漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

行路難

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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行路難 三首 其三 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白185

行路難 三首 其三 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白185


其三
有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。
儒教思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。
自分自身に光り輝く才能を持っていて世の中に大使は無名であることを尊いことという。どうして自分一人で崇高でいたとして大空の雲や満月ほど崇高といえるのか。
吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。
自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。
子胥既棄呉江上,屈原終投湘水濱。
呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、葉かは作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜 のすなになっている。
陸機雄才豈自保,李斯稅駕苦不早。
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず謀反の疑いで処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
華亭鶴唳渠可聞,上蔡蒼鷹何足道。
華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたい。 上蔡の敏俊な蒼鷹にしてもどうしてそうなりえたのか言わなくてもわかっている。
君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君は見ているだろう、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったことを。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって名声を拍したとして何になろうか。
 


(本文)其三
有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。
吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。
子胥既棄呉江上,屈原終投湘水濱。
陸機雄才豈自保,李斯稅駕苦不早。
華亭鶴唳渠可聞,上蔡蒼鷹何足道。
君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
(下し文)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損(おと)す

子胥は既に棄てらる呉江の上(ほとり) 屈原は終に投ず湘水の浜

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道(いう)に足らむ

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須(もちひ)るや


(詩訳)

儒虚思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。
自分自身に光り輝く才能を持っていて世の中に大使は無名であることを尊いことという。どうして自分一人で崇高でいたとして大空の雲や満月ほど崇高といえるのか。
自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。
呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、葉かは作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜 のすなになっている。
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず謀反の疑いで処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたい。 上蔡の敏俊な蒼鷹にしてもどうしてそうなりえたのか言わなくてもわかっている。
君は見ているだろう、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったことを。
今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって名声を拍したとして何になろうか。



李白「行路難」三首其三 訳注解説
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有耳莫洗潁川水 有口莫食首陽蕨
儒虚思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。
有耳莫洗潁川水 、堯の時代の許由という高潔の士は、堯から天子の位をゆずろうと相談をもちかけられたとき、それを受けつけなかったばかりか、穎水の北にゆき隠居した。堯が又、かれを招いて九州の長(当時全国を九つの州に分けていた)にしようとした時、かれはこういぅ話をきくと耳が汚れると言って、すぐさま穎水の川の水で耳を洗った。○首陽蕨 伯夷、叔齊のかくれた首陽山のわらび。彼等は、祖国殷を征服した周の国の禄を食むのを拒み、この山に隠れワラビを食べて暮らし、ついに餓死した。陶淵明「擬古九首其八
陶淵明「飲酒其二
積善云有報、夷叔在西山。
善惡苟不應、何事立空言。
九十行帶索、飢寒况當年。
不賴固窮節、百世當誰傳。
(末尾に訳注を参照)




含光混世貴無名 何用孤高比雲月
自分自身に光り輝く才能を持っていて世の中に大使は無名であることを尊いことという。どうして自分一人で崇高でいたとして大空の雲や満月ほど崇高といえるのか。



吾観自古賢達人 功成不退皆損身
自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄呉江上 屈原終投湘水浜
呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、葉かは作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜 のすなになっている。
子胥 伍子胥(ごししょ、? - 紀元前484年)は、春秋時代の政治家、軍人。諱は員(うん)。子胥は字。復讐鬼。呉に仕え、呉の躍進に大きく貢献したが、次第に呉王から疎まれるようになり、最後には誅殺された。伍子胥は夫差から剣を渡され自害するようにと命令された。
 その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。
 その言葉が夫差の逆鱗に触れ、伍子胥の墓は作られず、遺体は馬の革袋に入れられ川に流された。人々は彼を憐れみ、ほとりに祠を建てたという。ちなみにこの行為が日本の端午の節句や中国での厄よけの風習として、川に供養物を流す由来になったと言われている。
屈原 (くつげん、紀元前343年1月21日? - 紀元前278年5月5日?)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。

陸機雄才豈自保 李斯稅駕苦不早
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず謀反の疑いで処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
陸 機(りくき261年- 303年)は、呉・西晋の儒家文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つ、陸氏の出身で、祖父・父は三国志演義の登場人物としても有名な陸遜・陸抗。謀反の疑いで処刑された。
李 斯(り し? - 紀元前208年)儒家中国秦代の宰相。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。



華亭鶴唳何可聞 上蔡蒼鷹何足道
華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたい。 上蔡の敏俊な蒼鷹にしてもどうしてそうなりえたのか言わなくてもわかっている。
華亭県(かてい-けん)は中華人民共和国甘粛省平涼市に位置する県。県人民政府の所在地は東華鎮。華亭県は東は崇信県、西は庄浪県、寧夏回族自治区の涇源県、南は張家川回族自治県と陝西省隴県、北は崆峒區に隣接する。
上蔡県(じょうさい-けん)は中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する県。



君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君は見ているだろう、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったことを。
張翰昔、晋の張翰が、秋風に故郷である呉の菰菜(こさい)、蓴羹(じゅんさいのあつもの)、鱸魚膾(すずきのなます)を思い出し、それを食べたい一念で官を辞して故郷へ帰った。この後、すぐ世が乱れた。人々は、世の乱れを察していた張翰が故郷の味を口実に先手を打ったのだと思ったという逸話。李白「秋荊門を下る」

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって名声を拍したとして何になろうか。




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道教思想により死んだあとの名声より今の一杯の酒を楽しむ李白。
ここでの 行路難 三首其三 李白
迭裴十八図南歸嵩山其二 李白

 それとまったく好対照の陶淵明の飮酒二十首 其二  陶淵明「九十行く索を帶びし,飢寒况んや當年をや。」末尾に紹介する。





迭裴十八図南歸嵩山其二 李白
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君思穎水綠、忽復歸嵩岑。
歸時莫洗耳、爲我洗其心。
洗心得眞情、洗耳徒買名。
謝公終一起、相與済蒼生。
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君は頴水のあの澄み切った緑色を思い出し、急に嵩山の高峰にまた帰ろうとしている。
帰った時を境に、耳を洗うようなことはしないでくれ、わたしのために、心を洗うことをしてくれないか。
心を洗うことができたら、真理、情実のすがたをつかむことが出来よう。かの許由のように耳を洗って、名前が売れるだけでつまらないものだ。
晉の時代の謝安石が、ついに起ちあがって活躍した、その時は君とともに天下の人民を救うためやろうではないか。
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裴十八図南の嵩山に帰るを送る 其の二
君は穎水(えいすい)の綠なるを思い、忽ち復た 嵩岑に帰る
帰る時 耳を洗う莫れ、我が為に 其の心を洗え。
心を洗わば 真情を得ん、耳を洗わば 徒らに名を買うのみ。
謝公 終(つい)に一たび起ちて、相与に 蒼生を済わん。
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飮酒二十首 其二  陶淵明
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積善云有報、夷叔在西山。
善惡苟不應、何事立空言。
九十行帶索、飢寒况當年。
不賴固窮節、百世當誰傳。
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飮酒 其二
積善 報い有りと 云ふも,夷叔 西山に 在り。
善惡 苟にも 應ぜざらば,何事ぞ 空言を 立てし。
九十 行(ゆくゆ)く 索を 帶びし,飢寒 况(いは)んや 當年をや。
固窮の節に 賴らざれば,百世 當(まさ)に 誰をか 傳へん。
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積み重ねた善行には、(それに相応する)善い報いがあるといわれている(が)。(しかしながら正義を貫いた)伯夷と叔齊は、(節を保持しようとしたために、却って世から遁れざるを得ず、)首陽山に(隠棲して、餓死するはめになって)いる。

正義を貫いた伯夷と叔齊は、節を保持しようとしたために、却って首陽山に隠棲して、餓死するはめになったが、このような、かりそめにも善と悪とに相応した結果が伴わない場合には。(もしもかりそめにも、善と悪とに、相応したむくいがないのならば、)どうしてこのような「積善云有報」というような「空言」を言ってきたのか。

九十歳になんなんとした栄啓期は、縄を帯にして、楽器を打ち鳴らして歌を唱うという行為をした。
(栄啓期の老年期の)貧窮生活は、壮年時代よりも一層のものだ。
貧窮を固守する節操に依拠しないとすれば。仏教的な「積善云有報」ではなくて、清貧に甘んじる節操・儒教的な「固窮節」こそが、後世に伝うべきものであろう。
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行路難 三首 其二 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白184

行路難 三首 其二 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白184




李白は長安を去って、河南の開封地方に行ったが、そのとき、洛陽にも足を延ばしている。時に744年天宝三年である。このとき、詩聖といわれる杜甫との出会いがあった。
このとき、杜甫は、山東地方漫遊から帰って、試験にも落第して、たまたま洛陽に住んでいた。二人が会ったときは、李白は四十四歳、杜甫は十一歳下の三十三歳である。杜甫は、その性格から、当時の虚偽に満ちた世相を厭わしく思っていたところ、たまたま神仙を求め楽天的に振る舞う豪快な李白を見て、その詩にひきつけられ、意気投合して共に遊び、共に飲み、共に詩を作るようになった。また、詩人高適ともめぐり会う遭遇し、三人共に会して痛飲し、時世を憤慨したものである。
李白「秋猟孟諸夜帰置酒単父東楼観妓」
杜甫「書懐」「昔游」

 行路難其の二は、唐王朝の体制には居場所がないこと、魑魅魍魎の棲みかで、聖人、賢人の活躍の機会はないことを述べている。杜甫は妻を娶って間もないこともあり、また父の意向で士官を強く要望されていた。詩人として生きていくことにしているが、二人とも岐路に立っていると感じていた。

其二
大道如青天,我獨不得出。
天子の御政道は青天のように清朗で広く包み込むものである、私、ひとりその道を得ることができなかった。
羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
はずかしいことではあるが長安城中で若い衆らとやってしまう、闘鶏や闘犬に梨栗程度の賭けをして遊んでいたのだ。
彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
馮驩は剣を弾いて作詩した歌を唄い宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかった。
淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせた、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
君見ているだろう  戦国燕の昭王は郭隗を重用したではないか、鄒衍を迎えるに 礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材の登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。

昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金台。
それだけの昭王であっても今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。
行路難,歸去來。

目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ隠遁して桃源郷に帰ろう。

其二
大道如青天,我獨不得出。
羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金台。
行路難,歸去來。

其の二

大道(たいどう)は晴天の如し、我(われ)独り出ずるを得ず。

()ず  長安社中の児()を逐()うて、赤鶏(せきけい) 白狗(はくく) 梨栗(りりつ)を賭するを。

剣を弾じ歌を作()して苦声(くせい)を奏(そう)し、裾(すそ)を王門に曳きて  情に称(かな)わず。

淮陰(わいいん)の市井 韓信(かんしん)を笑い、漢朝(かんちょう)の公卿  賈生(かせい)を忌()む。


君見ずや 昔時(せきじ)の燕家(えんか)郭隗を重んじ? (すい)を擁し節(せつ)を折って嫌猜(けんさい)無し

劇辛(げきしん) 楽毅(がくき) 恩分(おんぶん)に感じ、肝を輸(いた)し膽(たん)を剖()いて英才を效(いた)

昭王の白骨 蔓草(まんそう)?(まと)わる、誰人(たれひと)か更に掃(はら)わん 黄金(おうごん)

行路(こうろ)は難(かた)し、いざ帰去来(かえりなん)



天子の御政道は青天のように清朗で広く包み込むものである、私、ひとりその道を得ることができなかった。
はずかしいことではあるが長安城中で若い衆らとやってしまう、闘鶏や闘犬に梨栗程度の賭けをして遊んでいたのだ。
馮驩は剣を弾いて作詩した歌を唄い宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかった。
淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせた、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
君見ているだろう  戦国燕の昭王は郭隗を重用したではないか、鄒衍を迎えるに 礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材の登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。

それだけの昭王であっても今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。
目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ隠遁して桃源郷に帰ろう。





其二
大道如青天,我獨不得出。

天子の御政道は青天のように清朗で広く包み込むものである、私、ひとりその道を得ることができなかった。
○大道 道は万物に備わったそれぞれの道をいい、それら万物すべてに共通する道をしめす。天下の御政道




羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
はずかしいことではあるが長安城中で若い衆らとやってしまう、闘鶏や闘犬に梨栗程度の賭けをして遊んでいたのだ。
○羞逐 はずかしいことではあるがやってしまう。
○兒 若い衆、任侠の使徒。子供は童。○梨栗 実際には、お金をかけたのかもしれないが、レートとして、高くないことを示している。



彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
馮驩は剣を弾いて作詩した歌を唄い宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかった。
○馮驩 すうかん斉の宰相孟嘗君に仕えた政治家。孟嘗君の食客として迎えられ、下級宿舎に泊まらせられた。馮驩は剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、食う魚なし」という歌を歌い出した。それを聞いた孟嘗君は中級宿舎に泊まらせた。すると馮驩はまた剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、外にも出ようも御輿がない」という歌を歌い出した。詳しくはウィキペディア「馮驩」「斉の宰相と馮驩」参照。○曳裾王門不稱情 弁舌の上手い使徒を雇い入れ、王に意見を述べさせても、述べた本質のところの理解はすぐにできるのではない。「史記」巻八十三は戦国の弁舌の徒・魯仲連と漢代に文章を以て重用された鄒陽の合伝にある故事に基づいている。



淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせた、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
○韓信 淮陰(現:江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。
 ○賈誼 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。李商隠「賈生」 李商隠:紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64 参照



君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
君見ているだろう  戦国燕の昭王は郭隗を重用したではないか、鄒衍を迎えるに 礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
○燕家重郭隗 昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを家臣の郭隗に聞いた。郭隗の返答は「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答え、昭王はこれを容れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。 ○擁彗折節無嫌猜 鄒衍(前305頃―前240) 戦国時代の陰陽五行家。斉の人。弁才にたけ、燕・斉を歴遊した。晩年、斉の使いとして趙に赴き、公孫竜を説得して尊敬された。陰陽のことを研究し、「五徳終始」説を提唱、春秋戦国時代に流行する「五行」説を社会・歴史の変化と王朝の交代になぞらえて、漢代の懺緯学の主な源流となった。著書の『鄒子』などは全部散逸した。 


劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材の登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。
○劇辛樂毅感恩分 劇辛は趙の国出身の人物で、郭隗の進言を聞き入れた燕昭王が「隗より始めよ」と富国強兵の為の人材優遇を始めて以降に、楽毅や鄒衍らと同様に、賢人を求め優遇する燕昭王の元へと赴き、燕の臣となった。楽毅は、戦国燕の武将で、昭王を助けて仇敵の斉を五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ稀代の軍略家。 ○輸肝剖膽效英才



昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金台。
それだけの昭王であっても今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。



行路難,歸去來。
目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ隠遁して桃源郷に帰ろう。



李白は人材登用が全くなされようとしない玄宗の唐王朝に嫌気がしたのだ。最後の2聯が言いたいことではない。国に帰ることを言いたいのではない。李林甫、高級官僚の讒言に動かされ、淮陰の街の使徒のように宦官たちがよき人材を侮るようなことをしている。李白は憤っていたのであるが、無能呼ばわりだけしたのではおとがめられるので、自分の進むべき道が分からないと思考方向を自らに向けたのだ。
燕の昭王、孟嘗君らが登用した歴史上で有名な七人の快男子、馮驩、韓信、韓信、鄒衍、郭隗、劇辛、樂毅について取り上げ、適正な登用がなされれば、かならず「感恩分、輸肝剖膽效英才」(恩分に感じ、肝を輸し膽を剖いて英才を效す)ということになるのであるということが李白の主張である。

 陶淵明をいいとは思っていないということがこの詩ではっきりしている。これについては別のところで取り上げたい。


 

行路難 三首 其一 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白183

行路難 三首 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白183

 この詩は李白が杜甫に悩みを打ち分けるという観点でみると味わい深い。

 杜甫は、洛陽にいて同族、血縁、貴族公子などとの付き合いに辟易していた。李白との出会いで、その風采が超絶しており、天才的な詩に対し一挙にカルチャーショックを受けてしまった。李白が東に旅すると聞いたが、叔母の葬儀があるので、一緒に旅立てない。後を追って往くことにした。叔母の葬儀を終えて、この「謫仙人」李白を求めて東方の梁宋(河南開封、商邱地方)に遊ぼうとしたのである。
天宝3載744年杜甫33歳 李白44歳であった。


 その後の二人は、詩の交換を通じて情をうまく表現した傑作をのこす。先ず、杜甫が先輩の李白に贈った詩に
贈李白」がある。
秋來相顧尚瓢蓮、未就丹砂愧葛洪。
痛飲狂歌空度日、飛楊跋扈為誰雄。

(秋になり顔を見合わせると瓢か蓬のように頼りない、いまだ丹砂にも辿りつけず葛洪に合わせる顔がない。飲み明かし 歌い狂って 空しく日を送り、飛び跳ねて暴れているが 誰のためにやっているのだ。)
 杜甫は李白と遊んでいる嬉しい様を、歌に託して李白に贈っている。実際には詩のやり取りをしているのだろうが李白の方はあまり残っていない。

 杜甫と李白は一層、仲睦まじくなり、その年の秋には梁宋に出掛けている。杜甫「書懐」、李白「秋猟孟諸夜帰置酒単父東楼観妓」参照
ここには岑参(しんじん)、高適(こうせき)の詩人たちもいたので、共に酒を飲み、詩を賦して意気投合し愉快な日々をおくった。城中の酒楼や吹台に上って眺望を恣にして、古を懐かしんでいる。

  その翌年、天宝4載745年杜甫34歳は、李白が魯郡の任城に家を持ったので、ここに杜甫を迎えて、さらに、互いに親交を深めている。この頃が二人とも詩情が溢れ、詩作が最も盛んな時期である。

 李白は杜甫の詩才を讃え、杜甫は李白を慕い賞賛の辞句を数多く入れて詩を作っている。このように二人が極めて親しく交わり、詩を贈答しあったことは歴史の偶然だったのか、必然なのか、とはいえ、漢詩文学にとっては画期的なことと特筆されている。

 李白も、現実の社会では障害や自分の奔放さの性格から苦難を免れないと悟っていたので、初めて出会い親しくなった杜甫に打ち明けたのだ。

 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠うものだ。李白は、食事も咽喉を通らず茫然として八方ふさがりであった。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたいと杜甫に訴えた。朝廷を放免されたことは李白にとって、死ぬほどのショックなことだったのだ。でも李白はプラス思考の詩人だ。明るい。



其一
金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。
金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万銭もする。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
停杯投箸不能食,拔劒四顧心茫然。
そうやって盃を交わしていても、杯をおき、箸をおく。食べてはいられない気持ちなのだ。気分を変えるため、剣を抜き、四方の霊に問うてみるが、心は茫然としてとりとめない。
欲渡黄河冰塞川,將登太行雪滿山。
今までのように黄河を渡るようなことしようとしても、心の氷が川すじを塞いでしまうのだ。太行山に登るようなことしようとしても、心に積もった雪が山をいっぱいにしている。
閑來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。
そこで、太公望をまねて、きれいでしずかなみどりの谷川で釣糸を垂れたのだ。ふと気がつくと、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
行路難,行路難,多岐路,今安在。
これから生きる行路は困難だ。どの行路も困難だ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。迷路に入ったようだ、いまはいったい、どどこにいるというのか?
長風破浪會有時,直挂雲帆濟滄海。

偏西風の大風に乗じてはるか波をのりこえていくような時期がいつかは来るのだ。その時がきたら、ただちに、雲のように風に乗る帆をかけて、理想の仙界に向かう大海原をわたっているだろう。



其一
金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。
停杯投箸不能食,拔劒四顧心茫然。
欲渡黄河冰塞川,將登太行雪滿山。
閑來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。
行路難,行路難,多岐路,今安在。
長風破浪會有時,直挂雲帆濟滄海。

金樽の清酒 斗十千,玉盤の珍羞(ちんしゅう) 直(あたい) 萬錢(ばんぜん)

杯を停め箸を投じて 食う能わず,劒を拔いて四顧し心 茫然(ぼうぜん)

黄河を渡らんと欲すれば冰は川を塞ぐ,太行に登らんと將れば雪は山に滿。

閑來(かんらい) 釣を垂る 碧溪(へきけい)の上,忽ち復 舟に乘じて日邊を夢む。

行路 難! 行路 難! 岐路 多し 今 安くにか在る。

長風 浪を破る 會ず時 有り,直ちに雲帆(うんぱん)を挂()けて 滄海(そうかい)に濟(わた)



金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万銭もする。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
そうやって盃を交わしていても、杯をおき、箸をおく。食べてはいられない気持ちなのだ。気分を変えるため、剣を抜き、四方の霊に問うてみるが、心は茫然としてとりとめない。
今までのように黄河を渡るようなことしようとしても、心の氷が川すじを塞いでしまうのだ。太行山に登るようなことしようとしても、心に積もった雪が山をいっぱいにしている。
そこで、太公望をまねて、きれいでしずかなみどりの谷川で釣糸を垂れたのだ。ふと気がつくと、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
これから生きる行路は困難だ。どの行路も困難だ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。迷路に入ったようだ、いまはいったい、どどこにいるというのか?
偏西風の大風に乗じてはるか波をのりこえていくような時期がいつかは来るのだ。その時がきたら、ただちに、雲のように風に乗る帆をかけて、理想の仙界に向かう大海原をわたっているだろう。





行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。李白は三首つくった。


(其の一)
金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。

金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万銭もする。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
斗十干 一斗一万銭。高い上等の酒。曹植の詩「美酒斗十干」にもとづく。
[李白「將進酒」
陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣歡謔。
(陳王の曹植は平楽観で宴を開いたとき。 陳王・曹植は斗酒を大金で手に入れ、よろこびたわむれることをほしいままにした。)
・陳王 三国時代魏の曹植のこと。 ・昔時 むかし。 ・平樂 平楽観。『名都篇』で詠う宮殿の名で、後漢の明帝の造営になる。(当時の)首都・洛陽にあった遊戯場。或いは、長安の未央宮にあった。○斗酒十千 斗酒で一万銭。曹植楽府詩、「一斗一万銭」。 ○斗酒 両義あり。わずかな酒。また、多くの酒。 ○斗 ます。少しばかりの量。少量の酒。多くの酒。 ○十千 一万。 ・恣 ほしいままにする。わがまま。勝手きままにふるまう。 ・歡謔 かんぎゃく よろこびたわむれる。]○珍羞 めずらしいごちそう。○直 値と同じ。



停杯投箸不能食,拔劒四顧心茫然。
そうやって盃を交わしていても、杯をおき、箸をおく。食べてはいられない気持ちなのだ。気分を変えるため、剣を抜き、四方の霊に問うてみるが、心は茫然としてとりとめない。
停杯 気持ちがのらない度いつの間にか酒を辞めている状態。○拔劒四顧 剣を抜いて四方の霊に問いただしてみる。



欲渡黄河冰塞川,將登太行雪滿山。
今までのように黄河を渡るようなことしようとしても、心の氷が川すじを塞いでしまうのだ。太行山に登るようなことしようとしても、心に積もった雪が山をいっぱいにしている。
太行 山の名。太行山脈(たいこうさんみゃく)は中国北部にある山地。山西省、河南省、河北省の三つの省の境界部分に位置する。太行山脈は東の華北平野と西の山西高原(黄土高原の最東端)の間に、北東から南西へ400kmにわたり伸びており、平均標高は1,500mから2,000mである。最高峰は河北省張家口市の小五台山で、標高2,882m。山脈の東にある標高1,000mほどの蒼岩山は自然の奇峰や歴史ある楼閣などの多い風景区となっている。山西省・山東省の地名は、この太行山脈の西・東にあることに由来する。



閑來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。
そこで、太公望をまねて、きれいでしずかなみどりの谷川で釣糸を垂れたのだ。ふと気がつくと、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
日辺 太陽の側と、天子の側という意味と、ここでは兼ねている。



行路難,行路難,多岐路,今安在
これから生きる行路は困難だ。どの行路も困難だ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。迷路に入ったようだ、いまはいったい、どどこにいるというのか?
多岐路 わかれみちが多いために逃げた羊を追うことができず、とうとう羊を亡ってしまった。ヘボ学者はそれと同様、多すぎる資料をもてあまして決断に迷い、いたずらに年をとってしまう、という故事がある。「列子」にみえる。ここは岐路から岐路へ、岐路が多い迷路のようだということ。
今安在 迷路のどこにいるのか。



長風破浪會有時,直挂雲帆濟滄海。
偏西風の大風に乗じてはるか波をのりこえていくような時期がいつかは来るのだ。その時がきたら、ただちに、雲のように風に乗る帆をかけて、理想の仙界に向かう大海原をわたっているだろう。
滄海 東方の仙界、蓬莱・方丈・瀛州に向かい海。あおうなばら。



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