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金子勝ブログ

慶應義塾大学経済学部教授金子勝のオフィシャルブログです。

2010年04月

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古びた新製品

「赤福」や「白い恋人」の賞味期限のラベル改ざん問題がなつかしいです。

「たちあがれ日本」、「日本創新党」につづいて、舛添要一氏が率いる「新党改革」が結成された新党ブームのことです。とうに賞味期限切れの人たちが集まって「新党」、「新党」、「新党」とラベルの張り替えに忙しい――困ったもんです。

ちなみに、「赤福」や「白い恋人」のラベル改ざん問題は、病人も死者もでなかったので、たいした事件とはなりませんでした。当時、私は結婚式の引き出物に、是非、「赤福」「白い恋人」の紅白セットを、とお勧めしていたくらいです。もちろん、そのココロは「賞味期限が過ぎても、よくもちます」。

しかし、新党ブームはそうはいきません。政党政治を溶解させかねない現象だからです。問題は、この新党ブームに共通する特徴が、どの新党にも「政党」としての理念や哲学、政策がまったく見えないことです。「平沼新党」「舛添新党」などと議員の個人名で呼ばれているように、メディアで名前が売れている政治家が、沈み始めたタイタニック「自民党号」から逃げ出し、当選が厳しい議員が、その知名度を頼って集まっているだけのことです。「政党」の体をなしていませんね。

この新党ブームは自民党のメルトダウン現象の一つにすぎません。

もともと、参議院ではずっと自民党は単独過半数をとれなくなっており、公明党の選挙協力と参議院内での協力で、かろうじてもっていました。しかし今度は、投票率が落ちるので公明党には有利。支持率が低迷する自民党を支えても何のメリットもありません。民主党も単独過半数を取れそうにないので、公明党は1つでも議席を増やし、参議院でキャスチングボードを握ろうとするでしょう。

その一方で、もともと自民党の保守政治家である小沢一郎民主党幹事長は、自民党を支えていた利益団体の切り離しに力を入れています。戦後初めて農協(農業協同組合)の全国大会に首相も農林水産大臣も出席しませんでした。こうした圧力の結果、今度の参議院選挙で農協の政治団体である農政連は特定政党支持を止めました。また参議院で自民党から立候補予定の農水省官僚の基盤である土地改良事業の予算を半減させてしまいました。中央医療制度審議会から日本医師会を外し、民主党を支持する茨城医師会と京都医師会を入れました。その結果、医師会も割れてしまいました。このように自民党は、手足となって動いてくれる利益団体を失っています。

こうなると、自民党にいても何のメリットがない人がたくさん出てきます。民主党政権と自民党のテイタラクのおかげで、無党派層が増えています(朝日新聞の世論調査では50%以上、NHKの調査でも40%以上に膨らんだ)。そこで、彼らは、自民党や民主党といった既存政党を批判することで、無党派層を取り込もうとしているのですが、国民はそれほどバカではないしょう。

たとえば「立ち枯れ新党」こと「たちあがれ新党」は、平均年齢69歳の老人だけの集まりです。これで、一体何をしようというのでしょうね?どう見ても、若者に希望を与えるような政策は出てきませんね。

「日本創新党」は、結党会見で「日本は壊れかけている」「だから構造改革をしなければいけない」と訴えているが、壊れかけているのは、あなたたちでしょう。この国をさらに壊す気でしょうか。自治体の首長経験者の集まりですが、よく首長が勤まったものだと思います。大体、政治家になるために「塾通い」した人たちって、どうなんでしょうか?

「舛添新党」ですが、なぜ、この人が「総理にふさわしい」ナンバー1なのか、私にはさっぱり分かりません。「大きな失敗」がない代わりに「大きな業績」も何~にもない人です。それだけで、国民の期待が集まる。この国の政治はどうなっちゃんたんでしょうか。彼が厚労大臣時代には、2000万人もの年金記録が消失した問題で追いつめられ、ひたすら「やります、やります」と連呼していただけ。新型インフルエンザ騒動の時は、国内に感染者が出るのは時間の問題だったのに、遅れて空港にサーモ検査機を導入して「水際作戦」をしているようなふりをしたり、ワクチンが不足しているとみるや、あわてて輸入を急いだりして、結果、大量に余らしただけ。パニックに陥っていたのは、この人自身でした。何より、小泉政権時代の「医療崩壊」政策に賛成してきた人で、後期高齢者医療制度を実施した人ですね。この壊れかけた社会保障制度について具体的な改革ビジョンを持っているわけでもありません。

舛添氏の経済政策も失敗した「構造改革」論の域を1つも出ていません。

彼の経済政策については、インフレターゲット論くらい。デフレを止めるには日銀に猛烈に金融緩和させる「ヘリコプター・マスゾエ」です。それ以外に、日本の産業競争力低下について産業政策を持っているわけではありません。言うのは、構造改革特区や法人税減税だけ。もちろん環境エネルギー政策については、ほとんど何もしゃべっていません。小泉「構造改革」路線が産業にどんな結果をもたらしたか、知らないのでしょうね。

小泉メディア政治以来、メディアを通じて国民に「わかりやすく説明できる」政治家が「いい政治家」になってしまいました。さしたる治療技術がなくても、おじいちゃん、おばあちゃんの言うことを聞いてやり、ともかくわかりやすく説明できる医者が「いい医者」になってしまうのと同じです。政治の質の低下を象徴していますね。持ち上げるメディアの知能指数が問われています。

そもそも「新党ブーム」のきっかけとなった「みんなの党」が、なぜ持てはやされるのかも不思議です。目玉政策は公務員叩きしかなく、小泉改革の〝落とし子〟のようなものです。みんなの党って、英語でeveryone’s party それともyour partyってことかな?おいおいおい、だな。ところで、「みんな」って誰のこと?少なくとも私は「みんな」に入っていません。

でも結局、最も罪深いのは鳩山政権です。

普天間基地移設問題、日本版グリーンニューディール構想など、マニフェストで約束したことを実行できず、その乖離がはなはだしくなっていることに、国民の期待が急速にしぼんでいるのです。やることは、事業仕分けでパフォーマンスだけでいいんでしょうか。

前の事業仕分けでも、財務省が仕分けの対象になった事業を選び、仕分けショーをやっている間、残りの90兆円余りは財務省主計局が粛々と査定をしていました。今回も、道路整備勘定、空港整備勘定、エネルギー対策特別会計などの特別会計を仕分けの対象としていません。もし仕分けの目的が財源確保だとしたら、独立行政法人の大本になる特別会計に手をつけないかぎり無理です。ところが、事態は全く逆方向を向いています。

道路特定財源の一般財源化が決まったにもかかわらず、廃止となった道路がつぎつぎと復活しました。しかも、その箇所付けを行っているのは小沢一郎氏です。空港使用料などを空港建設に回され、日航破綻の原因となった空港整備勘定も仕分け対象となっていません。民主党マニフェストのエネルギー政策を実行するには、エネルギー対策特別会計をいじらなければ無理です。これらを対象にしない事業仕分けって何?

「赤福」も「白い恋人」もいったん市場から消えることで立ち直りました。民主党も同じかもしれません。もう一度、反省して正直な民主党になって戻ってきてくださいといきたいところです。が、選ぶにもみんな毒入り饅頭か、賞味期限切れの佃煮ばかり。それで、結局、民公連立政権ってことになるの? 自民が民主に入れ替わっただけかい?

あ~あ、日本は、パンツのゴムでバンジージャンプをしようというのでしょうか。
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それでも米国型金融自由化はモデルなのですか?

世論の反発を前にして、今秋の中間選挙での敗北を回避するために、ウォール街の「高慢」と「腐敗」をたたくオバマの姿勢が強まっています。「大きすぎて潰せない」銀行を解体していく、いわゆる「ボルカー・ルール」を前面に押し出した以上、オバマ政権としては、ウォール街の「不正」をつぎつぎと暴かないといけなくなっているようです。一方、FRBへの権限集中論が出ている新しい金融規制の動きの中で、米国SEC(証券取引委員会)は自らの役割について存在証明を求められています。

そんな中、SECがゴールドマンサックスのCDO(債務担保証券)の空売り「詐欺」を提訴しました。SECが訴えた内容から見ると、CDO空売り「詐欺」はつぎのように行われました(たぶん、もっともっとたくさんの手口があるでしょうが…)。CDOとかCDSとか仕組みが分かりにくいかもしれませんが、それは以下の通りです(自分で調べてくださいね)。

   1. まず、ゴールドマンサックスが、サブプライム関連の住宅ローン担保証券(MBS)を集めた債務担保証券(CDO)を組成した際に、大手ヘッジファンド運用会社ポールソン&カンパニーに、CDOのポートフォリオの中身について選別に関わらせました。つまり両者が結託して、やばいデリバティブ証券を人為的に作った疑いがあります。
   2. そのうえで、そのCDOの価格下落を見込んで、これを対象にしたクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)契約を結び、ゴールドマンサックスはポールソン&カンパニーにこのCDSを売却しました。
   3. ゴールドマンサックスはCDOを別の投資家(ドイツ、オランダの投資銀行)に売却しました。
   4. その結果、投資家はCDOの下落によって損失を被る一方、ポールソン&カンパニーは購入したCDSで利益が上がっていったのです。
   5. そして、このようなCDOの空売りを仕掛けるポールソンが介在しているにもかかわらず、ゴールドマンサックスは投資家に知らせずにCDOを販売したというものです。

 

 もちろん、ゴールドマンサックスもポールソンも、これらの「詐欺」行為を否定していますが、その一方で買い手にドイツIKB産業銀行が含まれていることからドイツ政府も訴訟を検討しているというニュースも出てきています。

 問題はすごい広がりをもっていることが次第に分かってきています。最近になって、オンライン報道機関のプロパブリカが、2006年半ばから2007年夏にかけて、マグネター社と投資銀行と組んで同様のCDO空売り「詐欺」をしていることを暴いています。そのリストを見ると、JPモルガンチェース、メリルリンチ、シティーグループ、ドイツ銀行、UBSなど名だたる大手金融機関が並んでいます。その規模は、少なくとも30のCDSで約400億ドル(約3兆6千億円)に及ぶといいます。一方、SECに提訴されたゴールドマンサックスの分は、25のCDOで109億ドル(1兆2千億円弱)。それと比べても、規模が非常に大きいですね。

 思い起こしてみましょう。日本の不良債権問題は、銀行が貸し手に融資をしたまま、そのローンを保有していたために深刻になったとされ、米国型の証券化手法を日本に導入しなければいけないとか、ヘッジファンドなど機関投資家を育成しなければいけないと、主張されました。忘れっぽい国民性なので、もうすでに小泉政権時代に「金融立国」だの「市場型間接金融」だのという議論が盛んだったことも忘れているのかもしれませんが、小泉政権のもとで、そういう政策が「金融立国」路線として進められました。

 ところが、住宅バブルが崩壊すると、サブプライム・ローン絡みの債務担保証券がつぎつぎ破綻し値付けができなくなる事態が起きました。今度は一転して、高度に発達した米国の金融システムの下では、格付け機関が腐っていると機能しないとして、格付け機関の問題を強調する議論にすり替えられました。しかも、その際に、証券化手法の必要性も「情報の非対称」で説明されていましたが、この金融デリバティブ市場の「崩壊」も同じく「情報の非対称」で説明するようになっています。実に融通無碍ですが、このようなご都合主義な説明を「理論」的というのでしょうか。日本が「模範」にした米国型金融自由化のあり方そのものを問う必要があるでしょう。

 たぶん、米国大手金融機関がヘッジファンドを介在させた今回のCDO空売り「詐欺」も、米国の金融システムを「高度」なものとする前提に立って、「情報の非対称」とモラルハザードで説明するのでしょう。しかし、これは「ブラックスワン」がいうような確率論上の問題でもありません。リスクを分かっていて仕掛けた「詐欺」行為ではないかと疑われているのです。余計な話ですが、混ぜモノがうまかった肉のプロ、ミートホープの社長がなつかしく感じられる、今日この頃です。

 今後の金融規制のあり方と合わせて、動きに注視しておきましょうね。
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ポリープは早く切除しよう

 与謝野馨元財務相、平沼赳夫元経産相、園田博之自民党副幹事長、藤井孝男元運輸相、鴻池祥肇元防災担当相らが新党結成するという。みな元自民党の大物だが、「竹馬の友」というより「墓場の友」の集いといった感があると思うのは私だけでしょうか。シルバー新党はブームを作るどころか、「政界の墓場」をイメージさせ、おぞましいとさえ感じます。政策の柱がなく、伝えられるのは、みんな思い出話のような「政策」ばかりだからです。有名な政治家が集まって新党を作れば、それなりに有権者を引きつけるだろうと考える当たりが、本当に反省のない自民党そのものを引き継いでいます。

 ついでに言わせてもらえば、自民党のオデキのような老害、つまりすでに終わってしまった人たちはこの他にももっといるはずです。いっそのこと、森喜朗元首相、町村信孝元内閣官房長官、武部勤元自民党幹事長、古賀誠元自民党幹事長、安部晋三元首相らも新党に加わると、自民党も一気に若返りが進んで、緊張感がある政党政治も生まれるかもしれません。20年前には、自民党がこんなにボロボロになるなんて誰も想像もできませんでした。新陳代謝がなくなれば、どんなモノにも想像以上に早く老化がやってくることを強く実感する、今日この頃です。体内にできたポリープはその兆候です。それが大きくなれば、やはり早く切除した方がいいのではないでしょうか。

 話が飛びますが、哀しいことに私にも、その兆候がやってきました。先日、人間ドックに入りました。健康診断のエコー検査で内臓に小さなポリープが見つかったのがきっかけです。幸いみな良性でしたが、大腸のポリープを切除いたしました。あ~あ、俺も自民党と同じように「老化」したんだと思うと、おぞましく思えます。いまや、自民党から学ぶことはたった一つしかありません。それは、早くポリープは切除しないと、死にかけるということです。

思い起こせば、これまで私は、知力はともあれ、体力には自信がありました。高校時代も、試験答案の名前を書く欄に、「原始人の体と未来人の頭を持つ男 金子勝」と書いたくらいです。もっとも、返ってきた答案の最後に、「頭も原始人です」との先生のコメントがついてきました。先生、あなたの目は節穴だったのでしょうか?う~ん、でも、あの採点結果を見ると仕方ないか。

1990年代にスリランカ、インドに何度も行きました。IMFの「構造調整プログラム」の検証が主なテーマの調査仕事でした。そこでも、私は体が丈夫だと確信しました。他のメンバーは下痢でどんどん倒れていくのに、私だけが下痢にならないのです。他のメンバーはホテルで2千円、3千円支払って食事をし、私は町中で2百円、3百円でターリー(定食)を食べていたにもかかわらず、です。

 ただし、インドでたった1度だけ下痢になったことがあります。国際交流基金でデリー大学に教えに来ている先生から、日本大使館の新年会パーティーに誘われた時です。正式にお声がかかり、行って日本食を食べたら、翌日下痢になってしまいました。他のメンバーは「久しぶりの日本食うまかったですね」と満足気なのに…。たぶん、私は騎馬民族なのです。行った土地、土地の食べ物に体があってしまうのですね。

 1990年代半ばに中国上海で行った調査でも似た経験があります。調査費用が少なく、みな町中のきたない超格安食堂を利用しました。そのうち大連出身の中国人留学生が腹痛を起こして発熱し、つぎに日本人の若手研究者が似た状態になり、ついに医者を呼ぶ羽目に陥りました。しかし、私だけは何ともないのです。「やっぱ、俺、騎馬民族なのかな」と言うと、「いあや、金子さんは体中、ばい菌だらけなだけですよ」と下痢でやつれた顔で言われました。そうか、やはり私は「社会のばい菌」なんだあ。

 ともあれ鉄壁の胃袋でした!この胃袋くらい頭が強ければ、私は天才だったのに……。

 ということで、人間ドックは粛々と進行していきました。MRによる頭のスキャンが始まりました。そういえば、夏になると、暑さで頭が痛くなることがあるなあ。あれは、私の脳が縮んで、頭蓋骨と脳の間に隙間ができて、その空気が膨張して小さな脳が圧迫されているのだろう、と想像していました。しかし、小さな頭脳の中身の検査は一応パス。

東部(頭部)戦線異状なし(古いギャグだ)。

 次はCTスキャン。上野動物園のゾウアザラシのように、ドテっと横たわる私の胴体を大きな円筒形の機械が前へ後ろへ行き来します。お~お、電子レンジか、これは。人間ドックの意味を知らない私は、自分がソーセージのようにホットドックにされるのか、と思いました。でも無事帰還。ホットドックにされずにすみました。

 最後は、大腸を内視鏡で見る検査です。これが大変。前日からお粥ばかり。その日の夕食は学生のコンパ。私はそこで、ひたすらウーロン茶をがぶ飲み状態。翌朝の朝食も抜き。う~ん、人間ドックは修行だ。いよいよ大腸検査です。前日に緩下剤を飲んだ上に、内臓の洗浄剤を3リットルもがぶ飲み。それでも全部出ずに、浣腸。ヘロヘロ状態でベッドに横たわると、いきなり尻の穴からブスッ。お~お、人間ドックはマゾでないともたない。

 内視鏡検査では、なんと目の前の画像で、自分の大腸の中を見ることができます。それは「未知との遭遇」でした。ちなみに、私の腹の中は真っ黒ではありませんでしたよ。何かエグイ表現ですけれど、尻の穴から内視鏡が私の奥にどんどん入っていきます。お~おおおおお~。あまりに情けない自分の姿をごまかすために、「私、へそ曲がりですから、随分と大腸がクネクネ曲がっていますね」と看護婦さんに話しかけたら、「誰でも、そうです」と素っ気ない返事。おお、なんという惨めな姿だろう。ということで、苦難の末に、ポリープをちょん切られる瞬間を目撃できました。なんか、急に体が健康になったみたいで、すっきりしました。

 人間いつかは死にます。ならば、できるかぎり長く生きて、そして楽しく滅びていきたい。そのためには、病の早期発見が大事です。今の自民党には、是非人間ドックをお勧めします。
1

「自己責任」社会は無責任社会

この国は、リーダーたちは誰も責任をとらず、みなが縮こまっています。そして、この活力の低下は、社会の隅々まで驚くほど進んでいます。この何とも生きづらい社会はどうしてできたのでしょうか。

 私は、自己責任を主張する人ほど、決して責任をとろうとしない人であると思います。「絶対安全」と書いてあるものほど、安全じゃないのと同じですね。思い出してください。ちょうどトップが誰も責任をとらないまま不良債権問題で日本経済が苦しんでいる時、「構造改革」論が行き交い「自己責任」論が強調されるようになりました。しかし皮肉なことに、これは社会的責任を逃れる論理であり、究極の無責任社会を生んでしまったのです。そこに一つのパラドックスが潜んでいます。そして、この逆説が非常に日常生活のレベルにまで及び、ゆとりがなくなりギスギスした監視社会をもたらしていきます。

 では、なぜそういうことが起こるのでしょうか。思い起こすと、イラク戦争に際して、3人の青年がゲリラの捕虜になった出来事に、問題の起源をさかのぼることができるように思います。たしかに青年たちは危険地域に足を踏み入れるに際しても、十分な配慮に欠けていた部分があることは確かです。しかし当時、この国のメディアはみなアメリカのイラク戦争支援と自衛隊派遣を正当化するために、いかにゲリラが参入し危険な状態になっているかについて十分な報道をしていたとは思えません。ひどい「戦闘地域」なら、自衛隊を戦場に派遣することになり、限りなく憲法違反に近くなってしまうからです。その意味では、当時のパウエル国務長官は、彼らを「若者の勇気ある行動」と表現しましたが、それも少し的外れな部分があります。

 ともあれ、こうしたイラク戦争をめぐる政策的矛盾とメディア報道はあまり問題にされませんでした。日本国内では、彼ら青年は日本全体に迷惑をかけた人間であり、本来なら税金を使って政府が彼らの救済に動くのは問題であり、危険な地域に「勝手に」行った若者の「自己責任」であるとの議論で問題をすり替えようとしたからです。しかし、本来なら、そんな危険な地域に自衛隊を派遣して問題がないのだろうか、それは戦争に参戦することにならないか、ということになるはずですが、まさに小泉「構造改革」の「自己責任論」が、すりかえの論理に使われていきました。

 その一方で、間違ったイラク戦争の支援を書き立てた新聞の多くは、その後も「自己責任」をとることはほとんどありませんでした。レベルがあまり高いとは言えないアメリカの新聞でさえ、言説の社会的責任という見地から自己検証記事を掲載しました。日本で簡単であれ自己検証をしたのは、毎日新聞くらいでしょうか。イラク戦争を煽った大新聞は、もうメディアとしては終わっています。このブログで、この国は今ミッドウエイ海戦後だと書きましたが、イラク戦争に反対している間、私は「非国民」の反戦主義者にされていました。当時、私の気分は戦時中でした。あ~あ、おバカたちがトップを占領している国には未来はありません。

問題はもっと複雑で、社会の隅々にまで行き交っています。この独特の「自己責任」論によって、実は日本の社会の隅々まで無責任社会になっていったからです。「自己責任」社会では、余計なことをして「自己責任」をとらされるのを嫌います。そして、皆が共同して社会や他人にかかわることを徹底的に忌避するようになります。何せ、何でも自己責任ですから。その一方で、自分の利益だけは守りたい。自分の利益を守るためには、訴訟をしてでも守ろうとします。

 実際、昔なら問題が起きても、社会の知恵でうまく処理していたはずですが、「自己責任」社会では、他人や社会に驚くほど無関心で自己利害だけを主張して、時には訴訟に及ぶようになっています。そのため、日本の社会は、事故や訴訟を未然に防ぐという名目で、何でも禁止していく予防拘禁社会のようになっています。たとえば、学校の校庭では、野球もサッカーも禁止です。地域によっては、つぎつぎと公園のブランコを取り外されているようです。子供が怪我したら、訴訟を起こされてしまうからです。

ある埼玉県の市役所の人に聞いた話ですが、最近、隣家が小学校の子供の声がうるさいと怒鳴り込んだり、公園のバスケットのボードを外せと主張するだけ主張して隣家同士が喧嘩したりすることが起こります。その中には、後から引っ越してきた人だったり、自分の家では犬が吠えていたりする人もいます。ついに昨秋、東京西部の市において、公園の噴水で遊ぶ子供の声が騒がしいと、病気療養中の女性が訴えて勝訴しました。病気の女性の気持ちは察するしかありませんが、たしかに非常にイライラするのでしょう。しかし、役所の調整は不調に終わりました。問題は、この判決が出てから、役所の人々は未然に訴訟になるのを恐れて、予防的に行動するようになり、つぎつぎと訴訟を避けようと動くようになっていることです。

 こうなると、誰も責任をとらされないために、他人や社会に関わりたくないというようになっていきます。たとえば、近所同士で問題が発生しても、自分の利益に関係ない限り、かかわらない方が得だということになっていきます。このような予防拘禁社会では、犯罪を未然に予防するために、そこいら中に監視カメラが設置されるようになっていきます。その結果、いつでも誰かがあなたを「監視」していますが、あなたは自分が監視カメラで守られていると錯覚するようになっていきます。

 友人の医師である児玉龍彦氏に聞いた話です。ここにリスクがある手術を必要とする患者がいるとします。医師が不足して、手術の人手が足りずにリスクがある場合も同様です。もし、リスクを冒して失敗して死亡させれば、「作為の責任」。リスクがあるからと手術を断り、何もしないことで死亡したら「不作為の責任」。訴訟となって、どちらが証明しやすいかと言えば、「作為の責任」です。そうだとすれば、ますます「不作為の責任」を選ぶようになります。訴訟社会が行き過ぎて、医者はリスクが高い手術を避けて、結局、何もしない方が訴訟の対象にならないですむので、医師不足で体制が整わなければ、必然的に患者のたらい回しを生んでしまいます。

 これらの現象は、日本の社会が、誰も責任をとらない無責任社会になっていることの裏返しではないでしょうか。考えてみれば、戦略を考えられない無能なリーダーにとって、市場原理主義ほど便利な道具はありません。すべてを「市場」という「神の手」に任せればよいからです。そして何か問題が起きても、マーケットが決めたことだからということで、責任を問われないですみます。

 その一方で、多くの人々は世代間の連帯で成り立つ社会保障制度を信用しなくなります。やがて「自己責任」の社会では、自分の殻に閉じこもって、誰も他人や社会にかかわって責任をとらされたくない、だったら何もしない方がいい。だけど自分だけは守りたい。繰り返しになりますが、こういう心性はやがて自分本位の監視社会に行き着きます。そして、こういう社会は、著しく活力のない社会となりうるのです。

 いま日本の社会では、そういうメンタリティを身につけた人たちが増えているような気がしてならないのです。とりわけ、雇用が破壊され、「自分を守る」ので精一杯な若者たちにそれが浸透しているのが気がかりです。小泉「構造改革」がもたらした「失われた20年」は本当に深刻です。
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