秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。
秋浦歌十七首 其三 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集247/350
秋浦歌は李白の人生への思いが込められているものである。その二で「青渓は朧水に非ざるに 翻って断腸の流れを作す」は古楽府にある詩句を踏まえ、また、李白自身が「古風 其二十二 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白181参照)で「秦水 朧首に別れ 幽咽して悲声多し」と詠っている。杜甫も前出塞九首 其三 杜甫 で隴山のことを詠っている。
先行き不安な時期に唄っている。現代人にとって「人生」を考えるにつけて、この頃の李白の詩は参考になるものが多い。
秋浦歌十七首其三
秋浦錦駝鳥。 人間天上稀。
山雞羞淥水。 不敢照毛衣。
ここ秋浦に錦の駝鳥がいる、人の世に、いや、天上をふくめてもこの美しさは稀というものだ。
さすがの山鶏も、この清らかな水の前で恥ずかしくなって、自分の羽毛をうつして見ることをできはしないだろう。
秋浦の錦鄞鳥(きんぎんちょう)、人間(じんかん) 天上に稀なり。
山鶏(さんけい) 淥水(ろくすい)に羞じ、敢えて毛衣(もうい)を照らさず。
現代語訳と訳註
(本文) 其三
秋浦錦駝鳥、人間天上稀。
山雞羞淥水、不敢照毛衣。
(下し文) 秋浦の歌 十七首 其の三
秋浦の錦鄞鳥(きんぎんちょう)、人間(じんかん) 天上に稀なり。
山鶏(さんけい) 淥水(ろくすい)に羞じ、敢えて毛衣(もうい)を照らさず。
(現代語訳)
ここ秋浦に錦の駝鳥がいる、人の世に、いや、天上をふくめてもこの美しさは稀というものだ。
さすがの山鶏も、この清らかな水の前で恥ずかしくなって、自分の羽毛をうつして見ることをできはしないだろう。
秋浦歌十七首 其三 (訳注)
秋浦錦駝鳥、人間天上稀。
ここ秋浦に錦の駝鳥がいる、人の世に、いや、天上をふくめてもこの美しさは稀というものだ。
○錦軒鳥 錦の羽毛をもつダチョウ。
山雞羞淥水、不敢照毛衣。
さすがの山鶏も、この清らかな水の前で恥ずかしくなって、自分の羽毛をうつして見ることをできはしないだろう。
○山鶏 錦鶏(きんけい)。キジ科の鳥。自分の美しい羽毛の色を愛し、終日水に映して自分の影に見とれ、しまいに目がくらんで溺れ死ぬという。○淥水 みどりの水。澄んだ川や湖。
李白10 採蓮曲
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(解説)
貴族、富豪のものは権力と資力により、美女を集めることができる。この頃の潘鎮は君王化していた。中央の王朝の命をも拒絶するものが出始めていた。贅を治めないものも出始め、これを抑えるため、節度使を設置したり、潘鎮同士を互いにけん制させることを行った。山鳥はまさに地方に君臨する潘鎮のことである。権力者はさらに強い権力者には弱いものであるということである。
美人についてもいえる、上には上がいるということ、でもその最上級の美人であっても年老いて、その地位を後退せざるを得ないのである。
李白は足かけ3年の朝廷生活で、権力者の頽廃ぶりを目にして、特に李林甫の末路を学習したのである。
一般論ではあるが、この詩の山鷄を李白自身のことと比喩しているとの解説を見かけるが、悲観的な見方であり、間違いである。
自分の人生光を、が、不安であるのではなく、この詩句にいうのは、王朝の行く末が不安なのである。野心はあっても欲がないのが李白である。杜甫とはすこし違った詩人の矜持を感じる。