漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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ずいぶん回復してきました。(12/10)
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

内別赴徴

内別赴徴 三首 其三 :李白

内別赴徴 三首 其三:李白124
この詩は蜀にいる女性のため未詠ったのだろうか
 
其三
翡翠為樓金作梯、誰人獨宿倚門啼。
翡翠の楼閣に黄金の梯子で住んでいる後宮の宮妓もまつものである、門に佇み自分ひとり、嘆いて泣くのは誰であろう。
夜坐寒燈連曉月、行行淚盡楚關西。

夜は寒灯の下で暁の月の照らすまで泣きぬれ、さめざめと泣いて涙は尽きてしまうであろう、あの遠い楚の関所の西の方で妻は。


翡翠の楼閣に黄金の梯子で住んでいる後宮の宮妓もまつものである、門に佇み自分ひとり、嘆いて泣くのは誰であろう。
夜は寒灯の下で暁の月の照らすまで泣きぬれ、さめざめと泣いて涙は尽きてしまうであろう、あの遠い楚の関所の西の方で妻は。



翡翠(ひすい) 楼と為(な)し 金 梯(てい)と作すとも
誰人(だれひと)か独宿して  門に倚(よ)りて啼(な)く
夜泣きて寒燈(かんとう)  暁月(ぎょうげつ)に連なり
行行(こうこう)涙は尽く  楚関(そかん)の西



翡翠為樓金作梯、誰人獨宿倚門啼。

翡翠の楼閣に黄金の梯子で住んでいる後宮の宮妓もまつものである、門に佇み自分ひとり、嘆いて泣くのは誰であろう。
翡翠 後宮の飾りに使われるもの。○ 楼閣。 ○金作梯 楼閣に上がる階段の手すりなどの飾りを金で作る。 ○誰人 後宮で待つ宮妓をさしながら、李白、李白を待つ妻をさす。 ○獨宿 李白とその妻。 ○倚門啼 それぞれにそれぞれの角先で啼く。
後宮の女の人でも待ち続け、啼いているのだ。


夜坐寒燈連曉月、行行淚盡楚關西。
夜は寒灯の下で暁の月の照らすまで泣きぬれ、さめざめと泣いて涙は尽きてしまうであろう、あの遠い楚の関所の西の方で妻は。
寒燈 一人で蝋燭をつけることをいう。旅人の一人寝の場合に使われることが多い。 ○連曉月 月が出てから明け方まで続いていることを表現している。 ○行行 行動の継続を意味する。 ○楚關西 楚の関所の西の位置。地図で示す通り襄陽のあたりがその中心で、南陵あたりは、越というのが李白の表現ではあるが。
戦国時代勢力図

 三首の詩の中で一首目の場所を示すものとして、吳關、三首目に楚關西と場所が違う。楚の関所の西ということであれば、李白は巴という言い方をしている。はたして、巴の女ということか。それとも襄陽、安陸の人か。南陵であってもおかしくはない。
李白は何人かいる女性のそれぞれの別れに対してそれぞれ誰にも会う別れの詩を詠ったのではなかろうか。場所の特定をしないで関所を示している。これだと、どこの女性も自分のことと思うのではなかろうか。
いずれにしても、この詩は、留守中の妻のことを思ってのものであるが、李白自身も、妻同様やはり寂しい思いに駆られ涙したのであろう。

三国鼎立時代の勢力図


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内別赴徴 三首 其二  李白

内別赴徴 三首 其二李白123

この詩は、妻に出立のときの心意気を示したものである。
一般的にこの詩の解釈として、“妻子のいつ帰ってくるかという問いに対して、「大臣・大将の位になって帰ってきたら、少しは丁重に出迎えてくれよ」といって、その心意気を示すとともに、やや妻に向かってからかっているかのごとくでもある“というものであるが私は違うと思う。女子の文盲率の高かった時代、故事の喩はその説明を詳しくしてあげないといけないわけで、妻子を題材にしていても妻に対しての詩ではないのである。では誰に対しての詩か、それは男社会に対して、「俺はこんな風に妻との別れをしたのだよ」というものである。それを踏まえて読んでみる。


其二
出門妻子強牽衣。 問我西行几日歸。
門を出る時に、妻子は私の袖や、衣(ころも)にすがりついてきた、そして、都に行けば 帰るのはいつかと尋ねたのである。
歸時儻佩黃金印。 莫學蘇秦不下機。

そこで答えた、もし、帰って来たとき、黄金の印綬(いんじゅ)を佩びていたら、蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれとたしなめた。


門を出る時に、妻子は私の袖や、衣(ころも)にすがりついてきた、そして、都に行けば 帰るのはいつかと尋ねたのである。
そこで答えた、もし、帰って来たとき、黄金の印綬(いんじゅ)を佩びていたら、蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれとたしなめた。


門を出ずれば妻子は強いて衣を牽き
我に問う西のかたに行きておおよそ日いつ帰るかと
歸り来たる時儻もし黄金の印を佩びなん
蘇秦 機より下らざるを学ぶ莫かれ


出門妻子強牽衣。 問我西行几日歸。
門を出る時に、妻子は私の袖や、衣(ころも)にすがりついてきた、そして、都に行けば 帰るのはいつかと尋ねたのである。
西行 都、長安のこと。 ○ 凡と同じ。おおよその意。


歸時儻佩黃金印。 莫學蘇秦不下機。
そこで答えた、もし、帰って来たとき、黄金の印綬(いんじゅ)を佩びていたら、蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれとたしなめた。
 ひいでる。もし、もしくは。ほしいままにする。ここは、もしの意味とする。○ 帯に付ける冠位を示すかざりをつけることをいう ○黄金印 諸侯・丞相・大将が佩びる印。戦国の世に蘇秦が錦を着て故郷へ帰り、「 我をして負廓の田二頃あらしめば豈に六国の相印を佩んや」 といって威張ったという話があるが、 立身出世して六国の相印を佩びる  ○蘇秦不下機 『戦国策』「秦策」にある故事で、「戦国時代、蘇秦が、秦王に説くこと十回に及ぶも、その説が行なわれぬため、家に帰る。家に帰れば、妻は怒って紐より下らず、煙は炊をなさず、父母はともに言わずであった」という。
ここでは「蘇秦の妻のようなことをしてくれるな」とたしなめた。


蘇秦は、秦に対抗する諸国同盟を説いて歩いて成功し、故郷に錦を飾ったわけであるが、これを蘇秦の積極的説得型とすると「内別赴徴 三首 其一」では諸葛孔明が無名の時、劉備が三度も草盧を訪れ礼を尽くして出馬を乞うたとされる、「三顧の礼」を受けた待ち受け型、二つを意識して李白は使っている。 






蘇秦について史記にあるが、ウィキペディアの記述を抜粋しのを紹介してこの詩を見てほしい。

蘇 秦(そ しん、? - 紀元前317年?)は、中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。蘇代の兄。洛陽の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に縦横の術を学んだ。
『史記』蘇秦列伝における事跡である。

数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族に嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、恵文王に進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。
 
その後は燕の文公に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。この時、韓の宣恵王を説いた際に、後に故事成語として知られる『鶏口となるも牛後となることなかれ』という言辞を述べた。
 
趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとするもので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。
 
合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。
 
李白のこの詩を理解するためにはここまでにするが、ウィキペディアには李白の時代と現代では蘇秦に対する事跡は異なるようだ。以下ウィキペディアを参照。

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