大韓帝国は無気力に滅びたのではない(1) (2017.8.4 中央日報)
韓国駐箚軍、という軍隊が朝鮮半島に駐屯していました。これは1904年に日露戦争勃発に伴い編成された軍隊であり、この駐箚軍がその後の朝鮮半島駐屯日本軍へと変わっていきます。この韓国駐箚軍の事を言っているのでしょうか。
そして、この記事では、1904年から1910年にかけてすさまじい「国民戦争」をしたというのですが、、、
この韓国駐箚軍、兵力としては当初は5大隊。1大隊が560人編成でしたから、2800人という規模でした。たった2800人に対して大韓帝国軍、それも「新式軍隊」3万人と10倍の兵力もあったのに、2800人を全滅させられなかった?
韓国駐箚軍は1905年には第13師団と第15師団が駐箚軍の隷下となり、平時での人数が2万7000人規模へと拡大しました。これは日露戦争終了もあってロシア牽制の意味で配置されただけであり、大韓帝国軍との戦闘はなく、治安が安定していることもあって1907年には第13師団のみの1万2000人へと削減されています。1907年まで、「すさまじい国民戦争」はなかった事でこういった削減が行われたのですね。
で、日本軍の増員が行われたのは、ハーグ密使事件絡みですね。これによって削減した軍隊は元々駐屯していた第13師団の他に、歩兵1個旅団と騎兵4中隊(合計5000人)、また、更に歩兵2個連隊(3300人)を追加配備の2万人規模で駐屯する事になったのですが、それでもこの記事にある国民軍?14万1815人には到底及ばないのですが、、、この実態を紹介しますと、実は、これは地域で起きたアメリカの扇動による義兵騒動なんですね。この地域義兵騒動の詳細が以下の通り。
1907年8月以降で323回(平均140人) 4万5000人程度
1908年は1451回(平均50人弱) 7万2000人程度
1909年は898回(平均30人弱) 2万6000人程度
これほど扇動が繰り返されていたにも拘らず、1911年までの死者は襲われた警官や朝鮮半島採用の憲兵補助員員が50人ほどの合計136人。これって「すさまじい国民戦争」が本当に行われたのでしょうか?
1908年に朝鮮人から憲兵補助員が4000人近く採用されていて、私の祖先たちは、同胞殺しをしていたという事です。
この記事に書かれていた通りに、本当に「すさまじい国民戦争」が行われており、14万を超える兵力が存在していたのなら、日本兵の死者は数千単位であったはずです。そして、少なくとも数回は数万単位の戦闘があった事でしょう。一番規模の大きかった1907年でさえ平均140人って、最初からゲリラ戦でもやっていたとでもいうのかな?その割に日本側の死者が少なすぎるのはおかしいと思わないのでしょうか。
結局のところ、歴史を都合の良いように捏造しようとしているだけで、本当のところは、アメリカに唆されて騒動を起こして警察署などを襲ったものの、その多くが現地採用の朝鮮人憲兵補助員であり、同胞殺しが行われた、というのが史実なのです。
序でに、1908年に解散した大韓帝国軍。編成人数(実態ではないですよ)は8700人。装備は中国旧式大砲50門。そして、在朝鮮中国軍による訓練を100人規模で受けていたのですが、これが、「3万人の新式軍隊」の本当の姿です。
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「朝鮮は1894年の甲午倭乱で滅亡し、大韓帝国は1904年の甲辰倭乱で滅亡しました。この2つの倭乱がこれまでの歴史から跡形もなく消えてしまいました。その間、2回の滅亡だけが目に映るだけで、義兵戦争と光復(解放)戦争を通して激しく抵抗して勝利した2回の復活は目に入ってきませんでした」
1894年6月、甲午倭乱の時に侵入してきたが、明成(ミョンソン)皇后殺害に怒った百姓(ペクソン)の武装蜂起と、高宗(コジョン)の俄館亡命で一時退却した日本軍は、1904年(甲辰年)2月に再び侵入して韓半島(朝鮮半島)全域を占領した。日帝の全面侵攻に国軍と民軍(義兵)が力を合わせ、全国各地で6年間にわたってすさまじい「国民戦争」を繰り広げて抵抗した。その時敗北したからと言って、大韓帝国国軍をただの烏合の衆だと下に見るべきではない、と著者は言う。1901年、すでに韓国軍は日帝以外のアジアのどの国も持てなかった3万大軍の「新式軍隊」であり、乙巳勒約(第二次日韓協約、1905年)以降、3万国軍と民軍が合わさって組織された国民軍は14万1815人に達した。清軍とロシア軍に勝った日本軍に戦いを挑み、戦いらしい戦いをした軍隊は、その後米軍を除いては大韓帝国の国民軍しかなかったが、このような事実を私たちは知らずにいる。 (抜粋)
韓国駐箚軍、という軍隊が朝鮮半島に駐屯していました。これは1904年に日露戦争勃発に伴い編成された軍隊であり、この駐箚軍がその後の朝鮮半島駐屯日本軍へと変わっていきます。この韓国駐箚軍の事を言っているのでしょうか。
そして、この記事では、1904年から1910年にかけてすさまじい「国民戦争」をしたというのですが、、、
この韓国駐箚軍、兵力としては当初は5大隊。1大隊が560人編成でしたから、2800人という規模でした。たった2800人に対して大韓帝国軍、それも「新式軍隊」3万人と10倍の兵力もあったのに、2800人を全滅させられなかった?
韓国駐箚軍は1905年には第13師団と第15師団が駐箚軍の隷下となり、平時での人数が2万7000人規模へと拡大しました。これは日露戦争終了もあってロシア牽制の意味で配置されただけであり、大韓帝国軍との戦闘はなく、治安が安定していることもあって1907年には第13師団のみの1万2000人へと削減されています。1907年まで、「すさまじい国民戦争」はなかった事でこういった削減が行われたのですね。
で、日本軍の増員が行われたのは、ハーグ密使事件絡みですね。これによって削減した軍隊は元々駐屯していた第13師団の他に、歩兵1個旅団と騎兵4中隊(合計5000人)、また、更に歩兵2個連隊(3300人)を追加配備の2万人規模で駐屯する事になったのですが、それでもこの記事にある国民軍?14万1815人には到底及ばないのですが、、、この実態を紹介しますと、実は、これは地域で起きたアメリカの扇動による義兵騒動なんですね。この地域義兵騒動の詳細が以下の通り。
1907年8月以降で323回(平均140人) 4万5000人程度
1908年は1451回(平均50人弱) 7万2000人程度
1909年は898回(平均30人弱) 2万6000人程度
これほど扇動が繰り返されていたにも拘らず、1911年までの死者は襲われた警官や朝鮮半島採用の憲兵補助員員が50人ほどの合計136人。これって「すさまじい国民戦争」が本当に行われたのでしょうか?
1908年に朝鮮人から憲兵補助員が4000人近く採用されていて、私の祖先たちは、同胞殺しをしていたという事です。
この記事に書かれていた通りに、本当に「すさまじい国民戦争」が行われており、14万を超える兵力が存在していたのなら、日本兵の死者は数千単位であったはずです。そして、少なくとも数回は数万単位の戦闘があった事でしょう。一番規模の大きかった1907年でさえ平均140人って、最初からゲリラ戦でもやっていたとでもいうのかな?その割に日本側の死者が少なすぎるのはおかしいと思わないのでしょうか。
結局のところ、歴史を都合の良いように捏造しようとしているだけで、本当のところは、アメリカに唆されて騒動を起こして警察署などを襲ったものの、その多くが現地採用の朝鮮人憲兵補助員であり、同胞殺しが行われた、というのが史実なのです。
序でに、1908年に解散した大韓帝国軍。編成人数(実態ではないですよ)は8700人。装備は中国旧式大砲50門。そして、在朝鮮中国軍による訓練を100人規模で受けていたのですが、これが、「3万人の新式軍隊」の本当の姿です。
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