答友人贈烏紗帽 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -293
答友人贈烏紗帽
領得烏紗帽,全勝白接蘺。
山人不照鏡,稚子道相宜。
答友人贈烏紗帽 李白
烏紗帽を領得して、全く白接蘺(り)に勝(まさ)る。
山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜(よろ)しと道(い)う。
鳥紗帽たしかに受け取りました
白接蘺よりずっといい
鏡で見てみたわけじゃないけど
子供は似合うと言ってます
ウィキペディア 李白像
現代語訳と訳註
(本文) 答友人贈烏紗帽
領得烏紗帽,全勝白接蘺。
山人不照鏡,稚子道相宜。
(下し文)
烏紗帽を領得して、全く白接蘺(り)に勝(まさ)る。
山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜(よろ)しと道(い)う。
(現代語訳)
烏紗帽を届けてくれて確かに受け取りました。白い接羅の帽子よりすべてに勝っている。
山で隠遁すべき人間が街にいるこの私が鏡を見るまでのことはないのだ、山間ではないけれど子供たちはよく似合ってるといっている。
(訳注) 答友人贈烏紗帽
領得烏紗帽,全勝白接蘺。
烏紗帽を領得して、全く白接蘺(り)に勝(まさ)る。
烏紗帽を届けてくれて確かに受け取りました。白い接羅の帽子よりすべてに勝っている。
○烏紗帽:絹で出来た礼装用の黒い帽子。
白接羅:白い接羅(せつり)。接羅は帽子の一種。昔、荊の地方長官だった山簡が被っていたことで有名。
山簡は竹林の七賢人である山濤の息子だが、それよりなにより酔ってこの白接蘺を前後反対に被り
町なかで馬に乗ったほどの「酔っぱらい」ぶりで名高い。
「山公」と言えば酔っぱらいの代名詞であり、李白はしばしば自分をこの山簡に例えている。
○山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一人、山濤の子。公は一般に尊称であるが、ここでは、とくに尊敬と親しみの気特がこもっている。山簡、あざなは季倫。荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。話は「世説」にある。 ○高陽 嚢陽にある池の名。 ○白接蘺 接蘺は帽子。
山人不照鏡,稚子道相宜。
山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜(よろ)しと道(い)う。
山で隠遁すべき人間が街にいるこの私が鏡を見るまでのことはないのだ、山間ではないけれど子供たちはよく似合ってるといっている。
○山人 山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。ここでは李白自身のことを指す。
![]() | ![]() | ![]() | ||
唐太宗戴幞頭 | 禮官戴幞頭 | 兩文人戴幞頭 | ||
![]() | ![]() | ![]() | ||
長腳羅幞頭 | 翹腳幞頭 | 翹腳幞頭 | ||
時代を遡ると、元代の雑劇に登場する山人は例外なくみな占い師であり、かつ自称ではなく他称である。また陸遊の〈新裁道帽示帽工〉(《劍南詩稿》卷39)では、「山人手段雖難及」と帽子作りの職人を山人と呼んでおり、《東京夢華録》巻 5 〈京瓦技芸〉等にみえる張山人は都会の寄席芸人であるなど、総じて山人とは「技術之士」(《太平廣記》巻72「張山人」)であったといえる。同じ現象は唐代にも見られる。宋初の《文苑英華》巻231「隠逸二・山人」に収める唐代の山人の詩の多くには売薬についての記述が見える。そもそも山人という語の出典は、南斉の孔稚圭「北山移文」(《文選》巻43)の「山人去兮曉猿驚」にあり、本来山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。いわゆる「終南の捷径」によって官途を求めた李泌のような人物もまた山人であったし、李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。現に李白は「答友人贈烏紗帽」(《李白集校注》巻19)で「山人不照鏡、稚子道相宜」と自ら山人を称している
「山公」
李白と道教48襄陽歌 ⅰ
秋浦歌十七首 其七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集251/350
秋浦歌十七首 其九 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -253/350
秋浦歌十七首 其十一 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集-255/350
烏紗帽
平巾幘(さく)帽
襄陽曲四首 李白
「あの儒教者の立派な人格者の晉の羊公でさえ、台石の亀の頭は、むざんに欠け落ちてしまって、苔だらけ。『涙を堕す碑』とよばれるのに、涙さえおとすことも出来ない。心も羊公のために、悲しむことさえ出来ない。
清々しい風、明月を眺め、その上、酒を飲むなら、これにまさることはない。」
どんなに笑われても、山公(山簡先生)のように生きたい。という李白であった。
中国では、昔から、茶屋、居酒屋のようなにぎやかに人を集めた場所で、「三国志」、とか、「王昭君」、「西施」など節をつけ、唄いながら講談をした。襄陽は交通の要衝で、大きな歓楽街もあった。そこで詠われた詩の「襄陽楽」を題材にして李白が詠ったのだが、同じ内容の絶句四首がある。李白の考え方をよく表している。(再掲)
現代語訳と訳註
李白『襄陽曲四首其一』
(本文)
襄陽行樂處、歌舞白銅蹄。
江城回淥水、花月使人迷。
(下し文)
嚢陽 行楽の処、歌舞 白銅鞋
江城 淥水回(めぐ)り、花月 人をして迷わせる
(現代語訳)
嚢陽はたのしい行楽の場所だ。人びとは、古いわらべ歌の「白銅蹄」を歌ったり踊ったりする。
江にのぞむこのまちは、うつくしい水にとりまかれ、なまめかしい花と月とが、人の心をまよわせる。
(訳注)
○裏陽曲 六朝の栄の隋王寵が作ったといわれる「嚢陽楽」という歌謡に、「朝に嚢陽城を発し、暮に大隄の宿に至る。大隄の諸女児、花顛郡の目を驚かす」とある。嚢陽曲は、すなわち賽陽楽であり、李白のこの第一首の結句は、隋王誕の歌の結句と似ている。なお、李白の、次にあげた「大隄の曲」、および 前の「嚢陽の歌」を参照されたい。○襄陽 いまの湖北省襄陽県。漢水にのぞむ町。李白はこの地から遠からぬ安陸に、三十歳前後の頃、定住していた。また、李白の敬愛する先輩の詩人、孟浩然は、裏陽の旧家の出身であり、一度は杜甫に連れられ玄宗にお目通りしたが仕えず、この地の隠者として終った。・白銅蹄 六朝時代に襄陽に流行した童謡の題。 ○淥水 清らかな水。 ○花月 花と月と。風流なあそびをさそうもの。(売春の誘い込みも含むと考えればわかりやすい)
李白 襄陽曲四首 其二
(本文)
山公醉酒時。 酩酊高陽下。
頭上白接籬。 倒著還騎馬。
(下し文)
山公 酒に酔う時、酩酊し 高陽の下
頭上の 白接籬、倒しまに着けて還(また)馬に騎(のる)
(現代語訳)
山簡先生はいつもお酒に酔っている、酩酊してかならず高陽池のほとりでおりていた。
あたまの上には、白い帽子。それを逆さにかぶりながら、それでも馬をのりまわした。
(訳註)
○山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一人、山濤の子。公は一般に尊称であるが、ここでは、とくに尊敬と親しみの気特がこもっている。山簡、あざなは季倫。荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。話は「世説」にある。 ○高陽 嚢陽にある池の名。 ○白接離 接寵は帽子。
李白 襄陽曲四首 其三
(本文)
峴山臨漢江、水淥沙如雪。
上有墮淚碑、青苔久磨滅。
(下し文)
峴山 漢江に臨み、水は緑に 抄は雪の如し
上に堕涙の碑有り、青苔に 久しく磨滅す
(現代語訳)
峴山は漢江に臨んでそびえたつ、ながれる水は清く澄み、川辺の砂は雪の白さだ。
山上には「墮淚碑」が有り、 青苔におおわれたまま永いので磨滅したように彫刻が見えない。
(こんなに哀れに苔だらけになってしまっている。ここで泣けるのか)
(訳註)
○峴山 襄陽県の東南にある山で、漢水にのぞむ。唐代の名勝の地。○漢江 漢水とおなじ。長江の一番大きな支流。 ○堕涙碑 晋の羊祜は、荊州の都督(軍事長官)として襄陽のまちを治めて人望があった。かれは生前、峴に登って酒を飲み、詩を作つたが、かれが死ぬと、襄陽の人びとはその人となりを偲んで、山上に石碑を立てた。その碑をみる人は、かれを思い出して涙を堕さないではいられなかったので、堕涙碑と名づけられた。名づけ親は、羊祜の後任で荊州の都督となった杜預、(杜甫の遠い先祖にあたる)である。
李白 襄陽曲四首 其四
(本文)
且醉習家池。 莫看墮淚碑。
山公欲上馬。 笑殺襄陽兒。
(下し文)
且らく酔わん 習家の池、堕涙の碑を看る莫れ。
山公 馬に上らんと欲すれは、笑殺す 嚢陽の児。
(現代語訳)
ともかく、習家池で酔いつぶれよう、墮淚碑になんか見てもしかたがない。
山公先生が馬に乗ろうとして、襄陽の子供たちが笑い転げてくれ。(その方がどんなにいいか)
(訳注)
○習家池 山簡がいつも酔っぱらった高陽池のこと。漢の習郁という人が、養魚のためにこの池をつくり、池のまわりの高い堤に竹などを植え、ハスやヒシで水面をおおい、以来、遊宴の名所となったと「世説」の注に見える。○笑殺 穀は調子を強める字。
死んで世に名を残したって、苔むすだけだろう。それなら、一生どれだけ飲めるのかといっても、たかが知れている。人に笑われたって今を楽しむほうがいい。ここで、酒好きな李白の「酒」を論じるのではない。(酒については別のところで述べる予定。)
子供についての考え方、に続いて、わらべ歌について、李白の考えを詠ったものだが、端的に言うと、峴山の羊祜、「堕涙碑」は儒教の精神を示している。それに対して、山簡を山公と山翁呼んでいるが、李白は自分のことをしばしばそう詠っている。竹林の七賢山濤の子の山簡、つまり、山簡先生と同じように自分もたとえ子供に笑われたって、酒を飲むほうがいいといっている。酒を飲むというのは現実社会、今生きていることを示すのである。(李白は山東で竹渓の六逸と称し遊ぶ)
李白は、自分の道徳観を故事になぞらえて正当化する手法をとっている。しかも、わかりやすいわらべ歌を題材にしているのである。
襄陽は、道教の宗派最大の聖地、武当山のおひざ元、門前町なのだ。ここでも道教の接点があるのだ。
(長安で寓居していた終南山も道教の本家地がある。元丹邱の関連でよく出てくる地名である。)
しかし、のちに、この道教のつながりで、中央官僚、しかも皇帝が李白のために新しいポストを作って迎えられるのだから、「大作戦」成功を見るのである。