『戦前の少年犯罪』が出た直後に、なんで東郷元帥の孫娘の話を入れなかったのかと云われまして、しまった!と悔やんだが後の祭、とにかく数が多くてわけがわからなくなってうっかり落としてしまった重要事件も数え切れず、戦前の少年犯罪だけでもう一冊同じ濃さの本が余裕でできるほどのネタが眠っています。
とくにいいとこのお嬢さまが生活に困っているわけでもなくカフェーの女給になる話はほかにもあるので、「第12章 戦前は女学生最強の時代」にコーナーを設けるべきでした。
せっかくなのでここに記しておきます。

昭和10年(1935).2.27〔東郷元帥の孫娘(満17歳)が家出してカフェーで女給〕
 東京市麹町区の自宅から、東郷平八郎元帥の孫娘で侯爵の長女である女子学習院3年生(満17歳)が家出、浅草のJL喫茶店というカフェーで女給として17日間働いて、3.15に帰宅した。3月の卒業までに提出しないといけない宿題のことで両親に叱られると思い、また家がおもしろくないことから家出して、青山加津子と偽名を名乗り、学生、とくに慶応ボーイが好きで明るく朗らか上品なサービスをしたため「かつンべい」と呼ばれて学生に人気があり、学生でない者もモテようと学生の振りをして近づいた。新聞に家出人として写真が載ってバレそうになったため円タクで帰ったもの。東郷元帥は1年前の5.30に亡くなっている。

カフェーの女給というのはいまのキャバクラ嬢みたいなもんですが、キャバ嬢と違って店からはまったく給料をもらえずに客のチップだけが唯一の収入ですから、食べるためにはそれ相応のサービスを展開しなくてはなりません。
明治時代に最初にできた銀座のカフェー、プランタンやライオンなんかはその手のいかがわしいサービスを一切しないツンデレ系で売ってたんですが、大正末期にライオンに対抗してできたタイガーあたりからデレデレ系になりまして、昭和になって大阪資本の店と大阪女給が銀座に進出してくるとさすが風俗の発信地大阪というのか完全なエログロ路線でキッスはあたりまえ、いまの風俗店も真っ青のすんごいこともやるようになったそうです。大阪系以外はここまで露骨ではなかったものの、店外デートやお泊りなんかはごく日常で、あくまで自由恋愛でありながらお金はもちろんいただきますわよというよくあるパターンです。
侯爵令嬢はここまでのことはしていなかったという公式発表があったみたいなんですが、世間はいろいろと噂を流したようです。日露戦争からわずか三十年で、そのあたりのことを宮本百合子が書いた文章が青空文庫にアップされています。
とにかく、たんなる喫茶店のバイトではなく、ちょっとした桜姫東文章で鶴屋南北もバルチック艦隊並みにびっくりというお話なんですが、お父さまの侯爵が報知新聞に出した談話がなかなか大したもんなんです。
「お金を少ししか持っていきませんでしたから、ダンサーか女給かと考えました、華族といっても若い娘にはそんな階級観念は持っておりません。(中略)今度の事件から私は苦悩と心痛のうちに呼び起こるものは若い者の時代を知れということです、私達は自分の経験から万事割り出して考えますがそれは時代を忘却していると思います。遥かな若い者の時代には親は常に近づいてゆく用意と寛容を持たねばならぬことを教えられました。これからは娘のこともよく聞いて手を取り合うように生きて行くつもりです。華族として世間をお騒がせした責任は重々感じております。謹慎をして子供を導き明るく生きたいと思っています。近代娘は不可解だ、あきれたものだの一点張りではこれからの親は落第です。そんことをしみじみ考えさせられました。世の親たる人は私の子のことをよく見られてお子さん方の導き方に思い当たる節でもありましたらなら私は心から喜ぶ次第です」
侯爵というのは税金で食べてるわけでして、皇族に近いというか、もちろん皇族よりは下ですが似たようなもんで、そういう立場の人がこんなお騒がせでこんなことを云ったらいまならはたしてどのような騒ぎになるものやら。昔の人は寛容でした。せこせこした現代人はおおらかさを見習いたいものです。
東京府立第一高女校長・市川源三さんは同じく報知新聞でこんなことを述べておられますけど。
「この事件の詳しい事情は知らないから正確な批判は出来ないが上流家庭の若い女性が無軌道な傾向にある事は事実ですね、この人達は苦労も足りないし、人生というものをジッとみつめることもしない、だからたまたま厳格な束縛にあうと唯それを嫌忌してレビューにあこがれたり、果ては女給をやって見たくなるんでしょう」

昭和11年(1936).7.21〔女学校4年生(満15〜16歳)が作家修行のため家出してカフェーで女給〕
 東京市杉並区の自宅から、麹町女子学院4年生(17)が7.13に家出、横浜市の喫茶店ナポリというカフェーで偽名を名乗って女給として働いていたが、店の主人が怪しんで警察に届けたため7.21に保護された。弁護士の長女で作家志望、いい文学を書くには人生のドン底を経験しないといけないと、女給になりたいと云うと父親はそれもいいだろうと云ったので、どこに行くとも告げずにすぐに家を出たもの。カフェーの現実に嫌気がさして父親に救ってほしいと連絡したところだった。

こういうことがちょくちょくあったわけです。読売新聞に本人の談話があります。
「最初から二三日のつもりで入ったんですわ、ご主人がとても親切でなかなか暇をくれといい出せなくなっちゃってとても弱っちゃったの…小説はとても好き!なんでも読みますけど一番谷崎潤一郎さんのものが好きです、収穫? 思ったほどのことはなかったわ、もう懲り懲り、学校もやめていい小説を書くことに精進しようと思ってます」
風俗店の現実を目撃して、もうちょっとで自分もやるはめになった16歳の女の子にしてはのんきな話ですが、両親は輪をかけてもっとのんきです。昔の親は子どもにとことん甘かったことがよくわかります。
「とても驚いちゃってきょうは御飯も食べられないほどでした、でもこの子は意志の強い子ですから間違いはないと思ってました、私たちは放任主義で栄子の好きなようにさせてきたんです、学校の通信簿も一度だって見たことがありません、文学が好きでよく小説を読んでいますし自分でも何か書いているようです、学校も本人がやめたいというならやめさせて好きな道へ天分をのばしてやりたいと思っています」

サイン攻めの話ではこれを入れておくべきでした。げに恐ろしきは集団の女学生。男子は修学旅行先で殴り合ったりナイフで刺し合ったりはしてましたけど、こんなことはしないようです。

昭和5年(1930).11.4〔女学生が京都修学旅行で舞妓をサイン責め〕
 京都府京都市で、東京から修学旅行に来ている女学生が舞妓を見せろと一見さんお断りのお茶屋に30人以上の集団で無理やり上がり込んだり、舞妓を取り囲んでサイン責めをしている。
「わてらお座敷へ出がけの忙しいもんをつかまえて厚かましくもプロマイドと万年筆を差し出す女学生の元気にはこっちが顔負けしまっせ、先夜なんか署名すると次ぎは住所も書けとおいいやす、妹の富貴ちゃんなどは、今夜も女学生に取り巻かれたと泣きそうな顔で帰る晩が多い始末どす、中学生にはまだそんな人一人もあらしまへん」(談話は大阪毎日新聞引用)。