拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』について、 宮崎哲弥氏は
「ある時代の中では読まなければならない本というのがあるが、これがその一冊だと私は信じている」
とラジオで語っておられます。
まだ、聴いていない方は、こちらでぜひお聴きください。
さらに宮崎氏は『週刊文春』7月21日号のコラムでも、
「三度通読したが、なお飽き足らず、つい拾い読みをしてしまう。それほどに面白い」
と拙著について過分なるお言葉を綴られております。

しかしながら、すべての悲劇の元凶である認知バイアスから人類が解放される方途は、仏教と憲法のふたつだと著者は結論付けていると、宮崎氏はこのコラムに書かれているのですが、これはちょっと違うのです。
拙著では、ブッダの境地に達した者が人類史上に何人いたのかは、いささか心許ないと述べています。本書で云うブッダとは、釈迦が死んで数百年のうちに形成された伝説上の人物のことですから、お釈迦さまでさえ果たしてその境地に達していたかどうかはよく判らない。
ましてや、我々凡人はどう頑張っても無理です。
これでは、仏教で人類が認知バイアスから開放されるなんてことはないでしょう。

ところが、その凡人が何万人か何千万人か集まって、ただわいわい云い合っているだけで認知バイアスをある程度は克服してしまう。つまりは、ブッダの境地に近づいてしまう。
この民主主義の摩訶不思議な力が、本書のテーマなのでした。
しかも、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、知恵が三倍で賢者になるのではなく、個々人の因果や物語を三分の一ずつに分断し、筋の通った思考ができないアホにすることによって認知バイアスを克服するのだということを拙著では説いているのです。
極めて非効率で一本筋の通った思想のない民主主義が、なにゆえ明確なビジョンを掲げ意志決定も早くて効率のいいはずの独裁やエリート少数支配より優位になって、歴史上に生き残ってきたのか。ここにその秘密があります。
驚くべきことに、釈迦は何千年も前に、この原理を見抜いていたのでした。
仏教で人類が認知バイアスから開放されるはずがないのに、釈迦の教えに従うとやはり開放されてしまう。以下はそのお話です。

釈迦は、人間が因果に囚われるために、認知バイアスを招いて目の前の現実が見えなくなってしまうことに気づいていました。
さらに人間関係が、因果に囚われる元凶だということも理解していました。
だからこそ、悟りを得て認知バイアスを克服するためには、まず家族や仕事を捨てて出家することが重要だと考えたのです。
人類が進化の過程で身に着けた<間接互恵性>のメカニズムを、最新の進化心理学なぞを待つまでもなく、何千年も前に完璧に見抜いていたわけです。
この「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という原理については拙著を読んでいただきたいのですが、思いっ切り簡略化して説明しますと、人類は生存率を上げるために言葉による<評判>を媒介とした協力関係システムを進化の過程で身に着けたのでした。ほかの動物も直接的見返りが期待できる場合は自分が損しても相手を助けることがごく稀にありますが、人間は二度と逢うことがなく見返りが期待できない相手でも親切にします。そうやって自分の評判を上げると、巡り巡って見返りが期待できるわけです。しかし、恩恵だけを受けて自分は人に何もしない者が増えるとシステムが壊れて生存率が下がりますから、ズルをする輩は罰しなければならないという<道徳感情>が生れました。<道徳感情>は、宗教や教育なんてもんが発生する遙か以前、何百万年も前に確立したものなのです。動物の中にもその萌芽は見ることができます。
悪を罰したいという<道徳感情>は、いいことばかりではありません。とくに人類の生存のために最も重要となる<間接互恵性>を成り立たせる平等が破られ格差が広がったときに<道徳感情>が刺激され、美しい理想に取憑かれてテロを起したり、美しい計画を掲げる扇動政治家が人気を博したりといった歴史上何度も繰り返された悲劇が起きました。そんな具体事例つきましては、拙著に500ページに渡って解き明してますので読んでいただければ。
宮崎哲弥氏の「ある時代の中では読まなければならない本」というのは、このことを指して云っていただいているのでしょう。トランプが大統領になったり、欧州で右翼が台頭したりといった世界情勢も、ポピュリズムなんて見当外れの言葉で呼ぶよりも、<間接互恵性>から発している<道徳感情>から分析するほうが的確なのです。中東でISが暴れているのも、すべてこの<道徳感情>の為せるわざで、統一的に説明できます。
言葉によって<評判>が巡り巡ってくる<間接互恵性>は、ほとんどの行為が目の前で起きるわけではないので、誰が良きことをして報酬を与えないといけないのか、誰が悪しきことをして罰を与えないといけないのかを判断するため、人間は因果推察能力が発達しました。しかしそのために異様に因果にこだわるようになってしまい、もともと因果がない処まで無理やり因果を見つけようとします。だからこそ、逆に目の前のことさえ見えなくなってしまう。そんな性癖のために、右翼も左翼も判りやすい因果で構成された幾何学的で美しい計画に取憑かれて、国家を大混乱に陥らせたりするのです。
さらには、とにかく<評判>を得たいと思ったり、誰かを罰したいという欲求が人間の悲劇を生みます。一番まずいのは、<道徳感情>が強く刺激されると恐怖心を克服してしまうので、自分が死ぬことも恐れなくなるし、人々への共感も失ってサイコパス化してしまうことです。これらはすべて、ほかの生物には見られない、血縁とは関係ない巨大な群れを維持して生存率を上げるための人間関係システムが元凶となっているのです。
釈迦もこんなことを最初から判っていたわけではなく、出家と云っても師匠に付いたり修行仲間がいたりしたんですが、それでは駄目だと気がついて、完全に独りになってようやく悟りを開いたのでした。

私としては仏教のみならず、宗教というのはすべてここから始まっていると考えています。
目の前の現実が何故かそのまま視えないので、思索なり修行なりでなんとか真実を視たいという人は、昔からいたのです。プラトンのイデア論のみならず、原初の宗教家や哲学者はみなさんだいたいおんなじようなことを述べております。しかも、ほとんどは一般社会から離れて出家しますし。
つい最近になって認知科学なんてのが発達して認知バイアスなんて概念が生れる何千年も前から、認知バイアスに気づいている偉い人は何人もいたのです。
しかし、普通の人には、生活を捨てて思索や修行に専念するなんてことは難しくてなかなかできませんから、組織を大きくするためには神に祈るとか、誰でもできる簡単な儀式を取り入れる。そのうちに、認知バイアスを克服して真実が見えるようになりたいなんて最初の思想は忘れられて、神とかそちらのほうが中心になってしまったわけです。むしろ宗教が、因果のないところに因果をでっち上げる、認知バイアスを増幅するための装置と成り果ててしまう。
仏教も組織を大きくするために似たようなことをやりましたが、しかし神に祈るのではなく、釈迦という思想家に祈る形態にしたため、根本の思想がある程度は受け継がれることになったのでした。

さて、釈迦は因果とその根源である人間関係を断ち切ることにより悟りを開いたのに、人間関係そのものである教団を作るという相反した行動を取ることになります。人に悟りを教えるなんて矛盾だと思ったのか、お釈迦さんも最初は絶対やるつもりはなかったのに、説得されてやることになったのでした。
悟りを開いた偉い人がいると聞きつけて、ぜひ教えを請いたいと人々が集まってきて、あまりに熱心に懇願されたから、とうとう根負けしたという具合になるのが常識的な流れでしょう。
ところが、ブッダ伝説では、梵天の説得によって気持ちが変わり、まだブッダの偉大さに気づいてないため話を聴くつもりもない人々に、ブッダのほうから押し売りで教えを説いて弟子にしたということになっています。
梵天というのは、宇宙の原理ブラフマンの神ブラフマーのことです。仏教では、教団を作るということそれ自体が、たんなる師弟愛なんてもんではなくて、なにやら宇宙の根本原理と結びついていると考えられているのです。
実際の組織形成過程がどうであったかはともかく、釈迦は教団を運営していくうちに、大勢の人々が集まる集会で物事を決めることが、組織の存亡に関わる最も大切なことであると気づくことになります。
これは初期仏典に明確に出てくることなので、間違いありません。つまり、民主主義が認知バイアスを克服することを発見したのです。
悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、お釈迦さんが個人として悟りを開いて認知バイアスを克服していたかどうかは怪しいところがあると私は思っています。
しかし、まさしくその悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、集団としての悟りを得る道を見出だしたわけです。
この個人としての<悟り>と集団としての<悟り>の両輪を軸にすると、ブッダが残した教えはすべて矛盾なく読み解けるのです。

輪廻なんかも<間接互恵性>から見るとすぐに理解できます。
良きことをした者には報酬を、悪しきことをした者には刑罰を与える<因果応報>で世の中はなりたっているはずなのに、実際には生れたばかりで何も悪いことをしていない赤ん坊が悲惨な死を遂げたり、極悪人が幸せな一生を送ったりする。これは、前世や来世を想定し、そこに原因や結果を求めないと帳尻が合わない。なんの帳尻かと云えば、進化によって骨の髄に刻み込まれた<道徳感情>による因果の持って行き場ですね。
輪廻はインド独特の思想だと云う人もいるみたいですが、天国や地獄、あるいは怨霊なんてものが昔から世界中にあるんですから、同じことです。
とくに怨霊は、無念な死を迎えた者に、祟りの伝説という形で<間接互恵性>の罪と罰のバランスの歪みを死後にでも正常化しようとするだけではありません。<間接互恵性>を成り立たせるため人間に備わった因果推察の性質により、なにか凶事が起れば必ず原因があると考え、祟りだと本気で思い込むという、因果の逆流でもあります。輪廻における前世と同じベクトルなのです。この因果を推定できないはずのところに因果を求めてしまう人間の性質が、認識を歪める認知バイアスの源流なのです。
輪廻から脱して解脱するというのは、要するに<間接互恵性>を断ち切るということです。そうすれば、<間接互恵性>を元凶とする認知バイアスから逃れて真実が見えるようになる。
なんか、仏教というのは、縁起だとか業だとかが根本思想だと考える人がいるみたいですが、それがあるのは前提で、縁起だとか業だとかを断ち切らないと仏教にはならないはずです。輪廻を断ち切って涅槃に入るのが、仏教の究極の目標なんですから。
元々、人間の原理に即して、宗教が発生する遙か前から人間精神を支配している縁起だとか業だとかを理解するのは簡単ですが、理解している人がみんな悟りを開いて涅槃に入ったのかというと、そんなことはないとすぐに判るはずです。
ただ、ブッダと同時代にいた六師外道のように、輪廻などの既成の思想を単純に否定するのとは違います。輪廻などは<間接互恵性>によって人の心に深く刻まれた実在する現象であることを前提として、それを乗り越える方策を説いています。進化によって形成された人間本性から見るとブッダのほうが正しく、六師外道とは一見似ているようで根本的に違うのです。認知バイアスは非常に強力で、錯覚ですよなんて云ったくらいのことではとても退散できないんですから。
その人間の本性には実在する縁起や業を断ち切って、輪廻や<間接互恵性>から脱するなんて人間の原理に反することをやろうとするからこそ、悟りは生身の人間にとって絶望的に難しいのです。
<因果応報>というのは、宗教が生れる何百万年も前から生存のために骨の髄に刻み込まれた人間の根本原理で、仏教というのはそこからの脱することを目的としているのです。
輪廻する主体は何かという難しい議論をする人がいますが、輪廻する主体は進化によってもたらされた<間接互恵性>であることがここから簡単に判ります。まさしく、<間接互恵性>こそ、<縁起する無我>そのものです。

99人だか999人だかを殺した極悪人のアングリマーラを、ブッダが弟子にして悟りを開かせたというのも、この観点から見たらじつに判りやすい。
元々、<間接互恵性>は罪を犯した者を罰するために進化したシステムなんですから、それを乗り越えれば、どんな悪事でもどうでもいいことになる。それでこそ、因果を断ち切って悟りの境地に達したということになるのです。
悟りを開くというのは、人間社会を成り立たせている<間接互恵性>を乗り越えるということですから、必然的に反社会的で反道徳的となる。なんにもありがたいことはない。
ただ、認知バイアスを克服し、目の前の現実をありのままに視ることができるようになるというだけです。認知バイアスは人間の進化の副産物で、正しい人間の証ですから、認知バイアスを克服するというのは正常な人間ではなくなってしまうということなんです。
ただ、<間接互恵性>から来る<道徳感情>が高まりすぎても、ISのように極悪非道のことを平気でするようになるのですから、どっちがいいかは一概には云えません。どんなに頑張っても生きている人間である限りは完全に<間接互恵性>を乗り越えるなんてことは無理で、またこんな莫迦なことをやろうとするのは極めて少数ですから、<道徳感情>が高まりすぎることがよくある多数派にブレーキを掛ける役割としては意味があります。ただ、我こそはブレーキ役となる選ばれた少数派であるなどという幾何学的な美しい計画に取憑かれると、これまたやっかいなんですが。
なお、拙著に詳しく書いたように、殺人のほとんどはじつは己の評判を高めるためという<道徳感情>から引き起こされるのです。釈迦がここまで正しく見抜いていたのかどうか、のちの時代にまとめられた仏典から判断するのはなかなか難しいですが、あり得ないことでもないでしょう。

仏教に限らず、宗教では金銭を悪として排除しようとしますが、これも貨幣というのは評判を具現化したものだからで、<間接互恵性>を断ち切るには貨幣に触れないようにしないといけないわけです。たんなる禁欲なんてのとはちょっと違う。真実を見たいと欲する釈迦のような賢人たちは、貨幣の正体を正確に見抜いていました。
グスタフ・カッセルが、1931年という極めて早い時期に、大恐慌の根本原因が人間の<道徳感情>にあることを喝破したのは経済学者としては炯眼でしたが、さらにその根源に進化によって人間に染みついた<間接互恵性>があることまでは、釈迦のように見抜いてはいなかったでしょう。最近の世界的な金融や経済の危機なんかも、この人間の本性に刻まれた認知バイアスを踏まえないと解決は無理なんですが、どうも経済学者もあんまり判ってないんじゃないでしょうか。
残飯を恵んでもらう托鉢なら乞食と同じで、評判のやり取りではないですから赦されるわけです。<道徳感情>から来る清貧なんてものではなくて、まったく反対にアナーキストとして評判のやり取りという人間社会の基盤を破壊する行為としてやっているのです。
それが偉い坊さんに御馳走する、さらには金銭を集めるなんてことになると、それはもはや本来の宗教ではありません。<道徳感情>の観点から贅沢はいけないということではなく、正しい社会秩序に組み込まれて、<道徳感情>とそこから生じる認知バイアスに囚われ、目の前の真実が見えなくなることが本来の目的から外れて、よろしくないということです。

女は悟りを得られなくて、いったん男になる<変成男子>なんてものを経なければならないという考え方も、悟りとは<間接互恵性>の克服であるとすると判りやすい。
女は男よりもおしゃべりなのは確かです。これは何百万年続いた狩猟採集時代に、男はそれほど密集隊形を取らない狩猟中にせいぜい合図の掛声でコミュニケーションを取るくらいだったのが、女は採取や子育ての協力のため何倍もの音声情報のやりとりをしていたことと関係があったりするのでしょう。
この言葉こそが、評判を媒介して<間接互恵性>を成り立たせる根源です。
言葉だけではなく、あまり人と交わらない女性でさえ、ボーイズラブで関係性に萌えたりするように、男よりも女のほうが人間関係に敏感に反応するようです。ここから、男よりも女のほうが<間接互恵性>が深く浸透していることが判る。
女が地位や名誉のある男を好むのは、<間接互恵性>で優位な男の子供を生むほうが繁殖率が高まり、自然淘汰が働くためだと思われます。そのため、女は男同士の関係性に元から敏感で、関係萌えは単純に男女の関係を男同士に投影しているだけでもないでしょう。
さらに、人間ではない無機物同士にさえ関係性を見出だして萌えたりする腐女子の方々の心性は、人間の進化がもたらした<間接互恵性>と、そこから派生して何にでも<因果>や<物語>を見出だしてしまう人間本性の為せる業なのですぞ。
つまり、べつに女が劣っているからではなく、反対に人間として男よりも進化しているからこそ、<間接互恵性>を克服して<因果>や<物語>を断ち切り、悟りを開くことが難しいわけです。
教団なんてものがあるからこそ女性も出家して悟りを開くことができるというになってますが、本来の意味での個人的な悟りは、独りになって人間性を完全に脱しないといけないのですから、より原始に近い男性を経ないと無理なのです。

とくに言葉こそが<間接互恵性>を成り立たせている元凶なんですから、悟りのためには真っ先に捨て去らねばならない。
真実をありのままに見たいと欲した昔の賢者たちは、大体みなさん、激しい修行や断食により肉体や精神を追い込むことでそれを成し遂げようしました。人間としてのまともな思考能力を失わせることによってこそ認知バイアスは克服できるという正しい道筋を知っていたのです。
しかし、理屈としては正しくとも、実際に行うにこれほど難しいことはない。肉体や精神を追い込むとまず幻覚が見えて、これこそ真理だと思い込む者が多いのですが、幻覚なんてのは認知バイアスそのもので、そんなものが見えるうちはまだまだ修行が足りません。
ほんとに肉体や精神がボロボロになれば、幻覚さえ見れない。なんの思考もできず、眼がたんなる機械的なカメラになって、あるいはたんなるガラス玉になって、初めて目の前の真実が歪まずそのまま映るようになる。
拙著では「真理」という言葉を一切使わず「真実」と云っていて、このブログ記事でも間違った考えのときだけ「真理」という言葉を出しているのは、真理ではどうしても精神性が入り込んでしまうからです。そういう精神性こそ認知バイアスそのもので、精神性を排除して目の前の現実をそのまま見るという、じつに詰まらないことこそ悟りなのです。
たとえば、目の前のお茶碗の真理を見ると云うと、あたかもそのお茶碗に内在する深遠なる精神性を取り出すかの如き因果の物語をでっち上げることになってしまいますが、ただありのままの物質として見るということです。
しかし、人間でいる限りは精神性を完全に排除するのはとうてい無理です。そこまで激しく肉体や精神を追い込むと死んでしまいます。ひょっとすると一瞬なら体験できるかも知れませんが、生還してまともな思考ができるようになると元の認知バイアスが戻って、記憶としても正確には想い出せません。その瞬間は肉体や精神もボロボロでまともな思考ができないのですから、文字などの記録も残せません。
一瞬でも体験できるなら死んでもいいと限界を超えた修行で実際に死んだ人もいたでしょうけど、賢者はたいていなんかに役立てたいと思ってるもので、それではいかんのですな。死んでもいいなら、わざわざ修行なんかしないでもどうせそのうち死んで認知バイアスは消えてなくなりますし。
釈迦も初めの何年かは激しい修行をやってたんですが、これでは駄目だと思ってやめたのは、このことに気づいたんでしょう。代わりに、繁栄していたヴァッジ族のやり方を取り入れることになります。

のちにマガダ国王がヴァッジ族を征服しようと考え、ブッダに助言を請うたんですが、大勢の人々が集まる集会をたびたび開いて物事を決めているヴァッジ族は強力であり戦争で滅ぼすことは無理だとブッダは答えました。
教団も、大勢の人々が集まる集会をたびたび開いて物事を決めるこのやり方を続ければ、自分が死んだあとも衰亡することはないだろうと云ってます。
つまり、たんなる理想論やイデオロギーではなく、民主主義には組織の生存率を上げる具体的な力があると云ってるのです。当時はアテネとヴァッジ族くらいしか存在しなかった民主主義国家が、現在は地球上のほとんどを占めるようになるという、数千年の熾烈な生存競争の結果としてその正しさは証明されました。
先の修行の話と突き合わせれば、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、知恵が三倍で賢者になるのではなく、個々人の<因果>や<物語>を三分の一ずつに分断し、筋の通った思考ができないアホにすることによって認知バイアスを克服、間違いを犯す確率を減らすのではないかと思われます。認知バイアスを克服する唯一の方法は、人間に考えさせないことなんです。
独裁や少数エリート支配では、どれだけ頭が良くても人間である限り必ず認知バイアスに囚われて失敗する。妥協の産物である民主主義は、特定の誰の考えでもないので人間の認知バイアスが入りにくい。もちろん、認知バイアスを完全に克服するわけではなく、独裁や少数エリート支配よりいくらかマシという比較の問題なのですが、生存競争ではそれが決定的な差を生むのです。

このやり方が凄いのは、個人的な修行と違って、肉体や精神をボロボロにすることなく、認知バイアスを克服し、悟りを開いてしまうことにあります。ボロボロになってないから、その悟りを法律という形で記録できる。議論が終ってひとりになると、認知バイアスが戻って悟りが判らなくなってしまうのですが、悟ったときに決めた法律に縛られるので国家運用などの間違いを犯さなくて済む。個人的な悟りを得るための修行で問題となったことが、すべて解決できています。
さらに凄いことは、人間の認知バイアスの元凶である言葉を使って、認知バイアスを克服しているところです。議論してお互いの認知バイアスをつぶし合うのも言葉。法律として記録するのも言葉。
ブッダはヴァッジ族の強さの源として、大勢の人々が集まる集会だけではなく、正確な情報を参照して物事を決めている点も上げています。ブッダの時代のインドは文字による記録はありませんから、長老の伝承と云ってますが、これも認知バイアスを克服するために言葉を使用するということです。
筋の通った思考ができないアホになることと、正確な情報を元に判断することは真逆のように見えますが、人間が頭の中で因果や美しい物語を勝手に考えることを防ぐという意味ではまったく同じなんです。
驚くべきことにブッダは、認知バイアスをもたらし、また認知バイアスを克服する、言葉の両面の恐るべき力を正確に見抜いていたのでした。
仏教がときに言語を否定したり肯定したりして矛盾しているように感じられるのは、真理は言語を超越してるとかそういう外側からの説明の話ではなく、根本問題である認知バイアスが言語によってこそ起り、また言語によってのみ克服できるという内在した両面の動力、あるいは言葉こそがすべての現象を引き起こす統一場であることをブッダが正確に認識していたところから発するものなのです。
ですから、仏教思想を言語に囚われた初歩的な世俗諦と言語を越えた究極の真理である勝義諦とに頒ける二諦説なんてものは、いかにも浅い理解というか、言語を表面的な説明の道具だと思っているまるっきり間違った捉え方なんです。

100人程度の群れで何百万年かやってた狩猟採集時代、ほとんどの出来事は誰かが見ている前で起き、また生れたときからお互い全員を知ってるので評判も正しく、誰がこの悪を為したのかを追及しようとする<道徳感情>が間違いを犯す可能性は低かったでしょう。そのため、因果推察もそれほど深い階層までは必要なく、因果がないところまで因果をでっち上げてしまうような<物語>能力、あるいは<物語>への欲求は比較的少なかっただろうと思われます。
ところが、農耕をはじめて国家などの巨大な群れを作るようになった1万年前からは、何か悪が発生したときに、誰が引き起こしたのかという刑罰を与えるための因果推察が極めて複雑となる。評判の正しさ自体も推察しなくてはいけなくなって、認知バイアスが深刻な問題となってきます。自然環境の変化ではなく、国家運営の間違いで何万人か何百万人かが一度に死ぬような事態も起きるようになる。
そんなときに真実を見たいという賢者が世界中に同時に何人も現われ、宗教や哲学が急激に発達し、また民主主義が発生して広がっていくのも、認知バイアス克服の過程として必然だったわけです。宗教は本来、国家の認知バイアスに対抗するため出現したと見るべきだと思います。
ちなみに、国家が出現してから人々は異様に物語を欲するようになります。それは犯罪物だけではなく、恋愛物やその他の物語でも、人間関係のもつれをほぐして解決する内容がほとんどです。<間接互恵性>が複雑になりすぎて現実にはすっきり解決しない人間関係を解決したいという欲求、あるいはそこで肥大化してしまった因果推察能力が現実では飽き足らなくなって、より複雑な物語を欲してしまうという両方の意味合いがあるかと思われます

そんなもろもろの認知バイアス対抗策のなかでも、民主主義は誰か偉い人が因果推察により美しい計画を立てて導入したものではなく、自然発生して広まったと思われます。
宮本常一『忘れられた日本人』なんかを読みますと、昔の日本の村落では、なにか物事を決める時には村民全員が集まって、みんなが賛成するまで何日でもえんえんと話し合ったそうです。
思うにこれは、物事を決めるためにやっているのではなくて、それを肴に酒や茶を呑みつつわいわいやることが目的なんでしょう。テレビもラジオもなかった時代の田舎では、ほかに愉しみもないですし。
そうなると、明日も呑むために、決めないことこそがみんなの利益に適う。そのためには、なにがなんでも反対しないといけない。意見が一致すると、そこで終ってしまうんですから。
しかし、ただ無意味に反対だと頑張っても駄目でしょうから、相手の云うことの問題点を何か指摘しないといけない。明日も呑むためにみんなが必死に頭をひねっていくうちに、最初は誰も考えもしなかったような問題点が次々列挙されていくことになります。
その問題点自体は最初から存在したはずなのに、誰にも見えていなかったわけです。それが見えるようになる。つまり、認知バイアスを克服してしまう。そして、明日もまた呑みたいのに、必死で頭を絞っても誰ももう問題点を思いつけなくなって初めて物事が決定されるのです。
こういう過程を経ずに適当に決めてしまい、あとから問題が発生すると、村民同士の深刻な対立が生じたり、よその村に付け込まれたりして、村落の存亡にも関わってくることになります。こんな集会をやった村だけが生き残るという自然淘汰が働いたからこそ、こういう風習が広まっていたのでしょう。
集会の議論は、将来起るあらゆる事態をあらかじめ想定するシミュレーションの役割を果たすのです。誰かの意見にみんなを従わせるなんてことが目的ではない。多数決なんてのは意味がないんですな。最大多数の最大幸福なんてのを目指すものでもない。あくまで、認知バイアスを克服するためにやることなんです。
決められない政治は悪いことだという妙な言説が最近はあるようですが、みんなで頑張ってぎりぎりまで決めないことが認知バイアス克服に最も重要なことです。それこそが、保守主義の神髄というものです。

ですから、いくら民主主義でも、美しい計画や理想的な物語に皆が取り憑かれてしまっては、独裁と同じで認知バイアスを克服できずに失敗してしまう。歴史を見ると、格差が広がって<道徳感情>が強く刺激されると、美しい計画や理想的な物語に取り憑かれた右翼や左翼が増えて国家を崩壊させています。
独裁制でも、昔の中国の皇帝が諫議大夫という役職を置き、常に自分に対する反対意見を述べさせたりしたように、認知バイアスを抑えるような仕組みがあるとうまくいく場合もある。制度ではなく、実態が重要なのです。
議会が認知バイアス克服のために存在するという根本が判っていれば、野党は何が何でも政府案に反対しなければいけないことに気づくはずです。対案なんてものを出すのは野党の仕事の放棄であって、選挙戦以外では絶対に赦されない。認知バイアス克服という議会の機能を破壊するだけではなく、対案によって別の認知バイアスさえ呼び込み、国を滅ぼします。
憲法も同様に認知バイアスによる国家の失敗を抑える効果があり、だからこそ、的確な憲法がある国家は強くなって、自然淘汰で世界中に広まったのです。権力者にとって束縛にしかならず、邪魔な存在の憲法というものが、権力者の認知バイアスによる間違いから国を護り、結果的に権力者自身をも護るのです。認知バイアス克服という憲法の本来の目的を忘れた国家は淘汰されてしまうでしょう。

なお、ヴァッジ族は強力であり戦争で滅ぼすことは無理だとブッダに教えられたマガダ国王は、腹心の大臣をヴァッジ族に亡命させ、その地に不平等と不和の種をまきました。三年で不和は拡大して集会も開かれなくなります。この機会を待っていたマガダ国王は一切の戦闘をすることもなく、ヴァッジ族を征服しました。(山崎元一『世界の歴史 3  古代インドの文明と社会』参照)。
国に不平等をもたらす者は、敵国のスパイと見なして間違いありません。インド以外の歴史も、それを証明しています。

さて、お釈迦さんは、これらの民主主義の効用を何千年前に正確に理解していたのでした。アテネの哲人でさえ、ここまでの洞察力を持っていた者はいないでしょう。
しかし、果たしてこれは仏教の教えと云えるのか。仏典にはブッダがヴァッジ族に民主主義を教えてやったと書いてるそうですが、実際にはその遙か前からヴァッジ族に民主主義は定着しており、釈迦がそこから学んだというのはインド学者の意見が一致しているところです。
あるいは、釈迦が初めて理論化して、自分たちの強さの原理を理解できていなかったヴァッジ族に教えてやったということはあるのかもしれませんが。
なんにせよ、これは仏教とは直接関係ないでしょう。むしろ、教団を作って民主主義による認知バイアス克服をやりたかったために、仏教という誰にも到達できない思想を方便として使ったように見えなくもないですが。
釈迦が菩提樹の下で悟ったのは、激しい修行や瞑想なんかでは悟りを開くのは無理で、ヴァッジ族のやり方である民主主義こそが悟りへの道であると気づいたということなんじゃないでしょうか。
瞑想も、すべてを断ち切って人間の頭で物事を一切考えなくなることで、ひょっとすると認知バイアスを克服できるかもしれませんが、続けているとご飯も食べられずに死んでしまいますし、瞑想をやめるとまた認知バイアスが戻ってきて意味がないのは、激しい修行とまったく同じなんですから。
修行も瞑想も駄目で、ヴァッジ族のやり方である民主主義こそが悟りへの唯一の道であると気づいたというほうが、それからの釈迦の行動と整合性があるような気がします。
なんせ、アテネの哲人も判っていなかったことを人類史上最初に気づいたのですから、それ自体で充分すごい悟りではありますし。ヴァッジ族も判ってなかったからこそ、マガダ国王の策略で自らの強みを放棄して、やすやすと滅ぼされてしまったのでしょう。
現代でも、民主主義は大切だと云う人はおりますけど、それが認知バイアス克服の唯一の手段であるからなんてほんとに理解している人は世界にもあんましいないんではないでしょうか。宇宙の根本原理のほうから頭を下げて頼みに来るくらい凄いことだと判ってる人はおりますかね。
釈迦の悟りがどのようなものであったにせよ、いずれも認知バイアス克服が目的なんだから、おんなじだと云えば、そうなんですが。なんせ、仏教徒のみなさんはもう一度、お釈迦さんの教えを見直すべきではないでしょうか。
大乗仏教になってからそれまでの個人的な仏教が集団的になったなんて理解があるようですが、そんな段階は教団を作ったときにすでに経ているのです。教団を作るというのが、宇宙原理に罅を入れる革命的な出来事だったことは仏教徒はみな胸に刻むべきことです。
むしろ、人類何百万年の進化による人間原理を前提とした釈迦の極めて具体的な思想が、大乗仏教以降は抽象的で人間原理を離れた地に足が付いてない言葉遊びに堕して、ブッダの個人集団両軸を踏まえた真の仏教を忘れていることに気付くべきです。
これもまた、図式的構図に囚われ目の前の真実が見えなくなる<認知バイアス>の為せる業ではあります。

そんななんでも見抜いていた釈迦も、<間接互恵性>などの人間の本性を最も明確にあぶり出すのが冤罪だということは気づいていたでしょうか。
私の読んだ仏典はほんの一部で、読んだのも何十年か前であらかた忘れてますから明確なことは云えませんが、少なくとも、冤罪について大きく論を打ち出したということはないような気がします。
その点で、冤罪を中心に論を展開したアダム・スミスの『道徳感情論』は注目に値します。
最近は世界中で『道徳感情論』が流行っていて、いろいろと解説本のたぐいが出ているのですが、この一番肝心な冤罪について触れているものがまったくありません。誰も理解できていないのです。
人間には共感能力があるなんてことで済むなら、スミスさんがなんでわざわざ<公平な観察者>なんて高次元のものを打ち出したのか判らなくなります。拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』ではそのあたりのことを詳しく解説してますが、これらの人間の本性を分析することで、釈迦の教えの理解もより一層、深まるのではないかと思います。

ところで、拙著を読んで、「これから裁判や政治なんかは人工知能に全部任せたほうが、間違いがなくていいのでは」という感想を持った方が結構いたみたいです。しかし、そんな本物の知能を持つようになると、AIもやっぱり認知バイアスを抱えるようになるはずです。しかも、それは人間には理解できない独自の認知バイアスですから、非常に厄介なことになります。
これを解消するためには、AI同士で議論してお互いの認知バイアスを打ち消し合ってもらうという、結局は人間がやってることと同じ作業が必要になるでしょう。しかも、その議論がうまい具合に認知バイアスを打ち消し合うという方向に向かわなければ、『火の鳥 未来編』に出てきた二大国のマザーコンピューターのようにケンカして最終戦争をはじめたりするかもしれない。人間同士の議論をどうやったらうまく成り立たせるのかと同じ問題が発生するわけです。
いや、ケンカするならまだいいほうで、AIがみんな均質なら議論にもなりません。人間はほっておいても多様性が生じて、苦しい修行をしても目の前の現実を見たいなんてことを考える莫迦が出てきたりしますが、こうなるとAIにも本来の意味での宗教が必要となるのかもしれません。
そこで真に役立つのが、釈迦とアダム・スミスの思想であることは間違いないでしょう。