仏教と認知バイアス克服

拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』について、 宮崎哲弥氏は
「ある時代の中では読まなければならない本というのがあるが、これがその一冊だと私は信じている」
とラジオで語っておられます。
まだ、聴いていない方は、こちらでぜひお聴きください。
さらに宮崎氏は『週刊文春』7月21日号のコラムでも、
「三度通読したが、なお飽き足らず、つい拾い読みをしてしまう。それほどに面白い」
と拙著について過分なるお言葉を綴られております。

しかしながら、すべての悲劇の元凶である認知バイアスから人類が解放される方途は、仏教と憲法のふたつだと著者は結論付けていると、宮崎氏はこのコラムに書かれているのですが、これはちょっと違うのです。
拙著では、ブッダの境地に達した者が人類史上に何人いたのかは、いささか心許ないと述べています。本書で云うブッダとは、釈迦が死んで数百年のうちに形成された伝説上の人物のことですから、お釈迦さまでさえ果たしてその境地に達していたかどうかはよく判らない。
ましてや、我々凡人はどう頑張っても無理です。
これでは、仏教で人類が認知バイアスから開放されるなんてことはないでしょう。

ところが、その凡人が何万人か何千万人か集まって、ただわいわい云い合っているだけで認知バイアスをある程度は克服してしまう。つまりは、ブッダの境地に近づいてしまう。
この民主主義の摩訶不思議な力が、本書のテーマなのでした。
しかも、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、知恵が三倍で賢者になるのではなく、個々人の因果や物語を三分の一ずつに分断し、筋の通った思考ができないアホにすることによって認知バイアスを克服するのだということを拙著では説いているのです。
極めて非効率で一本筋の通った思想のない民主主義が、なにゆえ明確なビジョンを掲げ意志決定も早くて効率のいいはずの独裁やエリート少数支配より優位になって、歴史上に生き残ってきたのか。ここにその秘密があります。
驚くべきことに、釈迦は何千年も前に、この原理を見抜いていたのでした。
仏教で人類が認知バイアスから開放されるはずがないのに、釈迦の教えに従うとやはり開放されてしまう。以下はそのお話です。

釈迦は、人間が因果に囚われるために、認知バイアスを招いて目の前の現実が見えなくなってしまうことに気づいていました。
さらに人間関係が、因果に囚われる元凶だということも理解していました。
だからこそ、悟りを得て認知バイアスを克服するためには、まず家族や仕事を捨てて出家することが重要だと考えたのです。
人類が進化の過程で身に着けた<間接互恵性>のメカニズムを、最新の進化心理学なぞを待つまでもなく、何千年も前に完璧に見抜いていたわけです。
この「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という原理については拙著を読んでいただきたいのですが、思いっ切り簡略化して説明しますと、人類は生存率を上げるために言葉による<評判>を媒介とした協力関係システムを進化の過程で身に着けたのでした。ほかの動物も直接的見返りが期待できる場合は自分が損しても相手を助けることがごく稀にありますが、人間は二度と逢うことがなく見返りが期待できない相手でも親切にします。そうやって自分の評判を上げると、巡り巡って見返りが期待できるわけです。しかし、恩恵だけを受けて自分は人に何もしない者が増えるとシステムが壊れて生存率が下がりますから、ズルをする輩は罰しなければならないという<道徳感情>が生れました。<道徳感情>は、宗教や教育なんてもんが発生する遙か以前、何百万年も前に確立したものなのです。動物の中にもその萌芽は見ることができます。
悪を罰したいという<道徳感情>は、いいことばかりではありません。とくに人類の生存のために最も重要となる<間接互恵性>を成り立たせる平等が破られ格差が広がったときに<道徳感情>が刺激され、美しい理想に取憑かれてテロを起したり、美しい計画を掲げる扇動政治家が人気を博したりといった歴史上何度も繰り返された悲劇が起きました。そんな具体事例つきましては、拙著に500ページに渡って解き明してますので読んでいただければ。
宮崎哲弥氏の「ある時代の中では読まなければならない本」というのは、このことを指して云っていただいているのでしょう。トランプが大統領になったり、欧州で右翼が台頭したりといった世界情勢も、ポピュリズムなんて見当外れの言葉で呼ぶよりも、<間接互恵性>から発している<道徳感情>から分析するほうが的確なのです。中東でISが暴れているのも、すべてこの<道徳感情>の為せるわざで、統一的に説明できます。
言葉によって<評判>が巡り巡ってくる<間接互恵性>は、ほとんどの行為が目の前で起きるわけではないので、誰が良きことをして報酬を与えないといけないのか、誰が悪しきことをして罰を与えないといけないのかを判断するため、人間は因果推察能力が発達しました。しかしそのために異様に因果にこだわるようになってしまい、もともと因果がない処まで無理やり因果を見つけようとします。だからこそ、逆に目の前のことさえ見えなくなってしまう。そんな性癖のために、右翼も左翼も判りやすい因果で構成された幾何学的で美しい計画に取憑かれて、国家を大混乱に陥らせたりするのです。
さらには、とにかく<評判>を得たいと思ったり、誰かを罰したいという欲求が人間の悲劇を生みます。一番まずいのは、<道徳感情>が強く刺激されると恐怖心を克服してしまうので、自分が死ぬことも恐れなくなるし、人々への共感も失ってサイコパス化してしまうことです。これらはすべて、ほかの生物には見られない、血縁とは関係ない巨大な群れを維持して生存率を上げるための人間関係システムが元凶となっているのです。
釈迦もこんなことを最初から判っていたわけではなく、出家と云っても師匠に付いたり修行仲間がいたりしたんですが、それでは駄目だと気がついて、完全に独りになってようやく悟りを開いたのでした。

私としては仏教のみならず、宗教というのはすべてここから始まっていると考えています。
目の前の現実が何故かそのまま視えないので、思索なり修行なりでなんとか真実を視たいという人は、昔からいたのです。プラトンのイデア論のみならず、原初の宗教家や哲学者はみなさんだいたいおんなじようなことを述べております。しかも、ほとんどは一般社会から離れて出家しますし。
つい最近になって認知科学なんてのが発達して認知バイアスなんて概念が生れる何千年も前から、認知バイアスに気づいている偉い人は何人もいたのです。
しかし、普通の人には、生活を捨てて思索や修行に専念するなんてことは難しくてなかなかできませんから、組織を大きくするためには神に祈るとか、誰でもできる簡単な儀式を取り入れる。そのうちに、認知バイアスを克服して真実が見えるようになりたいなんて最初の思想は忘れられて、神とかそちらのほうが中心になってしまったわけです。むしろ宗教が、因果のないところに因果をでっち上げる、認知バイアスを増幅するための装置と成り果ててしまう。
仏教も組織を大きくするために似たようなことをやりましたが、しかし神に祈るのではなく、釈迦という思想家に祈る形態にしたため、根本の思想がある程度は受け継がれることになったのでした。

さて、釈迦は因果とその根源である人間関係を断ち切ることにより悟りを開いたのに、人間関係そのものである教団を作るという相反した行動を取ることになります。人に悟りを教えるなんて矛盾だと思ったのか、お釈迦さんも最初は絶対やるつもりはなかったのに、説得されてやることになったのでした。
悟りを開いた偉い人がいると聞きつけて、ぜひ教えを請いたいと人々が集まってきて、あまりに熱心に懇願されたから、とうとう根負けしたという具合になるのが常識的な流れでしょう。
ところが、ブッダ伝説では、梵天の説得によって気持ちが変わり、まだブッダの偉大さに気づいてないため話を聴くつもりもない人々に、ブッダのほうから押し売りで教えを説いて弟子にしたということになっています。
梵天というのは、宇宙の原理ブラフマンの神ブラフマーのことです。仏教では、教団を作るということそれ自体が、たんなる師弟愛なんてもんではなくて、なにやら宇宙の根本原理と結びついていると考えられているのです。
実際の組織形成過程がどうであったかはともかく、釈迦は教団を運営していくうちに、大勢の人々が集まる集会で物事を決めることが、組織の存亡に関わる最も大切なことであると気づくことになります。
これは初期仏典に明確に出てくることなので、間違いありません。つまり、民主主義が認知バイアスを克服することを発見したのです。
悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、お釈迦さんが個人として悟りを開いて認知バイアスを克服していたかどうかは怪しいところがあると私は思っています。
しかし、まさしくその悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、集団としての悟りを得る道を見出だしたわけです。
この個人としての<悟り>と集団としての<悟り>の両輪を軸にすると、ブッダが残した教えはすべて矛盾なく読み解けるのです。

輪廻なんかも<間接互恵性>から見るとすぐに理解できます。
良きことをした者には報酬を、悪しきことをした者には刑罰を与える<因果応報>で世の中はなりたっているはずなのに、実際には生れたばかりで何も悪いことをしていない赤ん坊が悲惨な死を遂げたり、極悪人が幸せな一生を送ったりする。これは、前世や来世を想定し、そこに原因や結果を求めないと帳尻が合わない。なんの帳尻かと云えば、進化によって骨の髄に刻み込まれた<道徳感情>による因果の持って行き場ですね。
輪廻はインド独特の思想だと云う人もいるみたいですが、天国や地獄、あるいは怨霊なんてものが昔から世界中にあるんですから、同じことです。
とくに怨霊は、無念な死を迎えた者に、祟りの伝説という形で<間接互恵性>の罪と罰のバランスの歪みを死後にでも正常化しようとするだけではありません。<間接互恵性>を成り立たせるため人間に備わった因果推察の性質により、なにか凶事が起れば必ず原因があると考え、祟りだと本気で思い込むという、因果の逆流でもあります。輪廻における前世と同じベクトルなのです。この因果を推定できないはずのところに因果を求めてしまう人間の性質が、認識を歪める認知バイアスの源流なのです。
輪廻から脱して解脱するというのは、要するに<間接互恵性>を断ち切るということです。そうすれば、<間接互恵性>を元凶とする認知バイアスから逃れて真実が見えるようになる。
なんか、仏教というのは、縁起だとか業だとかが根本思想だと考える人がいるみたいですが、それがあるのは前提で、縁起だとか業だとかを断ち切らないと仏教にはならないはずです。
元々、人間の原理に即して、宗教が発生する遙か前から人間精神を支配している縁起だとか業だとかを理解するのは簡単ですが、理解している人がみんな悟りを開いて涅槃に入ったのかというと、そんなことはないとすぐに判るはずです。
ただ、ブッダと同時代にいた六師外道のように、輪廻などの既成の思想を単純に否定するのとは違います。輪廻などは<間接互恵性>によって人の心に深く刻まれた実在する現象であることを前提として、それを乗り越える方策を説いています。進化によって形成された人間本性から見るとブッダのほうが正しく、六師外道とは一見似ているようで根本的に違うのです。認知バイアスは非常に強力で、錯覚ですよなんて云ったくらいのことではとても退散できないんですから。
その人間の本性には実在する縁起や業を断ち切って、輪廻や<間接互恵性>から脱するなんて人間の原理に反することをやろうとするからこそ、悟りは生身の人間にとって絶望的に難しいのです。
<因果応報>というのは、宗教が生れる何百万年も前から生存のために骨の髄に刻み込まれた人間の根本原理で、仏教というのはそこからの脱することを目的としているのです。
輪廻する主体は何かという難しい議論をする人がいますが、輪廻する主体は進化によってもたらされた<間接互恵性>であることがここから簡単に判ります。まさしく、<間接互恵性>こそ、<縁起する無我>そのものです。

99人だか999人だかを殺した極悪人のアングリマーラを、ブッダが弟子にして悟りを開かせたというのも、この観点から見たらじつに判りやすい。
元々、<間接互恵性>は罪を犯した者を罰するために進化したシステムなんですから、それを乗り越えれば、どんな悪事でもどうでもいいことになる。それでこそ、因果を断ち切って悟りの境地に達したということになるのです。
悟りを開くというのは、人間社会を成り立たせている<間接互恵性>を乗り越えるということですから、必然的に反社会的で反道徳的となる。なんにもありがたいことはない。
ただ、認知バイアスを克服し、目の前の現実をありのままに視ることができるようになるというだけです。認知バイアスは人間の進化の副産物で、正しい人間の証ですから、認知バイアスを克服するというのは正常な人間ではなくなってしまうということなんです。
ただ、<間接互恵性>から来る<道徳感情>が高まりすぎても、ISのように極悪非道のことを平気でするようになるのですから、どっちがいいかは一概には云えません。どんなに頑張っても生きている人間である限りは完全に<間接互恵性>を乗り越えるなんてことは無理で、またこんな莫迦なことをやろうとするのは極めて少数ですから、<道徳感情>が高まりすぎることがよくある多数派にブレーキを掛ける役割としては意味があります。ただ、我こそはブレーキ役となる選ばれた少数派であるなどという幾何学的な美しい計画に取憑かれると、これまたやっかいなんですが。
なお、拙著に詳しく書いたように、殺人のほとんどはじつは己の評判を高めるためという<道徳感情>から引き起こされるのです。釈迦がここまで正しく見抜いていたのかどうか、のちの時代にまとめられた仏典から判断するのはなかなか難しいですが、あり得ないことでもないでしょう。

仏教に限らず、宗教では金銭を悪として排除しようとしますが、これも貨幣というのは評判を具現化したものだからで、<間接互恵性>を断ち切るには貨幣に触れないようにしないといけないわけです。たんなる禁欲なんてのとはちょっと違う。真実を見たいと欲する釈迦のような賢人たちは、貨幣の正体を正確に見抜いていました。
グスタフ・カッセルが、1931年という極めて早い時期に、大恐慌の根本原因が人間の<道徳感情>にあることを喝破したのは経済学者としては炯眼でしたが、さらにその根源に進化によって人間に染みついた<間接互恵性>があることまでは、釈迦のように見抜いてはいなかったでしょう。最近の世界的な金融や経済の危機なんかも、この人間の本性に刻まれた認知バイアスを踏まえないと解決は無理なんですが、どうも経済学者もあんまり判ってないんじゃないでしょうか。
残飯を恵んでもらう托鉢なら乞食と同じで、評判のやり取りではないですから赦されるわけです。<道徳感情>から来る清貧なんてものではなくて、まったく反対にアナーキストとして評判のやり取りという人間社会の基盤を破壊する行為としてやっているのです。
それが偉い坊さんに御馳走する、さらには金銭を集めるなんてことになると、それはもはや本来の宗教ではありません。<道徳感情>の観点から贅沢はいけないということではなく、正しい社会秩序に組み込まれて、<道徳感情>とそこから生じる認知バイアスに囚われ、目の前の真実が見えなくなることが本来の目的から外れて、よろしくないということです。

女は悟りを得られなくて、いったん男になる<変成男子>なんてものを経なければならないという考え方も、悟りとは<間接互恵性>の克服であるとすると判りやすい。
女は男よりもおしゃべりなのは確かです。これは何百万年続いた狩猟採集時代に、男はそれほど密集隊形を取らない狩猟中にせいぜい合図の掛声でコミュニケーションを取るくらいだったのが、女は採取や子育ての協力のため何倍もの音声情報のやりとりをしていたことと関係があったりするのでしょう。
この言葉こそが、評判を媒介して<間接互恵性>を成り立たせる根源です。
言葉だけではなく、あまり人と交わらない女性でさえ、ボーイズラブで関係性に萌えたりするように、男よりも女のほうが人間関係に敏感に反応するようです。ここから、男よりも女のほうが<間接互恵性>が深く浸透していることが判る。
女が地位や名誉のある男を好むのは、<間接互恵性>で優位な男の子供を生むほうが繁殖率が高まり、自然淘汰が働くためだと思われます。そのため、女は男同士の関係性に元から敏感で、関係萌えは単純に男女の関係を男同士に投影しているだけでもないでしょう。
さらに、人間ではない無機物同士にさえ関係性を見出だして萌えたりする腐女子の方々の心性は、人間の進化がもたらした<間接互恵性>と、そこから派生して何にでも<因果>や<物語>を見出だしてしまう人間本性の為せる業なのですぞ。
つまり、べつに女が劣っているからではなく、反対に人間として男よりも進化しているからこそ、<間接互恵性>を克服して<因果>や<物語>を断ち切り、悟りを開くことが難しいわけです。
教団なんてものがあるからこそ女性も出家して悟りを開くことができるというになってますが、本来の意味での個人的な悟りは、独りになって人間性を完全に脱しないといけないのですから、より原始に近い男性を経ないと無理なのです。

とくに言葉こそが<間接互恵性>を成り立たせている元凶なんですから、悟りのためには真っ先に捨て去らねばならない。
真実をありのままに見たいと欲した昔の賢者たちは、大体みなさん、激しい修行や断食により肉体や精神を追い込むことでそれを成し遂げようしました。人間としてのまともな思考能力を失わせることによってこそ認知バイアスは克服できるという正しい道筋を知っていたのです。
しかし、理屈としては正しくとも、実際に行うにこれほど難しいことはない。肉体や精神を追い込むとまず幻覚が見えて、これこそ真理だと思い込む者が多いのですが、幻覚なんてのは認知バイアスそのもので、そんなものが見えるうちはまだまだ修行が足りません。
ほんとに肉体や精神がボロボロになれば、幻覚さえ見れない。なんの思考もできず、眼がたんなる機械的なカメラになって、あるいはたんなるガラス玉になって、初めて目の前の真実が歪まずそのまま映るようになる。
拙著では「真理」という言葉を一切使わず「真実」と云っていて、このブログ記事でも間違った考えのときだけ「真理」という言葉を出しているのは、真理ではどうしても精神性が入り込んでしまうからです。そういう精神性こそ認知バイアスそのもので、精神性を排除して目の前の現実をそのまま見るという、じつに詰まらないことこそ悟りなのです。
たとえば、目の前のお茶碗の真理を見ると云うと、あたかもそのお茶碗に内在する深遠なる精神性を取り出すかの如き因果の物語をでっち上げることになってしまいますが、ただありのままの物質として見るということです。
しかし、人間でいる限りは精神性を完全に排除するのはとうてい無理です。そこまで激しく肉体や精神を追い込むと死んでしまいます。ひょっとすると一瞬なら体験できるかも知れませんが、生還してまともな思考ができるようになると元の認知バイアスが戻って、記憶としても正確には想い出せません。その瞬間は肉体や精神もボロボロでまともな思考ができないのですから、文字などの記録も残せません。
一瞬でも体験できるなら死んでもいいと限界を超えた修行で実際に死んだ人もいたでしょうけど、賢者はたいていなんかに役立てたいと思ってるもので、それではいかんのですな。死んでもいいなら、わざわざ修行なんかしないでもどうせそのうち死んで認知バイアスは消えてなくなりますし。
釈迦も初めの何年かは激しい修行をやってたんですが、これでは駄目だと思ってやめたのは、このことに気づいたんでしょう。代わりに、繁栄していたヴァッジ族のやり方を取り入れることになります。

のちにマガダ国王がヴァッジ族を征服しようと考え、ブッダに助言を請うたんですが、大勢の人々が集まる集会をたびたび開いて物事を決めているヴァッジ族は強力であり戦争で滅ぼすことは無理だとブッダは答えました。
教団も、大勢の人々が集まる集会をたびたび開いて物事を決めるこのやり方を続ければ、自分が死んだあとも衰亡することはないだろうと云ってます。
つまり、たんなる理想論やイデオロギーではなく、民主主義には組織の生存率を上げる具体的な力があると云ってるのです。当時はアテネとヴァッジ族くらいしか存在しなかった民主主義国家が、現在は地球上のほとんどを占めるようになるという、数千年の熾烈な生存競争の結果としてその正しさは証明されました。
先の修行の話と突き合わせれば、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、知恵が三倍で賢者になるのではなく、個々人の<因果>や<物語>を三分の一ずつに分断し、筋の通った思考ができないアホにすることによって認知バイアスを克服、間違いを犯す確率を減らすのではないかと思われます。認知バイアスを克服する唯一の方法は、人間に考えさせないことなんです。
独裁や少数エリート支配では、どれだけ頭が良くても人間である限り必ず認知バイアスに囚われて失敗する。妥協の産物である民主主義は、特定の誰の考えでもないので人間の認知バイアスが入りにくい。もちろん、認知バイアスを完全に克服するわけではなく、独裁や少数エリート支配よりいくらかマシという比較の問題なのですが、生存競争ではそれが決定的な差を生むのです。

このやり方が凄いのは、個人的な修行と違って、肉体や精神をボロボロにすることなく、認知バイアスを克服し、悟りを開いてしまうことにあります。ボロボロになってないから、その悟りを法律という形で記録できる。議論が終ってひとりになると、認知バイアスが戻って悟りが判らなくなってしまうのですが、悟ったときに決めた法律に縛られるので国家運用などの間違いを犯さなくて済む。個人的な悟りを得るための修行で問題となったことが、すべて解決できています。
さらに凄いことは、人間の認知バイアスの元凶である言葉を使って、認知バイアスを克服しているところです。議論してお互いの認知バイアスをつぶし合うのも言葉。法律として記録するのも言葉。
ブッダはヴァッジ族の強さの源として、大勢の人々が集まる集会だけではなく、正確な情報を参照して物事を決めている点も上げています。ブッダの時代のインドは文字による記録はありませんから、長老の伝承と云ってますが、これも認知バイアスを克服するために言葉を使用するということです。
筋の通った思考ができないアホになることと、正確な情報を元に判断することは真逆のように見えますが、人間が頭の中で因果や美しい物語を勝手に考えることを防ぐという意味ではまったく同じなんです。
驚くべきことにブッダは、認知バイアスをもたらし、また認知バイアスを克服する、言葉の両面の恐るべき力を正確に見抜いていたのでした。
仏教がときに言語を否定したり肯定したりして矛盾しているように感じられるのは、真理は言語を超越してるとかそういう外側からの説明の話ではなく、根本問題である認知バイアスが言語によってこそ起り、また言語によってのみ克服できるという内在した両面の動力、あるいは言葉こそがすべての現象を引き起こす統一場であることをブッダが正確に認識していたところから発するものなのです。
ですから、仏教思想を言語に囚われた初歩的な世俗諦と言語を越えた究極の真理である勝義諦とに頒ける二諦説なんてものは、いかにも浅い理解というか、言語を表面的な説明の道具だと思っているまるっきり間違った捉え方なんです。

100人程度の群れで何百万年かやってた狩猟採集時代、ほとんどの出来事は誰かが見ている前で起き、また生れたときからお互い全員を知ってるので評判も正しく、誰がこの悪を為したのかを追及しようとする<道徳感情>が間違いを犯す可能性は低かったでしょう。そのため、因果推察もそれほど深い階層までは必要なく、因果がないところまで因果をでっち上げてしまうような<物語>能力、あるいは<物語>への欲求は比較的少なかっただろうと思われます。
ところが、農耕をはじめて国家などの巨大な群れを作るようになった1万年前からは、何か悪が発生したときに、誰が引き起こしたのかという刑罰を与えるための因果推察が極めて複雑となる。評判の正しさ自体も推察しなくてはいけなくなって、認知バイアスが深刻な問題となってきます。自然環境の変化ではなく、国家運営の間違いで何万人か何百万人かが一度に死ぬような事態も起きるようになる。
そんなときに真実を見たいという賢者が世界中に同時に何人も現われ、宗教や哲学が急激に発達し、また民主主義が発生して広がっていくのも、認知バイアス克服の過程として必然だったわけです。宗教は本来、国家の認知バイアスに対抗するため出現したと見るべきだと思います。
ちなみに、国家が出現してから人々は異様に物語を欲するようになります。それは犯罪物だけではなく、恋愛物やその他の物語でも、人間関係のもつれをほぐして解決する内容がほとんどです。<間接互恵性>が複雑になりすぎて現実にはすっきり解決しない人間関係を解決したいという欲求、あるいはそこで肥大化してしまった因果推察能力が現実では飽き足らなくなって、より複雑な物語を欲してしまうという両方の意味合いがあるかと思われます

そんなもろもろの認知バイアス対抗策のなかでも、民主主義は誰か偉い人が因果推察により美しい計画を立てて導入したものではなく、自然発生して広まったと思われます。
宮本常一『忘れられた日本人』なんかを読みますと、昔の日本の村落では、なにか物事を決める時には村民全員が集まって、みんなが賛成するまで何日でもえんえんと話し合ったそうです。
思うにこれは、物事を決めるためにやっているのではなくて、それを肴に酒や茶を呑みつつわいわいやることが目的なんでしょう。テレビもラジオもなかった時代の田舎では、ほかに愉しみもないですし。
そうなると、明日も呑むために、決めないことこそがみんなの利益に適う。そのためには、なにがなんでも反対しないといけない。意見が一致すると、そこで終ってしまうんですから。
しかし、ただ無意味に反対だと頑張っても駄目でしょうから、相手の云うことの問題点を何か指摘しないといけない。明日も呑むためにみんなが必死に頭をひねっていくうちに、最初は誰も考えもしなかったような問題点が次々列挙されていくことになります。
その問題点自体は最初から存在したはずなのに、誰にも見えていなかったわけです。それが見えるようになる。つまり、認知バイアスを克服してしまう。そして、明日もまた呑みたいのに、必死で頭を絞っても誰ももう問題点を思いつけなくなって初めて物事が決定されるのです。
こういう過程を経ずに適当に決めてしまい、あとから問題が発生すると、村民同士の深刻な対立が生じたり、よその村に付け込まれたりして、村落の存亡にも関わってくることになります。こんな集会をやった村だけが生き残るという自然淘汰が働いたからこそ、こういう風習が広まっていたのでしょう。
集会の議論は、将来起るあらゆる事態をあらかじめ想定するシミュレーションの役割を果たすのです。誰かの意見にみんなを従わせるなんてことが目的ではない。多数決なんてのは意味がないんですな。最大多数の最大幸福なんてのを目指すものでもない。あくまで、認知バイアスを克服するためにやることなんです。
決められない政治は悪いことだという妙な言説が最近はあるようですが、みんなで頑張ってぎりぎりまで決めないことが認知バイアス克服に最も重要なことです。それこそが、保守主義の神髄というものです。

ですから、いくら民主主義でも、美しい計画や理想的な物語に皆が取り憑かれてしまっては、独裁と同じで認知バイアスを克服できずに失敗してしまう。歴史を見ると、格差が広がって<道徳感情>が強く刺激されると、美しい計画や理想的な物語に取り憑かれた右翼や左翼が増えて国家を崩壊させています。
独裁制でも、昔の中国の皇帝が諫議大夫という役職を置き、常に自分に対する反対意見を述べさせたりしたように、認知バイアスを抑えるような仕組みがあるとうまくいく場合もある。制度ではなく、実態が重要なのです。
議会が認知バイアス克服のために存在するという根本が判っていれば、野党は何が何でも政府案に反対しなければいけないことに気づくはずです。対案なんてものを出すのは野党の仕事の放棄であって、選挙戦以外では絶対に赦されない。認知バイアス克服という議会の機能を破壊するだけではなく、対案によって別の認知バイアスさえ呼び込み、国を滅ぼします。
憲法も同様に認知バイアスによる国家の失敗を抑える効果があり、だからこそ、的確な憲法がある国家は強くなって、自然淘汰で世界中に広まったのです。権力者にとって束縛にしかならず、邪魔な存在の憲法というものが、権力者の認知バイアスによる間違いから国を護り、結果的に権力者自身をも護るのです。認知バイアス克服という憲法の本来の目的を忘れた国家は淘汰されてしまうでしょう。

なお、ヴァッジ族は強力であり戦争で滅ぼすことは無理だとブッダに教えられたマガダ国王は、腹心の大臣をヴァッジ族に亡命させ、その地に不平等と不和の種をまきました。三年で不和は拡大して集会も開かれなくなります。この機会を待っていたマガダ国王は一切の戦闘をすることもなく、ヴァッジ族を征服しました。(山崎元一『世界の歴史 3  古代インドの文明と社会』参照)。
国に不平等をもたらす者は、敵国のスパイと見なして間違いありません。インド以外の歴史も、それを証明しています。

さて、お釈迦さんは、これらの民主主義の効用を何千年前に正確に理解していたのでした。アテネの哲人でさえ、ここまでの洞察力を持っていた者はいないでしょう。
しかし、果たしてこれは仏教の教えと云えるのか。仏典にはブッダがヴァッジ族に民主主義を教えてやったと書いてるそうですが、実際にはその遙か前からヴァッジ族に民主主義は定着しており、釈迦がそこから学んだというのはインド学者の意見が一致しているところです。
あるいは、釈迦が初めて理論化して、自分たちの強さの原因を理解できていなかったヴァッジ族に教えてやったということはあるのかもしれませんが。
なんにせよ、これは仏教とは直接関係ないでしょう。むしろ、教団を作って民主主義による認知バイアス克服をやりたかったために、仏教という誰にも到達できない思想を方便として使ったように見えなくもないですが。
釈迦が菩提樹の下で悟ったのは、激しい修行や瞑想なんかでは悟りを開くのは無理で、ヴァッジ族のやり方である民主主義こそが悟りへの道であると気づいたということなんじゃないでしょうか。
瞑想も、すべてを断ち切って人間の頭で物事を一切考えなくなることで、ひょっとすると認知バイアスを克服できるかもしれませんが、続けているとご飯も食べられずに死んでしまいますし、瞑想をやめるとまた認知バイアスが戻ってきて意味がないのは、激しい修行とまったく同じなんですから。
修行も瞑想も駄目で、ヴァッジ族のやり方である民主主義こそが悟りへの唯一の道であると気づいたというほうが、それからの釈迦の行動と整合性があるような気がします。
なんせ、アテネの哲人も判っていなかったことを人類史上最初に気づいたのですから、それ自体で充分すごい悟りではありますし。ヴァッジ族も判ってなかったからこそ、マガダ国王の策略で自らの強みを放棄して、やすやすと滅ぼされてしまったのでしょう。
現代でも、民主主義は大切だと云う人はおりますけど、それが認知バイアス克服の唯一の手段であるからなんてほんとに理解している人は世界にもあんましいないんではないでしょうか。宇宙の根本原理のほうから頭を下げて頼みに来るくらい凄いことだと判ってる人はおりますかね。
釈迦の悟りがどのようなものであったにせよ、いずれも認知バイアス克服が目的なんだから、おんなじだと云えば、そうなんですが。なんせ、仏教徒のみなさんはもう一度、お釈迦さんの教えを見直すべきではないでしょうか。

そんななんでも見抜いていた釈迦も、<間接互恵性>などの人間の本性を最も明確にあぶり出すのが冤罪だということは気づいていたでしょうか。
私の読んだ仏典はほんの一部で、読んだのも何十年か前であらかた忘れてますから明確なことは云えませんが、少なくとも、冤罪について大きく論を打ち出したということはないような気がします。
その点で、冤罪を中心に論を展開したアダム・スミスの『道徳感情論』は注目に値します。
最近は世界中で『道徳感情論』が流行っていて、いろいろと解説本のたぐいが出ているのですが、この一番肝心な冤罪について触れているものがまったくありません。誰も理解できていないのです。
人間には共感能力があるなんてことで済むなら、スミスさんがなんでわざわざ<公平な観察者>なんて高次元のものを打ち出したのか判らなくなります。拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』ではそのあたりのことを詳しく解説してますが、これらの人間の本性を分析することで、釈迦の教えの理解もより一層、深まるのではないかと思います。

ところで、拙著を読んで、「これから裁判や政治なんかは人工知能に全部任せたほうが、間違いがなくていいのでは」という感想を持った方が結構いたみたいです。しかし、そんな本物の知能を持つようになると、AIもやっぱり認知バイアスを抱えるようになるはずです。しかも、それは人間には理解できない独自の認知バイアスですから、非常に厄介なことになります。
これを解消するためには、AI同士で議論してお互いの認知バイアスを打ち消し合ってもらうという、結局は人間がやってることと同じ作業が必要になるでしょう。しかも、その議論がうまい具合に認知バイアスを打ち消し合うという方向に向かわなければ、『火の鳥 未来編』に出てきた二大国のマザーコンピューターのようにケンカして最終戦争をはじめたりするかもしれない。人間同士の議論をどうやったらうまく成り立たせるのかと同じ問題が発生するわけです。
いや、ケンカするならまだいいほうで、AIがみんな均質なら議論にもなりません。人間はほっておいても多様性が生じて、苦しい修行をしても目の前の現実を見たいなんてことを考える莫迦が出てきたりしますが、こうなるとAIにも本来の意味での宗教が必要となるのかもしれません。
そこで真に役立つのが、釈迦とアダム・スミスの思想であることは間違いないでしょう。



       




世界初の犯罪分析官、吉川澄一のパイプ

拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』では、日本初のプロファイラー、内務省の吉川澄一技師について詳しく紹介しています。
確立した専門職としては、おそらく世界初のプロファイラーと云って間違いないでしょう。
なにゆえ、戦前日本の警察が世界に先駆けてプロファイリングを重視したのかは、内務省と司法省の激烈なる闘争を中心として、本書で解き明してますからぜひとも読んでいただければ。
しかしやはり、そんな政治的背景よりは、シャーロック・ホームズにも匹敵する天才的犯罪分析能力を有した吉川技師の存在がなにより大きかったのでした。

ところが、この天才プロファイラーが、現在ではまったく忘れ去られてしまっています。
犯罪マニアや警察の専門家でも、本書を読むまでその存在を知らなかったという諸氏がほとんどでしょう。
まったくもって、嘆かわしいことです。
探偵小説作家の方々には、ぜひとも吉川澄一技師を主人公としたシリーズを展開して、本物の名探偵がこの世に実在したことを全世界に広めていただければと思います。
なにせ、犯罪分析の天才だっただけではなく、そのクセのある性格の面でも、探偵小説の主役にふさわしい際だったキャラなのです。
そのあたりも拙著を読んでいただければ。

彼は名探偵にふさわしいアイテムまで所持していました。変わった形状のパイプを愛用していたらしいのです。
しかし、私はパイプに詳しくありませんので、具体的にどのようなものだったのか、文献を読んでもどうもよく判りません。
パイプに詳しい諸氏は、ご教示いただけると幸いです。
『刑事鑑識 吉川澄一遺稿』357p、吉川技師の弟子たちによる追悼座談会での、この発言がパイプに関する私が知ってる資料のすべてです。


万善 嗜好品としてはタバコが非常にお好きでしたね。タバコのパイプも一種独特なパイプで(笑)、抜きさしができるパイプでした。それでゴールデンバットを喫っておられて、お客の接待用としては敷島を買っておられました。
橋本 あのパイプをどうされたかこの間お家にお伺いした時に聞いてみましたら、亡くなる一寸前にこわれたとか話されておられましたよ。われわれはよくあのパイプを開けたり閉めたりしながら話されるのを承わったものですが……。
荻野 あのパイプは妙なパイプでしたが、吉川さん自身にしてみれば、あれは脂を取るのに便利だったんですか、どうですか。
万善 途中でこうやるとスパスパと入っていってしまうんですね。喫み残りが中に入って消えてしまう。また出すと火がつけられる。灰皿に落さないでもこの作用によって自然に消えていくというところにパイプの特徴があったんです。
荻野 だからタバコが合理的、経済的に喫えるという意味か、或は吉川さん一流の火事にならないようにという考えからか、どっちなんだろう。
万善 あのバイプは畳に置いても焦げないし、自然に消えてしまうから火災にならないというところじゃないかと思いますが。
高尾 一時は若い人の間にあれが流行しましてね、その頃から絶対にあれでなければいかんと徹頭徹尾お亡くなりになるまで使っておられました(笑)。


吉川澄一技師は病的なまでに用心深くて、つねに火事や強盗に備えていました。
その性質が天才的な犯罪分析能力の源泉ではないかということも、拙著で説いております。
この特殊なパイプも、おそらく火事を恐れて使っていたと思われますが、この説明だけではどうも形状がよく判らない。
図書館にあるパイプの本は、一応一通り見てみたんですが。
パイプに詳しい方なら、すぐにあああれだと判ったりするんでしょうか。
タバコを差して吸うものですから、キセルと云ったほうがいいんですかね。そのあたりからして、よく判ってない。

座談会で云ってるように、警視庁鑑識課の若手も、吉川課長を真似てこのパイプを使っていたらしいです。
戦前の鑑識課員はノンキャリア官僚で、安月給の代名詞だった当時の刑事よりは高給取りだったのですが、それでも若手が使うということは、そんなに高価なものではないでしょう。
戦前は犯罪実録物の本が大量に出版されていましたが、ひょっとしたらこのパイプの描写も、どっかにあるかもしれません。見つけた方はご教示をいただければ。

また、推理小説作家の大坪砂男が、当時の警視庁鑑識課に勤めてました。
大坪は吉川課長を崇拝してましたから、このパイプを使っていたのはまず間違いありません。
その作品に、もしこのパイプの描写がありましたらご教示いただければ。私は代表作の『天狗』くらいしか読んでないのです。
大坪砂男のご子息である和田周さんや、孫の虚淵玄さんに、このパイプが伝わったりはしてませんかね。

なお、吉川澄一技師はプロファイリングに留まらず、当時最先端だった指紋、被害者自らが付けて絞殺死体の首に残る引っ掻き傷で他殺か自殺かを見分けられる<吉川線>を提唱、死体にたかるウジの大きさで死後何日経っているかを知るために、自らハエを卵から飼って温度や湿度による変化を繰り返し実験するなどなど、ひとりCSIと云える八面六臂の大活躍なのですが、実在の人物はもとより、物語のキャラでも、これだけの傑物は他にいるんですかね。
データベース構築といった面でも先駆者です。吉川澄一技師を外しては、日本の、そして世界の情報史を解明したとは云えないのです。
情報の歴史なぞ研究している諸氏は、偉大なる先達のことを知らぬでは、これから先、決して赦されませんぞ。



    




宮崎哲弥氏が今年一番の名著だと語る『正しい心』

宮崎哲弥氏が6月22日のラジオ番組『ザ・ボイス そこまで言うか!』で、拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』について熱く語っていただいたため、あっという間に売り切れてしまいました。
アマゾンの中古が5千円になってもバンバン売れて、一時期は8千円以上になってもまだ売れるという勢いで、半泣きになりましたよ。
中古がいくら売れても、飢え死に寸前で8年間執筆していたこちらには一円も入ってこないというのに、弾切れでは如何ともし難い。
こういう時こその電子出版なんでしょうけど、洋泉社はあくまで紙の本にこだわってる出版社で、断乎として出さないようです。
増刷もすぐに売り切れて、これではせっかくの熱い語りを紹介することもできないという事態で、歯噛みをしていた一ヶ月以上でしたが、ようやく3刷4刷も出回って、いつでも新品が手に入る状況になりましたので、ここにリンクを張っておきます。

まだ聴いていない諸氏は、宮崎氏の語りをぜひとも聴いてみていただければ。
すでに聴いた方も、もう一度聴いてみるとなかなか凄いことを仰っておられることを再認識できるかと思います。
冒頭7分間と、番組の最後、54分からもまた語っておられますので、後半もゆめゆめお聴き逃しなきように。



「人間の思考を起動させる本です。これは」
「今年の一番の名著だと思う」
「私は三度読みました」
「まだ付箋は甘いんだ。これは」
「もう一冊持ってるけど、そっちはバラバラになってる」
等々、数多くの過分なるお言葉をちょうだいしております。

仏教に反応していただいてるのも宮崎氏ならではで、筆者として嬉しいところです。
仏教思想なり、悟りを目指すための修行なりは、たんなる観念的な言葉遊びではなく、何百万年の進化によって人間の身に着いてしまった認知バイアスとその克服法に根拠があるなんてことを本書では書いておるのですが、いままでにこんな根本的なことを喝破した人はいるんですかね。
本書の「正しい心」というのは、<道徳感情>のみならず、こういう人の心の本質を指していることを読み取っていただけるのはありがたいです。

さらに二週間後の7月6日放送でも、またもや熱く語っていただいております。
こちらもまた、なかなか大変なことを仰っておられますので、3分39秒から、ぜひともお聴きください。



「ある時代の中では読まなければならない本」
「この時に読んでなければいけない本」
「いま日本人には非常に、ひょっとすると世界的にもこの本が必要なんじゃないか。そういう政治、社会、経済状況だというふうに見ています」
格差が広がって道徳感情が刺激されると、人間は幾何学的な美しい計画に取憑かれるようになり、テロやら扇動政治家やらが蔓延するようになるといったことも本書には書いてますが、その点に反応していただけたのかもしれません。

極めて非効率で一本筋の通った思想のない民主主義が、なにゆえ明確なビジョンを掲げ意志決定も早くて効率のいいはずの独裁やエリート少数支配より優位になって、歴史上に生き残ってきたのか。
これも認知バイアスの克服に根拠があるなんてことまで本書では書いてるのですが、こんな大それたことを云い出した人は、これまでいるんですかね。
本書のテーマは、人類の進化に於ける、宗教も含めたこのような生存率を上げるシステムの形成なんですが、その中でももっとも重要なる裏テーマである憲法に言及する方が、宮崎氏以外にほとんどいないのは、当方といたしましては、いささか残念ではあります。

この手の小難しいことだけではなく、
「それ以上にね。楽しく読めるんだ、これは」
「松本清張の推理小説を読むかのように読める」
とも云っていただいて、これは完璧なる紹介でありますな。
事件や歴史の謎解き部分だけではなく、宗教と民主主義やら憲法やら経済やらを統一理論で根本から解き明してしまうという大風呂敷ぶりを笑いながら楽しんでいただければ、書き手としてはこの上ないところであります。

それにしても、この件で、ラジオの影響力はまだまだ侮れないということを思い知らされました。
宮崎哲弥氏が特別なだけかもしれませんが。
また、5千円の中古がバンバン売れる状況から、本は高いから売れないという話も嘘ではないかと思えてきました。
税込み2700円の本が安く見えて来るというのも、すごい話ではあるんですが。
これらもろもろもまた、たんなる認知バイアスに過ぎないのでしょうか。


    




『正しい心』 の増刷と修正

『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』は、おかげさまで大変好調で、入手難となって各方面にご迷惑をお掛けしました。
ようやく3刷が書店やアマゾンに並び、4刷5刷も準備してますので、概ね、いつでも簡単に入手できる状況になったかと思います。

この増刷に合せて、いろいろと修正を行っております。
そのほとんどは細かい誤字脱字ですが、2刷では13章を1ページ増やし、14章は2ページずつ後ろにずれるという大胆な改変を断行しました。
具体的な加筆内容は下の修正リストをご覧いただきたいのですが、なにゆえこんなことをやったかと申しますと、最終稿を入れたあとに各章の扉に絵を入れることが決まって、13章の最後と最終章の扉が、なんとも窮屈な状態になってしまったからです。
13章を読み終えたあとに、ページをめくって一拍置いてから余韻を持って最終章へ向かっていただきたいという、全体の流れを作るため無茶な変更をすることにしました。
ですので、1ページ増やしたと云っても、実際には5行書き足しているだけです。
じつは、この5行は最初は入れるつもりが、内容的に躊躇して削ってしまったものでした。
しかし、迷子のアリの役割としては果敢に間違える踏み込みが足りなかったのではないかという反省と、上記のような事情から戻すことにしたわけです。
なお、予算的にこれ以上ページは増やせないので、あとがきを右ページからはじめることにより、総ページ数は変わらないという荒技をやってます。

このブログなどでも、記事をアップしてから最低三度、多いときには十回以上書き替えをするのが当方の性情ではありますが、本書もつねに更新して徐々に完成を目指す<公平な観察者>的、ベイズ的、真の保守主義的、進化的アプローチを取っております。
初版を読んだ方こそは、この記事に今後も追記される変更点により、その進化具合をより一層に感じていただくことができるかと。
それはあたかも、『火の鳥 未来編』に於いて、ナメクジの進化を見届けた山之辺マサトの如き、あまり嬉しくもない特権やもしれませぬが。

あえて初版を読んで、その特権を得たいという物好きの諸氏は、町の本屋さんを探索することをお奨めいたします。
先日、西荻の今野書店にたまたま行きましたら、新品の初版が4冊も平積みされていました。
品切れで、アマゾンの中古が定価の3倍にも跳ね上がって、そんな値段でも買い求める方が大勢いたというのに、定価の新品が誰にも見つけられずに眠っていたのです。
当方の知ってる限りでも、ほかにも何軒か、まだ初版が売れ残っている町の本屋さんがあります。
小さな新刊書店はまだまだ宝の山です。ウェブばかりでなく、町を探索するのが面白いかと。
すでにプレミア価格も無くなったいま、なにやら流行りのゲームより実用的価値もなく、純粋ゲームとして愉しめます。

間違いはまだまだあるはずですから、皆様方も見つかりましたら指摘していただければ。
アマゾンレヴューにある、山崎氏の書の表記間違いとはなんでしょうかね。
指摘する場合は具体的にご教示いただければ幸いです。

ところで、あとがきには、8年前に当方が山崎兵八氏の著作『現場刑事の告発』を雑誌記事で取り上げてから、テレビ番組がひとつあっただけで、ほかには追随するものがまったくなかったと記しております。
しかし、本書を出したあとに、去年の7月に出た菅野良司『冤罪の戦後史』という本で、『現場刑事の告発』を取り上げていることを知りました。
その頃には本書の冤罪に関する部分はすべて書き終わっていたので、気付きませんでした。
あとがきの最初の部分は、それよりもだいぶ前に書いたものだということもあるのですが、いろいろと考えて、訂正せずにそのままといたします。
こうやって、図式的記述というのは為されるというサンプルです。
徳川信康の切腹の理由は諸説あるのに、本書に都合のいい冤罪説のみをわざわざ冒頭と最後に持ってきて全体を挟み込んだ仕掛けに、さらに組み合わされる不作為の図式的記述という仕掛けです。
なお、今年の4月7日中日新聞「二俣事件 冤罪の潮流」という記事で『現場刑事の告発』が取り上げられてることも、出版のあとに知りました。
これらは私が8年前に書いた雑誌記事の流れのような気もしますが、そうでもないのですかね。



『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』修正リスト


■2刷

○ p104 後ろから7行目 ※見出し
近衛の政策 → 近衛文麿の政策
※目次の見出しも同様に変更

○ p241 後ろから3行目
際に、うまく抵抗

際、役所防衛能力には圧倒的力量を備えていたはずの内務省さえ、うまく抵抗
※抵抗の主体が政府であるような文章になっていたので、主体をはっきりさせました。
吉田首相は内務省なんてどうなろうがまったく興味がなく、さらに基礎的知識もなかったので、内務省お得意のロボット操縦ができなかったのでした。

○ p273 最後の行
(藩屏は防御の囲いの意味) → ※文字を小さく
※本書では引用文以外の括弧はすべて文字を小さくしてますが、ここは見逃してました。

○ p407 後ろから2行目
積算して → 換算合計して
※元の県警資料も私の原稿も「折算」ですが、私に相談なく変更されてました。気付きませんでした。
正式の役人ではない判任官待遇期間を半分などに計算して、叙位叙勲の基準となる役人勤続年数を出すという意味ですから、積算とは違います。
換算もちょっと違うような気もしますが、折算は確かに難しいので「換算合計」にしてみました。
折算というのは役所では使われる言葉なんですかね。
判任官待遇期間を何掛けに計算するのかは決まっていたと思いますが、私にはよく判りません。
ご存じの方はご教示をよろしく。

○ p464 2行目 
社会全体を巻き込んで破滅させてしまうのである。
 また、自分にはない

社会全体を巻き込んで破滅させてしまうのである。
 株の大暴落など<ブラック・スワン>と呼ばれる突発的事態は予測不可能だと云われるが、自らリスクそれ自体を追い求める<サイコパス>の性質を計算に入れていれば、その何パーセントかは予測が付き、防止もできようになると思われる。このような破滅そのものを追い求める輩が跋扈することに、現在の市場はあまりにも無防備であった。人間がじつは不合理な存在であることを解き明しつつある行動経済学も、まだ<サイコパス>までは理論に組み込めていないのである。
 また、<サイコパス>は自分にはない
※なんでこんな変更をしたのかは、上記を参照のこと。

○ p477 10行目
操るのため → 操るため


■3刷 (以下すべて、ページと行数は2刷以降のもの)

○ p435、5行目
グルーブ → グループ


■4刷

○ 165p 7行
雖も → いえども
※この引用文では、「之」を「これ」に開いていたのに、もっと難しいここはそのままだったので、次の行を修正するついでに変更しました。

○ 165p 8行
厳呼 → 厳呼(※原文ママ)
jiyunさんの指摘に感謝いたします。
「あったししたので」も原文のままですが、こちらはそれほどおかしい言葉ではないので、注釈は入れません。方言ですかね。
「他日」は間違いではありません。

○ 350p 2行
附着してい血痕 → 附着していた血痕

○ 366p 7行
硬直 → 膠着

○ 367p 最終行
硬直化し → 行き詰まり
jiyunさんの指摘に感謝いたします。
「相まり」はそのままにしました。
語源的にはおかしいという話もあるでしょうけど、語源的には意味自体が微妙に変わってますし。
「硬直化」も意味としては通じるのに、こっちは間違えて恥ずかしいという想いがするのは、人の心というものはおかしなもんです。
じつは本書のテーマにもちょっと関連する、ミームの問題だったりするのですが、これは誰もまだうまいこと解き明してないようです。

○ 405p 後ろから2行
あまリズバズバ → あまりズバズバ 
※リをひらがなに。

○ 518p 6行
起ったりするは → 起ったりするのは


■5刷

○ p271 6行目
十二章 → 十三章
※もともと12章と13章はひとつの章だったのですが、書き足してるうちに後半部分が肥大化したので、ぎりぎり一番最後にふたつに分割しました。そのとき、ここを修正するのを見逃してました。

○ p418 6行目
伊豆半島の先端近くの → 伊豆半島の
※松崎は先端近くとは云えないと指摘を受けました。
先端近くというのは大ざっぱな意味で書きましたが、田舎に飛ばされたことを強調するための図式的記述だったかもしれません。






    




ファンがアイドルを襲う事件は昔のほうが多いのです。

シンガーソングライターの女性がストーカーに刺されて重傷を負った事件で、何故だかマスコミはヲタがアイドルを殺そうとしたという誤った図式を前提として報道していてケシカランという話があるようです。
「アイドルでもないしヲタでもない!小金井刺傷事件の報道に感じるモヤモヤ|ほぼ週刊吉田豪」

そんなマスコミの出鱈目さを非難している方々も、近頃はアイドルとファンの距離が近くなったためにこのような事件が起るという見方をしている人が多いようです。
しかし、芸能人が雲の上の存在だった昔のほうが、女優や歌手を襲う事件は多かったのです。
ストーカーだけではなく、金目的の犯行も含めて下に並べましたので、ご覧いただければ。
これはあくまでも少年犯罪の一部だけです。
昭和38年にファンの男(26)が吉永小百合(18)に自分の名前をイレズミするため針と墨汁を持って自宅に侵入、駆け付けた警官を手製のピストルで撃って重傷を負わせ、逃げようとした小百合さんは階段から転げて捻挫したりと、成人の犯行は何倍もあります。
昔の雑誌はファンレターの宛先として芸能人の自宅住所をそのまま載せていたということもありますが、昭和38年に橋幸夫(20)がステージ上で劣等感を晴らそうとした男(32)に軍刀で斬られるとかコンサート会場で襲う事件も多いので、それだけが理由ではないのです。
昔はストーカー殺人が連日のようにあったので、芸能人を襲う事件は比較的少なかったとも云えるのですが。
また、江戸時代のアイドルだった遊女を殺そうとする事件が頻発していたことは、「江戸時代のモテない男の無差別殺人事件」を読めばお判りいただけるかと。

マスコミだけではなく、人前で何事かを語ろうとする方は、この程度の基礎的データは踏まえて発言していただかないと、誤った前提を基に社会制度が作られたりすることにもなるので大変困ります。
データの裏付けがないまま出鱈目なことを云うのは、宇宙人の電波を脳内に受けて訳の判らないことを口走る危ない人と変わりません。
いまはどこの図書館でも全国紙の過去記事が検索できますし、少年犯罪データベースを見れば、ここに掲げた事件はすべて載っていて、手軽に知るこができるわけですから。

人は何故か、すぐに調べれば判るような目の前の現実を無視して、一見もっともらしい図式に飛びついて、それを正しいと思い込んでしまいます。これは、じつは何百万年に渡る進化から形成された人間の本性であることを、新著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』で解き明しております。
さらに、振られたり、ちょっとしたことでカッとして人を殺そうとするのも、じつは進化が人間にもたらした道徳感情から来る行動だということも説いております。
ほかの動物ではほとんど見られない<間接互恵性>の<評判>獲得意識と、その評価のために身に着いた<因果推察>能力が関係しているのです。
<間接互恵性>は人間社会を成り立たせるために大切なものですが、それによって現実が視えなくなって、社会全体に大きなダメージを与えることもあります。
克服するには拙著にも記したように、客観的データをできるだけ多く集めて判断することが重要です。
情報の蓄積こそが文明の基礎ですが、国家などの大きな組織ができてまだ一万年で、身体や脳の進化が追いつかない部分をこういう仕組みで補うことで、人類は辛うじて滅亡せずに生き延びたわけです。
皆様方も文明の担い手のひとりとして、なにか発言する場合は必ずデータの裏付けを持ち、データを持たない場合は発言を慎むようにいたしましょう。

ストーカー殺人を含めて殺人事件が大幅に減ったのは、社会構造の変化により、<評判>の位置づけが変わってきたためだということを、『戦前の少年犯罪』の続編である戦後編で解明することになるのですが、これがなかなか厄介で、頭が痛いです。
進化心理学を探究して、<間接互恵性>の<評判>や<因果推察>についてよく知り、道徳感情に突き動かされてこういう事件を起してしまう人間をうまくコントロールすればストーカー殺人などもさらに減らすことができるのですが、そのためにも一番大切なのは正しいデータの蓄積なのです。


昭和29年(1954).2.9〔17歳が女優宅にストーカー放火〕
 東京都世田谷区で、コック見習い(17)が女優の嵯峨美智子(20)が下宿している家の板塀にガソリンをかけて放火しタクシーで逃走、翌日に新聞で家が燃えなかったことを知って「またやるから覚悟しろ」と脅迫電話をかけ、2.11に逮捕された。たびたびファンレターを出していたが返事が一度しかなかったのを恨み、放火すると脅迫状を出していた。

昭和31年(1956).6.26〔高2が川上哲治選手を脅迫〕
 東京都世田谷区で、都立高校2年生が川上哲治選手(36)に「友人が会社の金を落とし、娘を芸者に売って穴埋めしようとしている。あなたの力で貸してくれないか」という手紙を出し、「金をもらいに行くから用意しておけ」という脅迫電話をしてから自宅にやって来たので張り込んでいた警官に逮捕された。
 父親が病気のため授業料を払えなかった上に、上級生から金を貸せと脅されて、投資信託で大儲けした川上選手なら出すと思ったと自供。

昭和32年(1957).1.13〔19歳が美空ひばりに塩酸かける〕
 東京都台東区の浅草国際劇場で、女中(19)が客席から上がって舞台脇で出番を待っていた美空ひばり(19)に、塩酸300グラムを浴びせかけた。左顔面、胸、背中に3週間のヤケド。
「ひばりちゃんに夢中になっている。あの美しい顔、にくらしいほど、みにくい顔にしてみたい」と書かれたメモがバックのなかにあった。

昭和32年(1957).2.27〔19歳2人が京マチ子を脅す〕
 東京都世田谷区で、法政大1年生(19)と店員(19)が京マチ子(32)に「13万5千円を持ってこい。警察に知らせると硫酸をぶっかけるかダイナマイトで自動車ごと吹っ飛ばす」という脅迫状を出し、脅迫電話も掛けた。京マチ子そっくりの女優が現金を持って指定場所で待っていると、2人で現れたので逮捕された。
「成功すればその金で家を借り、不良を集めてさらに大々的に有名人を脅迫するつもりだった」と自供。2.10に中日の西沢道夫選手を「十万円よこさないと硫酸かける」と脅して逮捕された無職(26)の記事を読んで、自分ならもっとうまくやると思ったもの。裕福な工場経営者の息子で、月に7千円のこづかいをもらい、風俗店や銀座のバーに通っていたが金には困っていなかった。この年の大卒銀行員初任給1万2700円。

昭和32年(1957).3.1〔16歳が島倉千代子殺害計画〕
 神奈川県横須賀市の無職少年(16)が、国電品川駅で無賃乗車で捕まったが、ナイフを所持しており、島倉千代子(18)を殺すつもりだったと自供した。これまで何十回も電話して自宅まで訪れて逢うように求めたが拒絶されガラス戸をこわしたりしたが、とうとう殺害を計画しナイフを買って上京したところだった。

昭和32年(1957).12.16〔18歳が甥を誘拐殺人〕
 愛知県碧南市で、無職(18)が兄の息子(6)を誘拐して絞殺、小学校内の貯水池に沈めてから「60万円よこせ」という脅迫状が何通も出したが、警察の警戒が厳重で金を受け取ることはできなかった。翌年5.21に小学4年生が腐った子供の足首を釣り上げ、死体を発見、重しとして結びつけられていた鉄棒が無職のものだったため逮捕された。
 6.17に雪村いづみに脅迫状を送り、金を受け取りに現れたところを逮捕され、7月に少年鑑別所を出所。風俗嬢と結婚する資金を得るため、石原慎太郎・主演の映画「危険な英雄」にヒントを得て、誘拐してすぐに殺害してから身代金を取る計画を立てたもの。警察は最初から無職が犯人だと睨んでいたが証拠がなく、兄は絶対に違うとかばい続けていた。中2の時にこの池で溺れていた子供を救助して表彰されていたが、助けたのは発見者の4年生だった。

昭和33年(1958).12.26〔17歳が淡島千景宅に強盗〕
 東京都大田区で、無職(17)が淡島千景(34)の自宅に強盗に入り、女中を脅して現金2千4百円を奪ったが、すぐに逮捕された。24日に岡山県御津郡から上京するも金がなくなり、雑誌で知った女優にめぼしをつけてオモチャの拳銃を使って押入ったもの。

昭和34年(1959).4.15〔家出少年ふえる 歌手や俳優志願 断わられると強盗も 読売新聞引用〕
(前略)昨年は都内で保護された家出少年が1万5839人、三十二年より3142人も多く、家出人総数(2万209人)のうちで占めた割合が73.72%と戦後の最高を記録した。家出の動機をみると、東京へのあこがれと職さがしが40%に達しているが、これにつぐ新しい傾向としてでてきたのがノド自慢大会などの流行による“芸能人になりたい"“顔をみたい"などの家出。
このため同課(※警視庁少年課)が都内各署を通じ歌手、俳優、舞踏家、落語家など芸能人873人の協力を求めてさらに調べたところ、昨年中の“あこがれ少年"の訪問数は4418人で、この大部分が家出少年とわかった。この統計によると、15歳が25%で886人、14歳が15.4%となっているが、半数は中学生、ついで高校生、小学生、商店員、女中の順で大学生も15人いた。
訪問の目的は“顔がみたかった"という単純なものが93.6%、また再三ファン・レターを出したが、返事をくれないので山口県から出てきた少女(18)などもいるが、“芸能人になりたくて"(5.3%)のなかには、農村の生活にあきたらず、声がいいとおだてられて青森県から家出したもの、断られてもなにか他に仕事を世話してくれるだろうと石原裕次郎を頼って富山県から出てきた少年などもある。
あこがれる芸能人の順序は歌手がトップに俳優、プロレス、野球選手と続き、家出少年の出身地は全国的だが、大阪、新潟、青森、愛知各県が目立っている。もちろんほとんど門前払いで保護者、児童相談所に引き渡しているが、強引に粘って女中として俳優に引き取られた少女が一人、浪曲、プロレスの弟子入りもそれぞれ一人ずついる。また逆に面会強要で検挙されたのが二十人、ヤケのあまり芸能人宅で強盗、窃盗、恐かつ、投石などのいたずらを働いたもの六人。
そのおもな例としては▽千葉県の無職少年(16)は昨年四月二日、十二月三十日の二回少女歌手の松島トモ子さんに脅迫状を送り「二百万円送らねば命をもらう」とおどし碑文谷署で検挙。また▽目黒区高校二年生(17)は歌手にあこがれ、楽器やテープレコーダほしさから昨年十二月までに歌手大津美子さんら数人の歌手宅の郵便箱をこじあけ、現金入りのファン・レターなど二十万円を盗み、本年一月二十四日検挙、などがある。(後略)
(読売新聞4・15夕刊)

昭和35年(1960).1.23〔16歳が島倉千代子に爆弾〕
 東京都港区で、工員(16)が島倉千代子(22)の自宅を爆破しようとして逮捕された。高知県須崎市の中学を卒業して上京してから熱狂的ファンとなり、1.3から「家を爆破する」という脅迫状を4通出し、1.10には自作のダイナマイトを投げ入れ玄関で爆発させていた。1.23に自作のダイナマイトを持って家の前をうろついているところを警官に見つかり、ナイフで切りつけてきたが取り押さえられたもの。

昭和36年(1961).5.7〔18歳が丘さとみ殺害計画〕
 京都府京都市で、工員(18)が女優の丘さとみ(25)を殺すつもりでナイフを所持していたため殺人予備罪で逮捕された。東映時代劇のお姫様役で大人気だった丘さとみの熱狂的ファンとなり、映画はすべて観て、ファンレターも出していたが、殺さなければ自分が破滅すると思い込み、4.28に埼玉県大宮市から京都にやってきて丘さとみの自宅前の電話ボックスで毎日待ち伏せたが、常に母親や友人と連れ立って出入りするので実行できず、警察署を訪れて金を送るように家に連絡して欲しいと頼み、取り調べられたもの。
「私はある人を殺しに京都へきた。わたしはこの人に心をひかれてこれまでにも、しばしば京都にやってきたが、今度はその人を殺して自分のものにするつもりだった。しかしいいチャンスがなかったので目的を乗たさなかった」という手紙を逮捕された日に投げ込んでいた。手紙は京都新聞5.8夕刊引用。

昭和41年(1966).5.9〔18歳がこまどり姉妹と心中図る〕
 鳥取県倉吉市の市福祉会館で公演中の舞台で、農業手伝いの少年(18)がこまどり姉妹の並木葉子さん(26)を刃物で刺し、1ヶ月の重傷を負わせた。心中を図って、自身も舞台上で腹を刺し1ヶ月の重傷。これまで何度も結婚を迫る手紙を出していた。性格はやや内向的だが、ごく普通の少年だった。広島高裁で2〜5年の不定期刑となったが、1年後に首吊り自殺。

昭和41年(1966).7.29〔19歳日大生が都はるみの妹刺傷〕
 東京都港区で、日大法学部2年生(19)が都はるみ(18)の自宅に押しかけ、都はるみの妹(16)に切りつけて2週間の傷害を負わせて逃走、8.1に逮捕された。熱狂的ファンで、これまでもたびたびやって来ていたが、家族がドアチェーンをしたまま応対することに腹を立て、10日前に包丁を買って復讐にきたもの。「入れてくれないのが悔しくて。後のことは何も考えなかった」と自供。

昭和42年(1967).10.12〔17歳が園まりと心中する練習のため殺人と通り魔〕
 埼玉県南埼玉郡の食品店で、工員(17)が顔なじみの主人(29)を刺殺。鉄棒で妻(27)を殴打して3週間のケガを負わせた。6.4には路上で女子工員(20)を鉄棒で殴りつけ3ヶ月の重傷を負わせていた。
 福岡県糸島郡の農家の末っ子で、中卒後は埼玉の工場でまじめに働いていたが、園まり(23)のファンになってから性格が一変。他のファンに負けじと借金をしてまでがんばっていたが、次第に「独り占めにしたい。その為には殺すしかない」と思い詰め、度胸をつける練習のため一連の犯行を犯したもの。

昭和48年(1973).10.7〔16歳ら5人が長嶋茂雄誘拐計画〕
 神奈川県川崎市の社員寮に住む少年工員(16,18)と工員(22,24,25)の5人組が、長嶋茂雄選手(37)の誘拐計画を立てて逮捕された。「どうせやるなら世間をあっと言わせてやろう」と天地真理(21)を狙ったが所在が判らないため長嶋に変更、車に追突して出てきた長島選手をナイフで脅して家族を縛って現金を奪う計画で実行したが車を見失って失敗。19歳が弱気になって警察に届けたもの。主犯の24歳は去年に大阪の金物屋に日本刀で強盗に入り40万円を強奪していた。

昭和58年(1983).3.28〔19歳が松田聖子を殴る〕
 沖縄県沖縄市の体育館で、少年(19)がコンサート中のステージに上がって松田聖子(21)の頭を金属棒で数回殴って軽い打撲傷を与え、取り押さえられた。彼女の大ファンで、事件を放送して有名になりたいと自供。高校卒業後からノイローゼで精神病院に入院しており、外出許可を取って埼玉県入間市から来ていた。

昭和63年(1988).7.8〔中2が両親と祖母刺殺〕
 東京都目黒区の自宅で、中学2年生(14)が父親の会社役員(44)、母親(40)、祖母(70)を殺害した。友人(13)が数万円で殺人の手伝いを頼まれて朝4時にやって来たが、中2生が祖母の首に電気コードを巻きつけたのを見て怖くなって逃げていた。両親は教育に厳しく冷たかったので、就寝中に金属バットで殴り、目を覚ました父親にバットを取り上げられると包丁で、父親37回、母親72回、祖母56回めった刺しにしたもの。別の友人に犯行を打ち明けて死体を見せ、この友人が教師に告げて警察に通報され逮捕された。
 サッカー部に所属し、礼儀正しく明るい性格で人気者だったので周囲は皆驚くが、数ヶ月前から友達数人には親を殺すと話していた。また、大ファンだった南野陽子をレイプして自殺するが、迷惑を掛けるので先に家族を殺すと1週間前に打ち明けており、南野陽子のスケジュールを調べて7.8をその決行日と決めていた。初等少年院に長期収容となった。






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