『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

世界のすべてを知りたい人は、管賀江留郎『正しい心』を読みましょう

正しい心久しく以前から予告しておりました<浜松事件>と<二俣事件>、そして山崎兵八刑事の生き様を描く本を、『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』というタイトルでようやく出版する運びとなりました。

原型となる雑誌記事を書いてから、じつに8年の歳月が経過しております。その間、人としての営みのことごとくを放棄させられ、この一冊だけに全身全霊を吸い取られてうつろな脱穀になってしまうということになってしまいました。
なにゆえこんなに時間が掛ってしまったのかは、詳しい内容説明の入った序章を下に丸ごとアップしましたので、一読すればお判りいただけるでしょう。

良識ある諸姉諸兄に於かれましては、大風呂敷を広げたこの序章だけでも呆れ果てることでありましょうが、なあに大丈夫だいじょうぶ。本論はこれの数百倍とんでもないことになっていて、みなさんひっくり返ることになりますから。
私は犯罪だの殺人だのにはまったく興味がなく、同じく犯罪や殺人に興味のない方々にこそ読んでいただきたいと思っています。
当方としましては世界のすべてを解き明した総合知の本であると考えておりまして、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』なんかを面白く読んだ方に手に取っていただければ。
ただ、ジャレド本よりは拡げる風呂敷が大きいうえに、我々ひとりひとりの心の中と取り巻く環境、さらには生死にも直結する、遥かに切実なる問いを追及しております。

参考文献リストを除いても、じつに524ページ。定価2500円+消費税。
お値段と分厚さは通常の本の二倍。しかしながら、とても通常とは云えない本10冊分以上の内容をぶち込んで濃縮しております。
つまり、お金も時間も大幅に節約しつつ、歴史や人間の心の成り立ちを余すとこなく識ることができ、居ながらにして世界のすべてを手に入れることができてしまうという、まことに現代社会にふさわしい経済的でお得な一冊です。
じつのところ、帯の惹句には、「ニーチェもカントもプラトンも超えた!」くらいの文言は入れたかったのですが、担当編集にそれだけは勘弁してくれと懇願されましたので、今日はこのくらいにしといたるわという感じです。
こんなにも煽ってしまって大丈夫かいなと心配する方は、とりあえず、以下の序章を最後までご笑覧いただければ幸いです。

    
  道徳感情はなぜ人を誤らせるのか
  冤罪、虐殺、正しい心
管賀江留郎     

  序 捻転迷宮の入口

 シャーロック・ホームズの物語を読んで、かの有名な探偵が天才であることを否定する者はいないだろう。では、ホームズの天才的な能力とは、いったいなんなのだろうか?
 突拍子もない切り口から真相に迫る彼の推理の冴えに驚き、常人にはまねのできないアクロバチックな論理の展開を見せる思考能力に天才性を感ずる読者もいるかもしれない。しかし、その物語をよくよく読んでみれば、名探偵ホームズは精密な観察により、目の前の現実をただありのまま受け止めているに過ぎないことに気づかされるはずである。ワトソンを初めとする他の登場人物や読者たちも彼と同じ物を目にしているはずなのだが、何故だか目の前の現実をありのままに見ることができない。この能力の差こそが、凡人と天才とを分けている決定的な違いなのである。
 シャーロック・ホームズは架空の人物であって物語世界を創造した作者の分身なのだから、真実を、手品のタネをあらかじめ知っていて、何も知らないワトソンや読者を驚かしているだけだと仰る方もいるに違いない。ではそれならば、現実にいるホームズではどうだろうか。
 名探偵シャーロック・ホームズが我々の生きているこの現実世界に存在する? 驚くべきことに、ホームズとまったく同じ天才的能力を持った犯罪分析官が、この日本でかつて実際に大活躍していたのである。どういうわけだか、いまでは完全に忘れ去られてしまっているのだが。
 この実在した天才分析官と、彼の分析をどうしても呑み込めなかった捜査官たちとの対比により、アクロバチックな論理の展開を見せる思考能力を発揮するのはじつは凡人の側であって、そのために目の前の現実がありのままに見えなくなってしまうことが証明されるのだ。論理の飛躍を排し、ただ目の前の現実をありのままに受け止めているだけのホームズが、とてつもない天才に見える理由がここにある。
 なにゆえに、こんなことが起きてしまうのだろうか。忘れ去られた天才分析官は、この本の主役のひとりに過ぎない。幾人もの主役たちの姿を追うにつれ、その根源が自ずと明らかとなっていくはずである。
 いや、凡人が間違っていることを示そうというのではない。極めて稀な天才の出現は隕石の直撃の如きたんなる偶発的な事故に過ぎないが、多数派である凡人の能力には、そうでなければならない必然があるのだ。目の前の現実をありのままに受け止められない凡人が正しく、天才のほうが人間として間違っているのである。この人間の本性こそが、ときに恐ろしい結果を招いてしまうことにもなるのだが。

 探偵が現実をありのまま見ることに失敗すれば、犯人を取り逃してしまうだろう。それだけならまだしも、無実の人間を犯人として捕まえてしまう可能性も出てくることになる。ここに冤罪が発生する根本原理がある。
 冤罪とは、人間が自分を取り囲む現実世界をどのように認識しているかをそのまま炙り出す問題なのである。だからこそ、これは殺人や冤罪について書かれた本ではあるのだが、嫌でもそこから大きくはみ出すことになってしまうのだ。
 人間の認識の歪みが引き起こす悲劇。さらには、その歪みを引き起こす人間の正しい心を解き明かそうとする試みである。
 また、そのどうしようもなく正しい心を、なんとかして克服する道を探し求めた人々の記録ともなっている。我々ひとりひとりの心の変革を迫り、その眼に映る現実世界を歪ませることなく、ありのまま見えるようにするにはどうすればよいのかという、人間の本性への途方もない挑戦をした人々がここにいるのである。

 最初から、そんな大それた目論見があったわけではない。17歳の少年が九人を次々と殺害、四人に瀕死の重傷を負わせ二人を軽傷とした<浜松事件>。そもそもは、この事件解明への取り組みからはじまったのだった。
 戦時中に一年と二ヶ月にも渡って浜松周辺を未曽有の恐慌に陥れた<浜松事件>は、間違いなく史上最大の少年犯罪である。成人の犯行を含めても<津山三十人殺し>に次ぐ、いや、発生と同時に解決した<津山事件>とは比べものにならぬ、遥かに深刻なる歴史上の重大変事のはずであった。
 にも関わらず、これまでまとまった記事が書かれたことはほとんどなく、短い記述も間違いが多い。そのため、七〇年以上も誰ひとりとして全貌を掴むことがなかった<浜松事件>解明には相当な困難が予想された。しかし、そこに付随するもうひとつの変事がここまで捨て置かれているとは想いも寄らなかったのである。
 あれほど人々の耳目を集め戦後を騒がした事件であったのに。これまで繰り返し繰り返し綴られてきたにも関わらず。
 それは、<浜松事件>に関わった刑事のその後を描写するために挿入する、ひとつのエピソードに過ぎないはずだったのだが。

 <浜松事件>という戦前最大の難事件。連続無差別大量殺人ゆえに次は自分が標的になるのではないかと地元の人々が心安まることもなく、恐怖の余りの発狂者まで出した死の順番待ちを見事に断ち切った名捜査官として全国にその名が響き渡った紅林麻雄刑事。彼はまた戦後になって、<幸浦事件><二俣事件><小島事件>という悪名高き冤罪事件を立て続けに引き起こした人物としても知られている。
 彼の部下の手になる<島田事件><丸正事件>、さらにその後も続く<袴田事件>など、静岡県で異様に多い冤罪事件の、紅林刑事こそは元凶であるとも云われている。そのいくつかは再審請求が通ることなく、<拷問王>と呼ばれる彼の残したあまりに大きな過ちは、現在に至ってもまだ解決を見ていないのである。
 後日譚として軽く触れておかねばならぬだろうと少しばかり調べているうちに、<二俣事件>について半世紀近くも経てから関係者の衝撃の告白があり、しかもそれが誰ひとりとして取り上げずに見逃されていることを知って驚愕、<浜松事件>探求はいったん打切り急遽大きく舵を切ることとなったのであった。

 紅林刑事が引き起こした<二俣事件>。彼に立ち向かい我が身を捨て、それだけでは足らずに妻も子も不幸のどん底に叩き落とし、しかしそれでも縁もゆかりもない少年を死刑から救おうとしたもうひとりの刑事がいた。無実は証明され、死刑寸前で少年は確かに救われた。ここまでの経緯は幾冊もの本に書かれ、すでに読み知っている方もおられることだろう。
 だが、刑事は、いやとっくに警察を追放された山崎兵八元刑事は、その後のあまりに過酷なる仕打ちから生じた妄執に生涯苛まれることになったのである。そんな彼が渾身の力を振り絞って刻んだ著作。そこに<二俣事件>の核心を暴かんとする記述を遺したのだった。
 ところが、思わぬ顛末から手に取った一冊の本に導かれ、我知らず足を踏み入れていくうち、そんな衝撃の告白さえ霞んでしまうが如き特異なる人々の織りなす迷宮が忽然と立ち顕われ、深みに引きずり込まれてしまったのである。そして、その果てに垣間見えたのは、口を広げて暗く深遠なる淵を覗かせている恐るべき歴史の裏面であったのだ。
 ここにあるのは、昭和史の裏に隠されていた謎を、七〇年目にして初めて解き明かそうという試みでもある。人間の世界認識の歪みは、個々の事件だけではなく、歴史の奔流をも突き動かしていたのだ。山崎兵八という類い希なる人物の執念に絡め獲られ、読者諸氏も否応なくその錯綜を極めた迷宮に迷い込んでいただくこととなるのである。

 <浜松事件>と<二俣事件>。このふたつの事件に関わったのは紅林刑事ばかりでない。<浜松事件>で怪物刑事の誕生の瞬間に立ち会い、一生を懸けて対決するもうひとりの元刑事がそこにはいたのだ。この老探偵、南部清松が残した記録によって<浜松事件>と紅林刑事の解明は完全なものとなった。山崎氏に惹かれて<二俣事件>を経由しなければ南部探偵との邂逅もなく、謎は永遠に閉ざされたままだっただろう。
 そこで明らかとされたのは、紅林刑事に授けられし検事総長賞の決定的な影響力なのである。これがなければ、そもそも紅林刑事は警察に残ることさえできず、戦後の冤罪事件もなかったというのだ。
 帝国憲法を巡って、戦時中の東條英機首相と真っ向対立した松阪広政検事総長。彼が史上初の検事総長賞を<浜松事件>解決の功労者、紅林刑事に授与してその名を全国に高らしめたことが、捻れた作用によって思いも掛けぬ災厄を生むこととなる。また、その表彰こそは、内務省と司法省(現在の法務省)、そして憲兵隊による激烈な主導権争いの、奇妙なる落とし児でもあったのだ。紅林刑事の跡を追ってゆくと、日本を支配した<官庁の中の官庁>内務省や戦時体制の、それまで明かされることのなかった真の実態が浮かび上がってしまったのである。
 この省庁生き残りを賭けた闘争の一環として、日本初、いやおそらくは世界初のプロファイラー、内務省の吉川澄一技師も<浜松事件>に投入されることとなる。神業的な犯罪分析を展開して戦前の難事件を次々と解決したこの天才分析官は、<浜松事件>でも驚くほど的確なプロファイリングを披露しながら、なにゆえ解決には失敗したのか? それこそは、冤罪発生の根本原因ともなる人間の<認知バイアス>の恐ろしさを指し示してくれるのだ。
 彼とともに<浜松事件>に加わる、もう一方の犯罪捜査の権威がいた。小説や映画のモデルともなった社交界の花形、同時に数多くの難事件にも関わりマスコミを賑わせ続けた法医学者小宮喬介博士。博士のプロファイリングとサービス精神が<浜松事件>に思わぬ波紋を広げ、巻き込まれた南部清松刑事に冤罪と闘うきっかけをも与えることになるのである。
 そして、巨額M資金詐欺疑惑で小宮博士が学界を追われ、吉川技師という犯罪捜査の切り札をも同時に失ない変質した戦後警察の元、<二俣事件>など数々の冤罪事件が続発することになる。国家警察と自治体警察に分かれていた時代だからこそ冤罪が多発したというこれまでの単純なる図式的定説を、この戦後警察システムのプロファイリングによって根底から覆すことになる。これも内務省と他省庁との対立が生んだ、歴史を故意に歪ませる目眩ましの神話に過ぎなかったのだ。
 また、犯罪捜査の権威ふたりが去った空隙を埋めて、古畑種基博士という新たなる権威が君臨、<ベイズ確率>など最新の科学を駆使して冤罪被害を増幅させていったのだった。しかし、古畑博士の<二俣事件>への意外な関わりを見れば、権力に迎合して法医学鑑定結果を曲げたなどという見方も浅はかなる図式的理解であり、真実は捻れて遥かに恐ろしい処にあることが知れるのである。
 さらに、安保条約を強行採決し憲法改正をも目指す衆議院議長という権力中枢の座にありながら、<二俣事件>を無罪に導くことで、もうひとつの図式的理解を覆してくれる清瀬一郎弁護士。彼こそは青年将校たちの<昭和維新運動>や近衛文麿の<新体制運動>に加わり、帝国憲法改正をも目指したその戦前の政治姿勢から、<認知バイアス>のもう一方の恐ろしさを垣間見せてくれるのだった。それは、<認知バイアス>とともに冤罪の原因ともなるもうひとつの人間の本性にも密接に関わってくるのである。また、この清瀬との関係から、紅林刑事が戦後体制や憲法に奇妙な、そして極めて大きい影響を与えていた可能性も見えてくることとなる。
 同じく、<二俣事件>を無罪へと導いた最高裁判事たち。<司法権独立>死守の生け贄として冤罪により辞職寸前まで追い詰められた彼ら裁判官の姿によって、<司法権独立>を巧みに利用しようとした司法省の手練手管が浮き彫りとなる。その司法省の暗躍が、<浜松事件>と<二俣事件>に思わぬ連鎖から、しかし決して見逃せぬ一撃を加えたのであった。結果的に、彼ら最高裁判事たちが史上唯一の正しい訓練を受けることとなったため<認知バイアス>を克服、目の前の現実がありのまま見えるようになってしまったのだ。

 <浜松事件>と<二俣事件>、誰にも望まれぬまま時代の脇腹に打ち込まれた二本の捻れたこの楔。同時に引き抜こうとするや、絲が絡み合ったまま根刮ぎ手繰り寄せられ、このふたつの事件を軸に図らずも昭和史のすべてが読み解けるようになったのである。いや、それまで図式的理解という<認知バイアス>により、歴史がいかに歪まされて見えていたのかに気づかされるのである。
 それらすべての中心に位置した紅林麻雄刑事。彼が<浜松事件>で果たした驚くべき役割とはいったい何だったのか? そして、彼を巡って天を摩しそそり立った虚像と、彼への意想外な反応から、<認知バイアス>よりも遥かに厄介で、冤罪の元凶となりうるのが、ほかでもない、人間の<道徳感情>そのものであることを思い知らされることになるのだ。
 <道徳感情>は、たかだか一万年ほどの文明が、宗教や教育によって人々に身に着けさせた薄くて軽い布切れではない。数百万年に渡る進化が骨の髄に刻みつけた、拭うに拭えない人間の本性なのである。これがなければ、人類は宗教の発生する遙か以前に絶滅していたであろう、生存のための第一原理なのである。最新の進化生物学は<道徳感情>の成り立ちを完全に解き明しており、逆に本書の冤罪発生原因の分析でこの進化心理学の正しさを裏付けることになる。
 そこから、冤罪とは、取調べの可視化など、警察や裁判システムの小手先の変革だけでは克服し得ない、人間の本質と絡み合った問題であることも明らかとなるのだ。
 それだけではない。十五人を次々と殺傷した<浜松事件>の少年の動機も、驚くべきことに<道徳感情>から起因しているのだった。道徳や感情が欠落しているはずの<サイコパス>の恐るべき連続殺人が、<道徳感情>とどのように結びついているというのか。はたまた、正常なはずの人間が<サイコパス>的思考に陥ることにより、冤罪を発生させ、また清瀬一郎が関わったような国家を崩壊させる歴史上の悲劇を引き起こすのも、この<道徳感情>と<認知バイアス>の組み合わせから発している。その人間の心の成り立ちを説くことになる。
 その上で、ここまで身に絡みついた本性を脱する困難を極める唯一の道筋が、二五〇年前にすでに提示されていたことも再発見させられることとなるのである。

 しかしまた、そのような巨大なる歴史や組織、人間の本性さえも凌駕してしまうかの如くの瞠目すべき個人もいるのだった。
 為す術もなく運命の奔流へと填り込んでいくに任せるだけではなく、たとえ敗れはしても一生を懸けてあらがい続け、時代に爪痕を遺さんとする執念の人がいたことを、これからこの迷宮を経巡る読者諸氏は知ることとなるであろう。




さてさて、ご興味を抱かれた方は、『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』で、続きを読んでいただければ。
帯の惹句には「21世紀の道徳感情論!」と謳い、さらにあとがきでは、「冤罪や殺人だけではなく、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理がじつは<道徳感情>であるなどという、その悲劇の克服法までをも含めた人間の本性についての壮大なる統一理論を展開する羽目になってしまいました」なんてなことも書いておりますが、実際にはその範囲さえ大きく超えた内容となっております。
表紙はラファエロ「堕天使を駆逐する聖ミカエル」。なにゆえこの絵を配したのか、最後まで読んでいただければその意味をお判りいただけることもあるでしょう。


※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。ぜひ、こちらでお聴きください。







『正しい心』 の増刷と修正

『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』は、おかげさまで大変好調で、入手難となって各方面にご迷惑をお掛けしました。
ようやく3刷が書店やアマゾンに並び、4刷5刷も準備してますので、概ね、いつでも簡単に入手できる状況になったかと思います。

この増刷に合せて、いろいろと修正を行っております。
そのほとんどは細かい誤字脱字ですが、2刷では13章を1ページ増やし、14章は2ページずつ後ろにずれるという大胆な改変を断行しました。
具体的な加筆内容は下の修正リストをご覧いただきたいのですが、なにゆえこんなことをやったかと申しますと、最終稿を入れたあとに各章の扉に絵を入れることが決まって、13章の最後と最終章の扉が、なんとも窮屈な状態になってしまったからです。
13章を読み終えたあとに、ページをめくって一拍置いてから余韻を持って最終章へ向かっていただきたいという、全体の流れを作るため無茶な変更をすることにしました。
ですので、1ページ増やしたと云っても、実際には5行書き足しているだけです。
じつは、この5行は最初は入れるつもりが、内容的に躊躇して削ってしまったものでした。
しかし、迷子のアリの役割としては果敢に間違える踏み込みが足りなかったのではないかという反省と、上記のような事情から戻すことにしたわけです。
なお、予算的にこれ以上ページは増やせないので、あとがきを右ページからはじめることにより、総ページ数は変わらないという荒技をやってます。

このブログなどでも、記事をアップしてから最低三度、多いときには十回以上書き替えをするのが当方の性情ではありますが、本書もつねに更新して徐々に完成を目指す<公平な観察者>的、ベイズ的、真の保守主義的、進化的アプローチを取っております。
初版を読んだ方こそは、この記事に今後も追記される変更点により、その進化具合をより一層に感じていただくことができるかと。
それはあたかも、『火の鳥 未来編』に於いて、ナメクジの進化を見届けた山之辺マサトの如き、あまり嬉しくもない特権やもしれませぬが。

あえて初版を読んで、その特権を得たいという物好きの諸氏は、町の本屋さんを探索することをお奨めいたします。
先日、西荻の今野書店にたまたま行きましたら、新品の初版が4冊も平積みされていました。
品切れで、アマゾンの中古が定価の3倍にも跳ね上がって、そんな値段でも買い求める方が大勢いたというのに、定価の新品が誰にも見つけられずに眠っていたのです。
当方の知ってる限りでも、ほかにも何軒か、まだ初版が売れ残っている町の本屋さんがあります。
小さな新刊書店はまだまだ宝の山です。ウェブばかりでなく、町を探索するのが面白いかと。
すでにプレミア価格も無くなったいま、なにやら流行りのゲームより実用的価値もなく、純粋ゲームとして愉しめます。

間違いはまだまだあるはずですから、皆様方も見つかりましたら指摘していただければ。
アマゾンレヴューにある、山崎氏の書の表記間違いとはなんでしょうかね。
指摘する場合は具体的にご教示いただければ幸いです。

ところで、あとがきには、8年前に当方が山崎兵八氏の著作『現場刑事の告発』を雑誌記事で取り上げてから、テレビ番組がひとつあっただけで、ほかには追随するものがまったくなかったと記しております。
しかし、本書を出したあとに、去年の7月に出た菅野良司『冤罪の戦後史』という本で、『現場刑事の告発』を取り上げていることを知りました。
その頃には本書の冤罪に関する部分はすべて書き終わっていたので、気付きませんでした。
あとがきの最初の部分は、それよりもだいぶ前に書いたものだということもあるのですが、いろいろと考えて、訂正せずにそのままといたします。
こうやって、図式的記述というのは為されるというサンプルです。
徳川信康の切腹の理由は諸説あるのに、本書に都合のいい冤罪説のみをわざわざ冒頭と最後に持ってきて全体を挟み込んだ仕掛けに、さらに組み合わされる不作為の図式的記述という仕掛けです。
なお、今年の4月7日中日新聞「二俣事件 冤罪の潮流」という記事で『現場刑事の告発』が取り上げられてることも、出版のあとに知りました。
これらは私が8年前に書いた雑誌記事の流れのような気もしますが、そうでもないのですかね。



『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』修正リスト


■2刷

○ p104 後ろから7行目 ※見出し
近衛の政策 → 近衛文麿の政策
※目次の見出しも同様に変更

○ p241 後ろから3行目
際に、うまく抵抗

際、役所防衛能力には圧倒的力量を備えていたはずの内務省さえ、うまく抵抗
※抵抗の主体が政府であるような文章になっていたので、主体をはっきりさせました。
吉田首相は内務省なんてどうなろうがまったく興味がなく、さらに基礎的知識もなかったので、内務省お得意のロボット操縦ができなかったのでした。

○ p273 最後の行
(藩屏は防御の囲いの意味) → ※文字を小さく
※本書では引用文以外の括弧はすべて文字を小さくしてますが、ここは見逃してました。

○ p407 後ろから2行目
積算して → 換算合計して
※元の県警資料も私の原稿も「折算」ですが、私に相談なく変更されてました。気付きませんでした。
正式の役人ではない判任官待遇期間を半分などに計算して、叙位叙勲の基準となる役人勤続年数を出すという意味ですから、積算とは違います。
換算もちょっと違うような気もしますが、折算は確かに難しいので「換算合計」にしてみました。
折算というのは役所では使われる言葉なんですかね。
判任官待遇期間を何掛けに計算するのかは決まっていたと思いますが、私にはよく判りません。
ご存じの方はご教示をよろしく。

○ p464 2行目 
社会全体を巻き込んで破滅させてしまうのである。
 また、自分にはない

社会全体を巻き込んで破滅させてしまうのである。
 株の大暴落など<ブラック・スワン>と呼ばれる突発的事態は予測不可能だと云われるが、自らリスクそれ自体を追い求める<サイコパス>の性質を計算に入れていれば、その何パーセントかは予測が付き、防止もできようになると思われる。このような破滅そのものを追い求める輩が跋扈することに、現在の市場はあまりにも無防備であった。人間がじつは不合理な存在であることを解き明しつつある行動経済学も、まだ<サイコパス>までは理論に組み込めていないのである。
 また、<サイコパス>は自分にはない
※なんでこんな変更をしたのかは、上記を参照のこと。

○ p477 10行目
操るのため → 操るため


■3刷 (以下すべて、ページと行数は2刷以降のもの)

○ p435、5行目
グルーブ → グループ


■4刷

○ 165p 7行
雖も → いえども
※この引用文では、「之」を「これ」に開いていたのに、もっと難しいここはそのままだったので、次の行を修正するついでに変更しました。

○ 165p 8行
厳呼 → 厳呼(※原文ママ)
jiyunさんの指摘に感謝いたします。
「あったししたので」も原文のままですが、こちらはそれほどおかしい言葉ではないので、注釈は入れません。方言ですかね。
「他日」は間違いではありません。

○ 350p 2行
附着してい血痕 → 附着していた血痕

○ 366p 7行
硬直 → 膠着

○ 367p 最終行
硬直化し → 行き詰まり
jiyunさんの指摘に感謝いたします。
「相まり」はそのままにしました。
語源的にはおかしいという話もあるでしょうけど、語源的には意味自体が微妙に変わってますし。
「硬直化」も意味としては通じるのに、こっちは間違えて恥ずかしいという想いがするのは、人の心というものはおかしなもんです。
じつは本書のテーマにもちょっと関連する、ミームの問題だったりするのですが、これは誰もまだうまいこと解き明してないようです。

○ 405p 後ろから2行
あまリズバズバ → あまりズバズバ 
※リをひらがなに。

○ 518p 6行
起ったりするは → 起ったりするのは


■5刷

○ p271 6行目
十二章 → 十三章
※もともと12章と13章はひとつの章だったのですが、書き足してるうちに後半部分が肥大化したので、ぎりぎり一番最後にふたつに分割しました。そのとき、ここを修正するのを見逃してました。

○ p418 6行目
伊豆半島の先端近くの → 伊豆半島の
※松崎は先端近くとは云えないと指摘を受けました。
先端近くというのは大ざっぱな意味で書きましたが、田舎に飛ばされたことを強調するための図式的記述だったかもしれません。






    




宮崎哲弥氏が今年一番の名著だと語る『正しい心』

宮崎哲弥氏が6月22日のラジオ番組『ザ・ボイス そこまで言うか!』で、拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』について熱く語っていただいたため、あっという間に売り切れてしまいました。
アマゾンの中古が5千円になってもバンバン売れて、一時期は8千円以上になってもまだ売れるという勢いで、半泣きになりましたよ。
中古がいくら売れても、飢え死に寸前で8年間執筆していたこちらには一円も入ってこないというのに、弾切れでは如何ともし難い。
こういう時こその電子出版なんでしょうけど、洋泉社はあくまで紙の本にこだわってる出版社で、断乎として出さないようです。
増刷もすぐに売り切れて、これではせっかくの熱い語りを紹介することもできないという事態で、歯噛みをしていた一ヶ月以上でしたが、ようやく3刷4刷も出回って、いつでも新品が手に入る状況になりましたので、ここにリンクを張っておきます。

まだ聴いていない諸氏は、宮崎氏の語りをぜひとも聴いてみていただければ。
すでに聴いた方も、もう一度聴いてみるとなかなか凄いことを仰っておられることを再認識できるかと思います。
冒頭7分間と、番組の最後、54分からもまた語っておられますので、後半もゆめゆめお聴き逃しなきように。



「人間の思考を起動させる本です。これは」
「今年の一番の名著だと思う」
「私は三度読みました」
「まだ付箋は甘いんだ。これは」
「もう一冊持ってるけど、そっちはバラバラになってる」
等々、数多くの過分なるお言葉をちょうだいしております。

仏教に反応していただいてるのも宮崎氏ならではで、筆者として嬉しいところです。
仏教思想なり、悟りを目指すための修行なりは、たんなる観念的な言葉遊びではなく、何百万年の進化によって人間の身に着いてしまった認知バイアスとその克服法に根拠があるなんてことを本書では書いておるのですが、いままでにこんな根本的なことを喝破した人はいるんですかね。
本書の「正しい心」というのは、<道徳感情>のみならず、こういう人の心の本質を指していることを読み取っていただけるのはありがたいです。

さらに二週間後の7月6日放送でも、またもや熱く語っていただいております。
こちらもまた、なかなか大変なことを仰っておられますので、3分39秒から、ぜひともお聴きください。



「ある時代の中では読まなければならない本」
「この時に読んでなければいけない本」
「いま日本人には非常に、ひょっとすると世界的にもこの本が必要なんじゃないか。そういう政治、社会、経済状況だというふうに見ています」
格差が広がって道徳感情が刺激されると、人間は幾何学的な美しい計画に取憑かれるようになり、テロやら扇動政治家やらが蔓延するようになるといったことも本書には書いてますが、その点に反応していただけたのかもしれません。

極めて非効率で一本筋の通った思想のない民主主義が、なにゆえ明確なビジョンを掲げ意志決定も早くて効率のいいはずの独裁やエリート少数支配より優位になって、歴史上に生き残ってきたのか。
これも認知バイアスの克服に根拠があるなんてことまで本書では書いてるのですが、こんな大それたことを云い出した人は、これまでいるんですかね。
本書のテーマは、人類の進化に於ける、宗教も含めたこのような生存率を上げるシステムの形成なんですが、その中でももっとも重要なる裏テーマである憲法に言及する方が、宮崎氏以外にほとんどいないのは、当方といたしましては、いささか残念ではあります。

この手の小難しいことだけではなく、
「それ以上にね。楽しく読めるんだ、これは」
「松本清張の推理小説を読むかのように読める」
とも云っていただいて、これは完璧なる紹介でありますな。
事件や歴史の謎解き部分だけではなく、宗教と民主主義やら憲法やら経済やらを統一理論で根本から解き明してしまうという大風呂敷ぶりを笑いながら楽しんでいただければ、書き手としてはこの上ないところであります。

それにしても、この件で、ラジオの影響力はまだまだ侮れないということを思い知らされました。
宮崎哲弥氏が特別なだけかもしれませんが。
また、5千円の中古がバンバン売れる状況から、本は高いから売れないという話も嘘ではないかと思えてきました。
税込み2700円の本が安く見えて来るというのも、すごい話ではあるんですが。
これらもろもろもまた、たんなる認知バイアスに過ぎないのでしょうか。


    




世界初の犯罪分析官、吉川澄一のパイプ

拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』では、日本初のプロファイラー、内務省の吉川澄一技師について詳しく紹介しています。
確立した専門職としては、おそらく世界初のプロファイラーと云って間違いないでしょう。
なにゆえ、戦前日本の警察が世界に先駆けてプロファイリングを重視したのかは、内務省と司法省の激烈なる闘争を中心として、本書で解き明してますからぜひとも読んでいただければ。
しかしやはり、そんな政治的背景よりは、シャーロック・ホームズにも匹敵する天才的犯罪分析能力を有した吉川技師の存在がなにより大きかったのでした。

ところが、この天才プロファイラーが、現在ではまったく忘れ去られてしまっています。
犯罪マニアや警察の専門家でも、本書を読むまでその存在を知らなかったという諸氏がほとんどでしょう。
まったくもって、嘆かわしいことです。
探偵小説作家の方々には、ぜひとも吉川澄一技師を主人公としたシリーズを展開して、本物の名探偵がこの世に実在したことを全世界に広めていただければと思います。
なにせ、犯罪分析の天才だっただけではなく、そのクセのある性格の面でも、探偵小説の主役にふさわしい際だったキャラなのです。
そのあたりも拙著を読んでいただければ。

彼は名探偵にふさわしいアイテムまで所持していました。変わった形状のパイプを愛用していたらしいのです。
しかし、私はパイプに詳しくありませんので、具体的にどのようなものだったのか、文献を読んでもどうもよく判りません。
パイプに詳しい諸氏は、ご教示いただけると幸いです。
『刑事鑑識 吉川澄一遺稿』357p、吉川技師の弟子たちによる追悼座談会での、この発言がパイプに関する私が知ってる資料のすべてです。


万善 嗜好品としてはタバコが非常にお好きでしたね。タバコのパイプも一種独特なパイプで(笑)、抜きさしができるパイプでした。それでゴールデンバットを喫っておられて、お客の接待用としては敷島を買っておられました。
橋本 あのパイプをどうされたかこの間お家にお伺いした時に聞いてみましたら、亡くなる一寸前にこわれたとか話されておられましたよ。われわれはよくあのパイプを開けたり閉めたりしながら話されるのを承わったものですが……。
荻野 あのパイプは妙なパイプでしたが、吉川さん自身にしてみれば、あれは脂を取るのに便利だったんですか、どうですか。
万善 途中でこうやるとスパスパと入っていってしまうんですね。喫み残りが中に入って消えてしまう。また出すと火がつけられる。灰皿に落さないでもこの作用によって自然に消えていくというところにパイプの特徴があったんです。
荻野 だからタバコが合理的、経済的に喫えるという意味か、或は吉川さん一流の火事にならないようにという考えからか、どっちなんだろう。
万善 あのバイプは畳に置いても焦げないし、自然に消えてしまうから火災にならないというところじゃないかと思いますが。
高尾 一時は若い人の間にあれが流行しましてね、その頃から絶対にあれでなければいかんと徹頭徹尾お亡くなりになるまで使っておられました(笑)。


吉川澄一技師は病的なまでに用心深くて、つねに火事や強盗に備えていました。
その性質が天才的な犯罪分析能力の源泉ではないかということも、拙著で説いております。
この特殊なパイプも、おそらく火事を恐れて使っていたと思われますが、この説明だけではどうも形状がよく判らない。
図書館にあるパイプの本は、一応一通り見てみたんですが。
パイプに詳しい方なら、すぐにあああれだと判ったりするんでしょうか。
タバコを差して吸うものですから、キセルと云ったほうがいいんですかね。そのあたりからして、よく判ってない。

座談会で云ってるように、警視庁鑑識課の若手も、吉川課長を真似てこのパイプを使っていたらしいです。
戦前の鑑識課員はノンキャリア官僚で、安月給の代名詞だった当時の刑事よりは高給取りだったのですが、それでも若手が使うということは、そんなに高価なものではないでしょう。
戦前は犯罪実録物の本が大量に出版されていましたが、ひょっとしたらこのパイプの描写も、どっかにあるかもしれません。見つけた方はご教示をいただければ。

また、推理小説作家の大坪砂男が、当時の警視庁鑑識課に勤めてました。
大坪は吉川課長を崇拝してましたから、このパイプを使っていたのはまず間違いありません。
その作品に、もしこのパイプの描写がありましたらご教示いただければ。私は代表作の『天狗』くらいしか読んでないのです。
大坪砂男のご子息である和田周さんや、孫の虚淵玄さんに、このパイプが伝わったりはしてませんかね。

なお、吉川澄一技師はプロファイリングに留まらず、当時最先端だった指紋、被害者自らが付けて絞殺死体の首に残る引っ掻き傷で他殺か自殺かを見分けられる<吉川線>を提唱、死体にたかるウジの大きさで死後何日経っているかを知るために、自らハエを卵から飼って温度や湿度による変化を繰り返し実験するなどなど、ひとりCSIと云える八面六臂の大活躍なのですが、実在の人物はもとより、物語のキャラでも、これだけの傑物は他にいるんですかね。
データベース構築といった面でも先駆者です。吉川澄一技師を外しては、日本の、そして世界の情報史を解明したとは云えないのです。
情報の歴史なぞ研究している諸氏は、偉大なる先達のことを知らぬでは、これから先、決して赦されませんぞ。



    




仏教と認知バイアス克服

拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』について、 宮崎哲弥氏は
「ある時代の中では読まなければならない本というのがあるが、これがその一冊だと私は信じている」
とラジオで語っておられます。
まだ、聴いていない方は、こちらでぜひお聴きください。
さらに宮崎氏は『週刊文春』7月21日号のコラムでも、
「三度通読したが、なお飽き足らず、つい拾い読みをしてしまう。それほどに面白い」
と拙著について過分なるお言葉を綴られております。

しかしながら、すべての悲劇の元凶である認知バイアスから人類が解放される方途は、仏教と憲法のふたつだと著者は結論付けていると、宮崎氏はこのコラムに書かれているのですが、これはちょっと違うのです。
拙著では、ブッダの境地に達した者が人類史上に何人いたのかは、いささか心許ないと述べています。本書で云うブッダとは、釈迦が死んで数百年のうちに形成された伝説上の人物のことですから、お釈迦さまでさえ果たしてその境地に達していたかどうかはよく判らない。
ましてや、我々凡人はどう頑張っても無理です。
これでは、仏教で人類が認知バイアスから開放されるなんてことはないでしょう。

ところが、その凡人が何万人か何千万人か集まって、ただわいわい云い合っているだけで認知バイアスをある程度は克服してしまう。つまりは、ブッダの境地に近づいてしまう。
この民主主義の摩訶不思議な力が、本書のテーマなのでした。
しかも、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、知恵が三倍で賢者になるのではなく、個々人の因果や物語を三分の一ずつに分断し、筋の通った思考ができないアホにすることによって認知バイアスを克服するのだということを拙著では説いているのです。
極めて非効率で一本筋の通った思想のない民主主義が、なにゆえ明確なビジョンを掲げ意志決定も早くて効率のいいはずの独裁やエリート少数支配より優位になって、歴史上に生き残ってきたのか。ここにその秘密があります。
驚くべきことに、釈迦は何千年も前に、この原理を見抜いていたのでした。
仏教で人類が認知バイアスから開放されるはずがないのに、釈迦の教えに従うとやはり開放されてしまう。以下はそのお話です。

釈迦は、人間が因果に囚われるために、認知バイアスを招いて目の前の現実が見えなくなってしまうことに気づいていました。
さらに人間関係が、因果に囚われる元凶だということも理解していました。
だからこそ、悟りを得て認知バイアスを克服するためには、まず家族や仕事を捨てて出家することが重要だと考えたのです。
人類が進化の過程で身に着けた<間接互恵性>のメカニズムを、最新の進化心理学なぞを待つまでもなく、何千年も前に完璧に見抜いていたわけです。
この「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という原理については拙著を読んでいただきたいのですが、思いっ切り簡略化して説明しますと、人類は生存率を上げるために言葉による<評判>を媒介とした協力関係システムを進化の過程で身に着けたのでした。ほかの動物も直接的見返りが期待できる場合は自分が損しても相手を助けることがごく稀にありますが、人間は二度と逢うことがなく見返りが期待できない相手でも親切にします。そうやって自分の評判を上げると、巡り巡って見返りが期待できるわけです。しかし、恩恵だけを受けて自分は人に何もしない者が増えるとシステムが壊れて生存率が下がりますから、ズルをする輩は罰しなければならないという<道徳感情>が生れました。<道徳感情>は、宗教や教育なんてもんが発生する遙か以前、何百万年も前に確立したものなのです。動物の中にもその萌芽は見ることができます。
悪を罰したいという<道徳感情>は、いいことばかりではありません。とくに人類の生存のために最も重要となる<間接互恵性>を成り立たせる平等が破られ格差が広がったときに<道徳感情>が刺激され、美しい理想に取憑かれてテロを起したり、美しい計画を掲げる扇動政治家が人気を博したりといった歴史上何度も繰り返された悲劇が起きました。そんな具体事例つきましては、拙著に500ページに渡って解き明してますので読んでいただければ。
宮崎哲弥氏の「ある時代の中では読まなければならない本」というのは、このことを指して云っていただいているのでしょう。トランプが大統領になったり、欧州で右翼が台頭したりといった世界情勢も、ポピュリズムなんて見当外れの言葉で呼ぶよりも、<間接互恵性>から発している<道徳感情>から分析するほうが的確なのです。中東でISが暴れているのも、すべてこの<道徳感情>の為せるわざで、統一的に説明できます。
言葉によって<評判>が巡り巡ってくる<間接互恵性>は、ほとんどの行為が目の前で起きるわけではないので、誰が良きことをして報酬を与えないといけないのか、誰が悪しきことをして罰を与えないといけないのかを判断するため、人間は因果推察能力が発達しました。しかしそのために異様に因果にこだわるようになってしまい、もともと因果がない処まで無理やり因果を見つけようとします。だからこそ、逆に目の前のことさえ見えなくなってしまう。そんな性癖のために、右翼も左翼も判りやすい因果で構成された幾何学的で美しい計画に取憑かれて、国家を大混乱に陥らせたりするのです。
さらには、とにかく<評判>を得たいと思ったり、誰かを罰したいという欲求が人間の悲劇を生みます。一番まずいのは、<道徳感情>が強く刺激されると恐怖心を克服してしまうので、自分が死ぬことも恐れなくなるし、人々への共感も失ってサイコパス化してしまうことです。これらはすべて、ほかの生物には見られない、血縁とは関係ない巨大な群れを維持して生存率を上げるための人間関係システムが元凶となっているのです。
釈迦もこんなことを最初から判っていたわけではなく、出家と云っても師匠に付いたり修行仲間がいたりしたんですが、それでは駄目だと気がついて、完全に独りになってようやく悟りを開いたのでした。

私としては仏教のみならず、宗教というのはすべてここから始まっていると考えています。
目の前の現実が何故かそのまま視えないので、思索なり修行なりでなんとか真実を視たいという人は、昔からいたのです。プラトンのイデア論のみならず、原初の宗教家や哲学者はみなさんだいたいおんなじようなことを述べております。しかも、ほとんどは一般社会から離れて出家しますし。
つい最近になって認知科学なんてのが発達して認知バイアスなんて概念が生れる何千年も前から、認知バイアスに気づいている偉い人は何人もいたのです。
しかし、普通の人には、生活を捨てて思索や修行に専念するなんてことは難しくてなかなかできませんから、組織を大きくするためには神に祈るとか、誰でもできる簡単な儀式を取り入れる。そのうちに、認知バイアスを克服して真実が見えるようになりたいなんて最初の思想は忘れられて、神とかそちらのほうが中心になってしまったわけです。むしろ宗教が、因果のないところに因果をでっち上げる、認知バイアスを増幅するための装置と成り果ててしまう。
仏教も組織を大きくするために似たようなことをやりましたが、しかし神に祈るのではなく、釈迦という思想家に祈る形態にしたため、根本の思想がある程度は受け継がれることになったのでした。

さて、釈迦は因果とその根源である人間関係を断ち切ることにより悟りを開いたのに、人間関係そのものである教団を作るという相反した行動を取ることになります。人に悟りを教えるなんて矛盾だと思ったのか、お釈迦さんも最初は絶対やるつもりはなかったのに、説得されてやることになったのでした。
悟りを開いた偉い人がいると聞きつけて、ぜひ教えを請いたいと人々が集まってきて、あまりに熱心に懇願されたから、とうとう根負けしたという具合になるのが常識的な流れでしょう。
ところが、ブッダ伝説では、梵天の説得によって気持ちが変わり、まだブッダの偉大さに気づいてないため話を聴くつもりもない人々に、ブッダのほうから押し売りで教えを説いて弟子にしたということになっています。
梵天というのは、宇宙の原理ブラフマンの神ブラフマーのことです。仏教では、教団を作るということそれ自体が、たんなる師弟愛なんてもんではなくて、なにやら宇宙の根本原理と結びついていると考えられているのです。
実際の組織形成過程がどうであったかはともかく、釈迦は教団を運営していくうちに、大勢の人々が集まる集会で物事を決めることが、組織の存亡に関わる最も大切なことであると気づくことになります。
これは初期仏典に明確に出てくることなので、間違いありません。つまり、民主主義が認知バイアスを克服することを発見したのです。
悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、お釈迦さんが個人として悟りを開いて認知バイアスを克服していたかどうかは怪しいところがあると私は思っています。
しかし、まさしくその悟りとは矛盾する教団なんかを作ったことから、集団としての悟りを得る道を見出だしたわけです。
この個人としての<悟り>と集団としての<悟り>の両輪を軸にすると、ブッダが残した教えはすべて矛盾なく読み解けるのです。

輪廻なんかも<間接互恵性>から見るとすぐに理解できます。
良きことをした者には報酬を、悪しきことをした者には刑罰を与える<因果応報>で世の中はなりたっているはずなのに、実際には生れたばかりで何も悪いことをしていない赤ん坊が悲惨な死を遂げたり、極悪人が幸せな一生を送ったりする。これは、前世や来世を想定し、そこに原因や結果を求めないと帳尻が合わない。なんの帳尻かと云えば、進化によって骨の髄に刻み込まれた<道徳感情>による因果の持って行き場ですね。
輪廻はインド独特の思想だと云う人もいるみたいですが、天国や地獄、あるいは怨霊なんてものが昔から世界中にあるんですから、同じことです。
とくに怨霊は、無念な死を迎えた者に、祟りの伝説という形で<間接互恵性>の罪と罰のバランスの歪みを死後にでも正常化しようとするだけではありません。<間接互恵性>を成り立たせるため人間に備わった因果推察の性質により、なにか凶事が起れば必ず原因があると考え、祟りだと本気で思い込むという、因果の逆流でもあります。輪廻における前世と同じベクトルなのです。この因果を推定できないはずのところに因果を求めてしまう人間の性質が、認識を歪める認知バイアスの源流なのです。
輪廻から脱して解脱するというのは、要するに<間接互恵性>を断ち切るということです。そうすれば、<間接互恵性>を元凶とする認知バイアスから逃れて真実が見えるようになる。
なんか、仏教というのは、縁起だとか業だとかが根本思想だと考える人がいるみたいですが、それがあるのは前提で、縁起だとか業だとかを断ち切らないと仏教にはならないはずです。輪廻を断ち切って涅槃に入るのが、仏教の究極の目標なんですから。
元々、人間の原理に即して、宗教が発生する遙か前から人間精神を支配している縁起だとか業だとかを理解するのは簡単ですが、理解している人がみんな悟りを開いて涅槃に入ったのかというと、そんなことはないとすぐに判るはずです。
ただ、ブッダと同時代にいた六師外道のように、輪廻などの既成の思想を単純に否定するのとは違います。輪廻などは<間接互恵性>によって人の心に深く刻まれた実在する現象であることを前提として、それを乗り越える方策を説いています。進化によって形成された人間本性から見るとブッダのほうが正しく、六師外道とは一見似ているようで根本的に違うのです。認知バイアスは非常に強力で、錯覚ですよなんて云ったくらいのことではとても退散できないんですから。
その人間の本性には実在する縁起や業を断ち切って、輪廻や<間接互恵性>から脱するなんて人間の原理に反することをやろうとするからこそ、悟りは生身の人間にとって絶望的に難しいのです。
<因果応報>というのは、宗教が生れる何百万年も前から生存のために骨の髄に刻み込まれた人間の根本原理で、仏教というのはそこからの脱することを目的としているのです。
輪廻する主体は何かという難しい議論をする人がいますが、輪廻する主体は進化によってもたらされた<間接互恵性>であることがここから簡単に判ります。まさしく、<間接互恵性>こそ、<縁起する無我>そのものです。

99人だか999人だかを殺した極悪人のアングリマーラを、ブッダが弟子にして悟りを開かせたというのも、この観点から見たらじつに判りやすい。
元々、<間接互恵性>は罪を犯した者を罰するために進化したシステムなんですから、それを乗り越えれば、どんな悪事でもどうでもいいことになる。それでこそ、因果を断ち切って悟りの境地に達したということになるのです。
悟りを開くというのは、人間社会を成り立たせている<間接互恵性>を乗り越えるということですから、必然的に反社会的で反道徳的となる。なんにもありがたいことはない。
ただ、認知バイアスを克服し、目の前の現実をありのままに視ることができるようになるというだけです。認知バイアスは人間の進化の副産物で、正しい人間の証ですから、認知バイアスを克服するというのは正常な人間ではなくなってしまうということなんです。
ただ、<間接互恵性>から来る<道徳感情>が高まりすぎても、ISのように極悪非道のことを平気でするようになるのですから、どっちがいいかは一概には云えません。どんなに頑張っても生きている人間である限りは完全に<間接互恵性>を乗り越えるなんてことは無理で、またこんな莫迦なことをやろうとするのは極めて少数ですから、<道徳感情>が高まりすぎることがよくある多数派にブレーキを掛ける役割としては意味があります。ただ、我こそはブレーキ役となる選ばれた少数派であるなどという幾何学的な美しい計画に取憑かれると、これまたやっかいなんですが。
なお、拙著に詳しく書いたように、殺人のほとんどはじつは己の評判を高めるためという<道徳感情>から引き起こされるのです。釈迦がここまで正しく見抜いていたのかどうか、のちの時代にまとめられた仏典から判断するのはなかなか難しいですが、あり得ないことでもないでしょう。

仏教に限らず、宗教では金銭を悪として排除しようとしますが、これも貨幣というのは評判を具現化したものだからで、<間接互恵性>を断ち切るには貨幣に触れないようにしないといけないわけです。たんなる禁欲なんてのとはちょっと違う。真実を見たいと欲する釈迦のような賢人たちは、貨幣の正体を正確に見抜いていました。
グスタフ・カッセルが、1931年という極めて早い時期に、大恐慌の根本原因が人間の<道徳感情>にあることを喝破したのは経済学者としては炯眼でしたが、さらにその根源に進化によって人間に染みついた<間接互恵性>があることまでは、釈迦のように見抜いてはいなかったでしょう。最近の世界的な金融や経済の危機なんかも、この人間の本性に刻まれた認知バイアスを踏まえないと解決は無理なんですが、どうも経済学者もあんまり判ってないんじゃないでしょうか。
残飯を恵んでもらう托鉢なら乞食と同じで、評判のやり取りではないですから赦されるわけです。<道徳感情>から来る清貧なんてものではなくて、まったく反対にアナーキストとして評判のやり取りという人間社会の基盤を破壊する行為としてやっているのです。
それが偉い坊さんに御馳走する、さらには金銭を集めるなんてことになると、それはもはや本来の宗教ではありません。<道徳感情>の観点から贅沢はいけないということではなく、正しい社会秩序に組み込まれて、<道徳感情>とそこから生じる認知バイアスに囚われ、目の前の真実が見えなくなることが本来の目的から外れて、よろしくないということです。

女は悟りを得られなくて、いったん男になる<変成男子>なんてものを経なければならないという考え方も、悟りとは<間接互恵性>の克服であるとすると判りやすい。
女は男よりもおしゃべりなのは確かです。これは何百万年続いた狩猟採集時代に、男はそれほど密集隊形を取らない狩猟中にせいぜい合図の掛声でコミュニケーションを取るくらいだったのが、女は採取や子育ての協力のため何倍もの音声情報のやりとりをしていたことと関係があったりするのでしょう。
この言葉こそが、評判を媒介して<間接互恵性>を成り立たせる根源です。
言葉だけではなく、あまり人と交わらない女性でさえ、ボーイズラブで関係性に萌えたりするように、男よりも女のほうが人間関係に敏感に反応するようです。ここから、男よりも女のほうが<間接互恵性>が深く浸透していることが判る。
女が地位や名誉のある男を好むのは、<間接互恵性>で優位な男の子供を生むほうが繁殖率が高まり、自然淘汰が働くためだと思われます。そのため、女は男同士の関係性に元から敏感で、関係萌えは単純に男女の関係を男同士に投影しているだけでもないでしょう。
さらに、人間ではない無機物同士にさえ関係性を見出だして萌えたりする腐女子の方々の心性は、人間の進化がもたらした<間接互恵性>と、そこから派生して何にでも<因果>や<物語>を見出だしてしまう人間本性の為せる業なのですぞ。
つまり、べつに女が劣っているからではなく、反対に人間として男よりも進化しているからこそ、<間接互恵性>を克服して<因果>や<物語>を断ち切り、悟りを開くことが難しいわけです。
教団なんてものがあるからこそ女性も出家して悟りを開くことができるというになってますが、本来の意味での個人的な悟りは、独りになって人間性を完全に脱しないといけないのですから、より原始に近い男性を経ないと無理なのです。

とくに言葉こそが<間接互恵性>を成り立たせている元凶なんですから、悟りのためには真っ先に捨て去らねばならない。
真実をありのままに見たいと欲した昔の賢者たちは、大体みなさん、激しい修行や断食により肉体や精神を追い込むことでそれを成し遂げようしました。人間としてのまともな思考能力を失わせることによってこそ認知バイアスは克服できるという正しい道筋を知っていたのです。
しかし、理屈としては正しくとも、実際に行うにこれほど難しいことはない。肉体や精神を追い込むとまず幻覚が見えて、これこそ真理だと思い込む者が多いのですが、幻覚なんてのは認知バイアスそのもので、そんなものが見えるうちはまだまだ修行が足りません。
ほんとに肉体や精神がボロボロになれば、幻覚さえ見れない。なんの思考もできず、眼がたんなる機械的なカメラになって、あるいはたんなるガラス玉になって、初めて目の前の真実が歪まずそのまま映るようになる。
拙著では「真理」という言葉を一切使わず「真実」と云っていて、このブログ記事でも間違った考えのときだけ「真理」という言葉を出しているのは、真理ではどうしても精神性が入り込んでしまうからです。そういう精神性こそ認知バイアスそのもので、精神性を排除して目の前の現実をそのまま見るという、じつに詰まらないことこそ悟りなのです。
たとえば、目の前のお茶碗の真理を見ると云うと、あたかもそのお茶碗に内在する深遠なる精神性を取り出すかの如き因果の物語をでっち上げることになってしまいますが、ただありのままの物質として見るということです。
しかし、人間でいる限りは精神性を完全に排除するのはとうてい無理です。そこまで激しく肉体や精神を追い込むと死んでしまいます。ひょっとすると一瞬なら体験できるかも知れませんが、生還してまともな思考ができるようになると元の認知バイアスが戻って、記憶としても正確には想い出せません。その瞬間は肉体や精神もボロボロでまともな思考ができないのですから、文字などの記録も残せません。
一瞬でも体験できるなら死んでもいいと限界を超えた修行で実際に死んだ人もいたでしょうけど、賢者はたいていなんかに役立てたいと思ってるもので、それではいかんのですな。死んでもいいなら、わざわざ修行なんかしないでもどうせそのうち死んで認知バイアスは消えてなくなりますし。
釈迦も初めの何年かは激しい修行をやってたんですが、これでは駄目だと思ってやめたのは、このことに気づいたんでしょう。代わりに、繁栄していたヴァッジ族のやり方を取り入れることになります。

のちにマガダ国王がヴァッジ族を征服しようと考え、ブッダに助言を請うたんですが、大勢の人々が集まる集会をたびたび開いて物事を決めているヴァッジ族は強力であり戦争で滅ぼすことは無理だとブッダは答えました。
教団も、大勢の人々が集まる集会をたびたび開いて物事を決めるこのやり方を続ければ、自分が死んだあとも衰亡することはないだろうと云ってます。
つまり、たんなる理想論やイデオロギーではなく、民主主義には組織の生存率を上げる具体的な力があると云ってるのです。当時はアテネとヴァッジ族くらいしか存在しなかった民主主義国家が、現在は地球上のほとんどを占めるようになるという、数千年の熾烈な生存競争の結果としてその正しさは証明されました。
先の修行の話と突き合わせれば、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、知恵が三倍で賢者になるのではなく、個々人の<因果>や<物語>を三分の一ずつに分断し、筋の通った思考ができないアホにすることによって認知バイアスを克服、間違いを犯す確率を減らすのではないかと思われます。認知バイアスを克服する唯一の方法は、人間に考えさせないことなんです。
独裁や少数エリート支配では、どれだけ頭が良くても人間である限り必ず認知バイアスに囚われて失敗する。妥協の産物である民主主義は、特定の誰の考えでもないので人間の認知バイアスが入りにくい。もちろん、認知バイアスを完全に克服するわけではなく、独裁や少数エリート支配よりいくらかマシという比較の問題なのですが、生存競争ではそれが決定的な差を生むのです。

このやり方が凄いのは、個人的な修行と違って、肉体や精神をボロボロにすることなく、認知バイアスを克服し、悟りを開いてしまうことにあります。ボロボロになってないから、その悟りを法律という形で記録できる。議論が終ってひとりになると、認知バイアスが戻って悟りが判らなくなってしまうのですが、悟ったときに決めた法律に縛られるので国家運用などの間違いを犯さなくて済む。個人的な悟りを得るための修行で問題となったことが、すべて解決できています。
さらに凄いことは、人間の認知バイアスの元凶である言葉を使って、認知バイアスを克服しているところです。議論してお互いの認知バイアスをつぶし合うのも言葉。法律として記録するのも言葉。
ブッダはヴァッジ族の強さの源として、大勢の人々が集まる集会だけではなく、正確な情報を参照して物事を決めている点も上げています。ブッダの時代のインドは文字による記録はありませんから、長老の伝承と云ってますが、これも認知バイアスを克服するために言葉を使用するということです。
筋の通った思考ができないアホになることと、正確な情報を元に判断することは真逆のように見えますが、人間が頭の中で因果や美しい物語を勝手に考えることを防ぐという意味ではまったく同じなんです。
驚くべきことにブッダは、認知バイアスをもたらし、また認知バイアスを克服する、言葉の両面の恐るべき力を正確に見抜いていたのでした。
仏教がときに言語を否定したり肯定したりして矛盾しているように感じられるのは、真理は言語を超越してるとかそういう外側からの説明の話ではなく、根本問題である認知バイアスが言語によってこそ起り、また言語によってのみ克服できるという内在した両面の動力、あるいは言葉こそがすべての現象を引き起こす統一場であることをブッダが正確に認識していたところから発するものなのです。
ですから、仏教思想を言語に囚われた初歩的な世俗諦と言語を越えた究極の真理である勝義諦とに頒ける二諦説なんてものは、いかにも浅い理解というか、言語を表面的な説明の道具だと思っているまるっきり間違った捉え方なんです。

100人程度の群れで何百万年かやってた狩猟採集時代、ほとんどの出来事は誰かが見ている前で起き、また生れたときからお互い全員を知ってるので評判も正しく、誰がこの悪を為したのかを追及しようとする<道徳感情>が間違いを犯す可能性は低かったでしょう。そのため、因果推察もそれほど深い階層までは必要なく、因果がないところまで因果をでっち上げてしまうような<物語>能力、あるいは<物語>への欲求は比較的少なかっただろうと思われます。
ところが、農耕をはじめて国家などの巨大な群れを作るようになった1万年前からは、何か悪が発生したときに、誰が引き起こしたのかという刑罰を与えるための因果推察が極めて複雑となる。評判の正しさ自体も推察しなくてはいけなくなって、認知バイアスが深刻な問題となってきます。自然環境の変化ではなく、国家運営の間違いで何万人か何百万人かが一度に死ぬような事態も起きるようになる。
そんなときに真実を見たいという賢者が世界中に同時に何人も現われ、宗教や哲学が急激に発達し、また民主主義が発生して広がっていくのも、認知バイアス克服の過程として必然だったわけです。宗教は本来、国家の認知バイアスに対抗するため出現したと見るべきだと思います。
ちなみに、国家が出現してから人々は異様に物語を欲するようになります。それは犯罪物だけではなく、恋愛物やその他の物語でも、人間関係のもつれをほぐして解決する内容がほとんどです。<間接互恵性>が複雑になりすぎて現実にはすっきり解決しない人間関係を解決したいという欲求、あるいはそこで肥大化してしまった因果推察能力が現実では飽き足らなくなって、より複雑な物語を欲してしまうという両方の意味合いがあるかと思われます

そんなもろもろの認知バイアス対抗策のなかでも、民主主義は誰か偉い人が因果推察により美しい計画を立てて導入したものではなく、自然発生して広まったと思われます。
宮本常一『忘れられた日本人』なんかを読みますと、昔の日本の村落では、なにか物事を決める時には村民全員が集まって、みんなが賛成するまで何日でもえんえんと話し合ったそうです。
思うにこれは、物事を決めるためにやっているのではなくて、それを肴に酒や茶を呑みつつわいわいやることが目的なんでしょう。テレビもラジオもなかった時代の田舎では、ほかに愉しみもないですし。
そうなると、明日も呑むために、決めないことこそがみんなの利益に適う。そのためには、なにがなんでも反対しないといけない。意見が一致すると、そこで終ってしまうんですから。
しかし、ただ無意味に反対だと頑張っても駄目でしょうから、相手の云うことの問題点を何か指摘しないといけない。明日も呑むためにみんなが必死に頭をひねっていくうちに、最初は誰も考えもしなかったような問題点が次々列挙されていくことになります。
その問題点自体は最初から存在したはずなのに、誰にも見えていなかったわけです。それが見えるようになる。つまり、認知バイアスを克服してしまう。そして、明日もまた呑みたいのに、必死で頭を絞っても誰ももう問題点を思いつけなくなって初めて物事が決定されるのです。
こういう過程を経ずに適当に決めてしまい、あとから問題が発生すると、村民同士の深刻な対立が生じたり、よその村に付け込まれたりして、村落の存亡にも関わってくることになります。こんな集会をやった村だけが生き残るという自然淘汰が働いたからこそ、こういう風習が広まっていたのでしょう。
集会の議論は、将来起るあらゆる事態をあらかじめ想定するシミュレーションの役割を果たすのです。誰かの意見にみんなを従わせるなんてことが目的ではない。多数決なんてのは意味がないんですな。最大多数の最大幸福なんてのを目指すものでもない。あくまで、認知バイアスを克服するためにやることなんです。
決められない政治は悪いことだという妙な言説が最近はあるようですが、みんなで頑張ってぎりぎりまで決めないことが認知バイアス克服に最も重要なことです。それこそが、保守主義の神髄というものです。

ですから、いくら民主主義でも、美しい計画や理想的な物語に皆が取り憑かれてしまっては、独裁と同じで認知バイアスを克服できずに失敗してしまう。歴史を見ると、格差が広がって<道徳感情>が強く刺激されると、美しい計画や理想的な物語に取り憑かれた右翼や左翼が増えて国家を崩壊させています。
独裁制でも、昔の中国の皇帝が諫議大夫という役職を置き、常に自分に対する反対意見を述べさせたりしたように、認知バイアスを抑えるような仕組みがあるとうまくいく場合もある。制度ではなく、実態が重要なのです。
議会が認知バイアス克服のために存在するという根本が判っていれば、野党は何が何でも政府案に反対しなければいけないことに気づくはずです。対案なんてものを出すのは野党の仕事の放棄であって、選挙戦以外では絶対に赦されない。認知バイアス克服という議会の機能を破壊するだけではなく、対案によって別の認知バイアスさえ呼び込み、国を滅ぼします。
憲法も同様に認知バイアスによる国家の失敗を抑える効果があり、だからこそ、的確な憲法がある国家は強くなって、自然淘汰で世界中に広まったのです。権力者にとって束縛にしかならず、邪魔な存在の憲法というものが、権力者の認知バイアスによる間違いから国を護り、結果的に権力者自身をも護るのです。認知バイアス克服という憲法の本来の目的を忘れた国家は淘汰されてしまうでしょう。

なお、ヴァッジ族は強力であり戦争で滅ぼすことは無理だとブッダに教えられたマガダ国王は、腹心の大臣をヴァッジ族に亡命させ、その地に不平等と不和の種をまきました。三年で不和は拡大して集会も開かれなくなります。この機会を待っていたマガダ国王は一切の戦闘をすることもなく、ヴァッジ族を征服しました。(山崎元一『世界の歴史 3  古代インドの文明と社会』参照)。
国に不平等をもたらす者は、敵国のスパイと見なして間違いありません。インド以外の歴史も、それを証明しています。

さて、お釈迦さんは、これらの民主主義の効用を何千年前に正確に理解していたのでした。アテネの哲人でさえ、ここまでの洞察力を持っていた者はいないでしょう。
しかし、果たしてこれは仏教の教えと云えるのか。仏典にはブッダがヴァッジ族に民主主義を教えてやったと書いてるそうですが、実際にはその遙か前からヴァッジ族に民主主義は定着しており、釈迦がそこから学んだというのはインド学者の意見が一致しているところです。
あるいは、釈迦が初めて理論化して、自分たちの強さの原理を理解できていなかったヴァッジ族に教えてやったということはあるのかもしれませんが。
なんにせよ、これは仏教とは直接関係ないでしょう。むしろ、教団を作って民主主義による認知バイアス克服をやりたかったために、仏教という誰にも到達できない思想を方便として使ったように見えなくもないですが。
釈迦が菩提樹の下で悟ったのは、激しい修行や瞑想なんかでは悟りを開くのは無理で、ヴァッジ族のやり方である民主主義こそが悟りへの道であると気づいたということなんじゃないでしょうか。
瞑想も、すべてを断ち切って人間の頭で物事を一切考えなくなることで、ひょっとすると認知バイアスを克服できるかもしれませんが、続けているとご飯も食べられずに死んでしまいますし、瞑想をやめるとまた認知バイアスが戻ってきて意味がないのは、激しい修行とまったく同じなんですから。
修行も瞑想も駄目で、ヴァッジ族のやり方である民主主義こそが悟りへの唯一の道であると気づいたというほうが、それからの釈迦の行動と整合性があるような気がします。
なんせ、アテネの哲人も判っていなかったことを人類史上最初に気づいたのですから、それ自体で充分すごい悟りではありますし。ヴァッジ族も判ってなかったからこそ、マガダ国王の策略で自らの強みを放棄して、やすやすと滅ぼされてしまったのでしょう。
現代でも、民主主義は大切だと云う人はおりますけど、それが認知バイアス克服の唯一の手段であるからなんてほんとに理解している人は世界にもあんましいないんではないでしょうか。宇宙の根本原理のほうから頭を下げて頼みに来るくらい凄いことだと判ってる人はおりますかね。
釈迦の悟りがどのようなものであったにせよ、いずれも認知バイアス克服が目的なんだから、おんなじだと云えば、そうなんですが。なんせ、仏教徒のみなさんはもう一度、お釈迦さんの教えを見直すべきではないでしょうか。
大乗仏教になってからそれまでの個人的な仏教が集団的になったなんて理解があるようですが、そんな段階は教団を作ったときにすでに経ているのです。教団を作るというのが、宇宙原理に罅を入れる革命的な出来事だったことは仏教徒はみな胸に刻むべきことです。
むしろ、人類何百万年の進化による人間原理を前提とした釈迦の極めて具体的な思想が、大乗仏教以降は抽象的で人間原理を離れた地に足が付いてない言葉遊びに堕して、ブッダの個人集団両軸を踏まえた真の仏教を忘れていることに気付くべきです。
これもまた、図式的構図に囚われ目の前の真実が見えなくなる<認知バイアス>の為せる業ではあります。

そんななんでも見抜いていた釈迦も、<間接互恵性>などの人間の本性を最も明確にあぶり出すのが冤罪だということは気づいていたでしょうか。
私の読んだ仏典はほんの一部で、読んだのも何十年か前であらかた忘れてますから明確なことは云えませんが、少なくとも、冤罪について大きく論を打ち出したということはないような気がします。
その点で、冤罪を中心に論を展開したアダム・スミスの『道徳感情論』は注目に値します。
最近は世界中で『道徳感情論』が流行っていて、いろいろと解説本のたぐいが出ているのですが、この一番肝心な冤罪について触れているものがまったくありません。誰も理解できていないのです。
人間には共感能力があるなんてことで済むなら、スミスさんがなんでわざわざ<公平な観察者>なんて高次元のものを打ち出したのか判らなくなります。拙著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』ではそのあたりのことを詳しく解説してますが、これらの人間の本性を分析することで、釈迦の教えの理解もより一層、深まるのではないかと思います。

ところで、拙著を読んで、「これから裁判や政治なんかは人工知能に全部任せたほうが、間違いがなくていいのでは」という感想を持った方が結構いたみたいです。しかし、そんな本物の知能を持つようになると、AIもやっぱり認知バイアスを抱えるようになるはずです。しかも、それは人間には理解できない独自の認知バイアスですから、非常に厄介なことになります。
これを解消するためには、AI同士で議論してお互いの認知バイアスを打ち消し合ってもらうという、結局は人間がやってることと同じ作業が必要になるでしょう。しかも、その議論がうまい具合に認知バイアスを打ち消し合うという方向に向かわなければ、『火の鳥 未来編』に出てきた二大国のマザーコンピューターのようにケンカして最終戦争をはじめたりするかもしれない。人間同士の議論をどうやったらうまく成り立たせるのかと同じ問題が発生するわけです。
いや、ケンカするならまだいいほうで、AIがみんな均質なら議論にもなりません。人間はほっておいても多様性が生じて、苦しい修行をしても目の前の現実を見たいなんてことを考える莫迦が出てきたりしますが、こうなるとAIにも本来の意味での宗教が必要となるのかもしれません。
そこで真に役立つのが、釈迦とアダム・スミスの思想であることは間違いないでしょう。



       




連載開始

『<道徳感情>で激動の世界を読み解く』という連載を、現代ビジネスサイトではじめました。
タイトル通り、道徳感情理論を使って、現代の世界情勢をすべて読み解いてしまおうという、さらには解決策を提示するところまでやってしまおうという、あいかわらず壮大なる目論見ですので、ご笑覧いただければ。

第1回 トランプが大統領となり、イスラム国が暴れる、その歴史の原理とはいったい何か?
第2回 サイコパスはなぜ人を惹きつけ、トランプ大統領はなぜ平気で嘘がつけるのか?
第3回 イスラム国はなぜ生れたのか?その真相と唯一の解決策とは ユースバルジの真の原理を解き明す
第4回 アダム・スミス『道徳感情論』は共感の大切さを語った本ではなかった! それは進化心理学と保守主義そのもの
 ※これからまだまだ続きます。

『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』をすでに読んだ方にも愉しんでいただける内容となっております。
多少被っているところもありますが、トランプ大統領やイスラム国なんかが生み出される歴史の原理を探りつつ、今後の連載で道徳感情理論をより深く掘り下げていくことになりますから。
反対に、この連載を読んだ方も拙著を手にとっていただければ、より深い理解ができるのではないかと思います。本では、昭和史と冤罪を元に理論の裏付けをしていて、お互いに補完し合う内容ですので。

宮崎哲弥氏が本書『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』についてラジオで熱く語っておられますので、まだ聴いていない方は、こちらでぜひお聴きください。

そう云えば、まったく告知していなかったですが、本書は「紀伊國屋じんぶん大賞2017」第3位となりました。
『戦争まで』(加藤陽子)、『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)に次ぐ順位です。
じんぶん大賞の公式ツイッターでは「大賞・2位が歴史書であった」と記されてましたが、3位の本書も歴史書なんですけどね。


なお、アマゾンで一時的に売り切れても、すぐに補充されますのでお待ちいただければ。
紀伊國屋ウェブストアhontoなど、他のウェブ書店では、送料無料ですぐに発送されます。
また、紀伊國屋やジュンク堂、ブックファースト、あおい書店などのリアル書店にも在庫がありますので、中身を確かめてからご購入いただけます。


    




『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

アマゾンで購入

少年犯罪データベース主宰・管賀江留郎の著作第二弾。
『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか
 冤罪、虐殺、正しい心』


冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!
※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。ぜひ、こちらでお聴きください。




少年犯罪データベース主宰・管賀江留郎の本が出ました。

『戦前の少年犯罪』

アマゾンで購入  
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?
戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!
メールアドレス
kangaeru2001●gmail.com
●を@にして送信してください。





このサイトのリンク経由でアマゾン内の商品をなんでも買うと、当方に数%の手数料が入ります。
データ作成には、国会図書館への交通費やコピー代などの経費が掛かっていますので、その資金に使わせていただきます。
いまのところは赤字で持ち出しをしています。国会図書館の食堂でランチが食べられるようになるのが夢です。




過去記事
カテゴリー
最新コメント
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ