『心にナイフをしのばせて』奥野修司というサレジオ高校首切り事件をあつかった本が話題になっているそうで、当データベースの高校生首切り殺人事件にも多くの方が来るようになったので、読んでみました。

この本にはどうもいろいろ問題があるように感じるのですが、その最大のものは精神鑑定書の引用のやり方が著者の意図に合わせた恣意的、それもかなり悪質なものではないかと思える点です。
精神鑑定書の被疑者少年と鑑定人との対話部分の全文をアップしましたのでまず一読してから以下の文章をご覧ください。

この本は精神鑑定書の一部だけを引用することによって少年を怪物に見せようとする意図があるのでないかと感じさせます。
たとえば、
「百%ありえない。一般の場合でも、一切は過去の人間に関連して生じるのだから。」
というのは、その前段の

〈君は犯罪をどう説明したいか〉
 僕の性格です。……軽卒さです……自制心のないことです。
 
から普通に通して読めば、この犯行やその他の行動もすべては自分のこれまでの人生で培った自分の性格から起こったことで、悪魔がとりついたとかそういうことは絶対にないと云っているように読めます。鑑定人も悪魔つきなどのせいにしない態度が印象的と記しています。
ところが、前の数行を削って、しかも削ったことを記さずにあたかもこれがその部分の完全な引用であるかの悪質な編集をして、何故か反対にこれが犯行を自分以外の誰かのせいにしている少年の異常性を表す言葉として取り上げられています。
また、

〈勝利の惑じは〉
 それはない。
〈事件後しばらくは?〉
 ……一般に認められれば勝利かもしれないが、そんなものではないでしょう。
〈一般が認めないのが口惜しいか〉
 みとめないのが当然でしょう。

という流れをぶった切って「一般に認められれば勝利かもしれないが」という箇所だけを取り出して、犯行を正当化している言葉として取り上げられていたりもします。

この犯行の原因とされるいじめについての少年自身の証言もこの本ではほとんど落とされています。
もちろん、少年が嘘をついている可能性はありますが、しかし嘘だと云うのならなんらかの根拠が必要になります。
この本では少年が嘘ついている一例として毛虫を辞書にはさまれたということはなく、その証言は少年の目に映ったものに過ぎないというようなことを、同級生のひとりがそのことを記憶していないことを根拠にして記しています。
しかし、この膨大な精神鑑定書の今回アップしたものとは違う箇所には

「とくに本少年をいつもいじめ、少年の新しい鞄をふんだり投げたりして古いようにしてしまったり、少年の嫌いな毛虫を辞書の間にはさんだりした。腕白、いたずら、短気などの点では○○○君の方が少年より上だったがとくにひどいという方でもなかった。少年はいつもやられてばかりいたので、あんなことになったのではないか。」この点でも多くの人の意見は一致している。

という一文があり、このおそらくは警察や検察の正式な調査結果を元にしている証言を読んだ上で、こういう記述があることを隠してあからさまな嘘を書いているのですから、そうとう悪質です。
もっとも、正確に云うと嘘の例ではなく虚実がまざっている例として毛虫の話を掲げているので、このたったひとつの例が、少年の証言の虚ではなく実を表すものとして出したと強弁するつもりなのかもしれません。
なんにせよ、出鱈目を意識して堂々と書いているわけです。
これだけ明確に事実をねじまげているとなると、他の部分もどこまで正しいのか疑わしくなってきます。

また、犯行時に他の犯人に襲われたように嘘を云っていたから、いじめについての話も嘘だというようなことが述べられているのですが、犯行の偽装は支離滅裂で警察に一瞬にして見破られました。いじめについては逮捕直後の警察への自供から、3ヶ月に渡る鑑定人の問診まで首尾一貫しており、仮にこれが嘘だとするとその場逃れの犯行偽装とはまったく次元の違う、自分自身も現実だと信じ込んでいるような類のもので、これを見破るには専門家の診断しかないでしょうが、少なくとも3ヶ月間精査した精神科医たちは少年が率直に話していると判断しているようです。

いずれにしても、精神鑑定書を都合のいいように一部だけしか載せないのは明らかにフェアなやりかたではありません。
もっとも、いじめがあろうがなかろうが、家族を殺された遺族の痛みは同じで関係ないという考えは成り立つでしょうし、この本が「ある被害者家族の悲劇」という内容ならそれで充分だと思うのですが、あくまで特定の人物を糾弾しようという意図を持っているようなのでそれではとても済みません。
また、いじめがあろうがなかろうが関係ないのならこんなやり方であたかもいじめがなかったかのようにねじ曲げる必要もないわけです。
被害者家族自身が出版したならまだしも、ルポライターと称する人が一方の側に立って精神鑑定書の都合のいいところだけを出すようなやり方で刑期を終えて再犯も犯していない個人を糾弾するようなことが赦されるというのは私には薄ら寒いものを感じさせます。
大宅壮一が目指したジャーナリズムというのはこういうもんだと業界では考えられているということでしょうか。
犯罪被害者救済のような高邁な目的がもしあるというのなら、こんな姑息なやり方で犯人像を歪ませようとするのはマイナスにしかなりません。まるで、実際には犯人に正当性があって被害者に非があったとこの本の著者が本心では考えていて、そのために小細工をしないといけなかったのかという勘繰りをされかねません。

なお、本にも出てくるように、この精神鑑定書では犯人の祖父、父、子の3代に渡る家族歴がちょっと異様なほど大きな比重を占めています。犯行を祖父の業の崇りのせいにしている父親を、迷信的な力を信じていると鑑定人は切って捨てていますけど、鑑定人自身のほうがより深く同じ迷信的な力を信じているとしか思えません。
それはさておき、この父子3代のサーガはなんとはなしに三島由紀夫家を彷彿とさせるところがあって、読後感は『ペルソナ 三島由紀夫伝』猪瀬直樹に似た味があります。
それを『心にナイフをしのばせて』では薄めて引き写しているだけで、いかにもお手軽、単純に本としてもいかがなものかと思います。
「ある被害者家族の悲劇」というだけで充分成り立っている本なのに、どうしてこんな半端なやり方で犯人側を出す必要があったのか。
半端なルポライターが付け入る隙がないほど完璧に調査され、しかも波瀾万丈で読ませる精神鑑定書がすでに犯行直後に提出されてしまった悲劇がここにあるのでしょうか。