『愛国と米国 日本人はアメリカを愛せるのか』鈴木邦男氏が去年出された『愛国の昭和 戦争と死の七十年』ではちょっとだけ調べごとのお手伝いをしただけだったのに、その本の中で拙著『戦前の少年犯罪』を過分な言葉で取り上げていただいたりして恐縮した。
それから一年、文楽を観に行った国立劇場でばったり逢ったりしたくらいでとくに連絡もなかったのだが、最新刊の『愛国と米国 日本人はアメリカを愛せるのか』が送られてきた。律儀な人だ。
そんなことで紹介をしておきます。いただいたのは1ヶ月以上前なんですが。私は律儀じゃない人だ。

戦時中に生まれて反米幼児として育って右翼青年となった鈴木氏の反米と愛米の絡み合いが、日本人すべての米国への愛憎入り交じった複雑な感情と重ね合わせながら、かなり気合いを入れてもろもろ掘り返して突つき廻されている。愛国とはなんぞやというのが最大の命題である鈴木氏にとって、これは核となる問題なんであろう。
なんせ、鬼畜米英撃つべしと云ってた右翼が、敗戦から15年後の60年日米安保闘争では米国と軍事同盟を結ばねば日本は滅びると、反対派の左翼を売国奴呼ばわりしていたんだからなかなかややこしい。
まったくのアメリカ万歳ならそれもいいんだが、相変わらず卑劣なアメリカの罠に嵌められて日本は戦争に引きずり込まれたと怨んで反米に燃えている。さらには戦後の青年としてアメリカの音楽やらテレビドラマ、若くてかっこいいケネディ大統領なんかに憧れを抱いたりもするからますます屈折してくる。

日本人の米国への奇妙なる愛憎を考える上で大きなヒントを与えてくれるのが、この書にも出てくる昭和14年のイギリス外相の訪日に合わせて日本全国で澎湃として巻き起こった反英運動なんではないかと私は思います。排英市民同盟が主宰した東京の反英市民大会だけでも10万人も結集して練り歩いて気勢を上げたりして、まさしく安保反対闘争そのまま様相を呈していたのでした。社会大衆党なんかも参加してたし、まったく戦後の安保闘争と同じと云っていいと思います。
英語は敵性語だから使わないようにしようなんて運動は、反米ではなくこの反英運動の流れから始まったものだったりします。
日本が戦っている蒋介石をイギリスが支援しているというのが反発の原因で、「われらが親兄弟はイギリスの弾丸に殪れた(倒れた)」だとか書いた旗を掲げて農民の団体が反英市民大会に参加してたり、「本当の敵は支那ではなく背後で操ってるイギリスだ」なんて極端なことを主張する政治家もたくさんおりました。
どうにも判らない話で、直接のきっかけは親日の中国人を暗殺した犯人がイギリス租界に逃げ込んだので引き渡しを要求したけど証拠がないからと拒否された天津事件なんですが、これを蒋介石への支援と見なすとしてもずいぶん迂遠な間接的なものに過ぎないはずです。
2年前の上海事変ではドイツの顧問将校団が作戦指導して、あるいはもっと踏み込んでドイツが蒋介石をけしかけたと云う人もおりますが、なんせ日本は大量の戦死者を出す大損害を受け、まさしく「われらが親兄弟はドイツの弾丸に殪れた」なのに、その積極的に蒋介石を支援したドイツには非難の声が上がらないどころか同盟を組もうという流れになって、右翼が日独同盟に反対する者を売国奴呼ばわりしたりします。
4年前にはエチオピアを巡って日本とイタリアが対立、ローマで10万人の反日大会を開催して日の丸を八つ裂きにする絵を掲げたり、ムッソリーニの指令でイタリア各紙が反日記事を掲載したと日本の新聞も大騒ぎだったんですが、これら英国よりも遥かにはっきりと日本に敵対してた相手への反感は盛り上がらず、何故だか反英感情だけが突出してくるのです。
ドイツのメイドさん攻撃に籠絡された連中が裏で扇動したなんて話もありますが、元から反英の気分が蔓延していたからこそそういう策動も効果があるのでしょう。

これは明らかにイギリスが日本の盟友だったという過去が関係しているわけで、日英同盟のために第一次大戦なんかでも日本はずいぶん頑張ったのにイギリスはなんもしてくれなかったじゃないの、こんなにつくしたのに冷たいわという屈折した愛憎があるわけです。
また、同盟していた頃は日本のほうが格下の関係だったけど、いまでは国力も上がって同格なんだぞという、図体ばかり大きくなった子どもの親に対する反抗期のような、妙に甘えた反発心もあったりもします。
アヘン戦争から宿敵だったイギリスと中国のあいだにわざわざ割って入ってこの絶対に相容れるはずのない二国を同盟させるまで暴れ回るほど感情的に国益破壊に勤しんでいます。
戦後の日米安保反対闘争でも、右翼以外の一般大衆にとっては我々を軍国主義から解放してくれて民主主義のお手本になるお兄ちゃんだと思ってたのに裏切られた!というような妙にべたついた感情と、戦後15年経ってあたしも一人前になったのよ!という反発心が根底にはあります。
会社では取引相手がどんないけ好かない奴だって儲けさえ出るなら笑顔で握手するだろう人々が、国のことなら妙に子どもっぽい反応をするというのはどうにも不可思議なることです。このあたりは戦前の反米だってじつはおんなじなんです。
戦前のエリートは軍人も含めてみんな欧州かぶれですが、一般大衆はアメリカ大好きで、米国大衆文化の浸透度は戦後よりも戦前のほうが遥かに大きかったりします。戦後になって急に手のひらを返してアメリカかぶれになったみたいに云う人がいますがまったくの誤解で、欧州から乗り換えたエリートはともかく一般大衆は元に戻っただけです。敵性語排撃なんて叫んでも戦時中も普通に英語は使われてましたし。英語を無くすと日常会話が成り立たないほど浸透してたんです。
戦前のアメリカ大好きだった一般大衆は、こんなに愛してるのになんでいじめるんだという思いがあるからあれだけ一挙に強烈な反米になったわけですな。
上記の反英運動で一応は屈服させ溜飲が下がって積年のイギリスへの愛憎を昇華させたちょうどすぐあとに、アメリカが入れ替わって立ちはだかったという経緯もあります。

何が云いたいかと申しますと、いまどき反英だとか反対にイギリス大好きなんて人は、まあ一握りのちょっと変わったのを除いて消滅していて、そもそもイギリスに対する意識さえ日頃めったに昇ってはきませんが、こんなのはいつでも消えてしまうもので、米国への愛憎なんてものもそのうち無くなってしまうのだろうか、はたまた無くなったら日本はどうなってしまうのだろうかというようなことです。

諸外国のように日本は人工的に造られた国家ではないので、国という存在があたりまえ過ぎて意識するのが難しく、愛国というのもなかなか難しい命題だったりします。
コミンテルンのためにやった戦争が正しい戦争だと主張てる人がコミュニストではなくて愛国者を自称してたり、よその国の独立のために日本を犠牲にしたのが誇らしいなんてどう考えても売国奴の地球市民意識の持ち主が愛国者を自称してたり、訳が判りません。まあ、戦前の右翼は明らかに地球市民なんでそのあたりはいいのですが、それにしたってあれだけ反日のドイツやイタリアとなんで仲良くしたかったのか。戦後の右翼が反日の鬼畜と仲良くしたかったのと同じなのか。
これらもろもろの不純物を排除しても日本には最後に天皇が残るじゃないかなんて云ってみても、『愛国と米国』にも記されてるように、「<ゾルレンとしての天皇>を護るためなら<ザインとしての天皇>は殺してもいいんだ」「楠公の心を持って、尊氏を行う」「大善のためなら小善は踏みにじってもかまわない」と公言する右翼も出てくるわけで、なんでもありになってしまう。実際、戦時中ほど天皇が踏みつけにされコケにされた時代もありません。いまでも愛国者とか自称してる人が皇室批判を繰り返してますし。
鈴木邦男氏は右翼から左翼に転向したみたいなことを云う人もいますが、元々日本の右翼だとか愛国なんてのはそれほどはっきりしたもんではないんですな。
結局はイギリスだとかアメリカだとかよその国との関係によってなにかしらでっちあげなくてはならなくなる。そんなの自明だと仰る方もおられるやも知れませんが、『愛国と米国』ほど多角的に掘り下げられてる本は存外に無いんではないかと思います。他にはない論点も網羅して緻密なようでいて捉えどころのない本書の論旨が問題の本質を突いています。
鈴木氏は『戦前の少年犯罪』を出したばかりでまったく無名な私のところに逢いたいと気軽に訪ねてきて、何者かも判らん私の話を素直に感心しながら聞き入って、気軽に調べごとを頼んで帰って行って、なるほど戦前の融通無碍なる媒介者的な右翼とはこんな感じだったのかともろもろ腑に落ちる思いでしたが、『愛国と米国』はそんな鈴木邦男という人物を体現してる代表作と云っていいと思いますし、また愛国を考える上での基本書と云っていいと思います。

高校生のときに鈴木氏よりも過激な右翼思想だった友人が、自分ちの親子関係がアメリカホームドラマの家庭みたいじゃないことを悩んでることを知って衝撃を受けたり、右翼も左翼もコカコーラを飲んだことを仲間に咎められて自己批判させられたりしたなんて小ネタの数々が、日本がいかにやっかいな時代を経巡ってきたのかをあらためて思い起こさせます。
なんで自分の家がジャック・バウアーの家庭みたいじゃないんだと悩んだりする人はいないでしょうから、いまは反米になるにせよ愛米になるにせよ気が楽です。それは米国がかつてのイギリスのように我々の前から消えてしまう前兆なのかも知れません。
そのときに愛国なんてのは何を指す概念となっているのか。いまとまったく逆転してる可能性も大きいように思います。
鈴木氏の『愛国者は信用できるか』によると、重信房子の父親が「娘は愛国者で右翼です」と云い切ったそうですが、重信父が戦前に入ってた右翼の血盟団も日本赤軍もやってたことは大して違わないと云うかもうまったく同じですから右も左もいつでも交換可能です。
すでに右翼はほとんど元左翼からの転向者や、昔なら全共闘にかぶれてたような若いもんに乗っ取られてしまっていて、それに批判的な鈴木邦男みたいな人が左翼に見えてしまうという有様ではあります。
つーか、米国に代わる父親の如き複雑な愛憎を向ける相手を中国に求めている人をいまどきは右翼と云うんですかね。一方でことさら嫌いながら、一方で三国志とか読んだりして。いいかげん一人前なんだから、べつにもうそんな相手を探すこともないと思うのですが。反対に日本に対してそんな複雑な愛憎を向けてくる可愛い相手に父親として優しく接するくらいの大人の風格を身に着けていてもいい頃合いです。
外国なんか相手にせずとも、普通に日本の伝統を遡るほうへ行けばそれでいいはずなんですけどねえ。『戦前の少年犯罪』でもちょっとだけ触れましたけど、右翼とか愛国とか云ってる連中は所詮は外国かぶれの日本伝統破壊主義者、あるいは伝統捏造主義者だったりしますから始末が悪いです。