在日朝鮮人から見た韓国の新聞

韓国の新聞を新米帰化人の目から見て、韓国で報道されている内容の中から気になることやウラ読みについて書き綴っていきたいと思います。

タグ:慰安婦

慰安婦は実際にどの程度いたのかーーー。

これに関して色々考察がされていますが、多くの研究者が抜けている視点があります。それは、実際に、軍人たちはどの程度慰安所に行くことができたか、という経済学的な視点。


そこで、4年以上の期間がかかりましたが、実際に慰安所を利用した元日本軍人の方々に話を聞き、どの程度の利用頻度だったかを調べてみました。すでに亡くなられた方もおり、こう言った調査は急務であると思います。是非、多くの元日本軍人の方々は積極的に真実を遺して頂くことを切に願うばかりです。


調査人数  18人
慰安所利用時の階級及び人数 / 月あたりの慰安所利用回数
  少尉  1名 / 2
  曹長  1名 / 1
  軍曹  1名 / 2
  伍長  2名 / 1〜2
  兵長  2名 / 1
  上等兵  3名 / 1
  一等兵  5名 / 0〜1
  二等兵  3名 / 0〜1

平均でおよそ月に1回という利用頻度という結果でした。これに関しては金田も少ない印象を受けたのですが、慰安所の費用は実は一般に知られているような費用よりも高かったそうで、下士官だと30分で9円だったそうです。兵士だと6円。将校は11円。経済学的視点から見ると月に1回程度の利用というには妥当な数字であり、証言とも一致しているのですね。

慰安所の料金については広東に展開していた独立歩兵第13旅団の記録が残されており、裏が取れています。

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昭和20年に中国で任務について軍人の給与は、
  少尉  90円
  曹長  37円
  軍曹  30円
  二等兵  10円

程度でした。そう考えると、軍曹の2回というのはかなり刹那的というか、給与の大部分を女性に貢いでいたのだと考えられます。日本軍人は家族に送金し、貯金に励んでいたことも知られています。小野田寛郎少尉は証言で1/3送金し、1/3を貯金、そして1/3を慰安所で使用したと証言していましたが、彼であっても月に2回〜3回程度しか慰安所に行けなかった事になります。


さて、ここまで数字が揃うとかなり詳細を窺い知ることができますよね。

計算の設定ですが、戦時中、日本軍は海外におよそ300万人ほど派兵されていました。その期間を最大8年とします。また、慰安婦の交代を2年と設定します(証言から交代を3年や4年でも良さそうですけど)。慰安婦は証言から1日に20〜30人もの性処理を行っていたそうなので、25回/日とします。

すると、1日に慰安所に向かった兵士は10万人。慰安婦の数は4000人居れば十分だった事が分かります。あり得ない数字ですが、10回/日だとしても1万人ですね。8年間で3回の交代があったとしても慰安婦の総数は1万6000人〜4万人という事になるのです。


慰安婦は全員が朝鮮人だった、と考える左派もいますが、実際は日本人慰安婦が多数を占めていました。これは様々な説がありますが、上記の18名からは「慰安所は出身地の女性を求める」という話を頂いています。そう考えると、やはり日本人慰安婦が多数を占めていたという話は信憑性があります。

朝鮮人慰安婦は恐らく3割行くかどうか。3割だとしても、4800人〜1万2000人という範囲に落ち着くのです。


元慰安婦の証言が正しければ、せいぜい4800人。1年間で600人。私たちが当時、女性を売買していた人数を考えるとこの数字もまた妥当なものです。さて、反日同胞の皆様、これについてどう反論されますか?


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強制徴用の被害申告受け付け再開を 市民団体が政府に要求=韓国 (2018.6.22 朝鮮日報)


遺族会は、「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者支援特別法」に基づき2008年から15年にかけて強制徴用被害者22万人ほどが政府に被害を申告したが、機を逸して申告できずにいる被害者が10万人以上いると主張している。 (抜粋)

南朝鮮は強制動員の人数を755万4764人(重複含めて。重複なしだと550万人としいている)としています。まぁ、強制動員という名称そのもがおかしなものではありますけど、この人数には自ら出向いた出稼ぎや、日本の会社で働いた通常の労働者が含まれているので、日本政府がまとめたと主張している65万人の方が実情に近いでしょうか。ただ、この数字はやはち出稼ぎ者の数字なのでもちろん正しいとは言えませんけど。

で、何が言いたいのかというと、755万人が最大値として22万人も名乗り出たのですから、およそ2.9%もの方が名乗り出た事になります。550万人なら4%。出稼ぎに行ってその上、国から補償までして貰えるなんて、本当に乞食のような人たちですが、この2.9%〜4%は南朝鮮人の乞食根性率と言っても過言ではありません。それというのも、こう言った補償関係で“被害者”を募るとおおよそこの数字が出てくるからですね。で、この数字を見つめると、別な真実が見えてくるのです。


南朝鮮政府が登録している元慰安婦。これは、政府による手厚い支援を受けられると喧伝し、集めに集めた人たちなんですね。それでも漸く247人。南朝鮮人の乞食根性割合が2.9%〜4%であれば6175〜8517人という数字。金田は6000人という試算を出していますが、どちらにしろ20万人はあり得ないんですね。

徴用工よりも手厚い補償を受けられ、しかも、南朝鮮では聖人扱いされているのに、20万人の0.1%しか名乗り出ないなんてあり得ないんですよ。民族的気質から。


日本の数字とされる出稼ぎ人数65万人から計算すると慰安婦は730人しか居なかった事になる。そう考えると、慰安婦の人数は最小は730人で最大値は8517人という事になります。なかなか20万人の道のりは険しそうですね。笑


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小学校の教科書に「慰安婦」 4年ぶり記載=韓国 (2018.3.5 聯合ニュース)


【ソウル聯合ニュース】韓国で今年の新学期から使われる小学校6年の社会科の教科書に旧日本軍の慰安婦が取り上げられたことが分かった。韓国全国教職員労働組合が5日、伝えた。

同組合によると、教科書には「日本軍『慰安婦』」というタイトルの写真とともに「植民地だった韓国の女性だけでなく日本が占領した地域の女性たちも強制的に日本軍『慰安婦』として連行され、ひどい苦痛を受けた」という説明が載せられている。写真は1944年9月に中国・雲南省で米軍が撮影したものが使用された。  (抜粋)

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いつもの事ながら正しい歴史を伝えようとしない歴史教科書です。以前も紹介した例え話を少し追加して今一度書かせてください。


Aという建設会社があったとします。
そこが公募で下請け企業を募集したところ、
Bという下請け企業が募集してきました。
BはAから禁じられた手法で人を集め
Cという人物が雇用されました。
Cはその親DからBに金銭で売られた人物でもあります。
CはAからきた人物Eから望まぬ接客に就かされましたが、 当時としては破格の高給を得ていました。給与はAからではなくAから業務委託されたBから得ていました。

後年、Cはこの時のことを不法だ! と言って裁判を起こしました。
さて、誰が一番、加害者として罪が重いでしょうか?

登場人物は、
・下請を募集したA
・Cを雇用したB
・高給を得ていたC
・Cを売り飛ばしたD
・Cの望まぬ接客をさせたE

これを慰安婦問題に置き換えると、
Aは日本軍
Bは朝鮮人女衒
Cは慰安婦
Dは慰安婦の親
Eは朝鮮系日本軍人

南朝鮮国内法を厳密に照らし合わせて判断すると、彼らの中で一番罪が重いのは、「朝鮮人女衒」です。もし、慰安婦がレイプだったというのなら、最も罪が重いのは「朝鮮系日本軍人」ですし、女性や未成年者の庇護を前面に押し出すのなら「慰安婦の親」が重罪になります。 日本軍が一番重い罪として捌ける法は現在も、そして過去にも存在しないのですね。

何より、今回の教科書に書かれた文面はいくつか書かなければいけない内容が含まれていません。

例えば、慰安婦で一番多かったのは日本人である事。
例えば、朝鮮系慰安婦を買っていたのは朝鮮系日本軍人である事。
例えば、慰安婦の大半は自ら応募してきたという事。
例えば、未成年の場合は親が子を売って、慰安婦になる事を承諾していた事。

日本の歴史教科書にもこういった正しい内容を盛り込むべきですし、南朝鮮でも正しく上記を子供達に教えるのが日南間の齟齬を減らす事につながると思うのです。

 「謝罪と反省」

はしなければいけません。ですが、それは日本だけではなく、南朝鮮人も同様。当時の日本の国内法のみならず南朝鮮の風習においても問題がなかった慰安婦制度。それを現代の考え方に照らし合わせて過去を裁こうと言うのが元々の間違いであり、日本が謝罪と反省をするのは、この一連の騒動で多くの日本人慰安婦の尊厳を踏みにじったことに対して行うべきで、南朝鮮は詐欺と強請りを国民総出で行っていることに対して全日本人、何より日本人慰安婦に対して謝罪をしなければいけないのです。

そして、私たちは二度と、詐欺や強請りをしないと、反省するのです。それができなければ慰安婦問題は永久に解消することが出来ず、慰安婦合意を無に出来たとしても、一生、惨めな歴史を南朝鮮は歩むことになるのです。


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日本在住の慰安婦被害者が死去 生存者32人に=韓国 (2017.12.20 朝鮮日報)


【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は19日、被害者の宋神道(ソン・シンド)さん(95)が東京で死去したと発表した。

宋さんは外国で暮らす最後の韓国人慰安婦被害者だった。韓国政府に登録されている慰安婦被害者239人中、生存者は32人に減った。

挺対協によると、宋さんは1922年に忠清南道で生まれ、38年から中国で慰安婦としての生活を強いられた。1946年、「結婚して日本に行こう」という日本軍人と共に日本に渡ったが、到着後ほどなくしてその軍人が去って行った。

その後、在日韓国人男性と暮らした宋さんは、日本在住の韓国人慰安婦被害者として唯一、日本政府を相手に謝罪と賠償を求める訴訟を起こした。 (抜粋)

亡くなった方のご冥福をお祈りします。


生活保護を受けていた事でも知られている、ソウ ハルモニ。普段は通名を使用して在日であることを隠していたハルモニ。日本に帰化しないのであれば、元慰安婦であると日本を訴えるのなら生活保護も受けず、本名で過ごしていれば良かったものを、、、

日本の裁判官の中には、一定数、おかしな人がおり、このソウ ハルモニも1938年から1945年まで慰安婦であったと “認定”されてしまいました。少し話しを聞けば、おかしいと思うはずなんですけどね。

慰安婦として7年も働き続けられるか。

毎日20〜30人もの男性と繋がり続ける。これを週に6日。よほど丈夫なのか、それとも別な仕事をしていたかのどちらかなのでしょうね。ただ、7年間も年間300日以上、毎日20人以上と行為を持ち続けたら骨盤底筋群の損傷が著しく、若い時は問題がなくても60代には性器脱を起こしていただろうに、彼女はそんなことはなかったようです。

また、1946年に、軍人とともに日本に引き揚げ、というのも疑問です。中国からの遣送(日本は受け入れ側ですが、中国は送り出す側なので、このように言います)は、1945年12月4日から開始されています。その際に、日本人は集中営と呼ばれる場所に集められており、朝鮮人とは分離されているので日本軍人どころか日本人と一緒に朝鮮人が日本に引き揚げる事は叶わなかったのです。

偽装結婚もなくはないですが、一番考えられるのは戦後に一緒に不法入国した人と結ばれた、というストーリーが一番考えやすいですか。


このソウ ハルモニは若干のストーリーの変化はあったものの、おおよその内容にブレがなかった稀有な存在でした。ですが、その実態は、やはり史実とは異なる証言であったのです。


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慰安婦被害者が死去 生存者34人に=韓国 (2017.11.1 朝鮮日報)


【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は1日、被害者の1人が死去したと発表した。遺族の意向により氏名などは公表しない。  

挺対協によると、亡くなった被害者は17歳のときに自宅から連れて行かれ、タイやシンガポール、ビルマ(現ミャンマー)でつらい体験を強いられた。以後は慰安婦だった過去を隠し1人で生きてきたという。  (抜粋)

今日は、私のようなカトリック信者にとっては死者の日となりますが、挺対協にとっても死者の日になってしまったようです。

それというのも、挺対協にとっては慰安婦Xという手持ちのコマが1つ失われる事だけでなく、ユネスコが慰安婦記録の登録保留を決定したことに対して大きな落胆の日となりました。

お月様の最大の選挙公約であった慰安婦合意破棄も、結局はそのままうやむやのうちに今日まで何もせずに時間だけが過ぎてしまい、挺対協にとって、何のためにお嬢様を蹴落としたのか意味のない活動を強いられただけの1年になっています。

そんな中で、慰安婦X(以降、X)亡くなったのですね。ご冥福をお祈りいたします。


このXは巡査に分けも分からぬまま連行されたと言います。当時の巡査は朝鮮人が多かった事から、もし、これが本当なら単に私たち民族の恥を公表しているだけなのですが、、、

しかも、「慰安婦だった過去を隠し1人で生きてきた」Xに死に対して、遺族の意向って、、、。この時点でもう誰だか分かってしまうのですが、氏名が公表されると困ってしまうのでしょうね。社会的な差別とか、まぁ、いろいろと。

要するに、このXは生きている間も孤独であり、死後も邪険に扱われるという、とても寂しい人生を送らざるを得なくなったことがこの記事から分かります。


最後に、本当に連行されたのであれば失踪届けを出すのが当時の通例ですが、登録された慰安婦は1人もその失踪届けは出されていません。それなので、慰安婦だったかどうかまでは判断できませんが、証言は眉唾であることが確定のXでした。


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韓国、旧日本軍慰安婦の名誉毀損に対する処罰規定づくりへ (2017.10.4 中央日報)


旧日本軍慰安婦被害者を対象にした虚偽事実の流布および名誉毀損行為に対する処罰根拠を法律に明示する方向で法案の検討が行われる。

韓国与党「共に民主党」の印在謹(イ・ジェグン)議員は4日、慰安婦強制動員を否定して被害者を「売春婦」と侮辱するなどの行為を名誉毀損に摘示して処罰する内容を盛り込んだ「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援および記念事業などに関する法」の改正案を提出したと明らかにした。

改正案は新聞・放送、その他出版物または情報通信網を利用して、日帝が慰安婦被害者を強制動員および虐待した事実を否定および歪曲したり、売春婦と称してその名誉を傷つけたりする者に対する処罰規定を新設した。

印氏は「慰安婦被害者は日本の戦争犯罪の犠牲者として、今まで身体的、精神的な後遺症に苦しめられてきた」とし「このような歴史を否定してその名誉を傷つける行為が続いてきた。これを防止する措置が必要だ」と、法案の発議趣旨を説明した。 

先に書いておきますが、これで処罰されるのは南朝鮮人の予定です。いや、私たちは、これを以って日本在住の日本人を処罰するかもしれませんけど。そんな難易度の高い、ミラクルな判決も可能にできる夢のような法令ができあがるかもしれません。


現実はこの法案は、南朝鮮に住む南朝鮮人を対象とした法案です。

慰安婦問題が大きくなったおかげで私の家族も後ろ指を指されずに済むようになった

と書きましたが、今でも「慰安婦 = 売春婦」と考える人は少なくないのです。それが、慰安婦は生計のために慰安婦になったのではなく(職業売春婦ではなく)、戦争の被害者である、という嘘の情報を流し続けてきた結果、慰安婦は売春婦から切り離す事が名目上できたのですね。それが上記の発言の真意ですね。

ですが、今でも慰安婦は売春婦だという考えは根強く、ネット上でもそんな表現は溢れています。それを規制する事で、国民の中に、「慰安婦は戦争被害者だ!」という考えを根付かせようというのが、この法案の考える本当のところです。正直、南朝鮮人よりも日本人の方が元慰安婦を可哀想だと思って行動していると思います。悲しいことに。


情報通信網も規制しようという法案。日本のインターネット自由度は世界的にかなり自由で(無法で)すが、南朝鮮は今でも規制が厳しい。世界22位でイエローなんですね

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さすがに、左派が入り込まない統計には手が出ないようですが、このランクがどこまで下がってしまうのか。見ものですね。

言えることは、慰安婦合意を覆すための下地が着々とできあがってきているのです。


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【訃報】93歳元従軍慰安婦が死去=洗濯場で日本軍に連行 (2017.8.31 朝鮮日報)


慶尚北道慶州から連行された元従軍慰安婦の女性(93)が30日、老衰のため死去した。これで元慰安婦238人のうち生存者は35人に減った。  

1924年に咸鏡北道清津で生まれたこの女性は、おばの家に養女に出されて慶州市内で育った。村の洗濯場にいた時に日本軍に連行され、台湾の慰安所でつらい経験をした。だが、正確な時期は本人も覚えていないとのことだ。解放(日本の終戦)後は慶州に戻り、食堂や農作業などをして生計を立てていた2001年7月、政府に慰安婦被害者として登録された。市民団体「挺身隊のおばあさんと共にする市民の会」は「遺族の意向に従い、女性の氏名は公表せず、家族葬で葬儀を行うことにした」と発表した。 (抜粋)

サイレント慰安婦の一人、リ ハルモニ。ご冥福をお祈りします。

あなたの意向ですから、実名は金田も伏せておきますね。見舞金も受け取ってくれた方ですし。ただ、ハンギョレも「Lさん」って書くくらいなら、金田みたく「リ ハルモニ」でいいんじゃないですかね。どうせ、関係者はみんな実名を知っているんだし。

このリ ハルモニ。いつ連れて行かれ、どうやって台湾に行き、どこにいたのか、そして、どうやって戻ってきたのか何一つ覚えていないという御仁。それもあってか、自分の名前を公表する事を初めから渋っていました。結果、亡くなってからも名前は非公表と相成ったワケで。

尚、1940年から1945年にかけてこの地域での失踪者に彼女の名前はなかった。これだけ付記させて頂きます。


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慰安婦被害者が死去 生存者36人に=韓国 (2017.8.29 朝鮮日報)


【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を支援するとともに、慰安婦問題の解決に取り組む韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は28日、被害者の河床淑(ハ・サンスク)さんが同日午前に敗血症のため死去したと発表した。  

河さんは1928年忠清南道瑞山市生まれ。1944年、洗濯をしてお金を稼げるという言葉にだまされ、慰安婦として中国に連行された。1945年の日本による植民地支配からの解放後も帰国することができずに中国で暮らし続け、2003年にようやく帰国した。2年半余り過ごした後、中国の家族の元に戻ったが昨年2月に大けがを負い、同4月に中国からソウル市内の病院に移送され療養を続けていた。  

2000年に日本で開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」では慰安婦の実態を証言した。 (抜粋)

ハ ハルモニのご冥福をお祈りします。

2016年、当時、中国に在住している唯一の南朝鮮国籍の元慰安婦だったハ ハルモニ。かなりのVIP待遇で南朝鮮に入国したのですね。何せ、南朝鮮に入国する際に、武漢と仁川を運航する旅客機B-737という小型機種からハ ハルモニのためだけに中型機種のA-330に変更させたくらいです。その日から1年4ヶ月で幽冥へと孤独に旅立ったのですね。

ハルモニが言うには、1944年、工場で稼げると朝鮮人男性二人に騙され、「家を出る時、私は数えの17歳だった。その時、妹は15歳で、蚕から糸をとる工場で仕事をしていた。弟が12歳だった。家を出たのは、五月の端午の節句の頃、陰暦では6月頃だった」と発言してます。そして、武漢へ連れてこられ、中国漢口の積慶里慰安所で公子という名前で慰安婦として生活をしていた。

そこでの生活は格子で囲まれた慰安所で一日に多くて15人の日本の軍人を相手した。「子供をできなくする注射」も頻繁に打たれた。解放後、慰安所があったところに捨てられ帰国が叶わなかったと証言しています。

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これは『武漢兵站』という本からの図を拝借しましたが、実は、この積慶里慰安所ほど実態が解明されている慰安所はありません。およそ280人いた慰安婦のうち朝鮮人が150人であるとか、朝はラジオ体操をする、月に1回は映画を見る事ができるなど非常に高待遇の慰安所でもあったのです。それというのも立地が外国人租界が近くにあったことから、見た目も非常に和風で素晴らしいものでした。

しかも、ここは終戦後、考えられているほど大きな混乱が少なく、当時の書類、即ち、
・本人の写真
・戸籍謄本
・誓約書
・親の承諾書
・(出身)警察の許可書
・市町村長の身分証明書
が残されて綺麗に接収されているのです。さて、この公子さん、ここで働いていたと言うのに、その存在が確認されていないのは何故なのでしょうね?しかも "捨てられて" 帰国できないなんて、何を言っているのやら。

この本を書いた山田氏によると次のようなエピソードがあります。

「朝鮮から妓をつれて帰った泰平館の楼主が、まだ17、8に見える女の子をつれて兵站に来た。戸籍謄本を見ると16歳である。これでは営業の許可はできない。」

ハ ハルモニがここに来た時の慰安係長はこの山田氏。実は例外が1名いることが彼も自身の著書で書かれていますが、それも中国現地の史料で確認できています。ですが、例外は1名だけ。ハ ハルモニがどうやって営業許可が下りたのか知りたいものです。まぁ、だから、当時の名簿にこのハ ハルモニが確認できなかったのですけどね。

当時の有名な慰安所の名前を出せばどうにかなると思ったのでしょうが、有名なだけに嘘がすぐにバレるんですよ。


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「慰安婦募集は誘拐事件」強制性立証、日本の警察文書あった (2017.8.14 中央日報)


「世界日本軍慰安婦記念日」の8月14日を翌日に控えた13日、日帝時代の日本の慰安婦募集過程を目撃した日本の警察が当時の状況を「誘拐」と認知して調査したという内容の日本の警察文書が公開された。文書には「酌婦(慰安婦)募集の為、本邦内地(日本)とともに朝鮮方面に旅行中のものあり」という内容が入っている。これは日本の軍部の命令で進められた慰安婦募集過程に強制性があったという事実を示す文書とみられる。

韓日文化研究所のキム・ムンギル所長(72、釜山外大名誉教授)は、昭和13年(1938年)2月7日に和歌山県警察部長が内務省警保局長に送った「時局利用婦女誘拐被疑事件に関する件」という題名の文書を13日に公開した。

文書は「昭和13年1月6日4時ごろ、和歌山県の文里飲食店街に3人の挙動不審な男がいるのを見て尋問した」という内容で始まる。尋問の結果、男(挙動不審者)の話は「疑わしい者ではない。軍部からの命令により上海皇軍慰安所に送る酌婦を募集しにきた。3000人を連れてこいというがこれまで70人だけ昭和13年1月3日に長崎港から陸軍の御用船に乗せ憲兵の保護の下で上海に送った」とされている。

また「情報係巡査が調査したところ、接待婦を上海に送る時の募集方法は、無知な婦女子に賃金も良く軍人を慰問するもので衣食住は軍が支給するなど誘拐する方法で募集した」と記録されている。文書には挙動不審者3人の名前と身分も書かれている。

キム所長は「日本でも慰安婦を募集する時に誘拐して連行した事件が起き、和歌山県警察が挙動不審な男らが女性を誘拐していると各県警察署に通知した文書」と説明した。  (抜粋)

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一、事件認知の状況

昭和十三年一月六日午後四時頃、管下田■町大字榊子濱通■文里飲食店街に於いて三名の挙動不審の男徘徊しあり注意中のところ、うち二名は文里水上派出所巡査に対し疑わしきものに非ず軍部よりの命令にて上海皇軍慰安所に送る酌婦募集に来たるものにして三千名の要求に対し七十名は昭和十三年一月三日陸軍御用船にて長崎港より■兵護衛の上送致済なりと■し立出たりとの巡査報告あり、真相に不審を抱き情報係巡査をして捜査せしむるに文里港料理店萬亭事、中井方に登棲し酌婦を呼び酌せしめつつ上海行きを薦めつつありて交渉方法に付き無智なる婦女子に対し金儲け良き點軍隊のみを相手に慰問し食料は軍より支給する等、誘拐の容疑ありたるを以って被疑を同行取締りを開始したり (抜粋)

この史料が私たちに教えてくれる事がいくつかあります。それを列記してみたいと思います。
・この史料は朝鮮人に対するものではない
・日本の警察は違法募集を適切に取り締まっていた
・この件は強制ではない

要するに、違法募集を行なっていたのは日本人もいたでしょうが、この史料は強制性はなかった事を示しています。この史料以外では、私たち朝鮮人が強制的に連れて行くことを行なっていたことは多くの史料で明らかになっています。それを、日本は、女性を守るために、それも日本人、朝鮮人を分け隔てなく保護してくれていたという事をこの史料は教えてくれるのです。

さて、今回、中央日報が引用していない部分にはなんと書いてあったのでしょうか。

大阪市西区仲ノ丁21 貸席業 佐賀今太郎 当45年
大阪市西区仲ノ丁1-389 貸席業 金澤甚右衛門 当42年
海南市日方町603 紹介業 平岡茂信  当40年

「貸席業」というのは 「女郎屋」 とか「遊女屋」 と呼ばれているもので、なぜ「貸席」というのかというと、娼妓に対して座敷を貸し出して営業を行なっている、という形を取っているからですね。

で、彼らは何をしたのかというと、酌婦に対して上海行きを勧めていたのです。その内容はというと、「金が儲かる」「軍人相手の商売だ」「食事は軍から支給するから食うに困らない」といったもの。

これって強制連行ですかね?

序でに、これって今年の7月10日に中央日報自体が報じた内容の焼き直し。そして、この史料自体は慰安婦史料を読んでいる人にとっては良く知られているもの。そんなものを今更「あった」というのは、どんだけ史料収集能力が足りないのか、という事もこの記事は教えてくれるのです。

こうも新発見を乱発するのは、国民が慰安婦問題から少し疲れ始めているからですね。正直なところ食傷気味。だからこそ、ここ数年はセンセーショナルな「新発見」が繰り返し、興味をひき続けなければいけないのです。


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慰安婦被害者が死去 生存者37人に=韓国 (2017.7.24 朝鮮日報)


【広州聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者、金君子(キム・グンジャ)さんが23日、老衰のため、韓国人被害者が共同生活を送る施設「ナヌムの家」(京畿道広州市)で死去した。91歳。韓国政府に登録された慰安婦被害者239人のうち生存者は37人に減った。  

ナヌムの家によると、金さんは1926年に江原道・平昌で生まれ、10代初めに両親を亡くした。その後、親戚の家で生活していたが、1942年に中国吉林省・琿春の慰安所に連行され1945年に日本の植民地支配から解放されるまで苦難を強いられた。  

慰安所での3年間、7回も自殺を図った。何度も脱出を試みたが失敗し、そのたびに殴られた。暴行で鼓膜が破れた左耳は一生聞こえないままだった。  

金さんは2007年2月、米下院の公聴会で自らの経験を証言した。「(日本の植民地支配からの)解放後、38日間歩いて祖国に戻った。慰安所で1日に40人以上の相手をさせられ、死なない程度に殴られた」と語った。 (抜粋)

日本軍の事を糾弾し続けた金君子ハルモニ。証言が変わり続けただけでなく、その証言が実現不可能な事でも知られている御仁です。ご冥福を祈りますが、天国にはいけないでしょうね。

それでは早速平成17年11月「東京の高校生 平和のつどい」でのハルモニの証言を紹介しましょう。

私は10歳で父、14歳で母を亡くし、孤児でした。あの頃はみんなそうでしたが、大変な暮らしで、他人の家に働きに出て日銭を稼いでいましたが、16歳の時、チョロンの巡査の養女になりました。その頃、私にはボーイフレンドがいましたが、結婚できませんでした。1942年3月、養父に「お金を稼げるところがあるから」と言われて、朝鮮人の軍人に連れて行かれました。

要するに、連行とは書いていますが主語をぼやかしてまるで日本軍に連行されているかのような言い草ですが、実際は私たちが連れて行ったに過ぎないのですね。

で、このキムチ ハルモニは大変素晴らしい幸運の持ち主でまた健脚のようで、中国吉林省・琿春から平昌まで38日かけて歩いて戻ったのだそう?

ソ連が協定を破り進軍していく中、第34軍が停戦命令受領したのが8月18日、それまで琿春に展開していた第112師団(中村次喜蔵中将)は激戦状態で日本人、もちろん朝鮮人も死守し、避難させようと尽力していました。

琿春県長から琿春の高齢者や女性、子供に対して琿春神社境内に貴重品にもを持って集合せよ、という命令が発せられたのが8月9日午前7時のこと。この時点で第1、第2琿春橋は爆破されて渡橋する事は不可能な状況。そこから間島まで避難するも終戦後、ソ連により再度琿春へと復帰(元の地に戻れ、という意味)命令が出て9月23日に琿春に戻ったのです。この時点で38日は経過しています。

もちろん、その後は平昌まで歩いて帰る事は不可能な状況。本当に琿春に居たのかかなり疑わしい状況です。


ついでに、このハルモニ、ボーイフレンドと結婚できなかった、と言いますが、平昌に戻った後、そのボーイフレンドと結婚しているとあちこちで吹聴して居ます。慰安婦として働き、ボーイフレンドと結婚できたという、非常に珍しい経歴のハルモニ。本当に慰安婦として働いていたのでしょうか?

唯一言える事は、琿春市に残されている史料にはこのハルモニの名前はどこにも見当たらなかった、とだけ付しておきます。


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