杜甫 6 兗州城楼
開元25年 737年 26歳
五言律詩。河南・山東に放浪生活を送っていたころ、兗州都督府司馬の官にあった父の杜閑を訪れた折の詩。
登兗州城楼
東郡趨庭日、南楼縦目初。
浮雲連海岱、平野入青徐。
孤嶂秦碑在、荒城魯殿余。
従来多古意、臨眺独躊厨。
東郡ここ兗州の地で父の教えを奉じている日にあって、州城の南楼で眺めをほしいままにしたその初めのときだ空に浮かぶ雲は海や泰山のかなたにまでつらなり、平野は青州や徐州の方まで入りこんでいた。
ひとりそばだつ屏風山には秦の始皇帝の石碑が今なお残っており、荒れはてた町には魯王の宮殿がそのあとをとどめているのだ。
これまで古をなつかしむ気持ちの多かったわたしは、城楼に登り立って四方を眺めながらただひとりたち去りかねているのだ。
(下し文)兗州の城楼に登る
東郡 庭に趨(は)する日、南楼 目を縦(ほしい)ままにする初め
浮雲は 海岱に連なり、平野は 青徐に入る
孤峰には秦碑在り、荒城には魯殿余る
従来 古意多し、臨眺して独り躊厨す
東郡趨庭日、南楼縦目初。
東郡ここ兗州の地で父の教えを奉じている日にあって、州城の南楼で眺めをほしいままにしたその初めのときだ。
○東郡 秦のときの郡名で、兗州はその郡に属していた。○趨庭 庭さきを走りまわる。 『論語』季氏篇に、孔子の子の鯉が「庭を趨って」過ぎたとき、父の孔子が呼びとめて「詩」と「礼」とつまり、詩経と書経を学ぶようにさとしたとあるのにもとづき、子供が父の教えを受けることをいう。この『論語』のことばを使用するのは、兗州のすぐ東に孔子の故郷である曲阜があることによる。この後、望嶽を作るも孔子にあやかる。○南楼 兗州楼の南門の楼。○縦目 ほしいままに見渡す。
浮雲連海岱、平野入青徐。
空に浮かぶ雲は海や泰山のかなたにまでつらなり、平野は青州や徐州の方まで入りこんでいた。
○海岱 東の海と東北にそびえる泰山のこと。○青徐 青州と徐州。ともに太古の九州の一つで、青州は兗州の北、徐州は兗州の南にひろがる地域をいう。『書経』萬貢篇に「海岱は唯れ青州」とある。
孤嶂秦碑在、荒城魯殿余。
ひとりそばだつ屏風山には秦の始皇帝の石碑が今なお残っており、荒れはてた町には魯王の宮殿がそのあとをとどめている。
○孤嶂 兗州の東南数十キロにある嘩山をいう。○秦碑 紀元前三世紀のころ、秦の始皇帝が巡幸の記念として建てた石碑。○荒城 ?州のすぐ東にある曲阜をさす。○魯殿 紀元前二世紀、漢の景帝の息子、魯の共王が建てた霊光殿をいう。
従来多古意、臨眺独躊厨。
これまで古をなつかしむ気持ちの多かったわたしは、城楼に登り立って四方を眺めながらただひとりたち去りかねているのだ。
○臨眺 高い所に登って遠くをながめる。○躊厨 躊躇。行くことをためらう。
○韻字 初・徐・余・厨。
杜甫は『登兗州城楼』と題した詩を書き兗州城の南楼からの眺めをうたっている。当時の兗州城は戦乱で荒廃し現存しないが、南楼の跡の崩れたレンガが積み重なってできた丘は少陵台と呼ばれ今も兗州の県城内の北寄りに位置する。
兗州市は、昔から「東文、西武、北岱、南湖」と呼ばれてきた
(東に孔子ゆかりの「三孔」を仰ぎ,西に水滸伝ゆかりの「梁山泊」があり、北には「泰山」がそびえ、南には「微山湖」を望むため)
また、「杜甫」ゆかりの地である少陵台もこの市にる。
少陵台は杜甫ゆかりの地である。この詩の5・6年後杜甫は李白と兗州で会い、終生の友誼を交わした。