漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

孟浩然

孟浩然 登鹿門山懐古 #2 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -320

登鹿門山懐古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -320

 
 孟略然は、故郷の鹿門山に自適の暮らしをし、季節の訪れも気づかず、あくせくと過ごす俗人の世界に対して、悠然と自然にとけ入った世界が歌われている。
「ぬくぬく春の眠りを貪っている」のは、宮仕えの生活を拒否した、つまり世俗の巷を低く見ている入物であり、詩人にとってあこがれの生活である。立身出世とは全く縁のない世界、悠然たる『高士』の世界である。この詩は、内容からして孟浩然の若いころの作品である。

卷159_35 登鹿門山懐古孟浩然


登鹿門山懐古孟浩然
#1
清曉因興來,乘流越江峴。沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
漸至鹿門山,山明翠微淺。岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
昔聞龐德公,采藥遂不返。
#2
金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。
黄金に輝く谷川の透きとった水際に貴重な薬草を育てている。その岩壁には緑の苔がびっしり生えている。
紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
わたしの心の中では複雑なものがある。「襄陽耆舊記」の龐德公のように生きたいとは思っている。もう一方では、家族からも期待されている頭髪を束ねて結い直し、官位に付き上り詰めるということも考えるのである。
隱跡今尚存,高風邈已遠。
確かに、龐德公が隠棲された史蹟は今なお残っているのであるが、『高士』の風はぼんやりとして来て今や遠くなりつつあるのだ。
白雲何時去,丹桂空偃蹇。
龐德公の隠棲という雰囲気を残した白雲がいつしかきえさって、その丹桂遺跡はその場所に空しく広がっているだけなのである。
探討意未窮,回艇夕陽晚。

鹿門山のあちこちを奥深く隅々までさぐり調べたのだがその気持ちはいまだ窮まってはいない。今すぐ隠棲するわけではないので夕日が落ちて暮れてきているなかで、船を廻して帰ろうと思う。

#1
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと。
#2
金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。


現代語訳と訳註
(本文) #2

金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。
紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
隱跡今尚存,高風邈已遠。
白雲何時去,丹桂空偃蹇。
探討意未窮,回艇夕陽晚。


(下し文)#2
金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。


(現代語訳)
黄金に輝く谷川の透きとった水際に貴重な薬草を育てている。その岩壁には緑の苔がびっしり生えている。
わたしの心の中では複雑なものがある。「襄陽耆舊記」の龐德公のように生きたいとは思っている。もう一方では、家族からも期待されている頭髪を束ねて結い直し、官位に付き上り詰めるということも考えるのである。
確かに、龐德公が隠棲された史蹟は今なお残っているのであるが、『高士』の風はぼんやりとして来て今や遠くなりつつあるのだ。
龐德公の隠棲という雰囲気を残した白雲がいつしかきえさって、その丹桂遺跡はその場所に空しく広がっているだけなのである。
鹿門山のあちこちを奥深く隅々までさぐり調べたのだがその気持ちはいまだ窮まってはいない。今すぐ隠棲するわけではないので夕日が落ちて暮れてきているなかで、船を廻して帰ろうと思う。


(訳註)
金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。

金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
黄金に輝く谷川の透きとった水際に貴重な薬草を育てている。その岩壁には緑の苔がびっしり生えている。
金澗 谷川の透きとった水の巌底に太陽光線が当たった景色をいう。王維『遊化感寺』「瓊峰當戸拆、金澗透林鳴。」(瓊峰 戸に当たりて拆け、金澗 林を透して鳴る。)『澗南園即時貽皎上入』  孟浩然 
養芝朮 貴重な薬草をそだてる。


紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
わたしの心の中では複雑なものがある。「襄陽耆舊記」の龐德公のように生きたいとは思っている。もう一方では、家族からも期待されている頭髪を束ねて結い直し、官位に付き上り詰めるということも考えるのである。
 入り混じること。○耆舊 「襄陽耆舊記」龐德公と劉表、諸葛孔明らと問答をまとめて書いた史書。○結攬 攬結 刈り取った稲束のようにとりまとめる。とりあつめる。【攬】[漢字項目]の意味は?国語辞書。 [音]ラン(呉)(漢) 取り集めて持つ。手中に収める。「 収攬 ・ 総攬 」○攀踐 官位に付き上り詰めること。孟浩然は『高士』にあこがれる。


隱跡今尚存,高風邈已遠。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
確かに、龐德公が隠棲された史蹟は今なお残っているのであるが、『高士』の風はぼんやりとして来て今や遠くなりつつあるのだ。


白雲何時去,丹桂空偃蹇。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
龐德公の隠棲という雰囲気を残した白雲がいつしかきえさって、その丹桂遺跡はその場所に空しく広がっているだけなのである。
丹桂 鹿門山にある龐徳公の隠居跡。○偃蹇(えんけん)  1 物が延び広がったり高くそびえたりしているさま。また、多く盛んなさま。2 おごり高ぶるさま。


探討意未窮,回艇夕陽晚。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。
鹿門山のあちこちを奥深く隅々までさぐり調べたのだがその気持ちはいまだ窮まってはいない。今すぐ隠棲するわけではないので夕日が落ちて暮れてきているなかで、船を廻して帰ろうと思う。
探討 奥深く隅々までさぐり調べること。調べ究めること。探究。

hinode0200

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/



唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02

孟浩然 登鹿門山懐古 #1 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -319

登鹿門山懐古 #1李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -316

 
 孟浩然は、故郷の鹿門山に自適の暮らしをし、季節の訪れも気づかず、あくせくと過ごす俗人の世界に対して、悠然と自然にとけ入った世界が歌われている。
「ぬくぬく春の眠りを貪っている」のは、宮仕えの生活を拒否した、つまり世俗の巷を低く見ている入物であり、詩人にとってあこがれの生活である。立身出世とは全く縁のない世界、悠然たる『高士』の世界である。この詩は、内容からして孟浩然の若いころの作品である。

嚢陽一帯00


卷159_35 登鹿門山懐古孟浩然


登鹿門山懐古孟浩然
鹿門山に登り古えを懐かしむ
#1
清曉因興來,乘流越江峴。
初夏の清々しい明け方、風興の気分によってここに来ている。漢水の流れに乗って峴山が川を越えて見る。
沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
砂浜にいる水鳥に近づくとこちらを向いて気が付いたようだ。入り江の奥の樹林は遙か遠くにあり、瓣別することができない。
漸至鹿門山,山明翠微淺。
しばらく山の道を進んでゆくと鹿門山にいたるのだけれど、山に日の光が射していて、山の中腹の浅いところが見える。
岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
大岩と淵で、川は折れ曲がりが多い、舟の楫をしばしば使って舳先をめくらして進む。
昔聞龐德公,采藥遂不返。

ここには昔、後漢の龐徳公の有名な故事がある。薬草を取りに山に入ったが帰ってこなかったというものだ。

#2
金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。
紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
隱跡今尚存,高風邈已遠。
白雲何時去,丹桂空偃蹇。
探討意未窮,回艇夕陽晚。

鹿門山に登り古えを懐かしむ#1
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと。

#2
金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。

haqro04

現代語訳と訳註
(本文) #1

清曉因興來,乘流越江峴。
沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
漸至鹿門山,山明翠微淺。
岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
昔聞龐德公,采藥遂不返。


(下し文) #1
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと。


(現代語訳)
鹿門山に登り古えを懐かしむ
初夏の清々しい明け方、風興の気分によってここに来ている。漢水の流れに乗って峴山が川を越えて見る。
砂浜にいる水鳥に近づくとこちらを向いて気が付いたようだ。入り江の奥の樹林は遙か遠くにあり、瓣別することができない。
しばらく山の道を進んでゆくと鹿門山にいたるのだけれど、山に日の光が射していて、山の中腹の浅いところが見える。
大岩と淵で、川は折れ曲がりが多い、舟の楫をしばしば使って舳先をめくらして進む。
ここには昔、後漢の龐徳公の有名な故事がある。薬草を取りに山に入ったが帰ってこなかったというものだ。


(訳注) #1
登鹿門山懐古
鹿門山に登り古きを懐かしむ
鹿門山 鹿門山は旧名を蘇嶺山という。建武年間(25~56年)、襄陽侯の習郁が山中に祠を建立し、神の出入り口を挟んで鹿の石像を二つ彫った。それを俗に「鹿門廟」と呼び、廟のあることから山の名が付けられた。


清曉因興來,乘流越江峴。
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
初夏の清々しい明け方、風興の気分によってここに来ている。漢水の流れに乗って峴山が川を越えて見る。
清曉 清々しい明け方。


沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し。
砂浜にいる水鳥に近づくとこちらを向いて気が付いたようだ。入り江の奥の樹林は遙か遠くにあり、瓣別することができない。
沙禽 砂浜にいる水鳥。○浦樹 漢水に灌ぎこむ襄水の入り江の奥の樹林。○ 辯ではなく瓣別すること。


漸至鹿門山,山明翠微淺。
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
しばらく山の道を進んでゆくと鹿門山にいたるのだけれど、山に日の光が射していて、山の中腹の浅いところが見える。
○翠微 山の中腹。李白『游泰山六首 其六』、同『下終南山過斛斯山人宿置酒』


岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
大岩と淵で、川は折れ曲がりが多い、舟の楫をしばしば使って舳先をめくらして進む。
岩潭 大岩と淵。襄陽に沈碑潭という名勝があるがここでは襄水を登っているのであろう。


昔聞龐德公,采藥遂不返。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと
ここには昔、後漢の龐徳公の有名な故事がある。薬草を取りに山に入ったが帰ってこなかったというものだ。
龐德公 東漢の末年、襄陽の名士である龐徳公は薬草を求めて妻を連れて山に入ってからもどらなかった。劉表からの士官への誘い、諸葛孔明からも誘われた、それを嫌って、奥地に隠遁したということと解釈している。隠遁を目指すものの憧れをいう。


hinode0200


blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/



唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02

南山下與老圃期種瓜 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -317

南山下與老圃期種瓜 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -317

 南山は陶淵明が廬山をいい、李白、杜甫は終南山をいう。襄陽の南に祖先から受け継いだ荘園で隠遁生活をしたいという。士官を目指して、長安に書生をすること、諸国を旅する事をしていると先祖から受け継ぐ荘園において隠遁することが大切なのか。

卷160_88 「南山下與老圃期種瓜」孟浩然


南山下與老圃期種瓜
樵牧南山近,林閭北郭賒。
木こりと牛馬をかっている人たちが鹿門山の南の山近くにいる。邑に入り口には木々が門のように林立し、北に遠くはるかに襄陽城が見える。
先人留素業,老圃作鄰家。
先祖からの荘園をうけついでいて、老練な隣人が農園を経営している。
不種千株橘,惟資五色瓜。
千株の橘柑を植えてはいないが、ただ、五色の瓜をはよくできる。
邵平能就我,開徑剪蓬麻。
秦の東陵侯のようにこの荘園に就いて、道を開き転蓬して旅をしたりや単に麻を育てていくことを断ち切って本気で隠遁生活になろうとするか。

南の山の下で老圃に瓜を種える期。
樵牧南山に近く、林閭北郭に賒(とお)し。
先人富農を留め、老圃鄰家と作(な)る。
千株の橘を種えず、惟だ五色の瓜を資(と)る。
邵平能く我に就きて、径を開き蓬麻を剪るか。

現代語訳と訳註
(本文)
南山下與老圃期種瓜
樵牧南山近,林閭北郭賒。
先人留素業,老圃作鄰家。
不種千株橘,惟資五色瓜。
邵平能就我,開徑剪蓬麻。


(下し文) 南の山の下で老圃に瓜を種える期。
樵牧 南山に近く、林閭 北郭に賒(とお)し。
先人 富農を留め、老圃 鄰家と作(な)る。
千株の橘を種えず、惟だ 五色の瓜を資(と)る。
邵平 能く我に就きて、径を開き 蓬麻を剪るか。


(現代語訳)
木こりと牛馬をかっている人たちが鹿門山の南の山近くにいる。邑に入り口には木々が門のように林立し、北に遠くはるかに襄陽城が見える。
先祖からの荘園をうけついでいて、老練な隣人が農園を経営している。
千株の橘柑を植えてはいないが、ただ、五色の瓜をはよくできる。
秦の東陵侯のようにこの荘園に就いて、道を開き転蓬して旅をしたりや単に麻を育てていくことを断ち切って本気で隠遁生活になろうとするか。


(訳注)
樵牧南山近,林閭北郭賒。

樵牧南山に近く、林閭北郭に賒(とお)し。
木こりと牛馬をかっている人たちが鹿門山の南の山近くにいる。邑に入り口には木々が門のように林立し、北に遠くはるかに襄陽城が見えるい。
樵牧 木こりと牛馬を飼う人。○   1 村里の入り口にある門。また、門。 2 《中国、周代の制度で、25戸を1区として閭と称したところから》村。また、都市で、町の一区画。○北郭 北にある城郭。


先人留素業,老圃作鄰家。
先人素業を留め、老圃鄰家と作(な)る。
先祖からの荘園をうけついでいて、老練な隣人が農園を経営している。


不種千株橘,惟資五色瓜。
千株の橘を種えず、惟だ五色の瓜を資(と)る。
千株の橘柑を植えてはいないが、ただ、五色の瓜をはよくできる。
不種千株橘 『田園作』「卜鄰近三徑,植果盈千樹。」(鄰をトすること三徑に近く、果を植えて干樹に盈つ。
)果物の木がいっぱいうえられているとしている。ここでは、受験のため長安にいっていたり、廬山、江南、湘南を旅をしたため、果物の木の植え替えができなかったことをいうのである。
五色瓜 青門の瓜売りは五色の瓜を杜陵につくっていたこと、官を辞して瓜をたくさん栽培したことをいう。泰の東陵侯に封じられていた卲平は秦が滅びると布衣(庶民)の身となり、長安の門の東で瓜を栽培し、それが美味だったので「東陵の瓜」と称された。
卲平 東陵の瓜は五色であったことは次に示す。
「曰:邵平故秦東陵侯,秦滅後,為布衣,種瓜長安城東。種瓜有五色,甚美,故世謂之東陵瓜,又云青門瓜」。魏・阮籍も卲平の東陵の瓜は五色をふまえて「詠懐詩」(『文選』巻二三)其六に「昔聞く東陵の瓜、近く青門の外に在りと。……五色 朝日に輝き、嘉賓 四面に会す」とする。李白『古風五十九首 其九』「青門種瓜人。 舊日東陵侯。」(青門に瓜を種うるの人は、旧日の東陵侯なり。)


邵平能就我,開徑剪蓬麻。
邵平能く我に就きて、径を開き蓬麻を剪るか。
秦の東陵侯のようにこの荘園に就いて、道を開き転蓬の旅をしたり、単に麻を育てていくことを断ち切って本気で隠遁生活になろうとするか。


解説
まず「南山」については、ほとんどの注釈が襄陽の峴山であるとされるが、他の詩などから鹿門山であることがわかる。「澗南園即時貽皎上人」、「田園作」「題張野入園直」を見ると、峴山を題した詩の内容と、鹿門山、南山、田園と詠う場合とが違っている。
南山、鹿門山の場合労働者、農作物について述べるものが多い。峴山と詠う場合は送別に関したものがおおいのだ。孟浩然は別れ、景色を詠う場合が峴山で、隠遁生活、農事のことの場合、「田家、田園作、澗南園」を詩にとる場合.「林間」郊外の林野の住まい、ここでは孟浩然の荘園を指すものが多い。南山を鹿門山の南とするならば、かなりの詩の位置が特定される。孟浩然は自然の描写、心の描写が動的にとらえられるため、同じの中に2~3か所の場所が存在する場合がある。孟浩然の詩の理解のためには動的な描写を意識して捉えていかないと孟浩然の理解はできない。
hinode0200

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/


唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02

田園作 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -315

田園作 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -315
 
卷159_46 「田園作」孟浩然
718年開元六年三十歳の時の襄陽における作品

田園作

弊廬隔塵喧,惟先養恬素。
わたしが棲んでいる家は、襄陽城の街中の塵や喧騒からは離れたところにある。そうしてこれまで、よけいなことを考えず素直な性格、質素にすることがいいことだと教えられ生きてきた。
卜鄰近三徑,植果盈千樹。
近くには数軒の家は建っていて近くに三つの小道がある。果樹の木を植えたりしてたくさんの木々がいっぱいになっている。
粵余任推遷,三十猶未遇。
ああ、私は、時に流されたままこの田舎に生きてきた。三十にして立つというがまだその境遇にはなっていない。
書劍時將晚,丘園日已暮。
この年では官僚になるというのはすでに遅いのかもしれない。ちょうど、この丘や畑が暮れていくのと同じことなのだ。
晨興自多懷,晝坐常寡悟。
朝起きた時には実にたくさんのことを思い浮かべるのだが、日中に座禅を組んで瞑想するのであるが悟りの様なものはあまりない。
沖天羨鴻鵠,爭食羞雞鶩。
大空に向かって飛び立つ鴻鳥や鵠鳥のように中央朝廷の大人物をうらやましくおもうし、エサを争って食べる鶏や鶩のように物欲丸出しというのは恥ずかしいことと思う。
望斷金馬門,勞歌采樵路。
金馬門をくぐって中央朝廷につかえることの希望は捨てることになるし、仕事をする人の歌を唄って、木こりの杣道を歩いているようなものだ。
鄉曲無知己,朝端乏親故。
かの鄉曲で隠遁した老子のように知己に富んでいるわけではないし、かといって、朝廷への推薦してくれるコネを持った親戚友人はいないのだ。
誰能為揚雄,一薦甘泉賦。
だれが朝廷に入り楊雄のようになろうというのか、彼のように、「甘泉の賦」のように詩賦を奏上したいのだ。


田園の作
弊廬の塵喧を隔つるは、惟れ先の恬素を尚べばなり
鄰をトすること三徑に近く、果を植えて干樹に盈つ。
粵(ここに)余、推遷に任せ,三十にして猶 未だ遇はず。
書劍 時 將に晚れんとし,丘園 日 已に暮る。
晨に興くれば自ら懷うこと多し,晝に坐すれば常に悟ること寡す。
沖天する鴻鵠を羨み,爭食する雞鶩を羞じる。
望み斷つ 金馬門,勞歌す 采樵の路。
鄉曲 知己無く,朝端 親故乏し。
誰か能く揚雄と為すか,一たび甘泉の賦を薦めん。



現代語訳と訳註
(本文)

弊廬隔塵喧,惟先養恬素。卜鄰近三徑,植果盈千樹。
粵余任推遷,三十猶未遇。書劍時將晚,丘園日已暮。
晨興自多懷,晝坐常寡悟。沖天羨鴻鵠,爭食羞雞鶩。
望斷金馬門,勞歌采樵路。鄉曲無知己,朝端乏親故。
誰能為揚雄,一薦甘泉賦。


(下し文)
弊廬の塵喧を隔つるは、惟れ先の恬素を尚べばなり
鄰をトすること三徑に近く、果を植えて干樹に盈つ。
粵(ここに)余、推遷に任せ,三十にして猶 未だ遇はず。
書劍 時 將に晚れんとし,丘園 日 已に暮る。
晨に興くれば自ら懷うこと多し,晝に坐すれば常に悟ること寡す。
沖天する鴻鵠(こうこく)を羨み,爭食する雞鶩(けいぼく)を羞じる。
望み斷つ 金馬門,勞歌す 采樵の路。
鄉曲 知己無く,朝端 親故乏し。
誰か能く揚雄と為すか,一たび甘泉の賦を薦めん。


(現代語訳)
わたしが棲んでいる家は、襄陽城の街中の塵や喧騒からは離れたところにある。そうしてこれまで、よけいなことを考えず素直な性格、質素にすることがいいことだと教えられ生きてきた。
近くには数軒の家は建っていて近くに三つの小道がある。果樹の木を植えたりしてたくさんの木々がいっぱいになっている。
ああ、私は、時に流されたままこの田舎に生きてきた。
三十にして立つというがまだその境遇にはなっていない。
この年では官僚になるというのはすでに遅いのかもしれない。ちょうど、この丘や畑が暮れていくのと同じことなのだ。
朝起きた時には実にたくさんのことを思い浮かべるのだが、日中に座禅を組んで瞑想するのであるが悟りの様なものはあまりない。
大空に向かって飛び立つ鴻鳥や鵠鳥のように中央朝廷の大人物をうらやましくおもうし、エサを争って食べる鶏や鶩のように物欲丸出しというのは恥ずかしいことと思う。
金馬門をくぐって中央朝廷につかえることの希望は捨てることになるし、仕事をする人の歌を唄って、木こりの杣道を歩いているようなものだ。
かといって、鄉曲で隠遁した老子のようには知己に富んでいるわけではないし、かといって、朝廷への推薦してくれるコネを持った親戚友人はいないのだ。
だれが朝廷に入り楊雄のようになろうというのか、彼のように、「甘泉の賦」のように詩賦を奏上したいのだ。



(訳注)
弊廬隔塵喧,惟先養恬素。

弊廬の塵喧を隔つるは、惟れ先の恬素(てんそ)を尚(とうと)べばなり。
わたしが棲んでいる家は、襄陽城の街中の塵や喧騒からは離れたところにある。そうしてこれまで、よけいなことを考えず素直な性格、質素にすることがいいことだと教えられ生きてきた。
弊廬 わたしが棲んでいる屋根を蘆で拭いている家のかまど。かまどは家を指す。○塵喧 襄陽城の街中の塵や喧騒。○恬素 物欲のないあっさりとしているさま。よけいなことを考えず素直な性格、質素にする。先祖からうけついだもの。土地をいう。○產 生産する。作物を作る。生産して経営する。○田園 前の「産」と園で従僕がいて小作させていたことがわかる。しかし、大規模なものではない。孟浩然『澗南園即時貽皎上人』ではこの聯と同じ意味を「弊廬在郭外,素產惟田園。」とする。


卜鄰近三徑,植果盈千樹。
鄰をトすること三徑に近く、果を植えて干樹に盈つ。
近くには数軒の家は建っていて近くに三つの小道がある。果樹の木を植えたりしてたくさんの木々がいっぱいになっている。
卜鄰 近くには数軒の家は建っている。接近して立っているのではないが遠くではない様子をいう。○三徑 三本の小道。○植果 果樹の木


粵余任推遷,三十猶未遇。
粵(ここに)余、推遷に任せ,三十にして猶 未だ遇はず。
ああ、私は、時に流されたままこの田舎に生きてきた。三十にして立つというがまだその境遇にはなっていない。
 ここに、<ああ>嘆息の語。○推遷 推し進め、移り変わる。時の流れのままに押し流される。○三十 論語「三十而立」に対して孟浩然自身の生活態度をいうのである。これにより、科挙の試験を意識したのである。


書劍時將晚,丘園日已暮。
書劍 時 將に晚れんとし,丘園 日 已に暮る。
この年では官僚になるというのはすでに遅いのかもしれない。ちょうど、この丘や畑が暮れていくのと同じことなのだ。
書劍 書と剣は当時の文人の必要アイテムで官僚の意味。科挙試験へのチャレンジは、通常十代の後半から、長安に上京して始める。ここと先頭の二句が絡んでくる。つまり、物欲、名誉欲、権威に対する欲が全くなかったことから、作詩が好きで、詩経、古文を暗誦することをしてこなかったのではなかろうか。

晨興自多懷,晝坐常寡悟。
晨に興くれば自ら懷うこと多し,晝に坐すれば常に悟ること寡す。
朝起きた時には実にたくさんのことを思い浮かべるのだが、日中に座禅を組んで瞑想するのであるが悟りの様なものはあまりない。


沖天羨鴻鵠,爭食羞雞鶩。
沖天する鴻鵠を羨み,爭食する雞鶩を羞じる。

大空に向かって飛び立つ鴻鳥や鵠鳥のように中央朝廷の大人物をうらやましくおもうし、エサを争って食べる鶏や鶩のように物欲丸出しというのは恥ずかしいことと思う。
沖天 大空の真ん中。朝廷。鴻鵠 (1)鴻(おおとり)や鵠(くぐい)など、大きな鳥。 (2)大人物。英雄。
屈原『卜居』「寧與黃鵠比翼乎、將與雞鶩爭食乎」   (寧ろ黃鵠と翼を比(なら)べんか、將雞鶩(けいぼく)と食を爭はんか)に基づいている。


望斷金馬門,勞歌采樵路。
望み斷つ 金馬門,勞歌す 采樵の路。

金馬門をくぐって中央朝廷につかえることの希望は捨てることになるし、仕事をする人の歌を唄って、木こりの杣道を歩いているようなものだ。
○金馬門 中国、漢代の未央宮 (びおうきゅう) の門の一。側臣が出仕して下問を待つ所。金馬。金門。


鄉曲無知己,朝端乏親故。
鄉曲 知己無く,朝端 親故乏し。
かの鄉曲で隠遁した老子のようには知己に富んでいるわけではないし、かといって、朝廷への推薦してくれるコネを持った親戚友人はいないのだ。
鄉曲 老子のことを指す。『史記』「.老子者,楚苦縣厲鄉曲仁里人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也」とみえる。○朝端 朝廷へ推薦してくれる端っこの方にでも引っ掛かりがあるかどうか。○親故 親族、知人。


誰能為揚雄,一薦甘泉賦。
誰か能く揚雄と為すか,一たび甘泉の賦を薦めん。
だれが朝廷に入り楊雄のようになろうというのか、彼のように、「甘泉の賦」のように詩賦を奏上したいのだ。
○揚雄 楊雄とも書く。(前53-後18) 中国、前漢の文人・学者。字(あざな)は子雲。宮廷詩人として作った「甘泉賦」「羽猟(うりよう)賦」「長楊賦」などの美文が有名。



解説
冒頭四句について、「弊廬」は、襄陽の澗南の居を指している。ここでは、襄陽城から漢水を挟んで距離を匿いたところに田園を営み、都市の俗塵・喧噪から隔絶して生活している。先祖が静かで質素な生活を尊んだことを継承するものだと述べている。作品では人生の区切りの歳である三十にして、有力なつてもなく、いまだ仕官の途が見いだせない焦燥か歌われる。先祖の処世を継承し、都市という世俗、換言すれば利益重視の人間関係の世界に関わってこなかったことのように書き、一方では、勉強不足であると述べている。利益ついきゅう、処世術をしなかったからという言い訳の部分だけではない。中國の人は日本人型の潔い反省はしない。
安徽の勉強が苦手であった孟浩然は独自の山水田園の世界感を作っていくことになるのである。古今東西、詩人は精神的に追い詰められたり、貧乏でなければ創造性豊かな「いい詩」は書けないのである。
嚢陽一帯00

hinode0200

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/




唐宋詩 350
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02

澗南園即時貽皎上入  孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -314

澗南園即時貽皎上入  孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -314


 孟浩然の郷里・襄陽における作品を示す。襄陽は、孟浩然がその生涯の多くの時間を過ごし、彼の一風の形成の場となったことはいうまでもない。

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処

305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)

卷160_24 「澗南即事,貽皎上人」孟浩然

澗南園即時貽皎上人
襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
弊廬在郭外,素產惟田園。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
左右林野曠,不聞朝市喧。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
書取幽棲事,將尋靜者論。

こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ。


澗南園で即時にて貽皎上人に。
弊廬 郭外に在り、素より惟だ田園に產とす。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん。


詩題に見える「澗南園」は、孟浩然の郷里襄陽における住まいである。それは襄州襄陽県の県城の東南方、峴山を漢水を挟んで鹿門山が位置し、漢水、鹿門山の南までを江村としている。また襄陽県は「漢代以降、南北(華北と華南の勢力か激突する地点であり、南北を結ぶ交通の要衝として経済的に重視された重要地点であった。そして、漢江の水運を利用した物資の集散地たる商港として、南朝以来繁栄し、遊楽の都市であった。大堤がそれである。地図に示す通り、襄陽城と漢水の間に一詩北征から流れてきた漢水が大きく南に大きく湾曲したところであったため、堤の長い場所であった。


現代語訳と訳註
(本文) 澗南園即時貽皎上人
弊廬在郭外,素產惟田園。
左右林野曠,不聞朝市喧。
釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
書取幽棲事,將尋靜者論。


(下し文) 澗南園で即時にて貽皎上人に。
弊廬 郭外に在り、素產 惟田園あり。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん


(現代語訳)
襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ


(訳注)
澗南園即時貽皎上人

襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
澗南園 漢水の南。谷川の傍に畑を持っていた。孟浩然の郷里襄陽における住まいである。それは襄州襄陽県の県城の東南方、峴山を漢水を挟んで鹿門山が位置し、漢水、鹿門山の南までを江村としている。○即時 その場で即興で詠った詩。○上人 仏教における高僧への敬称。修行を積み、智徳を備えた高僧に対して用いられる。

弊廬在郭外,素產惟田園。
弊廬 郭外に在り、素より惟だ田園に產とす。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
弊廬 隠遁しているあばら家の庵。○郭外 襄陽城の郊外○素產 先祖からうけついだもの。土地をいう。・ 生産する。作物を作る。生産して経営する。○田園 前の「産」と園で従僕がいて小作させていたことがわかる。しかし、大規模なものではない。


左右林野曠,不聞朝市喧。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
左右 辺りを見回してみていること。○林野 森と原っぱ、田畑がひろがっている。○朝市 襄陽城の市場。朝の位置には大勢が集まる。○ 朝市の喧噪。襄陽は当時かなりの都市であった。


釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
釣竿 釣りをする。隠遁者は散歩することを含む。○北澗 漢水は孟浩然の家の北の方に流れており、その漢水に聞か向きに流れ灌ぎこむきこむ谷川のこと。○樵唱 木こりが木挽き歌を唄うこと。○ 山の中に入っていく。○南軒 南に向けて高く上がること。軒は欄干、家の軒、久という意味とここでは、誘われて高く上がっていくことをいう。。


書取幽棲事,將尋靜者論。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん。
こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ
○書取 書き留める。詩を作ること。○幽棲 一人で隠遁生活をしていること。○ 仕事。事件。ここでは、山水の風流な興味を抱いたことをいう。○將 まさに。もって、ここでは自分の楽しみになることに導く意味を持つ。○尋 こちらから行くことをいうのであるが、ここでは来訪されること。○靜者 静清なお方。清廉なひと。○ 論議、哲学、詩を論ずることなどを指す。


解説
 この孟浩然の詩「澗南即事,貽皎上人」においてまず、注目するのは、この襄陽県城という大きく繁華な都市の描かれ方である。「郭」「朝市喧」として描写された県城か、それぞれ「外」「不聞」という字句か示すように、詩人との場所的に距離を置いた存在として描かれていることがあげられる。「喧」から隔絶したことを強調すること、孟浩然が大きな町影響下にない隠遁をしていることを強調したいのである。
 そして、その静かな景色は、朝から始まり、やがて昼には北の谷川に釣り糸を垂れ、そして、木挽き歌を聴くため南の山の中に入っていく。こんな生活をしてることを理解できるのは、清廉な人だけだろう。
 「出世欲や、物欲のある人には到底理解できないことであろう」と詩を締める。この詩も風景、心理を動的にとらえているのである。

hinode0200

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/


各ブログ毎日一首、節、本文、下し文、現代語訳、解説を掲載、

唐宋詩 350
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02


中国文化史、詩人の概略、上記以外の詩人の漢詩、漢詩の総合サイト


    漢文委員会kanbuniinkai 漢詩ZERO サイト
    情報量が一番多いサイト。漢詩の背景、歴史など対局が捉えられる。


    漢文委員会kanbuniinkai ジオシティー倶楽部 サイト
    編集法を従来の漢詩のページとは全く変えている。

    漢文委員会kanbuniinkai 06倶楽部 サイト
    このサイトは、各ブログ、HPを集約して、行くサイト。
このほかにも漢文委員会が進めているサイト、HP,ブログがあり。全体で6000~7000首扱っているが1年で1000首程度しか掲載できない。これから15年計画3万首突破を目標。

峴山送蕭員外之荊州 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -312

峴山送蕭員外之荊州 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -312


305 孟浩然 与諸子登峴山     ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田家元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)



詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
孟浩然 (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。
haqro04


卷160_133 「峴山送蕭員外之荊州」孟浩然



峴山送蕭員外之荊州
荊州幕府の員外官の蕭君を峴山で荊州に帰るのを見送って作った詩。
峴山江岸曲,郢水郭門前。
峴山は漢江の川岸が大きく湾曲したなかにある。漢水は襄陽城郭門の前を郢州に向かって流れている。
自古登臨處,非今獨黯然。
昔より襄陽のものは別れに峴山にのぼって、城郭を眺めるもの、でも今の私は、一人憂えて暗い気持ちになどなってはいない。
亭樓明落照,井邑秀通川。
峴首亭の高楼は日が落ちて、ともし火を照らし始めている。町や村は川を通して秀逸な景色を見せている。
澗竹生幽興,林風入管弦。
谷川に沿った竹林は静かに奥まっており風興の気持ちを起させ、風は林を抜け、管弦楽の中にひこんでくれる。
再飛鵬激水,一舉鶴沖天。
大鳥は水を激しく蹴って飛び立ちを繰り返している。鶴は、天に向かって一直線に飛び上がり、ひとたび飛び上がっていくだけだ。
佇立三荊使,看君駟馬旋。

立ちどまって友情の証の三荊を使わし、君を見て、四頭だての馬車を廻そうではないか。


峴山にて蕭員外の荊州に之くを送る
峴山 江岸 曲り,郢水 郭門 前にす。
古き自り登臨する處,今に非らず 獨り黯然す。
亭樓 明落 照らし,井邑 通川 秀でる。
澗竹 幽興に生え,林風 管弦に入る。
鵬は激水にして再び飛び,鶴は沖天に一たび 舉る。
佇立(ちょりつ)して三荊(さんけい)を使し,君を看て駟馬を旋(めぐ)らす。

 

現代語訳と訳註
(本文)
峴山送蕭員外之荊州  孟浩然
峴山送蕭員外之荊州
峴山江岸曲,郢水郭門前。
自古登臨處,非今獨黯然。
亭樓明落照,井邑秀通川。
澗竹生幽興,林風入管弦。
再飛鵬激水,一舉鶴衝天。
佇立三荊使,看君駟馬旋。  


(下し文) 峴山にて蕭員外の荊州に之くを送る
峴山 江岸 曲り,郢水 郭門 前にす。
古き自り登臨する處,今に非らず 獨り黯然す。
亭樓 明落 照らし,井邑 通川 秀でる。
澗竹 幽興に生え,林風 管弦に入る。
鵬は激水にして再び飛び,鶴は沖天に一たび 舉る。
佇立(ちょりつ)して三荊(さんけい)を使し,君を看て駟馬を旋(めぐ)らす。


(現代語訳)
荊州幕府の員外官の蕭君を峴山で荊州に帰るのを見送って作った詩。
峴山は漢江の川岸が大きく湾曲したなかにある。漢水は襄陽城郭門の前を郢州に向かって流れている。
昔より襄陽のものは別れに峴山にのぼって、城郭を眺めるもの、でも今の私は、一人憂えて暗い気持ちになどなってはいない。
峴首亭の高楼は日が落ちて、ともし火を照らし始めている。町や村は川を通して秀逸な景色を見せている。
谷川に沿った竹林は静かに奥まっており風興の気持ちを起させ、風は林を抜け、管弦楽の中にひこんでくれる。
大鳥は水を激しく蹴って飛び立ちを繰り返している。鶴は、天に向かって一直線に飛び上がり、ひとたび飛び上がっていくだけだ。
立ちどまって友情の証の三荊を使わし、君を見て、四頭だての馬車を廻そうではないか。


(訳注)
峴山送蕭員外之荊州

峴山にて蕭員外の荊州に之くを送る。
荊州幕府の員外官の蕭君を峴山で荊州に帰るのを見送って作った詩。
峴山 襄陽城の南十里にある。孫堅が襄陽を攻撃したとき、黄祖(あるいは呂公)はこの山に潜んで孫堅を射殺した。○員外 【員外官】いんげかん 律令制で、令 (りょう) に定められた定員以外の官吏。


峴山江岸曲,郢水郭門前。
峴山 江岸 曲り,郢水 郭門 前にす。
峴山は漢江の川岸が大きく湾曲したなかにある。漢水は襄陽城郭門の前を郢州に向かって流れている。
郭、門前 三国志の舞台。・関羽水淹七軍の地。・樊城。・魚梁洲。・襄陽城。・解佩渚。・沈碑潭。・諸葛亮故居。・万山。・望楚山。・古檀渓。・襄水。・峴山。・墮淚碑。峴首亭。・羊杜祠。・習家池(高揚)。・鹿門山。鹿門寺。など襄陽の名勝である。


自古登臨處,非今獨黯然。
古き自り登臨する處,今に非らず 獨り黯然す。
昔より襄陽のものは別れに峴山にのぼって、城郭を眺めるもの、でも今の私は、一人憂えて暗い気持ちになどなってはいない
黯然 黒いさま。暗いさま。憂えるさま。顔色を変えるさま。


亭樓明落照,井邑秀通川。
亭樓 明落 照らし,井邑 通川 秀でる。
峴首亭の高楼は日が落ちて、ともし火を照らし始めている。町や村は川を通して秀逸な景色を見せている。


澗竹生幽興,林風入管弦。
澗竹 幽興に生え,林風 管弦に入る。
谷川に沿った竹林は静かに奥まっており風興の気持ちを起させ、風は林を抜け、管弦楽の中にひこんでくれる。

○この句は孟浩然らしい「」と「」の素晴らしい表現である。

再飛鵬激水,一舉鶴沖天。
鵬は激水にして再び飛び,鶴は沖天に一たび 舉る。
大鳥は水を激しく蹴って飛び立ちを繰り返している。鶴は、天に向かって一直線に飛び上がり、ひとたび飛び上がっていくだけだ。
 伝説の鵬の鳥ではなく。アホウドリのような大きな鳥をいうのであろう。○激水 水を激しく蹴って飛び立つさま。○沖天 天に向かって一直線に飛び上がるさま。○自分はここで飛んで行ったりもどたりしているが、君はきっとここをとびたてば一直線に中央朝廷にまで上がっていくだろう、と持ち上げているのであろう。


佇立三荊使,看君駟馬旋。
佇立(ちょりつ)して三荊(さんけい)を使し,君を看て駟馬を旋(めぐ)らす。
立ちどまって友情の証の三荊を使わし、君を見て、四頭だての馬車を廻そうではないか。
佇立 たちどまる。たたずむ。○三荊 大切に育てたものが分散し、喩え枯れたとしても心は枯れない。再びめぐり会えばまた栄えるということの故事。「我が三荊、別れを惜しむがために枯れたり。吾等留まるべし。復た返りて栄(はなさ)かむや。」『注好選』
駟馬 4頭立ての馬車。また、その馬車を引く4頭の馬。しめ。

嚢陽一帯00
安陸・南陽・嚢陽 李白00


解説

●前の詩と同様に峴山における送別のうたである。第二句「郢水」(えいすい)_は、蕭員外が向かう荊州の治所一江陵県(湖北省江陵県)すなわち春秋戦国の楚の郡である郢の方へと流れてゆく川という意味である。
「郭門」は漢水を北に臨む襄陽県城である。送別の地と蕭員外の向かう地を「峴山」「郢水」として対にし、全句、ソフトタッチ、抒情的な対句で表現されている孟浩然の秀作である。


三荊 昔、三人の兄弟ありき。田祖・田達・田音といふ。即ちその祖の家に前栽あり。四季に花を開く荊三茎ありて、一花は白、一花は赤、一花は紫なり。往代より相伝へて財(たから)となして、色に随ひ香に付きて、千万の喜び余りあり。人々願ふと雖も、未だ他所にあらず。即ち父母亡せて後に、この三人身極めて貧し。相語らひて曰はく、「我が家を売りて他国に移住せむ。」と。時に隣国の人、三荊を買ふ。已に之を売りて値を得つ。その明旦に、三荊花落ち、葉枯れたり。三人之を見て嘆ず。未だ、此のごとき事をば見ず、と。呪して曰はく、「我が三荊、別れを惜しむがために枯れたり。吾等留まるべし。復た返りて栄(はなさ)かむや。」と。即ち値を返す。明くる日に随ひて元のごとく盛りなり。故に去らず。是をもつて、契をば三荊といふなり。『注好選』より。


hinode0200

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/




唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02

過故人莊 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311

過故人莊 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311



305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作    ⑧
316  〃   田家元旦  ⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)


詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
孟浩然 (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。


卷160_85 「過故人莊」孟浩然

過故人莊
古い友人の邑里へ行く。
故人具雞黍,邀我至田家。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
綠樹村邊合,青山郭外斜。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
開筵面場圃,把酒話桑麻。
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
待到重陽日,還來就菊花。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。

故人の莊に過ぎる     
故人 鷄黍(けいしょ)を 具(そろ)へ、我を邀(むか)へて 田家(でんか)に 至らしむ。
綠樹 村邊(そんぺん)に 合(がっ)し、青き山 郭外(かくがい)に 斜めなり。
筵(むしろ)を開きて 場圃(じょうほ)に 面し、酒を把(とり)て 桑麻(そうま) を 話す。
重陽(ちょうよう)の日を 待ち到り、還(また)來(きた)りて 菊花(きくか)に就(つ)かん。

tanbo955



現代語訳と訳註
(本文) 過故人莊

故人具雞黍,邀我至田家。
綠樹村邊合,青山郭外斜。
開筵面場圃,把酒話桑麻。
待到重陽日,還來就菊花。

(下し文)
故人の莊に過ぎる     
故人 鷄黍(けいしょ)を 具(そろ)へ、我を邀(むか)へて 田家(でんか)に 至らしむ。
綠樹 村邊(そんぺん)に 合(がっ)し、青き山 郭外(かくがい)に 斜めなり。
筵(むしろ)を開きて 場圃(じょうほ)に 面し、酒を把(とり)て 桑麻(そうま) を 話す。
重陽(ちょうよう)の日を 待ち到り、還(また)來(きた)りて 菊花(きくか)に就(つ)かん。

(現代語訳)
古い友人の邑里へ行く。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。


(訳注)
過故人莊

古い友人の邑里へ行く。
陶淵明(陶潛)の
『歸園田居』五首其二
野外罕人事,窮巷寡輪鞅。白日掩荊扉,虚室絶塵想。
時復墟曲中,披草共來往。相見無雜言,但道桑麻長。
桑麻日已長,我土日已廣。常恐霜霰至,零落同草莽。
卷159_46 「田園作」孟浩然
弊廬隔塵喧,惟先養恬素。卜鄰近三徑,植果盈千樹。
粵余任推遷,三十猶未遇。書劍時將晚,丘園日已暮。
晨興自多懷,晝坐常寡悟。沖天羨鴻鵠,爭食羞雞鶩。
望斷金馬門,勞歌采樵路。鄉曲無知己,朝端乏親故。
誰能為揚雄,一薦甘泉賦。
故人 昔からの友人。古いなじみ。 古い友人。○ 邑里。いなか。街の郊外の田園にかこまれた数軒の家が固まったようなところ

故人具雞黍,邀我至田家。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
 そろえる。支度をする。準備をする。○鷄黍〔けいしょ〕ニワトリを殺し、きび飯をたいてもてなすこと。転じて、人を心からもてなすこと。 ○邀 〔えう〕まねく。呼ぶ。迎える。 ○ 行き着く。くる。 ○田家 〔でんか〕いなか家。農家。

綠樹村邊合,青山郭外斜。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
村邊 村の周り。村はずれ。 ○合 合わさる。いっしょにする。ひとまとめにする。
郭外 襄陽城郭の外側、向こう側。孟浩然の自然を動的に表現、遠近法的表現する。また、青は五行思想で春を意味する。孟浩然は、春の季語として、青山を使っている。『峴山餞房琯、崔宗之』『登安陽城樓』『舟中曉望』『送友人之京』などに見える。城郭の向こうに小高い山、春の峴山を遙かに望むことを意味する。そびえる山には斜めという表現をしない。この「青き山」は次の「桑麻」の語にかかり、邵平などの故事に繋がっていく。


開筵面場圃,把酒話桑麻。
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
開筵 酒宴の筵を開く意。 ○ 面する。向かう。 ○場圃 〔じょうほ〕農家の前の穀物を干す広場。家の前の穀物干し場。○把酒 酒器、酒盃を持つ。 ○ 話す。後出・陶潛の『歸園田居』其二でいえば「道」。○桑麻 〔そうま〕桑(くわ)と麻(あさ)。商山芝、とか、東陵の瓜、など故事について、話をすること。桑は絹、麻は麻布を意味し、穀物以外に農事の基本であり、貨幣と同じ扱いであったもの。ここでは、人の「道」の話をすることである。前の聯での青山もこの句の桑麻にかかっている。この句までは春の時期の話である。次に秋に移っていく。
「古風」 第九首李白109
喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 157

待到重陽日,還來就菊花。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。
待到- …になるのを待って。 ○重陽 陰暦九月九日。九は陽の数の極みで、九が重なるから重陽という。この日、高い所に登り、家族を思い、菊酒を飲んで厄災を祓う慣わし。菊の節供。この日、茱萸(しゅゆ、朝鮮呉茱萸を神の毛に挿しておく。 ○ また。 ○ つく。近づく。 ○菊花 重陽の日に吉祥を呼ぶとされて、珍重される花。




広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。

○商山芝 商山は長安の東商商州にある山の名、漢の高祖の時四人の老人があり秦の乱をさけでその山に隠れ芝を採ってくらした。中国秦代末期、乱世を避けて陝西(せんせい)省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・里(ろくり)先生の四人の隠士。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったのでいう。○往者 さきには、これも昔時をさす。○東門瓜 漢の初め、卲平というものが長安の城の東門外で五色の瓜を作って売っていた、彼はもと秦の東陵侯であったという。

李白『古風其九』「青門種瓜人。 舊日東陵侯。」 ・種瓜人 広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。
東陵の瓜 召平は、広陵の人である。世襲の秦の東陵侯であった。秦末期、陳渉呉広に呼応して東陵の街を斬り従えようとしたが失敗した。後すぐに陳渉が敗死し、秦軍の脅威に脅かされた。長江の対岸の項梁勢力に目をつけ、陳渉の使者に成り済まし項梁を楚の上柱国に任命すると偽り、項梁を秦討伐に引きずり出した。後しばらくしてあっさり引退し平民となり、瓜を作って悠々と暮らしていた。貧困ではあったが苦にする様子も無く、実った瓜を近所の農夫に分けたりしていた。その瓜は特別旨かったので人々は『東陵瓜』と呼んだ。召平は、かつて秦政府から東陵侯の爵位を貰っていたからである。後、彼は漢丞相の蕭何の相談役となり、適切な助言・計略を蕭何に与えた。蕭何は、何度も彼のあばら家を訪ねたという。蕭何が蒲団の上で死ねたのも彼のおかげである。

喜晴  杜甫
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/




唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次


輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309

輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309



305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)


輿黄侍御北津泛舟
黄県令と北津の渡し場から舟を泛べる。
津無蛟龍患,日夕常安流。
湧き出る水がなくて蛟龍が患ってくれている。だから、ひがな一日、漢水もずっと穏やかに流れてくれている。
本欲避驄馬,何如同鹢舟。
はじめから、青白交じりの元気のいい馬での遊びを避けたいと思っている。どうしたことか鷁首のついた船での遊びをするというどちらも同じように避けたいところだ。
豈伊今日幸,曾是昔年游。
できることならこの遊びで今日の一日何事もなく幸せ過ごせたらいい。以前、ずっと昔のことであるがこの遊びをしたことがある。
莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
琴を弾いてくれているのに自分詠う順番がも割ってこないでくれ、そうして、波間に浮かぶ鴎は詠わないから従っていく。
堤緣九里郭,山面百城樓。
大堤は九里四方の郭に妓楼街がある。そこから峴山に向かって、樓閣の屋根が連なっている。
自顧躬耕者,才非管樂儔。
自分からこうして隠遁して一から畑を耕すことから始めているものであるから、文才はあっても管楽、音楽のたぐいは才能はないのである。
聞君薦草澤,從此泛滄洲。

あなたに聞くのですがこのまま民間人を勧めますか、そうであれば、ここにいることこの中州に浮んでいることは隠遁して棲んでいるところということなのだ。


黄侍御と北津に舟を泛ぶ。
津 無くして蛟龍 患い,日夕して常に安(おだやか)に 流る。
本より驄馬 避んと欲す,何んぞ鹢舟 同うするが如し。
豈(ねがわく)ば 伊れ 今日 幸なれ,曾て是 昔年游ぶ。
琴に中りて鶴(かく)を奏ずる莫れ,且 波上の鷗(おう)に隨う。
堤は縁る九里の郭、山は面す百の城樓。
自から躬耕の者を顧る,才 管樂の儔(ちゅう)に非らず。
君に聞く草澤を薦めるや,從って此れ 滄洲に泛ぶと。

宮島(1)


現代語訳と訳註
(本文) 輿黄侍御北津泛舟
津無蛟龍患,日夕常安流。
本欲避驄馬,何如同鹢舟。
豈伊今日幸,曾是昔年游。
莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
堤緣九里郭,山面百城樓。
自顧躬耕者,才非管樂儔。
聞君薦草澤,從此泛滄洲。


(下し文) 黄侍御と北津に舟を泛ぶ。
津 無くして蛟龍 患い,日夕して常に安(おだやか)に 流る。
本より驄馬 避んと欲す,何んぞ鹢舟 同うするが如し。
豈(ねがわく)ば 伊れ 今日 幸なれ,曾て是 昔年游ぶ。
琴に中りて鶴(かく)を奏ずる莫れ,且 波上の鷗(おう)に隨う。
堤は縁る九里の郭、山は面す百の城樓。
自から躬耕の者を顧る,才 管樂の儔(ちゅう)に非らず。
君に聞く草澤を薦めるや,從って此れ 滄洲に泛ぶと。


(現代語訳)
黄県令と北津の渡し場から舟を泛べる。
湧き出る水がなくて蛟龍が患ってくれている。だから、ひがな一日、漢水もずっと穏やかに流れてくれている。
はじめから、青白交じりの元気のいい馬での遊びを避けたいと思っている。どうしたことか鷁首のついた船での遊びをするというどちらも同じように避けたいところだ。
できることならこの遊びで今日の一日何事もなく幸せ過ごせたらいい。以前、ずっと昔のことであるがこの遊びをしたことがある。
琴を弾いてくれているのに自分詠う順番がも割ってこないでくれ、そうして、波間に浮かぶ鴎は詠わないから従っていく。
大堤は九里四方の郭に妓楼街がある。そこから峴山に向かって、樓閣の屋根が連なっている。
自分からこうして隠遁して一から畑を耕すことから始めているものであるから、文才はあっても管楽、音楽のたぐいは才能はないのである。
あなたに聞くのですがこのまま民間人を勧めますか、そうであれば、ここにいることこの中州に浮んでいることは隠遁して棲んでいるところということなのだ。

嚢陽一帯00

(訳注)
輿黄侍御北津泛舟

黄県令と北津の渡し場から舟を泛べる。
黄侍御 黄県令。○北津 襄陽の大堤側と対岸の樊城を結ぶ渡し場と思われる。地図を参考にしてみるとよく理解できる。漢水が大きく湾曲した上流部に大堤があり、そこから見た景色を詠っている。孟浩然の詩特有の時間の経過、視線の動きを感じさせる詩である。


津無蛟龍患,日夕常安流。
津 無くして蛟龍 患い,日夕して常に安(おだやか)に 流る。
湧き出る水がなくて蛟龍が患ってくれている。だから、ひがな一日、漢水もずっと穏やかに流れてくれている。

○津 船着き場。湧水。ここでは、、川の底から湧いてくる水の動きを意味する。蛟龍が騒いで起こるとされていた。○蛟竜 みずちと竜。蛇に似て足があり人を食うという。川の流れが乱流になることをいう動きのある表現に繋がっている。○病気になる。わずらわしいことがあって休む。○日夕 太陽が昇って夕暮れになるまで。一日中。ここでも日と夕と時間の経過を表す語がつかわれている。○常安流 常時、安定した流水である。王維の詩は静止画表現であるのに孟浩然は動画表現である。李白・杜甫は使い分けることが多い。

本欲避驄馬,何如同鹢舟。
本より驄馬 避んと欲す,何んぞ鹢舟 同うするが如し。
はじめから、青白交じりの元気のいい馬での遊びを避けたいと思っている。どうしたことか鷁首のついた船での遊びをするというどちらも同じように避けたいところだ。
驄馬 青白色の馬。○鷁舟 水難除けに鷁首を船首に飾っている船のこと。高貴なものがのる舟遊びをする舟。


豈伊今日幸,曾是昔年游。
豈(ねがわく)ば 伊れ 今日 幸なれ,曾て是 昔年游ぶ。
できることならこの遊びで今日の一日何事もなく幸せ過ごせたらいい。以前、ずっと昔のことであるがこの遊びをしたことがある。
 これ。人を指す。二人称。


莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
琴に中りて鶴を奏ずる莫れ,且 波上の鷗に隨う。
琴を弾いてくれているのに自分詠う順番がも割ってこないでくれ、そうして、波間に浮かぶ鴎は詠わないから従っていく。


堤緣九里郭,山面百城樓。
堤は縁る九里の郭、山は面す百の城樓。
大堤は九里四方の城郭の手前に妓楼街がある。そこから峴山に向かって、樓閣の屋根が連なっている。
 「大堤」のこと。ちなみに大堤は、唐代にあって、襄陽の城を西北から東南にめぐり流れる漢江ぞいを中心とする長大な堤防付近に栄えた「妓楼街」の名称でもある。李白「大堤曲」○九里郭 襄陽の城郭。


自顧躬耕者,才非管樂儔。
自から躬耕の者を顧る,才 管樂の儔(ちゅう)に非らず。
自分からこうして隠遁して一から畑を耕すことから始めているものであるから、文才はあっても管楽、音楽のたぐいは才能はないのである。
躬耕 天子が畑を耕す礼式のこと。この場合、能力のあるものが、一から畑を耕すことから始めるという意味である。この語は諸葛孔明がこの地で若いころ梁甫吟を唄って農耕をしたことを意味するものである。○ 友。類い。匹敵。


聞君薦草澤,從此泛滄洲。
君に聞く草澤を薦めるや,從って此れ 滄洲に泛ぶと。
あなたに聞くのですがこのまま民間人を勧めますか、そうであれば、ここにいることこの中州に浮んでいることは隠遁して棲んでいるところということなのだ。
草澤 草原や湿原。官僚にならない民間人。能力を持ちながら隠遁したもの。○滄洲 川が湾曲して中州になっているところ。隠者の住むところ。


輿黄侍御北津泛舟
津無蛟龍患,日夕常安流。
本欲避驄馬,何如同鹢舟。
豈伊今日幸,曾是昔年游。
莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
堤緣九里郭,山面百城樓。
自顧躬耕者,才非管樂儔。
聞君薦草澤,從此泛滄洲。


blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/



唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次


黄鶴楼送孟浩然之広陵  李白15

黄鶴樓送孟浩然之廣陵 李白15 

安陸・南陽・嚢陽 李白00

黄鶴樓送孟浩然之廣陵
故人西辞黄鶴楼、烟花三月下揚州。
わたしに親しき友がいる、街の西方、黄鶴楼に別れをつげ、春がすみに牡丹咲き誇る三月、揚州へと下って行った。
孤帆遠影碧空尽、唯見長江天際流。
一槽の帆かけ舟、遠ざかりゆく帆影は、ぬけるような青空に吸われて消えてしまった。ただわが目に映るのは、天空に果てしなくつづく長江の流れだけだ。

わたしに親しき友がいる、街の西方、黄鶴楼に別れをつげ、春がすみに牡丹咲き誇る三月、揚州へと下って行った。
一槽の帆かけ舟、遠ざかりゆく帆影は、ぬけるような青空に吸われて消えてしまった。ただわが目に映るのは、天空に果てしなくつづく長江の流れだけだ。


魏太尉承班二首


『黄鶴樓送孟浩然之廣陵』 現代語訳と訳註
(本文)
黄鶴樓送孟浩然之廣陵
故人西辞黄鶴楼、烟花三月下揚州。
孤帆遠影碧空尽、唯見長江天際流。


(下し文)
(黄鶴樓にて孟浩然が廣陵に之くを送る)
故人 西のかた黄鶴楼を辞し、烟花 三月 揚州に下る。
孤帆 遠く影し 碧空に尽き、唯見る 長江の天際に流るるを。

(現代語訳)

(黄鶴楼で、孟浩然が広陵にゆくのを見送る。)
わたしに親しき友がいる、街の西方、黄鶴楼に別れをつげ、春がすみに牡丹咲き誇る三月、揚州へと下って行った。
一槽の帆かけ舟、遠ざかりゆく帆影は、ぬけるような青空に吸われて消えてしまった。ただわが目に映るのは、天空に果てしなくつづく長江の流れだけだ。

(訳注)

黄鶴樓送孟浩然之廣陵
(黄鶴楼で、孟浩然が広陵にゆくのを見送る。)

黄鶴楼 江夏(現在の湖北省武漢市武昌地区)の黄鶴(鵠)磯に在った楼の名。(現在は蛇山の山上に再建)。仙人と黄色い鶴に関する伝説で名高い。

黄鶴伝説 『列異伝れついでん』 に出る故事。 子安にたすけられた鶴 (黄鵠) が、子安の死後、三年間その墓の上でかれを思って鳴きつづけ、鶴は死んだが子安は蘇って千年の寿命を保ったという。 ここでは、鶴が命の恩人である子安を思う心の強さを住持に喩えたもの。
孟浩然 盛唐の詩人。689-740。李白より11歳ほど年長の友人。襄陽(湖北省襄樊市)の出身。王維・韋応物・柳宗元と並んで、唐代の代表的な自然詩人とされる。
広陵 揚州(江蘇省揚州市)の古名。この詩は、李白二十八歳の作とする。通説であるが、異説もある。


故人西辞黄鶴楼、烟花三月下揚州。
わたしに親しき友がいる、街の西方、黄鶴楼に別れをつげ、春がすみに牡丹咲き誇る三月、揚州へと下って行った。
故人 以前からの、親しい友人。
辞 別れをつげる。辞去する。
烟花三月 烟は煙。春かすみにつつまれ燃えるような牡丹の花々の咲き誇る三月。
揚州 大運河が長江と交わる交通の要所。唐代では江南随一の繁華をきわめたところ。

孤帆遠影碧空尽、唯見長江天際流。
一槽の帆かけ舟、遠ざかりゆく帆影は、ぬけるような青空に吸われて消えてしまった。ただわが目に映るのは、天空に果てしなくつづく長江の流れだけだ。
弧帆 一つだけの帆影。
○碧空-碧玉のように青い空。
天際 天空の果て。

○韻字  楼・州・流

宮島(3)

黄鶴伝説
『列異伝れついでん』 に出る故事。 子安にたすけられた鶴 (黄鵠) が、子安の死後、三年間その墓の上でかれを思って鳴きつづけ、鶴は死んだが子安は蘇って千年の寿命を保ったという。 ここでは、鶴が命の恩人である子安を思う心の強さを住持に喩えたもの。


blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/




唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次



贈孟浩然 李白14

贈孟浩然  李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -14 
nat0026

 病気が治った李白は、安陸にいる孟浩然に会いにいき、師と仰ぐようになる。李白は、古い城郭都市の安陸で孟浩然に詩を贈っている。


贈孟浩然         

吾愛孟夫子、風流天下聞。
紅顔棄軒冕、白首臥松雲。
酔月頻中聖、迷花不事君。
高山安可仰、従此揖清芬。

孟浩然に贈る
私の愛する孟先生,先生の風流は 天下に聞こえている。
若くして高官になる志を棄て、白髪になるまで松雲に臥しておられる。
月に酔って聖にあたったといわれる、花を迷うのは君主に仕えないことだ。
高山はどうして仰ぐことができようか。ここから清らかな香りを拝します

吾は愛す孟夫子(もうふうし)、風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ。
紅顔(こうがん)  軒冕(けんめん)を棄て、首(はくしゅ)  松雲(しょううん)に臥(ふ)す。
月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り、に迷いて君に事(つか)えず。
高山(こうざん)  安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや、此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す
嚢陽一帯00


現代語訳と訳註
(本文)
 贈孟浩然         
吾愛孟夫子、風流天下聞。
紅顔棄軒冕、白首臥松雲。
酔月頻中聖、迷花不事君。
高山安可仰、従此揖清芬。

(下し文)
吾は愛す孟夫子(もうふうし)、風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ。
紅顔(こうがん)  軒冕(けんめん)を棄て、首(はくしゅ)  松雲(しょううん)に臥(ふ)す。
月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り、に迷いて君に事(つか)えず。
高山(こうざん)  安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや、此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す

(現代語訳)
私の敬愛する孟先生、先生の風流は隠遁されていても 天下に聞こえています。
若くして高官になる志を棄て、白髪になるまで 松雲の間に臥しておられる。
月下に酒を飲んで 聖にあたったと答え、君主に仕えずに  花を眺めておられる。
高山は近寄りがたいので、私はここから  清らかな香りを拝しています。

(訳注)
吾愛孟夫子、風流天下聞。

吾は愛す孟夫子(もうふうし)、風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ。
私の敬愛する孟先生、先生の風流は隠遁されていても 天下に聞こえています。

紅顔棄軒冕、白首臥松雲。
紅顔(こうがん)  軒冕(けんめん)を棄て、首(はくしゅ)  松雲(しょううん)に臥(ふ)す。
若くして高官になる志を棄て、白髪になるまで 松雲の間に臥しておられる。
軒冕 古代中国で、大夫(たいふ)以上の人の乗る車と、かぶる冠。 高位高官。また、その人。

酔月頻中聖、迷花不事君。
月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り、に迷いて君に事(つか)えず。
月下に酒を飲んで 聖にあたったと答え、君主に仕えずに  花を眺めておられる。
 天使に使えること。朝廷での仕事。

高山安可仰、従此揖清芬。
高山(こうざん)  安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや、此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す
高山は近寄りがたいので、私はここから  清らかな香りを拝しています。
清芬 盛んににおうさま。本来はよい香りにいうが、悪臭にもいう。「花の香りが―と漂う」「酒気を―とさせる」 
DCF00117



 孟浩然は三十八歳であり、李白は二十六歳であった。隠遁している憧れの孟浩然を「白首」と言った。孟浩然は、襄陽の近郊の鹿門山に別業(別荘)を営んでいた。

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/



唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次

プロフィール

紀 頌之

Twitter プロフィール
メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
最新記事(画像付)
メッセージ

名前
メール
本文
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
最新記事(画像付)
記事検索
  • ライブドアブログ