空しいのである。梁、蕭子範、《春望古意》詩「光景斜漢宮,橫梁照采虹,春情寄柳色,鳥語出梅中,氛氳閨裏思,逶迤水上風,落花徒入,何解妾床空。」、の雰囲気其のままである。

 

 

學古思邊 #1

(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

1      學古 楽府、横吹曲辞に、遠征の苦しみと哀しみをうたったものがあり、隴頭歌辭三首に倣って李白は作ったものである。 一、二は原文を示し、之三は詳しく説明した。

之一

隴頭流水,流離山下。

念吾一身,飄然曠野。

 

之二

朝發欣城,暮宿隴頭。

寒不能語,舌捲入喉。

之三

隴頭流水,鳴聲嗚咽。

遙望秦川,心肝斷

《隴頭歌辭》之三 六朝 梁詩 

作者不詳

隴頭流水,鳴聲幽咽。

隴頭の流水,鳴聲  幽咽す。

遙望秦川,心腸斷絶。

遙かに 秦川を 望み,心腸 斷絶す。

 ・隴頭:隴山のほとり。南朝・梁時代の詩。

隴山のほとりの河の流れは立てる音は、かすかににむせぶかのようである。遥かに(郷里の)秦(関中の盆地の平原)を眺めれば、心肝斷絶:腸(はらわた)が断ち切られるほどの悲しさである。 

・隴頭流水:楽府題。意は、甘肅省南部天水附近を流れる川の流れ。(民族戦争の)最前線の地の川の流れ。。南朝・梁の『隴頭歌辭』に「朝發欣城,暮宿隴頭。寒不能語,舌卷入喉。」とある。なお、この山は六盤山のこと。

・鳴聲:立てる音。 

・幽咽 ひそかにむせぶ。一義的には、川の流れの音。

・遙望:遥かに眺める。隴山から東南方向を望むことになる。 

・秦川 陝西省(・甘肅省)地方。この詩で謂えば東南方向の郷里の長安などのある秦(関中)の盆地状の平原。

・心腸:心臓と腸。 

・斷絶:絶える。截断する。人と人の間などで今まであった結びつきが切れること。

 

2【解説】 起首八句は、隴頭()に至って遠望した景色、「白雁從中來」の四句は、雁の書を帯びて来たことを述べ、「離群心斷」から最後まで六句は、歳月すでに移り、相思愈よ切なることを述べたものである。

韻は以下の構成である。

銜悲上隴首  腸斷不見君 

流水若有情  幽哀從此
蒼茫愁邊色  惆悵落日曛 

山外接遠天  天際復有

白雁從中來  飛鳴苦難聞 

足系一書札  寄言難離
離群心斷  十見花成 

胡地無春  征人行不歸 

相思杳如夢  珠淚濕羅衣 

  
  
  
  
  
  
  
  
  

 


3 隴首 隴山のすそ野の小高いところ。隴頭;隴山のほとり、隴山、隴坻・隴坂は山名。陝西省と甘粛省との境にある。昔から、異民族との境界をなす山として、歴代王朝は隴関(ロウカン)などの関を設けた。


4 邊色 邊地の物色、国境周辺の景色。

5 曛 日没後もなお照り残る夕日の光。残照。

 

 

 


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743年(95)李太白集943巻二十四54學古思邊  414Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(95) Ⅰ李白詩1779 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7435

李白  學古思邊 #1

銜悲上隴首、腸斷不見君。 流水若有情、幽哀從此分。

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。 山外接遠天、天際復有云。
(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。

李太白集巻二十四54#1

學 古 思 邊 #1

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Index-23

743年天寶二年43歳 

96-95#1

414 <1000

 

 

 
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743

天寶二年

43

96-95

卷別:

卷一八四

文體:

七言

李太白集944巻二十四56

詩題:

學古思邊

序文

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

隴頭

隴西

邊塞地

交遊人物/地點:

詩文:

 

 

學古思邊 #1

(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

銜悲上隴首、腸斷不見君。

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。

流水若有情、幽哀從此分。

隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。

邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。

山外接遠天、天際復有云。

山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。

#2

白雁從中來、飛鳴苦難聞。

足系一書札、寄言難離群。

離群心斷、十見花成雪。

胡地無春暉、征人行不歸。

相思杳如夢、珠淚濕羅衣。

 

(古の邊を思うを學ぶ) #1

悲を銜んで隴首に上り、腸斷 君を見ず。

流水 情有るが若く、幽哀 此れ從り分る。

蒼茫として邊色愁いしめ、惆悵として 落日曛す。

山外は 遠天に接し、天際は 復た云有り。
#2

白雁 中より來り、飛鳴 苦にして聞き難し。

足には一書札を系ぎ、言を寄すは 群を離て難しと。

離群 心 斷、十たび見るは 花の雪と成るを。

胡地に春暉 無く、征人 行いて 歸らず。

相思 杳として夢の如く、珠淚 羅衣を濕す。

 

yoshu&choan736 

『學古思邊』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

學古思邊 #1

銜悲上隴首、腸斷不見君。

流水若有情、幽哀從此分。

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。

山外接遠天、天際復有云。

(下し文)
(古の邊を思うを學ぶ) #1

悲を銜んで隴首に上り、腸斷 君を見ず。

流水 情有るが若く、幽哀 此れ從り分る。

蒼茫として邊色愁いしめ、惆悵として 落日曛す。

山外は 遠天に接し、天際は 復た云有り。

(現代語訳)
學古思邊 #1(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。

隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。

邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。

山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。


(訳注)

學古思邊 #1

(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

1      學古 楽府、横吹曲辞に、遠征の苦しみと哀しみをうたったものがあり、隴頭歌辭三首に倣って李白は作ったものである。 一、二は原文を示し、之三は詳しく説明した。

之一

隴頭流水,流離山下。

念吾一身,飄然曠野。

之二

朝發欣城,暮宿隴頭。

寒不能語,舌捲入喉。

之三

隴頭流水,鳴聲嗚咽。

遙望秦川,心肝斷

《隴頭歌辭》之三 六朝 梁詩 

作者不詳

隴頭流水,鳴聲幽咽。

隴頭の流水,鳴聲  幽咽す。

遙望秦川,心腸斷絶。

遙かに 秦川を 望み,心腸 斷絶す。

 ・隴頭:隴山のほとり。南朝・梁時代の詩。

隴山のほとりの河の流れは立てる音は、かすかににむせぶかのようである。遥かに(郷里の)秦(関中の盆地の平原)を眺めれば、心肝斷絶:腸(はらわた)が断ち切られるほどの悲しさである。 

・隴頭流水:楽府題。意は、甘肅省南部天水附近を流れる川の流れ。(民族戦争の)最前線の地の川の流れ。。南朝・梁の『隴頭歌辭』に「朝發欣城,暮宿隴頭。寒不能語,舌卷入喉。」とある。なお、この山は六盤山のこと。

・鳴聲:立てる音。 

・幽咽 ひそかにむせぶ。一義的には、川の流れの音。

・遙望:遥かに眺める。隴山から東南方向を望むことになる。 

・秦川 陝西省(・甘肅省)地方。この詩で謂えば東南方向の郷里の長安などのある秦(関中)の盆地状の平原。

・心腸:心臓と腸。 

・斷絶:絶える。截断する。人と人の間などで今まであった結びつきが切れること。

 

2【解説】 起首八句は、隴頭()に至って遠望した景色、「白雁從中來」の四句は、雁の書を帯びて来たことを述べ、「離群心斷」から最後まで六句は、歳月すでに移り、相思愈よ切なることを述べたものである。

韻は以下の構成である。

銜悲上隴首  腸斷不見君 

流水若有情  幽哀從此
蒼茫愁邊色  惆悵落日曛 

山外接遠天  天際復有

白雁從中來  飛鳴苦難聞 

足系一書札  寄言難離
離群心斷  十見花成 

胡地無春  征人行不歸 

相思杳如夢  珠淚濕羅衣 

  
  
  
  
  
  
  
  
  

 

銜悲上隴首、腸斷不見君。

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。

3 隴首 隴山のすそ野の小高いところ。隴頭;隴山のほとり、隴山、隴坻・隴坂は山名。陝西省と甘粛省との境にある。昔から、異民族との境界をなす山として、歴代王朝は隴関(ロウカン)などの関を設けた。

 

流水若有情、幽哀從此分。

隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。

 

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。

邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。

4 邊色 邊地の物色、国境周辺の景色。

5 曛 日没後もなお照り残る夕日の光。残照。

 

山外接遠天、天際復有云。

山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。
李白の足跡0000 

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李白  怨情

美人卷珠簾,深坐顰蛾眉。

但見淚痕,不知心恨誰。

(恨むことさえなくなった心持を詠う)

寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。

李太白集巻二十四53

怨  情

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7430

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-94

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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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果てのない長い夜、あばらやに住む貧しい女は、織機の前で夜もすがら機を動かし手を休めず働くが、官府の税の催促に悲しみで腸がちぎれそうだ。後宮の美人は珊瑚の枕の上でたえず寝返りをうち、天子の寵愛の衰えたことに悲しみの涙を流す。 - 同じ女でも身分、地位が異なり、彼女たちの生活、境遇、感情、心理もそれぞれ異なる。唐代の女性を理解しょうとすれば、まず各階層の女性たちの生活状況をそれぞれ観察しなければならない。

唐代三百年間の女性の人数を正確に測る方法はない。しかしある時期の人数はだいたい計算できる。記録によると、唐代の最大の人口は天宝十三載(七五四年)の五二八八万四八八人であり、この数字で計算すれば、半分が女性と仮定した場合、女性が最も多かった時、二千六百余万人に達したことになる。

二千数百万人の女性は、それぞれ異なった階層に属していた。彼女たちはおよそ次の十種に分けることができる。①后妃、②宮人、③公主(附郡主・県主)、④貴族・宦門婦人、⑤平民労働婦人、⑥商家の婦人、⑦妓優、⑧姫妾・家妓、⑨奴碑、⑩女尼・女冠(女道士)・女巫 - 以上である。

 

杜甫はかつて《観公孫大娘弟子舞剣器行井序》「先帝の侍女八千人」(「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」)767年-23 #1杜少陵集 《20-99 觀公孫大娘弟子舞劍器行 #1 杜甫詩index-15-1141 <1591> 767年大暦2年56-23 #1漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7352(序-3分割、本文3分割)と詠い、白居易もまた《長恨歌》」「後宮の佳麗三千人」と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『全唐文』巻一四二、李百薬「宮人を放つを請うの封事」)といった。『新唐書』の「官者伝」上に、「開元、天宝中、宮嬪はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。宋代の人洪邁は、この時期は漢代以来、帝王の妃妾の数が最も多かった時代であるといっている(『容斎五筆』巻三「開元宮嬪」)。うまい具合に、この時期の女性の総人口は先に紹介した数字 - およそ二千六百余万であるから、四万余人とすれば、じつに全女性人口の六百分の一を占める。つまり、女性六百人ごとに一人が宮廷に入ったことになる。唐末になり、国土は荒れ、国勢は衰えたが、いぜんとして「六宮(後宮)の貴・賤の女性は一万人を減らない」(『資治通鑑』巻二七三、後唐の荘宗同光三年)という状態だった。この驚くべき数字の陰で、どのくらい多くの「曠夫怨女」(男やもめと未婚の老女)を造り出したことか計り知れない。唐末の詩人曹鄴が慨嘆して「天子 美女を好み、夫婦 双を成さず」(「捕漁謡」)と詠ったのも怪しむに足りない。

 

 

 

年:743           天寶二年43

卷別:    卷一八四              文體:    五言

詩題:    怨情

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

 

 

怨情

(恨むことさえなくなった心持を詠う)

美人卷珠簾,深坐顰蛾眉。

寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

但見淚痕不知心恨誰。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。

(怨情)

美人 珠簾を捲き、深く坐して蛾眉を顰【ひそ】む。

但だ見る 涙痕の湿【うるお】えるを、知らず 心に誰をか恨む を。

李白  怨情 

『怨情』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

怨情

美人卷珠簾,深坐顰蛾眉。

但見淚痕,不知心恨誰

(下し文)
(怨情)

美人 珠簾を捲き、深く坐して蛾眉を顰【ひそ】む。

但だ見る 涙痕の湿【うるお】えるを、知らず 心に誰をか恨む を。

(現代語訳)
(恨むことさえなくなった心持を詠う)

寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。


(訳注)

怨情 

(恨むことさえなくなった心持を詠う)

『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々とあるが、閨の簾の上げ下ろしが日課となった妃嬪は、うらむことさえあきらめたおんなたちである。

 

美人捲珠簾、深坐嚬蛾眉。
寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

美人 古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。《禮記》「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
珠簾  玉を飾ったすだれ。「捲珠簾」というこういは、閨の準備が整ったことを言う。

深坐 身動きもしないで座ること。

  眉間にしわをよせて愁いの表情をする。
蛾眉  蛾の触角のような三日月がたの女性の美しい眉。

但見涙痕濕、不知心恨誰。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。

涙痕  涙の流れた跡。

不知心恨誰 李白が朝廷にいる頃の玄宗には100人以上の妃賓がいたし、それに近い妓優たちもたくさんいたので、寵愛を失えば人知れず死んでゆくものである。

后妃たちの生活は富貴であり、また賛沢でもあった。彼女たちは衣食の心配の必要はなく、内庫(宮中の資材課)が必要なもの一切を支給した。「唐の法は北周、隋の法を踏襲し、妃嬪、女官には地位に尊卑があったから、その品階によって衣服、化粧の費用を支給した」(『旧唐書』王鉷伝)。唐初以来、国庫が日に日に豊かになると、后妃たちの生活もそれに応じて贅沢になった。玄宗の代になると宮中の生活が贅沢になりすぎたので、皇帝は宮中にあった珠玉宝石、錦柄を焼き捨て、また宮中の衣服を専門に供する織錦坊を閉鎖したことがあった。しかし、いくばくもなく開元の盛世が到来すると、玄宗も初志を全く翻したので、宮中生活はまた華美に復した。玄宗は寵愛した妃嬪に大量の褒美を与えた。王鉷は、毎年百億にものぼる銭、宝貨を皇室に寄進し、専ら玄宗が妃嬪に賜る恩賞の費用とした。そして「三千の寵愛、一身に在り」と称された楊貴妃は、さらに一層贅沢の限りを尽したので、宮中にいた七百人の織物職人が専門に彼女のために刺繍をし、また他に数百人の工芸職人が彼女の調度品を専門に制作していた。また、楊貴妃は荔枝が好きだったので、玄宗は万金を費やすのを惜しまず、昼夜駅伝の馬を走らせ、荔枝を蜀(四川)より長安に運ばせた。詩人杜牧はそれを風刺し、「一騎 紅塵 妃子笑う、人の是れ荔枝来るを知る無し」(「華清宮に過る絶句」)と詠じた。

 

后妃たちの生活は優閑かつ安逸なもので、終日飽食し何もしないで遊びくらした。もちろん、時には彼女たちも形ばかりの仕事をしなければならなかった。たとえば恒例となっている皇后の養蚕の儀式や六宮(皇后の宮殿)での繭を献ずる儀式を主催し参加すること〔-これは天下の婦女に率先して養蚕事業の範を示すことを意味していた〕。玄宗の時代、帝は彼女たちに自ら養蚕をするよう命じ、「女が専門にすべき仕事を知らしめようとした」 ことがあった(『資治通鑑』巻二一三、玄宗開元十五年)。しかし、この仕事も当然ながら身分の賎しい宮女たちに押し付けられたはずであり、本当に彼女たちを働かせることにはならなかったに相違ない。この他にも、また祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式にも参加しなければならなかった。

 

『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまざらわすかということに尽きる。「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。
大明宮の圖003 

743年(93)李太白集939巻二十四50怨情  412Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(93) Ⅰ李白詩1777 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7425

李白  怨情

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

故人昔新今尚故,還見新人有故時。請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

李太白集巻二十四50

怨  情

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7425

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-93

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紀年:743年天寶二年43歳 94-93

卷別:    卷一八四              文體:    七言古詩

詩題:    怨情

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

寫及地點:無

交遊人物/地點:  

詩文:

 

怨情

(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。

花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。

故人昔新今尚故,還見新人有故時。

以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。

請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

 

(怨情)

新人 花の如く寵ず可し雖ども,故人 玉に似て 由來重し。

花性 飄揚 自ら持せず,玉心 皎潔 終に移らず。

故人 昔 新たに 今 尚お故なり,還た見る 新人の故き時有るを。

請う看よ 陳后の黃金の屋を,寂寂 珠簾 網絲を生ず。

 

漢長安城 00 

『怨情』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

怨情

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。

花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

故人昔新今尚故,還見新人有故時。

請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

(下し文)
(
怨情)

新人 花の如く寵ず可し雖ども,故人 玉に似て 由來重し。

花性 飄揚 自ら持せず,玉心 皎潔 終に移らず。

故人 昔 新たに 今 尚お故なり,還た見る 新人の故き時有るを。

請う看よ 陳后の黃金の屋を,寂寂 珠簾 網絲を生ず。


(現代語訳)
怨情(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。

元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。

以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。

この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

大明宮の圖003
(訳注)

怨情

(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

1 怨情とは、女の夫を怨む情思である。この詩は、夫が新に女を引き入れて、故妻を追ひ出したに因り、その故妻に代って作ったのである。

【解説】乾隆御批には「偶ま古辭を引いて、別に新意を出す、怨意言わずして顕わる」とある。それは故人昔新今尚故の二句が、江總の詩に本づいて、いささか変化したことを言ったのである。

《閨怨篇》隋、江總.

蜘蛛作絲滿帳中。 芳草結葉當行路。

紅臉脈脈一生啼。 黃鳥飛飛有時度。

故人雖故昔經新。 新人雖新複應故。

蜘蛛 絲を滿帳の中に作り。 芳草 葉を結んで行路に當る。

紅臉 脈脈として一生啼き。 黃鳥 飛飛として時に度る有り。

故人 故なりと雖も 昔 新らたなるを經たり。 新人 新なりと雖も 複た故に應う。

江總(519 - 594年)は、中国南北朝時代、梁・陳の政治家・文学者。字は総持。済陽郡考城(現河南省)の人。南朝の名門貴族の家に生まれ、梁・陳の高官を歴任し、陳の後主の時代には尚書令(宰相)となるが、後主の宴席にはべり詩文を作るのみで政務に励まず、陳が北朝の隋に滅ぼされる原因を作った一人とされる。

 

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。

新人 新たに迎えられた夫人。

可寵 寵愛を受けるべく若くて美しい。

故人 従来からいる夫人。

唐代とはどのような時代 であったのか。人口の半分を占める女性たちは、未来永劫にわたって回復不可能な二等人となり、二度と再び他の半分である男性と平等になることはなかった。かくして、男を生めば「弄璋」(璋をつかむ)といい、女を生めば「弄瓦」(瓦【いとまき】をつかむ。古代、女子が生れると糸巻を与える習慣があった)といった。そこで、「婦は服するなり」「婦人は人に伏すなり」ということになり、「女子と小人(奴僕)は養い難し」とか、「三従四徳」を守れとか、「餓死しても小事であり、貞節を失うことの方が大事だ……」といった価値観が生れた。後宮に入る、ふじんとしてむかえられるということは、選ばれる幸運を与えることができたということである。その理由は二つの方面から説明することができる。まずは、三百年間も続いた大唐帝国は、まさに輝ける封建時代の盛世にへり、封建道徳も後世のように厳格で過酷な段階にまでは発展していなかったからである。封建支配者が人々の肉体と精神を禁縛する手段としての封建道徳は、もともと支配者の必要に従って一歩一歩発展してきたものである。支配者というものは、いつだって世も末になればなるほど、人々の頭脳、身体、七情六欲を、女性の足とともに取り締まる必要があると感じるようになり、封建道徳もまた彼らのこうした感覚が日ましに強まるにつれ、いよいよ厳格に、かつ周到になっていった。

種々の原因によって、唐朝はこの王朝特有の「家庭の風紀の乱れ」、「封建道徳の不振」という状況を生みだした。こうした状況は後世の道学者たちの忌み嫌うところとなったが、しかし逆にこの時代に生きた女性たちにはきわめて大きな幸運をもたらし、彼女たちが受ける抑圧、束縛をいささか少なくしたので、彼女たちは心身共に比較的健康であった。こうして、明朗、奔放、勇敢、活発といった精神的特長、および独特の行動や風格、思想や精神などが形成されたのである。

七情六欲

『礼記』 の記載にある喜、怒、哀、催、愛、悪、欲の七情と、生、死、耳、目、口、鼻の六つから発する欲。

 

花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。

飄揚 花びらや、布などがひるがえり舞い上がること。

皎潔 秀麗皎潔: たいへん立派で、清らかでうつくしいこと。「秀麗」は、他のものより一段とりっぱで美しいこと。「皎潔」は、白く清らかで汚れのないさま。

 

故人昔新今尚故,還見新人有故時。

以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。

故人昔新今尚故 昔新悲故,今故悲新

還見 唐代の適齢期は、15~18歳で、23歳から25歳までを盛りとする。この5年から10年のサイクルを言う。

 

請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

 


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李白  春怨

白馬金羈遼海東,羅帷繡被臥春風。

落月低軒窺燭盡,飛花入笑床空。

飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)

白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

李太白集巻二十四44

春  怨

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Index-23

743年天寶二年43 

94-92

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年:743年天寶二年43歳 94-92

卷別:    卷一八四              文體:    七言

詩題:    春怨

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

春怨

飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)

白馬金羈遼海東,羅帷繡被臥春風。

白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。
落月低軒窺燭盡,飛花入笑床空。

夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

 

(春怨)

白馬 金羈【きんき】遼海の東、 羅帷【らい】繡被【しゅうひ】春風に臥す。

落月 軒に低【たれ】て 燭の盡くるを窺い。 飛花 に入って 牀の空しきを笑う

 

楊貴妃清華池002 

『春怨』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

春怨

白馬金羈遼海東,羅帷繡被臥春風。

落月低軒窺燭盡,飛花入笑床空

(下し文)
(春怨)

白馬 金羈【きんき】遼海の東、 羅帷【らい】繡被【しゅうひ】春風に臥す。

落月 軒に低【たれ】て 燭の盡くるを窺い。 飛花 に入って 牀の空しきを笑う

(現代語訳)
春怨飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)

白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。
夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

簷間樹
(訳注)

春怨

飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)


白馬金羈遼海東、羅帷繡被臥春風。
白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。
1 白馬 若い貴族の出征。「白馬将軍」の名でも知られる公孫瓚がおり、中国の東漢(後漢)〜三国時代初期の人物であり、群雄の一人として北平を中心に勢威を振るった。白馬に乗せた選りすぐりの精兵を率い、自身も武勇に優れていたことから「白馬長史」と呼ばれ、異民族からは恐怖の対象だった。

『優秀な人間は、取り立ててやっても当然と思うだけで恩義を感じない』という理由で、凡庸な人物を重用した。その一方で、当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで莫大な利益を得ていたという。また、龐徳が白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れた。 

2 金羈 金をよりこんだ白い手綱。

3 遼海 現在の遼寧省。南満州。

4 羅帷 うすぎぬのとばり。

5 繡被 刺繍で飾ったかけ布団。


落月低軒窺燭盡、飛花入笑床空。
夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

6 落月 沈みかけた月。沈みかけた月は性を連想させる。 

7 燭 ともしび。 

8 飛花入 春満開の花びらが舞い散って、戸口から中に入ってくる。梁、簡文帝《序愁賦》「玩飛花之入,看斜暉之度寮。」とあるに基づく。飛花 春満開の花びらが舞い散っている。

9 笑床空 空牀に人無きをあざけり笑う。この笑うという意味は、咲くという意味があり、それが空しいのである。梁、蕭子範、《春望古意》詩「光景斜漢宮,橫梁照采虹,春情寄柳色,鳥語出梅中,氛氳閨裏思,逶迤水上風,落花徒入,何解妾床空。」、の雰囲気其のままである。

743年(91)李太白集931巻二十四42長門怨二首 其二  410Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(91) Ⅰ李白詩1775 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7415

李白  長門怨,二首之

桂殿長愁不記春,黃金四屋起秋塵。

夜懸明鏡青天上,獨照長門宮裡人。

(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。

李太白集  巻二十四42

長門怨二首 其二

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7415

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-91

410 <1000

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-90

卷別:    卷一八四              文體:    七言

詩題:    長門怨,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

長門怨,二首之一 
(秋の夜、夜空を眺めて、星、月の動きを見て、漢の陳皇后の怨情を思い、司馬相如に倣い詠ったもの)

天迴北斗掛西樓,金屋無人螢火流。

天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかり、皇后は阿嬌を藏すといったあの黄金造りの御殿には長門宮に追い出されたので人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛び、秋は深まって人を感思せしめる。
月光欲到長門殿,別作深宮一段愁。

やがて、月の光が陳皇后の退居する長門殿に差し込んで来ようとしたころには、 眠れぬ夜に、更に一段の愁いが増してゆくことであろう。

長門怨,二首の一
天は北斗を囘らして西樓に挂かり、金屋 人無く 螢火流る。 
月光 到らんと欲す 長門殿、別に作す 深宮一段の愁。

 

年:743年天寶二年43歳 94-91) 

卷別:    卷一八四              文體:    七言

詩題:    長門怨,二首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

長門怨,二首之二

(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

桂殿長愁不記春,黃金四屋起秋塵。

その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。
夜懸明鏡青天上,獨照長門宮裡人。

夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。

(長門怨,二首の二)

桂殿 長く愁て 春を記せず。 黃金四屋 秋塵起る。

夜 明鏡を懸け青天の上。 獨照らす長門宮里の人。
大明宮の圖003

 

『長門怨,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

長門怨,二首之二

桂殿長愁不記春,黃金四屋起秋塵。

夜懸明鏡青天上,獨照長門宮裡人。

(下し文)
(長門怨,二首の二)

桂殿 長く愁て 春を記せず。 黃金四屋 秋塵起る。

夜 明鏡を懸け青天の上。 獨照らす長門宮里の人。

(現代語訳)
(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。
夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。

(訳注)

長門怨,二首之二

(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

 

桂殿長愁不記春。 黃金四屋起秋塵。
その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。
8 桂殿 香のよい桂の木でつくった宮殿。

9 記 記憶する。心にとめる。気付く。

10 起秋塵 六朝の鮑照の詩に「高墉宿寒霧、平野起秋塵」とある。(高い城壁につめたい霧が立ちこめ、平野に秋の塵がおこる) 


夜懸明鏡青天上。 獨照長門宮里人。
夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。
11 夜懸明鏡 司馬相如の「長門の賦」に「懸明月以自照兮、徂清夜於洞房」とある。(明月を空にかけて自分を照らし、清らかな夜を奥深い部屋でくらす)

12 長門宮裏人 陳皇后を言うことで、玄宗の王皇后(廃)をいう。

 

漢長安城 00 


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李白  長門怨,二首之一

天迴北斗掛西樓,金屋無人螢火流。

月光欲到長門殿,別作深宮一段愁。
(秋の夜、夜空を眺めて、星、月の動きを見て、漢の陳皇后の怨情を思い、司馬相如に倣い詠ったもの)

天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかり、皇后は阿嬌を藏すといったあの黄金造りの御殿には長門宮に追い出されたので人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛び、秋は深まって人を感思せしめる。やがて、月の光が陳皇后の退居する長門殿に差し込んで来ようとしたころには、 眠れぬ夜に、更に一段の愁いが増してゆくことであろう。

李太白集  巻二十四41

長門怨二首 其一

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Index-23

743年天寶二年43歳 

94-(90)

409 <1000

 

 

 
  2016年2月29日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(90)李太白集930巻二十四41長門怨二首 其一  409Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(90) Ⅰ李白詩1774 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7410  
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韓愈138 #2《 巻01-22秋懷詩,十一首之九 #2》 韓愈(韓退之) 806年貞元22年 39歳-(10)#2<1687> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7411  
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  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
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年:743年天寶二年43歳 94-90

卷別:    卷一八四              文體:    七言

詩題:    長門怨,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

長門怨,二首之一 
(秋の夜、夜空を眺めて、星、月の動きを見て、漢の陳皇后の怨情を思い、司馬相如に倣い詠ったもの)

天迴北斗掛西樓,金屋無人螢火流。

天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかり、皇后は阿嬌を藏すといったあの黄金造りの御殿には長門宮に追い出されたので人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛び、秋は深まって人を感思せしめる。
月光欲到長門殿,別作深宮一段愁。

やがて、月の光が陳皇后の退居する長門殿に差し込んで来ようとしたころには、 眠れぬ夜に、更に一段の愁いが増してゆくことであろう。

長門怨,二首の一
天は北斗を囘らして西樓に挂かり、金屋 人無く 螢火流る。 
月光 到らんと欲す 長門殿、別に作す 深宮一段の愁。

 

 

『長門怨,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

長門怨,二首之一

天迴北斗掛西樓,金屋無人螢火流。

月光欲到長門殿,別作深宮一段愁。

(下し文)
(長門怨,二首の一)

天は北斗を囘らして西樓に挂かり、金屋 人無く 螢火流る。

月光 到らんと欲す 長門殿、別に作す 深宮一段の愁。
(現代語訳)
長門怨,二首之一 (秋の夜、夜空を眺めて、星、月の動きを見て、漢の陳皇后の怨情を思い、司馬相如に倣い詠ったもの)

天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかり、皇后は阿嬌を藏すといったあの黄金造りの御殿には長門宮に追い出されたので人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛び、秋は深まって人を感思せしめる。
やがて、月の光が陳皇后の退居する長門殿に差し込んで来ようとしたころには、 眠れぬ夜に、更に一段の愁いが増してゆくことであろう。

漢長安城 00
(訳注)

長門怨
(秋の夜、夜空を眺めて、星、月の動きを見て、漢の陳皇后の怨情を思い、司馬相如に倣い詠ったもの)

1 長門怨 《樂府古題要解》「長門怨、為漢武帝陳皇后作也。後長公主嫖女字阿嬌。及衛子夫得幸、後退居長門宮、愁悶悲思、聞司馬相如工文章、奉黃金百斤令為解愁之詞。相如作長門賦。帝見而傷之複得親幸者數年。後人因其賦為長門怨焉。」(長門怨は、漢の武帝の陳皇后の為に作る也。後は長公主嫖の女、字は阿嬌。衛子夫幸を得るに及び、後、退いて長門宮に居り、愁悶悲思し、司馬相如の文章に工なるを聞き、黃金百斤を奉じて、解愁の詞を為らしむ。相如長門賦を作る。帝見て、之を傷み複た親幸を得るもの數年。後人、其の賦に因って長門怨を為る。

古くからある歌謡の題。漢の武帝の陳皇后のために作られたものである。陳皇后は、幼い頃は阿嬌とよばれ、いとこに当る武帝のお気にいりであったが、帝の寵愛が衛子夫(のちに皇后)に移ると、ひどいヤキモチをやいたので、ついに長門宮に幽閉された。長門宮は、長安の東南の郊外にある離宮である。悶悶と苦しんだ彼女は、当時の文豪、司馬相如にたのみ、黄金百斤を与えて、帝の気持をこちらへ向けなおすような長い韻文を作ってもらった。これが「長門の賦」である。後世の人は、その話にもとづき「長門怨」という歌をつくった。

《三輔黄圖、巻三、甘泉宮》「長門宮,離宮,在長安城。孝武陳皇后得幸,頗妬,居長門宮。」

長安志、巻四「長門宮武帝陳皇后退居長門宮沅按宮在長安故城之東


天囘北斗挂西樓。 金屋無人螢火流。
天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかり、皇后は阿嬌を藏すといったあの黄金造りの御殿には長門宮に追い出されたので人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛び、秋は深まって人を感思せしめる。
2 北斗 北斗七屋。

3 西楼 長安の宮中の西楼。長門宮が長安東に上林苑の中に離宮としてあるので、天子のいる宮殿は西にある。
4
 金屋 金づくりの家。武帝は少年の日、いとこの阿嬌が気に入って言った。「もし阿嬌をお嫁さんにもらえたら、黄金づくりの家(金屋)に入れてあげるといい、建設された宮殿。

124巻三35妾薄命

「漢帝寵阿嬌。 貯之黃金屋。」

147巻四22宮中行樂詞八首 其一

「小小生金屋。 盈盈在紫微。 」

931巻二十四42長門怨二首 其二

「天回北斗挂西樓、金屋無人螢火流。」

939巻二十四50怨情

「請看陳后黃金屋。 寂寂珠帘生網絲。」

宮中行樂詞八首其一 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白141

5 螢火流 句の上にある“金屋”が“北斗”と関連して金星が流れるということで、春夏と過ぎ秋になることを言う。「火」とか「大火」と呼ばれる。陰暦七月末から西に流れる。李白《黄葛篇》「蒼梧大火落、暑服莫輕擲。 
越何の地方、蒼梧県だといっても大火の星が西に流れると秋が来るのだ、軽はずみに夏服だと思って投げ出すことがあってはならない。

黄葛篇 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -237

 

月光欲到長門殿。 別作深宮一段愁。
やがて、月の光が陳皇后の退居する長門殿に差し込んで来ようとしたころには、 眠れぬ夜に、更に一段の愁いが増してゆくことであろう。

長門殿にはやきもちの憂いが漂っている、後宮において皇帝の寵愛を受けている時分、悶々とした怨が最高潮に達する。

 

長門怨,二首の一
天は北斗を囘らして西樓に挂かり、金屋 人無く 螢火流る。 
月光 到らんと欲す 長門殿、別に作す 深宮一段の愁。

長門怨,二首之一

天迴北斗掛西樓,金屋無人螢火流。

月光欲到長門殿,別作深宮一段愁。

6 【阿嬌/陳皇后】

6 【阿嬌/陳皇后】

108巻三19白頭吟

「此時阿嬌正嬌妒、獨坐長門愁日暮。」

108巻三19白頭吟

「聞道阿嬌失恩寵、千金買賦要君王。」

124巻三35妾薄命

「漢帝寵阿嬌。 貯之黃金屋。」

939巻二十四50怨情

「請看陳后黃金屋。 寂寂珠帘生網絲。」

 

李白《妾薄命》

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。

寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。

雨落不上天,水覆難再收。君情與妾意,各自東西流。

昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。

漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。 
咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。 
寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。 
長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。
雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。 
君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。 
昔日  芙蓉の花,今 成る  斷根の草。
色を以て  他人に事【つか】へ,能【よ】く  幾時【いくとき】の 好【よろし】きを  得たりや。

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。

雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)

743年(25)李白344 巻三35-《妾薄命》(漢帝寵阿嬌,)#1 344Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-25) <李白344> Ⅰ李白詩1678 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6938

李白  《巻三19白頭吟》

「此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。」(此の時 阿嬌 正に嬌妒,獨り長門に坐して 日暮を愁う。)

「聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。」(聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。)

743年(22)李白341 巻三19-《白頭吟》(錦水東北流,) 341Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-22) <李白341> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

743年(27)李白341-#6 巻三19-《白頭吟》 341-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-27)Ⅰ李白詩1672 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6908

 

 長門怨二首
天迴北斗挂西樓金屋無人螢火流月光欲到長門殿作深一段愁

士贇曰詩箋云螢火家無人則然令/人感思室中無人故有此物是
足畏乃可/以為憂
  其二
桂殿長愁不記春黄金四屋起秋塵夜懸明鏡青天上獨照長門裏人

士贇曰此詩皆櫽括漢武陳皇后事/以比元宗皇后其意而婉矣事
前巻/

 

7 司馬相如《長門賦

なぜでしょう、一人の美人がさまよい歩いて物憂げにしています。魂は消え失せて元に返らぬように見え、肉体は枯れ果てた様子で一人ぽつねんと立っています。(かつて皇帝陛下は)「朕は朝に出座して暮には帰るだろう」と言ったのに、今は(新しい女と)飲食の楽しみを共にされ、私のことをお忘れになりました。御心は移り変わり、昔なじみ(の私)を省みず、気に入りの人と交わって親しくされています。(嫉妬深い)私の心の愚かさよ、私はまじめな素直さを胸に抱いていますのに。ただ御下問を賜って参上し、陛下のお言葉をいただきたいとのみ願っています。

陛下の虚しいお言葉をいただいて、まことのことかと待ち望み、城の南の離宮に(陛下を)お待ちしました。粗末な料理をつくろって用意していましたのに、陛下は一向におでまし下さろうとなさいません。むなしく一人隠れて心を鎮めておりますと、天にはひゅうひゅうと疾風が吹いています。蘭台に登ってはるかに見渡せば、心はうつろになって外界に脱け出ます。浮雲は重なりながら辺りに塞がり、天は深々として昼もなお暗く、雷は殷々と響き渡って、その音は陛下の車の響きに似ています。飄風は吹きめぐって部屋に舞い立ち、カーテンをひらひらと吹き上げます。桂の樹は枝茂く重なり合って、ぷんぷんと香りを漂わせます。孔雀たちは集まって(私を)憐れんでくれて、猿たちは鳴いて声長く歌います。翡翠(かわせみ)は翼を収めて集まって来て、鸞鳥と鳳凰は北に南に飛び交います。

心は結ぼれて晴れません。不満な気持ちが沸いて来て胸の内を責めつけます。蘭台より下りて辺りを見渡し、奥御殿へと静かに歩みます。正殿は高々と天まで届き、大きな柱が並び建てられて、彎形の御殿となっています。しばらく東の渡殿をさまよっていますと、こまごまと美しく限りなく続く建物が見えます。

 

夫何一佳人兮,步逍遙以自虞。魂逾佚而不反兮,形枯槁而獨居。言我朝往而暮來兮,飲食樂而忘人。心慊移而不省故兮,交得意而相親。 

伊予志之慢愚兮,怀貞愨之歡心。愿賜問而自進兮,得尚君之玉音。奉虛言而望誠兮,期城南之离宮。修薄具而自設兮,君曾不肯乎幸臨。廓獨潛而專精兮,天漂漂而疾風。登蘭台而遙望兮,神(心兄心兄,音晃)而外淫。浮云郁而四塞兮,天窈窈而晝陰。雷殷殷而響起兮,聲象君之車音。飄風回而起閨兮,舉帷幄之(示詹示詹,音摻)。桂樹交而相紛兮,芳酷烈之(門加言,重疊,音吟)。孔雀集而相存兮,玄猿嘯而長吟。翡翠協翼而來萃兮,鸞鳳翔而北南。 

心憑噫而不舒兮,邪气壯而攻中。下蘭台而周覽兮,步從容于深宮。正殿塊以造天兮,郁并起而穹崇。間徙倚于東廂兮,觀夫靡靡而無窮。擠玉以撼金舖兮,聲噌(口+宏去□,音宏)而似鐘音。 

刻木蘭以為榱兮,飾文杏以為梁。羅丰茸之游樹兮,离樓梧而相撐。施瑰木之(木薄,音博)櫨兮,委參差以(木康,音康)梁。時仿佛以物類兮,象積石之將將。五色炫以相曜兮,爛耀耀而成光。致錯石之瓴甓兮,象玳瑁之文章。張羅綺之幔帷兮,垂楚組之連綱。 

撫柱楣以從容兮,覽曲台之央央。白鶴嗷以哀號兮,孤雌(足寺)于枯腸。日黃昏而望兮,悵獨托于空堂。懸明月以自照兮,徂清夜于洞房。援雅琴以變調兮,奏愁思之不可長。案流徵以卻轉兮,聲幼眇而复揚。貫歷覽其中操兮,意慷慨而自(昂去日,音昂)。左右悲而垂淚兮,涕流离而從橫。舒息悒而增欷兮,(足徙,音徙)履起而彷徨。揄長袂以自翳兮,數昔日之(侃下加言,音謙)殃。無面目之可顯兮,遂思而就床。摶芬若以為枕兮,席荃蘭而(艸+臣,音chai3)香。 

忽寢寐而夢想兮,魄若君之在旁。惕寤覺而無見兮,魂(□+王,重疊,音狂)若有亡。眾雞鳴而愁予兮,起視月之精光。觀眾星之行列兮,畢昴出于東方。望中庭之藹藹兮,若季秋之降霜。夜曼曼其若兮,怀郁郁其不可再更。澹偃蹇而待曙兮,荒亭亭而复明。妾人竊自悲兮,究年而不敢忘。 

 注:《長門賦序》云,“孝武皇帝陳皇后時得幸,頗。別在長門宮,愁悶悲思。聞蜀郡成都司馬相如天下工為文,奉金百斤為相如、文君取酒,因于解悲愁之辭。而相如為文以悟上,陳皇后得親幸。”

 


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743年(89)李太白集929巻二十四41長信宮  408Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(89) Ⅰ李白詩1773 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7405

李白  長信宮【長信怨】

月皎昭陽殿,霜清長信宮。天行乘玉輦,飛燕與君同。

別有歡處,承恩樂未窮。誰憐團扇妾,獨坐怨秋風。
(この詩は、後宮において、一時華麗繁栄であっても、黃帝の崩御、政争、讒言、寵愛を失うことによって寂しく余生を暮らすことになる。また、直臣を遠ざけ、佞臣を近づけるは、古今の通患であり、寄託自然でふかいというものである。)

昭陽殿角、月は皎皎として照り渡り、長信宮の邊り、霜気は清く涼しく、且つ、寒く感じる頃となる。天子の行幸に際しては、玉輦に乗ぜられ、そして、趙飛燕は、班とは違い、君と輦を同じうして、禮制にそむいた、まことに僭越極まることである。下臣たるもの、同輦を辞するということをわきまえることである、それが歓娯のところであったとしても、恩を承くること、未だ十分ならず、決して、楽を窮めないものである。かくて、この身は、秋の扇と棄てられたとしてだれが憐れんでくれるというのか、濁坐して、静心なき西風の凄涼たるを怨む外はないのである。

李太白集  巻二十四41

朝下過盧郎中敘舊游

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7405

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-89

408 <1000

 

 
  2016年2月28日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
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年:743年天寶二年43歳 94-89

卷別:    卷一八四              文體:    五言律詩

詩題:    長信宮【長信怨】

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              長信宮 (京畿道 京兆府 長安)           

昭陽殿 (京畿道 京兆府 長安)          

交遊人物/地點:  

詩文:

 

長信宮【長信怨】

(この詩は、後宮において、一時華麗繁栄であっても、黃帝の崩御、政争、讒言、寵愛を失うことによって寂しく余生を暮らすことになる。また、直臣を遠ざけ、佞臣を近づけるは、古今の通患であり、寄託自然でふかいというものである。)

月皎昭陽殿,霜清長信宮。

昭陽殿角、月は皎皎として照り渡り、長信宮の邊り、霜気は清く涼しく、且つ、寒く感じる頃となる。

天行乘玉輦,飛燕與君同。

天子の行幸に際しては、玉輦に乗ぜられ、そして、趙飛燕は、班とは違い、君と輦を同じうして、禮制にそむいた、まことに僭越極まることである。

別有歡處,承恩樂未窮。

下臣たるもの、同輦を辞するということをわきまえることである、それが歓娯のところであったとしても、恩を承くること、未だ十分ならず、決して、楽を窮めないものである。

誰憐團扇妾,獨坐怨秋風。

かくて、この身は、秋の扇と棄てられたとしてだれが憐れんでくれるというのか、濁坐して、静心なき西風の凄涼たるを怨む外はないのである。

(長信宮)【長信怨】

月は皎たり 昭陽殿,霜は清たり 長信宮。

天行 玉輦に乘ずるは,飛燕 君と同じゅうするを。

別に歡處に有るも,恩を承けて 樂しみ 未だ窮まらず。

誰か憐まん 團扇の妾,獨坐して 秋風を怨むなり。
漢長安城 00 

長安城図 作図00 

『長信宮【長信怨】』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

長信宮【長信怨】

月皎昭陽殿,霜清長信宮。

天行乘玉輦,飛燕與君同。

別有歡處,承恩樂未窮。

誰憐團扇妾,獨坐怨秋風。
詩文(含異文)

月皎昭陽殿,霜清長信宮。天行乘玉輦,飛燕與君同。別有歡處【更有留情處】,承恩樂未窮。誰憐團扇妾,獨坐怨秋風。


(下し文)
(長信宮)【長信怨】

月は皎たり 昭陽殿,霜は清たり 長信宮。

天行 玉輦に乘ずるは,飛燕 君と同じゅうするを。

別に歡處に有るも,恩を承けて 樂しみ 未だ窮まらず。

誰か憐まん 團扇の妾,獨坐して 秋風を怨むなり。

(現代語訳)
長信宮【長信怨】(この詩は、後宮において、一時華麗繁栄であっても、黃帝の崩御、政争、讒言、寵愛を失うことによって寂しく余生を暮らすことになる。また、直臣を遠ざけ、佞臣を近づけるは、古今の通患であり、寄託自然でふかいというものである。)

昭陽殿角、月は皎皎として照り渡り、長信宮の邊り、霜気は清く涼しく、且つ、寒く感じる頃となる。

天子の行幸に際しては、玉輦に乗ぜられ、そして、趙飛燕は、班とは違い、君と輦を同じうして、禮制にそむいた、まことに僭越極まることである。

下臣たるもの、同輦を辞するということをわきまえることである、それが歓娯のところであったとしても、恩を承くること、未だ十分ならず、決して、楽を窮めないものである。

かくて、この身は、秋の扇と棄てられたとしてだれが憐れんでくれるというのか、濁坐して、静心なき西風の凄涼たるを怨む外はないのである。

大明宮の圖003
(訳注)

長信宮【長信怨】

(この詩は、後宮において、一時華麗繁栄であっても、黃帝の崩御、政争、讒言、寵愛を失うことによって寂しく余生を暮らすことになる。また、直臣を遠ざけ、佞臣を近づけるは、古今の通患であり、寄託自然でふかいというものである。)

1 長信宮 紀元前7年、成帝が急死し、元帝が愛妾・傅氏に産ませた、劉康(定陶恭王)の子・劉欣(哀帝)が即位すると、哀帝の外戚の傅氏(祖母の実家)と、丁氏(母の実家)が政治に関与するようになり、王氏一族は権力を削られ、太皇太后(孝元太皇太后)となった王政君もその影響力を弱めることとなる。“長信には、漢の太后(成帝母、王政君)が常時之に居る。”となったということで、この詩に取り上げたものである。

この皇太后を趙飛燕の姉妹が供養するということで長信宮と結びつくのである。このことは、《漢書•外戚傳》にみえる「其後,趙飛燕姊弟亦從自微賤興,逾越禮制,浸盛於前。班婕妤及許皇后皆失寵,稀復進見。趙氏姊弟驕妒,婕妤恐久見危,求供養太后長信宮,帝許焉。」とある。また、長信宮について、《三輔黄圖巻之三、長樂宮》に「長信漢太后常居之。按《通靈記》大后、成帝母也。后在西、秋之象也。秋主信、故殿皆以長信、長秋爲名。又永壽、永寧殿、皆后所處也。、成帝母王太/后居長信右長樂。」とあり、漢の数々の宮殿、後宮のことは、班孟堅(班固)《西都賦》に詳細に描かれている。

班孟堅(班固) 《西都賦》(18)#7(宮室の美)-1 文選 賦<112―18>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩972 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3408

班孟堅(班固) 《西都賦》(19)#7-2 文選 賦<112―19>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩973 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3413

班孟堅(班固) 《西都賦》(20)#8(數々の宮殿)-1 文選 賦<112―20>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩974 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3418

班孟堅(班固) 《西都賦》(21)#8(數々の宮殿)-2 文選 賦<112―21>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩975 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3423

2 班媫妤 成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。長信宮に世を避けた班捷伃(倢伃)は、悲しんで「怨歌行」を作る。その詩は『文選』『玉台新詠』『楽府詩集』『古詩源』などに載せられる。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。晋の陸機や唐の王維、王昌齢「西宮春怨・長信秋詞」などがそれである[1]。『漢書』外戚伝・顔師古注に、彼女の伝がある。

 

月皎昭陽殿,霜清長信宮。

昭陽殿角、月は皎皎として照り渡り、長信宮の邊り、霜気は清く涼しく、且つ、寒く感じる頃となる。

3 昭陽殿 西京雜記 「趙飛燕姉弟、昭陽殿に居る。」とあり、班固《西都賦》には後宮の中での昭陽殿の様子を次のように述べている。

(22)#9(後宮の華麗)―1

後宮則有掖庭椒房,后妃之室。合歡增城,安處常寧。

茞若椒風,披香發越。蘭林蕙草,鴛鸞飛翔之列。

(23)#9―2

昭陽特盛,隆乎孝成。屋不呈材,牆不露形。

裛以藻繡,絡以綸連。隨侯明月。錯落其間。

金釭銜璧,是為列錢。

(24)#9―3

翡翠火齊,流耀含英。懸黎垂棘,夜光在焉。

於是玄墀釦砌,玉階彤庭。

礝磩綵緻,琳蒞青熒。珊瑚碧樹,周阿而生。

(25)#9―4

紅羅颯纚,綺組繽紛。精曜華燭,俯仰如神。

後宮之號,十有四位。窈窕繁華,更盛迭貴。

處乎斯列者,蓋以百數。

後宮には則ち掖庭【えきてい】椒房【しょうぼう】が有り,后妃の室なり。

合歡【ごうかん】增城【ぞうじょう】,安處【あんしょ】常寧【じょうねい】あり。

茞若【しじゃく】椒風【しょうふう】,披香【ひこう】發越【はつえつ】と。

蘭林【らんりん】蕙草【けいそう】,鴛鸞【えんおう】飛翔【ひしょう】と之れ列らる。昭陽 特に盛んにして,孝成に隆にす。

屋は材を呈【あらわ】にせず,牆【かきね】は形を露【あらわ】さず。

裛【つつ】むに藻繡【そうしゅう】以ってし,絡【まと】うに綸連【りんれん】を以ってす。

隨侯の明月あり。其の間に錯落す。

金釭璧【たま】を銜み,是れ列錢【れっせん】と為す。翡翠【ひすい】の火齊【かせい】,耀【かがやき】を流し英【ひかり】を含む。

懸黎【けんれい】垂棘【すいきょく】,夜光在り。

是に於いて玄墀【げんち】釦砌【こうぜい】,玉階彤庭【とうてい】あり。

礝磩【ぜんせき】は綵緻【さいち】にして,琳蒞【りんぴん】は青熒【せいけい】なり。

珊瑚【さんご】碧樹【へきじゅ】,阿を周りて生ず。紅羅 颯纚として,綺組 繽紛たり。

精曜 華燭,俯仰すること神の如し。

後宮の號,十有四位あり。

窈窕 繁華,更に盛んい迭【たが】いに貴し。

斯の列に處【お】る者,蓋し百を以て數う。

班孟堅(班固)《西都賦》(22)#9(後宮の華麗)―1 文選 賦<112―22>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩976 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3428

班孟堅(班固) 《西都賦》(23)#9―2 文選 賦<112―23>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩977 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3433

班孟堅(班固)《西都賦》(24)#9―3 文選 賦<112―24>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩978 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3438

班孟堅(班固) 《西都賦》(25)#9―4 文選 賦<112―25>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩979 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3443

また、李白も《宮中行樂詞,八首之二》で次のように述べている。

柳色黃金嫩,梨花白雪香。玉樓巢翡翠,金殿鎖鴛鴦。

選妓隨雕輦,徵歌出洞房。宮中誰第一,飛燕在昭陽。

柳色黄金にして嫩【やわら】か、梨花白雪にして香し。

玉楼には翡翠巣くい、珠殿には鴛鴦を鎖す。

妓を選んで雕輦に随わしめ、歌を徴して洞房を出でしむ。

宮中 誰か第一なる、飛燕  昭陽に在り。

(君主が言葉を発して、行楽について述べたもの)

柳が嫩い芽をふき出したばかり、柳の色は、黄金のようにかがやき、(しかも見るからにやわらかく玄宗皇帝のようである。)梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっていて(楊太真)、春の盛りで、行楽にはこの上もない季節となる。
絶色の妓優は翡翠や鴛鴦の文彩あるものたちが、玉楼に、それから、珠殿に、居となして、妃嬪となって居並ぶ。
そこで、天子はすぐれた妓優の者をえらばれ、行楽に出遊の際、雕輦のあとについて歩くよう命じられ、また、酒宴に歌手をよびよせて、歌わせるため、洞房にいたものに出て来るよう命じられ、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演する。

しかし、宮中において寵幸第一をほこるものは、昭陽殿にいる趙飛燕こそは、色藝雙絶のお方であり、宮中は、はなやぎ、盛んである。

743年(37)李白355 巻四23-《宮中行樂詞,八首之二》(柳色黃金嫩,) 355Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-37) <李白355> Ⅰ李白詩1695 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7023

 

天行乘玉輦,飛燕與君同。

天子の行幸に際しては、玉輦に乗ぜられ、そして、趙飛燕は、班とは違い、君と輦を同じうして、禮制にそむいた、まことに僭越極まることである。

4 天行乘玉輦 天子の御幸、宮中の御殿への往来に使われる、漢では、閣道、唐では夾城という天子専用道路が設けられていたことをいう。

李白の詩には以下のように使っている。

209卷六4侍從宜春苑奉詔賦龍池柳色初青聽新鶯百囀歌

仗出金宮隨日轉、天回玉輦繞花行。

271巻七上皇西巡南京歌十首 其九

萬國煙花隨玉輦、西來添作錦江春。

816巻二十二37秋夜獨坐懷故山

出陪玉輦行、夸胡新賦作。

929巻二十四40長信宮

天行乘玉輦、飛燕與君同。

 

別有歡處,承恩樂未窮。

下臣たるもの、同輦を辞するということをわきまえることである、それが歓娯のところであったとしても、恩を承くること、未だ十分ならず、決して、楽を窮めないものである。

 

誰憐團扇妾,獨坐怨秋風。

かくて、この身は、秋の扇と棄てられたとしてだれが憐れんでくれるというのか、濁坐して、静心なき西風の凄涼たるを怨む外はないのである。

誰憐團扇妾 秋になって団扇が棄てられるように、用無しになることを班妤は怨歌行》に詠っている。  

怨歌行
新裂齊紈素,皎潔如霜雪。 裁爲合歡扇,團團似明月。
出入君懷袖,動搖微風發。常恐秋節至,涼風奪炎熱。
棄捐篋笥中,恩情中道絶。
(怨歌行)
新たに齊の紈素を裂けば,皎潔にして霜雪の如し。 裁ちて合歡の扇と爲せば,團團として明月に 似たり。
君が懷袖に出入し,動搖すれば微風發す。常に恐らくは秋節の至りて,涼風炎熱を奪ひ。
篋笥の中に棄捐せられ,恩情中道に絶えんことを。

新たらしい斉の国産の白練り絹を裂いている、それは純白、潔白で穢れない清い白さは、霜や雪のようだ。裁断して、両面から張り合わせの扇を作っている。丸くしてまるで満月のようです。
この扇はわが君の胸ふところや袖に出たり入ったりして、搖動かすたびに、そよ風を起していくでしょう。でもいつもこころに恐れていることがあるのは秋の季節が来ることなのです。秋の清々しい風は、わが君の情熱を奪って涼しくしてしまうのです。そうすると、屑籠の中に投げ捨てられてしまうことになります。わが君、帝王の寵愛が途中で絶えてしまうことになるのです。

怨歌行 班婕妤(倢伃) 漢詩<111>玉台新詠集 女性詩547 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1458

同様の趣に
謝玄暉 (謝朓) 『玉階怨』  「夕殿下珠簾,流螢飛復息。長夜縫羅衣,思君此何極。」(夕殿 珠簾を下し,流螢 飛び 復(また) (とま)る。長夜 羅衣を 縫ひ,君を思うこと 此に なんぞ 極(きわ)まらん。)
『金谷聚』 「渠碗送佳人,玉杯邀上客。車馬一東西,別後思今夕。」(渠碗(きょわん) 佳人を 送り,玉杯 上客を 邀(むか)ふ。車馬 一(ひとたび) 東西にせられ,別後 今夕を 思はん。)
李白   『怨情』    「美人捲珠簾,深坐嚬蛾眉。但見涙痕濕,不知心恨誰。」美人 珠簾(しゅれん)を捲き、深く坐して蛾眉を顰(ひそ)む。但(ただ)見る 涙痕の湿(うるおえる)を、知らず 心に誰をか恨む。  
班婕妤 王維
怪來妝閣閉,朝下不相迎。總向春園裏,花間笑語聲。怪しむらくは妝閣【さうかく】の 閉づることを,朝より下りて  相ひ迎へず。總て春園の裏に 向いて,花間 笑語の聲。

李白  紫藤樹
紫藤掛雲木、花蔓宜陽春。
密葉隠歌島、香風留美人。
李白  客中行 
蘭陵美酒鬱金香,玉碗盛來琥珀光。
但使主人能醉客,不知何處是他鄕。

とある。
漢長安城 00 

743年(88)李太白集903巻二十四14懼讒  407Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(88) Ⅰ李白詩1772 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7400

李白  懼讒

二桃殺三士,詎假劍如霜。眾女妒蛾眉,雙花競春芳。

魏姝信鄭袖,掩袂對懷王。一惑巧言子,朱顏成死傷。

行將泣團扇,戚戚愁人腸。

(出る杭は打たれる、両雄並び立たず、など朝廷において、不穏な空気を察知して、作ったもの)

むかし、齊の晏平仲は、計を廻らし、二つの桃の実を以て、三士を殺し、必ずしも、明晃晃として霜に似たる剣を假るにも及ばなかった。屈原は離騒を作り、多くの女どもは、予が蛾眉を妬むといったが、二つの花が春に乗じて、芽を競うときは、ともに両立せず、その間に讒言が行われるのは、必然的の事である。現に、魏國から来た美人は、鄭袖の言を信じ袂を掩うて懐王に対して居たところが、鄭袖は、これを懐王に讒言し、王の臭を聞くを悪むからだといったのである。楚の懐王は、一たび、その巧言に惑わされために、紅顔美しき魏の美人は死傷の憂き目に遇った。こんな話はまだまだあって、君寵を衰うれば、秋の扇の棄てられたと同じき運命に泣く外は無いので、これを聞く人をして、戚然腸を断たしめる。

李太白集巻二十四14

懼  讒

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7400

Index-23-2

743年天寶二年43歳 

94-88

407 <1000

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-88

卷別:    卷一八四              文體:    五言古詩

詩題:    懼讒

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

懼讒

(出る杭は打たれる、両雄並び立たず、など朝廷において、不穏な空気を察知して、作ったもの)

二桃殺三士,詎假劍如霜。

むかし、齊の晏平仲は、計を廻らし、二つの桃の実を以て、三士を殺し、必ずしも、明晃晃として霜に似たる剣を假るにも及ばなかった。

眾女妒蛾眉,雙花競春芳。

屈原は離騒を作り、多くの女どもは、予が蛾眉を妬むといったが、二つの花が春に乗じて、芽を競うときは、ともに両立せず、その間に讒言が行われるのは、必然的の事である。

魏姝信鄭袖,掩袂對懷王。

現に、魏國から来た美人は、鄭袖の言を信じ袂を掩うて懐王に対して居たところが、鄭袖は、これを懐王に讒言し、王の臭を聞くを悪むからだといったのである。

一惑巧言子,朱顏成死傷。

楚の懐王は、一たび、その巧言に惑わされために、紅顔美しき魏の美人は死傷の憂き目に遇った。

行將泣團扇,戚戚愁人腸。

こんな話はまだまだあって、君寵を衰うれば、秋の扇の棄てられたと同じき運命に泣く外は無いので、これを聞く人をして、戚然腸を断たしめる。

 

(讒を懼る)

二桃、三士を殺す、詎ぞ、剣、霜の如きを假らむや。

衆女、蛾眉を妬み、隻花、春芳を競ふ。

魏妹、鄭褒を信じ、袂を掩うて懐王に対す。

一び巧言の子に惑わされ,朱顏 死傷を成す。

行くゆく將に團扇泣かんとす,戚戚として人の腸を愁えしむ。

大明宮の圖003 

 

『懼讒』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

懼讒

二桃殺三士,詎假劍如霜。

女妒蛾眉,雙花競春芳。

魏姝信鄭袖,掩袂對懷王。

一惑巧言子,朱顏成死傷。

行將泣團扇,戚戚愁人腸。
詩文(含異文)

二桃殺三士,詎假劍如霜。眾女妒蛾眉,雙花競春芳。魏姝信鄭袖,掩袂對懷王。一惑巧言子,朱顏成死傷【朱顏成損傷】。行將泣團扇,戚戚愁人腸。


(下し文)
(讒を懼る)

二桃、三士を殺す、詎ぞ、剣、霜の如きを假らむや。

衆女、蛾眉を妬み、隻花、春芳を競ふ。

魏妹、鄭褒を信じ、袂を掩うて懐王に対す。

一び巧言の子に惑わされ,朱顏 死傷を成す。

行くゆく將に團扇泣かんとす,戚戚として人の腸を愁えしむ。

(現代語訳)
懼讒(出る杭は打たれる、両雄並び立たず、など朝廷において、不穏な空気を察知して、作ったもの)

むかし、齊の晏平仲は、計を廻らし、二つの桃の実を以て、三士を殺し、必ずしも、明晃晃として霜に似たる剣を假るにも及ばなかった。

屈原は離騒を作り、多くの女どもは、予が蛾眉を妬むといったが、二つの花が春に乗じて、芽を競うときは、ともに両立せず、その間に讒言が行われるのは、必然的の事である。

現に、魏國から来た美人は、鄭袖の言を信じ袂を掩うて懐王に対して居たところが、鄭袖は、これを懐王に讒言し、王の臭を聞くを悪むからだといったのである。

楚の懐王は、一たび、その巧言に惑わされために、紅顔美しき魏の美人は死傷の憂き目に遇った。

こんな話はまだまだあって、君寵を衰うれば、秋の扇の棄てられたと同じき運命に泣く外は無いので、これを聞く人をして、戚然腸を断たしめる。


(訳注)

懼讒

(出る杭は打たれる、両雄並び立たず、など朝廷において、不穏な空気を察知して、作ったもの)

1 懼讒 この詩は、二三の故事を運用し、しかも、融合して、詞意明白なるところが面白い。但し、 極めて簡短で、決して、十分その才思を抒べたものではない。朝廷において李林甫の権勢が増している時期、高力氏の宦官勢力と鍔迫り合いをする中で、李白は苦しい立場にあった。

 

二桃殺三士,詎假劍如霜。

むかし、齊の晏平仲は、計を廻らし、二つの桃の実を以て、三士を殺し、必ずしも、明晃晃として霜に似たる剣を假るにも及ばなかった。

2 二桃殺三士 「二桃もて三士を殺す」「妟子春秋」に見える故事。諸葛亮《梁甫吟》「一朝被讒言、二桃殺三士 それほどの者でも、いったん讒言というものにあうと、妟子の故事「三士に二桃」でいうように、この三士は殺されてしまったではないか。

梁甫吟 諸葛亮 漢詩<96>Ⅱ李白に影響を与えた詩819 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2643

李白《梁甫吟》「世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。齊相殺之費二桃。楚弄兵無劇孟。」(世人我を見ること鴻毛よりも軽し、力は南山を排す三壮士。斉相 之を殺すに二桃を費す、呉楚兵を弄して劇孟無し。)

・二桃殺三士 春秋時代の斉の景公の部下に、公孫接・田開疆・古冶子という三人の勇士がいた。力が非常に強く、虎をなぐり殺した。ある日、斉の国の大臣である量子(曇嬰)が彼らの前を通りすぎたが、三人は起ち上ろうともしない。妟子は景公にお目通りして言った。「かれらは勇気とカの持主ですが、礼節を知りません。君臣上下の分別がありません。これを放っておくと危険ですから、殺してしまうべきです。」国王は同意したが、三人の勇士を刺殺することのできる者はいない。妟子は一計を案じた。かれは国王の名によって、二つの桃を三人に送りとどけ、各自の能力をくらべあって、能力の大きい者が桃を食わないかと言った。まず公孫接が言うには「按は、第一にいのししを打ち殺し、第二に虎の子をも打ち殺した。この接の能力などは、十分に桃を食うねうちがある。人と同じには見てもろうまい。」桃をつかんで起ち上った。次に田閉彊が言った。「わたしは、武器をとって敵の大軍をしりぞけること二度。この開彊の能力などは、十分に桃を食うねうちがあり、人と同じには見てもろうまい。」やはり、桃をつかんで起ち上った。さいごに古冶子が言った。「わたしは、かつて主君に従って黄河をわたったとき、大きなスッポンが三頭立の馬車の左の副馬にくらいつき、黄河の中流に柱のように突立っている砥柱山の流れに引きずりこんだ。この冶は、流れに逆らうこと百歩、流れに順うこと九里、大スッポンをつかまえて殺し、左手で副馬の尾をあやつり、右手にスッポンの頭をひっさげ、おどりあがって岸に出た。人びとがみな、河伯(黄河の神様)だと言うので、この冶がよく見ると、それは大スッポンの首だった。この冶の能力などは、やはり桃を食うねうちがあり、人と同じには見てもろうまい。お二方、どうして桃をかさえないのか。」公孫接と田開彊が言った。「われわれの勇はあなたに及ばない。能力もあなたに及ばない。桃を取ってゆずらないのは欲が深い。そして又、死なないのは勇気がない。」二人とも、その桃をかえし、自分の手で首をしめて死んだ。古冶子は言った。「二人が死んだのに、冶がひとり生きているのは不仁である。人に恥をかかせながら、自分だけが誇っているのは、不義である。そうした自分の行為を遺憾に思いながら死なないのは勇気がない。」これまた、その桃をかえし、自分の手で首をしめて死んだ。景公は、三人を鄭重に葬った。

155-#4 《巻02-04 梁甫吟 -#4(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <155-#4> Ⅰ李白詩1358 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5338

3 劍如霜 魏文帝《歌辭》「歐氏寶劍、何為低昂。白如積雪、利若秋霜。」(歐氏寶劍、何ぞ低昂を為さん。白きこと積雪の如く、利たること秋霜の若くなり。)とある

 

眾女妒蛾眉,雙花競春芳。

屈原は離騒を作り、多くの女どもは、予が蛾眉を妬むといったが、二つの花が春に乗じて、芽を競うときは、ともに両立せず、その間に讒言が行われるのは、必然的の事である。

4 眾女妒蛾眉 屈原《離騒》《衆女嫉余之蛾眉兮、謡諑謂余以善淫。」(衆女余の蛾眉を嫉みて、謡諑して余を謂うに善く淫するを以てす。)“衆女は私の美貌を妬んで、私を淫らな者と言いふらした。” に基づく。

 

魏姝信鄭袖,掩袂對懷王。

現に、魏國から来た美人は、鄭袖の言を信じ袂を掩うて懐王に対して居たところが、鄭袖は、これを懐王に讒言し、王の臭を聞くを悪むからだといったのである。

5 魏姝信鄭袖 戦国策にみえる魏王が楚王に美人を送り、楚王はこれを喜んで、寵愛したが、妻の鄭袖は嫉妬して讒言した古辞。

《戰國策: 楚策: 楚四: 魏王遺楚王美人》

魏王遺楚王美人、楚王説之。 夫人鄭袖知王之説新人也、甚愛新人。 衣服玩好、擇其所喜而為之、宮室臥具、擇其所善而為之。 愛之甚於王。 王曰、婦人所以事夫者、色也、而妒者、其情也。 今鄭袖知寡人之説新人也、其愛之甚於寡人、此孝子之所㠯事親、忠臣之所㠯事君也。 鄭袖知王㠯己為不妒也、因謂新人曰、王愛子美矣。 雖然、惡子之鼻。 子為見王、則必揜子鼻。 新人見王、因揜其鼻。 王謂鄭袖曰、夫新人見寡人、則揜其鼻、何也。鄭袖曰、妾知也。 王曰、雖惡必言之。 鄭袖曰、其似惡聞君王之臭也。王曰、悍哉。 令劓之、無使逆命。」(魏王 楚王に美人を遺る。 楚王 之を説ぶ。夫人鄭袖 王の新人を説ぶを知るや、甚だ新人を愛す。 衣服玩好、其の喜ぶ所を擇びて之を為り、宮室臥具、其の善しとする所を擇びて之を為る。 之を愛すること王より甚だし。 曰く、「婦人の夫に事うる所以の者は、色なり、而して妒む者は、其の情なり。 鄭袖は寡人の新人を説ぶを知るや、其の之を愛すること寡人より甚し、此れ孝子の親に事うる所㠯(=以)、忠臣の君に事うる所㠯なり」と。  鄭袖 王の己を㠯て妒まずと為すを知るや、因りて新人に謂いて曰く、「王 子の美を愛す。 然りと雖も、子の鼻を惡む。 王に見ゆるを為さば、則ち必ず子の鼻を揜(=掩)え。」と。 新人 王に見え、因りて其の鼻を揜う。王 鄭袖に謂いて曰く、「夫の新人 寡人を見れば、則ち其の鼻を揜う、何ぞや。」と。鄭袖 曰く、「妾 知れり。」と。王 曰く、「惡と雖も、必ず之を言え。」と。 鄭袖 曰く、「其れ君 王の臭を聞くを惡むに似たり。」と。王 曰く、「悍なる哉。 之を劓(はなき)らしめん、命に逆わ使むる無かれ。」と。

魏王が楚王に美人を遺(おく)った。楚王はこれを説(よろこ)んだ。夫人の鄭袖(ていしゅう)は王が新人の美人を説ぶことを知ると、その新人の美人をたいそう可愛がり、衣服や愛玩の品も、美人の喜ぶものを選んで作ってやり、宮室の寝具も彼女の善しとするものを選んで作った。彼女を可愛がることは王以上であった。王は言った、「婦人が夫に事(つか)える手段は容姿である、とすれば、妒(ねた)むのは常情である。 今、鄭袖は私が新人の美人を説んでいることを知ると、これを可愛がることわたし以上である。 これは孝子が親に事える手段であり、忠臣が君主に事える方法なのだ。」と。鄭袖は、王が己(おのれ=鄭袖)が嫉妬していないと思っている、ということを知ると、さっそく新人の美人に言った、「王はそなたの美貌を愛しているが、そなたの鼻を嫌っている。 そなたがこれから王に会う時は必ず鼻を隠しなさい」と。そこで新人の美人が王に会うとその鼻を隠した。王は鄭袖に言った、「あの新人美人はわたしに会うと鼻を隠すが、なぜであろうか」。鄭袖は言った、「私は知っております」。王は、「都合が悪いことでも必ず言え」と。鄭袖は、「王様の臭いを嗅ぐのを嫌っているようでございます」と言った。王は言った「強情な女だ、鼻切の刑にしてやろう。 命令に逆らわせては(有無を言わせては)いけないぞ」と。

 

一惑巧言子,朱顏成死傷。

楚の懐王は、一たび、その巧言に惑わされために、紅顔美しき魏の美人は死傷の憂き目に遇った。

 

行將泣團扇,戚戚愁人腸。

こんな話はまだまだあって、君寵を衰うれば、秋の扇の棄てられたと同じき運命に泣く外は無いので、これを聞く人をして、戚然腸を断たしめる。

6 行將泣團扇 君寵を衰うれば、秋の扇の棄てられたと同じき運命に泣く外は無いということ。

妤《怨歌行  

新裂齊紈素,皎潔如霜雪。

裁爲合歡扇,團團似明月。

出入君懷袖,動搖微風發。

常恐秋節至,涼風奪炎熱。

棄捐篋笥中,恩情中道絶。

新たに 齊の 紈素を 裂けば,皎潔にして  霜雪の 如し。

裁ちて 合歡の扇と 爲せば,團團として  明月に 似たり。

君が懷袖に  出入し,動搖すれば  微風 發す。

常に恐らくは  秋節の至りて,涼風  炎熱を 奪ひ。

篋笥の中に  棄捐せられ,恩情  中道に 絶えんことを。

新たらしい斉の国産の白練り絹を裂いている、それは純白、潔白で穢れない清い白さは、霜や雪のようだ。

裁断して、両面から張り合わせの扇を作っている。丸くしてまるで満月のようです。

この扇はわが君の胸ふところや袖に出たり入ったりして、搖動かすたびに、そよ風を起していくでしょう。

でもいつもこころに恐れていることがあるのは秋の季節が来ることなのです。秋の清々しい風は、わが君の情熱を奪って涼しくしてしまうのです。

そうすると、屑籠の中に投げ捨てられてしまうことになります。わが君、帝王の寵愛が途中で絶えてしまうことになるのです。

怨歌行 班婕妤(倢伃) 漢詩<111>玉台新詠集 女性詩547 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1458

 

 

 


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李白  詠桂(詠槿二首之一)

世人種桃李,皆在金張門。攀折爭捷徑,及此春風暄。

一朝天霜下,榮耀難久存。安知南山桂,綠葉垂芳根。

清陰亦可託,何惜樹君園。

(「桜梅桃李」というように、桃李だけが出世となるものではない、終南山の桂の花も緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い、このような人物に身を託したいものである。)

世人は桃李を愛好し、多くは、漢の金氏と張氏をならって、之を門に種えて、近のヨスガとするものである。その上、これを攀折せんがために、手っ取り早い方法、近みちを争い、春風の暖かなるころには、その伝手を頼り、その宴に赴き、ときに手もみして笑いどよめくのである。桃李は、かくの如く、世に持て囃されるが、実は小人仕進の道具に使われているので、一朝にして、天から霜が下れば、さしもの栄耀栄華も、久しく存することはできない。これに反して、南山の桂花は、緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い。この桂花の清陰にして、やはり、こうしたものに身を託してゆくべきで、決して、君の園に種うることを惜まない。つまり、託すべきは、何も桃李に限ったわけではなく、唯だその託し方が異なって居るのである。

李太白集 巻二三61

詠  桂(詠槿二首之二)

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7395

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-87

406 <1000

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-86) 

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    詠槿(詠槿二首之一)

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

詠槿(詠槿二首之一)

(後宮に春が訪れるとそれぞれの宮殿の剡中の花が咲き乱れる、しかしその嬋娟たる容貌も、散ゆく花も瞬時の間で、まことに痛ましいと述べる)

園花笑芳年,池草豔春色。

園中の花は、芳年に吹き掛で、地邊の草は、春.色を艶にしている。

猶不如槿花,嬋娟玉階側。

各おのその色を競ってはいるが、槿花が玉階の側に立っているけれども、そこに、嬋娟たる美しい妃嬪たちには及ぶものではない。

芬榮何夭促,零落在瞬息。

しかし、折角の芬芳栄華は、何が故に、かくの如く短命にして相促すのであろうか。それに、零落ということも、瞬息の間で、まことに傷ましきことの限りというべきことである。

豈若瓊樹枝,終長翕赩。

玉のようにきれいな瓊樹の枝が、終歳茂鬱せるのとは、到底くらべ物にも成らない。

 

(詠槿(詠槿二首之一))

園花 芳年に笑い,池草は春色を豔にす。

猶お槿花の如くなく,玉階の側に嬋娟たり。

芬榮 何ぞ夭促す,零落 瞬息に在り。

豈に若かんや 瓊樹の枝,終 長えに 翕赩たるに

 

年:743年天寶二年43歳 94-87

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    詠桂(詠槿二首之二)

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

詠桂(詠槿二首之二)

(「桜梅桃李」というように、桃李だけが出世となるものではない、終南山の桂の花も緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い、このような人物に身を託したいものである。)

世人種桃李,皆在金張門。

世人は桃李を愛好し、多くは、漢の金氏と張氏をならって、之を門に種えて、近のヨスガとするものである。

攀折爭捷徑,及此春風暄。

その上、これを攀折せんがために、手っ取り早い方法、近みちを争い、春風の暖かなるころには、その伝手を頼り、その宴に赴き、ときに手もみして笑いどよめくのである。

一朝天霜下,榮耀難久存。

桃李は、かくの如く、世に持て囃されるが、実は小人仕進の道具に使われているので、一朝にして、天から霜が下れば、さしもの栄耀栄華も、久しく存することはできない。

安知南山桂,綠葉垂芳根。

これに反して、南山の桂花は、緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い。

清陰亦可託,何惜樹君園。

この桂花の清陰にして、やはり、こうしたものに身を託してゆくべきで、決して、君の園に種うることを惜まない。つまり、託すべきは、何も桃李に限ったわけではなく、唯だその託し方が異なって居るのである。

詠桂(詠槿二首の二)

世人、桃李を種う、皆金張の門に在り。

攀折して捷径を爭ひ、この春風の喧なるに及ぶ。

一朝、天霜下れば、榮耀久しく存し難し。

安んぞ知らむ、南山の桂、綠葉、芳根を垂るるを。

清陰、亦た託すべし、何ぞ君の園に樹うるを惜まむや。

 

漢文委員会紀頌之タイトル 

『詠桂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

詠桂(詠槿二首之二)

世人種桃李,皆在金張門。

攀折爭捷徑,及此春風暄。

一朝天霜下,榮耀難久存。

安知南山桂,綠葉垂芳根。

清陰亦可託,何惜樹君園。

(下し文)
詠桂(詠槿二首の二)

世人、桃李を種う、皆金張の門に在り。

攀折して捷径を爭ひ、この春風の喧なるに及ぶ。

一朝、天霜下れば、榮耀久しく存し難し。

安んぞ知らむ、南山の桂、綠葉、芳根を垂るるを。

清陰、亦た託すべし、何ぞ君の園に樹うるを惜まむや。


(現代語訳)
詠桂(詠槿二首之二)(「桜梅桃李」というように、桃李だけが出世となるものではない、終南山の桂の花も緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い、このような人物に身を託したいものである。)

世人は桃李を愛好し、多くは、漢の金氏と張氏をならって、之を門に種えて、近のヨスガとするものである。

その上、これを攀折せんがために、手っ取り早い方法、近みちを争い、春風の暖かなるころには、その伝手を頼り、その宴に赴き、ときに手もみして笑いどよめくのである。

桃李は、かくの如く、世に持て囃されるが、実は小人仕進の道具に使われているので、一朝にして、天から霜が下れば、さしもの栄耀栄華も、久しく存することはできない。

これに反して、南山の桂花は、緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い。

この桂花の清陰にして、やはり、こうしたものに身を託してゆくべきで、決して、君の園に種うることを惜まない。つまり、託すべきは、何も桃李に限ったわけではなく、唯だその託し方が異なって居るのである。


(訳注)

詠桂(詠槿二首之二)

(「桜梅桃李」というように、桃李だけが出世となるものではない、終南山の桂の花も緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い、このような人物に身を託したいものである。)

9 【解説】前六句に於て、桃李を一邊に排除し、後四句に於で、桂花を掲出したので、乾隆御批に「喩に託し、以て情を達す雖も、亦た私を植うるものをして、通身汗下らしむ、世道に関すること浅からず。」とある。

 

世人種桃李,皆在金張門。

世人は桃李を愛好し、多くは、漢の金氏と張氏をならって、之を門に種えて、近のヨスガとするものである。

10 桃李 司馬遷の『史記』に書かれた言葉「桃李不言下自成蹊」(桃や李は物を言わないが、その下にはおのずと小道が出来る。)及び、中国の故事「桜梅桃李」(桜は桜の、梅は梅の、桃は桃の、李は李の特徴を改めることなく、生かしていく。)とある。

11 金張門 後漢書蓋寛 「上無許史之属下 無金張之託職」とあり、顔師古の註に「許氏と史氏は外属の恩あり、金氏と張氏は自ら託して近狎にあるなり」とみえる。朝廷内に派閥、門閥を作り、出世の道を模索すること。

 

攀折爭捷徑,及此春風暄。

その上、これを攀折せんがために、手っ取り早い方法、近みちを争い、春風の暖かなるころには、その伝手を頼り、その宴に赴き、ときに手もみして笑いどよめくのである。

12 捷徑 ① 近道。早道。 「林中の-」 手っ取り早い方法。便宜的な方法。

 

一朝天霜下,榮耀難久存。

桃李は、かくの如く、世に持て囃されるが、実は小人仕進の道具に使われているので、一朝にして、天から霜が下れば、さしもの栄耀栄華も、久しく存することはできない。

13 榮耀 榮耀栄華。1 大いに栄えて、はぶりのよいこと。えよう。「栄耀におごる」「栄耀を図る」2 ぜいたくをすること。えよう。「栄耀の限りを尽くす」

14 難久存 いつまでも権勢は続くものではない。門下に入って、出世を託した、上司が、政的に貶められることで、一蓮托生とされる。

 

安知南山桂,綠葉垂芳根。

これに反して、南山の桂花は、緑葉鬱として芳根に垂れ、決して枯れることが無い。

15 南山桂 終南山の桂。

 

清陰亦可託,何惜樹君園。

この桂花の清陰にして、やはり、こうしたものに身を託してゆくべきで、決して、君の園に種うることを惜まない。つまり、託すべきは、何も桃李に限ったわけではなく、唯だその託し方が異なって居るのである。

 

 

 

 

詠槿(詠槿二首之一)

 

1 【解説】 前半は、槿花の婿娼たるを写し、後半は、その夭促を傷んだので、多少の諷意あるらしく見える。

2 槿 アオイ科の落葉低木。高さ約3メートル。葉はほぼ卵形で、縁に粗いぎざぎざがある。夏から秋にかけて、紅紫色の5弁花が朝開き、夕方にしぼみ、次々と咲き続ける。中国・インドの原産。庭木などにし、花が白色や八重咲きなどの品種もある。《詩經鄭風有女同車》「有女同車,顏如舜華,將將翔;佩玉瓊琚,彼美孟姜,洵美且都。 有女同行,顏如舜英,將將翔;佩玉將將,彼美孟姜,德音不忘。」 【詩義】. 鄭莊公葬其母武姜之祭悼詩。 【注釋】. 有:盛也,多也。 女:陪葬的俑人。 車:指墳墓。 舜:木槿。

3 笑 咲く。

4 池草豔春色 翰林院から直接は見えないが、大明宮には、神仙三山を泛べる大掖池がありその池の堤を言う。興慶宮には龍池があり、ほとりに、沈香亭、曲江には大池があった。謝靈運「初景革緒風,新陽改故陰。池塘生春草,園柳變鳴禽。」(初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。)初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。

登池上樓 #2 謝靈運<25>#2  詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005

 

5 嬋娟 後宮に侍る妃嬪の美好の貌。《巻二10-飛龍引,二首之一》「古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。」そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

6 夭促yāo cù),1.夭折短命。夭折,短命。草木茂盛美:夭夭(a.茂盛而美,如“桃之夭夭”;b色和悦的子,如“夭夭如也”;c.灾)。 未成年的人死去:夭折。)

7 瓊樹枝 玉のようにきれいな樹木。仙境の樹木。王宮の宮殿の樹木。李白《江西送友人之羅浮》「如尋楚狂子、瓊樹有芳枝。」それで江南の楚の国が好きで君と同じように道教の仙人になっているであろう。玉のようにきれいな樹木、仙境の樹木や王宮の宮殿の樹木、きれいな女性と一緒にいることだろう。

8 翕赩 充分に茂鬱せる樣子。《文選.嵇康.琴賦》:「珍怪琅玕,瑤瑾翕赩。」

 

 長安付近図00

 


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李白  詠槿(詠槿二首之一)

園花笑芳年,池草豔春色。猶不如槿花,嬋娟玉階側。

芬榮何夭促,零落在瞬息。豈若瓊樹枝,終長翕
(後宮に春が訪れるとそれぞれの宮殿の剡中の花が咲き乱れる、しかしその嬋娟たる容貌も、散ゆく花も瞬時の間で、まことに痛ましいと述べる)

園中の花は、芳年に吹き掛で、地邊の草は、春.色を艶にしている。各おのその色を競ってはいるが、槿花が玉階の側に立っているけれども、そこに、嬋娟たる美しい妃嬪たちには及ぶものではない。しかし、折角の芬芳栄華は、何が故に、かくの如く短命にして相促すのであろうか。それに、零落ということも、瞬息の間で、まことに傷ましきことの限りというべきことである。玉のようにきれいな瓊樹の枝が、終歳茂鬱せるのとは、到底くらべ物にも成らない。

李太白集 巻二三61

詠  槿(詠槿二首之一)

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743年天寶二年43歳 

94-86

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年:743年天寶二年43歳 94-86) 

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    詠槿(詠槿二首之一)

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

詠槿(詠槿二首之一)

(後宮に春が訪れるとそれぞれの宮殿の剡中の花が咲き乱れる、しかしその嬋娟たる容貌も、散ゆく花も瞬時の間で、まことに痛ましいと述べる)

園花笑芳年,池草豔春色。

園中の花は、芳年に吹き掛で、地邊の草は、春.色を艶にしている。

猶不如槿花,嬋娟玉階側。

各おのその色を競ってはいるが、槿花が玉階の側に立っているけれども、そこに、嬋娟たる美しい妃嬪たちには及ぶものではない。

芬榮何夭促,零落在瞬息。

しかし、折角の芬芳栄華は、何が故に、かくの如く短命にして相促すのであろうか。それに、零落ということも、瞬息の間で、まことに傷ましきことの限りというべきことである。

豈若瓊樹枝,終長翕赩。

玉のようにきれいな瓊樹の枝が、終歳茂鬱せるのとは、到底くらべ物にも成らない。

 

(詠槿(詠槿二首之一))

園花 芳年に笑い,池草は春色を豔にす。

猶お槿花の如くなく,玉階の側に嬋娟たり。

芬榮 何ぞ夭促す,零落 瞬息に在り。

豈に若かんや 瓊樹の枝,終 長えに 翕赩たるに

 

『詠槿』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

詠槿(詠槿二首之一)

園花笑芳年,池草豔春色。

猶不如槿花,嬋娟玉階側。

芬榮何夭促,零落在瞬息。

豈若瓊樹枝,終長翕

(下し文)
(詠槿(詠槿二首之一))

園花 芳年に笑い,池草は春色を豔にす。

猶お槿花の如くなく,玉階の側に嬋娟たり。

芬榮 何ぞ夭促す,零落 瞬息に在り。

豈に若かんや 瓊樹の枝,終 長えに 翕赩たるに

(現代語訳)
詠槿(詠槿二首之一)(後宮に春が訪れるとそれぞれの宮殿の剡中の花が咲き乱れる、しかしその嬋娟たる容貌も、散ゆく花も瞬時の間で、まことに痛ましいと述べる)

園中の花は、芳年に吹き掛で、地邊の草は、春.色を艶にしている。

各おのその色を競ってはいるが、槿花が玉階の側に立っているけれども、そこに、嬋娟たる美しい妃嬪たちには及ぶものではない。

しかし、折角の芬芳栄華は、何が故に、かくの如く短命にして相促すのであろうか。それに、零落ということも、瞬息の間で、まことに傷ましきことの限りというべきことである。

玉のようにきれいな瓊樹の枝が、終歳茂鬱せるのとは、到底くらべ物にも成らない。


(訳注)

詠槿(詠槿二首之一)

(後宮に春が訪れるとそれぞれの宮殿の剡中の花が咲き乱れる、しかしその嬋娟たる容貌も、散ゆく花も瞬時の間で、まことに痛ましいと述べる)

1 【解説】 前半は、槿花の婿娼たるを写し、後半は、その夭促を傷んだので、多少の諷意あるらしく見える。

2 槿 アオイ科の落葉低木。高さ約3メートル。葉はほぼ卵形で、縁に粗いぎざぎざがある。夏から秋にかけて、紅紫色の5弁花が朝開き、夕方にしぼみ、次々と咲き続ける。中国・インドの原産。庭木などにし、花が白色や八重咲きなどの品種もある。《詩經鄭風有女同車》「有女同車,顏如舜華,將將翔;佩玉瓊琚,彼美孟姜,洵美且都。 有女同行,顏如舜英,將將翔;佩玉將將,彼美孟姜,德音不忘。」 【詩義】. 鄭莊公葬其母武姜之祭悼詩。 【注釋】. 有:盛也,多也。 女:陪葬的俑人。 車:指墳墓。 舜:木槿。

 

園花笑芳年,池草豔春色。

園中の花は、芳年に吹き掛で、地邊の草は、春.色を艶にしている。

3 笑 咲く。

4 池草豔春色 翰林院から直接は見えないが、大明宮には、神仙三山を泛べる大掖池がありその池の堤を言う。興慶宮には龍池があり、ほとりに、沈香亭、曲江には大池があった。謝靈運「初景革緒風,新陽改故陰。池塘生春草,園柳變鳴禽。」(初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。)初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。

登池上樓 #2 謝靈運<25>#2  詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005

 

猶不如槿花,嬋娟玉階側。

各おのその色を競ってはいるが、槿花が玉階の側に立っているけれども、そこに、嬋娟たる美しい妃嬪たちには及ぶものではない。

5 嬋娟 後宮に侍る妃嬪の美好の貌。《巻二10-飛龍引,二首之一》「古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。」そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

 

芬榮何夭促,零落在瞬息。

しかし、折角の芬芳栄華は、何が故に、かくの如く短命にして相促すのであろうか。それに、零落ということも、瞬息の間で、まことに傷ましきことの限りというべきことである。

6 夭促yāo cù),1.夭折短命。夭折,短命。草木茂盛美:夭夭(a.茂盛而美,如“桃之夭夭”;b色和悦的子,如“夭夭如也”;c.灾)。 未成年的人死去:夭折。)

 

豈若瓊樹枝,終長翕赩。

玉のようにきれいな瓊樹の枝が、終歳茂鬱せるのとは、到底くらべ物にも成らない。

7 瓊樹枝 玉のようにきれいな樹木。仙境の樹木。王宮の宮殿の樹木。李白《江西送友人之羅浮》「如尋楚狂子、瓊樹有芳枝。」それで江南の楚の国が好きで君と同じように道教の仙人になっているであろう。玉のようにきれいな樹木、仙境の樹木や王宮の宮殿の樹木、きれいな女性と一緒にいることだろう。

8 翕赩 充分に茂鬱せる樣子。《文選.嵇康.琴賦》:「珍怪琅玕,瑤瑾翕赩。」

 

 

翰林讀書言懷呈集賢諸學士【字解】  

 

翰林讀書言懷呈集賢諸學士 

晨趨紫禁中,夕待金門詔。觀書散遺帙,探古窮至妙。

片言苟會心,掩卷忽而笑。青蠅易相點,白雪難同調。本是疏散人,屢貽褊促誚。雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。

功成謝人間,從此一投釣。

(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

1【解説】 起首六句は、翰林に於て書を読みしこと、「青蠅易相點,白雪難同調。本是疏散人,屢貽褊促誚。」四句は、兎角に小人から譏られること、「雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。」の四句は、秋時の光景、「嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。功成謝人間,從此一投釣。」の四句は、功成りし後、この世を辞したいという希望を述べたのである。蕭士贇は「これ太白心を寫すの作、これを観れば、前の效古の二首は概ね見るべし」とある。

翰林讀書言懷呈集賢諸學士(1)2 翰林/集賢/學士 唐書百官志開元十三年改麗正修書院為集賢殿書院五品以上為學士六品以下為直學士宰相一人為學士知院事常侍一人為副知院事又置判院一人押院中使一人𤣥宗常選耆儒、日一人侍讀、以質史籍疑義。至是、置集賢院侍讀學士、侍講直學士、其後、又增置修撰官、校理官、待制官、留院官、知校討官。

文學直之員、又云學士之職、本以文學言語被顧問、出入侍從、因得參謀議、納諫諍、其禮、尤寵、而、翰林院者待詔之所也。唐制、乗輿所在、必有文詞經學之士、下、至卜醫伎術之流、皆直於院、以備宴見、而、文書詔令則中書舍人掌之。自太宗時、名儒學士、時時召以草制。然、猶未有名號、乾封以後、始號北門學士。

𤣥宗初置翰林待詔以張陸堅張九齡等為之掌四方表疏批答應和文章。既而、又以中書務劇、文書多壅滯、乃選文學之士、號翰林供奉、與集賢院學士分掌制詔書勅。

開元二十六年、又改翰林供奉為學士、置學士院、專掌内命。凢拜免將相、號令征伐、皆用白麻。其後、選用益重而禮遇益親、至號為内相。又以為天子私人、凡充其職者、無定員、自諸曹尚書、下、至校書郎、皆得預選。

(「開元十三年、麗正修書院を改めて集賢殿書院と為し、五品以上を學と為し、士六品以下を直學士と為し、宰相一人を、學士知院事と為し、常侍一人を副知院事と為し、又 判院一人、押院中使一人を置く。𤣥宗 常に耆儒を選び、日に一人侍讀とし、以て史籍の疑義を質す。是に至りて、集賢院侍讀學士、侍講直學士を置き、其の後、又 修撰官、校理官、待制官、留院官、知校討官を增置す。

文學直の員、又 學士の職と云う、本と文學言語を以て顧問せらる、出入侍從、因って謀議に參し、諫諍を納るるを得、其ぼ禮、尤も寵、而して、翰林院は待詔の所なり。唐制、乗輿在るところ、必ず文詞經學の士有り、下、卜醫伎術の流に至って、皆 院にし、以て宴見に備う、而して、文書詔令は則ち中書舍人之を掌る。太宗の時より、名儒學士、時時召して以て制を草す。然れども、猶お未だ名號有らず、乾封以後、始めて北門學士と號す。

𤣥宗の初め、翰林待詔を置き、張、陸堅、張九齡等をて之を為し、四方の表疏批答應和の文章を掌る。既にして、又 中書務劇にして、文書壅滯多きを以て、乃ち文學の士を選び、翰林供奉と號し、與集賢院學士と制詔書勅とを分ち掌る。

開元二十六年、又 翰林供奉を改めて學士と為し、學士院を置く、專ら内命を掌る。凢そ將相を拜免する、征伐を號令す、皆白麻を用う。其の後、選用益ます重くして禮遇益ます親み、號して内相と為すに至る。又 以て天子の私人と為し、凡そ其の職を充る者は、定員無く、諸曹尚書より、下、校書郎に至るまで、皆 選に預るを得たり。」
3 翰林 宮廷学芸機関で、「ふで(翰)のはやし(林)の官庁」の意。唐の玄宗の開元年間(713741)に宮中に創置され、文人を出仕させたのに始まる。玄宗は文学,経学,書画,医薬などの専門家を宮中に出仕せしめてこれを待詔といい,その館を翰林院と称した。安史の乱後、天子の詔勅の執筆に携わったところから政治的発言権が強まり、長官の学士承旨は内相とよばれ、中・晩唐にかけて権力の一中心となり、李肇の『翰林志』以下の記録もつくられた。また院には書、画、音楽から囲碁などに及ぶ諸芸に秀でた人材を抱える伎術院を付設し、ここは宮廷文化センターの観を呈した。

4 集賢 唐代の官署。中書省に属し、典籍の編集・発行、散逸した図書の探索などを任務とした。

5 學士  中国で,翰林院の官。主に詔書の起草に当たった。唐・宋代には,ここから宰相となる者も多かった。翰林博士。翰林。 文章博士(もんじようはかせ)の唐名。翰林主人。翰林。

翰林讀書言懷呈集賢諸學士(2)6 紫禁 謝荘の宋孝武宣貴妃の註に收華紫宮とあって、李善の註に「王者の宮、以て紫微に象る、故に宮中をいうて紫禁と爲す」とあり、李延濟の註に「紫禁は即ち紫宮、天子の居るところなり」とある。

7 金門 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」また、漢書東方朔傳に「金門に待詔して、稍や親近を得たり」とある。

8 散遺帙 遺れる帙を解いて、書冊を取り出すこと。書帙をうち開くこと。また讀書することをさす。 (ちつ)とは、和本を包んで保存する装具の一種。

謝靈運《酬従弟謝惠連 五首その(2)》「淩澗尋我室,散帙問所知。」(澗【たに】を淩ぎ 我が室を尋ね,散帙【さんちつ】知れる所を問える。) そうしたら、隠棲している谷を越えて私の庵を尋ねてくる。読書をしてわからないところを質問をしてくる。

9 窮至妙 至妙の玄理を研究する。

10 青蠅 くそばえ、あおばえ。白い布を汚し黑にし、黒い布を白にする。以て讒言人に比す。《詩經小雅甫田之什青蠅》. 毛詩序に「《青蠅》,大夫刺幽王也。」(青蠅は大夫 幽王を刺るなり。)「 營營青蠅,止於樊。豈弟君子,無信讒言。 營營青蠅,止于棘。讒人罔極,交亂四國。 營營青蠅,止于榛。讒人罔極,構我二人。」(營營たる青蠅は,樊に止る。豈弟の君子,讒言を信ずること無れ。營營たる青蠅は,棘に止る。讒人は罔極,交ごも四國を亂る。營營たる青蠅は,榛に止る。讒人は罔極,我が二人を構う。

10 白雪 琵琶の名曲『陽春白雪』は十大古代名曲の一つとされ、琵琶大曲の代表作であり,其の特長は是れの綜合文化曲であり、武術曲の表現手法とが調和される演奏風格をもっているものである。十大古代名曲を列挙すると《高山流水》、《廣陵散》、《平沙落雁》、《梅花三弄》、《十面埋伏》、《夕陽簫鼓》、《漁樵問答》、《胡笳十八拍》、《漢宮秋月》和《陽春白雪》となるが、《陽春白雪》のように、他の楽器、歌と合奏されるものは少ない。

宋玉《對楚王問》「客有歌於郢中者、其為『陽春 白雪』是其曲彌高,其和彌寡。(客に郢中に歌う者有り、其れ『陽春白雪』を為す、是れ其の曲 彌よ高ければ,其の和 彌よ寡し。)とあるに基づく。

11 李白は求めがあれば詩を献ずると同時に、普段は翰林院に出仕して古い書類を調べ、政事妙理を学び、すこしでも心にかなうことがあれば、快心の笑みをもらす。勅命があれば出師表や外交文書の草案を起草し、国政の一部に参画した。しかし、夏が過ぎるころになると、次第に同僚との折り合いが悪くなってきた。

 李白は役所では新参者で、役所の仕来たりや狎れ合いの部分に通じていない。

 加えて李白は、そうした人間関係の細かい部分に気配りをするような性格の持ち主ではない。翰林院で小役人的仕事をする気はなかったのである。

 矜持、自信からくる傲慢不遜な態度も目立ち、秋口には李白の耳にも自分に対する悪口が聞こえ、いやになってくる様子がこの詩からも読み取れます。謝靈運の詩を、それも、謝靈運が官を辞して、国許に歸、前後の詩を引用しているからである。

743年(85)李太白集856卷23-32翰林讀書言懷呈集賢諸學士#2 404-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(85) Ⅰ李白詩1769 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7385

李白  翰林讀書言懷呈集賢諸學士 #2

本是疏散人,屢貽褊促誚。雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。

功成謝人間,從此一投釣。

われは、固より疏散の人であるにも拘わらず、君の眷顧を得たるに因って、偏屈な急性な厄介の人物だといふ譏を度度受けた。今しも、秋に入り、大空は晴れ渡ってのどかなものであり、南、終南山、林壑は、遠眺するに宜しくのぞむのである。あるいは、清風の吹ききたるとき、ひとり欄下に倚って嘯くと、心は物外に馳せて、この世の苦艱をも忘れる位である。後漢の、巌光は桐盧渓に隠れ釣り三昧であったし、謝靈運は臨海の山頂に登って眺望を恣にしたというので、その逸輿、憶うべしである。われも亦た功成りし後は、人間の事を辞し、これより去って、専心に釣を投じ、全く此世の事を忘れたいと思っているのである。

李太白集 巻二三18

翰林讀書言懷呈集賢諸學士

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7385

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-85

404#2 <1000

 

 
  2016年2月24日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-85

卷別:  卷一八三         文體:        五言古詩

李太白集:巻二三18  

寫懐篇:寫とは、文字の通り、胸中の感懐を写し出したのである。

詩題:  翰林讀書言懷呈集賢諸學士【翰林讀書言懷呈集賢諸學士】

作地點:        目前尚無資料

及地點:        翰林院 (京畿道 京兆府 長安) 別名:翰林   

桐廬江 (江南東道 睦州 桐廬) 別名:桐廬溪         

交遊人物/地點:

 

 

翰林讀書言懷呈集賢諸學士  #1

(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

晨趨紫禁中,夕待金門詔。

われは、朝に天子の寝殿のある居に参趨し、夕に右銀臺門、金馬門、翰林院に待詔となった。

觀書散遺帙,探古窮至妙。

翰林院中に於て、すぐにやったことは散乱している書を整理し、遺れる帙を解いて、書冊を取り出し、いにしえの事實を探って、至妙の玄理を研究した。

片言苟會心,掩卷忽而笑。

その間、片言隻辭でも、苟も、心に會するものあれば、巻を掩い、忽然として、独り微笑んで居た。

青蠅易相點,白雪難同調。

おもえば、青蝿は、美事な玉にも糞をしかけて之を汚し、白雪の曲は、高くして、なかなか之と調を同じゅうすることは出来ない。

#2

本是疏散人,屢貽褊促誚。

われは、固より疏散の人であるにも拘わらず、君の眷顧を得たるに因って、偏屈な急性な厄介の人物だといふ譏を度度受けた。

雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

今しも、秋に入り、大空は晴れ渡ってのどかなものであり、南、終南山、林壑は、遠眺するに宜しくのぞむのである。

或時清風來,閒倚欄下嘯。

あるいは、清風の吹ききたるとき、ひとり欄下に倚って嘯くと、心は物外に馳せて、この世の苦艱をも忘れる位である。

嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。

後漢の、巌光は桐盧渓に隠れ釣り三昧であったし、謝靈運は臨海の山頂に登って眺望を恣にしたというので、その逸輿、憶うべしである。

功成謝人間,從此一投釣。

われも亦た功成りし後は、人間の事を辞し、これより去って、専心に釣を投じ、全く此世の事を忘れたいと思っているのである。

 

(翰林にて書を読みで懐を言い、集賢諸學士に呈す)

(翰林にて書を読みで懐を言ひ、集賢諸學士に呈す)#1

晨に紫禁の中を趨り,夕に金門の詔を待つ。

書を觀て遺帙を散じ,古を探って至妙を窮む。

片言 苟くも心に會すれば,卷を掩うて忽として笑う。

青蠅 相い點じ易く,白雪 同調し難し。

#2

本と是れ 疏散の人,屢ば 褊促の誚【そしり】を貽【のこ】す。

雲天 清朗に屬し,林壑 遊眺を憶う。

或時は 清風來り,閒には 欄下に倚りて嘯く。

嚴光は桐廬の溪に,謝客は臨海の嶠に。

功成りて 人間を謝し,此れ從り 一つに釣を投ぜん。

李白の足跡0000 

 

『翰林讀書言懷呈集賢諸學士』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

本是疏散人,屢貽褊促誚。

雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。

嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。

功成謝人間,從此一投釣。
詩文(含異文)

本是疏散人,屢貽褊促誚。雲天屬清朗,林壑憶遊眺。或時清風來,閒倚欄下嘯【閒倚簷下嘯】。嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。功成謝人間【功成謝人君】,從此一投釣
(下し文)
#2

本と是れ 疏散の人,屢ば 褊促の誚【そしり】を貽【のこ】す。

雲天 清朗に屬し,林壑 遊眺を憶う。

或時は 清風來り,閒には 欄下に倚りて嘯く。

嚴光は桐廬の溪に,謝客は臨海の嶠に。

功成りて 人間を謝し,此れ從り 一つに釣を投ぜん。

(現代語訳)
#2

われは、固より疏散の人であるにも拘わらず、君の眷顧を得たるに因って、偏屈な急性な厄介の人物だといふ譏を度度受けた。

今しも、秋に入り、大空は晴れ渡ってのどかなものであり、南、終南山、林壑は、遠眺するに宜しくのぞむのである。

あるいは、清風の吹ききたるとき、ひとり欄下に倚って嘯くと、心は物外に馳せて、この世の苦艱をも忘れる位である。

後漢の、巌光は桐盧渓に隠れ釣り三昧であったし、謝靈運は臨海の山頂に登って眺望を恣にしたというので、その逸輿、憶うべしである。

われも亦た功成りし後は、人間の事を辞し、これより去って、専心に釣を投じ、全く此世の事を忘れたいと思っているのである。


(訳注) #2

翰林讀書言懷呈集賢諸學士  #2

(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

1【解説】 起首六句は、翰林に於て書を読みしこと、「青蠅易相點,白雪難同調。本是疏散人,屢貽褊促誚。」四句は、兎角に小人から譏られること、「雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。」の四句は、秋時の光景、「嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。功成謝人間,從此一投釣。」の四句は、功成りし後、この世を辞したいという希望を述べたのである。蕭士贇は「これ太白心を寫すの作、これを観れば、前の效古の二首は概ね見るべし」とある。

 

李白は求めがあれば詩を献ずると同時に、普段は翰林院に出仕して古い書類を調べ、政事妙理を学び、すこしでも心にかなうことがあれば、快心の笑みをもらす。勅命があれば出師表や外交文書の草案を起草し、国政の一部に参画した。しかし、夏が過ぎるころになると、次第に同僚との折り合いが悪くなってきた。

 李白は役所では新参者で、役所の仕来たりや狎れ合いの部分に通じていない。

 加えて李白は、そうした人間関係の細かい部分に気配りをするような性格の持ち主ではない。翰林院で小役人的仕事をする気はなかったのである。

 矜持、自信からくる傲慢不遜な態度も目立ち、秋口には李白の耳にも自分に対する悪口が聞こえ、いやになってくる様子がこの詩からも読み取れます。謝靈運の詩を、それも、謝靈運が官を辞して、国許に歸、前後の詩を引用しているからである。。

 

本是疏散人,屢貽褊促誚。

われは、固より疏散の人であるにも拘わらず、君の眷顧を得たるに因って、偏屈な急性な厄介の人物だといふ譏を度度受けた。

疏散 (集中している人・物資を)幾つかに分ける,分散させる,疎開させる.放縦である,だらしがない.挙止が放縦である.(文章が)型にとらわれない.

褊促誚 偏屈な急性な厄介の人物というそしり。《莊子齊物論》:大知閑閑, 小知閒閒” 成玄英疏:閒閒, 分別也……小知狹劣之人, 性靈褊促, 有取有捨, 故閒隔而分別。”

 

雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

今しも、秋に入り、大空は晴れ渡ってのどかなものであり、南、終南山、林壑は、遠眺するに宜しくのぞむのである。

晴朗 空が晴れ渡ってのどかなさま。

遊眺 謝靈運が思ったように、遠い故郷をおもって、ぼんやりとながめるということ。

謝靈運. 《七里瀬》「羈心積秋晨,晨積展遊眺。 孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭」(羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。)旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。

孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376

 

或時清風來,閒倚欄下嘯。

あるいは、清風の吹ききたるとき、ひとり欄下に倚って嘯くと、心は物外に馳せて、この世の苦艱をも忘れる位である。

清風來 清風の吹ききたるとき。陰湿な、朝廷内の人間関係に対して嫌気をなしていることで、その対語としての意味を持つ。

 

嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。

後漢の、巌光は桐盧渓に隠れ釣り三昧であったし、謝靈運は臨海の山頂に登って眺望を恣にしたというので、その逸輿、憶うべしである。

嚴光 嚴光は字を子陵といい,別名を遵という。会稽郡餘姚県(浙江省余姚市)の出身。若くして才名あり、のちの光武帝となる劉秀と同門に学ぶ。劉秀が皇帝となると、厳光は姓名を変えて身を隠した。光武帝はその才能を惜しみ行方を捜させたところ、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを見いだされて、長安に召し出された。宮中の作法に詳しい司徒の侯覇が厳光と親しかったが、厳光は細かい礼に従わず、光武帝はそれでも「狂奴故態を改めず」と笑っただけだった。それどころか自ら宿舎に足を運んで道を論じたという。ある夜、帝と光がともに就寝し、光が帝の腹の上に足を乗せて熟睡し、翌日大夫がその不敬を奏上して罰しようとしたが、帝は「故旧とともに臥したのみ」とこの件を取りあげなかった。諫議大夫に挙げられたがこれを断って富春山(浙江省富陽県)で農耕をして暮らし、その地で没する。光武帝はその死を悲しみ、厳光が亡くなった郡県に詔して銭百万と穀千斛を賜った。

厳光が釣りをしていた場所(桐盧県の南、富春江の湖畔)は「厳陵瀬」と名づけられた。釣臺は東西に一つずつあり、高さはそれぞれ数丈、その下には羊裘軒・客星館・招隠堂があった。北宋の政治家・范仲淹は厳光の祠堂を修復し、「厳先生祠堂記」を撰写しその中で「雲山蒼蒼、江水泱泱。先生之風、山高水長」と厳光の高尚な気風を賞賛した。

會稽餘姚人也。《後漢書》卷八十三〈逸民列傳·嚴光〉 嚴光字子陵,一名遵,會稽餘姚人也。少有高名,與光武同遊學。及光武即位,乃變名姓,隱身不見。帝思其賢,乃令以物色訪之。後齊國上言:「有一男子,披羊裘釣澤中。」帝疑其光,乃備安車玄纁,遣使聘之。

章懐太子 後漢書註 「嚴陵瀨相接有嚴山桐廬縣南有 嚴子陵漁釣處今山邊有石上平可坐十人臨水名/為嚴陵釣壇也」

桐廬溪 浙江省桐廬県の川で釣りをして過ごしたということ。謝靈運の《初往新安桐盧口》

初往新安桐盧口

絺綌雖凄其、授衣尚未至。感節自己深、懐古亦云思。

不有千里棹、孰申百代意。遠協尚子心、遙得許生計。

既及冷風善、又即秋水駛。江山共開曠、雲日相照媚。

景夕羣物清、封玩咸可憙。

(初めて新安の桐盧口に往く)

絺綌【ちげき】は凄其【せいき】と雄ども、衣を授けしに尚お未だ至らず。

節に感じて自から己に探し、古えを懐い 亦た思いを云う。

千里の棹 有らずんば、孰【たれ】か百代の意を申べん。

遠く尚子の心に協【かな】い、遙かに許生の計を得たり。

既に冷風の善なるに及び、又た秋水の駛するに即す。

江山 共に曠を開き、雲日は相い照らして媚ぶ。

景夕 群物 清し、玩に対し咸【み】な憙ぶ可し。

(初めて新安の桐盧口に往く。)

少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。

季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。

一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない。

遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。

もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。

銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。

夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

 

謝客 南朝宋の山水詩人謝霊運

臨海嶠 臨海の高く鋭い山・嶠 高く鋭い山。

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。

杪秋臨遠山,山遠行不近。

與子別山阿,含酸赴脩畛。

中流袂就判,欲去情不忍。

顧望脰未悁,汀曲舟已隱。

(臨海嶠に登らんとて、初め彊中を寄せしとき作る。從弟惠連に与え 羊何に見して共に之に和せしむ。)

杪秋に遠山を尋ねんとす、山遠くして行くに近からず。

子と山阿に別れ、酸を含みて脩畛に赴く。

中流にて袂は判に就き、去らんと欲して情忍びず。

顧望して脰は未だ悁れざるに、汀曲に舟は己に隱る。

臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。

晩秋になって遠い臨海山を尋ねようとするが、その山への路をすすむにはとても近くはない

君と山の隈までいって別れようということであったが、寂しくなる、悲しみの情をいだきつつ田畑の中の長い路を行った。

そして中流で君と袂を分かちおえる、たち去ろうとおもうのであるが別れたくない情にたえられない。

ふりかえっては君を望み、首すじがまだ疲れず名残りもつきないうちに、早くも君の舟は岸の曲りかどで隠れてしまった。

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<66-#1>1242

 

 

功成謝人間,從此一投釣。

われも亦た功成りし後は、人間の事を辞し、これより去って、専心に釣を投じ、全く此世の事を忘れたいと思っているのである。

 

長安付近図00 

 

翰林讀書言懷呈集賢諸學士【字解】  

(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

1【解説】 起首六句は、翰林に於て書を読みしこと、「青蠅易相點,白雪難同調。本是疏散人,屢貽褊促誚。」四句は、兎角に小人から譏られること、「雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。」の四句は、秋時の光景、「嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。功成謝人間,從此一投釣。」の四句は、功成りし後、この世を辞したいという希望を述べたのである。蕭士贇は「これ太白心を寫すの作、これを観れば、前の效古の二首は概ね見るべし」とある。

2 翰林/集賢/學士 唐書百官志開元十三年改麗正修書院為集賢殿書院五品以上為學士六品以下為直學士宰相一人為學士知院事常侍一人為副知院事又置判院一人押院中使一人𤣥宗常選耆儒、日一人侍讀、以質史籍疑義。至是、置集賢院侍讀學士、侍講直學士、其後、又增置修撰官、校理官、待制官、留院官、知校討官。

文學直之員、又云學士之職、本以文學言語被顧問、出入侍從、因得參謀議、納諫諍、其禮、尤寵、而、翰林院者待詔之所也。唐制、乗輿所在、必有文詞經學之士、下、至卜醫伎術之流、皆直於院、以備宴見、而、文書詔令則中書舍人掌之。自太宗時、名儒學士、時時召以草制。然、猶未有名號、乾封以後、始號北門學士。

𤣥宗初置翰林待詔以張陸堅張九齡等為之掌四方表疏批答應和文章。既而、又以中書務劇、文書多壅滯、乃選文學之士、號翰林供奉、與集賢院學士分掌制詔書勅。

開元二十六年、又改翰林供奉為學士、置學士院、專掌内命。凢拜免將相、號令征伐、皆用白麻。其後、選用益重而禮遇益親、至號為内相。又以為天子私人、凡充其職者、無定員、自諸曹尚書、下、至校書郎、皆得預選。

(「開元十三年、麗正修書院を改めて集賢殿書院と為し、五品以上を學と為し、士六品以下を直學士と為し、宰相一人を、學士知院事と為し、常侍一人を副知院事と為し、又 判院一人、押院中使一人を置く。𤣥宗 常に耆儒を選び、日に一人侍讀とし、以て史籍の疑義を質す。是に至りて、集賢院侍讀學士、侍講直學士を置き、其の後、又 修撰官、校理官、待制官、留院官、知校討官を增置す。

文學直の員、又 學士の職と云う、本と文學言語を以て顧問せらる、出入侍從、因って謀議に參し、諫諍を納るるを得、其ぼ禮、尤も寵、而して、翰林院は待詔の所なり。唐制、乗輿在るところ、必ず文詞經學の士有り、下、卜醫伎術の流に至って、皆 院にし、以て宴見に備う、而して、文書詔令は則ち中書舍人之を掌る。太宗の時より、名儒學士、時時召して以て制を草す。然れども、猶お未だ名號有らず、乾封以後、始めて北門學士と號す。

𤣥宗の初め、翰林待詔を置き、張、陸堅、張九齡等をて之を為し、四方の表疏批答應和の文章を掌る。既にして、又 中書務劇にして、文書壅滯多きを以て、乃ち文學の士を選び、翰林供奉と號し、與集賢院學士と制詔書勅とを分ち掌る。

開元二十六年、又 翰林供奉を改めて學士と為し、學士院を置く、專ら内命を掌る。凢そ將相を拜免する、征伐を號令す、皆白麻を用う。其の後、選用益ます重くして禮遇益ます親み、號して内相と為すに至る。又 以て天子の私人と為し、凡そ其の職を充る者は、定員無く、諸曹尚書より、下、校書郎に至るまで、皆 選に預るを得たり。」
3 翰林 宮廷学芸機関で、「ふで(翰)のはやし(林)の官庁」の意。唐の玄宗の開元年間(713741)に宮中に創置され、文人を出仕させたのに始まる。玄宗は文学,経学,書画,医薬などの専門家を宮中に出仕せしめてこれを待詔といい,その館を翰林院と称した。安史の乱後、天子の詔勅の執筆に携わったところから政治的発言権が強まり、長官の学士承旨は内相とよばれ、中・晩唐にかけて権力の一中心となり、李肇の『翰林志』以下の記録もつくられた。また院には書、画、音楽から囲碁などに及ぶ諸芸に秀でた人材を抱える伎術院を付設し、ここは宮廷文化センターの観を呈した。

4 集賢 唐代の官署。中書省に属し、典籍の編集・発行、散逸した図書の探索などを任務とした。

5 學士  中国で,翰林院の官。主に詔書の起草に当たった。唐・宋代には,ここから宰相となる者も多かった。翰林博士。翰林。 文章博士(もんじようはかせ)の唐名。翰林主人。翰林。

6 紫禁 謝荘の宋孝武宣貴妃の註に收華紫宮とあって、李善の註に「王者の宮、以て紫微に象る、故に宮中をいうて紫禁と爲す」とあり、李延濟の註に「紫禁は即ち紫宮、天子の居るところなり」とある。

7 金門 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」また、漢書東方朔傳に「金門に待詔して、稍や親近を得たり」とある。

8 散遺帙 遺れる帙を解いて、書冊を取り出すこと。書帙をうち開くこと。また讀書することをさす。 (ちつ)とは、和本を包んで保存する装具の一種。

謝靈運《酬従弟謝惠連 五首その(2)》「淩澗尋我室,散帙問所知。」(澗【たに】を淩ぎ 我が室を尋ね,散帙【さんちつ】知れる所を問える。) そうしたら、隠棲している谷を越えて私の庵を尋ねてくる。読書をしてわからないところを質問をしてくる。

9 窮至妙 至妙の玄理を研究する。

10 青蠅 くそばえ、あおばえ。白い布を汚し黑にし、黒い布を白にする。以て讒言人に比す。《詩經小雅甫田之什青蠅》. 毛詩序に「《青蠅》,大夫刺幽王也。」(青蠅は大夫 幽王を刺るなり。)「 營營青蠅,止於樊。豈弟君子,無信讒言。 營營青蠅,止于棘。讒人罔極,交亂四國。 營營青蠅,止于榛。讒人罔極,構我二人。」(營營たる青蠅は,樊に止る。豈弟の君子,讒言を信ずること無れ。營營たる青蠅は,棘に止る。讒人は罔極,交ごも四國を亂る。營營たる青蠅は,榛に止る。讒人は罔極,我が二人を構う。

10 白雪 琵琶の名曲『陽春白雪』は十大古代名曲の一つとされ、琵琶大曲の代表作であり,其の特長は是れの綜合文化曲であり、武術曲の表現手法とが調和される演奏風格をもっているものである。十大古代名曲を列挙すると《高山流水》、《廣陵散》、《平沙落雁》、《梅花三弄》、《十面埋伏》、《夕陽簫鼓》、《漁樵問答》、《胡笳十八拍》、《漢宮秋月》和《陽春白雪》となるが、《陽春白雪》のように、他の楽器、歌と合奏されるものは少ない。

宋玉《對楚王問》「客有歌於郢中者、其為『陽春 白雪』是其曲彌高,其和彌寡。(客に郢中に歌う者有り、其れ『陽春白雪』を為す、是れ其の曲 彌よ高ければ,其の和 彌よ寡し。)とあるに基づく。

743年(85)李太白集856卷23-32翰林讀書言懷呈集賢諸學士 ( 一本集賢后有院內二字)  404Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(85) Ⅰ李白詩1768 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7380

李白  翰林讀書言懷呈集賢諸學士  #1

晨趨紫禁中,夕待金門詔。觀書散遺帙,探古窮至妙。

片言苟會心,掩卷忽而笑。青蠅易相點,白雪難同調。
(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

われは、朝に天子の寝殿のある居に参趨し、夕に右銀臺門、金馬門、翰林院に待詔となった。翰林院中に於て、すぐにやったことは散乱している書を整理し、遺れる帙を解いて、書冊を取り出し、いにしえの事實を探って、至妙の玄理を研究した。その間、片言隻辭でも、苟も、心に會するものあれば、巻を掩い、忽然として、独り微笑んで居た。おもえば、青蝿は、美事な玉にも糞をしかけて之を汚し、白雪の曲は、高くして、なかなか之と調を同じゅうすることは出来ない。

 

李太白集 巻二三18

翰林讀書言懷呈集賢諸學士

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7380

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-85

404 <1000

 

 
  2016年2月23日 の紀頌之5つのBlog  
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年:743年天寶二年43歳 94-85

卷別:  卷一八三         文體:        五言古詩

李太白集:巻二三18  

寫懐篇:寫とは、文字の通り、胸中の感懐を写し出したのである。

詩題:  翰林讀書言懷呈集賢諸學士【翰林讀書言懷呈集賢諸學士】

作地點:        目前尚無資料

及地點:        翰林院 (京畿道 京兆府 長安) 別名:翰林   

桐廬江 (江南東道 睦州 桐廬) 別名:桐廬溪         

交遊人物/地點:

 

 

翰林讀書言懷呈集賢諸學士  #1

(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

晨趨紫禁中,夕待金門詔。

われは、朝に天子の寝殿のある居に参趨し、夕に右銀臺門、金馬門、翰林院に待詔となった。

觀書散遺帙,探古窮至妙。

翰林院中に於て、すぐにやったことは散乱している書を整理し、遺れる帙を解いて、書冊を取り出し、いにしえの事實を探って、至妙の玄理を研究した。

片言苟會心,掩卷忽而笑。

その間、片言隻辭でも、苟も、心に會するものあれば、巻を掩い、忽然として、独り微笑んで居た。

青蠅易相點,白雪難同調。

おもえば、青蝿は、美事な玉にも糞をしかけて之を汚し、白雪の曲は、高くして、なかなか之と調を同じゅうすることは出来ない。

#2

本是疏散人,屢貽褊促誚。

雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。

嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。

功成謝人間,從此一投釣。

 

(翰林にて書を読みで懐を言い、集賢諸學士に呈す)

(翰林にて書を読みで懐を言ひ、集賢諸學士に呈す)#1

晨に紫禁の中を趨り,夕に金門の詔を待つ。

書を觀て遺帙を散じ,古を探って至妙を窮む。

片言 苟くも心に會すれば,卷を掩うて忽として笑う。

青蠅 相い點じ易く,白雪 同調し難し。

#2

本と是れ 疏散の人,屢ば 褊促の誚【そしり】を貽【のこ】す。

雲天 清朗に屬し,林壑 遊眺を憶う。

或時は 清風來り,閒には 欄下に倚りて嘯く。

嚴光は桐廬の溪に,謝客は臨海の嶠に。

功成りて 人間を謝し,此れ從り 一つに釣を投ぜん。

 

大明宮の圖003 

『翰林讀書言懷呈集賢諸學士』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

翰林讀書言懷呈集賢諸學士  #1

晨趨紫禁中,夕待金門詔。

觀書散遺帙,探古窮至妙。

片言苟會心,掩卷忽而笑。

青蠅易相點,白雪難同調。

(下し文)
(翰林にて書を読みで懐を言ひ、集賢諸學士に呈す)#1

晨に紫禁の中を趨り,夕に金門の詔を待つ。

書を觀て遺帙を散じ,古を探って至妙を窮む。

片言 苟くも心に會すれば,卷を掩うて忽として笑う。

青蠅 相い點じ易く,白雪 同調し難し。

(現代語訳)
翰林讀書言懷呈集賢諸學士  #1(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

われは、朝に天子の寝殿のある居に参趨し、夕に右銀臺門、金馬門、翰林院に待詔となった。

翰林院中に於て、すぐにやったことは散乱している書を整理し、遺れる帙を解いて、書冊を取り出し、いにしえの事實を探って、至妙の玄理を研究した。

その間、片言隻辭でも、苟も、心に會するものあれば、巻を掩い、忽然として、独り微笑んで居た。

おもえば、青蝿は、美事な玉にも糞をしかけて之を汚し、白雪の曲は、高くして、なかなか之と調を同じゅうすることは出来ない。

長安城図 作図00
(訳注)

翰林讀書言懷呈集賢諸學士  #1

(翰林院に待詔であったときに、院中において書を読み、因って、その感慨を抒べて、集賢院諸学士に呈上したもの)

1【解説】 起首六句は、翰林に於て書を読みしこと、「青蠅易相點,白雪難同調。本是疏散人,屢貽褊促誚。」四句は、兎角に小人から譏られること、「雲天屬清朗,林壑憶遊眺。

或時清風來,閒倚欄下嘯。」の四句は、秋時の光景、「嚴光桐廬溪,謝客臨海嶠。功成謝人間,從此一投釣。」の四句は、功成りし後、この世を辞したいという希望を述べたのである。蕭士贇は「これ太白心を寫すの作、これを観れば、前の效古の二首は概ね見るべし」とある。

2 翰林/集賢/學士 唐書百官志開元十三年改麗正修書院為集賢殿書院五品以上為學士六品以下為直學士宰相一人為學士知院事常侍一人為副知院事又置判院一人押院中使一人𤣥宗常選耆儒、日一人侍讀、以質史籍疑義。至是、置集賢院侍讀學士、侍講直學士、其後、又增置修撰官、校理官、待制官、留院官、知校討官。

文學直之員、又云學士之職、本以文學言語被顧問、出入侍從、因得參謀議、納諫諍、其禮、尤寵、而、翰林院者待詔之所也。唐制、乗輿所在、必有文詞經學之士、下、至卜醫伎術之流、皆直於院、以備宴見、而、文書詔令則中書舍人掌之。自太宗時、名儒學士、時時召以草制。然、猶未有名號、乾封以後、始號北門學士。

𤣥宗初置翰林待詔以張陸堅張九齡等為之掌四方表疏批答應和文章。既而、又以中書務劇、文書多壅滯、乃選文學之士、號翰林供奉、與集賢院學士分掌制詔書勅。

開元二十六年、又改翰林供奉為學士、置學士院、專掌内命。凢拜免將相、號令征伐、皆用白麻。其後、選用益重而禮遇益親、至號為内相。又以為天子私人、凡充其職者、無定員、自諸曹尚書、下、至校書郎、皆得預選。

(「開元十三年、麗正修書院を改めて集賢殿書院と為し、五品以上を學と為し、士六品以下を直學士と為し、宰相一人を、學士知院事と為し、常侍一人を副知院事と為し、又 判院一人、押院中使一人を置く。𤣥宗 常に耆儒を選び、日に一人侍讀とし、以て史籍の疑義を質す。是に至りて、集賢院侍讀學士、侍講直學士を置き、其の後、又 修撰官、校理官、待制官、留院官、知校討官を增置す。

文學直の員、又 學士の職と云う、本と文學言語を以て顧問せらる、出入侍從、因って謀議に參し、諫諍を納るるを得、其ぼ禮、尤も寵、而して、翰林院は待詔の所なり。唐制、乗輿在るところ、必ず文詞經學の士有り、下、卜醫伎術の流に至って、皆 院にし、以て宴見に備う、而して、文書詔令は則ち中書舍人之を掌る。太宗の時より、名儒學士、時時召して以て制を草す。然れども、猶お未だ名號有らず、乾封以後、始めて北門學士と號す。

𤣥宗の初め、翰林待詔を置き、張、陸堅、張九齡等をて之を為し、四方の表疏批答應和の文章を掌る。既にして、又 中書務劇にして、文書壅滯多きを以て、乃ち文學の士を選び、翰林供奉と號し、與集賢院學士と制詔書勅とを分ち掌る。

開元二十六年、又 翰林供奉を改めて學士と為し、學士院を置く、專ら内命を掌る。凢そ將相を拜免する、征伐を號令す、皆白麻を用う。其の後、選用益ます重くして禮遇益ます親み、號して内相と為すに至る。又 以て天子の私人と為し、凡そ其の職を充る者は、定員無く、諸曹尚書より、下、校書郎に至るまで、皆 選に預るを得たり。」
3 翰林 宮廷学芸機関で、「ふで(翰)のはやし(林)の官庁」の意。唐の玄宗の開元年間(713741)に宮中に創置され、文人を出仕させたのに始まる。玄宗は文学,経学,書画,医薬などの専門家を宮中に出仕せしめてこれを待詔といい,その館を翰林院と称した。安史の乱後、天子の詔勅の執筆に携わったところから政治的発言権が強まり、長官の学士承旨は内相とよばれ、中・晩唐にかけて権力の一中心となり、李肇の『翰林志』以下の記録もつくられた。また院には書、画、音楽から囲碁などに及ぶ諸芸に秀でた人材を抱える伎術院を付設し、ここは宮廷文化センターの観を呈した。

4 集賢 唐代の官署。中書省に属し、典籍の編集・発行、散逸した図書の探索などを任務とした。

5 學士  中国で,翰林院の官。主に詔書の起草に当たった。唐・宋代には,ここから宰相となる者も多かった。翰林博士。翰林。 文章博士(もんじようはかせ)の唐名。翰林主人。翰林。

 

晨趨紫禁中,夕待金門詔。

われは、朝に天子の寝殿のある居に参趨し、夕に右銀臺門、金馬門、翰林院に待詔となった。

6 紫禁 謝荘の宋孝武宣貴妃の註に收華紫宮とあって、李善の註に「王者の宮、以て紫微に象る、故に宮中をいうて紫禁と爲す」とあり、李延濟の註に「紫禁は即ち紫宮、天子の居るところなり」とある。

7 金門 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」また、漢書東方朔傳に「金門に待詔して、稍や親近を得たり」とある。

 

觀書散遺帙,探古窮至妙。

翰林院中に於て、すぐにやったことは散乱している書を整理し、遺れる帙を解いて、書冊を取り出し、いにしえの事實を探って、至妙の玄理を研究した。

8 散遺帙 遺れる帙を解いて、書冊を取り出すこと。書帙をうち開くこと。また讀書することをさす。 (ちつ)とは、和本を包んで保存する装具の一種。

謝靈運《酬従弟謝惠連 五首その(2)》「淩澗尋我室,散帙問所知。」(澗【たに】を淩ぎ 我が室を尋ね,散帙【さんちつ】知れる所を問える。) そうしたら、隠棲している谷を越えて私の庵を尋ねてくる。読書をしてわからないところを質問をしてくる。

9 窮至妙 至妙の玄理を研究する。

 

片言苟會心,掩卷忽而笑。

その間、片言隻辭でも、苟も、心に會するものあれば、巻を掩い、忽然として、独り微笑んで居た。

 

青蠅易相點,白雪難同調。

おもえば、青蝿は、美事な玉にも糞をしかけて之を汚し、白雪の曲は、高くして、なかなか之と調を同じゅうすることは出来ない。

10 青蠅 くそばえ、あおばえ。白い布を汚し黑にし、黒い布を白にする。以て讒言人に比す。《詩經小雅甫田之什青蠅》. 毛詩序に「《青蠅》,大夫刺幽王也。」(青蠅は大夫 幽王を刺るなり。)「 營營青蠅,止於樊。豈弟君子,無信讒言。 營營青蠅,止于棘。讒人罔極,交亂四國。 營營青蠅,止于榛。讒人罔極,構我二人。」(營營たる青蠅は,樊に止る。豈弟の君子,讒言を信ずること無れ。營營たる青蠅は,棘に止る。讒人は罔極,交ごも四國を亂る。營營たる青蠅は,榛に止る。讒人は罔極,我が二人を構う。

10 白雪 琵琶の名曲『陽春白雪』は十大古代名曲の一つとされ、琵琶大曲の代表作であり,其の特長は是れの綜合文化曲であり、武術曲の表現手法とが調和される演奏風格をもっているものである。十大古代名曲を列挙すると《高山流水》、《廣陵散》、《平沙落雁》、《梅花三弄》、《十面埋伏》、《夕陽簫鼓》、《漁樵問答》、《胡笳十八拍》、《漢宮秋月》和《陽春白雪》となるが、《陽春白雪》のように、他の楽器、歌と合奏されるものは少ない。

宋玉《對楚王問》「客有歌於郢中者、其為『陽春 白雪』是其曲彌高,其和彌寡。(客に郢中に歌う者有り、其れ『陽春白雪』を為す、是れ其の曲 彌よ高ければ,其の和 彌よ寡し。)とあるに基づく。
楊貴妃清華池002 

743年(84)李太白集855卷23-31感遇四首 感遇四首其四  403Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(84) Ⅰ李白詩1767 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7375

李白  感遇,四首之四

宋玉事楚王,立身本高潔。巫山賦綵雲,郢路歌白雪。

舉國莫能和,巴人皆卷舌。一感登徒言,恩情遂中

その時に感じ、思ったこと、その四(宋玉と楚王の問答、高唐賦、や登徒子好色賦などを例にとり、朝廷、後宮に讒言により天子の寵愛を断たれて浮ばれないものが多くいることを述べる。)

宋玉は、楚王に仕え、その身を立つること、極めて高潔にして、醜行などは、少しもなかった。ある時、王に従って、高唐に遊び、巫山神女の事に感じて、「朝雲暮雨」を言う高唐賦をつくり、又、都、郢中に於て白雪を歌ったが、曲いよいよ高ければ、これを解するものなく、楚國をあげて、これに和することができず、賤しい曲のみを唱へて居た巴人は、これがために、舌をまいたというのである。しかも、楚王は、一つに登徒子の言に惑はされ、宋玉を以て色を好むものとなし、さしもの寵遇も、俄に中絶して仕舞ったのは、まことに気の毒千萬な事である。

李太白集巻二三31

感遇,四首之四

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Index-23

743年天寶二年43歳 

94-84

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  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-23 #4杜少陵集 《20-99 觀公孫大娘弟子舞劍器行 #4》 杜甫詩index-15-1146 <1596> 767年大暦2年56歲-23 #4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7377   
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年:*750年天寶九年50

卷別:  卷一八三        文體:  五言古詩

詩題:  感遇,四首之一

作地點:        目前尚無資料

及地點:       

交遊人物/地點:

詩文:

 

感遇,四首之一

吾愛王子晉,得道伊洛濱。金骨既不毀,玉顏長自春。

可憐浮丘公,猗靡與情親。舉首白日間,分明謝時人。

二仙去已遠,夢想空殷勤。

 

年:730年開元十八年30

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    感遇,四首之二

作地點:              目前尚無資料

寫及地點:無

交遊人物/地點:  

詩文:

 

感遇,四首之二

その時に感じ、思ったこと、その二(陶潜の愛した菊花は本来、香りもよく菊酒にして楽しめるものである、しかし、このまま枯れ果てるのか、それ本来の力を発揮できるときに、登用されない自分も同じように枯れ果てるというのだろうかと詠う)

可歎東籬菊,莖疏葉且微。

東籬に菊の花が咲き並んでいるが茎もまばらで、葉も少ししかなく、随分痩せ衰えている。

雖言異蘭蕙,亦自有芳菲。

蘭蕙とは異なっているとはいうものの、また、そんな花からでも芳香があってきわめて愛すべきものなのだ。

未泛盈樽酒,徒霑清露輝。

ただ今、樽一杯の酒などないのでその菊花を浮かべることなどできないし、いたずらに清らかに輝ける白露に沾うだけで、寂しい限りだ。

當榮君不採,飄落欲何依。

この花の盛りの時にとらなければ陶潜と同じ東籬なのに「飲酒」の詩も歌えず、このまま飄落してしまうので、どうしようもなく、何を頼りにしたらよいのだろうか。

 

(感遇,四首の二)

歎す可し 東籬の菊,莖は疏にして葉 且らく微なり。

蘭蕙に異なりと言うと雖も,亦た自ら芳菲有り。

未だ 盈樽の酒を泛べず,徒らに清露の輝に霑う。

榮に當って君は採らずと,飄落 何れにか依らんと欲す。

 

年:743年天寶二年43

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    感遇,四首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

感遇,四首之三

(後宮において、少しの老化が寵愛を失うこととなるため、必死で若さを保つ努力を行う、姮娥伝説を題材にして妃賓の心持を詠ったものである。)

昔余聞姮娥,竊藥駐雲髮。

聞けば、むかし、姮娥という女があって、不死の仙薬を竊んで、いつまでも雲なす髪を駐めんとしたのである。

不自嬌玉顏,方希鍊金骨。

そして、自ら玉顔を嬌なりとせず、骨を錬って、不老不死の金丹を作ることをこいねがったのである。

飛去身莫返,含笑坐明月。

かつて、ひとたび、この塵界を飛び去った後は、決して歸ることなく、笑を含んで明月の中に坐し、即ち月精と成って仕舞った。

紫宮誇蛾眉,隨手會凋歇。

美美しき宮闕に妃嬪宮女どもは、蛾眉の艶を誇るも、やがて老死を免れず、手に随って凋歇するばかりで、まことに傷むべきことである。

(感遇,四首の三)

昔 余 聞く 姮娥,竊藥をんで 雲髮を駐む。

自ら玉顏を嬌なりとせず,方に金骨を鍊らんことを希【こいねが】う。

飛び去って 身 返る莫く,笑を含んで明月に坐す。

紫宮 蛾眉に誇り,手に隨って會【たまた】ま凋歇す。

 

年:743年天寶二年43

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    感遇,四首之四

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              巫山 (山南東道 夔州 巫山)              

交遊人物/地點:  

詩文:

 

感遇,四首之四

その時に感じ、思ったこと、その四(宋玉と楚王の問答、高唐賦、や登徒子好色賦などを例にとり、朝廷、後宮に讒言により天子の寵愛を断たれて浮ばれないものが多くいることを述べる。)

宋玉事楚王,立身本高潔。

宋玉は、楚王に仕え、その身を立つること、極めて高潔にして、醜行などは、少しもなかった。

巫山賦綵雲,郢路歌白雪。

ある時、王に従って、高唐に遊び、巫山神女の事に感じて、「朝雲暮雨」を言う高唐賦をつくり、又、都、郢中に於て白雪を歌ったが、

舉國莫能和,巴人皆卷舌。

曲いよいよ高ければ、これを解するものなく、楚國をあげて、これに和することができず、賤しい曲のみを唱へて居た巴人は、これがために、舌をまいたというのである。

一感登徒言,恩情遂中

しかも、楚王は、一つに登徒子の言に惑はされ、宋玉を以て色を好むものとなし、さしもの寵遇も、俄に中絶して仕舞ったのは、まことに気の毒千萬な事である。

 

(感遇,四首の四)

宋玉 楚王に事【つか】え,身を立つるは、本と 高潔なり。

巫山 綵雲を賦し,郢路 白雪を歌う。

國を舉ぐるは 能く和すること莫く,巴人 皆 舌を卷く。

一に登徒の言を感ずれば,恩情 遂に 中す。

 

 

『感遇,四首之四』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

感遇,四首之四

宋玉事楚王,立身本高潔。

巫山賦綵雲,郢路歌白雪。

舉國莫能和,巴人皆卷舌。

一感登徒言,恩情遂中

(下し文)
(感遇,四首の四)

宋玉 楚王に事【つか】え,身を立つるは、本と 高潔なり。

巫山 綵雲を賦し,郢路 白雪を歌う。

國を舉ぐるは 能く和すること莫く,巴人 皆 舌を卷く。

一に登徒の言を感ずれば,恩情 遂に 中

(現代語訳)
感遇,四首之四 その時に感じ、思ったこと、その四(宋玉と楚王の問答、高唐賦、や登徒子好色賦などを例にとり、朝廷、後宮に讒言により天子の寵愛を断たれて浮ばれないものが多くいることを述べる。)

宋玉は、楚王に仕え、その身を立つること、極めて高潔にして、醜行などは、少しもなかった。

ある時、王に従って、高唐に遊び、巫山神女の事に感じて、「朝雲暮雨」を言う高唐賦をつくり、又、都、郢中に於て白雪を歌ったが、

曲いよいよ高ければ、これを解するものなく、楚國をあげて、これに和することができず、賤しい曲のみを唱へて居た巴人は、これがために、舌をまいたというのである。

しかも、楚王は、一つに登徒子の言に惑はされ、宋玉を以て色を好むものとなし、さしもの寵遇も、俄に中絶して仕舞ったのは、まことに気の毒千萬な事である。


(訳注)

感遇,四首之四

その時に感じ、思ったこと、その四(宋玉と楚王の問答、高唐賦、や登徒子好色賦などを例にとり、朝廷、後宮に讒言により天子の寵愛を断たれて浮ばれないものが多くいることを述べる。)

9 解説 蕭士贇は「太白の此篇、宋玉の事を借り、以て己の意を申ぶるなり」といい、即ち宋玉を以て自ら此し、楚王を以て玄宗に擬し、登徒を以て高力士一輩の徒にあてたのである。但し、郢中に白雪を歌ったのは、封楚王問に客とあって、宋玉自身ではなく、又楚王は登徒の言を聞いても、宋玉に対する恩情が全然中絶したわけでもない。これ等は事実に合はぬ嫌があるが、両者ともに寓言であるから、さばかり厳重に批判するにも及ばないと思われる。

 

宋玉事楚王,立身本高潔。

宋玉は、楚王に仕え、その身を立つること、極めて高潔にして、醜行などは、少しもなかった。

10 宋玉・・・・本高潔 戦国時代末期の文学者。屈原の弟子とされる。屈原にならって主として辞賦作品を作ったが,その批判精神は受け継げず,主君の好悪のままに作品を作る宮廷作家の最も早い例ともされる。宋玉の作品として,《文選》には〈風の賦〉〈高唐の賦〉〈神女の賦〉〈登徒子好色の賦〉など,《楚辞章句》には〈九弁〉〈招魂〉などが収められるほか,《古文苑》にも幾編かの宋玉作と称する作品が収められている。しかし彼の伝記に確実なよりどころのないこととあわせて,それぞれの作品の来歴にも多くの問題のあることが指摘されている。

 

巫山賦綵雲,郢路歌白雪。

ある時、王に従って、高唐に遊び、巫山神女の事に感じて、「朝雲暮雨」を言う高唐賦をつくり、又、都、郢中に於て白雪を歌ったが、

11 巫山賦綵雲 楚の嚢王が詩人の宋玉をつれて、雲夢の丘に遊び、高唐という物見台から景色を眺めた。すると、その上に雲気が立ちこめ、高くまっすぐ上ったかと思うと、たちまち形をかえた。しばらくの間に、千変万化する。襄王がたずねた、「これは何か」。宋玉がこたえた、「いわゆる朝雲です」。「朝雲とは何か」。宋玉が説明した。

「昔先代の王さまがやはりこの高唐に遊びにきて、昼寝をされた。夢の中に一人の女が現われて言った。『わたしは巫山の女です。高唐へ遊びにきましたが、殿様もまた高唐に遊びに来られたことを聞きました。どうか、おそばに侍らせて下さいませ。』 王はお可愛がりになった。去るとき女が言った。「わたしは巫山の南の高い山の峰に住んでいますが、朝には雲となり、碁には雨となり、毎朝毎晩、南の丘の下へ行きます」。翌朝、行ってみると、果して女の言うとおりだったので、そこに社を建てて朝雲と呼んだ。興味をおぼえた嚢王は、朝雲についてその様子をききただす。宋玉は委細をつくして朝雲暮雨を歌いあげる。その話は、宋玉の「高唐の賦」にくわしい。ただし、ふつうの伝説では、夢のなかで巫山の女神と交わったのは、嚢王その人となっている。 

12 郢路歌白雪 陽春白雪』の曲は高尚な歌である。巫山の巴人、楚の人は、高尚な歌の意味を解すものが少なく、下世話、卑猥なものを多く歌い、理解しなかったことを言う。白雪:琵琶の名曲『陽春白雪』は十大古代名曲の一つとされ、琵琶大曲の代表作であり,其の特長は是れの綜合文化曲であり、武術曲の表現手法とが調和される演奏風格をもっているものである。十大古代名曲を列挙すると《高山流水》、《廣陵散》、《平沙落雁》、《梅花三弄》、《十面埋伏》、《夕陽簫鼓》、《漁樵問答》、《胡笳十八拍》、《漢宮秋月》和《陽春白雪》となるが、《陽春白雪》のように、他の楽器、歌と合奏されるものは少ない。

宋玉《對楚王問》「客有歌於郢中者、其為『陽春 白雪』是其曲彌高,其和彌寡。(客に郢中に歌う者有り、其れ『陽春白雪』を為す、是れ其の曲 彌よ高ければ,其の和 彌よ寡し。)とあるに基づく。

 

舉國莫能和,巴人皆卷舌。

曲いよいよ高ければ、これを解するものなく、楚國をあげて、これに和することができず、賤しい曲のみを唱へて居た巴人は、これがために、舌をまいたというのである。

舉國莫能和 歌の内容と演奏がむつかしい曲、即ち、高尚な曲であれば、楚の國中探してもこれに唱和し、演奏するものが少ないという意。

 

一感登徒言,恩情遂中

しかも、楚王は、一つに登徒子の言に惑はされ、宋玉を以て色を好むものとなし、さしもの寵遇も、俄に中絶して仕舞ったのは、まことに気の毒千萬な事である。

13 登徒言 『文選』巻19に載る「登徒子好色賦」に記されているよく知られた逸話で、美男として有名な中国の文人・宋玉が「自分は決して好色ではない、隣に住んでいた国一番の美女が牆(かき)からその姿を見せ、3年間のぞき込まれ誘惑され続けたが心を動かした事は一度も無かった、私のことを好色と称する登徒子(とうとし)こそ好色である」と王の前で反論した故事(宋玉東牆)をいう。

李白 302 《卷23-43詠鄰女東窗海石榴》

魯女東窗下,海榴世所稀。珊瑚映綠水,未足比光輝。

清香隨風發,落日好鳥歸。願為東南枝,低舉拂羅衣。

無由共攀折,引領望金扉。

(鄰女東窗の海石榴を詠ず)

魯女 東窗の下,海榴 世の稀なる所。珊瑚 綠水に映じ,未だ光輝を比する足らず。

清香 風に隨って發し,落日 好鳥歸る。願わくば 東南の枝と為り,低く舉って 羅衣を拂わん。

共に攀折する由無く,領を引いて 金扉を望む。

(国一番の美女が隣に住んでいて、その窓下の椿の花を見て詠う。)

隣の家にいる魯女の住む部屋の東窓のもとに植えたツバキの花は世にもまれなものである。

サンゴが東海の緑水に映えるも、いまだその花の光輝ある姿に比しがたいというものである。

そして、この花の清香は、したがって発し、夕日が沈むころには、珍しい小鳥がその花に宿せんがために帰ってくる。

我、願わくば、その木の東南の枝となり、低く挙がって、魯女が木のほとりに来た時には、おもむろに羅衣を払いたいと思うのである。

何はともあれ、隣家ではあるものの、余人して、その枝を攀折することもできず、ただ首をのばして、その東隣の女の住んでいる部屋の金色の門扉を望むのみである。

302 《卷23-43詠鄰女東窗海石榴》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <302> Ⅰ李白詩1590 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6498

14 恩情遂中 恩情中道恩情 中道に絶えんことを帝王の寵愛が途中で絶えてしまう


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李白  感遇,四首之三

昔余聞姮娥,竊藥駐雲髮。不自嬌玉顏,方希鍊金骨。

飛去身莫返,含笑坐明月。紫宮誇蛾眉,隨手會凋歇。

(後宮において、少しの老化が寵愛を失うこととなるため、必死で若さを保つ努力を行う、姮娥伝説を題材にして妃賓の心持を詠ったものである。)

聞けば、むかし、姮娥という女があって、不死の仙薬を竊んで、いつまでも雲なす髪を駐めんとしたのである。そして、自ら玉顔を嬌なりとせず、骨を錬って、不老不死の金丹を作ることをこいねがったのである。かつて、ひとたび、この塵界を飛び去った後は、決して歸ることなく、笑を含んで明月の中に坐し、即ち月精と成って仕舞った。美美しき宮闕に妃嬪宮女どもは、蛾眉の艶を誇るも、やがて老死を免れず、手に随って凋歇するばかりで、まことに傷むべきことである。

李太白集巻二三30

感遇,四首之三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7370

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-83

402 <1000

 

 
  2016年2月21日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:*750年天寶九年50

卷別:  卷一八三        文體:  五言古詩

詩題:  感遇,四首之一

作地點:        目前尚無資料

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詩文:

 

 

感遇,四首之一

吾愛王子晉,得道伊洛濱。金骨既不毀,玉顏長自春。

可憐浮丘公,猗靡與情親。舉首白日間,分明謝時人。

二仙去已遠,夢想空殷勤。

 

 

年:730年開元十八年30

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    感遇,四首之二

作地點:              目前尚無資料

寫及地點:無

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詩文:

 

感遇,四首之二

その時に感じ、思ったこと、その二(陶潜の愛した菊花は本来、香りもよく菊酒にして楽しめるものである、しかし、このまま枯れ果てるのか、それ本来の力を発揮できるときに、登用されない自分も同じように枯れ果てるというのだろうかと詠う)

可歎東籬菊,莖疏葉且微。

東籬に菊の花が咲き並んでいるが茎もまばらで、葉も少ししかなく、随分痩せ衰えている。

雖言異蘭蕙,亦自有芳菲。

蘭蕙とは異なっているとはいうものの、また、そんな花からでも芳香があってきわめて愛すべきものなのだ。

未泛盈樽酒,徒霑清露輝。

ただ今、樽一杯の酒などないのでその菊花を浮かべることなどできないし、いたずらに清らかに輝ける白露に沾うだけで、寂しい限りだ。

當榮君不採,飄落欲何依。

この花の盛りの時にとらなければ陶潜と同じ東籬なのに「飲酒」の詩も歌えず、このまま飄落してしまうので、どうしようもなく、何を頼りにしたらよいのだろうか。

 

(感遇,四首之二)

歎す可し 東籬の菊,莖は疏にして葉 且らく微なり。

蘭蕙に異なりと言うと雖も,亦た自ら芳菲有り。

未だ 盈樽の酒を泛べず,徒らに清露の輝に霑う。

榮に當って君は採らずと,飄落 何れにか依らんと欲す。

 

年:743年天寶二年43

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    感遇,四首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

感遇,四首之三

(後宮において、少しの老化が寵愛を失うこととなるため、必死で若さを保つ努力を行う、姮娥伝説を題材にして妃賓の心持を詠ったものである。)

昔余聞姮娥,竊藥駐雲髮。

聞けば、むかし、姮娥という女があって、不死の仙薬を竊んで、いつまでも雲なす髪を駐めんとしたのである。

不自嬌玉顏,方希鍊金骨。

そして、自ら玉顔を嬌なりとせず、骨を錬って、不老不死の金丹を作ることをこいねがったのである。

飛去身莫返,含笑坐明月。

かつて、ひとたび、この塵界を飛び去った後は、決して歸ることなく、笑を含んで明月の中に坐し、即ち月精と成って仕舞った。

紫宮誇蛾眉,隨手會凋歇。

美美しき宮闕に妃嬪宮女どもは、蛾眉の艶を誇るも、やがて老死を免れず、手に随って凋歇するばかりで、まことに傷むべきことである。

 

(感遇,四首の三)

昔 余 聞く 姮娥,竊藥をんで 雲髮を駐む。

自ら玉顏を嬌なりとせず,方に金骨を鍊らんことを希【こいねが】う。

飛び去って 身 返る莫く,笑を含んで明月に坐す。

紫宮 蛾眉に誇り,手に隨って會【たまた】ま凋歇す。

 

年:*743年天寶二年43

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    感遇,四首之四

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              巫山 (山南東道 夔州 巫山)              

交遊人物/地點:  

詩文:

 

感遇,四首之四

宋玉事楚王,立身本高潔。巫山賦綵雲,郢路歌白雪。

舉國莫能和,巴人皆卷舌。一感登徒言,恩情遂中

 

西嶽華山00 

『感遇,四首之三』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

感遇,四首之三

昔余聞姮娥,竊藥駐雲髮。

不自嬌玉顏,方希鍊金骨。

飛去身莫返,含笑坐明月。

紫宮誇蛾眉,隨手會凋歇。

(下し文)
(感遇,四首の三)

昔 余 聞く 姮娥,竊藥をんで 雲髮を駐む。

自ら玉顏を嬌なりとせず,方に金骨を鍊らんことを希【こいねが】う。

飛び去って 身 返る莫く,笑を含んで明月に坐す。

紫宮 蛾眉に誇り,手に隨って會【たまた】ま凋歇す。

(現代語訳)
感遇,四首之三(後宮において、少しの老化が寵愛を失うこととなるため、必死で若さを保つ努力を行う、姮娥伝説を題材にして妃賓の心持を詠ったものである。)

 

聞けば、むかし、姮娥という女があって、不死の仙薬を竊んで、いつまでも雲なす髪を駐めんとしたのである。

そして、自ら玉顔を嬌なりとせず、骨を錬って、不老不死の金丹を作ることをこいねがったのである。

かつて、ひとたび、この塵界を飛び去った後は、決して歸ることなく、笑を含んで明月の中に坐し、即ち月精と成って仕舞った。

美美しき宮闕に妃嬪宮女どもは、蛾眉の艶を誇るも、やがて老死を免れず、手に随って凋歇するばかりで、まことに傷むべきことである。

霓裳羽衣舞001
(訳注)

感遇,四首之三

(後宮において、少しの老化が寵愛を失うこととなるため、必死で若さを保つ努力を行う、姮娥伝説を題材にして妃賓の心持を詠ったものである。)

5【解説】 この首は、長生不死を希望して、塵世の短壽を嘲ったものである。

 

昔余聞姮娥,竊藥駐雲髮。

聞けば、むかし、姮娥という女があって、不死の仙薬を竊んで、いつまでも雲なす髪を駐めんとしたのである。

6 姮娥 后羿の妻である嫦娥(嫦娥仙子)が、后羿が西王母から貰った不老不死の霊薬(または天上界へ行ける霊薬)を飲み1人月へ昇り月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事である。嫦娥奔月とは「嫦娥、月に奔る」の意味。淮南子6巻の覧冥訓12節には嫦娥の物語として「譬若羿請不死之藥於西王母、姮娥竊以奔月、悵然有喪、無以續之。何則? 不知不死之藥所由生也。是故乞火不若取燧、寄汲不若鑿井」との記載がある。淮南子に「羿、不死の薬を西王母に請う、姮娥、竊んで以て月に奔る」姮娥は、羿の妻、「羿,不死の藥を西王母に請ふ、未だこれを服するに及ばず、姮娥、盗んで之を食うて仙を得、奔って月中に入り、月精となるなり」 これについては韓愈 長編の雜詩《月蝕詩效玉川子作》詩において、面白おかしく述べている。

月蝕詩效玉川子作 韓愈 韓退之(韓愈)詩<96-#1>Ⅱ中唐詩514 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1622

 

不自嬌玉顏,方希鍊金骨。

そして、自ら玉顔を嬌なりとせず、骨を錬って、不老不死の金丹を作ることをこいねがったのである。

7 鍊金骨 丹砂を主原料にしてカルシュウムを加え、不老不死の金丹を作ることを言う。道教「四輔」太清部は金丹の術関連の書が纏められている。古くは「黄治」や「黄白」とも呼ばれた金丹は、不老不死の効果を持つ薬の製造と服薬により仙人になることを目指すという点から、道教と密接に関連していた。金丹は古くから興っていたと考えられるが、西晋の頃に方法論の文献『抱朴子』が、「三洞」の霊宝経を伝えた一派とも密接に関係していた葛洪によって著された。彼によると、後漢時代に左慈という人物が神人から授かった「金丹仙経」をごく少数の集団を経て伝えられたという。葛洪は方法を知りながらも経済的理由で必要な金属や鉱物を入手できないため実践に至らないと言っていた。

丹砂(硫化水銀)を主原料とする「神丹」「金丹」「大丹」「還丹」などと称される丹薬や、金を液状にした「金液」が服用された。このようなものは実際のところ人体に有害であり、唐の皇帝が何人も丹薬の害によって命を落としたことが『旧唐書』『新唐書』に記されている。

 

飛去身莫返,含笑坐明月。

かつて、ひとたび、この塵界を飛び去った後は、決して歸ることなく、笑を含んで明月の中に坐し、即ち月精と成って仕舞った。

 

紫宮誇蛾眉,隨手會凋歇。

美美しき宮闕に妃嬪宮女どもは、蛾眉の艶を誇るも、やがて老死を免れず、手に随って凋歇するばかりで、まことに傷むべきことである。

6 柴宮 左思の詩に「列宅紫官裏」とあって、李周翰の註に「紫宮は、天子居るところ」とある。紫微垣、即ち紫微宮、天子の居るところ。古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣。天の北極を中心とした広い天区。あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。「紫禁城」の「紫」もこれに基づく。紫宮女 天帝の後宮で天帝の住まう紫微宮(しびきゅう)を文字っている。宮女をいう。

《巻一49古風,五十九首之四十九》  

美人出南國,灼灼芙蓉姿。皓齒終不發,芳心空自持。

由來紫宮女,共妒青蛾眉。歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。

(古風,五十九首之四十九)

美人 南國にず,灼灼たる芙蓉の姿。

皓齒 終に發かず,芳心 空しく自ら持す。

由來 紫宮の女,共に青蛾眉を妒む。

歸り去れ 瀟湘の沚【なぎさ】,沈吟 何んぞ悲むに足らん。

(宮女の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められるが、入ればもう帰ることはできないところであるという。)南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しい。選りすぐられて後宮に入る。こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ってはいけないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、「容色が衰えて寵愛が薄れる」という例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかったのでたえず、憂いている。昔から後宮の宮女たちは、特に優れたる美人が天下より選りすぐられ、集められていて、その運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っているので、それだけを考えて競い合っている、したがって嫉妬、讒言、陰謀、政争に巻き込まれやすい地位にある。この妃嬪は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。

李白325 《巻一49-《古風,五十九首之四十九 (美人出南國)》》325Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(6) <李白325> Ⅰ李白詩1638 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6738

 

《卷十六10送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。

繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。

天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

(程・劉二侍郎の獨孤判官と安西幕府に赴くを送る)

安西の幕府 材雄多し,喧喧 惟だ道う 三數公。

繡衣 貂裘 積雪よりも明かに,書を飛ばし 檄を走らすこと 飄風の如し。

朝 明主を辭して 紫宮を出で,銀鞍 別を送って 金城空し。

天外の飛霜 蔥海に下り,火旗雲馬 光彩を生ず。

胡塞 塵を清めて 幾日か歸る,漢家 草綠にして遙に相い待つ。

(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。

三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。

今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。

これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。

かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。

743年(64)李太白集卷十六10-《送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》(安西幕府多材雄,) 383Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-64) Ⅰ李白詩1738 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7230

 

tsuki001

 

 

 

感遇,四首(之二) 【字解】

 

 

その時に感じ、思ったこと、その二(陶潜の愛した菊花は本来、香りもよく菊酒にして楽しめるものである、しかし、このまま枯れ果てるのか、それ本来の力を発揮できるときに、登用されない自分も同じように枯れ果てるというのだろうかと詠う)

1 東籬菊 陶潜《飲酒》其五「採菊東籬下,悠然見南山。」をおもいうかべる。

2 未泛 菊酒が出来ない。

3 當榮 菊の花の盛んになる時にあたってという意味。

4 君不採 陶潜《飲酒》其五「採菊東籬下,悠然見南山。」

《飲酒》其五

結廬在人境,而無車馬喧。

問君何能爾?心遠地自偏。 

採菊東籬下,悠然見南山。

山氣日夕佳,飛鳥相與還。 

此中有真意,欲辯已忘言。

廬を結ぶに 人境に在り,而して 車馬の喧【かまびす】しき無し。

君に問ふ 何ぞ能く爾ると,心 遠ければ 地 自ら偏る。

菊を采る 東籬の下,悠然として 南山を見る。

山氣 日夕に佳く,飛鳥 相ひ與に還る。

此の中に 眞意有り,辨んと欲して 已に言を忘る。

○采菊東籬下:東側のまがきのもとで菊を摘む。この句は次の「悠然見南山」と共に人口に膾炙された。

 

人里に廬(いおり)を構えているが、車馬の音がうるさいとは思わない。「どうしてそんなことができるのですか」と問われる。「心が俗世間から離れていれば、環境だって自然に辺鄙(へんぴ)になるのさ」とこたえる。東の垣根で菊を摘み、悠然と南の山を見る。山は夕暮れ時がよい。鳥が連れだってねぐらへ帰ってゆく。ここに、私の真意があるのだ。そのことを詳しく説明しようと思ったが、もう言うべき言葉を忘れてしまったよ。

743年(82)李太白集829巻二十三03效古二首其二  401Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(82) Ⅰ李白詩1765 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7365

李白  效古,二首之二

自古有秀色,西施與東鄰。蛾眉不可妒,況乃效其

所以尹婕妤,羞見邢夫人。低頭不出氣,塞默少精神。

寄語無鹽子,如君何足珍。

古詩の體に倣ったという詩)その二

大昔より、絶世の秀色と称せさられるは、越王が呉に進めた西施と宋玉の東鄰の女子とである。蛾眉の美なるは、いくら妬んだとても、仕方がないので、まして、其顰に倣えば、唯だ、自己の醜を増すばかりである。されば、尹妤は、武帝に乞うて、刑夫人を見るや、直に之を見分け、おのが容貌が到底相及ばないということを愧いった。そうして、首を垂れたまま、気を出さず、落胆して、一語も言葉をも出しかね、全く精神的に降伏して仕舞った。無は、聞こゆる醜婦であって、無論、才徳は偉いに相違ないが、単に美色の上から論ずれば、もとより珍として寵愛するに足らぬものとして、世俗一般から卑視されている。

李太白集巻二三03

效古,二首之二

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7365

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-82

4011000

 

 
  2016年2月20日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(82)李太白集829巻二十三03效古二首其二  401Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(82) Ⅰ李白詩1765 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7365  
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韓愈132-#2《 巻01-16秋懷詩,十一首之三 -#2》 韓愈(韓退之) 806年貞元22年 39歳-(4)<1678> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7366  
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  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-23 #2杜少陵集 《20-99 觀公孫大娘弟子舞劍器行 #2》 杜甫詩index-15-1144 <1594> 767年大暦2年56歲-23 #2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7367  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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效古,二首之一 #1

古詩の體に倣ったという詩

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

謬題金閨籍,得與銀臺通。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。

快意且為樂,列筵坐群公。

心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。

光景不可留,生世如轉蓬。

しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。

 

(古に效う,二首の一) #1

朝に天苑の中に入り,帝に謁す 蓬萊宮。

青山 輦道に映り,碧樹 蒼空に搖く。

謬って金閨の籍に題し,銀臺と通ずるを得たり。

#2

待詔 明主に奉じ,毫を抽て清風を頌す。

歸時 落日晚く,躞蹀 浮雲の驄。

人馬 本と意無く,飛馳 自ら豪雄。

門に入れば 紫鴛鴦,金井 雙梧桐。
#3

清歌 古曲を弦じ,美酒 新豐を沽う。

快意 且つ樂を為し,列筵 群公を坐せしむ。

光景 留むべからず,世に生きて轉蓬の如し。

早達は 晚遇に勝る,垂釣の翁に比するを羞ず。

 

年:743年天寶二年43歳 94-82) 

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    效古,二首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:無

交遊人物/地點:  

詩文:

 

效古,二首之二

古詩の體に倣ったという詩)その二

自古有秀色,西施與東鄰。

大昔より、絶世の秀色と称せさられるは、越王が呉に進めた西施と宋玉の東鄰の女子とである。

蛾眉不可妒,況乃效其矉。

蛾眉の美なるは、いくら妬んだとても、仕方がないので、まして、其顰に倣えば、唯だ、自己の醜を増すばかりである。

所以尹婕妤,羞見邢夫人。

されば、尹妤は、武帝に乞うて、刑夫人を見るや、直に之を見分け、おのが容貌が到底相及ばないということを愧いった。

低頭不出氣,塞默少精神。

そうして、首を垂れたまま、気を出さず、落胆して、一語も言葉をも出しかね、全く精神的に降伏して仕舞った。

寄語無鹽子,如君何足珍。

は、聞こゆる醜婦であって、無論、才徳は偉いに相違ないが、単に美色の上から論ずれば、もとより珍として寵愛するに足らぬものとして、世俗一般から卑視されている。

(古に效う,二首の二)

古自り秀色有り,西施と東鄰と。

蛾眉 妒むべからず,況や乃ち其の矉を效うをや

尹婕妤が,邢夫人を見るを羞じる所以。

低頭をれて 氣を出さず,塞默 精神少し。

寄語す 無鹽の子,君の如き 何ぞ珍とするに足らん。

霓裳羽衣舞002 

『效古,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

效古,二首之二

自古有秀色,西施與東鄰。

蛾眉不可妒,況乃效其

所以尹婕妤,羞見邢夫人。

低頭不出氣,塞默少精神。

寄語無鹽子,如君何足珍。

(下し文)
(古に效う,二首の二)

古自り秀色有り,西施と東鄰と。

蛾眉 妒むべからず,況や乃ち其の矉を效うをや

尹婕妤が,邢夫人を見るを羞じる所以。

低頭をれて 氣を出さず,塞默 精神少し。

寄語す 無鹽の子,君の如き 何ぞ珍とするに足らん。

(現代語訳)
效古,二首之二古詩の體に倣ったという詩)その二

大昔より、絶世の秀色と称せさられるは、越王が呉に進めた西施と宋玉の東鄰の女子とである。

蛾眉の美なるは、いくら妬んだとても、仕方がないので、まして、其顰に倣えば、唯だ、自己の醜を増すばかりである。

されば、尹妤は、武帝に乞うて、刑夫人を見るや、直に之を見分け、おのが容貌が到底相及ばないということを愧いった。

そうして、首を垂れたまま、気を出さず、落胆して、一語も言葉をも出しかね、全く精神的に降伏して仕舞った。

は、聞こゆる醜婦であって、無論、才徳は偉いに相違ないが、単に美色の上から論ずれば、もとより珍として寵愛するに足らぬものとして、世俗一般から卑視されている。

長安付近図00
(訳注)

效古,二首之二

古詩の體に倣ったという詩)その二

1 效古は、即ち古詩の體に倣ったというのであるが、その内容は、作者自身の閲歴を叙したので、わざと、此の如く題を命じたのである。

24 其二【解説】前の其一は、「早達勝晚遇」世俗、早達を貴んで、晩遇を賎しむを言い、此首は、一般に色を重んじ、毫程も、才徳を顧みざるをいい、これが、即ち自己の不遇の原因であるということに歸著する。巌滄浪は「妬むも得ず、矉に倣うも得ず、色あって徳なきは、敢て見ず、徳あって色なきは、珍とするに足らず。色を賛すること、至れり、而して、世を嘆ずるの意、言外に見わる、真に古人の情を得たり」といい、蕭士贇は「この詩、時の色を以て相尚んで、徳を好まざるものを刺る、故に末句、これを反言して、寄語無鹽子、如君何足珍といふなり。」といい、乾隆御批には「凡そ效古擬古の作、皆空言に非ず、必ず中に感ずるところあり、よって以て意を寄す、故に之を質言し得ざれば、寓言を以て之を明かにし、これを正言し得ざれば、その辭を反し、以て意を見わす。白の高曠、豈に点々として、早達を以て自ら喜び、蛾眉を誇って醜女を嗤うものならむや。これを刺ること深く、これを諷すること微なり、眞に古欒府の遺を得たるもの、読者意を以て之を迎え、その言外の旨を得れば可なり。」といい、いずれも、言外に中って居る。

 

自古有秀色,西施與東鄰。

大昔より、絶世の秀色と称せさられるは、越王が呉に進めた西施と宋玉の東鄰の女子とである。

秀色 秀色美人、絶世美人をいう。

25 西施 本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。

 現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施>>>西施と呼ばれるようになった。

 紀元前5世紀、越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されてたといわれている。

 この時の越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。

 呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。

 次は美女軍団が呉の国王を狂わせた。

 十八史略には、西施のきわめて美しかったこと、彼女にまつわるエピソードが記されている。西施は、呉王 夫差の寵姫となったが、あるとき胸の病となり、故郷の村に帰ってきた。西施は、痛む胸を手でおさえ、苦しみに眉をひそめて歩いた。それがかえって色香を引出し、村人の目を引いた。そのときに村に評判の醜女がいて、西施のまねた行動をした。それは、異様な姿に映り、かえって村人に嫌われた。これを「西施捧心」と表され、実もないのに真似をしても無駄なことだということだが、日本では、「これだけやっていますが、自分の力だけでなく、真似をしただけですよ」という謙遜の意味に使用されることが多い。

 このようにまれな美しさをそなえた西施は、呉王 夫差を虜(とりこ)にした。夫差は、西施のために八景を築き、その中でともに遊んだ。それぞれの風景の中には、所々に、席がもうけられ、優雅な宴(うたげ)がもよおされた。夏には、西施とともに船を浮かべ、西施が水浴すると、呉王 夫差は、その美しい肢体に見入った。こうして、夫差は悦楽の世界にひたり、政治も軍事も、そして民さえ忘れてしまい、傾国が始まったのである。

 越の策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。

呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。

 その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。

 2)西施ものがたり  李白がよく取り上げた題材

1111 《西施》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <1111> Ⅰ李白詩1290 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4998

1112 《西施》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <1112> Ⅰ李白詩1291 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5003

 

西施 李白が西施の詩句表。

6502-06楽府烏棲曲

王宮里醉西施。

195巻五 28子夜 ( 一作子夜四時歌 ) 夏歌

鏡湖三百里。 菡萏發荷花。 五月西施采。 人看隘若耶。 回舟不待月。 歸去越王家。

210卷六5玉壺吟

世人不識東方朔。 大隱金門是謫仙。 西施宜笑復宜顰。 丑女效之徒累身。 君王雖愛蛾眉好。

218卷六13鳴皋歌送岑徵君 時梁園三尺雪

鳳孤飛而無鄰。 ()蜓嘲龍。 魚目混珍。 母衣錦。 西施負薪。 若使巢由桎梏于軒冕兮。

546卷十六49送祝八之江東賦得浣紗石

西施越溪女。 明艷光云海。 未入王宮殿時。

747巻二十一25西施

西施越溪女。 出自苧蘿山。

829巻二十三03效古二首其二

自古有秀色。 西施與東鄰。 蛾眉不可妒。 況乃效其顰。 所以尹婕妤。

945巻二十四56口號王美人半醉

風動荷花水殿香。 姑蘇台上宴王。 西施醉舞嬌無力。 笑倚東窗白玉床。

 

26 東鄰 東鄰子 宋玉の賦の中に出てくる美人。宋玉《登徒子好色賦》〔「楚國之麗者,莫若臣里, 臣里之美者, 莫若臣東家之子。」後因以“東鄰”指美女。〕李白《白紵辞其一》「北方佳人東鄰子、且吟白紵停綠水。

80 《白紵辭其一》index-5 1-5 725年開元十三年25歳 蜀を離れ、襄陽・荊州に遊ぶ。20 首 <80> Ⅰ李白詩1246 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4778

 

蛾眉不可妒,況乃效其矉。

蛾眉の美なるは、いくら妬んだとても、仕方がないので、まして、其顰に倣えば、唯だ、自己の醜を増すばかりである。

27 矉 しかめる。にらむ。恨んで見張る。《莊子.天運》「故西施病心而矉其里,其里之醜人,見而美之。」

 

所以尹婕妤,羞見邢夫人。

されば、尹妤は、武帝に乞うて、刑夫人を見るや、直に之を見分け、おのが容貌が到底相及ばないということを愧いった。

28 尹婕妤 前漢武帝の妃。李夫人の没後、尹婕妤(婕妤は女官名)は寵愛されたが、倡(楽人)の身分で帝にまみえたものである。

29 邢夫人 前漢王朝の妃。邢夫人は邢娥となり、衆人はこれを邢何と称した。邢夫人と尹婕妤は同じときに武帝から寵幸されたが、詔によってたがいに相まみえることが禁じられていた。尹夫人は自ら武帝に請い、 邢夫人の姿を見たいと願った。帝は別の人を着飾らせて邢夫人を装って会わせたが、尹夫人は「これは邢夫人ご自身ではありません」と言った。武帝は「どうしてそう言うのか」 と問うと尹夫人は「体つき顔つきを見ますに、人主の愛にあたる方ではありません」と言った。そこで武帝は邢夫人にくたびれた衣服を着させて、ひとりで御前に進ませた。 すると尹夫人は「これぞまことの邢夫人でしょう」と頭を垂れて泣き伏し、自ら及ばぬことの不幸を悲しんだという。

《史記》 武帝、時幸夫人 尹妤與邢夫人同時幸。有詔不得相見尹夫人、自請武帝、願望見邢夫人、帝許之。即令他夫人飾,從御者數十人,為邢夫人來前。尹夫人前見之,:「此非邢夫人身也。」帝曰:「何以言之?」對曰:「視其身貌形狀,不足以當人主矣。」於是帝乃詔使邢夫人衣故衣,獨身來前。尹夫人望見之,:「此真是也。」於是乃低頭俛而泣,自痛其不如也。

30 内職制度:《禮記》卷二〈昏義〉「古者,天子后立六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八. 十一御妻,以聽天下之治,以明章婦順;故天下和而家理。天子立六官、三公、九卿、二十七大夫、八十一元士,以聽天下之外治,以明章天下之男教;故外和而國治(古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く、以て明章婦順す;故に天下和して家理む。天子に六官、三公、九卿、二十七大夫、八十一元士を立て,以て天下之外治を聽く,以て天下之男教を明章す;故に外和して國治む。)とある。〔漢:皇帝之妻稱皇后。妾皆稱夫人,也可稱,後來又有美人、良人、八子等稱號。昭儀、婕妤、娥、容華、充衣、美人、良人、八子、七子、長使、少使、五官、順常、舞涓、(共和、靈、保林、良使、夜者)唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。

 

低頭不出氣,塞默少精神。

そうして、首を垂れたまま、気を出さず、落胆して、一語も言葉をも出しかね、全く精神的に降伏して仕舞った。

31 低頭 首を垂れたまま元気のない様子を言う。

32 塞默 落胆して、押し黙っている状態を言う。

 

寄語無鹽子,如君何足珍。

は、聞こゆる醜婦であって、無論、才徳は偉いに相違ないが、単に美色の上から論ずれば、もとより珍として寵愛するに足らぬものとして、世俗一般から卑視されている。

33 無鹽子 「貌似無鹽」醜女にたいする形容である,「無鹽」とは是れ戰國時代齊國の無鹽縣醜女が鐘離の春,今の山東東平縣東部に在る。書上她「四十にして未だ嫁せず」,「極めて醜く雙と無し」,「凹頭 深目,長肚大節,昂鼻結喉,肥頂少髮」,而して且つ「皮膚烤漆」とみにくいことをいう。

常用為醜女的代稱。 漢 劉向 《列女傳齊鍾離春》:鍾離春 者, 齊 無鹽 邑之女, 宣王 之正后也。 其為人極醜無雙, 臼頭深目, 長指大節, 卬鼻結喉, 肥項少髮。”

 

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李白  效古,二首之一 #3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。

李太白集巻二三02

效古,二首之一 #3

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Index-23

743年天寶二年43歳 

94-81

400#31000

 

 
  2016年2月19日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:天寶二年43歳 94-81

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    效古,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

新豐 (京畿道 京兆府 新豐)              

交遊人物/地點:  

詩文:

 

效古,二首之一 #1

古詩の體に倣ったという詩

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

謬題金閨籍,得與銀臺通。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。

快意且為樂,列筵坐群公。

心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。

光景不可留,生世如轉蓬。

しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。

 

(古に效う,二首の一) #1

朝に天苑の中に入り,帝に謁す 蓬萊宮。

青山 輦道に映り,碧樹 蒼空に搖く。

謬って金閨の籍に題し,銀臺と通ずるを得たり。

#2

待詔 明主に奉じ,毫を抽て清風を頌す。

歸時 落日晚く,躞蹀 浮雲の驄。

人馬 本と意無く,飛馳 自ら豪雄。

門に入れば 紫鴛鴦,金井 雙梧桐。
#3

清歌 古曲を弦じ,美酒 新豐を沽う。

快意 且つ樂を為し,列筵 群公を坐せしむ。

光景 留むべからず,世に生きて轉蓬の如し。

早達は 晚遇に勝る,垂釣の翁に比するを羞ず。

 

京兆地域図002 

『效古,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

(下し文)
#3

清歌 古曲を弦じ,美酒 新豐を沽う。

快意 且つ樂を為し,列筵 群公を坐せしむ。

光景 留むべからず,世に生きて轉蓬の如し。

早達は 晚遇に勝る,垂釣の翁に比するを羞ず。

(現代語訳)
#3

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。

心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。

しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。

顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。


(訳注) #3

效古,二首之一 #3

古詩の體に倣ったという詩

 

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。

19 清歌弦古曲 念奴をイメージする。念奴は『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

美酒沽新豐 「新豐酒」漢唐兩代の最も有名な酒である。陝西省驪山華清宮近くにある酒の名産地。長安東北郊20kmの現・臨潼になる。王維の『少年行』に「新豐美酒斗十千,咸陽遊侠多少年。相逢意氣爲君飮,繋馬高樓垂柳邊。」とある。或いは、江蘇省太倉にある地名。李白《楊叛兒》「君歌楊叛兒,妾勸新豐酒。」

8 《楊叛兒》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <98> Ⅰ李白詩1270 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4898

 

快意且為樂,列筵坐群公。

心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。

20 列筵 宴席に身分役職により居並ぶ状況をいう。

謝靈運 《従遊京口北固應詔》 #1

玉璽誡誠信、黄屋示崇高。

事為名教用、道以神理超。

昔聞汾水遊、今見塵外鑣。

鳴笳發春渚、税鑾登山椒。

張組眺倒景、列筵矚歸潮。

(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)#1

玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。

事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。

昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。

茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。

組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #1 詩集 362

 

光景不可留,生世如轉蓬。

しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。

21 轉蓬  ヤナギヨモギが(根が大地から離れて)風に吹かれて、ひとつだけで、風に飛ばされてさすらうさま。日本のヨモギとは大きく異なり、風に吹かれて転がるように風に飛ばされる。(風に飛ばされて)転がってゆく蓬。飛蓬。「蓬」は、日本のヨモギとは異なる。蓬が枯れて、根元の土も風に飛ばされてしまい、根が大地から離れて、枯れた茎が輪のようになり、乾いた黄土高原を風に吹かれて、恰も紙くずが風に飛ばされるが如く回りながら、黄砂とともに流れ去ってゆく。飛蓬。孤蓬。
曹植「雑詩六首其二」
轉蓬離本根、飄颻隨長風。
何意迴飆舉、吹我入雲中。
高高上無極、天路安可窮。
類此遊客子、捐躯遠從戎。
毛褐不掩形、薇藿常不充。
去去莫復道、沈憂令人老。
また、曹植「吁嗟篇」に初句に使う。

雜詩六首其二 曹植 魏詩<19>古詩源 巻三 女性詩645 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1797

 

杜甫「野人送朱桜」
西蜀桜桃他自紅、野人相贈満筠籠。
数迴細写愁仍破、万顆匀円訝許同。
憶昨賜霑門下省、退朝擎出大明宮。
金盤玉筯無消息、此日嘗新任転蓬。

野人送朱櫻 蜀中転々 杜甫 <500  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2690 杜甫詩1000-500-732/1500

また、杜甫「客亭」最終句に使う。

紀頌之のブログ「李商隠8無題」最終語 参照

希望を持ってさすらうことを示すもので、詩の最初か最後に使われ、希望に向かう意思を示すものである。

 

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。

22 早達 出世早達のこと。《南史列傳卷四一至五十》「纘時年二十三, 善明見而嗟服。 累遷尚書吏部郎, 俄而長兼侍中, 時人以為早達。「纘、年二十二、尚書吏部郎に累遷し、俄にして、長兼侍中たり、時人以て早達となす」とある。

23 垂釣翁 王琦注「垂釣翁謂呂尚, 年八十釣於渭濱, 始遇文王。」(呂尚を謂ふ、年八十にして渭濱に釣し、はじめて文王に遇った。)とある。

秦嶺山脈終南山 

 

 

 

 

 

 

效古,二首之一 【字解】 

 

古詩の體に倣ったという詩

1 效古は、即ち古詩の體に倣ったというのであるが、その内容は、作者自身の閲歴を叙したので、わざと、此の如く題を命じたのである。

2 起首四句は、始めて天子に謁見せしこと、「謬題金閨籍」の四句は、翰林に待詔せしこと、歸時落日晩の四句は退食の模様、入門紫鴛鳶の六句は其宅に於ける逸樂の有様、光景不可留は感慨を述べたので、無論、後日の作であるが、その昔時の事として叙述を試みたのであろう。蕭士贇は「この詩、欒府富貴の體なり」といって居る。

3 天苑 禁苑に同じ。

4 蓬萊宮 唐書に「大明宮に、禁苑の東南に衣。、西・宮城の東北隅に壊す、長さ千八百歩、廉さ千八十歩、束内といふ、本と永安宮、貝翫八年に置く、九年、大明宮といひ、以て太上皇の渚薯に備ふ、百官資を献じ、以て役か助く、高宗、風痔を以て西内の漱汲む厭ひ、龍朔三年、はじめて大に興著して、蓬莱宮といひ、成亨元年、含元宮といひ、長安元年、復七大的宮といふしとある。

唐書 「大明宮,乃謂之西,神龍元年曰太極宮。大明宮在禁苑東南,西接宮城之東北隅,長千八百步,廣千八十步,曰東,本永安宮,貞觀八年置,九年曰大明宮,以備太上皇清暑,百官獻貲以助役。高宗以風痹,厭西湫濕,龍朔三年始大興葺,曰蓬萊宮,咸亨元年曰含元宮,長安元年复曰大明宮。」

長安志「東大明宮在禁苑之東南南接京城之北面西接宮城之東北隅南北五里東西三里貞觀八年置為永安宮明年改曰大明宮以備太上皇清暑百官獻貲財以助役龍朔三年大加興造號曰蓬萊宮咸亨元年改曰含元宮尋複大明宮」

5 青山 長安大明宮から180度に秦嶺山脈山脈を見るが、此処では長安の右中間による都市計画から南へ子午線上の終南山とみる。

6 輦道 夾城、閣道、輦に乗じて行くべき専用の道。

7 金閨籍 金は金門、應劭の漢書註に「籍は尺二の竹牒なり、これを宮門に懸け、案省相應じ、乃ち入るを得るなり」とある。

8 銀臺 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」

9 待詔 1 天子の命令を待つこと。みことのりの下るのを待つこと。2 古代中国の官名。経学・文章の人を任命して、天子の詔に応じさせたもの。3 中国の宮廷の画院で最高位の画家。通鑑に「玄宗即位、はじめて翰林院を置いて、禁延に密邇し、文章の士を延き、下は僧道書畫琴棋數術の士に至るまで、皆之に處らしめ、之を待詔といふ」とある。

10 明主 賢明な君主。明君。

11 抽毫 筆箱から選んで筆をとりだす、出筆すること。抽笔出套。(抽筆出套);抽寶劍;抽刀.李白 588巻十七26宣州謝朓樓餞別校書叔云》「抽刀斷水水更流。舉杯消愁愁更愁。」(刀を抽いて水を斷てば、水更に流れ、杯を挙げて愁を消せば、愁 更に愁。)刀を抜いて水を断ち切ってみても水はそのまま流れてゆく。杯を挙げて愁いを消そうとしても愁いは愁いを重ねていく。

12 頌 人の美徳をほめたたえて詩歌にする。功徳をほめる。ほめことば。「頌歌・頌辞・頌徳・頌美」。たたえて祝う。「頌春」2 「詩経」の六義 (りくぎ) の一。宗廟 (そうびょう) で、祖先の徳をたたえる詩歌。、人君の盛徳をほめて神に告げる祭りの詩。「風雅頌・周頌・商頌」

13 清風 (穆として清風の如し)その詩は清泠の風がそよそよと吹く清風のように、人の心を和らげる。天子の恩徳を知らしめる文章を作るということ。毛伝に(清微の風は万物を化養するものなり)とあり、《詩經·蕩之什・烝民》「吉甫作誦、穆如清風。」(吉甫誦を作る、穆として清風の如し。)とあるに基づく。

14 躞蹀 1.小步行走貌。 2.徘徊。“蹀”(1).小步行走貌。《古風五十九首之二十二》「胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。(胡馬【こば】 朔雪【さくせつ】を顧み、躞蹀【しょうちょう】として長く嘶鳴【しめい】す。)胡地の馬は故郷の朔地の山に積もった雪の向こうを振り向いて、馬に付けた鈴や玉を鳴らして、いつまでも嘶きつづけるものなのだ。

15 浮雲驄 漢の文帝の駿馬、名馬の名前であり、以後名馬を言う。

この二句は、右銀臺門から翰林院まで、静かに下馬して歩行すること、歸朝の場合も現代門を出るまで下馬のままで歩行したこと、朝廷の一員であることを意識させる、自慢の出来事である。驄は青白雜毛の馬をいう。李白〈長干行〉二首之二:「行人在何處,好乘浮雲驄。」(行人 何處にか在る、好し 浮雲の驄に乘ず。 []毛色青白相雜の馬。

16 紫鴛鴦 楽府古辞(漢時代の民謡)の中に、「鴛鴦が七十二羽、二羽ずつつがいになって、きれいにならんでいる」という意味の詩句が見える。鴛おしどりのオス。鴦おしどりの雌。

18巻一 古風五十九首其十八

七十紫鴛鴦。 雙雙戲庭幽。

282巻七 古意

上宿紫鴛鴦、若識二草心。

82823-02 效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

831巻二十三 擬古十二首 擬古十二首其二

愿逢同心者。 飛作紫鴛鴦。

936巻二十四47代別情人

風吹綠琴去、曲度紫鴛鴦。

17 金井 後宮であろうか、高貴なところにある井戸端。擣衣、砧も意識させる。

75巻二楽府 長相思

絡緯秋啼金井闌、微霜淒淒簟色寒。

214卷六9扶風豪士歌

 梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

626巻十八33答王十二寒夜獨酌有懷

 玉床金井冰崢嶸。 人生飄忽百年

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

18 梧桐 月の宮殿のつがいの鳳凰が棲むという伝説の葉。玄宗と楊貴妃の愛の巣の表現に使われる。

39巻一古風五十九首其三十九

梧桐巢燕雀、枳棘棲鴛鸞。

136巻四11 塞下曲六首 其四

摧殘梧桐葉、蕭颯沙棠枝。

214卷六9扶風豪士歌

梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

350卷九21 贈崔秋浦三首其一

門前五楊柳、井上二梧桐。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

488巻十四25將游衡岳過漢陽雙松亭留別族弟浮屠談皓

今茲大火落、秋葉黃梧桐。

515卷十五18送薛九被讒去魯

梧桐生蒺藜、綠竹乏佳實。

700巻二十14登金陵冶城西北謝安墩

梧桐識嘉樹、蕙草留芳根。

714巻二十與賈至舍人于龍興寺剪落梧桐枝望()

翦落青梧枝、浥湖坐可窺。

717巻二十秋登宣城謝()北樓

人煙寒橘柚、秋色老梧桐。

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

937巻二十四48代秋情

寒蟬聒梧桐、日夕長鳴悲。

漢の武帝は上林苑の建造を開始した時、群臣や遠方の諸侯の国は、各自、貴重な果実や珍しい樹木を献上し、その中には、また美しい名前の付いたものもあり、珍しくて美しいと評判であった。

梨の木十種:紫梨、青梨、(果実は大きい。)芳梨、(果実は小さい。)大谷梨、細葉梨、縹葉梨、金葉梨、(琅琊郡の王野家から出たもので、太守の王唐が献上した。)瀚海梨、(瀚海の北から出たもので、耐寒性で枯れない。)東王梨、(海中から出たもの。)紫條梨。

棗の木七種:弱枝棗、玉門棗、棠棗、青華棗、棗、赤心棗、西王棗。(崑崙山から出たもの。)

栗の木四種:侯栗、榛栗、瑰栗、嶧陽栗。(嶧陽都尉の曹龍が献上したもので、拳ぐらいの大きさ。)

桃の木十種:秦桃、桃、緗核桃、金城桃、綺葉桃、紫文桃、霜下桃、(霜が降りた後でも食べられる。)胡桃、(西域から出たもの。)櫻桃、含桃。

李の木十五種:紫李、緑李、朱李、黄李、青綺李、青房李、同心李、車下李、含枝李、金枝李、顏淵李、(魯の地から出たもの。)羌李、燕李、蠻李、侯李。

柰の木三種:白柰、紫柰、(花は紫色。)緑柰。(花は緑色。)

山査子の木三種:蠻査、羌査、猴査。

椑の木三種:青椑、赤葉椑、烏椑。

棠梨の木四種:赤棠、白棠、青棠、沙棠。

梅の木七種:朱梅、紫葉梅、紫花梅、同心梅、麗枝梅、燕梅、猴梅。

杏の木二種:文杏、(木には綾がある。)蓬萊杏。(東郡都尉の干吉が献上したもの。一本の杏の木の花には多くの種類の色が入り混じって、六枚の花辨があり、聞くところによれば仙人が食すると言われているそうだ。)

桐の木三種:椅桐、梧桐、荊桐。

林檎の木十本、枇杷の木十本、橙の木十本、安石榴の木十本、の木十本、白銀の木十本、黄銀の木十本、槐の木六百四十本、千年長生の木十本、万年長生の木十本、扶老の木十本、守宮槐の木十本、金明の木二十本、搖風の木十本、鳴風の木十本、琉璃の木七本、池離の木十本、離婁の木十本、楠の木四本、樅の木七本、白楡の木、杜の木、桂の木、蜀漆の木十本、桧の木十本、楔の木四本、楓の木四本。

743年(81)李太白集828卷23-02效古二首其一  400-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(81) Ⅰ李白詩1763 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7355

效古,二首之一 #2

待詔奉明主,抽毫頌清風。歸時落日晚,躞浮雲驄。

人馬本無意,飛馳自豪雄。入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。
身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

李太白集巻二三02

效古,二首之一 #2

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7355

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-81

400#11000

 

 

 
  2016年2月18日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(81)李太白集828卷23-02效古二首其一  400-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(81) Ⅰ李白詩1763 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7355  
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年:天寶二年43歳 94-81

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    效古,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

新豐 (京畿道 京兆府 新豐)              

交遊人物/地點:  

詩文:

 

效古,二首之一 #1

古詩の體に倣ったという詩

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

謬題金閨籍,得與銀臺通。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

 

(古に效う,二首の一) #1

朝に天苑の中に入り,帝に謁す 蓬萊宮。

青山 輦道に映り,碧樹 蒼空に搖く。

謬って金閨の籍に題し,銀臺と通ずるを得たり。

#2

待詔 明主に奉じ,毫を抽て清風を頌す。

歸時 落日晚く,躞蹀 浮雲の驄。

人馬 本と意無く,飛馳 自ら豪雄。

門に入れば 紫鴛鴦,金井 雙梧桐。
#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

大明宮の圖003 

 

『效古,二首之一』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

歸時落日晚,躞浮雲驄。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

(下し文)
#2

待詔 明主に奉じ,毫を抽て清風を頌す。

歸時 落日晚く,躞 浮雲の驄。

人馬 本と意無く,飛馳 自ら豪雄。

門に入れば 紫鴛鴦,金井 雙梧桐。


(現代語訳)
#2

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。


(訳注) #2

效古,二首之一 #2

古詩の體に倣ったという詩

 

待詔奉明主,抽毫頌清風。

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

9 待詔 1 天子の命令を待つこと。みことのりの下るのを待つこと。2 古代中国の官名。経学・文章の人を任命して、天子の詔に応じさせたもの。3 中国の宮廷の画院で最高位の画家。通鑑に「玄宗即位、はじめて翰林院を置いて、禁延に密邇し、文章の士を延き、下は僧道書畫琴棋數術の士に至るまで、皆之に處らしめ、之を待詔といふ」とある。

10 明主 賢明な君主。明君。

11 抽毫 筆箱から選んで筆をとりだす、出筆すること。抽笔出套。(抽筆出套);抽寶劍;抽刀.李白 588巻十七26宣州謝朓樓餞別校書叔云》「抽刀斷水水更流。舉杯消愁愁更愁。(刀を抽いて水を斷てば、水更に流れ、杯を挙げて愁を消せば、愁 更に愁。)刀を抜いて水を断ち切ってみても水はそのまま流れてゆく。杯を挙げて愁いを消そうとしても愁いは愁いを重ねていく。

12 頌 人の美徳をほめたたえて詩歌にする。功徳をほめる。ほめことば。「頌歌・頌辞・頌徳・頌美」。たたえて祝う。「頌春」2 「詩経」の六義 (りくぎ) の一。宗廟 (そうびょう) で、祖先の徳をたたえる詩歌。、人君の盛徳をほめて神に告げる祭りの詩。「風雅頌・周頌・商頌」

13 清風 (穆として清風の如し)その詩は清泠の風がそよそよと吹く清風のように、人の心を和らげる。天子の恩徳を知らしめる文章を作るということ。毛伝に(清微の風は万物を化養するものなり)とあり、《詩經·蕩之什・烝民》「吉甫作誦、穆如清風。」(吉甫誦を作る、穆として清風の如し。)とあるに基づく。

 

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

14 躞蹀 1.小步行走貌。 2.徘徊。“蹀”(1).小步行走貌。《古風五十九首之二十二》「胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。」(胡馬【こば】 朔雪【さくせつ】を顧み、躞蹀【しょうちょう】として長く嘶鳴【しめい】す。)胡地の馬は故郷の朔地の山に積もった雪の向こうを振り向いて、馬に付けた鈴や玉を鳴らして、いつまでも嘶きつづけるものなのだ。

15 浮雲驄 漢の文帝の駿馬、名馬の名前であり、以後名馬を言う。

この二句は、右銀臺門から翰林院まで、静かに下馬して歩行すること、歸朝の場合も現代門を出るまで下馬のままで歩行したこと、朝廷の一員であることを意識させる、自慢の出来事である。驄は青白雜毛の馬をいう。李白〈長干行〉二首之二:「行人在何處,好乘浮雲驄。」(行人 何處にか在る、好し 浮雲の驄に乘ず。 []毛色青白相雜の馬。

 

人馬本無意,飛馳自豪雄。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

 

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

16 紫鴛鴦 楽府古辞(漢時代の民謡)の中に、「鴛鴦が七十二羽、二羽ずつつがいになって、きれいにならんでいる」という意味の詩句が見える。鴛おしどりのオス。鴦おしどりの雌。

18巻一 古風五十九首其十八

七十紫鴛鴦。 雙雙戲庭幽。

282巻七 古意

上宿紫鴛鴦、若識二草心。

82823-02 效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

831巻二十三 擬古十二首 擬古十二首其二

愿逢同心者。 飛作紫鴛鴦。

936巻二十四47代別情人

風吹綠琴去、曲度紫鴛鴦。

17 金井 後宮であろうか、高貴なところにある井戸端。擣衣、砧も意識させる。

75巻二楽府 長相思

絡緯秋啼金井闌、微霜淒淒簟色寒。

214卷六9扶風豪士歌

 梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

626巻十八33答王十二寒夜獨酌有懷

 玉床金井冰崢嶸。 人生飄忽百年

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

18 梧桐 月の宮殿のつがいの鳳凰が棲むという伝説の葉。玄宗と楊貴妃の愛の巣の表現に使われる。

39巻一古風五十九首其三十九

梧桐巢燕雀、枳棘棲鴛鸞。

136巻四11 塞下曲六首 其四

摧殘梧桐葉、蕭颯沙棠枝。

214卷六9扶風豪士歌

梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

350卷九21 贈崔秋浦三首其一

門前五楊柳、井上二梧桐。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

488巻十四25將游衡岳過漢陽雙松亭留別族弟浮屠談皓

今茲大火落、秋葉黃梧桐。

515卷十五18送薛九被讒去魯

梧桐生蒺藜、綠竹乏佳實。

700巻二十14登金陵冶城西北謝安墩

梧桐識嘉樹、蕙草留芳根。

714巻二十與賈至舍人于龍興寺剪落梧桐枝望()

翦落青梧枝、浥湖坐可窺。

717巻二十秋登宣城謝()北樓

人煙寒橘柚、秋色老梧桐。

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

937巻二十四48代秋情

寒蟬聒梧桐、日夕長鳴悲。

漢の武帝は上林苑の建造を開始した時、群臣や遠方の諸侯の国は、各自、貴重な果実や珍しい樹木を献上し、その中には、また美しい名前の付いたものもあり、珍しくて美しいと評判であった。

梨の木十種:紫梨、青梨、(果実は大きい。)芳梨、(果実は小さい。)大谷梨、細葉梨、縹葉梨、金葉梨、(琅琊郡の王野家から出たもので、太守の王唐が献上した。)瀚海梨、(瀚海の北から出たもので、耐寒性で枯れない。)東王梨、(海中から出たもの。)紫條梨。

棗の木七種:弱枝棗、玉門棗、棠棗、青華棗、棗、赤心棗、西王棗。(崑崙山から出たもの。)

栗の木四種:侯栗、榛栗、瑰栗、嶧陽栗。(嶧陽都尉の曹龍が献上したもので、拳ぐらいの大きさ。)

桃の木十種:秦桃、桃、緗核桃、金城桃、綺葉桃、紫文桃、霜下桃、(霜が降りた後でも食べられる。)胡桃、(西域から出たもの。)櫻桃、含桃。

李の木十五種:紫李、緑李、朱李、黄李、青綺李、青房李、同心李、車下李、含枝李、金枝李、顏淵李、(魯の地から出たもの。)羌李、燕李、蠻李、侯李。

柰の木三種:白柰、紫柰、(花は紫色。)緑柰。(花は緑色。)

山査子の木三種:蠻査、羌査、猴査。

椑の木三種:青椑、赤葉椑、烏椑。

棠梨の木四種:赤棠、白棠、青棠、沙棠。

梅の木七種:朱梅、紫葉梅、紫花梅、同心梅、麗枝梅、燕梅、猴梅。

杏の木二種:文杏、(木には綾がある。)蓬萊杏。(東郡都尉の干吉が献上したもの。一本の杏の木の花には多くの種類の色が入り混じって、六枚の花辨があり、聞くところによれば仙人が食すると言われているそうだ。)

桐の木三種:椅桐、梧桐、荊桐。

林檎の木十本、枇杷の木十本、橙の木十本、安石榴の木十本、の木十本、白銀の木十本、黄銀の木十本、槐の木六百四十本、千年長生の木十本、万年長生の木十本、扶老の木十本、守宮槐の木十本、金明の木二十本、搖風の木十本、鳴風の木十本、琉璃の木七本、池離の木十本、離婁の木十本、楠の木四本、樅の木七本、白楡の木、杜の木、桂の木、蜀漆の木十本、桧の木十本、楔の木四本、楓の木四本。

京兆地域図002 

效古,二首之一 【字解】 

 

古詩の體に倣ったという詩

1 效古は、即ち古詩の體に倣ったというのであるが、その内容は、作者自身の閲歴を叙したので、わざと、此の如く題を命じたのである。

2 起首四句は、始めて天子に謁見せしこと、「謬題金閨籍」の四句は、翰林に待詔せしこと、歸時落日晩の四句は退食の模様、入門紫鴛鳶の六句は其宅に於ける逸樂の有様、光景不可留は感慨を述べたので、無論、後日の作であるが、その昔時の事として叙述を試みたのであろう。蕭士贇は「この詩、欒府富貴の體なり」といって居る。

3 天苑 禁苑に同じ。

4 蓬萊宮 唐書に「大明宮に、禁苑の東南に衣。、西・宮城の東北隅に壊す、長さ千八百歩、廉さ千八十歩、束内といふ、本と永安宮、貝翫八年に置く、九年、大明宮といひ、以て太上皇の渚薯に備ふ、百官資を献じ、以て役か助く、高宗、風痔を以て西内の漱汲む厭ひ、龍朔三年、はじめて大に興著して、蓬莱宮といひ、成亨元年、含元宮といひ、長安元年、復七大的宮といふしとある。

唐書 「大明宮,乃謂之西,神龍元年曰太極宮。大明宮在禁苑東南,西接宮城之東北隅,長千八百步,廣千八十步,曰東,本永安宮,貞觀八年置,九年曰大明宮,以備太上皇清暑,百官獻貲以助役。高宗以風痹,厭西湫濕,龍朔三年始大興葺,曰蓬萊宮,咸亨元年曰含元宮,長安元年复曰大明宮。」

長安志「東大明宮在禁苑之東南南接京城之北面西接宮城之東北隅南北五里東西三里貞觀八年置為永安宮明年改曰大明宮以備太上皇清暑百官獻貲財以助役龍朔三年大加興造號曰蓬萊宮咸亨元年改曰含元宮尋複大明宮」

5 青山 長安大明宮から180度に秦嶺山脈山脈を見るが、此処では長安の右中間による都市計画から南へ子午線上の終南山とみる。

6 輦道 夾城、閣道、輦に乗じて行くべき専用の道。

7 金閨籍 金は金門、應劭の漢書註に「籍は尺二の竹牒なり、これを宮門に懸け、案省相應じ、乃ち入るを得るなり」とある。

8 銀臺 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」

743年(81)李太白集828卷23-02效古二首其一  400-#1Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(81) Ⅰ李白詩1762 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7350

李白  效古,二首之一 #1

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。青山映輦道,碧樹搖蒼空。謬題金閨籍,得與銀臺通。

古詩の體に倣ったという詩

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

李太白集巻二三02

效古,二首之一 #1

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7350

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-81

400 <1000

 

 

年:天寶二年43歳 94-81

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    效古,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

新豐 (京畿道 京兆府 新豐)              

交遊人物/地點:  

詩文:

 

效古,二首之一 #1

古詩の體に倣ったという詩

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

謬題金閨籍,得與銀臺通。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

 

(古に效う,二首の一) #1

朝に天苑の中に入り,帝に謁す 蓬萊宮。

青山 輦道に映り,碧樹 蒼空に搖く。

謬って金閨の籍に題し,銀臺と通ずるを得たり。
#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

長安付近図00 

 

『效古,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

效古,二首之一 #1

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

謬題金閨籍,得與銀臺通。

(下し文)

(古に效う,二首の一) #1

朝に天苑の中に入り,帝に謁す 蓬萊宮。

青山 輦道に映り,碧樹 蒼空に搖く。

謬って金閨の籍に題し,銀臺と通ずるを得たり。

(現代語訳)
效古,二首之一 #1古詩の體に倣ったという詩

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。


(訳注)

效古,二首之一 #1

古詩の體に倣ったという詩

1 效古は、即ち古詩の體に倣ったというのであるが、その内容は、作者自身の閲歴を叙したので、わざと、此の如く題を命じたのである。

2 起首四句は、始めて天子に謁見せしこと、「謬題金閨籍」の四句は、翰林に待詔せしこと、歸時落日晩の四句は退食の模様、入門紫鴛鳶の六句は其宅に於ける逸樂の有様、光景不可留は感慨を述べたので、無論、後日の作であるが、その昔時の事として叙述を試みたのであろう。蕭士贇は「この詩、欒府富貴の體なり」といって居る。

大明宮の圖003 

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

3 天苑 禁苑に同じ。

4 蓬萊宮 唐書に「大明宮に、禁苑の東南に衣。、西・宮城の東北隅に壊す、長さ千八百歩、廉さ千八十歩、束内といふ、本と永安宮、貝翫八年に置く、九年、大明宮といひ、以て太上皇の渚薯に備ふ、百官資を献じ、以て役か助く、高宗、風痔を以て西内の漱汲む厭ひ、龍朔三年、はじめて大に興著して、蓬莱宮といひ、成亨元年、含元宮といひ、長安元年、復七大的宮といふしとある。

唐書 「大明宮,乃謂之西,神龍元年曰太極宮。大明宮在禁苑東南,西接宮城之東北隅,長千八百步,廣千八十步,曰東,本永安宮,貞觀八年置,九年曰大明宮,以備太上皇清暑,百官獻貲以助役。高宗以風痹,厭西湫濕,龍朔三年始大興葺,曰蓬萊宮,咸亨元年曰含元宮,長安元年复曰大明宮。」

長安志「東大明宮在禁苑之東南南接京城之北面西接宮城之東北隅南北五里東西三里貞觀八年置為永安宮明年改曰大明宮以備太上皇清暑百官獻貲財以助役龍朔三年大加興造號曰蓬萊宮咸亨元年改曰含元宮尋複大明宮」

 

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

5 青山 長安大明宮から180度に秦嶺山脈山脈を見るが、此処では長安の右中間による都市計画から南へ子午線上の終南山とみる。

6 輦道 夾城、閣道、輦に乗じて行くべき専用の道。

 

謬題金閨籍,得與銀臺通。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

7 金閨籍 金は金門、應劭の漢書註に「籍は尺二の竹牒なり、これを宮門に懸け、案省相應じ、乃ち入るを得るなり」とある。

8 銀臺 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」

長安城図 作図00 

743年(80)李太白集819巻二十二40憶東山二首 其二  399Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(80) Ⅰ李白詩1761 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7345

李白  憶東山,二首之二

我今攜謝妓,長嘯人群。

欲報東山客,開關掃白雲。

(長安に居て、過ぎし日、會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔い、思って作ったものである。)その二

私は今謝安が東山で芸妓とともに過ごしことと同じように、妓女を携えて、この宅址を訪れた、長嘯して浮世の人たちをまったく藐視していたものであった。そこで、東山の客としていたひとびとに報じたいと思っているもので、時期が来れば門を開き、白雲を拂って、神仙の場として奇麗にし、其処に参ろうとするので待っていてもらいたいものである。

李太白集818巻二十二40

憶東山二首 其二

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7345

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-80

399 <1000

 

 
  2016年2月16日 の紀頌之5つのBlog  
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年:743年天寶二年43歳 94-79) 

卷別:    卷一八二              文體:    五言

詩題:    憶東山,二首之一

作地點:              目前尚無資料

及地點:              東山 (江南東道 越州 上虞縣) 別名:謝安山  

交遊人物/地點:  

詩文:

 

憶東山二首 其一

(會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔って作ったものである。)

不向東山久,薔薇幾度花。

自分は、敬愛する謝安の空しく残る宅址のある會稽の東山に向わないときめて、随分久しい、薔薇洞の名をつけた庭一面の薔薇の花は、幾回の春を経ただろうか。

白雲還自散,明月落誰家。

同じように堂の名にした白雲は、そのまま自然に散じたままだろうか、明月を望むあの堂からの月は、今宵誰が家を照らすのだろうか。薔薇、白雲、明月、そのものは、依然としてあるも、宅址荒廃したまま、傍らの堂も、今は跡方の無くむなしいものである。

 

(憶東山二首 其一)

東山に向わざること久しく,薔薇 幾度か 花 さく。

白雲 また自ら散ず、明月 誰が家に落つ。

 

カンナ113 

 

年:743年天寶二年43歳 94-80

卷別:  卷一八二        文體:  五言

詩題:  憶東山,二首之二

作地點:        目前尚無資料

及地點:        東山 (江南東道 越州 上虞縣) 別名:謝安山         

交遊人物/地點:

詩文:

 

憶東山,二首之二

我今攜謝妓,長嘯人群。

欲報東山客,開關掃白雲。

(長安に居て、過ぎし日、會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔い、思って作ったものである。)その二

私は今謝安が東山で芸妓とともに過ごしことと同じように、妓女を携えて、この宅址を訪れた、長嘯して浮世の人たちをまったく藐視していたものであった。
そこで、東山の客としていたひとびとに報じたいと思っているもので、時期が来れば門を開き、白雲を拂って、神仙の場として奇麗にし、其処に参ろうとするので待っていてもらいたいものである。

我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群をつ。 
東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。

 

 

長安城図 作図00
憶東山二首其二 現代語訳と訳註
(
本文)

其二 
我今攜謝妓。 長嘯人群。 
欲報東山客。 開關掃白云。


(下し文)
憶東山,二首の二

我 今 謝妓を攜え、 長嘯して 人群をつ。 
東山の客に報ぜんと欲っし、關を開いて 白云を掃へ。

 

(現代語訳)
憶東山,二首之二(長安に居て、過ぎし日、會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔い、思って作ったものである。)その二

私は今謝安が東山で芸妓とともに過ごしことと同じように、妓女を携えて、この宅址を訪れた、長嘯して浮世の人たちをまったく藐視していたものであった。
そこで、東山の客としていたひとびとに報じたいと思っているもので、時期が来れば門を開き、白雲を拂って、神仙の場として奇麗にし、其処に参ろうとするので待っていてもらいたいものである。

(訳注)
憶東山,二首之二

(長安に居て、過ぎし日、會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔い、思って作ったものである。)その二

李白が長安に居て、会稽、紹興滞在中のことをおもい、作ったものである。朝廷に召される前に訪れたところ。謝安をまねて遊んだことを思い出したもの。


我今攜謝妓。 長嘯人群。
私は今謝安が東山で芸妓とともに過ごしことと同じように、妓女を携えて、この宅址を訪れた、長嘯して浮世の人たちをまったく藐視していたものであった。
8 攜謝妓 晉の時代の謝安は、あざなを安石といい、四十歳になるまで浙江省の東山という山にこもって、ゆうゆうと寝てくらし、朝廷のお召しに応じなかった。当時の人びとは寄ると彼のうわさをした。「安石が出てこないと、人民はどうなるんだ」。時期が来るまで、待っている賢者というものは、一喜一憂しない。敵を油断させる方法にも幾通りもある。ここに言う「芸妓を携えて」というのは、国外のみならず国内にも敵がおり、国を建てなおすにも相手の状況の分析を行い、時機が到来して立ち上がったのであるが、東山に白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所といわれ、妓女と酒を飲んで時期を待っていたことを言う。謝安について李白『送裴十八図南歸嵩山其二』「謝公終一起、相與済蒼生。」とあり、送裴十八図南歸嵩山 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白164
また、李白『梁園吟』「東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晩。」とある。
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9
 長嘯 李白が長嘯という語を使うのはそれを機に行動を起こす場合の言葉としている李白42 梁園吟.
經亂後將避地剡中留贈崔宣城 安史の乱と李白(4) Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 216
李白『經亂後將避地剡中留贈崔宣城」(乱を経たるの後将に地を剡中に避けんとし留めて崔宣城に贈る)では、安禄山の叛乱軍を小馬鹿にして長嘯している。

雙鵝飛洛陽。五馬渡江徼。 
何意上東門。胡雛更長嘯。
(双鵝 洛陽に飛び、五馬 江徼(コウキョウ)を渡る
なんぞ意(おも)はん上東門、胡雛(コスウ)さらに長嘯せんとは。)
東門 洛陽の門。○胡雛 こすう胡雛 五胡十六国の時代、後趙の帝位に就いた羯の石勒の故事。少年の頃、物売りをしているとその声を聞いた王衍は、「さきの胡雛、吾れその声視の奇志有るを観る。恐らくは将に天下の息をなさん」と言って収監しようとしたがすでに去ったあとだった(『晋書』載記四)。「胡雛」はえびすの幼子。胡人の子供に対する蔑称。ここでは李白から見て蔑称の胡の子供並みであると安禄山のことを示す。
また、李白 『贈王大勧入高鳳石門山幽居』

贈王大勧入高鳳石門山幽居 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350- 200

投躯寄天下、長嘯尋豪英。(躯を投げて天下に寄せ、長嘯して豪英を尋ねんとす。) 天下にこの一身を寄せるという気持ちを持ち続け、、世俗など超越した「優れた人物を尋ね歩く」という詩をいつまでも詠い続けるのである。
李白『游泰山六首其一』

李白 112 游泰山六首 (一作天寶元年四月從故御道上泰山)

天門一長嘯。萬里清風來。 天門に一たび長噴すれば、万里より清風釆たる 
天への門に向かって一たび長く唄い叫んだ、すると万里の先より清々しい風が吹いて釆た
使い方としては「長嘯して~する」、ということである。

10 人群 は、藐視することであり、人群は浮世の人たちをいう。


欲報東山客。 開關掃白云。
そこで、東山の客としていたひとびとに報じたいと思っているもので、時期が来れば門を開き、白雲を拂って、神仙の場として奇麗にし、其処に参ろうとするので待っていてもらいたいものである。
11 東山客 謝安と同じ志を持っているもの、隠遁生活している人々。李白の心に思うこと。

12 開關 関は門とおなじ、門を開く、時期が来れば門を開きたいということ。
13
 白云 天上にあるもの、手に届かないものであり、温かく見守るものの象徴としている。あるいは、希望を覆い隠すもの、あるいは隠棲生活の場所を示すもの。

李白『憶東山二首 其一』憶東山二首其一 李白 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -269
不向東山久。 薔薇几度花。 
白云還自散。 明月落誰家。 
白雲は李白の希望、夢であった。白雲に対する明月は玄宗皇帝をあらわす

秋浦歌十七首 其十七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 261/350

祧波一步地。  了了語聲聞。 
闇與山僧別。 低頭禮白云。
暗闇に紛れてわたしは村人と別れを告げたのだ。そして、結をあらにして天子の入り法に向かって深々と頭を下げ礼を取ったのだ。

 

大明宮の圖003 

 

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李白  憶東山二首 其一

不向東山久,薔薇幾度花。白雲還自散,明月落誰家。
(會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔って作ったものである。)

自分は、敬愛する謝安の空しく残る宅址のある會稽の東山に向わないときめて、随分久しい、薔薇洞の名をつけた庭一面の薔薇の花は、幾回の春を経ただろうか。

同じように堂の名にした白雲は、そのまま自然に散じたままだろうか、明月を望むあの堂からの月は、今宵誰が家を照らすのだろうか。薔薇、白雲、明月、そのものは、依然としてあるも、宅址荒廃したまま、傍らの堂も、今は跡方の無くむなしいものである。

李太白集818巻二十二39

憶東山二首 其一

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743年天寶二年43歳 

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年:743年天寶二年43歳 94-89) 

卷別:    卷一八二              文體:    五言

詩題:    憶東山,二首之一

作地點:              目前尚無資料

及地點:              東山 (江南東道 越州 上虞縣) 別名:謝安山  

交遊人物/地點:  

詩文:

 

憶東山二首 其一

(會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔って作ったものである。)

不向東山久,薔薇幾度花。

自分は、敬愛する謝安の空しく残る宅址のある會稽の東山に向わないときめて、随分久しい、薔薇洞の名をつけた庭一面の薔薇の花は、幾回の春を経ただろうか。

白雲還自散,明月落誰家。

同じように堂の名にした白雲は、そのまま自然に散じたままだろうか、明月を望むあの堂からの月は、今宵誰が家を照らすのだろうか。薔薇、白雲、明月、そのものは、依然としてあるも、宅址荒廃したまま、傍らの堂も、今は跡方の無くむなしいものである。

 

(憶東山二首 其一)

東山に向わざること久しく,薔薇 幾度か 花 さく。

白雲 また自ら散ず、明月 誰が家に落つ。

四庫全書會稽志東山 

 

『憶東山二首 其一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

憶東山二首 其一

不向東山久,薔薇幾度花。

白雲還自散,明月落誰家。

(下し文)
(
憶東山二首 其一)

東山に向わざること久しく,薔薇 幾度か 花 さく。

白雲 また自ら散ず、明月 誰が家に落つ。


(現代語訳)
憶東山二首 其一(會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔って作ったものである。)

自分は、敬愛する謝安の空しく残る宅址のある會稽の東山に向わないときめて、随分久しい、薔薇洞の名をつけた庭一面の薔薇の花は、幾回の春を経ただろうか。

同じように堂の名にした白雲は、そのまま自然に散じたままだろうか、明月を望むあの堂からの月は、今宵誰が家を照らすのだろうか。薔薇、白雲、明月、そのものは、依然としてあるも、宅址荒廃したまま、傍らの堂も、今は跡方の無くむなしいものである。

呉越の地図李白の足跡0000 

 (訳注)

憶東山二首 其一

(會稽の東山を過ぎ、謝安の宅址を弔って作ったものである。)

1 東山 浙江省上虞県の西南にあり、会稽(紹興)からいうと東の山であり、名勝地。晋の太傅であった謝安がむかしここに隠居して、なかなか朝廷の招きに応じなかったので有名。山上には謝安の建てた白雲堂明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、謝安の居宅のそばにあった酒宴座敷で、かれが妓女をつれて宴をもよおした所と伝えられている。謝安(320 - 385年)は中国東晋の政治家。王義之らと同時期のひと。宋、施宿等《會稽志、巻九》「東山在縣西南四十五里、晉太傅謝安所居也。一名謝安山、巋然特立於衆峰間、拱揖蔽虧如鸞鶴飛舞。有謝公調馬路白雲明月二堂址千嶂林立、下視滄海天水相接葢絶景也下山出微徑為國慶寺乃太傅之故宅、傍有薔薇洞、俗傳、太傅携妓女宴之 所。」「又山西一里始寧園乃謝靈運墅一曰西莊按 謝安傳云寓居稽與王羲之許詢支遁出則漁獵山水入則言詠屬文後雖受朝寄然東山之志始末不渝靈運傳云父祖並𦵏始寧山中并有故宅及墅遂移籍稽故其詩云偶與張邴合久欲還東山。施宿の會稽志に「東山は、上虞縣の西南四十五里に在り、晋の太侍謝安の居るところなり、一名謝安山、巋然として衆峰の間に特出し、拱揖蔽虧、鸞鶴の飛舞するが如し。その頂に謝公の調馬路、白雲明月二堂の遺址あり、千嶂林立、下に滄海を視る、天水相接す、蓋し絶景なり、山を下って微徑を出づれば、國慶寺たり、乃ち太の故宅、旁に薔薇洞あり、俗傳う、太が妓女を携えて游宴せしところ」とある。

 李白『憶東山二首其二』「我今攜謝妓。 長嘯人群。欲報東山客。 開關掃白云。」(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群をつ。東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。)謝安。晉の時代の謝安は、あざなを安石といい、四十歳になるまで浙江省の東山という山にこもって、ゆうゆうと寝てくらし、朝廷のお召しに応じなかった。当時の人びとは寄ると彼のうわさをした。「安石が出てこないと、人民はどうなるんだ」。時期が来るまで、待っている賢者というものは、一喜一憂しない。敵を油断させる方法にも幾通りもある。ここに言う「芸妓を携えて」というのは、国外のみならず国内にも敵がおり、国を建てなおすにも相手の状況の分析を行い、時機が到来して立ち上がったのであるが、東山に白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所といわれ、妓女と酒を飲んで時期を待っていたことを言う。謝安について李白『送裴十八図南歸嵩山其二』「謝公終一起、相與済蒼生。」とあり、送裴十八図南歸嵩山 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白164。○謝世運 時世の進展から去る。世を去る。

送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈 
攜妓東山去。 春光半道催。 
遙看若桃李。 雙入鏡中開。 
おいの良が謝安のように二人妓女と会稽に逝くのを送り出すときに、たわむれにこの詩を作って贈るもである。芸者をつれて、むかし謝安が遊んだように東山に出かけるが、春の日の光は途中で人をせきたてることだろう。きっと、二人の妓女が赤い桃花と白い李花がさいているのようだろう、そして、二人の妓女は鏡湖の中に入って、舟を浮かべ宴は、はなやかに開かれているだろう、わたしは、はるかに長江流れからこの地から見ているのだ。

(姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り)
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287

 

不向東山久,薔薇幾度花。

自分は、敬愛する謝安の空しく残る宅址のある會稽の東山に向わないときめて、随分久しい、薔薇洞の名をつけた庭一面の薔薇の花は、幾回の春を経ただろうか。

2 不向 向わないと決めたこと。起承転結、それぞれの初めが対語になっている。不向に対して、薔薇は堅い約束を示す。白雲だけがはかなく消えてゆくものである。明月は、幾年たっても、同じように宅址を照らす。
3
 薔薇 

4 (几)  数詞. 1.いくつ; 2.いくつか. 名詞. 1.(~儿)小さな机; 2.ひじかけ. 副詞. 1.〈書〉ほとんど.
 起:不向 → 承:薔薇  
→転:白云 → 結:明月


白雲還自散,明月落誰家。

同じように堂の名にした白雲は、そのまま自然に散じたままだろうか、明月を望むあの堂からの月は、今宵誰が家を照らすのだろうか。薔薇、白雲、明月、そのものは、依然としてあるも、宅址荒廃したまま、傍らの堂も、今は跡方の無くむなしいものである。

5 白雲 白雲無根 : 無心に去来して、跡をとどめない《荘子、天地篇》「乗彼白雲、至于帝郷」(彼の白雲に乗じて、帝郷に至る。)

6 明月 曇りなく澄みわたった満月。また、名月。《季 秋》

7 白雲明月 上の薔薇に対し、白雲、明月は堂名であって、これに因んで構想したのである。

743年(78)李太白集816巻二十二37秋夜獨坐懷故山  397Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(78) Ⅰ李白詩1759 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7335

李白  秋夜獨坐懷故山 #1

小隱慕安石,遠遊學屈平。天書訪江海,雲臥起咸京。入侍瑤池宴,出陪玉輦行。

(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。

然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。

朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。

李太白集巻二十二37

秋夜獨坐懷故山 #1

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Index-23

743年天寶二年43歳 

94-78

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年:743年天寶二年43歳 94-78) 

卷別:    卷一八二              文體:    五言古詩

詩題:    秋夜獨坐懷故山

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:無

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

秋夜獨坐懷故山 #1

(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

小隱慕安石,遠遊學屈平。

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。

天書訪江海,雲臥起咸京。

然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。

朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。

(秋夜 獨坐して 故山を懷う) #1

小隱 安石を慕い,遠遊 屈平を學ぶ。

天書 江海を訪い,雲臥 咸京より起つ。

侍っては瑤池の宴に入し,出でては 玉輦の行に陪す。
2

誇胡新賦作,諫獵短書成。

但奉紫霄顧,非邀青史名。

莊周空劍,墨翟恥論兵。

3

拙薄遂疏歸閒事耦耕。

顧無蒼生望,空愛紫芝榮。

寥落暝霞色,微茫舊壑情。

秋山綠蘿月,今夕為誰明。

 

長安付近図00 

『秋夜獨坐懷故山』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋夜獨坐懷故山 #1

小隱慕安石,遠遊學屈平。

天書訪江海,雲臥起咸京。

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。
詩文(含異文)

小隱慕安石,遠遊學屈平【遠遊學子平】。

天書訪江海,雲臥起咸京。

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。


(下し文)
(秋夜 獨坐して 故山を懷う) #1

小隱 安石を慕い,遠遊 屈平を學ぶ。

天書 江海を訪い,雲臥 咸京より起つ。

侍っては瑤池の宴に入し,出でては 玉輦の行に陪す。

(現代語訳)
秋夜獨坐懷故山 #1(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。

然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。

朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。


(訳注)

秋夜獨坐懷故山 #1

(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

1 秋夜獨坐懷故山詩について 

743年天寶二年43歳の時、長安においてつくる。この年 94首作ったがその78首目の作である。

・李太白集では、〈懐思〉篇に所収され、或は人を懐い、或は地を思い、延佇低徊の意を寓したのである。

・起首四句は、御召に應じて上京するまでの事、入侍瑤池宴あ四句は、翰林に供奉せしこと、但奉紫霽顧の四句は、兎角する中に、天子の眷顧を失いしこと、拙薄遂疎絶の四句は、長安より放逐されしこと、寥落暝霞色の四句は、即ち題意の正面で、懐郷の意を述べたのである。かく一身の経歴を叙し、簡単ながら、その要を得、且つ故事を運旋して、暴露せぬところは、さすがに、含蓄ありというべく、全体がが絶妙を以て許すべからざるも、なお一顧の価値はあることと思はれる。

 

小隱慕安石,遠遊學屈平。【遠遊學子平】

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。

2 小隱 大したものではない隠者のようなもの。小隠者の身。謙譲語。

3 安石 東晋の謝安(字は安石)が、朝廷からしばしば出仕を催されながら、東山に隠棲したま基易に承知しなかったこと。人々は、「安石出づる喜んぜずんは、将た蒼生(人民)を如何んせん」と言って心配した。(『世説新語』「排調、第二十五」の二六)。「高臥」は、世俗の欲望を離れて隠棲すること。

会稽東山の山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。謝安の芸妓を携えて東山始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである

『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』

攜妓東山去。 春光半道催。

遙看若桃李。 雙入鏡中開。

 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り

妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。

(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287

○漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。府城臥竜山南にあった白樓亭のこと。『会稽志卷第九』山府城の卧龍山府に其東麓に治据されていた。隸山陰陽經雲种山、また別名として重山は越大夫の种所葬られた太平御覧种山の名とした處である。山南道で旧と傳えられる白楼亭は今の遺址は関連性からいうと不確かであるが、山頂にある城隍祠ああって、其の西南の越王台の下にある。

李白《346卷九17贈僧崖公》「手秉玉麈尾, 如登白樓亭。」

会稽記 「浙江又東北、重山を径す、西山の上に白楼亭あり。」とある。

4-⑴ 屈平 屈原(くつげん、紀元前343121日頃 - 紀元前27855日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。

4-⑵【子平】 向長ことで,字を子平という,河出身の朝廷歌人である。隱居して仕えることはなかった,性格は尚、中和であり,好く《老子》、《易經》に通じた。貧して資食無く,好事者は更に饋すれば,之を受け,取足して其の餘に反らう。王莽大司空王邑之連年,乃。之めんとするに,固辭む。潛かに家に隱る,《易》を讀み「損益の卦」に至る,喟然として歎して曰く:「吾 已に富を知るは貧の如からず,貴は賤のく如からず,但し未だ死を知らずは何如に生くるのみや?」建武中,男女娶嫁既に畢り,敕:「家の事を斷じ,相關する勿れ,當に我死ぬるが如き也!」是に於て遂に肆意と同好し北海の禽慶,俱に五嶽名山に遊ぶ,竟に終る所知らず。

 

天書訪江海,雲臥起咸京。

然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。

4 天書 天子より下れた詔書。

5 訪江海 江海(長江、淮河、黄河の流域、最終的には嵩山で受ける)の間を尋ね廻られた

5 雲臥 雲がわく岩場の奥深い處に隠遁すること。謝靈運《石門在永嘉》「躋険築幽居、披雲臥石門。」(険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。嶮しい道を登ったところに一軒家を別荘として建てた、雲におおわれたところ、石門のところに病の療養に伏せた。

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 謝霊運<30>#1 詩集 404  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1029

杜甫 2 遊龍門奉先寺

6 咸京 秦の時の都、咸陽であるがここでは唐の都長安のことをいう。

307巻八21卷八讀諸葛武侯傳書懷贈長安崔少府叔封昆季

武侯立岷蜀、壯志吞咸京。

377卷十23流夜郎半道承恩   放還兼欣克復之美書懷示息秀才

旋收洛陽宮、回輿入咸京。

816巻二十二37秋夜獨坐懷故山

天書訪江海、云臥起咸京。

 

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。

朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。

7 瑤池宴 西王母の瑤池の宴である興慶宮勤政楼の宴、龍池の沈香亭での宴をいう。

8 玉輦行 天子の専用道路である夾城を移動、誰にも分らず大明宮と興慶宮、曲江離宮、芙蓉園を移動できたことを言い、金銀宝飾で飾った皇帝の御車に乗って移動した。《卷六04侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》》「仗出金宮隨日轉。天回玉輦繞花行。」

(ジョウ)を持つ警護の者たちは金鑾殿を出て皇帝に付き添って回ってゆく。皇帝は天子の道である夾城で移動され、宝玉の輦(レン)をころがして花々を繞って御行なされる。

743年(54)李太白集卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 373-#3Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-54) Ⅰ李白詩1720 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7148
長安城図 作図00 

743年(77)李太白集694巻二十08杜陵絕句  396Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(77) Ⅰ李白詩1758 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7330

李白  杜陵句 

南登杜陵上,北望五陵間。

秋水明落日,流光滅遠山。
(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。

李太白集巻二十08 (694

杜陵

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7330

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-77

396 <1000

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-77

卷別:    卷一八○              文體:    五言

詩題:    杜陵

作地點:              目前尚無資料

及地點:              杜陵 (京畿道 京兆府 萬年) 別名:杜墅、少陵             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

杜陵

(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

南登杜陵上,北望五陵間。

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。
秋水明落日,流光滅遠山。

おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。

 

(杜陵)

南、杜陵の上に登り、北に望む 五陵の間。

秋水 落日明らかに、流光 遠山滅す。

 

 

『杜陵』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

杜陵

南登杜陵上,北望五陵間。

秋水明落日,流光滅遠山。

(下し文)
(
杜陵)

南、杜陵の上に登り、北に望む 五陵の間。

秋水 落日明らかに、流光 遠山滅す。

(現代語訳)
杜陵(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。
おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。


(訳注)

杜陵

(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

杜陵 杜陵とは前漢の宣帝の陵墓で長安の(城郭の右下)東南にある。小高い丘の上にあり、見晴らしが良いところだ。五陵は長安の北東から北西にかけて、渭水の横門橋わたって東から陽陵(景帝)、長陵(高祖)、安陵(恵帝)、平陵(昭帝)、茂陵(武帝)と咸陽原にある。杜陵からの距離は、30km~50km。 

  元和郡縣志 「杜陵在京兆府萬年縣東南二十里」といい、胡三省鑑註に「漢の宣帝、杜陵邑を起せしより、後漢に至りて、縣となし、京兆に属す。隋、京城幷に杜陵を遷して大興縣に入る、唐、大興を改めて萬年という」とある。

  班固《西都賦》「則南望杜㶚,北眺五陵。」(則ち南に杜㶚【とは】を望み、北に五陵を眺む。南に杜陵と㶚陵の二陵をはるかに望み見て、北に長陵・安陵・陽陵・茂陵・平陵の五陵が見わたされる。杜㶚:長安のやや東よりの杜陵(漢の第八代宜帝の陵)と㶚陵(第四代文帝の陵)。(杜陵;O-8,灞陵;Q-7

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  李白《巻十二06-夕霽杜陵登樓寄韋繇》

浮陽滅霽景,萬物生秋容。登樓送遠目,伏檻觀群峰。

原野曠超緬,關河紛雜重。清暉映竹日,翠色明雲松。

蹈海寄遐想,還山迷舊蹤。徒然迫晚暮,未果諧心胸。

結桂空佇立,折麻恨莫從。思君達永夜,長樂聞疏鐘。

(夕霽 杜陵の樓に登り韋繇に寄せる)

浮陽 滅霽景をし,萬物 秋容を生ず。

樓に登りて遠目を送り,檻に伏して群峰を觀る。

原野 曠超にして緬たり,關河 紛雜にして重る。

清暉 竹日に映じ,翠色 雲松に明かなり。

海を蹈んで遐想を寄せ,山に還らんとして舊蹤に迷う。

徒然として晚暮に迫る,未だ心胸に諧【かな】うを果さず。

桂を結び 空しく佇立し,麻を折り 恨むらくは 從う莫し。

君を思うて 永夜に達し,長樂に 疏鐘を聞く。

743年(61)李太白集巻十二06-《夕霽杜陵登樓寄韋繇》 380-#2Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-61) Ⅰ李白詩1734 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7210

 

南登杜陵上,北望五陵間。

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。
長安付近図00赤枠は長安の城郭  この墓陵群は中国のピラミットといわれている。


五陵原(太字)という皇帝の陵墓区で、西から茂陵、康陵、義陵、渭陵延陵、平陵長陵、陽陵、安陵の9陵が並んでいる。このうち長陵は高祖・劉邦の陵、茂陵は武帝の陵である。ほとんどの皇帝陵に皇后陵が併設されており、有名な呂后の様に皇后の地位が高かったことの現れで、皇帝が西、皇后が東とされ以後これに倣ったと言われてる。。延陵の場合、右上(東北)にやや規模の小さな皇后陵が見える。また東端にある陽陵は周囲が発掘されて兵馬俑が出土、博物館として公開されている。

 

 

 

秋水明落日,流光滅遠山。

おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。
漢文委員会紀頌之タイトル 

743年(76)李太白集644巻十九18朝下過盧郎中敘舊游  395Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(76) Ⅰ李白詩1757 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7325

李白  朝下過盧郎中敘舊遊

君登金華省,我入銀臺門。幸遇聖明主,俱承雲雨恩。復此休浣時,閒為疇昔言。

卻話山海事,宛然林壑存。明湖思曉月,疊嶂憶清猿。何由返初服,田野醉芳樽。

(朝廷を退潮し盧郎中を訪ねて飲み始め、翌日まで飲み続けて酔いつくして、むかし、嵩山や、鏡湖などで遊んだことを思い出して作った詩である)

君は中朝の左に位置するところ門下省に参朝出仕し、吾は右銀臺門より翰林に供奉する。幸にして、徳にすぐれて聡明・賢明な主に遇うて、そしてともに、雲のように包まれ、雨のように降り注ぎ潤す仁徳、恩徳を被っているのである。今日、また、幸に休沐の期に際し、おもむろに前日の事に就いて述べたのである。かくて、海山において、その遊を語り出せば、そこに、幽山、林壑は、宛然として眼前に存するかのように表現される。静かなる夜、明月に、波明かなる湖水に就いてかたり、暁の空に沈める残月の清らかなことを思い、あらわす。隠棲のところの嵯峨たる畳嶂に就いていい、清猿の聾悲しきを思い出して、幽興、更に尽きることはない。しかし、どうすれば、朝衣を脱いで、当初の布衣に著換へ、そして田野に於いて、芳樽に酔うことができようか。

李太白集巻十九18

朝下過盧郎中敘舊游

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ325

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-76

395 <1000

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-76

卷別:    卷一七九              文體:    五言古詩

詩題:    朝下過盧郎中敘舊遊

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:盧郎中      當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

朝下過盧郎中敘舊遊

(朝廷を退潮し盧郎中を訪ねて飲み始め、翌日まで飲み続けて酔いつくして、むかし、嵩山や、鏡湖などで遊んだことを思い出して作った詩である)

君登金華省,我入銀臺門。

君は中朝の左に位置するところ門下省に参朝出仕し、吾は右銀臺門より翰林に供奉する。

幸遇聖明主,俱承雲雨恩。

にして、徳にすぐれて聡明・賢明な主に遇うて、そしてともに、雲のように包まれ、雨のように降り注ぎ潤す仁徳、恩徳を被っているのである。

復此休浣時,閒為疇昔言。

今日、また、幸に休沐の期に際し、おもむろに前日の事に就いて述べたのである。

卻話山海事,宛然林壑存。

かくて、海山において、その遊を語り出せば、そこに、幽山、林壑は、宛然として眼前に存するかのように表現される。

明湖思曉月,疊嶂憶清猿。

静かなる夜、明月に、波明かなる湖水に就いてかたり、暁の空に沈める残月の清らかなことを思い、あらわす。隠棲のところの嵯峨たる畳嶂に就いていい、清猿の聾悲しきを思い出して、幽興、更に尽きることはない。

何由返初服,田野醉芳樽。

しかし、どうすれば、朝衣を脱いで、当初の布衣に著換へ、そして田野に於いて、芳樽に酔うことができようか。

(朝より下り盧郎中を過ぎて舊遊を敘す)

君は金華省に登り,我は銀臺門に入る。

幸いに聖明の主に遇うて,俱に雲雨の恩を承く。

復た此の休浣の時,閒に疇昔の言を為す。

卻って山海の事を話せば,宛然として 林壑存す。

明湖に 曉月を思い,疊嶂に 清猿を憶う。

何に由ってか 初服に返り,田野 芳樽に醉わんや。
大明宮の圖003

 

『朝下過盧郎中敘舊遊』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

朝下過盧郎中敘舊遊

君登金華省,我入銀臺門。

幸遇聖明主,俱承雲雨恩。

復此休浣時,閒為疇昔言。

卻話山海事,宛然林壑存。

明湖思曉月,疊嶂憶清猿。

何由返初服,田野醉芳樽。
詩文(含異文)    

君登金華省,我入銀臺門。幸遇聖明主【幸逢聖明主】,俱承雲雨恩。

復此休浣時,閒為疇昔言。卻話山海事,宛然林壑存。

明湖思曉月,疊嶂憶清猿。何由返初服,田野醉芳樽。


(下し文)
(朝より下り盧郎中を過ぎて舊遊を敘す)

君は金華省に登り,我は銀臺門に入る。

幸いに聖明の主に遇うて,俱に雲雨の恩を承く。

復た此の休浣の時,閒に疇昔の言を為す。

卻って山海の事を話せば,宛然として 林壑存す。

明湖に 曉月を思い,疊嶂に 清猿を憶う。

何に由ってか 初服に返り,田野 芳樽に醉わんや。

(現代語訳)
朝下過盧郎中敘舊遊(朝廷を退潮し盧郎中を訪ねて飲み始め、翌日まで飲み続けて酔いつくして、むかし、嵩山や、鏡湖などで遊んだことを思い出して作った詩である)

君は中朝の左に位置するところ門下省に参朝出仕し、吾は右銀臺門より翰林に供奉する。

にして、徳にすぐれて聡明・賢明な主に遇うて、そしてともに、雲のように包まれ、雨のように降り注ぎ潤す仁徳、恩徳を被っているのである。

今日、また、幸に休沐の期に際し、おもむろに前日の事に就いて述べたのである。

かくて、海山において、その遊を語り出せば、そこに、幽山、林壑は、宛然として眼前に存するかのように表現される。

静かなる夜、明月に、波明かなる湖水に就いてかたり、暁の空に沈める残月の清らかなことを思い、あらわす。隠棲のところの嵯峨たる畳嶂に就いていい、清猿の聾悲しきを思い出して、幽興、更に尽きることはない。

しかし、どうすれば、朝衣を脱いで、当初の布衣に著換へ、そして田野に於いて、芳樽に酔うことができようか。


(訳注)

朝下過盧郎中敘舊遊

(朝廷を退潮し盧郎中を訪ねて飲み始め、翌日まで飲み続けて酔いつくして、むかし、嵩山や、鏡湖などで遊んだことを思い出して作った詩である)

この詩は、退朝の後、盧郎中を訪ひ、因って、自己の舊遊を敘したのである。盧郎中は、詩の破題に君登金華省とあるより見れば、門下侍郎であるが、その名字等は分からない。

起四句は自他今日の境遇、以下舊遊を叙したが、結二句に於ては、舊山に帰りたいといふ遺世の念を逗出して居る。

 

君登金華省,我入銀臺門。

君は中朝の左に位置するところ門下省に参朝出仕し、吾は右銀臺門より翰林に供奉する。

金華省 御漢以降、門下省をもって金華省という。中朝の左に位置するところであり、登るという表現に遭うものである。劉孝綽《贈任中丞》詩 「步出金華省,遙望承明廬,壯哉宛洛地,佳麗實皇居」三輔黄圖「金華殿,未央宮有金華殿。《漢書》曰,「成帝初方向學,召鄭寬中,張禹,沈《尚書》《論語》於金華殿中。」」

銀臺門 右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。

 

幸遇聖明主,俱承雲雨恩。

にして、徳にすぐれて聡明・賢明な主に遇うて、そしてともに、雲のように包まれ、雨のように降り注ぎ潤す仁徳、恩徳を被っているのである。

聖明主 ・聖明:天子が徳にすぐれて聡明なこと。また、そのさま。・明主: 賢明な君主。明君。

雲雨恩 雲のように包まれ、雨のように降り注ぎ潤す仁徳、恩徳。

 

復此休浣時,閒為疇昔言。

今日、また、幸に休沐の期に際し、おもむろに前日の事に就いて述べたのである。

休浣時 休沐におなじ。王琦の解に「漢律、吏、五日に一休沐を得る。休息して洗沐することをいう。」と。また、楊升菴がいう「唐制、十日に一休沐、故に韋應物の詩に、九日駆馳一日閒、白居易の詩にいう、公假日三旬、と。これなり」とある。

疇昔 「疇」は以前,先に,の意〕 過去のある日。昔。また,昨日、前日ということ。

 

卻話山海事,宛然林壑存。

かくて、海山において、その遊を語り出せば、そこに、幽山、林壑は、宛然として眼前に存するかのように表現される。

宛然 そっくりそのままであるさま。

 

明湖思曉月,疊嶂憶清猿。

静かなる夜、明月に、波明かなる湖水に就いてかたり、暁の空に沈める残月の清らかなことを思い、あらわす。隠棲のところの嵯峨たる畳嶂に就いていい、清猿の聾悲しきを思い出して、幽興、更に尽きることはない。

 

何由返初服,田野醉芳樽。

しかし、どうすれば、朝衣を脱いで、当初の布衣に著換へ、そして田野に於いて、芳樽に酔うことができようか。
李白の足跡0000 

743年(75)李太白集643巻十九17 下終南山過斛斯山人宿置酒  394-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(75) Ⅰ李白詩1756 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7320

李白  下終南山過斛斯山人宿置酒 #2

綠竹入幽徑,青蘿拂行衣。歡言得所憩,美酒聊共揮。

長歌吟松風,曲盡河星稀。我醉君復樂,陶然共忘機。

緑の竹が暗い寂しい小道にまで生い茂り、青いツタが旅の衣にまとわりつくという、まことに幽遂なありさまである。しばらくして、主人に遭い楽しみながら話をし、今夜の休むところもできたので、まず安堵し、勧められるままに、うまい酒をともに酌み交わしたのである。かくて、長歌して松風を聞いてあわせて吟じる、一曲歌いきってしまうと夜も更けて、銀河の邊に星影もまばらになってくる。やがて、我私は酔ってしまい、君もまた楽しみ、陶然としてきたので、神仙の淡泊自然の心境になったのである。

李太白集巻十九17

下終南山過斛斯山人宿置酒#2

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Index-23

743年天寶二年43歳 

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年:743年天寶二年43歳 94-75

卷別:    卷一七九               李太白集643巻十九17 文體:  五言古詩

詩題:    下終南山過斛斯山人宿置酒

作地點:              目前尚無資料

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

交遊人物/地點:斛斯融      當地交遊(京畿道 無第二級行政層級 終南山)

詩文:

 

 

下終南山過斛斯山人宿置酒#1

(終南山に遊び、下り帰途に斛斯山人を過り宿し御馳走に成って作った詩)
暮從碧山下,山月隨人歸。

日が暮れてきて、周南の碧山の頂より下ってくれば、山上の月も、人に随って歸ってくるようである。

卻顧所來徑,蒼蒼橫翠微。

振り返って過ぎ来し方の路をみると、蒼蒼とした中に、ぼんやりと中腹に横たわって見える。
相攜及田家,童稚開荊扉。

同行の者どもと相携えて、隠者の田家に到着してみれば、童稚が荊の門を啓いて迎へて呉れた。

#2

綠竹入幽徑,青蘿拂行衣。

緑の竹が暗い寂しい小道にまで生い茂り、青いツタが旅の衣にまとわりつくという、まことに幽遂なありさまである。
歡言得所憩,美酒聊共揮。

しばらくして、主人に遭い楽しみながら話をし、今夜の休むところもできたので、まず安堵し、勧められるままに、うまい酒をともに酌み交わしたのである。
長歌吟松風,曲盡河星稀。

かくて、長歌して松風を聞いてあわせて吟じる、一曲歌いきってしまうと夜も更けて、銀河の邊に星影もまばらになってくる。
我醉君復樂,陶然共忘機。

やがて、我私は酔ってしまい、君もまた楽しみ、陶然としてきたので、神仙の淡泊自然の心境になったのである。
(終南山を下り 斛斯山人を過ぎて宿し 置酒す)

暮に碧山從り下れば、 山月 人隨って歸る。

卻って來る所の徑を顧みれば、蒼蒼として翠微に橫たう。

相い攜えて田家に及べば、童稚 荊扉を開く。

#2

綠竹 幽徑に入り、青蘿 行衣を拂う。

歡言 憩う所を得、美酒 聊か共に揮う。

長歌 松風に吟じ、曲盡きて河星 稀なり。

我 醉うて 君も復た 樂しむ、陶然して 共に機を忘る。

 

京兆地域図002 

『下終南山過斛斯山人宿置酒』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#2

綠竹入幽徑,青蘿拂行衣。

歡言得所憩,美酒聊共揮。

長歌吟松風,曲盡河星稀。

我醉君復樂,陶然共忘機。

(下し文)
#2

綠竹 幽徑に入り、青蘿 行衣を拂う。

歡言 憩う所を得、美酒 聊か共に揮う。

長歌 松風に吟じ、曲盡きて河星 稀なり。

我 醉うて 君も復た 樂しむ、陶然して 共に機を忘る。

(現代語訳)
#2

緑の竹が暗い寂しい小道にまで生い茂り、青いツタが旅の衣にまとわりつくという、まことに幽遂なありさまである。
しばらくして、主人に遭い楽しみながら話をし、今夜の休むところもできたので、まず安堵し、勧められるままに、うまい酒をともに酌み交わしたのである。
かくて、長歌して松風を聞いてあわせて吟じる、一曲歌いきってしまうと夜も更けて、銀河の邊に星影もまばらになってくる。
やがて、我私は酔ってしまい、君もまた楽しみ、陶然としてきたので、神仙の淡泊自然の心境になったのである。

(訳注)

終南山過斛斯山人宿置酒 #1
(終南山に遊び、下り帰途に斛斯山人を過り宿し御馳走に成って作った詩)

綠竹入幽徑。 青蘿拂行衣。 
緑の竹が暗い寂しい小道にまで生い茂り、青いツタが旅の衣にまとわりつくという、まことに幽遂なありさまである。
13 幽徑 暗い寂しい小道。  

14 青蘿 青いツタ。

15 行衣 旅衣。


歡言得所憩。 美酒聊共揮。 
しばらくして、主人に遭い楽しみながら話をし、今夜の休むところもできたので、まず安堵し、勧められるままに、うまい酒をともに酌み交わしたのである。
16 歡言 よろこんで話をする。

17  休息。

18  ちょっと。 

19  ふるう、振り回す。さしずする。


長歌吟松風。 曲盡河星稀。 
かくて、長歌して松風を聞いてあわせて吟じる、一曲歌いきってしまうと夜も更けて、銀河の邊に星影もまばらになってくる。
20 河星 星屑の天の河。


我醉君復樂。 陶然共忘機。
やがて、我私は酔ってしまい、君もまた楽しみ、陶然としてきたので、神仙の淡泊自然の心境になったのである。
21 陶然 心持よく酒に酔う。 

22 忘機 世のからくりや人間のたくらみを忘れる。道教の主張する淡泊自然の心境を言う。


李白の足跡0000

 

 

終南山過斛斯山人宿置酒 【字解】


(終南山に遊び、下り帰途に斛斯山人を過り宿し御馳走に成って作った詩)
この詩は、李白が終南山に遊び、その帰途、斛斯氏を訪うて留宿し、御馳走に成ったから、

その席上に於で作ったのである。

1 終南山 唐の首都長安の南にそびえる終南山。ここでは、終南山や太白山を含め、秦蹴山脈全体を称して南山といっているようである。終南山は、西岳の太白山376m、と中岳の嵩山1440mのあいだにあり、渭水の南、20002900mの山でなる。中国,陝西省南部,秦嶺のうち西安南方の一帯をさす。また秦嶺全体をいう場合もある。その名は西安すなわち長安の南にあたることに由来し,関中盆地では,渭河以北の北山に対し南山とも称する。標高20002900m。北側は大断層崖をなし,断層線にそって驪山(りざん)などの温泉が湧出する。渭河と漢水流域とを結ぶ交通の要所で,子午道などの〈桟道(さんどう)〉が開かれ,しばしば抗争の地ともなった。

1-2-⑴《元和郡縣圖志、卷一·關道一》「終南山,在縣南五十里。按經傳所,終南山一名太一,亦名中南。據張衡《西京賦》雲“終南、太一,隆崛崔崒”。潘嶽《西征賦》雲“九嶻嶭,太一巃,麵終南而背雲陽,跨平原而連嶓塚”。然則終南、太一,非一山也。

⑵《太平寰宇記卷二十六》「終南山,在郿縣南三十里。

⑶《雍録》「終南山、横亘關中南面、西起秦隴、東徹藍田、凡雍岐郿鄠長安萬年相去、且八百里、而連綿峙據其南者、皆此之一山也」

 

1-3 紫閣連終南 紫閣峰は終南山中の一峰である。峰陰の陰は北をいう。その下に渼陂はつつみの名、長安から南西に約40㎞、卾県の西五里にあり、終南山の諸谷より出て胡公泉を合して陂となる、広さ数里、上に紫閣峰がある。紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。

    杜甫 《巻1733秋興,八首之八》「昆吾御宿自逶迤,紫閣峰陰入渼陂。」(昆吾 御宿 自ら逶迤【いい】たり、紫閣の峰陰渼陂に入る。)長安の西の方面は、昆吾だの御宿川だのというところのあたりの地形がうねりくねっておる、そこらをとおって終南山の紫閣峰の北、渼陂池へと入込むのである。

    紫閣峰・渼陂については、《巻三11城西陂泛舟【案:即渼陂。】》、《巻三12 渼陂行》【陂在鄠縣西五里,周一十四里。】「半陂以南純浸山,動影裊窕沖融間。船舷暝戛雲際寺,水面月出藍田關。」《巻三13 渼陂西南臺》 「錯磨終南翠,顛倒白閣影。崒增光輝,乘陵惜俄頃。」とみえる。

🉁李白  《君子有所思行》(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)「紫閣連終南,青冥天倪色。憑崖望咸陽,宮闕羅北極。萬井驚畫出,九衢如絃直。」(紫閣は終南に連り,青冥 天倪の色。崖に憑って咸陽を望めば,宮闕 北極を羅ぬ。萬井 畫き出づるかと驚き,九衢 絃の如く直なり。

1-4 終南山の道教 陝西省長安の南にある山。唐時代道教の本山があった。 

2斛斯山人 斛斯は姓、融。山人は山中に隠遁している人。 斛斯(こくし)山人とは李白の道士仲間である。その人と共に山中で道教を学び、その帰りに田家に立ち寄って、酒を飲み、泊まらせてもらった。

①《通志卷二十五(氏族略第一》「代北復姓有斛斯氏、其先居廣牧,世襲莫弗大人,號斛斯部,因氏焉。

②杜甫《》「」斛斯融 杜甫草堂の南隣の隠遁者のこと、ふたりでよく酒を呑んでいる。この酒好きの友について三首ある。襄陽の山濤のような隠遁者であった。この時の様子は杜甫456『聞斛斯六官未歸』に別に述べている。ある解釈にはこの南の隣人が二人いるような解釈をしているもの有るが南の隣人は独りである。錦裡先生という表現は、「山濤」をもじっており、朱山人は隠遁者であることを云い、斛斯六官の斛斯融が本人をあらわす名前であろうと思う。三者、同一人物である。

南鄰
錦裡先生烏角巾,園收芋栗未全貧。
慣看賓客兒童喜,得食階除鳥雀馴。
秋水纔深四五尺,野航恰受兩三人。
白沙翠竹江村暮,相送柴門月色新。 

南鄰 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -1)  <383>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1859 杜甫詩1000-383-564/1500

過南鄰朱山人水亭
相近竹参差、相通人不知。
幽花敬満樹、細水曲通池。
辟客村非違、残樽席吏移。
看君多道東、従此敷追随。

過南鄰朱山人水亭 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -2)  <384>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1863 杜甫詩1000-384-565/1500

聞斛斯六官未歸
故人南郡去,去索作碑錢。
本賣文為活,翻令室倒懸。
荊扉深蔓草,土銼冷寒煙。
老罷休無賴,歸來省醉眠。
聞斛斯六官未歸 成都5-(3) 杜甫 <456  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2225 杜甫詩1000-456-639/1500

江畔濁歩尋花七絶句 之一 
江上被花惱不徹,無處告訴只顛狂。
走覓南鄰愛酒伴,經旬出飲獨空床。

江畔獨步尋花七句 杜甫 <437 其一 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2130 杜甫詩1000-437-620/1500

過故斛斯校書莊,二首之一

〔自注:老儒艱難時,病於庸蜀,歎其沒後方授一官。〕〔《英華》注:「即斛斯融。」〕

此老已雲歿,鄰人嗟亦休。竟無宣室召,徒有茂陵求。

妻子寄他食,園林非昔遊。空餘繐帷在,淅淅野風秋。

過故斛斯校書莊,二首之二

燕入非旁舍,鷗歸只故池。斷橋無複板,臥柳自生枝。

遂有山陽作,多慚鮑叔知。素交零落盡,白首淚雙垂。

《過故斛斯校書莊,二首之一〔自注:老儒艱難時,病於庸蜀,歎其沒後方授一官。〕》 杜甫index-14 764年 杜甫<776 漢文委員会kanbuniinkai頌之の漢詩ブログ4535 杜甫詩1500-776-1078/2500

廣徳2764-105 《過故斛斯校書莊,二首之二》 杜甫index-14 764年 杜甫<777 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4540 杜甫詩1500-777-1079/2500

3 山人 ①山里に住む人。山中で働く人。特に樵など。②仙人・世捨て人。③号(筆名)につける接尾辞。楊山人、王山人、(魯山人)など。④山男・山女・山姥・山童などの山に住む人型妖怪の総称。

元代の雑劇に登場する山人は例外なくみな占い師であり、かつ自称ではなく他称である。また陸遊の〈新裁道帽示帽工〉(《劍南詩稿》卷39)では、「山人手段雖難及」と帽子作りの職人を山人と呼んでおり、《東京夢華録》巻 5 〈京瓦技芸〉等にみえる張山人は都会の寄席芸人であるなど、総じて山人とは「技術之士」(《太平廣記》巻72「張山人」)であったといえる。同じ現象は唐代にも見られる。宋初の《文苑英華》巻231「隠逸二・山人」に収める唐代の山人の詩の多くには売薬についての記述が見える。そもそも山人という語の出典は、南斉の孔稚圭「北山移文」(《文選》巻43)の「山人去兮曉猿驚」にあり、本来山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。いわゆる「終南の捷径」によって官途を求めた李泌のような人物もまた山人であったし、李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。

4 置酒 酒を用意してもてなしてもらうこと。

5【解説】起首の四句は、山を下ること。「相攜及田家,童稚開荊扉。綠竹入幽徑,青蘿拂行衣。」の四句は、斛斯氏に投宿して、置酒したこと。「歡言得所憩,美酒聊共揮。長歌吟松風,曲盡河星稀【曲盡星河稀】。我醉君復樂,陶然共忘機。」の六句は、酔中の感慨であるが、詩勢の逓減逓下などすこしも手落ちがない。鍾伯敬は「起、右丞に似たち、曲益河星稀、寂然景あり」といい、乾隆御批には「この篇及び春日獨酌、春日酔起言志等の作、真の陶明の遺韻に逼る」といい、いづれも、肯綮に中って居る。

6 山月 山の月。登ってきた月。登ってきた月はまだ山に近い。

7 蒼蒼 こんもりとした青い色。1 あおあおとしているさま。また、あおみを帯びているさま。「蒼蒼たる大空」2 草木があおあおと茂っているさま。 

8 翠微 1 薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。2 山の中腹。八合目あたりのところ。

9 相攜 友と連れだって。 

10 田家 百姓家。隠者の農村での住まい。 孟浩然《卷160_104 「田家元日」》「田家占氣候,共此年豐。」(田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うものだ。

田家元日 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -316

 

ⅱ 田子方の老馬を贖うという故事に基づく。《淮南子人間訓》 田子方見老馬於道, 喟然有志焉, 以問其御曰: '此何馬也?'其御曰: '此故公家畜也。 老罷而不為用, 出而鬻之。”田子方曰:“少而貪其力,老而棄其身,仁者弗為也。”束帛以贖之。疲武聞之,知所以歸心矣。《卷十五18送薛九被讒去魯》「田家養老馬,窮士歸其門。」(田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。)

297-#2 《卷十五18送薛九被讒去魯》#2 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#2> Ⅰ李白詩1594 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6518

11 童稚 こども。 

12 荊扉 柴で作った粗末な開き戸。隠者の門戸をいう。杜甫《》「遲暮少寢食,清曠喜荊扉。」(遲暮 寢食少し,清曠 荊扉を喜ぶ。)自分はもう晩年になってきている中、寝ることも食べることも少く、ただこんなすがすがしくてさつぱりとして、ひろびろとした柴門の扉の住居をよろこぶのである。

767-18 # 1 《杜少陵集 19-21 甘林 》#1 杜甫詩index-15-1124 <1574 767年大暦256-18 #1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7267

743年(75)李太白集643巻十九17下終南山過斛斯山人宿置酒  394Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(75) Ⅰ李白詩1755 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7315

下終南山過斛斯山人宿置酒#1

暮從碧山下,山月隨人歸。卻顧所來徑,蒼蒼橫翠微。

相攜及田家,童稚開荊扉。

(終南山に遊び、下り帰途に斛斯山人を過り宿し御馳走に成って作った詩)日が暮れてきて、周南の碧山の頂より下ってくれば、山上の月も、人に随って歸ってくるようである。振り返って過ぎ来し方の路をみると、蒼蒼とした中に、ぼんやりと中腹に横たわって見える。同行の者どもと相携えて、隠者の田家に到着してみれば、童稚が荊の門を啓いて迎へて呉れた。

李太白集巻十九17

下終南山過斛斯山人宿置酒

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7315 

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-75

394-#1 <1000

 

 
  2016年2月10日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(75)李太白集643巻十九17下終南山過斛斯山人宿置酒  394Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(75) Ⅰ李白詩1755 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7315  
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  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-20#3杜少陵集 《20-100 寫懷,二首之一 #3》 杜甫詩index-15-1134 <1584> 767年大暦2年56歲-20#3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7317  
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年:743年天寶二年43歳 94-75

卷別:    卷一七九               李太白集643巻十九17 文體:  五言古詩

詩題:    下終南山過斛斯山人宿置酒

作地點:              目前尚無資料

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

交遊人物/地點:斛斯融      當地交遊(京畿道 無第二級行政層級 終南山)

詩文:

 

 

下終南山過斛斯山人宿置酒#1

(終南山に遊び、下り帰途に斛斯山人を過り宿し御馳走に成って作った詩)
暮從碧山下,山月隨人歸。

日が暮れてきて、周南の碧山の頂より下ってくれば、山上の月も、人に随って歸ってくるようである。

卻顧所來徑,蒼蒼橫翠微。

振り返って過ぎ来し方の路をみると、蒼蒼とした中に、ぼんやりと中腹に横たわって見える。
相攜及田家,童稚開荊扉。

同行の者どもと相携えて、隠者の田家に到着してみれば、童稚が荊の門を啓いて迎へて呉れた。

#2

綠竹入幽徑,青蘿拂行衣。

歡言得所憩,美酒聊共揮。

長歌吟松風,曲盡河星稀。

我醉君復樂,陶然共忘機。

(終南山を下り 斛斯山人を過ぎて宿し 置酒す)

暮に碧山從り下れば、 山月 人隨って歸る。

卻って來る所の徑を顧みれば、蒼蒼として翠微に橫たう。

相い攜えて田家に及べば、童稚 荊扉を開く。

#2

綠竹 幽徑に入り、青蘿 行衣を拂う。

歡言 憩う所を得、美酒 聊か共に揮う。

長歌 松風に吟じ、曲盡きて河星 稀なり。

我 醉うて 君も復た 樂しむ、陶然して 共に機を忘る。

 

『下終南山過斛斯山人宿置酒』 現代語訳と訳註解説
(本文)
下終南山過斛斯山人宿置酒#1

暮從碧山下,山月隨人歸。

卻顧所來徑,蒼蒼橫翠微。

相攜及田家,童稚開荊扉。

(下し文)
(終南山を下り 斛斯山人を過ぎて宿し 置酒す)

暮に碧山從り下れば、 山月 人隨って歸る。

卻って來る所の徑を顧みれば、蒼蒼として翠微に橫たう。

相い攜えて田家に及べば、童稚 荊扉を開く。


(現代語訳)
下終南山過斛斯山人宿置酒#1(終南山に遊び、下り帰途に斛斯山人を過り宿し御馳走に成って作った詩)
日が暮れてきて、周南の碧山の頂より下ってくれば、山上の月も、人に随って歸ってくるようである。

振り返って過ぎ来し方の路をみると、蒼蒼とした中に、ぼんやりと中腹に横たわって見える。
同行の者どもと相携えて、隠者の田家に到着してみれば、童稚が荊の門を啓いて迎へて呉れた。


(訳注)

終南山過斛斯山人宿置酒 #1
(終南山に遊び、下り帰途に斛斯山人を過り宿し御馳走に成って作った詩)

この詩は、李白が終南山に遊び、その帰途、斛斯氏を訪うて留宿し、御馳走に成ったから、

その席上に於で作ったのである。

1 終南山 唐の首都長安の南にそびえる終南山。ここでは、終南山や太白山を含め、秦蹴山脈全体を称して南山といっているようである。終南山は、西岳の太白山376m、と中岳の嵩山1440mのあいだにあり、渭水の南、20002900mの山でなる。中国,陝西省南部,秦嶺のうち西安南方の一帯をさす。また秦嶺全体をいう場合もある。その名は西安すなわち長安の南にあたることに由来し,関中盆地では,渭河以北の北山に対し南山とも称する。標高20002900m。北側は大断層崖をなし,断層線にそって驪山(りざん)などの温泉が湧出する。渭河と漢水流域とを結ぶ交通の要所で,子午道などの〈桟道(さんどう)〉が開かれ,しばしば抗争の地ともなった。

1-2-⑴《元和郡縣圖志、卷一·關道一》「終南山,在縣南五十里。按經傳所,終南山一名太一,亦名中南。據張衡《西京賦》雲“終南、太一,隆崛崔崒”。潘嶽《西征賦》雲“九嶻嶭,太一巃,麵終南而背雲陽,跨平原而連嶓塚”。然則終南、太一,非一山也。

⑵《太平寰宇記卷二十六》「終南山,在郿縣南三十里。」

⑶《雍録》「終南山、横亘關中南面、西起秦隴、東徹藍田、凡雍岐郿鄠長安萬年相去、且八百里、而連綿峙據其南者、皆此之一山也」

 

1-3 紫閣連終南 紫閣峰は終南山中の一峰である。峰陰の陰は北をいう。その下に渼陂はつつみの名、長安から南西に約40㎞、卾県の西五里にあり、終南山の諸谷より出て胡公泉を合して陂となる、広さ数里、上に紫閣峰がある。紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。

    杜甫 《巻1733秋興,八首之八》「昆吾御宿自逶迤,紫閣峰陰入渼陂。」(昆吾 御宿 自ら逶迤【いい】たり、紫閣の峰陰渼陂に入る。)長安の西の方面は、昆吾だの御宿川だのというところのあたりの地形がうねりくねっておる、そこらをとおって終南山の紫閣峰の北、渼陂池へと入込むのである。

    紫閣峰・渼陂については、《巻三11城西陂泛舟【案:即渼陂。】》、《巻三12 渼陂行》【陂在鄠縣西五里,周一十四里。】「半陂以南純浸山,動影裊窕沖融間。船舷暝戛雲際寺,水面月出藍田關。」《巻三13 渼陂西南臺》 「錯磨終南翠,顛倒白閣影。崒增光輝,乘陵惜俄頃。」とみえる。

🉁李白  《君子有所思行》(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)「紫閣連終南,青冥天倪色。憑崖望咸陽,宮闕羅北極。萬井驚畫出,九衢如絃直。」(紫閣は終南に連り,青冥 天倪の色。崖に憑って咸陽を望めば,宮闕 北極を羅ぬ。萬井 畫き出づるかと驚き,九衢 絃の如く直なり。

1-4 終南山の道教 陝西省長安の南にある山。唐時代道教の本山があった。 

2斛斯山人 斛斯は姓。山人は山中に隠遁している人。 斛斯(こくし)山人とは李白の道士仲間である。その人と共に山中で道教を学び、その帰りに田家に立ち寄って、酒を飲み、泊まらせてもらった。

①《通志卷二十五(氏族略第一》「代北復姓有斛斯氏、其先居廣牧,世襲莫弗大人,號斛斯部,因氏焉。

②杜甫《》「」斛斯融 杜甫草堂の南隣の隠遁者のこと、ふたりでよく酒を呑んでいる。この酒好きの友について三首ある。襄陽の山濤のような隠遁者であった。この時の様子は杜甫456『聞斛斯六官未歸』に別に述べている。ある解釈にはこの南の隣人が二人いるような解釈をしているもの有るが南の隣人は独りである。錦裡先生という表現は、「山濤」をもじっており、朱山人は隠遁者であることを云い、斛斯六官の斛斯融が本人をあらわす名前であろうと思う。三者、同一人物である。

南鄰
錦裡先生烏角巾,園收芋栗未全貧。
慣看賓客兒童喜,得食階除鳥雀馴。
秋水纔深四五尺,野航恰受兩三人。
白沙翠竹江村暮,相送柴門月色新。 

南鄰 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -1)  <383>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1859 杜甫詩1000-383-564/1500

過南鄰朱山人水亭
相近竹参差、相通人不知。
幽花敬満樹、細水曲通池。
辟客村非違、残樽席吏移。
看君多道東、従此敷追随。

過南鄰朱山人水亭 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -2)  <384>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1863 杜甫詩1000-384-565/1500

聞斛斯六官未歸
故人南郡去,去索作碑錢。
本賣文為活,翻令室倒懸。
荊扉深蔓草,土銼冷寒煙。
老罷休無賴,歸來省醉眠。
聞斛斯六官未歸 成都5-(3) 杜甫 <456  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2225 杜甫詩1000-456-639/1500

江畔濁歩尋花七絶句 之一 
江上被花惱不徹,無處告訴只顛狂。
走覓南鄰愛酒伴,經旬出飲獨空床。

江畔獨步尋花七句 杜甫 <437 其一 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2130 杜甫詩1000-437-620/1500

過故斛斯校書莊,二首之一

〔自注:老儒艱難時,病於庸蜀,歎其沒後方授一官。〕〔《英華》注:「即斛斯融。」〕

此老已雲歿,鄰人嗟亦休。竟無宣室召,徒有茂陵求。

妻子寄他食,園林非昔遊。空餘繐帷在,淅淅野風秋。

過故斛斯校書莊,二首之二

燕入非旁舍,鷗歸只故池。斷橋無複板,臥柳自生枝。

遂有山陽作,多慚鮑叔知。素交零落盡,白首淚雙垂。

《過故斛斯校書莊,二首之一〔自注:老儒艱難時,病於庸蜀,歎其沒後方授一官。〕》 杜甫index-14 764年 杜甫<776 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4535 杜甫詩1500-776-1078/2500

廣徳2764-105 《過故斛斯校書莊,二首之二》 杜甫index-14 764年 杜甫<777 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4540 杜甫詩1500-777-1079/2500 

3 山人 ①山里に住む人。山中で働く人。特に樵など。②仙人・世捨て人。③号(筆名)につける接尾辞。楊山人、王山人、(魯山人)など。④山男・山女・山姥・山童などの山に住む人型妖怪の総称。

元代の雑劇に登場する山人は例外なくみな占い師であり、かつ自称ではなく他称である。また陸遊の〈新裁道帽示帽工〉(《劍南詩稿》卷39)では、「山人手段雖難及」と帽子作りの職人を山人と呼んでおり、《東京夢華録》巻 5 〈京瓦技芸〉等にみえる張山人は都会の寄席芸人であるなど、総じて山人とは「技術之士」(《太平廣記》巻72「張山人」)であったといえる。同じ現象は唐代にも見られる。宋初の《文苑英華》巻231「隠逸二・山人」に収める唐代の山人の詩の多くには売薬についての記述が見える。そもそも山人という語の出典は、南斉の孔稚圭「北山移文」(《文選》巻43)の「山人去兮曉猿驚」にあり、本来山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。いわゆる「終南の捷径」によって官途を求めた李泌のような人物もまた山人であったし、李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。

4 置酒 酒を用意してもてなしてもらうこと。

5【解説】起首の四句は、山を下ること。「相攜及田家,童稚開荊扉。綠竹入幽徑,青蘿拂行衣。」の四句は、斛斯氏に投宿して、置酒したこと。「歡言得所憩,美酒聊共揮。長歌吟松風,曲盡河星稀【曲盡星河稀】。我醉君復樂,陶然共忘機。」の六句は、酔中の感慨であるが、詩勢の逓減逓下などすこしも手落ちがない。鍾伯敬は「起、右丞に似たち、曲益河星稀、寂然景あり」といい、乾隆御批には「この篇及び春日獨酌、春日酔起言志等の作、真の陶明の遺韻に逼る」といい、いづれも、肯綮に中って居る。


暮從碧山下。 山月隨人歸。 
日が暮れてきて、周南の碧山の頂より下ってくれば、山上の月も、人に随って歸ってくるようである。

6 山月 山の月。登ってきた月。登ってきた月はまだ山に近い。


卻顧所來徑。 蒼蒼橫翠微。
振り返って過ぎ来し方の路をみると、蒼蒼とした中に、ぼんやりと中腹に横たわって見える。
7 蒼蒼 こんもりとした青い色。1 あおあおとしているさま。また、あおみを帯びているさま。「蒼蒼たる大空」2 草木があおあおと茂っているさま。 

8 翠微 1 薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。2 山の中腹。八合目あたりのところ。


相攜及田家。 童稚開荊扉。 
同行の者どもと相携えて、隠者の田家に到着してみれば、童稚が荊の門を啓いて迎へて呉れた。

9 相攜 友と連れだって。 

10 田家 百姓家。隠者の農村での住まい。 孟浩然《卷160_104 「田家元日」》「田家占氣候,共此年豐。」(田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うものだ。

田家元日 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -316

 

ⅱ 田子方の老馬を贖うという故事に基づく。《淮南子人間訓》 田子方見老馬於道, 喟然有志焉, 以問其御曰: '此何馬也?'其御曰: '此故公家畜也。 老罷而不為用, 出而鬻之。”田子方曰:“少而貪其力,老而棄其身,仁者弗為也。”束帛以贖之。疲武聞之,知所以歸心矣。《卷十五18送薛九被讒去魯》「田家養老馬,窮士歸其門。」(田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。)

297-#2 《卷十五18送薛九被讒去魯》#2 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#2> Ⅰ李白詩1594 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6518

11 童稚 こども。 

12 荊扉 柴で作った粗末な開き戸。隠者の門戸をいう。杜甫《》「遲暮少寢食,清曠喜荊扉。」(遲暮 寢食少し,清曠 荊扉を喜ぶ。)自分はもう晩年になってきている中、寝ることも食べることも少く、ただこんなすがすがしくてさつぱりとして、ひろびろとした柴門の扉の住居をよろこぶのである。

767-18 # 1 《杜少陵集 19-21 甘林 》#1 杜甫詩index-15-1124 <1574 767年大暦256-18 #1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7267

743年(74)李太白集605巻十八12金門答蘇秀才  393-#5Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(74) Ⅰ李白詩1754 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7310

李白  金門答蘇秀才 #5

緣溪見綠篠,隔岫窺紅採薇行笑歌,眷我情何已。

月出石鏡間,松鳴風琴裡。得心自虛妙,外物空靡。

身世如兩忘,從君老煙水。
渓流に沿うて行けば、緑の色濃き小笹が茂り合い、高い谷間を隔てて、水の潭をなす庭には、紅の蓮の花の吹き出でたのがうかがわれる。かくて、一人野に出て薇を采りつつ、「笑矣乎。」と行歌して、吾を思う情は決して己む時はない。それから、月は石鏡山の谷間より出で、松聲は風琴の峡中に鳴りひびきわたる。心は自然に虚妙の霊域に至り、外物は、すべて頽壊靡散して、少しも累を人に及ぼすことはない。かくの如くして、この身も、この世も、両つながら忘れ、唯だ心霊のみが依存して、宇宙と契合する様に、吾も修業が積んだならば、その折こそ、君に従って、煙水の間に老いて、いつまでも其處に住んで居たいと思うのである。

李太白集

卷十八12#5

金門答蘇秀才

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7310 

Index-23

-2

743年天寶二年43歳 

94-74)#5

393 <1000>#5

 

 
  2016年2月9日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:天寶二年43歳 94-74) #3

卷別:    卷一七八              文體:    五言古詩

詩題:    金門答蘇秀才

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣      

交遊人物/地點:蘇秀才      書信往來(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

金門答蘇秀才#1

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)

君還石門日,朱火始改木。

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。

春草如有情,山中尚含綠。

つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。

折芳愧遙憶,永路當日勗。

そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。

遠見故人心,平生以此足。

それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。

(金門 蘇秀才に答う)#1

君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。

春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。

芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。

遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。

#2

巨海納百川,麟閣多才賢。

東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。

獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。

そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。

恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。

#2

巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。

書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。

屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。

恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。

鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。

我留在金門,君去臥丹壑。

しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、

未果三山期,遙欣一丘樂。

三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。

玄珠寄象罔,赤水非寥廓。

そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。

#3

鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。

我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。

未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。

玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。

#4

願狎東海鷗,共營西山藥。

吾が願うことは、無心にして東海の鴎をらし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。

棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。

良辰不同賞,永日應閒居。

であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。

鳥吟簷間樹,花落窗下書。

試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。

#4

願わくば東海の鷗に狎れ,共に西山の藥を營まむ。

巖に棲みて 君は寂滅【せきめつ】,世に處して 余は龍蠖【りょうわく】。

良辰 同じく賞せず,永日 應に閒居すべし。

鳥は吟ず 簷間の樹,花は落つ 窗下の書。

#5

緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。

採薇行笑歌,眷我情何已。

月出石鏡間,松鳴風琴裡。

得心自虛妙,外物空靡。

身世如兩忘,從君老煙水。

渓流に沿うて行けば、緑の色濃き小笹が茂り合い、高い谷間を隔てて、水の潭をなす庭には、紅の蓮の花の吹き出でたのがうかがわれる。

かくて、一人野に出て薇を采りつつ、「笑矣乎。」と行歌して、吾を思う情は決して己む時はない。

それから、月は石鏡山の谷間より出で、松聲は風琴の峡中に鳴りひびきわたる。

心は自然に虚妙の霊域に至り、外物は、すべて頽壊靡散して、少しも累を人に及ぼすことはない。

かくの如くして、この身も、この世も、両つながら忘れ、唯だ心霊のみが依存して、宇宙と契合する様に、吾も修業が積んだならば、その折こそ、君に従って、煙水の間に老いて、いつまでも其處に住んで居たいと思うのである。

#5

溪に緣って綠篠を見,岫を隔てて紅を窺う。

薇を採って行くゆく笑歌し,我を眷し、情 何ぞ已まん。

月は出づ 石鏡の間,松は鳴る 風琴の裡。

心を得て 自ら虛妙,外物 空しく靡。

身世 兩つながら忘るるが如し,君に從って煙水に老いむ。

楊貴妃清華池002

 

『金門答蘇秀才』  現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

緣溪見綠篠,隔岫窺紅

採薇行笑歌,眷我情何已。

月出石鏡間,松鳴風琴裡。

得心自虛妙,外物空靡。

身世如兩忘,從君老煙水。

(下し文)
#5

溪に緣って綠篠を見,岫を隔てて紅蕖を

薇を採って行くゆく笑歌し,我を眷し、情 何ぞ已まん。

月は出づ 石鏡の間,松は鳴る 風琴の裡。

心を得て 自ら虛妙,外物 空しく靡。

身世 兩つながら忘るるが如し,君に從って煙水に老いむ。

(現代語訳)
#5

渓流に沿うて行けば、緑の色濃き小笹が茂り合い、高い谷間を隔てて、水の潭をなす庭には、紅の蓮の花の吹き出でたのがうかがわれる。

かくて、一人野に出て薇を采りつつ、「笑矣乎。」と行歌して、吾を思う情は決して己む時はない。

それから、月は石鏡山の谷間より出で、松聲は風琴の峡中に鳴りひびきわたる。

心は自然に虚妙の霊域に至り、外物は、すべて頽壊靡散して、少しも累を人に及ぼすことはない。

かくの如くして、この身も、この世も、両つながら忘れ、唯だ心霊のみが依存して、宇宙と契合する様に、吾も修業が積んだならば、その折こそ、君に従って、煙水の間に老いて、いつまでも其處に住んで居たいと思うのである。


(訳注) #5

金門答蘇秀才5

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。

 

緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。

渓流に沿うて行けば、緑の色濃き小笹が茂り合い、高い谷間を隔てて、水の潭をなす庭には、紅の蓮の花の吹き出でたのがうかがわれる。

30 緣溪 渓流に沿うて行くこと。

31 綠篠 緑の色濃き小笹が茂り合い。 謝霊運《過始寧墅》「白雲抱幽石、緑篠媚清漣。」(白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。)白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。

過始寧墅 謝霊運<13> 2 詩集 375

32 隔岫 岫は穴のあるやま。  《1921_甘林》「晨光映遠岫,夕露見日晞。」(晨光 遠岫に映ず,夕露 日を見て晞【かわ】く。朝日の光が遠方の山にうつろうと、昨夕からかけての露は太陽がでるとまもなく乾いてしまう。

33 紅蕖 紅色の蓮の花。

 

採薇行笑歌,眷我情何已。

かくて、一人野に出て薇を采りつつ、「笑矣乎。」と行歌して、吾を思う情は決して己む時はない。

34 採薇 蕨をとる。詩經、國風 「陟彼南山、言采其薇。 未見君子、我心傷悲。」(彼の南山に陟り、言に其の薇を采る。未だ君子を見ず、我が心傷悲す。)あの南の山に登り、蕨を摘んでいます、でもわたしはまだ夫と会うことができずに、心は傷んで憂いに閉ざされています

35 笑歌 笑い歌いまた悲しみ哭することで烈的感情をいう。《周礼·春官·女巫》「凡邦之大災, 歌哭而請。」とある。李白《卷六27笑歌行二首》「笑矣乎。」(笑わんかな)がある。

 

月出石鏡間,松鳴風琴裡。

それから、月は石鏡山の谷間より出で、松聲は風琴の峡中に鳴りひびきわたる。

36 石鏡 高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。慧遠は中国化された仏教の開創者であり、仏教の中国化と、中国の仏教化という潮流を作りだした。
謝霊運《入彭蠡湖口》「攀崖照石鏡,牽葉入松門。」崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。太平天国の乱で破壊される前、廬山は中国第一の仏教の聖地であり、全盛期には全山に寺廟は三百以上を数えた。

石鏡 太平寰宇記「石鏡在東山懸崖之上、其狀團圓、近之、則照見形影」(石鏡は東山懸崖の上に在り、其の狀團圓、之に近づけば、則ち形影を照し見る)一統志「石鏡峰、在南康府西二十六里、有一員石、懸崖明淨照」(石鏡峰は、南康府西二十六里に在り、一員石有り、懸崖明らか淨く照す。)

李白《13-01 廬山謠寄盧侍御虛舟》
我本楚狂人、狂歌笑孔丘。手持綠玉杖、朝別黃鶴樓。
五嶽尋仙不辭遠、一生好入名山遊。
廬山秀出南斗傍、屏風九疊雲錦張、影落明湖青黛光。
金闕前開二峰長、銀河倒掛三石梁
香爐瀑布遙相望、迴崖沓嶂凌蒼蒼。
翠影紅霞映朝日、鳥飛不到天長。
登高壯觀天地間、大江茫茫去不還
黃雲萬里動風色、白波九道流雪山
好為廬山謠、興因廬山發
閑窺石鏡清我心、謝公行處蒼苔沒
早服還丹無世情、琴心三疊道初成。
遙見仙人彩雲裡、手把芙蓉朝玉京。
先期汗漫九垓上、願接盧敖遊太清。
(廬山の廬侍御虚舟に謡い寄す)
我は本と楚の狂人、鳳歌して孔丘を笑う。手に緑の玉杖を持ち、朝に別る黄鶴楼。
五嶽に仙を尋ぬるに遠きを辞さず、一生 名山に入りて遊ぶを好む
廬山は秀で出ず 南斗の傍ら、屛風九畳 雲錦張る、影は明湖に落ちて青黛光る。
金闕 前に開いて 二峰長し、銀河は倒に挂かる 三石梁。
香炉の瀑布 遥かに相望む、 迥崖沓嶂 凌として蒼蒼たり。
翠影紅霞 朝日に映じ、鳥は飛びて到らず 呉天の長きを。
高きに登りて壮観す 天地の間、大江は茫茫として去りて還らず。
黄雲 万里 風色を動かし、白波 九道 雪山に流る。
好みて廬山の謡を為し、興じて廬山に因りて発す。
閑に石鏡を窺えば我が心清らかなり、謝公の行処は蒼苔に没す。
早に還丹を服して世情無く、琴心 三畳 道初めて成る。
遥かに仙人を見る綵雲の裏、手に芙蓉を把って玉京に朝す。
先は期さん 汗漫と九垓の上に、 願わくは廬敖に接して太清に遊ばん。 

③ 成都の北角に武担という塚があるが、その塚の上に鏡の幅は1メートル、高さは120cm程の石である、すきとおることは鏡のごとくであるという。蜀の古王開明の妃の塚だと伝える。蜀王が好色であることから様々な物語が伝えられている。杜甫は昨年760年の夏にも『石犀行』、『石筍行』、『杜鵑行』という蜀の故事をもとに詩を作っている。この詩はその続編というところである。成都の街に出てこの場所に来て作った。《巻14-363春日江村,五首之三》「經心石鏡月,到面雪山風。」(心に經る 石鏡の月,面に到る 雪山の風。成都の北角に武担にある石鏡の要におおきな満月を眺めた日も過ぎた詩、雪嶺山脈から吹き下ろす冷たい風に顔面が切れそうであったこともある。

杜甫《巻14-363春日江村,五首之三》

種竹交加翠,栽桃爛熳紅。

經心石鏡月,到面雪山風。

赤管隨王命,銀章付老翁。

豈知牙齒落,名玷薦賢中。

765年永泰元年54-17 《春日江村,五首之三》 杜甫index-15 杜甫<817 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4820 杜甫詩1500-817-1135/2500

杜甫《巻10-12石鏡》

蜀王將此鏡,送死置空山。
冥寞憐香骨,提攜近玉顏。
眾妃無複歡,千騎亦虛還。
獨有傷心石,埋輪月宇間。

石鏡 杜甫 <431  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2100 杜甫詩1000-431-614/1500

贈王二十四侍御契四十韻#8~#10

#8

石鏡通幽魄,琴台隱絳唇。

送終惟糞土,結愛獨荊榛。

置酒高林下,觀棋積水濱。

區區甘累趼,稍稍息勞筋。』

廣徳2764-98-#8 《贈王二十四侍御契四十韻》 杜甫index-14 764年贈王二十四侍御契四十韻 杜甫<770-#8 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4470 杜甫詩1500-770-#8-1065/2500

 

得心自虛妙,外物空靡。

心は自然に虚妙の霊域に至り、外物は、すべて頽壊靡散して、少しも累を人に及ぼすことはない。

37 虛妙 虚:物理的実体のない純粋に情報的な存在であり、1.中身がない。からっぽ。からにする。2.実が伴わない。妙:① 不思議なほどにすぐれているさま。霊妙なさま。② 上手であるさま。巧みであるさま。

38  靡散すること。

楊貴妃清華池002 

身世如兩忘,從君老煙水。

かくの如くして、この身も、この世も、両つながら忘れ、唯だ心霊のみが依存して、宇宙と契合する様に、吾も修業が積んだならば、その折こそ、君に従って、煙水の間に老いて、いつまでも其處に住んで居たいと思うのである。

39 老煙水 煙水の間に老いるという意。煙ははかなく消えゆき、水も東海に流れ去る。光陰矢の如し。劉長卿《尋盛禪師蘭若》「秋草黄花覆古阡,隔林何處起人煙。山僧獨在山中老,唯有寒松見少年。」(盛禪師の蘭若を 尋ぬ秋草黄花古阡を覆ひ,林を隔何處にか人煙起こる。山僧獨り山中に 老いる在りて,唯寒松の少年を見る有り。

 

 


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743年(74)李太白集605巻十八12金門答蘇秀才  393-#4Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(74) Ⅰ李白詩1753 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7305

李白  金門答蘇秀才 #4

願狎東海鷗,共營西山藥。棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

良辰不同賞,永日應閒居。鳥吟簷間樹,花落窗下書。
吾が願うことは、無心にして東海の鴎をらし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。

李太白集

卷十八12#4

金門答蘇秀才

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7305 

Index-23

-2

743年天寶二年43歳 

94-74)#4

393 <1000>#4

 

 

 
  2016年2月8日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:天寶二年43歳 94-74) #4

卷別:    卷一七八              文體:    五言古詩

詩題:    金門答蘇秀才

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣      

交遊人物/地點:蘇秀才      書信往來(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

金門答蘇秀才#1

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)

君還石門日,朱火始改木。

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。

春草如有情,山中尚含綠。

つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。

折芳愧遙憶,永路當日勗。

そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。

遠見故人心,平生以此足。

それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。

(金門 蘇秀才に答う)#1

君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。

春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。

芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。

遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。

#2

巨海納百川,麟閣多才賢。

東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。

獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。

そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。

恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。

#2

巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。

書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。

屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。

恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。

鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。

我留在金門,君去臥丹壑。

しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、

未果三山期,遙欣一丘樂。

三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。

玄珠寄象罔,赤水非寥廓。

そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。

#3

鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。

我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。

未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。

玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。

#4

願狎東海鷗,共營西山藥。

吾が願うことは、無心にして東海の鴎をらし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。

棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。

良辰不同賞,永日應閒居。

であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。

鳥吟簷間樹,花落窗下書。

試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。

#4

願わくば東海の鷗に狎れ,共に西山の藥を營まむ。

巖に棲みて 君は寂滅【せきめつ】,世に處して 余は龍蠖【りょうわく】。

良辰 同じく賞せず,永日 應に閒居すべし。

鳥は吟ず 簷間の樹,花は落つ 窗下の書。
#5

緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。

採薇行笑歌,眷我情何已。

月出石鏡間,松鳴風琴裡。

得心自虛妙,外物空靡。

身世如兩忘,從君老煙水。

 

簷間樹

『金門答蘇秀才』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

願狎東海鷗,共營西山藥。

棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

良辰不同賞,永日應閒居。

鳥吟簷間樹,花落窗下書。

(下し文)
#4

願わくば東海の鷗に狎れ,共に西山の藥を營まむ。

巖に棲みて 君は寂滅【せきめつ】,世に處して 余は龍蠖【りょうわく】。

良辰 同じく賞せず,永日 應に閒居すべし。

鳥は吟ず 簷間の樹,花は落つ 窗下の書。

(現代語訳)
#4

吾が願うことは、無心にして東海の鴎をらし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。

君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。

であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。

試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。


(訳注) #4

金門答蘇秀才4

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。

 

願狎東海鷗,共營西山藥。

吾が願うことは、無心にして東海の鴎をらし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。

24 東海鷗 《列子.黃帝篇》:「海上之人有好漚鳥者,每旦之海上,從漚鳥游,漚鳥之至者百住而不止。」(海上の人漚鳥を好む者有り,每旦 海上に之き,漚鳥に從って游ぶ,漚鳥の至る者 百住して止まらず。)“無心にカモメと遊んでいた人が、カモメを捕えてやろうという邪心を持ったとたんに、カモメは素早くそれを見破って、彼に近づかなくなった”というもの。

25 西山藥 仙藥のことを“西山藥”という。魏の文帝、曹丕 《折楊柳行》「西山一何高,高高殊無極,上有兩仙童,不飲亦不食。與我一丸藥,光耀有五色。」(西山一に何ぞ高し,高高して殊に極る無し,上に兩仙童有り,飲まず亦た食わず。我に一丸藥を與う,光耀 五色有り。)ということに基づく。

曹丕 《折楊柳行》

西山一何高,高高殊無極,

上有兩仙童,不飲亦不食。

與我一丸藥,光耀有五色。

服藥四五日,身體生羽翼。

輕舉乘浮雲,倏忽行萬億。

流覽觀四海,茫茫非所識。

彭祖稱七百,悠悠安可原?

老聃適西戎,於今竟不還。

王喬假虛辭,赤松垂空言。

達人識真偽,愚夫好妄傳。

追念往古事,憒憒千萬端。

百家多迂怪。聖道我所觀。

 

棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。

26 寂滅 1. 煩悩 (ぼんのう) の境地を離れ、悟りの境地に入ること。涅槃。2 消滅すること。死ぬこと。

27 蠖 尺蠖、しゃくとりむし。

 

良辰不同賞,永日應閒居。

であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。

28 良辰 よい日。吉日。吉辰。 良晨 

29 閒居 人目に立たず一人でいること。

 

鳥吟簷間樹,花落窗下書。

試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。


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743年(74)李太白集605巻十八12金門答蘇秀才  393-#3 Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(74)-#3 Ⅰ李白詩1752 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7300

李白  金門答蘇秀才 #3

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。我留在金門,君去臥丹壑。

未果三山期,遙欣一丘樂。玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。

李太白集

卷十八12#3

金門答蘇秀才

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7300 

Index-23

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743年天寶二年43歳 

94-74)#3

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年:天寶二年43歳 94-74) #3

卷別:    卷一七八              文體:    五言古詩

詩題:    金門答蘇秀才

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣      

交遊人物/地點:蘇秀才      書信往來(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

金門答蘇秀才#1

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)

君還石門日,朱火始改木。

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。

春草如有情,山中尚含綠。

つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。

折芳愧遙憶,永路當日勗。

そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。

遠見故人心,平生以此足。

それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。

(金門 蘇秀才に答う)#1

君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。

春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。

芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。

遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。

#2

巨海納百川,麟閣多才賢。

東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。

獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。

そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。

恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。

#2

巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。

書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。

屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。

恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。

鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。

我留在金門,君去臥丹壑。

しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、

未果三山期,遙欣一丘樂。

三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。

玄珠寄象罔,赤水非寥廓。

そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。

#3

鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。

我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。

未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。

玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。
#4

願狎東海鷗,共營西山藥。

棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

良辰不同賞,永日應閒居。

鳥吟簷間樹,花落窗下書。

#5

緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。

採薇行笑歌,眷我情何已。

月出石鏡間,松鳴風琴裡。

得心自虛妙,外物空靡。

身世如兩忘,從君老煙水。

 

李白の足跡0000 

『金門答蘇秀才』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。

我留在金門,君去臥丹壑。

未果三山期,遙欣一丘樂。

玄珠寄象罔,赤水非寥廓。

(下し文)
#3

鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。

我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。

未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。

玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。


(現代語訳)
#3

鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。

しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、

三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。

そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。


(訳注) #3

金門答蘇秀才2

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。

 

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。

鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。

16 銘鼎 《文選史岑、出師頌》「澤霑遐荒, 功銘鼎鉉。」とあり、 李善の注に《禮記》を引いて「夫鼎者有銘, 銘者, 論譔其先祖之德美功烈勳勞而酌之祭器,自成其名焉,以祀其先祖者也。」(夫れ鼎者に銘有り, 銘者は,譔を論じ其の先祖の德美、功烈、勳勞をして之の祭器を酌し, 自ら其の名を成さんや,以て其の先祖者を祀るなり。)とあるに基づく。・鼎:煮食器。肉類を煮るためのもので、鍋形の身に三足を有し、上部には一対の持ち手を有する。蓋を有するものもある。脚は太くがっしりしたもの、獣脚を象ったものなどさまざまである。新石器時代の陶器に祖形がみられ、青銅器としては殷前期から戦国時代まで製作された。煤が付着し、実際に煮炊きに使われたことのわかる個体がある一方で、火にかけた跡がなく、純粋に儀式用のものもある[32]。古代中国の青銅器のなかでもっとも重視されたもので、単なる鍋ではなく、権威の象徴とされた。西周時代には身分に応じて所持できる鼎の数が決められており、同形・同文様で大きさの異なる鼎をセットで揃える「列鼎」が作られた[33]。周王室に伝わった「禹の九鼎」は特に有名であった。「鼎の軽重を問う」という故事もここに由来する。

・方鼎:煮食器。殷前期から西周後期まで製作された。牛、羊等の犠牲獣を神に捧げるための器で、もっぱら宗廟で用いられた。上記のような用途から巨大なものが多い。

17 扁舟 小さな舟。小舟。李白《》「何如鴟夷子、散發棹扁舟。」何ぞ如かんや 鴟夷子が、發を散じて 扁舟に棹させるに。かの氾蠡(はんれい)が鴟夷子と名乗って髪をかっさばき引退し、小舟に棹さして気ままに江湖にうかんだ境地こそ何よりだ。18-#4 《古風五十九首之十八》Index-32-7 753年天寶十二年53582古風,五十九首之十八天津三月時, <18-#4> Ⅰ李白詩1171 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4403

李伯《自巴東舟行經瞿唐峽,登巫山最高峰,晚還題壁》「辭山不忍聽,揮策還孤舟。」(山を辭して 聽くに忍びず,策を揮って 孤舟に還る。 

18 渺然 広々として果てしのないさま。遥かに限りないさま。

 

我留在金門,君去臥丹壑。

しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、

丹壑 石門の舊居ということで、隠遁するであろう所縁のある所を邈然というもの。

 

未果三山期,遙欣一丘樂。

三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。

19 三山期 東海の神仙三山、蓬莱、瀛州、方丈を言い、其処に往きつく佳き時期の事。

20 遙欣一丘樂 《漢書·敘傳上》「漁釣於一壑,則萬物不奸其志;棲遲於一丘,則天下不易其樂。」(一壑に於いて漁釣すれば,則ち萬物 其の志を奸さず;一丘に於いて棲遲すれば,則ち天下 其の樂を易えず。)とあるに基づく。

 

玄珠寄象罔,赤水非寥廓。

そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。

21 玄珠・象罔 玄珠と呼ばれる価値のある石「玄珠石」ここでは、価値のある生き方の事。玄珠石のような道、ということ。うすぼんやりものの象罔ということ。《莊子·外篇・天地》「黃帝遊乎赤水之北,登乎崑崙之丘而南望,還歸,遺其玄珠,使知索之而不得,使離朱索之而不得,使喫詬索之而不得也。乃使象罔,象罔得之。」(黃帝 赤水の北に遊び,崑崙の丘に登り而して南望す,還た歸り,其の玄珠を遺す,使ち之を索めて得ざるを知り,使ち朱 之をめ離れて得ず,使ち 詬 之を索めて得ざるを喫るなり。乃ち象罔を使す,象罔 之を得たり。)“黄帝が赤水の北方に遊び、崑崙の丘に登って南方を望み見てから帰ってきたが、その玄珠を忘れたことに気がついた。もの知りの知をやって探させたが探しだせず、目のよくきく離朱をやって探させたが探しだせず、弁のたつ喫逅(かいこう)をやって探させたが探しだせなかった。そこで、うすぼんやりものの象罔をやったところ、象罔は玄珠を見つけてきた。”とあるに基づく。

22 赤水 赤水河。長江の右岸の支流、雲南省の北東端、昭通市鎮雄県安家壩の源流から東に向かい、貴州省と四川省を経て、四川省瀘州市合江県で長江に流入する。全長は436.5km、流域面積は20,440平方km。赤水河という名は、夏になると泥で赤茶色に濁ることから付けられている。

23 寥廓 空虚に広いさま。広々として大きいさま。高遠なもの。文選·曹植·贈白馬王彪七首其二詩:「太谷何寥廓,山樹鬱蒼蒼。」

 

曹植《贈白馬王彪 七首其二》

大谷何寥廓,山樹郁蒼蒼。霖雨泥我途,流潦浩從橫。

中逵無軌,改轍登高崗。修阪造雲日,我馬玄以黃。

この大谷関所のあたりは、何んとも空虚なものである。鬱蒼と生いしげる山の樹木が、どこまでもつづいている。

秋の長雨がふりつづく、私の旅の道は泥まみれですすむのがはかどらせない。道のたまり水がずうっとむこうまで地面をおおっている。

暫く行くと辻にきていた、そこには、前に通ったわだちのあとなど全く見当らない。やっと見つけた轍のほうに道をかえて高い山の背に登って行くのである。

長くけわしい山坂は、雲に、太陽にとどかんばかりなのだ。私の馬は黄色になっている。馬も私も疲れはててしまった。

太谷何んぞ寥廓【りょうかく】たる、山樹【さんじゅ】鬱として蒼蒼たり。
霖雨【りんう】我が途を泥【とど】こおらせ、流潦【りゅうりょう】浩として縦横たり。
中逵【ちゅうき】絶えて軌【あと】無く、轍【てつ】を改めて高岡【こうこう】に登る。
修阪【しゅうばん】雲日に造【いた】り、我が馬 玄【げん】以って黄す。

泰山002 

 

 

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743年(74)李太白集605巻十八12金門答蘇秀才  393-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(74) Ⅰ李白詩1751 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7295

李白  金門答蘇秀才#2

巨海納百川,麟閣多才賢。獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。

李太白集

卷十八12#2

金門答蘇秀才

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-2

743年天寶二年43歳 

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年:天寶二年43歳 94-74) #2

卷別:    卷一七八              文體:    五言古詩

詩題:    金門答蘇秀才

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣      

交遊人物/地點:蘇秀才      書信往來(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

金門答蘇秀才#1

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)

君還石門日,朱火始改木。

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。

春草如有情,山中尚含綠。

つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。

折芳愧遙憶,永路當日勗。

そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。

遠見故人心,平生以此足。

それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。

(金門 蘇秀才に答う)#1

君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。

春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。

芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。

遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
#2

巨海納百川,麟閣多才賢。

東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。

獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。

そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。

恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。

#2

巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。

書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。

屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。

恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。

我留在金門,君去臥丹壑。

未果三山期,遙欣一丘樂。

玄珠寄象罔,赤水非寥廓。

#4

願狎東海鷗,共營西山藥。

棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

良辰不同賞,永日應閒居。

鳥吟簷間樹,花落窗下書。

#5

緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。

採薇行笑歌,眷我情何已。

月出石鏡間,松鳴風琴裡。

得心自虛妙,外物空靡。

身世如兩忘,從君老煙水。

 

大明宮の圖003 

『金門答蘇秀才』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

巨海納百川,麟閣多才賢。

獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。

恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

(下し文)
#2

巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。

書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。

屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。

恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。

(現代語訳)
#2

東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。

その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。

そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。

かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。


(訳注) #2

金門答蘇秀才2

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。

霓裳羽衣舞002 

巨海納百川,麟閣多才賢。

東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。

8 麟閣多才賢 麒麟閣の略。別に畫麟閣.雲嫖姚というもとは漢の高祖の時、蒲何が建てて、図書を蔵していたが、のち漢の宜帝は功臣を紀念して表彰するため、霍光等十一人の像を閣上に画かした。宣帝は戎狄が定まって皆、賓服 し、股肱の臣の美を思い、功臣を人に図画させて麒麟閣に絵諸させた。 麒麟閣は未央宮にある。麒麟閣には十一臣が描かれた。 容貌に官爵、姓名を記した。麒麟閣十一臣は以下の通り。・大司馬大将軍博陸侯 姓霍氏、・衛将軍富平侯 張安世、・車騎将軍龍額侯 韓増、・後将軍営平侯 趙充国、・丞相高平侯 魏相、・丞相博陽侯 邴吉、・御史大夫建平侯 杜延年、・ 宗正陽城侯 劉徳、・少府 梁邱賀、・太子太傅 蕭望之、・典属国 蘇武

李白 《塞下曲,六首之三》「駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。彎弓辭漢月,插羽破天驕。陣解星芒盡,營空海霧消。功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。」

唐の玄宗皇帝の故事に由来する。 玄宗皇帝は音楽や舞踏の愛好家で、自ら舞楽を教えていた。 その場所に梨が多く植えられていたことから、音楽や舞踏を学ぶ者を「梨園の弟子」といい、転じて、その世界をさすようになった。

 

獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。

9 獻書 燕は当時桁外れの力を有していた斉とは国力でも軍事力でも比べ物にならなかった。しかしそれでもなお恨みを晴らしたいと言う昭王の意向に対し、楽毅は他国と連合して斉に当たるべしと説いた“奉上書札;上書。 多指向有地位者陳述意見。獻書 樂毅 《報燕惠書》”をいう。あるいは、詩文を献上すること。

10 金闕 漢の未央宮(びおうきゅう)にあった金馬門の異称。「禁闕(きんけつ)」に同じ。

11 酌醴 天子から賜る甘酒。

12 奉瓊筵 興慶宮勤政楼の前庭につくられた野外舞台の宴席。

 

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。

そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。

13 白雲唱 興慶宮勤政楼に永新の歌声を、西王母の穆王との故事に倣ってたとえたもの。永信は美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。天子觴西王母於瑤池之上,西王母為天子謠曰:『白雲在天,山陵自出,道里悠遠,山川間之,將子無死,尚能復來。』《穆天子傳、卷三》

14 黃竹篇 玄宗が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った《霓裳羽衣曲》を、穆王の《黃竹篇》になぞらえていう。穆王が大寒の時、凍える中詩を三首詠んだところ、それを上手に歌にして寒さをしのいで楽しく過ごせたことから、玄宗の妃賓、念奴のことを例えたのであろう。念奴は、『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。《穆天子傳》卷五「日中大寒,北風雨雪,有凍人,天子作詩三章以哀民曰:「我徂黃竹,○員閟寒,帝收九行。嗟我公侯,百辟冢卿,皇我萬民,旦夕勿忘。」・・・天子曰:余一人淫、不皇万民口登,方宿于黄竹。

『霓裳羽衣舞』は唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。

 

恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。

15 雲漢 河漢 あまのがわ。天河・銀河・経河・銀漢・雲漢・星漢・天津・漢津等はみなその異名である。杜甫『天河』。

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金門答蘇秀才》 【字解】

 

1 金門 漢代の未央宮にあった門で、金門・金閨門の名であり、文学の士(学問をもって天子に仕える人)がここから出仕した。本来この門は、「魯般門」という名であるが、門の外に銅製の馬があることからこうよばれた。揚雄 解嘲 「與羣賢同行,歷金門,上玉堂」(羣賢と同行し,金門を歷,玉堂に上る)とある。唐における金門は、右銀臺門をいい、宣政殿の北には紫宸門があり、その内側には紫宸殿がある。紫宸殿の南にある紫寢門の左側には崇明門があり、右側には光順門がある。紫宸殿の東の方角には左銀台門があり、西の方角には右銀台門がある。この門の北沿いに九仙門がある。唐時代では、右銀台門より学士がことから金馬門といい、翰林學士院に出仕するものの代名詞とされた。銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。唐.李肇の《翰林志》:「今在右銀臺門之北,第一門向牓曰翰林之門,其制高大重複,號為胡門,入門直西為學士院,即開元十六年所置也。」(今右銀臺門の北にり,第一門牓に向う翰林の門を曰う,其れ高大重複を制し,胡門を為すを號し,門に入り直西は學士院を為し,即ち開元十六年(728)に所置されるなり。)唐.李白.相逢行:「朝騎五花馬,謁帝出銀臺。」(朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。)朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

2 答蘇 蘇が誰であるか、天寶中(742756)の進士とした蘇源明であればこの時期、科挙試験の地方推薦の秀才であったのでる。

3 秀才 秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。一時中断されたが714年以降復活し、この詩の段階では、存在している。

4 石門 石門の舊居ということで、隠遁するであろう所縁のある所を邈然というものである。石門舊居と 《太平府志》「横望山在當塗 東六十里、春秋楚子重伐呉至於横山、卽此山也。實為金陵/朝對之山。真誥稱、其石形瓌竒、洞穴盤紆、陶居、嘗棲遲此地、煉丹。故有陶公讀書堂、石門、古祠、灰/井、丹爐諸遺跡。書堂今為澄心寺。石門、山水尤竒、盤道屈曲、沿道而入、峭壁二里、夾石參天、左擁右/抱、羅列拱揖、髙者抗層霄、下者入衍奥。中有玉泉、嵌空、淵淵而來、春夏霖潦奔馳、秋冬澄流一碧、縈/繞如練。觀詩中所稱、隠居山寺、陶公鍊液、石門流水之諸句、知在石門之旧居其處。」とあるに基づく。

(この詩は、李白が鄴中において、王勸というものに会い、その高鳳幽居の遺跡たる石門山に入ろうとするのを聞いてこの詩を作って送ったもの)

高鳳石門山 石門山 (都畿道 汝州 葉縣)  高鳳石門山幽居は後漢書、高鳳傳にみえる遺跡であり、汝州 葉縣に隠遁するのでこういったのである。       

李白が石門を詠ったものは以下に示す。

286巻七53和盧侍御通塘曲

石門中斷平湖出。 百丈金潭照云日。

320巻八卷八34鄴中贈王大 (一作鄴中王大勸入高鳳石門山幽居 )

高鳳石門山幽居遺跡

421巻十二11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

高鳳石門山幽居遺跡

42112-11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 仆離群遠懷亦有棲遁之志因敘舊以寄之

聞君臥石門。 宿昔契彌敦。

500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序

經永嘉。觀謝公石門。

500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序

縉云川谷難。 石門最可觀。

513卷十五16魯郡堯祠送竇明府薄華還西京 時久病初起作

長楊掃地不見日。 石門噴作金沙潭。

521卷十六24300魯郡東石門送杜二甫

何時石門路。 重有金樽開。

726巻二十一4 下途歸石門舊居 (高鳳石門山幽居遺跡)

下視白日晚。 既過石門隱。

605巻十八12金門答蘇秀才

高鳳石門山幽居遺跡

610巻十八17答從弟幼成過西園見贈

衣劍照松宇。 賓徒光石門。

660巻十九34與周剛清溪玉鏡潭宴別 潭在秋浦桃胡陂下高鳳石門山幽居遺跡

高鳳石門山幽居遺跡

726巻二十一4 下途歸石門舊居

高鳳石門山幽居遺跡

726巻二十一4 下途歸石門舊居

懸知樂客遙相待。 石門流水遍桃花。

781巻二十二26.尋高鳳石門山中元丹丘

高鳳石門山幽居遺跡

5 朱火始改木 時間経過により変わることを言う。  

張華《文選、雑詩》(雑詩三首、玉台新詠二首) 「晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。」(晷度【きど】は天に隨って運り 四時は互いに相承く。東壁は正に昏に中し 固陰の寒節は升る。繁霜、当夕に降り 悲風 中夜に興る。朱火青くして光無く 蘭膏坐ろに自ら凝る。)

張茂先(張華)雜詩三首(1

晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。

繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。

重衾無暖氣,挾纊如懷冰。伏枕終遙昔,寤言莫予應。

永思慮崇替,慨然獨拊膺。

2

逍遙遊春宮,容與緣池阿。白蘋齊素葉,朱草茂丹華。

微風搖芳若,層波動芰荷。榮彩曜中林,流馨入綺羅。

王孫遊不歸,修路邈以遐。誰與翫遺芳,佇立獨咨嗟。

3

荏苒日月運,寒暑忽流易。同好逝不存,迢迢遠離析。

房櫳自來風,庭無行跡。蒹葭生床下,蛛蝥網四壁。

懷思豈不隆,感物重鬱積。遊雁比翼翔,歸鴻知接翮。

來哉彼君子,無然徒自隔。

晉.張協 文選《雜詩十首之一》「離居幾何時?鑽燧忽改木。」(離居すること幾何の時ぞ?燧を鑽るに忽ち木を改む。)とあるに基づく。

6 愧 涅槃経には、「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。

7 勗 励ます.相勖。=努力して学ぶということで互いに励まし合う.勖其向上=向上するように励ます.

 

------ 参考 ------

蘇源明,京兆武功人。初名預,字弱夫。天寶中進士,更試集賢院,累遷太子諭德。出為東平太守,召拜國子司業。安祿山陷京師,以病不受偽署。肅宗複兩京,擢考功郎中、知制誥,終秘書少監。

(てい けん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝の学者。詩、書、画に長け、多くの著書をものしたが、貧困にあえいだ。のち、安史の乱において燕に降伏し、官職を受けたため、乱後に左遷された。杜甫と特に親交があった。

鄭州の滎陽の出身。地理や地形、地方の物産、各地の兵の数について詳しかった。高官であった蘇挺と年齢を越えた交わりを結び、その推薦を受けた。天宝元年 742年、協律郎に就任し、80以上の著書を書き上げたが、その著書に国史を私撰した部分があるという上書が出されたことで、10年間地方に流された。長安に戻ってからも、玄宗からその才能を愛され、広文館の博士に任命され、国子司業の蘇源明と交流があった。山水画、書道、詩作に長じ、玄宗にそれを献上し、「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞され、著作郎に移った。

天宝14載(755年)、安史の乱が勃発すると、燕の軍に捕らえられて洛陽に移され、安禄山側の水部郎中に任命された。密かに粛宗の唐側に通じたが、至徳2載(757年)、安慶緒の洛陽逃亡の際に、張通と王維とともに、燕に降伏した罪で宣陽里に閉じこめられた。3人とも画に長じていたため、崔圓によって、壁画を描かせられ、死罪を免れ、台州の司戸参軍事に落とされた。その数年後に死去している。

官職に就いた時でも貧困のままで、紙に不足することもあった。そのため、杜甫の詩に、「才名四十年、坐客寒にして氈(敷物)無し」と詠まれている。杜甫、李白ともに詩酒の友であったと伝えられる。

その画について、王維、畢宏とともに三絶と呼ばれた。晩唐の朱景玄も『唐朝名画録』において、第七位「能品上」に評価している。

木と石の画に長けており、松石図を門下省の壁に描き、杜甫など多くの詩人に詩で称えられた。当代において、その画の名声は高く、樹木の画法に変革を行ったと伝えられる。

大歴2年(767年)、給事中となり、その後、京兆少尹に移り、太子左庶子となった。

その画は、「唐朝名画録」において、第七位「能品上」に評価されている。

秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。隋代に科挙が始められると、科挙の科目になった秀才は科挙中でも重視され、及第者は10名にしか過ぎなかった。

初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。その試験科目としては、方略策を5道課し、その文理の精粗によって判定された。貞観年間(627 - 649年)に、地方から推薦された学生が不合格になった際には、推挙した州県官に罰則が下される規定が新設された。これによって、推薦者・受験者が無くなってしまった。開元年間(714 - 741年)に一時的に復活したが、及第者が現われず、遂に廃止された。

以後、科挙に応募した者を秀才と称するようになった。

743年(74)李太白集605巻十八12金門答蘇秀才  393Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(74) Ⅰ李白詩1750 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7290

李白  金門答蘇秀才#1

君還石門日,朱火始改木。春草如有情,山中尚含綠。

折芳愧遙憶,永路當日勗。遠見故人心,平生以此足。

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭されたそれにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。

李太白集

卷十八12

金門答蘇秀才

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7290 

Index-23

-2

743年天寶二年43歳 

94-74

393 <1000


 
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年:天寶二年43歳 94-74) 

卷別:    卷一七八              文體:    五言古詩

詩題:    金門答蘇秀才

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣      

交遊人物/地點:蘇秀才      書信往來(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

金門答蘇秀才#1

君還石門日,朱火始改木。

春草如有情,山中尚含綠。

折芳愧遙憶,永路當日勗。

遠見故人心,平生以此足。

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。

つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。

そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された

それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。

(金門 蘇秀才に答う)#1

君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。

春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。

芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。

遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
#2

巨海納百川,麟閣多才賢。

獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。

屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。

恩光照拙薄,雲漢希騰遷。

#3

銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。

我留在金門,君去臥丹壑。

未果三山期,遙欣一丘樂。

玄珠寄象罔,赤水非寥廓。

#4

願狎東海鷗,共營西山藥。

棲巖君寂滅,處世余龍蠖。

良辰不同賞,永日應閒居。

鳥吟簷間樹,花落窗下書。

#5

緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。

採薇行笑歌,眷我情何已。

月出石鏡間,松鳴風琴裡。

得心自虛妙,外物空靡。

身世如兩忘,從君老煙水。

 

 

『金門答蘇秀才』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

金門答蘇秀才#1

君還石門日,朱火始改木。

春草如有情,山中尚含綠。

折芳愧遙憶,永路當日勗。

遠見故人心,平生以此足。

(下し文)
(金門 蘇秀才に答う)#1

君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。

春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。

芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。

遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。

(現代語訳)
金門答蘇秀才#1(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。

つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。

そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された

それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。


(訳注)

金門答蘇秀才#1

(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。

金門 漢代の未央宮にあった門で、金門・金閨門の名であり、文学の士(学問をもって天子に仕える人)がここから出仕した。本来この門は、「魯般門」という名であるが、門の外に銅製の馬があることからこうよばれた。揚雄 解嘲 「與羣賢同行,歷金門,上玉堂」(羣賢と同行し,金門を歷,玉堂に上る)とある。唐における金門は、右銀臺門をいい、宣政殿の北には紫宸門があり、その内側には紫宸殿がある。紫宸殿の南にある紫寢門の左側には崇明門があり、右側には光順門がある。紫宸殿の東の方角には左銀台門があり、西の方角には右銀台門がある。この門の北沿いに九仙門がある。唐時代では、右銀台門より学士がことから金馬門といい、翰林學士院に出仕するものの代名詞とされた。銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。唐.李肇の《翰林志》:「今在右銀臺門之北,第一門向牓曰翰林之門,其制高大重複,號為胡門,入門直西為學士院,即開元十六年所置也。」(今右銀臺門の北にり,第一門牓に向う翰林の門を曰う,其れ高大重複を制し,胡門を為すを號し,門に入り直西は學士院を為し,即ち開元十六年(728)に所置されるなり。)唐.李白.相逢行:「朝騎五花馬,謁帝出銀臺。」(朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。)朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

答蘇 蘇が誰であるか、天寶中(742756)の進士とした蘇源明であればこの時期、科挙試験の地方推薦の秀才であったのでる。

秀才 秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。一時中断されたが714年以降復活し、この詩の段階では、存在している。

 

君還石門日,朱火始改木。

君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。

石門 石門の舊居ということで、隠遁するであろう所縁のある所を邈然というものである。石門舊居と 《太平府志》「横望山在當塗 東六十里、春秋楚子重伐呉至於横山、卽此山也。實為金陵/朝對之山。真誥稱、其石形瓌竒、洞穴盤紆、陶居、嘗棲遲此地、煉丹。故有陶公讀書堂、石門、古祠、灰/井、丹爐諸遺跡書堂今為澄心寺石門、山水尤竒、盤道屈曲、沿道而入、峭壁二里、夾石參天、左擁右/抱、羅列拱揖、髙者抗層霄、下者入衍奥。中有玉泉、嵌空、淵淵而來、春夏霖潦奔馳、秋冬澄流一碧、縈/繞如練。觀詩中所稱、隠居山寺、陶公鍊液、石門流水之諸句、知在石門之旧居其處。」とあるに基づく。

(この詩は、李白が鄴中において、王勸というものに会い、その高鳳幽居の遺跡たる石門山に入ろうとするのを聞いてこの詩を作って送ったもの)

高鳳石門山 石門山 (都畿道 汝州 葉縣)  高鳳石門山幽居は後漢書、高鳳傳にみえる遺跡であり、汝州 葉縣に隠遁するのでこういったのである。       

李白が石門を詠ったものは以下に示す。

286巻七53和盧侍御通塘曲

石門中斷平湖出。 百丈金潭照云日。

320巻八卷八34鄴中贈王大 (一作鄴中王大勸入高鳳石門山幽居 )

高鳳石門山幽居遺跡

421巻十二11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

高鳳石門山幽居遺跡

42112-11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 仆離群遠懷亦有棲遁之志因敘舊以寄之

聞君臥石門。 宿昔契彌敦。

500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序

經永嘉。觀謝公石門。

500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序

縉云川谷難。 石門最可觀。

513卷十五16魯郡堯祠送竇明府薄華還西京 時久病初起作

長楊掃地不見日。 石門噴作金沙潭。

521卷十六24300魯郡東石門送杜二甫

何時石門路。 重有金樽開。

726巻二十一4 下途歸石門舊居 (高鳳石門山幽居遺跡)

下視白日晚。 既過石門隱。

605巻十八12金門答蘇秀才

高鳳石門山幽居遺跡

610巻十八17答從弟幼成過西園見贈

衣劍照松宇。 賓徒光石門。

660巻十九34與周剛清溪玉鏡潭宴別 潭在秋浦桃胡陂下高鳳石門山幽居遺跡

高鳳石門山幽居遺跡

726巻二十一4 下途歸石門舊居

高鳳石門山幽居遺跡

726巻二十一4 下途歸石門舊居

懸知樂客遙相待。 石門流水遍桃花。

781巻二十二26.尋高鳳石門山中元丹丘

高鳳石門山幽居遺跡

朱火始改木 時間経過により変わることを言う。  

張華《文選、雑詩》(雑詩三首、玉台新詠二首) 「晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。」(晷度【きど】は天に隨って運り 四時は互いに相承く。東壁は正に昏に中し 固陰の寒節は升る。繁霜、当夕に降り 悲風 中夜に興る。朱火青くして光無く 蘭膏坐ろに自ら凝る。)

張茂先(張華)雜詩三首(1

晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。

繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。

重衾無暖氣,挾纊如懷冰。伏枕終遙昔,寤言莫予應。

永思慮崇替,慨然獨拊膺。

2

逍遙遊春宮,容與緣池阿。白蘋齊素葉,朱草茂丹華。

微風搖芳若,層波動芰荷。榮彩曜中林,流馨入綺羅。

王孫遊不歸,修路邈以遐。誰與翫遺芳,佇立獨咨嗟。

3

荏苒日月運,寒暑忽流易。同好逝不存,迢迢遠離析。

房櫳自來風,庭無行跡。蒹葭生床下,蛛蝥網四壁。

懷思豈不隆,感物重鬱積。遊雁比翼翔,歸鴻知接翮。

來哉彼君子,無然徒自隔。

晉.張協 文選《雜詩十首之一》「離居幾何時?鑽燧忽改木。」(離居すること幾何の時ぞ?燧を鑽るに忽ち木を改む。)とあるに基づく。

 

春草如有情,山中尚含綠。

つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。

 

折芳愧遙憶,永路當日勗。

そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された

 涅槃経には、「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。

 励ます.相勖。=努力して学ぶということで互いに励まし合う.勖其向上=向上するように励ます.

 

遠見故人心,平生以此足。

それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。

 

 

 

蘇源明,京兆武功人。初名預,字弱夫。天寶中進士,更試集賢院,累遷太子諭德。出為東平太守,召拜國子司業。安祿山陷京師,以病不受偽署。肅宗複兩京,擢考功郎中、知制誥,終秘書少監。

(てい けん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝の学者。詩、書、画に長け、多くの著書をものしたが、貧困にあえいだ。のち、安史の乱において燕に降伏し、官職を受けたため、乱後に左遷された。杜甫と特に親交があった。

鄭州の滎陽の出身。地理や地形、地方の物産、各地の兵の数について詳しかった。高官であった蘇挺と年齢を越えた交わりを結び、その推薦を受けた。天宝元年 742年、協律郎に就任し、80以上の著書を書き上げたが、その著書に国史を私撰した部分があるという上書が出されたことで、10年間地方に流された。長安に戻ってからも、玄宗からその才能を愛され、広文館の博士に任命され、国子司業の蘇源明と交流があった。山水画、書道、詩作に長じ、玄宗にそれを献上し、「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞され、著作郎に移った。

天宝14載(755年)、安史の乱が勃発すると、燕の軍に捕らえられて洛陽に移され、安禄山側の水部郎中に任命された。密かに粛宗の唐側に通じたが、至徳2載(757年)、安慶緒の洛陽逃亡の際に、張通と王維とともに、燕に降伏した罪で宣陽里に閉じこめられた。3人とも画に長じていたため、崔圓によって、壁画を描かせられ、死罪を免れ、台州の司戸参軍事に落とされた。その数年後に死去している。

官職に就いた時でも貧困のままで、紙に不足することもあった。そのため、杜甫の詩に、「才名四十年、坐客寒にして氈(敷物)無し」と詠まれている。杜甫、李白ともに詩酒の友であったと伝えられる。

その画について、王維、畢宏とともに三絶と呼ばれた。晩唐の朱景玄も『唐朝名画録』において、第七位「能品上」に評価している。

木と石の画に長けており、松石図を門下省の壁に描き、杜甫など多くの詩人に詩で称えられた。当代において、その画の名声は高く、樹木の画法に変革を行ったと伝えられる。

大歴2年(767年)、給事中となり、その後、京兆少尹に移り、太子左庶子となった。

その画は、「唐朝名画録」において、第七位「能品上」に評価されている。

秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。隋代に科挙が始められると、科挙の科目になった秀才は科挙中でも重視され、及第者は10名にしか過ぎなかった。

初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。その試験科目としては、方略策を5道課し、その文理の精粗によって判定された。貞観年間(627 - 649年)に、地方から推薦された学生が不合格になった際には、推挙した州県官に罰則が下される規定が新設された。これによって、推薦者・受験者が無くなってしまった。開元年間(714 - 741年)に一時的に復活したが、及第者が現われず、遂に廃止された。

以後、科挙に応募した者を秀才と称するようになった。

743年(73)李太白集卷十六33-《送長沙陳太守,二首之二》(七郡長沙國,) 392Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(73) Ⅰ李白詩1749 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7285

李白  送長沙陳太守,二首之二

七郡長沙國,南連湘水濱。定王垂舞袖,地窄不迴身。

莫小二千石,當安遠俗人。洞庭路遠,遙羨錦衣春。

長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の二)

古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。

李太白集卷十六23

送白利從金吾董將軍西征

 

389

743年天寶二年(43歳)

Index-23-2

 94-70首目)

kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7245

 

 

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-72

卷別:    卷一七六              文體:    五言律詩

詩題:    送長沙陳太守,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              潭州 (江南西道 潭州 潭州) 別名:潭州         

衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳      

交遊人物/地點:陳太守      書信往來(江南西道 潭州 潭州)

 

 

送長沙陳太守,二首之一

(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の一)

長沙陳太守,逸氣凌青松。

今次、長沙太守に任命された陳君は、まことにあっぱれな人物で、逸気は、青松を凌がんばかりで、大いに俗離れしている。

英主賜五馬,本是天池龍。

それから、天地の龍種とも称すべき名馬五頭を天子よりたまわり、それに騎して、任地に向うことである。

湘水迴九曲,衡山望五峰。

やがて、長江を洩って二衡由二鞘の地へ往くと、湘水の流れは、うねったり、くねったりして、凡そ九曲と称せられ、衡山の五峰は、眼の前にはっきりと見える。

榮君按節去,不及遠相從。

君が手綱を緩めて、しづしづと練り行かれるのは、もことに栄誉の極で、早く任地に到着して、今後政績をあげられるのが善いので、いたずらに、別を惜んで、遠く相いしたがうような真似は、断じてすることはないのである。

(長沙の陳太守を送る,二首の一)

長沙の陳太守,逸氣 青松を凌ぐ。

英主 五馬を賜い,本と是れ天池の龍。

湘水 九曲を迴らし,衡山 五峰を望む。

君が節を按じて去るを榮とし,遠く相い從うに及ばず。

 

年:743年天寶二年43歳 94-73

卷別:    卷一七六              文體:    五言律詩

詩題:    送長沙陳太守,二首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              潭州 (江南西道 潭州 潭州) 別名:潭州         

洞庭湖 (江南西道 岳州 岳州) 別名:洞庭      

交遊人物/地點:陳太守      書信往來(江南西道 潭州 潭州)

 

 

送長沙陳太守,二首之二

長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の二)

七郡長沙國,南連湘水濱。

古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。

定王垂舞袖,地窄不迴身。

漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。

莫小二千石,當安遠俗人。

だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。

洞庭路遠,遙羨錦衣春。

都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。

韓愈 陽山00 

 

 

『送長沙陳太守,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送長沙陳太守,二首之二

七郡長沙國,南連湘水濱。

定王垂舞袖,地窄不迴身。

莫小二千石,當安遠俗人。

洞庭路遠,遙羨錦衣春
詩文(含異文)

七郡長沙國,南連湘水濱。定王垂舞袖【王垂舞袖】,地窄不迴身。

莫小二千石,當安遠俗人。洞庭路遠,遙羨錦衣春。


(下し文)
(
長沙の陳太守を送る,二首の二)

七郡 長沙國,南 連らる湘水の濱。

定王 舞袖を垂れ,地窄くして 身を迴らせず。

二千石を小とする莫れ,當に安んずべし 遠俗の人。

洞庭 路遠くあれど,遙かに 錦衣の春を羨やむ

(現代語訳)
送長沙陳太守,二首之二(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の二)

古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。

漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。

だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。

都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。


(訳注)

送長沙陳太守,二首之二

(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の二)

1長沙 長沙の名は早くも『逸周書』に見え、春秋戦国時代には楚国に属し、成王のとき黔中郡が置かれたことに始まる。秦代に秦36郡のひとつとして長沙郡が設置されている。漢代初には呉芮を封じて臨湘県を都とする長沙王国が設置され、546年間続いた。長沙王国の相である軑侯利蒼一族の墓所として有名な馬王堆漢墓を今に伝える。隋唐代から清末にかけて潭州の中心として発展した。唐の郡名、潭州で、江南西道に属していた。この詩は、陳某が新に長沙の太守に補せられて赴任するのを送って作ったのである。

この首は、施政に励んで、故郷に錦を飾ることであるからうらやましいと、其一とは異なった意象を詠出しで居る。まさしく、連作の最たるものである。

 

七郡長沙國,南連湘水濱。

古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。

10 七郡 唐時、潭州長沙郡、衡州衡陽郡、永州零陵郡、連州連山郡、道州江華郡、郴州桂陽郡、卲州卲陽郡、の事。

11 長沙國 春秋戦国時代においては楚国の領土下属國にあり、長沙城が設置されていた。このように古代から長沙の市街区の位置は変わることなく同じ場所に存在し続けており、中国史上で最も古い歴史を有する街と言われている。後漢王朝初期、長沙国は廃止され、長沙郡へと改編され七郡となる。

12 南連湘水濱 この七郡は、湘水に連なって接する郡であることをいう。

 

定王垂舞袖,地窄不迴身。

漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。

13 定王 長沙の定王、劉発、前漢の人。漢の景帝の子の一人。劉氏長沙国の初代王で、光武帝の先祖として知られる。

14 垂舞袖・地窄不迴身 定王は、景帝前2年(紀元前155年)に長沙王に立てられた。母が微賎で寵愛されていなかったため、貧しい国に封じられたのである。景帝後2年(紀元前142年)、諸王が長安に入朝した際、王が前に出て歌舞をするよう命じられた。長沙王劉発は手を小さく出す不恰好な舞いであったために周りの者が笑った。景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという「垂舞袖/地窄不迴身」の故事。

387巻十一醉後贈王歷陽

筆蹤起龍虎、舞袖拂云霄。

548卷十六51魯中送二從弟赴舉之西京 (一作送族弟()

舞袖拂秋月、歌筵聞早鴻。

553卷十六56送長沙陳太守二首其二

定王垂舞袖、地窄不回身。

646巻十九20邯鄲南亭觀妓

舞袖拂花枝、把酒顧美人。

677巻十九51銅官山醉後

要須回舞袖、拂盡五松山。

71220-26與夏十二登岳陽樓

醉後涼風起、吹人舞袖回。

784巻二十二5對酒醉題屈突明府廳

山翁今已醉、舞袖為君開。

 

莫小二千石,當安遠俗人。

だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。

15 二千石 漢代に郡太守の代名詞として使われたことから転じ、知事などの地方長官を「二千石」と表現する用法があった。二千石(にせんせき)は、中国古代、漢における官僚の等級と俸給(秩石)を表す語。漢の秩石には万石から百石まであり、その数字に応じて俸給が半分は穀物、半分は銭で支給された。二千石は主に郡太守などの高官が該当し、中二千石、真二千石、二千石、比二千石の4種類に分かれていた。

 

洞庭路遠,遙羨錦衣春。

都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。

16 洞庭路遠 長沙へ行く道中の最大の地点。

17 錦衣春 故郷に錦を飾り、折からの春景色がかがやいてみえる。

錦衣・衣錦

218 卷六13 鳴皋歌送岑徵君

魚目混珍,母衣錦。

361 10-08 贈劉都使

飲冰事戎幕, 衣錦華水

531 卷十六34 送張遙之壽陽幕府

勖爾效才略,功成衣錦還。

536 卷十六39 送外甥鄭灌從軍三首 其一

丈夫睹命報天子,當斬胡頭衣錦回。

 83 02-24 楽府・雉朝飛

麥隴青青三月時,白雉朝飛挾兩雌。

161 巻四36 東武吟

 錦衣入新丰,依岩望松雪。

553 卷十六56 送長沙陳太守二首其二

洞庭路遠,遙羨錦衣春。

751 巻二十一29 越中覽古

越王句踐破,義士還盡錦衣。

 

韓愈の地図01 

 

 

 

送長沙陳太守二首 【字解】

 

(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首)

1長沙 長沙の名は早くも『逸周書』に見え、春秋戦国時代には楚国に属し、成王のとき黔中郡が置かれたことに始まる。秦代に秦36郡のひとつとして長沙郡が設置されている。漢代初には呉芮を封じて臨湘県を都とする長沙王国が設置され、546年間続いた。長沙王国の相である軑侯利蒼一族の墓所として有名な馬王堆漢墓を今に伝える。隋唐代から清末にかけて潭州の中心として発展した。唐の郡名、潭州で、江南西道に属していた。この詩は、陳某が新に長沙の太守に補せられて赴任するのを送って作ったのである。

前年四句は一気呵成。湘水、衡山の二旬は、本地の風光を点醒して、人の眉目を清くする。

結二句は、翻って之を激励する意味である。

2 陳 陳の名字閲歴は、不詳。

3 太守 郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。古代から南北朝時代に置かれた。

4 逸氣 すぐれた気質。世俗を超越した気風。

5 賜五馬 五馬は太守の別称でその命をうけたことをいう。四頭馬車の外にさらに一頭の添え馬を付すことを許されたもの。《玉臺新詠‧古樂府・日出東南隅行》「使君從南來, 五馬立踟躕。」(使君、南より來り, 五馬 立って踟躕す。) 漢時に太守は乘坐する車用に五匹馬でもって駕轅することを許されたことを言う, 因って太守の車駕をいう。

6 湘水迴九曲 水經註 「衡山東南二面,臨映湘川,自長沙至此江湘六百里中,有九向九背,故漁者歌曰:帆隨湘轉,望衡九面。」(衡山東南二面,湘川に臨映す,長沙より此に至る 江湘六百里中,九向九背有り,故に漁者 歌うて曰く:帆 湘轉に隨い,衡に望めば九面なり。)とある

7 衡山 衡山 (南嶽;1,298m湖南省衡陽市衡山県)、衡山(こうざん)は、道教の五岳の一つ、南岳。中国湖南省衡山県にあり、南を司るとされる。最高峰は祝融峰の1,298m。湖南省の洞庭湖の南、湘水の下流西岸にある。

8 五峰 祝融、天柱、芙蓉、紫盖、石禀で、 祝融山が最高峰である。通鑑地理釋「衡嶽潭州衡山縣西三十里衡州衡陽 縣北七十里有五峰曰紫葢天柱芙蓉石廩祝融」(衡嶽は潭州衡山縣西三十里、衡州衡陽 縣北七十里に在り、五峰有り、曰く紫葢、天柱、芙蓉、石廩、祝融)とある。

9 按節 馬の手綱を緩めること。

10 七郡 唐時、潭州長沙郡、衡州衡陽郡、永州零陵郡、連州連山郡、道州江華郡、郴州桂陽郡、卲州卲陽郡、の事。

11 長沙國 春秋戦国時代においては楚国の領土下属國にあり、長沙城が設置されていた。このように古代から長沙の市街区の位置は変わることなく同じ場所に存在し続けており、中国史上で最も古い歴史を有する街と言われている。後漢王朝初期、長沙国は廃止され、長沙郡へと改編され七郡となる。

12 南連湘水濱 この七郡は、湘水に連なって接する郡であることをいう。

13 定王 長沙の定王、劉発、前漢の人。漢の景帝の子の一人。劉氏長沙国の初代王で、光武帝の先祖として知られる。

14 垂舞袖・地窄不迴身 定王は、景帝前2年(紀元前155年)に長沙王に立てられた。母が微賎で寵愛されていなかったため、貧しい国に封じられたのである。景帝後2年(紀元前142年)、諸王が長安に入朝した際、王が前に出て歌舞をするよう命じられた。長沙王劉発は手を小さく出す不恰好な舞いであったために周りの者が笑った。景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという「垂舞袖/地窄不迴身」の故事。

387巻十一醉後贈王歷陽

筆蹤起龍虎、舞袖拂云霄。

548卷十六51魯中送二從弟赴舉之西京 (一作送族弟()

舞袖拂秋月、歌筵聞早鴻。

553卷十六56送長沙陳太守二首其二

定王垂舞袖、地窄不回身。

646巻十九20邯鄲南亭觀妓

舞袖拂花枝、把酒顧美人。

677巻十九51銅官山醉後

要須回舞袖、拂盡五松山。

71220-26與夏十二登岳陽樓

醉後涼風起、吹人舞袖回。

784巻二十二5對酒醉題屈突明府廳

山翁今已醉、舞袖為君開。

 

15 二千石 漢代に郡太守の代名詞として使われたことから転じ、知事などの地方長官を「二千石」と表現する用法があった。二千石(にせんせき)は、中国古代、漢における官僚の等級と俸給(秩石)を表す語。漢の秩石には万石から百石まであり、その数字に応じて俸給が半分は穀物、半分は銭で支給された。二千石は主に郡太守などの高官が該当し、中二千石、真二千石、二千石、比二千石の4種類に分かれていた。

16 洞庭路遠 長沙へ行く道中の最大の地点。

17 錦衣春 故郷に錦を飾り、折からの春景色がかがやいてみえる。

錦衣・衣錦

218 卷六13 鳴皋歌送岑徵君

魚目混珍,母衣錦。

361 10-08 贈劉都使

飲冰事戎幕, 衣錦華水

531 卷十六34 送張遙之壽陽幕府

勖爾效才略,功成衣錦還。

536 卷十六39 送外甥鄭灌從軍三首 其一

丈夫睹命報天子,當斬胡頭衣錦回。

 83 02-24 楽府・雉朝飛

麥隴青青三月時,白雉朝飛挾兩雌。

161 巻四36 東武吟

 錦衣入新丰,依岩望松雪。

553 卷十六56 送長沙陳太守二首其二

洞庭路遠,遙羨錦衣春。

751 巻二十一29 越中覽古

越王句踐破,義士還盡錦衣。

 

743年(72)李太白集卷十六32-《送長沙陳太守,二首之一》(長沙陳太守,) 391Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(72) Ⅰ李白詩1748 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7280

李白  送長沙陳太守,二首之一

長沙陳太守,逸氣凌青松。英主賜五馬,本是天池龍。

湘水迴九曲,衡山望五峰。榮君按節去,不及遠相從。
(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の一)

今次、長沙太守に任命された陳君は、まことにあっぱれな人物で、逸気は、青松を凌がんばかりで、大いに俗離れしている。それから、天地の龍種とも称すべき名馬五頭を天子よりたまわり、それに騎して、任地に向うことである。やがて、長江を洩って二衡由二鞘の地へ往くと、湘水の流れは、うねったり、くねったりして、凡そ九曲と称せられ、衡山の五峰は、眼の前にはっきりと見える。君が手綱を緩めて、しづしづと練り行かれるのは、もことに栄誉の極で、早く任地に到着して、今後政績をあげられるのが善いので、いたずらに、別を惜んで、遠く相いしたがうような真似は、断じてすることはないのである。

743年(70

送白利從金吾董將軍西征

kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7245

李太白集

389

Index-23

-2

743年天寶二年43歳 94-70

卷十六23

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-72

卷別:    卷一七六              文體:    五言律詩

詩題:    送長沙陳太守,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              潭州 (江南西道 潭州 潭州) 別名:潭州         

衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳      

交遊人物/地點:陳太守      書信往來(江南西道 潭州 潭州)

 

 

送長沙陳太守,二首之一

長沙陳太守,逸氣凌青松。

英主賜五馬,本是天池龍。

湘水迴九曲,衡山望五峰。

榮君按節去,不及遠相從。

(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の一)

今次、長沙太守に任命された陳君は、まことにあっぱれな人物で、逸気は、青松を凌がんばかりで、大いに俗離れしている。

それから、天地の龍種とも称すべき名馬五頭を天子よりたまわり、それに騎して、任地に向うことである。

やがて、長江を洩って二衡由二鞘の地へ往くと、湘水の流れは、うねったり、くねったりして、凡そ九曲と称せられ、衡山の五峰は、眼の前にはっきりと見える。

君が手綱を緩めて、しづしづと練り行かれるのは、もことに栄誉の極で、早く任地に到着して、今後政績をあげられるのが善いので、いたずらに、別を惜んで、遠く相いしたがうような真似は、断じてすることはないのである。

(長沙の陳太守を送る,二首の一)

長沙の陳太守,逸氣 青松を凌ぐ。

英主 五馬を賜い,本と是れ天池の龍。

湘水 九曲を迴らし,衡山 五峰を望む。

君が節を按じて去るを榮とし,遠く相い從うに及ばず。

 

 

『送長沙陳太守,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送長沙陳太守,二首之一

長沙陳太守,逸氣凌青松。

英主賜五馬,本是天池龍。

湘水迴九曲,衡山望五峰。

榮君按節去,不及遠相從。

(下し文)
(
長沙の陳太守を送る,二首の一)

長沙の陳太守,逸氣 青松を凌ぐ。

英主 五馬を賜い,本と是れ天池の龍。

湘水 九曲を迴らし,衡山 五峰を望む。

君が節を按じて去るを榮とし,遠く相い從うに及ばず。


(現代語訳)
送長沙陳太守,二首之一(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の一)

今次、長沙太守に任命された陳君は、まことにあっぱれな人物で、逸気は、青松を凌がんばかりで、大いに俗離れしている。

それから、天地の龍種とも称すべき名馬五頭を天子よりたまわり、それに騎して、任地に向うことである。

やがて、長江を洩って二衡由二鞘の地へ往くと、湘水の流れは、うねったり、くねったりして、凡そ九曲と称せられ、衡山の五峰は、眼の前にはっきりと見える。

君が手綱を緩めて、しづしづと練り行かれるのは、もことに栄誉の極で、早く任地に到着して、今後政績をあげられるのが善いので、いたずらに、別を惜んで、遠く相いしたがうような真似は、断じてすることはないのである。


(訳注)

送長沙陳太守,二首之一

(長沙郡の陳太守が潭州に赴くを送る詩、二首の一)

1長沙 長沙の名は早くも『逸周書』に見え、春秋戦国時代には楚国に属し、成王のとき黔中郡が置かれたことに始まる。秦代に秦36郡のひとつとして長沙郡が設置されている。漢代初には呉芮を封じて臨湘県を都とする長沙王国が設置され、546年間続いた。長沙王国の相である軑侯利蒼一族の墓所として有名な馬王堆漢墓を今に伝える。隋唐代から清末にかけて潭州の中心として発展した。唐の郡名、潭州で、江南西道に属していた。この詩は、陳某が新に長沙の太守に補せられて赴任するのを送って作ったのである。

前年四句は一気呵成。湘水、衡山の二旬は、本地の風光を点醒して、人の眉目を清くする。

結二句は、翻って之を激励する意味である。

 

2 陳 陳の名字閲歴は、不詳。

3 太守 郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。古代から南北朝時代に置かれた。

 

長沙陳太守,逸氣凌青松。

今次、長沙太守に任命された陳君は、まことにあっぱれな人物で、逸気は、青松を凌がんばかりで、大いに俗離れしている。

4 逸氣 すぐれた気質。世俗を超越した気風。

 

英主賜五馬,本是天池龍。

それから、天地の龍種とも称すべき名馬五頭を天子よりたまわり、それに騎して、任地に向うことである。

5 賜五馬 五馬は太守の別称でその命をうけたことをいう。四頭馬車の外にさらに一頭の添え馬を付すことを許されたもの。《玉臺新詠‧古樂府・日出東南隅行》「使君從南來, 五馬立踟躕。」(使君、南より來り, 五馬 立って踟躕す。) 漢時に太守は乘坐する車用に五匹馬でもって駕轅することを許されたことを言う, 因って太守の車駕をいう。

 

湘水迴九曲,衡山望五峰。

やがて、長江を洩って二衡由二鞘の地へ往くと、湘水の流れは、うねったり、くねったりして、凡そ九曲と称せられ、衡山の五峰は、眼の前にはっきりと見える。

6 湘水迴九曲 水經註 「衡山東南二面,臨映湘川,自長沙至此江湘六百里中,有九向九背,故漁者歌曰:帆隨湘轉,望衡九面。」(衡山東南二面,湘川に臨映す,長沙より此に至る 江湘六百里中,九向九背有り,故に漁者 歌うて曰く:帆 湘轉に隨い,衡に望めば九面なり。)とある

7 衡山 衡山 (南嶽;1,298m湖南省衡陽市衡山県)、衡山(こうざん)は、道教の五岳の一つ、南岳。中国湖南省衡山県にあり、南を司るとされる。最高峰は祝融峰の1,298m。湖南省の洞庭湖の南、湘水の下流西岸にある。

8 五峰 祝融、天柱、芙蓉、紫盖、石禀で、 祝融山が最高峰である。通鑑地理釋「衡嶽潭州衡山縣西三十里衡州衡陽 縣北七十里有五峰曰紫葢天柱芙蓉石廩祝融」(衡嶽は潭州衡山縣西三十里、衡州衡陽 縣北七十里に在り、五峰有り、曰く紫葢、天柱、芙蓉、石廩、祝融)とある。

 

榮君按節去,不及遠相從。

君が手綱を緩めて、しづしづと練り行かれるのは、もことに栄誉の極で、早く任地に到着して、今後政績をあげられるのが善いので、いたずらに、別を惜んで、遠く相いしたがうような真似は、断じてすることはないのである。

9 按節 馬の手綱を緩めること。

743年(71)李太白集卷十六26-《送祝八之江東賦得浣紗石》(西施越溪女,) 390-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(71) Ⅰ李白詩1747 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7275

李白  送祝八之江東賦得浣紗石 #2

昔時紅粉照流水,今日青苔覆落花。

君去西秦適東越,碧山青江幾超忽。

若到天涯思故人,浣紗石上窺明月。
むかしは、その處に於て、紅粉の装い爲せる西施が、流れる水にその影を映したが、今では、石の上に生ずる青い苔は、散る花に覆われて、その人を思わせるものがないのである。

君は、今、ここ長安を去って、東越に行かれるので、その道中、碧山清江がずっとつらなる、きわめて遠い道のりである。

かくて、天涯に至って、故人即ち吾を思い出したならば、浣紗石のほとりに行って、石の上に登る明月を見ることである。われも亦た、ひとしく君を思う心をその月に寄せているから、それとなく、心に感じ得るものがあるに相違ないのである。

743年(71

送祝八之江東賦得浣紗石

kanbuniinkai紀頌之の

漢詩ブログ7275

李太白集

卷十六23

390#2

Index-23-2

743年天寶二年43歳 94-71-#2

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-71

卷別:    卷一七六              文體:    雜言古詩

詩題:    送祝八之江東賦得浣紗石

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              浣紗石 (江南東道 越州 會稽)           

交遊人物/地點:祝八          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送祝八之江東賦得浣紗石

(祝八の江東にゆくを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題し、つまり、浣紗石を詠ずるその中に於て、送別の意をしめしたもの)

西施越溪女,明豔光雲海。

西施は、もと越渓に生まれた女で、その容光の明艶異常なることは、雲なす海をも照らす位のひとであった。

未入王宮殿時,浣紗古石今猶在。

そして未だ呉王の宮殿に入ってしまう前のとき、早春の河水に臨んで紗を浣って居たとかいっていて、そのとき常に乗っていたと伝える石が今でも残って居る。

桃李新開映古菖蒲猶短出平沙。

その石の邊には、桃李の花、新に咲き出でて、水中の古い浮き木に映じ、そして、汀に生える菖蒲は、やつと芽を出して、平沙の上に抽きだして、当時と少しも変りない景色である。

(祝八の江東に之くを送り浣紗石を賦し得る)

西施は越溪の女,明豔 雲海に光る。

未だ王の宮殿に入らざる時,浣紗の古石 今 猶お在り。

桃李 新たに開いて 古,菖蒲 猶お短く 平沙を出づ

昔時紅粉照流水,今日青苔覆落花。

君去西秦適東越,碧山青江幾超忽。

若到天涯思故人,浣紗石上窺明月。

むかしは、その處に於て、紅粉の装い爲せる西施が、流れる水にその影を映したが、今では、石の上に生ずる青い苔は、散る花に覆われて、その人を思わせるものがないのである。

君は、今、ここ長安を去って、東越に行かれるので、その道中、碧山清江がずっとつらなる、きわめて遠い道のりである。

かくて、天涯に至って、故人即ち吾を思い出したならば、浣紗石のほとりに行って、石の上に登る明月を見ることである。われも亦た、ひとしく君を思う心をその月に寄せているから、それとなく、心に感じ得るものがあるに相違ないのである。

#2

昔時は紅粉 流水を照し,今日は青苔 落花の覆わる。

君は西秦を去って東越に適く,碧山 青江 幾んぞ超忽す。

若し天涯に到って故人を思わば,浣紗石の上 明月を窺え。

京兆地域図002 

 

『送祝八之江東賦得浣紗石』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

昔時紅粉照流水,今日青苔覆落花。

君去西秦適東越,碧山青江幾超忽。

若到天涯思故人,浣紗石上窺明月。
詩文(含異文)    

昔時紅粉照流水【昔時紅顏照流水】,今日青苔覆落花。

君去西秦適東越,碧山青江幾超忽。

若到天涯思故人,浣紗石上窺明月。


(下し文)
#2

昔時は紅粉 流水を照し,今日は青苔 落花の覆わる。

君は西秦を去って東越に適く,碧山 青江 幾んぞ超忽す。

若し天涯に到って故人を思わば,浣紗石の上 明月を窺え。

(現代語訳)
#2

むかしは、その處に於て、紅粉の装い爲せる西施が、流れる水にその影を映したが、今では、石の上に生ずる青い苔は、散る花に覆われて、その人を思わせるものがないのである。

君は、今、ここ長安を去って、東越に行かれるので、その道中、碧山清江がずっとつらなる、きわめて遠い道のりである。

かくて、天涯に至って、故人即ち吾を思い出したならば、浣紗石のほとりに行って、石の上に登る明月を見ることである。われも亦た、ひとしく君を思う心をその月に寄せているから、それとなく、心に感じ得るものがあるに相違ないのである。

呉越の地図李白の足跡0000
(訳注)

送祝八之江東賦得浣紗石

(祝八の江東にゆくを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題し、つまり、浣紗石を詠ずるその中に於て、送別の意をしめしたもの)

1-   祝八 祝八の八は排行で、名字は分らない。江東は呉越の地。それから、浣紗石に就いては、太平御覧に引ける孔曄の會稽記に「勾践、美女を索め、以て呉王に献上せむとし、諸曁苧蘿山の売薪の女、西施 鄭且を得、先づ土城山に教習せしむ、山邊に石あり、云ふ是れ西施の浣紗石」とあり、太平寰宇記に「諸曁縣に苧蘿山あり、山下に石跡あり、云ふ足れ西施浣紗の所と。浣紗石、なお在り」と記してある。この詩は、祝八の江東に之くを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題とした處が、李白は浣紗石を取り中で、因って、この詩を作ったので、つまり、浣紗石を詠するその中に於て、送別の意を寓したわけである。

 

昔時紅粉照流水,今日青苔覆落花。

むかしは、その處に於て、紅粉の装い爲せる西施が、流れる水にその影を映したが、今では、石の上に生ずる青い苔は、散る花に覆われて、その人を思わせるものがないのである。

10 紅粉 白粉とほほ紅、口紅。西施を言う。

 

君去西秦適東越,碧山青江幾超忽。

君は、今、ここ長安を去って、東越に行かれるので、その道中、碧山清江がずっとつらなる、きわめて遠い道のりである。

11 西秦 ここは、長安のこと。

12 東越 春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国の東部海岸地方。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたあたりをいう。

13 碧山青江 苔むし、常緑の山、青く清清しく広々とした、大江。

14 幾超忽 ずうっと遙かに遠句まで続いた様子を言う。文選.王巾.《頭陀寺碑文》「東望平皋,千里超忽。」(東に平皋を望み,千里超忽。)

 

若到天涯思故人,浣紗石上窺明月。

かくて、天涯に至って、故人即ち吾を思い出したならば、浣紗石のほとりに行って、石の上に登る明月を見ることである。われも亦た、ひとしく君を思う心をその月に寄せているから、それとなく、心に感じ得るものがあるに相違ないのである。

窺明月 おなじ明月を望む

《巻四18 月夜 
今夜鄜州月、閨中只独看。
遥憐小児女、未解憶長安。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。
今夜も月が出ている鄜州での月は、閏の中で我が妻がただひとりみているだろう。

私からはこんなはるかなところからいたいけない子供たちのことを思いを遣っている、しかしその子どもたちはこの私のいる長安を憶うことなどは知らないのである。

二人で過ごした室には香霧がこめ、雲の髪型もうるおいが生じる、清々しい月のひかり輝いて妻のうなじに、影を落としている、美しい姿もつめたく感じていることであろう。

いつになったらゆめまぼろしにある妻との閨ととばりの生活、二人そろって月光に照らされて涙のあとなど全くない暮らしができるのだろうか。

今夜  鄜州【ふしゅう】の月、閨中【けいちゅう】  只だ独り看【み】るらん。
遥かに憐【あわ】れむ小児女【しょうじじょ】の、未【いま】だ長安を憶【おも】うを解(かい)せざるを。
香霧【こうむ】に雲鬟【うんかん】湿【うるお】い、清輝【せいき】に玉臂【ぎょくひ】寒からん。
何【いず】れの時か虚幌【きょこう】に倚【よ】り、双【とも】に照らされて涙痕【るいこん】乾かん。

杜甫の「月夜」は、 白欒天のこの詩にもいうように、「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」であって、月色は、山河を隔て、環境を異にしつつも、その色を同じくするものである。だから、それに誘発されて、杜甫は、はるかなる妻の身の上を思うのであり、おなじ月の光にさそわれて、はるかなる妻も、自分を思うであろうことを自分自身に思わせるのであるが、自分の見る月とはいわないで、妻の見る月の色を、はるかに思いやったというところは、この詩人の心が、常に常識を越えて別の次元につき入ろうとしていたこと、そうしてまたその結果、表現としては、緊迫した言葉を常に求めていたこと、つまりみずからもいうように「語の人を驚かさずんば死すとも休まず」とする傾向にあったことを、もとより最も顕著に示す例ではないけれども、なお何がしか示すものである。

月夜 と家族を詠う詩について 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 150

 

送祝八之江東賦得浣紗石 【字解】

 

1)祝八 祝八の八は排行で、名字は分らない。江東は呉越の地。それから、浣紗石に就いては、太平御覧に引ける孔曄の會稽記に「勾践、美女を索め、以て呉王に献上せむとし、諸曁苧蘿山の売薪の女、西施 鄭且を得、先づ土城山に教習せしむ、山邊に石あり、云ふ是れ西施の浣紗石」とあり、太平寰宇記に「諸曁縣に苧蘿山あり、山下に石跡あり、云ふ足れ西施浣紗の所と。浣紗石、なお在り」と記してある。この詩は、祝八の江東に之くを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題とした處が、李白は浣紗石を取り中で、因って、この詩を作ったので、つまり、浣紗石を詠するその中に於て、送別の意を寓したわけである。

2)西施 李白が西施の語を使った詩句。

6502-06楽府烏棲曲

王宮里醉西施。

195巻五 28子夜 ( 一作子夜四時歌 ) 夏歌

鏡湖三百里。 菡萏發荷花。 五月西施采。 人看隘若耶。 回舟不待月。 歸去越王家。

210卷六5玉壺吟

世人不識東方朔。 大隱金門是謫仙。 西施宜笑復宜顰。 丑女效之徒累身。 君王雖愛蛾眉好。

218卷六13鳴皋歌送岑徵君 時梁園三尺雪

鳳孤飛而無鄰。 ()蜓嘲龍。 魚目混珍。 母衣錦。 西施負薪。 若使巢由桎梏于軒冕兮。

546卷十六49送祝八之江東賦得浣紗石

西施越溪女。 明艷光云海。 未入王宮殿時。

747巻二十一25西施

西施越溪女。 出自苧蘿山。

829巻二十三03效古二首其二

自古有秀色。 西施與東鄰。 蛾眉不可妒。 況乃效其顰。 所以尹婕妤。

945巻二十四56口號王美人半醉

風動荷花水殿香。 姑蘇台上宴王。 西施醉舞嬌無力。 笑倚東窗白玉床。

 

2)西施ものがたり  李白がよく取り上げた題材

111-1 《西施》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111-1> Ⅰ李白詩1290 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4998

111-2 《西施》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111-2> Ⅰ李白詩1291 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5003

3) 越溪女 呉越春秋「越王使相者於國中、得苧蘿山鬻薪之女。曰西施鄭旦。」中国四大美人と呼ばれるのは以下の女性たちである。1.西施(春秋時代)2.王昭君(漢)3.貂蝉(後漢)4.楊貴妃(唐)ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くこともある。また虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともある。・苧蘿山 苧蘿山は浙江諸縣の南五裡に在る。

4)明豔 妖艶であるにも、ちせいゆたかに美しい姿かたち、顔だち。

5)光雲海 遠く水平線に沸く雲を境にし、その上にぽっかりと浮かぶ雲のかがやく白さをいう。

 

未入王宮殿時,浣紗古石今猶在。

そして未だ呉王の宮殿に入ってしまう前のとき、早春の河水に臨んで紗を浣って居たとかいっていて、そのとき常に乗っていたと伝える石が今でも残って居る。

6) 王宮殿 越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。 呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。

7)浣紗 絹を織って染め付けた布地を川で晒す、水の冷たい時に色の定着がよくなることで、春先の年中行事であり、谷間の石の上に並べて干されること、春の風物詩であることを意味する。秋は採蓮、採菱も若い娘の素足が風物詩である。李白は春秋の風物詩をおおくうたっている。

 

桃李新開映古菖蒲猶短出平沙。

その石の邊には、桃李の花、新に咲き出でて、水中の古い浮き木に映じ、そして、汀に生える菖蒲は、やつと芽を出して、平沙の上に抽きだして、当時と少しも変りない景色である。

8)  古は水中の古木、浮木。

9)菖蒲猶短 菖蒲の芽の纔に出たばかりの状態のことを言う。いわゆる早春のころ、寒風と水が最も冷たく感じる頃を言う。

743年(71)-#1李太白集卷十六26-《送祝八之江東賦得浣紗石》(西施越溪女,) 390-#1Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(71) Ⅰ李白詩1746 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7270

李白  送祝八之江東賦得浣紗石

西施越溪女,明豔光雲海。

未入王宮殿時,浣紗古石今猶在。

桃李新開映古,菖蒲猶短出平沙
(祝八の江東にゆくを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題し、つまり、浣紗石を詠ずるその中に於て、送別の意をしめしたもの)

西施は、もと越渓に生まれた女で、その容光の明艶異常なることは、雲なす海をも照らす位のひとであった。そして未だ呉王の宮殿に入ってしまう前のとき、早春の河水に臨んで紗を浣って居たとかいっていて、そのとき常に乗っていたと伝える石が今でも残って居る。その石の邊には、桃李の花、新に咲き出でて、水中の古い浮き木に映じ、そして、汀に生える菖蒲は、やつと芽を出して、平沙の上に抽きだして、当時と少しも変りない景色である。

743年(71

送祝八之江東賦得浣紗石

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李太白集

卷十六23

390#1

Index-23-2

743年天寶二年43歳 94-71

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-71

卷別:    卷一七六              文體:    雜言古詩

詩題:    送祝八之江東賦得浣紗石

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              浣紗石 (江南東道 越州 會稽)           

交遊人物/地點:祝八          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送祝八之江東賦得浣紗石

西施越溪女,明豔光雲海。

未入王宮殿時,浣紗古石今猶在。

桃李新開映古菖蒲猶短出平沙。

(祝八の江東にゆくを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題し、つまり、浣紗石を詠ずるその中に於て、送別の意をしめしたもの)

西施は、もと越渓に生まれた女で、その容光の明艶異常なることは、雲なす海をも照らす位のひとであった。

そして未だ呉王の宮殿に入ってしまう前のとき、早春の河水に臨んで紗を浣って居たとかいっていて、そのとき常に乗っていたと伝える石が今でも残って居る。

その石の邊には、桃李の花、新に咲き出でて、水中の古い浮き木に映じ、そして、汀に生える菖蒲は、やつと芽を出して、平沙の上に抽きだして、当時と少しも変りない景色である。

(祝八の江東に之くを送り浣紗石を賦し得る)

西施は越溪の女,明豔 雲海に光る。

未だ王の宮殿に入らざる時,浣紗の古石 今 猶お在り。

桃李 新たに開いて 古,菖蒲 猶お短く 平沙を出づ

昔時紅粉照流水,今日青苔覆落花。

君去西秦適東越,碧山青江幾超忽。

若到天涯思故人,浣紗石上窺明月。

 

 

『送祝八之江東賦得浣紗石』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送祝八之江東賦得浣紗石

西施越溪女,明豔光雲海。

未入王宮殿時,浣紗古石今猶在。

桃李新開映古,菖蒲猶短出平沙
詩文(含異文)    

西施越溪女,明豔光雲海。

未入王宮殿時【來入王宮殿時】,浣紗古石今猶在【浣紗故石今猶在】。

桃李新開映古,菖蒲猶短出平沙。


(下し文)

(祝八の江東に之くを送り浣紗石を賦し得る)

西施は越溪の女,明豔 雲海に光る。

未だ王の宮殿に入らざる時,浣紗の古石 今 猶お在り。

桃李 新たに開いて 古,菖蒲 猶お短く 平沙を出づ

(現代語訳)
送祝八之江東賦得浣紗石(祝八の江東にゆくを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題し、つまり、浣紗石を詠ずるその中に於て、送別の意をしめしたもの)

西施は、もと越渓に生まれた女で、その容光の明艶異常なることは、雲なす海をも照らす位のひとであった。

そして未だ呉王の宮殿に入ってしまう前のとき、早春の河水に臨んで紗を浣って居たとかいっていて、そのとき常に乗っていたと伝える石が今でも残って居る。

その石の邊には、桃李の花、新に咲き出でて、水中の古い浮き木に映じ、そして、汀に生える菖蒲は、やつと芽を出して、平沙の上に抽きだして、当時と少しも変りない景色である。


(訳注)

送祝八之江東賦得浣紗石

(祝八の江東にゆくを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題し、つまり、浣紗石を詠ずるその中に於て、送別の意をしめしたもの)

1.   祝八 祝八の八は排行で、名字は分らない。江東は呉越の地。それから、浣紗石に就いては、太平御覧に引ける孔曄の會稽記に「勾践、美女を索め、以て呉王に献上せむとし、諸曁苧蘿山の売薪の女、西施 鄭且を得、先づ土城山に教習せしむ、山邊に石あり、云ふ是れ西施の浣紗石」とあり、太平寰宇記に「諸曁縣に苧蘿山あり、山下に石跡あり、云ふ足れ西施浣紗の所と。浣紗石、なお在り」と記してある。この詩は、祝八の江東に之くを送るにつけ、その地の名勝を選んで、各々題とした處が、李白は浣紗石を取り中で、因って、この詩を作ったので、つまり、浣紗石を詠するその中に於て、送別の意を寓したわけである。

 

西施越溪女,明豔光雲海。

西施は、もと越渓に生まれた女で、その容光の明艶異常なることは、雲なす海をも照らす位のひとであった。

2.   西施 李白が西施の語を使った詩句。

6502-06楽府烏棲曲

王宮里醉西施。

195巻五 28子夜 ( 一作子夜四時歌 ) 夏歌

鏡湖三百里。 菡萏發荷花。 五月西施采。 人看隘若耶。 回舟不待月。 歸去越王家。

210卷六5玉壺吟

世人不識東方朔。 大隱金門是謫仙。 西施宜笑復宜顰。 丑女效之徒累身。 君王雖愛蛾眉好。

218卷六13鳴皋歌送岑徵君 時梁園三尺雪

鳳孤飛而無鄰。 ()蜓嘲龍。 魚目混珍。 母衣錦。 西施負薪。 若使巢由桎梏于軒冕兮。

546卷十六49送祝八之江東賦得浣紗石

西施越溪女。 明艷光云海。 未入王宮殿時。

747巻二十一25西施

西施越溪女。 出自苧蘿山。

829巻二十三03效古二首其二

自古有秀色。 西施與東鄰。 蛾眉不可妒。 況乃效其顰。 所以尹婕妤。

945巻二十四56口號王美人半醉

風動荷花水殿香。 姑蘇台上宴王。 西施醉舞嬌無力。 笑倚東窗白玉床。

 

2)西施ものがたり  李白がよく取り上げた題材

111-1 《西施》李白index- 6 《726元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111-1> Ⅰ李白詩1290 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4998

111-2 《西施》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111-2> Ⅰ李白詩1291 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5003

3.  越溪女 呉越春秋「越王使相者於國中、得苧蘿山鬻薪之女。曰西施鄭旦。」中国四大美人と呼ばれるのは以下の女性たちである。1.西施(春秋時代)2.王昭君(漢)3.貂蝉(後漢)4.楊貴妃(唐)ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くこともある。また虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともある。・苧蘿山 苧蘿山は浙江諸縣の南五裡に在る。

4.   明豔 妖艶であるにも、ちせいゆたかに美しい姿かたち、顔だち。

5.   光雲海 遠く水平線に沸く雲を境にし、その上にぽっかりと浮かぶ雲のかがやく白さをいう。

 

未入王宮殿時,浣紗古石今猶在。

そして未だ呉王の宮殿に入ってしまう前のとき、早春の河水に臨んで紗を浣って居たとかいっていて、そのとき常に乗っていたと伝える石が今でも残って居る。

6.  王宮殿 越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。 呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。

7.   浣紗 絹を織って染め付けた布地を川で晒す、水の冷たい時に色の定着がよくなることで、春先の年中行事であり、谷間の石の上に並べて干されること、春の風物詩であることを意味する。秋は採蓮、採菱も若い娘の素足が風物詩である。李白は春秋の風物詩をおおくうたっている。

 

桃李新開映古菖蒲猶短出平沙。

その石の邊には、桃李の花、新に咲き出でて、水中の古い浮き木に映じ、そして、汀に生える菖蒲は、やつと芽を出して、平沙の上に抽きだして、当時と少しも変りない景色である。

8.   古は水中の古木、浮木。

9.   菖蒲猶短 菖蒲の芽の纔に出たばかりの状態のことを言う。いわゆる早春のころ、寒風と水が最も冷たく感じる頃を言う。

743年(70)李太白集卷十六23-《送白利從金吾董將軍西征》(西羌延國討,) 389Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(70) Ⅰ李白詩1745 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7265

李白  送白利從金吾董將軍西征

西羌延國討,白起佐軍威。劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。抗手凜相顧,寒風生鐵衣。

(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

743年(70

送白利從金吾董將軍西征

kanbuniinkai紀頌之の

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李太白集

卷十六23

389

Index-23-2

743年天寶二年43歳 94-70

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-70

卷別:    卷一七六              文體:    五言律詩

詩題:    送白利從金吾董將軍西征

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:白利          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

董將軍    詩文提及

 

 

送白利從金吾董將軍西征

(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

西羌延國討,白起佐軍威。

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。

劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。

馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。

抗手凜相顧,寒風生鐵衣。

何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

白利の金吾董將軍に從って西征するを送る)

西羌 國討を延べ,白起 軍威を佐く。

劍は決す 浮雲の氣,弓は彎く 明月の輝。

馬 行いて 邊草綠なり,旌 卷いて 曙霜飛ぶ。

手を抗げて 凜として相い顧みれば,寒風 鐵衣に生ず。

 

『送白利從金吾董將軍西征』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送白利從金吾董將軍西征

西羌延國討,白起佐軍威。

劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。

抗手凜相顧,寒風生鐵衣。
詩文(含異文)

西羌延國討,白起佐軍威。劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛【旗卷曙霜飛】。抗手凜相顧,寒風生鐵衣。


(下し文)

白利の金吾董將軍に從って西征するを送る)

西羌 國討を延べ,白起 軍威を佐く。

劍は決す 浮雲の氣,弓は彎く 明月の輝。

馬 行いて 邊草綠なり,旌 卷いて 曙霜飛ぶ。

手を抗げて 凜として相い顧みれば,寒風 鐵衣に生ず。

(現代語訳)
送白利從金吾董將軍西征(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。

かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。

馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。

何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

安史の乱期 勢力図 002長安皇城宮城00
(訳注)

送白利從金吾董將軍西征

(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

唐書百官志に「左右金吾衞上将軍各々一人、将軍各々二人」とある。董将軍は、名字不詳。この詩は、白利というものが、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送って作ったものである。

これは五言律詩で、中間両聯が叙景、即ち実事であるところに、内容が充実したように見える。それから、白起は、同姓の故を以て点醒したので、例の慣用手段である。結句二句は、邊庭苦寒の状を述べて、従軍者を勗励したものである。

 

西羌延國討,白起佐軍威。

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。

西羌 青海省は漢族からはチベット系の〈羌(きよう)〉族の住む地とされた。漢代には西羌とよばれ,西寧西方には臨羌県もおかれた。後漢には西平郡がおかれ,西寧は西都県に属し郡の治所となった。

《後漢書西羌傳》「西羌之本,出自三苗,姜姓之別也。其國近南嶽。及舜流四凶,徙之三危,河關之西南羌地是也。濱于賜支,至乎河首,撓地千里。賜支者,禹貢所謂析支者也。南接蜀、漢徼外蠻夷,西北接鄯善、車師諸國。所居無常,依隨水草。地少五穀,以牧為業。

 遅延。

白起 白 起(はく き、? - 紀元前25711月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表記される。秦国郿県(現在の陝西省眉県)の出身。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。戰國四大名將(白起、廉頗、王翦、李牧)のうち最も勇壮な将軍であった。白起は用兵を善くし,史書に “敵を料り合變す,奇に出し窮めること無し,天下に聲震す”と 記載されている。他に一生征戰37年,百戦百勝まけしらずであり,戦国六國に敵として比するものはなかった。

 

劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。

劍決浮雲氣 莊子、雜篇劍》「運之无旁,上決浮雲,下地紀。(天子の剣は、上は浮雲を決り、下は地紀(大地の根本)を断つ。)とあるのにもとづくもの。

李白《古風,五十九首之三》「秦皇掃六合。虎視何雄哉。揮劍決浮云。諸侯盡西來。明斷自天。大略駕群才。收兵鑄金人。函谷正東開。」(秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。 劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。明斷 天よりき、大略 群才を駕す。 兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。)とある。

 

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。

馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。

 

抗手凜相顧,寒風生鐵衣。

何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

抗手凜相顧 凛として身ぶるいをすることで、手をあげて拝し、相顧みつつある間に~する。抗手とは手をあげて拝することをいう。《孔叢子》卷下〈儒服〉「子高游趙, 平原君客有鄒文、 季節者與子高相友善。 及將還魯, 故人訣既畢, 文節送行, 三宿臨別, 文節流涕交頤, 子高徒抗手而已, 分背就路。」(子高趙に游ぶ, 平原君の客に鄒文、 季節という者有り、子高と相い友善し。將に魯に還らんとするに及び, 故人訣れて既に畢る, 文節 送行, 三宿別に臨み, 文節 流涕頤に交り, 子高 徒らに抗手するのみ,背を分って路に就く。)とある。

鐵衣 将軍は寒風吹く中、鐵衣を輝かして百戦百勝し、帰ってきて朝堂に坐す天子にまみえるもであるという意味の語。《樂府詩集橫吹曲辭五木蘭詩》:朔氣傳金柝, 寒光照鐵衣。”とあり、「将軍百戰死,壯士十年歸。 歸來見天子,天子坐明堂。」(將軍は百戰して死し,壯士は十年して歸える。 歸り來れば天子に見ゆ,天子明堂に坐す。)ということに基づいている。
8世紀唐と周辺国00 

743年(69)李太白集卷十六21-《送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風,) 388Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(69) Ⅰ李白詩1744 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7260

李白  送族弟綰從軍安西

漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。
(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。

743年(69)李太白集卷十六21-《送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風,) 388Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-69) Ⅰ李白詩1744 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7260


 
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年:743年天寶二年43歳 94-69

卷別:    卷一七六              文體:    七言律詩

詩題:    送族弟綰從軍安西

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              安西都護府 (隴右道西部 無第二級行政層級 安西都護府) 別名:安西幕府

葡萄宮 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:李綰          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送族弟綰從軍安西

(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。

爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。

今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。

匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。

やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。

(族弟綰の安西に從軍するを送る)

漢家の兵馬 北風に乘じ,鼓行して西し 犬戎を破る。

爾 漢將に隨って門を出でて去り,虜を剪ること草の若く奇功を收む。

君王 劍を按じて邊色を望めば,旄頭 已に落ちて 胡天空し。

匈奴 頸を繫いで 數 應に盡すべし,明年 應に入るべし 葡萄宮に。

 

『送族弟綰從軍安西』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送族弟綰從軍安西

漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。

爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。

匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。
詩文(含異文)     漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。君王按劍望邊色【君王按劍望邊邑】,旄頭已落胡天空。匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。


(下し文)
(族弟綰の安西に從軍するを送る)

漢家の兵馬 北風に乘じ,鼓行して西し 犬戎を破る。

爾 漢將に隨って門を出でて去り,虜を剪ること草の若く奇功を收む。

君王 劍を按じて邊色を望めば,旄頭 已に落ちて 胡天空し。

匈奴 頸を繫いで 數 應に盡すべし,明年 應に入るべし 葡萄宮に。

(現代語訳)
送族弟綰從軍安西(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。

汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。

今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。

やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。


(訳注)

送族弟綰從軍安西

(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

族弟綰、一に琯に作る。安西は、通典に「安西都護府は、本と亀玆國なり、大唐明慶中に置く。東、焉耆に接し、西、疏勒に連なり、南、吐蕃に鄰り、北、突厥を拒ぐ」とある。すると、この詩は、族弟李綰といふものが、従軍して安西都護府に赴くを送って作ったのである。

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漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。

漢家 唐王朝の義、中国という意。

鼓行 西域の戦いに進行する出征兵士の戦意を鼓舞する鼓。漢書 項籍傳 「我引兵鼓行而西,必舉秦矣。」(我 兵を引いて、鼓行して西せば,必ず秦を舉げん。)

犬戎 西戎のこと。西戎あるいは戎および犬戎は、四夷の一つ。中国西部に住んでいた遊牧民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。古代中国人がトルコ族・チベット族など西方の異民族を称した語。

 

爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。

 

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。

今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。

邊色 邊塞地の景色。

旄頭 星名。二十八星宿之一,白虎七宿の第四星と為す。昴星。すばるぼし(六連星:異称)おうし座17番星、戦に吉兆。(神仏詣で・祝い事・開店に吉)《漢書.卷二六.天文志》:「昴を旄頭と曰う,胡星なり,白衣の會を為す。」とある。

 

匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。

やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。

匈奴繫頸 《漢書》卷四十八《賈誼傳》「陛下何不試以臣為屬國之官以主匈奴?行臣之計,請必系單于之頸而制其命,伏中行而笞其背,舉匈奴之眾唯上之令。」(陛下 何ぞ試みに臣を以て 屬國の官と為し以て匈奴を主らさん?臣の計を行はざる,請う必ず單于の頸を系ぎて其の命を制せん,中行の伏して其の背に笞ち,匈奴の眾を舉げ唯だ之の令を上る。)とある。

葡萄宮 葡萄宮 漢の上林苑にあった宮の名、唐の御苑内の宮をいうのに天子を指すことになるので、古い呼び名をかり用いる。事実は758年乾元元年八月、回紇が其の臣骨啜特勅及び帝徳をつかわし、驍騎三千をもって安慶緒を討つことを助けさせた。天子は、朔方左武鋒便僕国懐恩をして、これを領せしめたということがある。葡萄宮:漢元帝時,單于來朝,居上林苑葡萄宮。此指回紇長安住所。

《漢書》卷九十四下《匈奴傳下》

元壽二年,單于來朝,上以太厭勝所在,舍之上林苑蒲陶宮。告之以加敬於單于,單于知之。加賜衣三百七十襲,錦繡繒帛三萬匹,絮三萬斤,它如河平時。既罷,遣中郎將韓況送單于。單于出塞,到休屯井,北度車田盧水,道里回遠。況等乏食,單于乃給其糧,失期不還五十餘日。

杜甫       06-55 洗兵馬()》「京師皆騎汗血馬,回紇喂肉葡萄宮。」(京師【けいし】皆 騎【の】る汗血【かんけつ】の馬、回紇【かいこつ】肉を喂【い】す葡萄宮【ぶどうきゅう】。)長安のみやこでも回紇(ウイグル騎馬)の兵が援助にきて彼等はみな汗血の馬に騎り、葡萄宮の役割の御苑宮城ですべて養われつつあるのである。

743年(68)李太白集卷十六18-3-《送外甥鄭灌從軍,三首之三》(月蝕西方破敵時,) 387Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(68) Ⅰ李白詩1743 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7255

李白  送外甥鄭灌從軍,三首之三

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。

743年(68

送外甥鄭灌從軍,三首之三

387

743年天寶二年43歳 94-68

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李太白集
卷十六18-3

Index-23-2

 

 
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送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

送外甥鄭灌從軍,三首之二

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の二)

丈八の蛇矛 隴西を出づ,弧を彎き 箭を拂えば 白猿啼く。

胡を破る 必ず龍韜の策を用いよ,積甲 應に熊耳と齊しかるべし。

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-68

卷別:    卷一七六              文體:    七言

詩題:    送外甥鄭灌從軍,三首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:鄭灌          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首之三

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。

斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の三)

月蝕 西方 敵を破るの時,瓜に及んで歸る日 未だ應に遲かるべからず。

胡を斬れば 血は變ず黃河の水,首を梟す 當に懸くべし 白鵲の旗。
8世紀唐と周辺国00

 

『送外甥鄭灌從軍,三首之三』現代語訳と訳註解説
(
本文)

送外甥鄭灌從軍,三首之三

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。

斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

(下し文)
(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の三)

月蝕 西方 敵を破るの時,瓜に及んで歸る日 未だ應に遲かるべからず。

胡を斬れば 血は變ず黃河の水,首を梟す 當に懸くべし 白鵲の旗。

(現代語訳)
送外甥鄭灌從軍,三首之三(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。

されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。


(訳注)

送外甥鄭灌從軍,三首之三

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

 

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。

14 月蝕 月蝕、英語: lunar eclipse)とは地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。望(満月)の時に起こる。 日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。ここでは、西域の異民族を打ち破る絶好の時期である。

15 及瓜歸日 瓜期(カキ):任期が終わった時。更代の時。→ 瓜時(カジ)。瓜の熟する時、陰暦七月。春秋、斉の襄公が連称と管至父とをして葵丘を戍(まも)らせ、瓜の熟する頃に遣して明年の瓜の熟する頃に更代(こうたい)させようと約した故事。転じて任期の満ちるとき。更代の時期。 《左傳·荘公八年》齊侯使連稱、管至父戍葵丘,瓜時而往,曰:“及瓜而代。"

 

斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。

16 梟首 斬首した人の首を木にかけてさらすこと。また、その首。

17 白鵲旗 吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗。白鵲白羽鵲。 古時以為瑞鳥。 《舊唐書五行志》「貞觀初, 白鵲巢於殿庭之槐樹, 其巢合歡如腰鼓, 左右稱賀。」

 

 安史の乱期 勢力図 002

 

 

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首 【字解】

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

前半は博戯を以て功名に此し、後半は、賭命の賭の字を以て之を受け、そして、縁起よく祝ったのである。

2 六博 紀元前後の漢時代を中心に戦国時代から魏晋時代に流行した2人用の盤上遊戯。 340cm四方の盤上で、さいころを使って各自12個の駒を進める。 盤にはアルファベットのLやTのような記号が描かれているが、複数の種類が発見されている。 駒を進めるためにはさいころを用いるが、6本の棒状のものや18面体のものが発見されている。双六のようなレースゲームであるという説と、駒を取り合う戦争ゲームであるという説がある。多くはふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれるというもの。李伯《猛虎行》「有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。」(有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。)そのとき六博の賭けごとに興じ快壯の気分になる。床を三回囘そして一回賽を投げろと連呼するのだ。”と、この詩と同じように使っている語である。

3 好彩 彩は賽の目の文を指したもので、黒白の色も以て別ち、雉犢の物を以て別つは、皆彩である。何の色といって投げ出し、そしてうまく中れば勝つので、仍って、その出た目を彩と名づけた。

4 金盤 双六の賽を投げ入れる青銅の盤。

5 一擲 一回賽を投げろと連呼する。

6 衣錦回 故郷に錦を飾る。《卷十六34送張遙之壽陽幕府》「勗爾效才略,功成衣錦還。」(爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。)一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

7 丈八蛇矛 一種矛, 長一丈八尺, 形狀像長槍。 晉書·卷一○三·劉曜載記:安左手奮七尺大刀, 右手執丈八蛇矛。”十六國春秋に「隴上の人、壮士の歌か作って日く、丈八蛇矛左右盤、十十決無當前」とある。・十蕩十決拼音:shi2 dang4 shi2 jue2 多次衝擊, 每次皆能衝破敵陣。 形容作戰驍勇。 樂府詩集·卷八十五·雜歌謠辭三·隴上歌: “驄父馬鐵鍛鞍, 七尺大刀奮如湍, 丈八蛇矛左右盤, 十蕩十決無當前。

8 隴西 隴西郡は中華人民共和国甘粛省にかつて存在した郡。漢代から隋初にかけて現在の甘肅省東南部に設置された。607年に設置された同名の隴西郡があるが、これは渭州を改称したものであり別の行政区画である。 隴西郡が初めて設置されたのは秦初に三十六郡が設置された際である。

9 彎弧 (弯弧)木の弓のこと。 《太平廣記》卷三二五引南朝梁任昉《述异記薄紹之》「有一人, 披錦袍, 彎弧注鏃, 直向紹之。」

10 拂箭 木の弓を放つ

11 白猿啼 春秋時代の弓の名人。楚の荘王・共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったともいう。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという。また共王が戦に敗れたとき、養由基は殿(しんがり)をつとめ1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。生没年未詳。養由。《淮南子》卷十六〈山訓〉「楚王有白蝯,王自射之,則搏矢而熙;使養由基射之,始調弓矯矢,未發而蝯擁柱號矣,有先中中者也。(楚王白蝯有り,王 自ら之を射れば,則ち矢を搏って熙ぶ;使養由基をして之を射らしむ,始め弓を調へ矢を矯む,未だ發せざるにして蝯 柱を擁して號ばん,先に中る有るは中る者なり。)

12 龍韜策 古代の兵法書。《六韜》と《三略》のこと。《六韜》は周の功臣太公望の著とされ,《三略》は漢の功臣張良が黄石公から授かったとされるが仮託である。兵法七書中の2を占める。六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民(けいせいさいみん)の術、富国強兵の策を説くもので、第1巻は文韜12編・武韜5編、第2巻は龍(りゅう)13編・虎韜12編・第3巻には豹(ひょう)8編・犬(けん)10編、計360編からなり、文・武では治国、龍韜は奇変、虎韜は勇猛果断、豹韜は奇計、犬韜は突進を主題としている。三略は上略・中略・下略の3巻からなり、戦略の機微を上・中・下の三つに分かち、礼賞を設けて奸雄(かんゆう)を分かち、賢者を用いて国の安危を察し、将を御(ぎょ)して衆を暢()ぶるの道を明らかにしている。わが国では、934年(承平4)大江維時(おおえのこれとき)が唐から帰朝の際に持ち帰ったと伝え、以後大江家の兵法となり、源家(げんけ)の古伝(こでん)兵法に受け継がれたという。

13 積甲應將熊耳齊 兵甲堆疊如山。極言其多。《後漢書·劉盆子傳》赤眉軍は中国の新朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。この赤眉軍を平定した、後漢書に「積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。」とある故事をいう。劉秀は宜陽に行幸し、司馬を先鋒、中軍を次鋒とし、驍騎・元戎の陣列を左右に展開した。赤眉軍は恐怖におののき、劉恭を使者として降服を願い出て、劉盆子・徐宣らの二十人あまりは着物を脱いで更始帝の璽綬を献上し、宜陽の城西に積みあげられた武具は熊耳山と同じ高さになった。

《後漢書·劉盆子傳》「赤眉忽遇大軍,驚震不知所謂,乃遣劉恭乞降曰:“盆子將百萬衆降陛下,何以待之?”帝曰:“待汝以不死耳!”丙午,盆子及丞相徐宣以下三十餘人肉袒降,上所得傳國璽綬。積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。後漢書に「赤眉、忽ち大軍に遇ひ、驚震、為すところを知らず、乃ち劉恭を遣わして降を乞う。兵甲を宜陽城西に積んで、熊耳山と斉し」とある。

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李白  送外甥鄭灌從軍,三首之二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

743年(67

送外甥鄭灌從軍,三首之二

386

743年天寶二年43歳 94-67

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李太白集
卷十六18-2

Index-23-2

 

 
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送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

 

年:743年天寶二年43歳 94-67) 

卷別:    卷一七六              文體:    七言

詩題:    送外甥鄭灌從軍,三首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              隴西 (隴右道東部 渭州 隴西)           

熊耳山 (都畿道 河南府 熊耳山)       

交遊人物/地點:鄭灌          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首之二

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の二)

丈八の蛇矛 隴西を出づ,弧を彎き 箭を拂えば 白猿啼く。

胡を破る 必ず龍韜の策を用いよ,積甲 應に熊耳と齊しかるべし。

 

『送外甥鄭灌從軍,三首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送外甥鄭灌從軍,三首之二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

(下し文)
(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の二)

丈八の蛇矛 隴西を出づ,弧を彎き 箭を拂えば 白猿啼く。

胡を破る 必ず龍韜の策を用いよ,積甲 應に熊耳と齊しかるべし。


(現代語訳)
送外甥鄭灌從軍,三首之二(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。


(訳注)

送外甥鄭灌從軍,三首之二

送外甥鄭灌從軍,三首之二

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

【餘論】この首は、毎句に故事を用いて居るが、善く融化して、少しも、わざとらしい處のないのは、

 

 

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

7 丈八蛇矛 一種矛, 長一丈八尺, 形狀像長槍。 晉書·卷一○三·劉曜載記:安左手奮七尺大刀, 右手執丈八蛇矛。”十六國春秋に「隴上の人、壮士の歌か作って日く、丈八蛇矛左右盤、十十決無當前」とある。・十蕩十決拼音:shi2 dang4 shi2 jue2 多次衝擊, 每次皆能衝破敵陣。 形容作戰驍勇。 樂府詩集·卷八十五·雜歌謠辭三·隴上歌: “驄父馬鐵鍛鞍, 七尺大刀奮如湍, 丈八蛇矛左右盤, 十蕩十決無當前。

8 隴西 隴西郡は中華人民共和国甘粛省にかつて存在した郡。漢代から隋初にかけて現在の甘肅省東南部に設置された。607年に設置された同名の隴西郡があるが、これは渭州を改称したものであり別の行政区画である。 隴西郡が初めて設置されたのは秦初に三十六郡が設置された際である。

9 彎弧 (弯弧)木の弓のこと。 《太平廣記》卷三二五引南朝梁任昉《述异記薄紹之》「有一人, 披錦袍, 彎弧注鏃, 直向紹之。」

10 拂箭 木の弓を放つ

11 白猿啼 春秋時代の弓の名人。楚の荘王・共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったともいう。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという。また共王が戦に敗れたとき、養由基は殿(しんがり)をつとめ1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。生没年未詳。養由。《淮南子》卷十六〈山訓〉楚王有白蝯,王自射之,則搏矢而熙;使養由基射之,始調弓矯矢,未發而蝯擁柱號矣,有先中中者也。(楚王白蝯有り,王 自ら之を射れば,則ち矢を搏って熙ぶ;使養由基をして之を射らしむ,始め弓を調へ矢を矯む,未だ發せざるにして蝯 柱を擁して號ばん,先に中る有るは中る者なり。)

 

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

12 龍韜策 古代の兵法書。《六韜》と《三略》のこと。《六韜》は周の功臣太公望の著とされ,《三略》は漢の功臣張良が黄石公から授かったとされるが仮託である。兵法七書中の2を占める。六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民(けいせいさいみん)の術、富国強兵の策を説くもので、第1巻は文韜12編・武韜5編、第2巻は龍(りゅう)13編・虎韜12編・第3巻には豹(ひょう)8編・犬(けん)10編、計360編からなり、文・武では治国、龍韜は奇変、虎韜は勇猛果断、豹韜は奇計、犬韜は突進を主題としている。三略は上略・中略・下略の3巻からなり、戦略の機微を上・中・下の三つに分かち、礼賞を設けて奸雄(かんゆう)を分かち、賢者を用いて国の安危を察し、将を御(ぎょ)して衆を暢()ぶるの道を明らかにしている。わが国では、934年(承平4)大江維時(おおえのこれとき)が唐から帰朝の際に持ち帰ったと伝え、以後大江家の兵法となり、源家(げんけ)の古伝(こでん)兵法に受け継がれたという。

13 積甲應將熊耳齊 兵甲堆疊如山。極言其多。《後漢書·劉盆子傳》赤眉軍は中国の新朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。この赤眉軍を平定した、後漢書に「積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。」とある故事をいう。劉秀は宜陽に行幸し、司馬を先鋒、中軍を次鋒とし、驍騎・元戎の陣列を左右に展開した。赤眉軍は恐怖におののき、劉恭を使者として降服を願い出て、劉盆子・徐宣らの二十人あまりは着物を脱いで更始帝の璽綬を献上し、宜陽の城西に積みあげられた武具は熊耳山と同じ高さになった。

《後漢書·劉盆子傳》「赤眉忽遇大軍,驚震不知所謂,乃遣劉恭乞降曰:“盆子將百萬衆降陛下,何以待之?”帝曰:“待汝以不死耳!”丙午,盆子及丞相徐宣以下三十餘人肉袒降,上所得傳國璽綬。積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。後漢書に「赤眉、忽ち大軍に遇ひ、驚震、為すところを知らず、乃ち劉恭を遣わして降を乞う。兵甲を宜陽城西に積んで、熊耳山と斉し」とある。

 

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首 【字解】

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

前半は博戯を以て功名に此し、後半は、賭命の賭の字を以て之を受け、そして、縁起よく祝ったのである。

2 六博 紀元前後の漢時代を中心に戦国時代から魏晋時代に流行した2人用の盤上遊戯。 340cm四方の盤上で、さいころを使って各自12個の駒を進める。 盤にはアルファベットのLやTのような記号が描かれているが、複数の種類が発見されている。 駒を進めるためにはさいころを用いるが、6本の棒状のものや18面体のものが発見されている。双六のようなレースゲームであるという説と、駒を取り合う戦争ゲームであるという説がある。多くはふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれるというもの。李伯《猛虎行》「有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。」(有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。)そのとき六博の賭けごとに興じ快壯の気分になる。床を三回囘そして一回賽を投げろと連呼するのだ。”と、この詩と同じように使っている語である。

3 好彩 彩は賽の目の文を指したもので、黒白の色も以て別ち、雉犢の物を以て別つは、皆彩である。何の色といって投げ出し、そしてうまく中れば勝つので、仍って、その出た目を彩と名づけた。

4 金盤 双六の賽を投げ入れる青銅の盤。

5 一擲 一回賽を投げろと連呼する。

6 衣錦回 故郷に錦を飾る。《卷十六34送張遙之壽陽幕府》「勗爾效才略,功成衣錦還。」(爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。)一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

743年(66)李太白集卷十六18-1-《送外甥鄭灌從軍,三首之一》(六博爭雄好彩來,) 385Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(66) Ⅰ李白詩1741 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7245

李白  送外甥鄭灌從軍,三首之一

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。
(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

743年(66

送外甥鄭灌從軍,三首之一

385

743年天寶二年43歳 94-66

kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7245

李太白集
卷十六18-1

Index-23-2

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-66

卷別:    卷一七六              文體:    七言

詩題:    送外甥鄭灌從軍,三首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:鄭灌          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

京兆地域図002 

『送外甥鄭灌從軍,三首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送外甥鄭灌從軍,三首之一

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

(下し文)

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

(現代語訳)
送外甥鄭灌從軍,三首之一(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

大明宮の圖003
(訳注)

送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

前半は博戯を以て功名に此し、後半は、賭命の賭の字を以て之を受け、そして、縁起よく祝ったのである。

 

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

2 六博 紀元前後の漢時代を中心に戦国時代から魏晋時代に流行した2人用の盤上遊戯。 340cm四方の盤上で、さいころを使って各自12個の駒を進める。 盤にはアルファベットのLやTのような記号が描かれているが、複数の種類が発見されている。 駒を進めるためにはさいころを用いるが、6本の棒状のものや18面体のものが発見されている。双六のようなレースゲームであるという説と、駒を取り合う戦争ゲームであるという説がある。多くはふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれるというもの。李伯《猛虎行》「有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。」(有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。)そのとき六博の賭けごとに興じ快壯の気分になる。床を三回囘そして一回賽を投げろと連呼するのだ。”と、この詩と同じように使っている語である。

3 好彩 彩は賽の目の文を指したもので、黒白の色も以て別ち、雉犢の物を以て別つは、皆彩である。何の色といって投げ出し、そしてうまく中れば勝つので、仍って、その出た目を彩と名づけた。

4 金盤 双六の賽を投げ入れる青銅の盤。

5 一擲 一回賽を投げろと連呼する。

 

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

6 衣錦回 故郷に錦を飾る。《卷十六34送張遙之壽陽幕府》「勗爾效才略,功成衣錦還。」(爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。)一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

743年(65)李太白集卷十六13-《送張遙之壽陽幕府》(壽陽信天險,) 384-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(65) Ⅰ李白詩1740 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7240

李白  送張遙之壽陽幕府 #2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。勗爾效才略,功成衣錦還。

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しえの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

743年(65)李太白集卷十六13-《送張遙之壽陽幕府》(壽陽信天險,) 384-#2Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-65) Ⅰ李白詩1740 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7240

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-65

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送張遙之壽陽幕府

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              壽州 (淮南道 壽州 壽州) 別名:壽陽             

八公山 (淮南道 壽州 八公山)           

交遊人物/地點:張遙          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

#2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しえの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。

投軀紫髯將,千里望風顏。

かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。

勗爾效才略,功成衣錦還。

一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

 

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。

#2

戰夫 熊虎の若く,敵を破って餘閒有り。

張子 勇にして且つ英,少にして 輕んず衛霍の孱なるを。

軀を投ず 紫髯の將,千里 風顏を望む。

爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。

 

『送張遙之壽陽幕府』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。

勗爾效才略,功成衣錦還。

(下し文)
#2

戰夫 熊虎の若く,敵を破って餘閒有り。

張子 勇にして且つ英,少にして 輕んず衛霍の孱なるを。

軀を投ず 紫髯の將,千里 風顏を望む。

爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。

(現代語訳)
#2

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。

ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しえの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。

かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。

一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。


(訳注) #2

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

《新唐書·卷三十一·地理五》:「壽州壽春郡,中都督府。本淮南郡,天寶元年更名。」「淮南道に壽州あり、壽春羣・蓋寿都中都督府、本と淮南部、天寶元年、名を更む」とある。王琦の説に「按するに、壽春の名は、本と戦国よりす。史記楚世家、考烈王、都を壽春に徙す。正義に日く、壽春は南壽州縣に在りと。是れなり。壽陽の名は、東晉より起る。通典、東晋、鄭皇后の諱を以て、壽春を改めて壽陽といひ、宜春を宜陽といひ、富春を富陽といひ、凡そ春と名がつくるものは、悉く之を改む。唐時、壽春と名づけ、太白壽陽を用ふるは、蓋し旧名を襲用するのみ」といった。それから、幕府は、史記索隠に「凡そ将軍、これを幕府と謂うは、蓋し兵門合わせて帷帳を施す、故に幕府と称す。崔浩日く、古しへ出征して将帥たり、軍、還れば罷む、理、常處なし、幕奕を以て府署となす、故に幕府といふ」とある。すると、この詩は、張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作ったのである。

前八句は壽春が故事、後六句は迭別の正意で、両者の関係は、自然緊密である。

壽陽幕府 

壽陽、現在の寿県のこと。安徽省淮南市に位置する県である。安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。楚は秦の圧力に対抗するため、春申君の提言で寿春へ遷都し、寿春を「郢」と改める。楚の都城の遺跡は現在の寿県県城内にある。楚の滅亡後、秦代には寿春に改名され、三十六郡のひとつ九江郡の治所となった。漢の初期のころは外姓王の英布が淮南王に封じられその王都となっている。淮南王であった劉安はこの地で『淮南子』を著した。後漢末期、袁術は寿春を都に皇帝を称した。三国時代の魏の後期には相次いで大きな兵変が発生した。

東晋の時代、華北を制した前秦が南征を行い、寿春の八公山に至り淝水で東晋軍と激突した。これが淝水の戦いであり、前秦軍が総崩れになり壊走した。「投鞭断流」、「風声鶴唳」、「草木皆兵」などの故事成語はこの戦いが起源である。

隋および唐は寿春を寿州と改名した。当時、この地で興った「壽州窯」は古代中国の著名な陶器の生産地で、その産品は南北の風格を兼ね備え、朝野に広く受け容れられた。

 

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。

熊虎 戦う姿が熊虎の様で、軀命を惜しまずというもの。

 

張子勇且英,少輕衛霍孱。

ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しへの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。

張子 張遥のこと。

衛霍孱 衛青、霍去病のこと。孱は、孱弱ということ。弱々しいこと。かよわいこと。また、そのさま。

去病 紀元前140 - 紀元前117年、Huò Qù-bìng)は、前漢の武帝時代の武将である。 父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。

衛青は幼少時の苦労から、将軍になっても威張るようなことはなく、兵卒にも気軽に接していた。また、自殺に追い込んでしまった李広に負い目を感じてか、李広の息子の李敢に切りつけられても黙っていた(しかし霍去病はこれを聞きつけ怒り、李敢を殺害した)。

 

投軀紫髯將,千里望風顏。

かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。

紫髯將 現在では孫権のことを「碧眼紫髯」と形容しているが、紫髯將というのがただしい。「献帝春秋」で張遼が孫権を「紫髯将軍」と述べている。

張遼 《献帝春秋》「張遼問降人、向有紫髯将軍、長上短下、便馬善射、是誰。降人答曰、是孫会稽。

 

勗爾效才略,功成衣錦還。

一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

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李白  送張遙之壽陽幕府

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬,遙阻八公山。

不假築長城,大賢在其間。
(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-65

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送張遙之壽陽幕府

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              壽州 (淮南道 壽州 壽州) 別名:壽陽             

八公山 (淮南道 壽州 八公山)           

交遊人物/地點:張遙          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

#2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。

勗爾效才略,功成衣錦還。

 

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。

#2

戰夫 熊虎の若く,敵を破って餘閒有り。

張子 勇にして且つ英,少にして 輕んず衛霍の孱なるを。

軀を投ず 紫髯の將,千里 風顏を望む。

爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。

 

『送張遙之壽陽幕府』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送張遙之壽陽幕府

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬,遙阻八公山。

不假築長城,大賢在其間。

(下し文)

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。

(現代語訳)
送張遙之壽陽幕府(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。


(訳注)

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

前八句は壽春が故事、後六句は迭別の正意で、両者の関係は、自然緊密である。

壽陽幕府 

壽陽、現在の寿県のこと。安徽省淮南市に位置する県である。安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。楚は秦の圧力に対抗するため、春申君の提言で寿春へ遷都し、寿春を「郢」と改める。楚の都城の遺跡は現在の寿県県城内にある。楚の滅亡後、秦代には寿春に改名され、三十六郡のひとつ九江郡の治所となった。漢の初期のころは外姓王の英布が淮南王に封じられその王都となっている。淮南王であった劉安はこの地で『淮南子』を著した。後漢末期、袁術は寿春を都に皇帝を称した。三国時代の魏の後期には相次いで大きな兵変が発生した。

東晋の時代、華北を制した前秦が南征を行い、寿春の八公山に至り淝水で東晋軍と激突した。これが淝水の戦いであり、前秦軍が総崩れになり壊走した。「投鞭断流」、「風声鶴唳」、「草木皆兵」などの故事成語はこの戦いが起源である。

隋および唐は寿春を寿州と改名した。当時、この地で興った「壽州窯」は古代中国の著名な陶器の生産地で、その産品は南北の風格を兼ね備え、朝野に広く受け容れられた。

 

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

壽陽 陽城。太平寰宇記「陽城臨淝水、北有八/公山、山北即淮水、自東晉至今、常為 要害之地。」陽城は淝水に臨み、北に八公山り、山北 即ち淮水 東晉より今に至るまで 常に要害の地為り。)とある。

信天險 まことに天に何もなく広がる青空の中でただ一つ鋭くたっている姿を言う。

天險橫荊關 その天険の地は、南方の楚地、荊門から続く天然の要害の地によって、まもられている。

 

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

苻堅百萬眾 淝水の戦いをいう。3838月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万と号する東晋討伐の軍を起こした。前秦軍は苻融の軍が寿春を落とすなど優勢だったが、漢族将軍でかつての東晋の梁州刺史朱序が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・謝石らに動揺した隙を突かれて大敗した。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の苻融と共に鮮卑族の慕容垂の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した。《十六國春秋》 秦遣兵分道、寇晉  八月,以苻融為前鋒都督,指揮慕容垂等步騎二十五萬先行,苻堅隨後繼發,戎卒六十餘萬,騎二十七萬,旗鼓相望,前後千里。晉以以謝石為前線大都督,謝玄為先鋒,並謝琰、桓伊等人,領八萬兵馬,分三路迎擊前秦軍。」

八公山 《江南通志》「八公山,在壽陽城北五里、在淝北淮南,亦名北山。峽石山西北夾淮為險,在西岸為峽石,在東岸為壽陽山。」(八公山は,壽陽城北五里に在り,淝北淮南に在り,亦たの名を北山という。峽石山の西北は夾淮 險を為し,西岸は峽石を為す在り,東岸は壽陽山を為す在る。)

 

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

大賢在其間 淝水の戦いにおける謝玄・謝石のことをいう。

743年(64)李太白集卷十六10-《送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》(安西幕府多材雄,) 383Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(64) Ⅰ李白詩1738 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7230

李白  送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-64

卷別:    卷一七六              文體:    七言古詩

詩題:    送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              安西都護府 (隴右道西部 無第二級行政層級 安西都護府) 別名:安西、安西幕府交遊人物/地點:程侍郎           當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

劉眺         當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

獨孤峻     當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。

繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。

今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。

天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。

(程・劉二侍郎の獨孤判官と安西幕府に赴くを送る)

安西の幕府 材雄多し,喧喧 惟だ道う 三數公。

繡衣 貂裘 積雪よりも明かに,書を飛ばし 檄を走らすこと 飄風の如し。

朝 明主を辭して 紫宮を出で,銀鞍 別を送って 金城空し。

天外の飛霜 蔥海に下り,火旗雲馬 光彩を生ず。

胡塞 塵を清めて 幾日か歸る,漢家 草綠にして遙に相い待つ。

 

大明宮の圖003 

『送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。

繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。

天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

(下し文)
(程・劉二侍郎の獨孤判官と安西幕府に赴くを送る)

安西の幕府 材雄多し,喧喧 惟だ道う 三數公。

繡衣 貂裘 積雪よりも明かに,書を飛ばし 檄を走らすこと 飄風の如し。

朝 明主を辭して 紫宮を出で,銀鞍 別を送って 金城空し。

天外の飛霜 蔥海に下り,火旗雲馬 光彩を生ず。

胡塞 塵を清めて 幾日か歸る,漢家 草綠にして遙に相い待つ。

(現代語訳)
送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。

三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。

今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。

これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。

かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。

安史の乱期 勢力図 002
(訳注)

送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

舊唐書封常清傳に「開元の末、安西四鎭節度使夫蒙靈詧判官に劉眺・獨孤峻あり」と見えて居るから、劉侍御、獨孤判官は大方その人であらう。但し、程は何人だか、わからない。

通鑑唐紀に「安西節度は、西域を撫寧し、龜玆、焉耆、于、疎勒の四鎭を統べ、龜玆城に治す、兵二万四千」とある。

この詩は、侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するを送って作ったのである。

起首四句は、三人の人物を写し、朝辭の二句は、送別の有様、天外の二句は、途中の光景を想像し、胡塞の二句は、その帰京の早からむことを嘱望したのである。

 

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。

安西幕府 安西都護府の地方、安西は新疆省庫車、唐代におかれた六都護府の一つ。辺境警備・周辺諸民族統治などのために置かれた軍事機関。都護府の長官は都護と呼ばれていた。

三數公 侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻。

 

繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。

繍衣 漢書に「侍御史に繍衣直指あり」と記し、顔師古の註に「衣するに繍を以てするは、これを尊重するなり」とある。

飛書走檄 西京雜記に「枚皐文章敏疾」とあり、揚子法言に「軍族の際、戎鳥の間、飛書馳檄には枚皐を用ふ」とある。

 

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。

今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。

紫薇 紫微垣、即ち紫微宮、天子の居るところ。古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣。天の北極を中心とした広い天区。あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。「紫禁城」の「紫」もこれに基づく。

金城 長安城、。

 

天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。

葱海 諷典に「安西郡、西、凍勒乳讐軍に至る三千里、葱洩忘去る七百里」とあり、涼州異物志に「葱譲の水、東西lこ分流し、西に大海に入り、束は河浦となるJとある。

火旗 旗の赤くして火に似たるわいふ。 

雲馬 馬の多くして雷に似たるむいふ。

 

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。
8世紀唐と周辺国00 

743年(63)李太白集卷十六08-《送竇司馬貶宜春》(天馬白銀鞍,) 382Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(63) Ⅰ李白詩1737 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7225

李白  送竇司馬貶宜春

天馬白銀鞍,親承明主歡。鬥雞金宮裡,射雁碧雲端。

堂上羅中貴,歌鍾清夜闌。何言謫南國,拂劍坐長歎。

趙璧為誰點,隋珠枉被彈。聖朝多雨露,莫厭此行難。

(竇某が何か罪を得て、宜春の司馬に貶せられ、いよいよ赴任するに際し、慰藉の意を寓して、その行を送った詩)

今まで、君は、天馬に白銀の鞍を置いて、得意に乗りまわし、しずしずと入朝して、親しく明主の歓心を承けていた。そして、鶏を金宮の庭裏に闘わしたり、雁を碧雲の端より射落したりして、天子の御側に奉仕してきた。それから、家に還れば、堂上に中貴人の輩を列坐せしめ、歌鐘に興を添へで.晴夜、すでに闌にならむとする頃に及び、まことに富貴栄華を極めて居た。しかも、どうして罪に問われたのかわからず、一朝罪を得て、遠く南方の宜春に貶謫せられるということであるが、覚悟のうえで、剣を彿って長嘆し、感慨に堪へぬ有様であるが、潔くいかれるであろう。君の才彼を以てして、今次の貶謫に遭遇したのは、たとえば、莊子が言う、趙に伝わる“和氏の璧”が何者かに汚され、“随侯の明珠を以て、雀か何かを弾ずる”ようなもので、まことに、不幸の至である。しかし、聖明の世には雨露多く、いづれ遠からぬ内に、一切の事がわかって、召し還されるに相違ないから、この貶謫の行の困難を厭わず、何事も運命と諦めて、兎に角、出かけたら善かろう。

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