慰安婦 イム・ジョンジャ ハルモニの証言を見ていきたいと思います。 


イム・ジョンジャ
1922年 慶尚南道晋州市生まれ
1926年(5歳) 釜山に移住
1938年(17歳) 
釜山付近の地域から満州へ連行
8年間、台湾、香港、海林、大連、上海、ハルビンなどの地域で日本軍「慰安婦」として生活
1945年(24歳)
解放後、海林付近でキム某と約半年間同居

「16歳で就職して、約1年は通ったんだ。1年通って…」
「私が17歳の時に連行されたんだ。」

「日本の軍人なんだ。軍人がここ[肩に]星を付けて、刀を差して、帽子をかぶって。」
「それで、私が『どちら様ですか』って聞いたら、『お嬢さん、ちょっと話しましょう』って言うんだ。その時、横にいた人は韓国人だった」

「他の所から何度も来いって連絡が来るんだ。行けば、元締めにお金が入るんだよ。あの女を送れって。花代をくれるだろう。

私目当てに来る人はハタナカ中隊長 (東北亜歴史ネットより抜粋)

満州ですか・・・

あまりにも広いですね・・・。

で、このイム ハルモニは以前、「カン・スンジャ」という仮名で登場されています。過去の証言でここでは言及されていない点をまとめてみると、

・生年月日は1922年5月25日。
慰安所の主人は韓国人のおばさん
・最初の売春宿には日本の部隊が言及されていない

1938年頃、偽軍服を着た朝鮮人による少女誘拐が多かった時期ですよね。要するに朝鮮人の人買にさらわれ、売春宿に売られた、という典型例に過ぎません。それも慰安所ではなく、単なる売春宿。

で、最初の売春宿から次の売春宿に売られたところが、推定、中国黒竜江省の海林市。何歳なのかも全くの情報がありませんので、あくまで推測年齢19歳(1940年)。この頃になると、慰安所の設置に関して、各置屋から慰安所に女性を集めるようにしていましたので。なので、純然たる慰安所ではなく売春宿に近いですね。

それと、日本人が出てくるんですね「ハタナカ中隊長」

調べました。戦死したハタナカ中隊長を。戦死や名簿をざっと調べてみるとハタナカさんは結構いらっしゃるんですが、「中隊長」で戦死された方となると、お一人だけ該当。124連隊の第3機関銃中隊にいた畑中吉太大尉(1942年12月29日戦死)、ですかね。戦地はガダルカナル島ですけど・・・。調べ方が足りないかもしれませんが。

海林と言えば衛生部隊で知られる731部隊や関連する643支隊が有名なのですが、そこにもハタナカ中隊長はいませんでした。折角のきれいな想い出ではありますが、この「ハタナカ中隊長」証言はファンタジーの可能性が高いですね。

後半の証言が状況描写がほぼなく、前半だけしか裏を取れませんが(こういった慰安婦が多い。検証を妨げる意図があるのかもしれませんが)、前半は間違いなく朝鮮人人買による人身売買ですから、日本軍も、慰安婦も関係ありません。無関係の人を恨み続けるのは、本当に不幸な事だと思います。


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