盛唐詩 尋天台山 孟浩然<31> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -338
☆前集巻上、勝蹟録巻一
★唐百、方外志巻27、全唐詩巻160、古今巻125
卷160_49 「尋天臺山」孟浩然
尋天台山
吾友太乙子,餐霞臥赤城。
太乙先生はわが友でもある。仙界のように霞を食らって赤城山(天台山)を住処としている。
欲尋華頂去,不憚惡溪名。
私も隠棲生活の最高峰の華頂峰を尋ねていこう。そこが、昔から、悪渓と呼ばれるところであるということは一向に構わないことである。
歇馬憑雲宿,揚帆截海行。
かくして雲に乗ったような奥深い所で馬を憩わせ、帆をあげて海を断ち切って渡っていく。
高高翠微裏,遙見石樑橫。
高く聳える山の中腹になかにある、それは遙かなところに石橋が滝のうえに横たわっているのが見える。
(天台山を尋ぬ)
吾が友太乙子、霞を飡ひて赤城に臥す。
華頂を尋ね去らんと欲す、悪谿の名を憚らずして。
馬を歇す雲に憑りし宿に、帆を揚げて海を截ちて行く。
高高たる翠微の裏、遙に見る石梁の橫たわるを。
現代語訳と訳註
(本文) 尋天台山
吾友太乙子,餐霞臥赤城。
欲尋華頂去,不憚惡溪名。
歇馬憑雲宿,揚帆截海行。
高高翠微裏,遙見石樑橫。
(下し文) (天台山を尋ぬ)
吾が友太乙子、霞を飡ひて赤城に臥す。
華頂を尋ね去らんと欲す、悪谿の名を憚らずして。
馬を歇す雲に憑りし宿に、帆を揚げて海を截ちて行く。
高高たる翠微の裏、遙に見る石梁の橫たわるを。
(現代語訳)
太乙先生はわが友でもある。仙界のように霞を食らって赤城山(天台山)を住処としている。
私も隠棲生活の最高峰の華頂峰を尋ねていこう。そこが、昔から、悪渓と呼ばれるところであるということは一向に構わないことである。
かくして雲に乗ったような奥深い所で馬を憩わせ、帆をあげて海を断ち切って渡っていく。
高く聳える山の中腹になかにある、それは遙かなところに石橋が滝のうえに横たわっているのが見える。
(訳注)
吾友太乙子,餐霞臥赤城。
太乙先生はわが友でもある。仙界のように霞を食らって赤城山(天台山)を住処としている。
○餐霞 中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人、羽人、僊人ともするものが誤解されがちではあるがこの場合の霞とは朝日と夕日のことを指しており、逆に霧や本当の霞などは食べてはいけないものとされている。自然への同化をいうものである。
欲尋華頂去,不憚惡溪名。
私も隠棲生活の最高峰の華頂峰を尋ねていこう。そこが、昔から、悪渓と呼ばれるところであるということは一向に構わないことである。
○惡溪 固有名詞ならば、浙江省の川。「元和郡県志」巻二六には、急流や瀬の連続であったので悪渓と呼ばれていたのを、隋の開皇中に「麗水」に改めたという。また「新唐書」地理志では、水怪が多いため悪渓と呼ばれていたが、段成式が善政を布いたところ、水怪が去った。そこで民は好渓と呼ぶようになったという。孔子が盗泉の名をはばかってその水を飲まなかったが、自分は天台山を思慕してやまないので、孔子とは異なって悪渓という名をはばからないのだ、ということである。儒者の行為、考え方を否定するというもの。
歇馬憑雲宿,揚帆截海行。
かくして雲に乗ったような奥深い所で馬を憩わせ、帆をあげて海を断ち切って渡っていく。
○歇馬 馬を休ませる、あるいは休んでいる馬。庾信「帰田詩」に「樹陰逢歇馬、魚潭見酒船(木陰では休んでいる馬がおり、魚の潜む深い淵には酒を運ぶ船が見える)」とある。李白『奔亡道中五首』「歇馬傍春草、欲行遠道迷」(馬を歇(とど)めて春草(しゅんそう)に傍(そ)い、行かんと欲して遠道(えんどう)に迷う)○憑雲 謝恵連「雪賦」(「文選」巻一三)に「憑雲陞降、從風飄零(雲に乗って上下し、風に吹かれて漂い落ちる)」とある。○揚帆…謝霊運「遊赤意志進航海」に「揚帆采石華、挂席拾海月」とある。孫綽『遊天台山賦』に「赤城霞起以建標」とある。赤城山は赤土の砂礫が層をなしており、あたかも城壁の如くであるのでこの名がある。また唐徐霊府「天台山記」には「石色赩然如朝霞(その石が赤く輝いていて朝焼けのようである)」とあり、朝靄夕霞が漂い纏うのも、この山にまつわる慣用的表現である。
高高翠微裏,遙見石樑橫。
高く聳える山の中腹になかにある、それは遙かなところに石橋が滝のうえに横たわっているのが見える。
○翠微 青い山々に靄が立ち込めているさま。山の八合目あたり。萌黄いろ。男女のことを示唆するばあいもある。○石樑 天台山の中腹にある石橋の下から流れ落ちる滝があることをいう。
『舟中曉望』
掛席東南望,青山水國遙。
舳艫爭利涉,來往接風潮。
問我今何去,天臺訪石橋。
坐看霞色曉,疑是赤城標。
■解説
五言律詩。
韻字 「城・名・行・横」
天台山に太乙子という道士を訪ねて。孟浩然が天台山を訪れたのは、この道士に会いに行くことも目的の一つであったのだろう。太一子については何も分かっていない。孟浩然の天台山訪問が、730年開元十八年頃で、司馬承禎が天台山を去ったのが727年同十五年である。司馬承禎門下の道士たちがまだたくさん残っている。そうした人々の中の一人に、孟浩然が接見したのである。既に親交があったものだ。この詩は天台山訪問を、全体的に振り返って書いたものであろう。
| 尋天台山
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舟中曉望 (舟中にて曉に望む) |
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