保坂教授「日本政府は慰安婦動員の共犯、法的責任負うべき」 (2017.9,19 朝鮮日報)
上海臨時政府、というサークルがありました。正直、あの悪名高きスーフリの方が規模は大きいですし、資金力もあったようですから、上海臨時政府はサークル以下、同好会レベルといっても良いかもしれません。
その上海臨時政府、売春婦が居たのをご存知でしょうか?
3.1クーデター時にも一般市民の日本人女性を強制連行して強姦するなどをしていましたが、上海臨時政府では、積極的に女性の性を売り物にして活動資金を捻出していたことはよく知られています。例えば、1924年7月17日付けの神戸又新日報では、上海臨時政府が女性の裸体写真で活動資金を作っていたことが書かれています。

これは1935年3月7日の東亜日報ですが、実は1920年くらいから、朝鮮人女性がどんどん上海に集められていたのですね。もちろん、この保坂某が言う日本政府関与説以前の話で、その朝鮮人女性は外国人租界で営まれていた娼館などで働いていたのです。この娼館運営により活動資金を得ていたとも言います。
これは、言いがかりに近い、日本政府関与説とは違って、完全に直営ですから言い訳できないでしょう。
上海臨時政府は、女性を裸にして春画を作りそれを売りさばいたり娼館を運営したりして、朝鮮人女性を喰い物にして活動していた、正直、ヤクザと同じような組織だったのですね。『関東都督府政況報告並雑報』によると、上海の事務所を撤退しなければいけなくなった理由は、資金の横領と家賃滞納によって大家さんから追い出されたからなのですから。
で、彼らはその後、中国各地を転々とするのですが、ここで日本では知られていない、もう一つの史実も紹介しましょう。
南京大虐殺、と言うもがあったとされる年は1937年。実は、この臨時政府、この時、南京に居たのですね。さて、彼らの記録には南京で日本軍と交戦した記録もなければ、日本軍が南京で虐殺したと言う記述もない。なぜなのでしょうか??テロぐらいはできたはずなのにひたすら逃げ回って居たのです。彼らは。
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研究によると、日中戦争当時、日本軍は天皇直属で運営され、「皇軍」と呼ばれて莫大な権限を保持していた。日本政府は軍の決定に全面的に従った。保坂教授は「中国に駐屯していた日本軍が慰安婦動員を決定し、現地の日本外務省の総領事館に協力を要請した。総領事館は内務省に依頼し、内務省は各警察署に慰安婦募集の許可を出した」と説明した。保坂教授は、領事館内の武官室が慰安所の設置と性病検査を準備し、領事館は業者と慰安婦の渡航を担い、港で慰安婦らを憲兵隊に引き渡したと説明した。
保坂教授はその根拠として、これらの内容が書かれた文書を提示した。日本の内務省警察局による1938年2月7日付の文書「時局利用婦女誘拐被疑事件に関する件」には、「内務省から警察に非公式に慰安婦募集に関して依頼し、相当な便宜を図った」という警察署長の陳述がある。上海総領事館が慰安婦動員の役割と責任の分担を決めたことや、内務省幹部が慰安婦動員を許可し、便宜を図ることを命じたことを示す内容も公開された。
保坂教授は「1938年に始まり45年まで続いた慰安婦の動員体系には、日本軍と業者だけでなく日本政府も含まれていた」として「日本政府も共犯として法的責任を負うべき」と主張した。 (抜粋)
上海臨時政府、というサークルがありました。正直、あの悪名高きスーフリの方が規模は大きいですし、資金力もあったようですから、上海臨時政府はサークル以下、同好会レベルといっても良いかもしれません。
その上海臨時政府、売春婦が居たのをご存知でしょうか?
3.1クーデター時にも一般市民の日本人女性を強制連行して強姦するなどをしていましたが、上海臨時政府では、積極的に女性の性を売り物にして活動資金を捻出していたことはよく知られています。例えば、1924年7月17日付けの神戸又新日報では、上海臨時政府が女性の裸体写真で活動資金を作っていたことが書かれています。

これは1935年3月7日の東亜日報ですが、実は1920年くらいから、朝鮮人女性がどんどん上海に集められていたのですね。もちろん、この保坂某が言う日本政府関与説以前の話で、その朝鮮人女性は外国人租界で営まれていた娼館などで働いていたのです。この娼館運営により活動資金を得ていたとも言います。
これは、言いがかりに近い、日本政府関与説とは違って、完全に直営ですから言い訳できないでしょう。
上海臨時政府は、女性を裸にして春画を作りそれを売りさばいたり娼館を運営したりして、朝鮮人女性を喰い物にして活動していた、正直、ヤクザと同じような組織だったのですね。『関東都督府政況報告並雑報』によると、上海の事務所を撤退しなければいけなくなった理由は、資金の横領と家賃滞納によって大家さんから追い出されたからなのですから。
で、彼らはその後、中国各地を転々とするのですが、ここで日本では知られていない、もう一つの史実も紹介しましょう。
南京大虐殺、と言うもがあったとされる年は1937年。実は、この臨時政府、この時、南京に居たのですね。さて、彼らの記録には南京で日本軍と交戦した記録もなければ、日本軍が南京で虐殺したと言う記述もない。なぜなのでしょうか??テロぐらいはできたはずなのにひたすら逃げ回って居たのです。彼らは。
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