尋高鳳石門山中元丹邱 李白235 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -234-#2
(高鳳石門山中の元丹邱を尋ぬ)
751年 李白は、葉州(河南省平頂山市葉県)の石門山(別名、西唐山)に道教の先輩元丹丘を訪ねている。元丹邱は嵩山の山居から石門山に移っていたようだ。
事前の約束もせずに突然この地を尋ねていったようだ。山路に難渋するようすが描かれている。(#2)
尋高鳳石門山中元丹邱 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -234-#1
尋高鳳石門山中元丹邱 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -234-#2
尋高鳳石門山中元丹邱 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -234-#3
尋高鳳石門山中元丹邱
尋幽無前期、 乘興不覺遠。
蒼崖渺難涉、 白日忽欲晚。
未窮三四山、 已歷千萬轉。』-#1
寂寂聞猿愁、行行見云收。
まわりがさびしく気持ちまで寂しくなっていると、悲しげな猿の声を聞こえてくる、道をそのまま進んでいると雲がいつの間にか消えてゆくのが目に入る。
高松來好月、空谷宜清秋。
高い所にすっと立っている松の上にわたしの趣向によく合う綺麗な月が昇ってきた、人けのない谷というものは これほどの清々しい秋にふさわしいというものだ。
溪深古雪在、石斷寒泉流。』
どこまでも続く奥深い渓谷、里では融けているのに残雪がある。岩の裂け目から、その融けた冷たい水が流れ出ている。』
峰巒秀中天、登眺不可盡。』-#2
高く突き出たような峰、大空の真ん中まで秀でている。登って眺めたいがとても登れるものではないということだ。』
丹邱遙相呼、顧我忽而哂。
遂造窮谷間、始知靜者閑。
留歡達永夜、清曉方言還。』-#3
○ 遠。晚。轉。/愁、秋。流。/天、盡。/哂。閑。還。
#1
幽(ゆう)を尋ねて前期(ぜんき)無く、興(きょう)に乗じて遠きを覚(おぼ)えず。
蒼崖(そうがい) 渺(びょう)として渉(わた)り難く、白日(はくじつ) 忽ち晩(く)れんと欲す。
未だ三四山(さんしざん)を窮(きわ)めず、已(すで)に歴(へ)たり 千万転(せんまんてん)。』
#2
寂寂(せきせき)として 猿の愁うるを聞き、行行(こうこう) 雲の収まるを見る。
高松(こうしょう) 好月(こうげつ)来たり、空谷(くうこく) 清秋(せいしゅう)に宜(よろ)し。
渓(たに)深くして古雪(こせつ)在り、石断(た)たれて寒泉(かんせん)流る。
峰巒(ほうらん) 中天(ちゅうてん)に秀(ひい)で、登眺(とうちょう) 尽(つ)くす可からず。』
#3
峰巒(ほうらん) 中天(ちゅうてん)に秀(ひい)で、登眺(とうちょう) 尽(つ)くす可からず。』
丹邱(たんきゅう) 遥かに相(あい)呼び、我を顧みて 忽(こつ)として哂(わら)う。
遂に窮谷(きゅうこく)の間(かん)に造(いた)り、始めて静者(せいじゃ)の閒(かん)なるを知る。
留歓(りゅうかん) 永夜(えいや)に達し、清暁(せいぎょう) 方(まさ)に言(ここ)に還(いた)る。』
尋高鳳石門山中元丹邱 #2 現代語訳と訳註
(本文) #2
寂寂聞猿愁、行行見云收。
高松來好月、空谷宜清秋。
溪深古雪在、石斷寒泉流。』
峰巒秀中天、登眺不可盡。』
(下し文)
寂寂(せきせき)として 猿の愁うるを聞き、行行(こうこう) 雲の収まるを見る。
高松(こうしょう) 好月(こうげつ)来たり、空谷(くうこく) 清秋(せいしゅう)に宜(よろ)し。
渓(たに)深くして古雪(こせつ)在り、石断(た)たれて寒泉(かんせん)流る。』
峰巒(ほうらん) 中天(ちゅうてん)に秀(ひい)で、登眺(とうちょう) 尽(つ)くす可からず。』
(現代語訳)#2
まわりがさびしく気持ちまで寂しくなっていると、悲しげな猿の声を聞こえてくる、道をそのまま進んでいると雲がいつの間にか消えてゆくのが目に入る。
高い所にすっと立っている松の上にわたしの趣向によく合う綺麗な月が昇ってきた、人けのない谷というものは これほどの清々しい秋にふさわしいというものだ。
どこまでも続く奥深い渓谷、里では融けているのに残雪がある。岩の裂け目から、その融けた冷たい水が流れ出ている。』
高く突き出たような峰、大空の真ん中まで秀でている。登って眺めたいがとても登れるものではないということだ。』
(訳注)#2
寂寂聞猿愁、行行見云收。
まわりがさびしく気持ちまで寂しくなっていると、悲しげな猿の声を聞こえてくる、道をそのまま進んでいると雲がいつの間にか消えてゆくのが目に入る。
○寂寂 まわりがさびしく気持ちがさみしい。○猿愁 日本猿と違って、手足が長い。特に泣き声が、悲鳴のように長く引っ張って啼くため、悲愴感を出す場合に比喩としても使われる。○云收 雲がいつの間にか消えてゆくこと。雲も長く尾を引いていることで寂寞感をだす。
高松來好月、空谷宜清秋。
高い所にすっと立っている松の上にわたしの趣向によく合う綺麗な月が昇ってきた、人気のない谷というものは これこそ清々しい秋にふさわしいというものだ。
○高松 高い所にすっと立っている松。○清秋 清々しい秋。
溪深古雪在、石斷寒泉流。』
どこまでも続く奥深い渓谷、里では融けているのに残雪がある。岩の裂け目から、その融けた冷たい水が流れ出ている。
○溪深 どこまでも続く奥深い渓谷。○古雪 里では融けているのに残雪がある
峰巒秀中天、登眺不可盡。』
高く突き出たような峰、大空の真ん中まで秀でている。登って眺めたいがとても登れるものではないということだ。
○峰巒 高く突き出たような峰。○秀中天 大空の真ん中まで秀でている。
(解説)
中国人は高い山に登るのが好きである。それは、重陽の日だけではない。道教の影響かもしれないし、そういう土壌に道教が生まれてきたのかもしれない。山水画と詩歌高山はつきものなのである。
この詩#2でも、「寂寂」+「猿愁」「行行」+「云收」「高松」+「好月」「空谷」+「清秋」。 「溪深」「古雪」「石斷」「泉流」「峰巒」「中天」「登眺」すべての句に山に関連した語が散りばめられており、作られている。しかもそれぞれの語が関連しあっているのである。上から読んでも下から読んでも意味が通るのである。