大量殺人と云いますと、津山三十人殺しヘンリー・リー・ルーカスチカチーロなんかの名前が挙がっても、桁違いの人数を殺害した陸奥事件のことがまず出てこないのは、軍ヲタにとって常識となっている事件が犯罪マニアのみなさんにはあまり知られていないということかとも思いますので、ちょっと記しておきます。
すでにご存じの方にはとくに目新しい内容はありません。

昭和18年6.8、瀬戸内の連合艦隊基地である柱島泊地にて、停泊中の戦艦陸奥が爆発して一瞬のうちに沈没、乗員1474人のうち1121人が死亡しました。
戦時中の出来事ですが、敵の攻撃による爆沈ではありません。戦争とは関係がなく、これは明らかに殺人です。
事件を詳細に調べ上げた吉村昭『陸奥爆沈』を読むと、艦内で窃盗を繰り返していた二等兵曹(陸軍の伍長に相当する階級で、下士官ですからけっこう偉い。二等兵と間違う人がいるみたいなので念のため)が、捜査の手が伸びてきたことを察知して火薬庫に忍び込んで火を放ったことは間違いないと思われます。
もっとも、現場は爆破とともに消滅し、二等兵曹も行方不明となって、直接的な証拠はなにもありません。状況証拠は99%真っ黒ながら、『陸奥爆沈』も慎重に断定を避けていて、その執拗な調査とともに、筆者の事実追及に懸ける厳格な姿勢は見事ととか云いようがありません。
ただ、仮に二等兵曹が犯人ではないとしても、これが殺人事件であることだけは確かです。

事件当日に編成された海軍省の査問委員会は、海底の船体から砲弾を引き上げてまでして実験を繰り返し、砲弾の自然発火による事故ではなく、人為的な爆発であると結論づけました。
これは他の艦にも搭載している三式砲弾などの使用をやめるかどうか、連合艦隊と帝国の命運を決める重大な結論ですから、よくある役人の責任逃れ、形式だけの調査結果ではなく命懸けの真剣なものです。他の艦で同様の事故が続けばただでは済みません。
また、交戦国によるスパイ活動や反政府組織によるテロ行為であるのなら、戦後になって彼らにとっての輝かしい戦果を誇るでしょうから、いまになっても誰も名乗りを挙げないのは、これが極めて個人的な犯罪である証左です。

なにより、帝国海軍では乗組員による軍艦の爆破事件がそれまでにもたびたび起こっていたという事実が、陸奥事件も兵による犯罪であるとの確信を抱かせます。
『陸奥爆沈』にはそれらの事件の詳細が綴られていますが、現場を押さえられたり、犯人がのちに自供したり、動かぬ証拠を伴う明確な事件がいくつもあるのです。
なかには時限式の発火装置を仕組んで陸の上から自分の勤務する艦の爆発を眺めていた兵もいたりします。陸奥の二等兵曹のことを行方不明と記したのもこんな前例があるからで、ひょっとすると彼は陸奥の沈没を眺めていて、いまでもどこかで生きているのかも知れないのです。
スパイやテロリストのような確信犯とは違って、個人的理由でこんな犯罪を起こせば時効となっても名乗り出られるもんではないでしょう。

スターリンやポルポト、あるいは9.11の如き、政治だとか組織だとか国家だとか正義だとか、そういう不純な夾雑物が介在しない、個人が犯した純粋な犯罪としての殺人事件ではこれが世界史上最大のものではないかと思います。

ちなみに、戦艦陸奥は大和が登場するまでは世界最大の主砲を擁した世界最大の戦艦で、極めて強固な装甲を備えながらも世界最大の速度を誇るという、まさしく不沈艦と呼ぶに相応しい最強兵器でした。大和や武蔵は軍事機密で戦時中の国民には名前さえ知らされていませんでしたから、日本海軍の象徴は終戦まで陸奥と長門でした。
その最強兵器は選りすぐりの乗組員による連日の猛訓練を続けながら、一度も戦をすることもなく、自慢の巨大主砲は一発も敵を撃つことなく、改装に継ぐ改装で幾重にも張り巡らせた分厚い装甲はなんの役にも立たず、内側から乗組員によって沈められてしまったわけです。すでに致命的に欠乏していた鉄と油と弾薬を満載したまま。
軍は陸奥の沈没をひた隠しにして、生き残った乗務員も機密を守るために隔離して、立派に戦死してもらうために前線に送り込み、ほとんどが亡くなってしまいました。

陸軍では下克上なんて言葉が流行って、いかに上官に逆らうか、あるいは戦場では後ろから上官を撃つなんて話がごく当たり前に語られてて、東条英機が戦陣訓なんてものを出さないといけないほど統制が乱れて、日米開戦前にすでにして軍隊の体を為していないような状態でしたが、海軍も気に食わない上官に逆らうために軍艦を爆破したりと似たようなもんでした。もともと天皇だけが持つはずの統帥権を勝手に私物化したり、大臣や軍幹部を殺したりなんてことをはじめたのも海軍将校ですし。
戦前戦中は軍国主義だと仰る方がいるのですが、それは大嘘で、あの時代はアナーキストたちが秩序破壊を繰り広げる無政府状態です。軍国主義というのはもうちょっとまともな秩序があるシステムです。だからこそファシズムが希求されて、うまくいかずに結局最後まで無政府状態だったのですが、話が別の所に飛んでしまうのでここらでやめます。

最後にもう一度念のため、陸奥の爆発原因は状況証拠しかありませんから、最終的には不明のままです。
吉村昭『陸奥爆沈』を読んでご自身で判断していただければ。これは戦争や犯罪に興味のない方が読んでも唸る見事な一冊です。