NEXT TO YOU...

主に読書・映画鑑賞した感想書いたり、DTMで作った曲なんかを紹介したりしてます。

その場合の、アンチコミュニケーション

 土曜のち、祝日。今年度の祝日は異様に少ないそうだ。疲弊の年。2016年の方が却って、豊潤だった。

 外をぽやぽや歩いていたら、アパートの入り口の角に気配があった。子どもかと思ったら、猫だった。ずんぐりとして、気だるげに目を眇めた、おっさんみたいな猫。ぴたりと静止して、窺うように視線だけをこちらに向けている。猫、と言えば、家の向かいの駐車場に毛の長い老猫が日向ぼっこをしていて、ふいにでんぐり返ってふさふさの腹を光に晒していた。それでいて、こちらが近づくと警戒の眼差しで凝視してくるのだ。彼らには、何故人々が、猫というだけで寄ってくるのか理解できないだろう。ほとんどの場合、人が近づいてくるのが友好の印だということが、理解できないだろう。
 僕は、警戒心剥き出しの猫が好きだ。それこそが野生の姿だから、というわけではなく、ただ習慣として。刀で斬ったふりをする時代劇よりも、首が飛び鮮血の飛び散る時代劇の方がどことなく安心する、あの感じに似ている。いつの間にか取り交わされた約束のようにあるイメージの習慣、あ、猫……と、あ、斬られて死んだ……、は、似ている。猫の見目が可愛いから、とっとこ近づいて、にゃあにゃあ告げる愛嬌は好き好きだけれど、それはその習慣であって、野良猫におっさんのような視線をもらって安心するのも、これはこの習慣なのだ。
 僕が先日受けた漢検一級の会場に、唯一アラレちゃんみたいな女子小学生がいたのだけど、その子に当然のように話しかける老人がいた。何年生……、今回初めて……、何級持ってるの……。その老人は恐らく、習慣に期待していたのだろう。子どもは皆元気でハキハキしていて、おうと言えばおうで返すと、いう何か。それとも、孫とその影を重ねたか、単にあらん限りの年の差に嬉しくなったか。その女の子は明らかに人見知りの対応をしていた。あ、六年生です……今回は初めてで……二級から飛んできました……。なんだ、と僕は思った。女子小学生も一人の他人だ。女子小学生も一匹の猫だ。物珍しい子どもだから、という理由が、あの老人につきまとっていたのだとしたら、僕はちょっとした倒錯をそこに感じる。警戒を帯びた眼差しを、写真に収めるような好き好きの倒錯。ものの見事なディスコミュニケーション、それを矯めて成立させる習慣の好き好き。だから僕は、せいぜい、猫の警戒を素直に受け取っておきたい。蓼食う虫も好き好きだから。
 

心に残る本三選(SF編)

ブログネタ
今年に入って読んだ面白い本を3つ教えて! に参加中!
ここ最近は読書不精で一ヶ月に3冊かそこらしか読まない生活を送っています(まあ、卒論書いてたというのもあったしね(卒論は無事に提出しました(パチパチ))) 。
せっかくなのでレビューをします。今年に入って読んだ面白い本を3つ教えて!という体裁なので、とりあえず3冊。今年と言わず、9月から今までで。自分は基本的にこういうところでは褒めることしかしないのでつまらないかも(で、後になってから引き合いにだして批判したりする。嫌なタイプ)。

_SX336_BO1,204,203,200_(1)伊藤計劃トリビュート(早川書房編集部編、ハヤカワ文庫JA、2015)
伊藤計劃うんぬん言う前に、まず目につくのがその分厚さ。脅威の731頁。中身はぎっちり日本SFの最先端作家達による、伊藤計劃トリビュート……とはいうけど、別の企画のものをこっちに引っ張ってきていたりしてる人もいるので、言うほど計劃計劃しているわけではない。第一、伊藤計劃まんまやったところで、それではトリビュートである意味無いですし。
そういうわけで、ただの中編SFアンソロジーとしても読める。伊藤計劃を知らなくても読める(伊藤計劃を知らずに買う人がいるとは思えないが)。

全ての中編に言及しているヒマはないので、個人的にお気に入りだった吉上亮の「未明の晩餐」だけ。主人公は死刑囚に最後の晩餐を振る舞う料理人。舞台はサイバーパンク御馴染みの荒廃した無縁都市(サカイ)。神経と一体化した情報端末(ニューラブル・デバイス)によって〈似食〉と言われる、食べずともその食材を味わうことができる技術が発達している。 「わたし」に舞い込んだ依頼はラニー・アモックの最後の晩餐を振る舞うこと。あらゆる政治的な思惑が交差して、どうしても彼が自ら死刑を強く望んだ上で処されなければならない。彼に、食事を通して死を受け入れさせるという任務を受けた「わたし」は、保護した姉弟シズクとジンクロウと共に厨房に臨む。

うまそうなメシの描写とか、SF的アイデアの面白さもそうだけど、何よりも「料理」という芸術が、なおも人を変えうる、という点がとても良かった。技術の発展とその人間の可能性、という二項対立で考えがちだけど、あくまでも人間が向き合っているのは人間の身体でしか無く、そこに踏み込めるのは諸芸術でしかない。ただひたすらに暗雲立ち込める未来ではあるものの、そこが健全な限り人間は健全だ、という希望か、或いはそこが人間存在の最終防衛ラインなんだ、という”実感”を与えてくれる作品でした。

 (2)ヨハネスブルグの天使たち(宮内悠介、ハヤカワ文庫JA、2015)_SX334_BO1,204,203,200_
単行本は2013年。前から読みたかったんだけど、いいタイミングで文庫化してくれたので、ぱっと買ってしまった。

日本製ホビーロボットDX9を巡る短編集。DX9は平たく言えば初音ミク型ロボットで、ある場所では耐久力試験のため何年も繰り返し落下させられていたり、ある場所では改造されて軍用ドローンのように扱われたり、ある時には人間の意識をインストールされる。
例えば、日本で売られた軽トラックが紛争地域に流れていき、機関銃を積まれて即席兵器になったりする。それと同じ具合で、ホビーロボットであるDX9が紛争地域に払い下げられ、イスラームの人々のもとでは顔を削られ声をもぎ取られ(偶像崇拝を禁じているため)、無人哨戒機として使われたり、自爆テロ後の意識の逃げ道となったりしている。そういう紛争とDX9の関り合いはまあ、普通におもしろい。寂れた商店街、閉じっぱなしのシャッターの前で定刻が来ると歌い出すDX9の姿も、ボーカロイドに慣れた人にとっては(ロボットものの作品をよく知る人にとっては?)ぐっと胸を突くものがあるんじゃないかと思う。

アマゾンの評価をぱっと見る限り、「ロワーサイドの幽霊たち」があんまり評判がよくない。僕はこれが1番好きだったんだけど。ここで行われているのは、9.11を再び上演しようというプロジェクト。全ての当事者(犯人、被害者)の人格をDX9に打ち込んでそれぞれの役割を負わせ、ツインタワーを再び建てた上で実際に主犯のDX9が操縦する旅客機を突っ込ませるのだ。本作品は、9.11での犠牲者ビンツの視点で描かれるんだけど、9.11.2001の時系列が突如として2040年台にすっ飛ぶ。ここでの「ビンツ」は、生身の人間ではなくDX9にインストールされた人格であることが発覚する。
定期的に挿入される参考文献の引用と、錯綜する地の文のお陰で読みにくい印象を与えているのかもしれないけど、どう考えてもこれは「リトルボーイ再び」 であって、スペクタクルの上演であるわけ。が、飛行機を繰るモハメドたるDX9は飛行機がビルに衝突するのを回避しようとする。人々は、世界貿易センタービルが倒壊するのを見たがっている。それをDX9が回避しようとする。だが、ビンツである意識がそれを阻止する──、旅客機はビルに突っ込む。
僕たちはその光景にびっくりする。 何故か……僕たちは旅客機がビルに突っ込んで欲しいと思ってしまう。いや、僕だけなのかな。正直に言うと、僕は旅客機がそのままビルに突っ込んでしまうことを望んだ。で、まあその通りになる。それは過去の出来事の反復であるのだから。「こういうことが過去にあった」と再認識するための「祭典」 なのだから、それはそれでいいのかも知れない。というか、いいとは思う。忘れないための儀礼なのだから……、でもやっぱりその驚きは消えない。びっくりする。自分に。過去を物語として上演することの、果てしない前提の多さを突き付ける、鮮烈な作品。
 
(3)ニューロマンサー(ウィリアム・ギブスン、ハヤカワ文庫SF、1986)_SX336_BO1,204,203,200_
今更オブ今更読んだ傑作。未来はぜんぶ、ここにある……といったら言い過ぎか。
「電脳空間」(サイバースペース)、「氷」(アイス)、「冬寂」(ウィンターミュート)、サムライ、「忍者」(ニンジャ)、”さらりまん”。
ニューロマンサー……。
ギブスンは日本に来たこともないのに、この作品を書いたらしい。で、日本に来た時に言った言葉が「君たちは未来に生きている」。どれだけ日本に夢を見ているの……日本はマジで未来なのか……その受け答えが伊藤計劃『虐殺器官』であり『ハーモニー』であったんじゃないかな……。(この作品を読むと三点リーダが自然と増えてしまう……)
 
あらすじ……元カウボーイのケイスは、神経に傷を負って引退状態だったけど、その傷を治すから仕事を請け負え、と言う話が舞い込み、ヤバイ仕事へ引きこまれていく。
とにかくひたすらただひたすらに、クールだ。びっくりするほどにクール。無限に広がる電脳世界を駆け、氷(セキュリティみたいなもの……)をぶち破るカウボーイ。用心棒のサムライ。暗殺者の忍者。人格を上書きされた軍人。独特の方言で話す軌道上の住民。
まあ……この作品で語れることは無限にある。一般に”伊藤計劃以後”と呼ばれるSF作家 の文章から伊藤計劃を見出してしまうのと同じように、あらゆるSF作品からギブスンを見出してしまえる。だから、なんとなく僕がここで何かを言うのは意味をなさないように思える……が。
 
ひとつだけ……。
何故、人はあれほど電脳世界に憧れるのか、入り込みたがるのか……。SAOは何故売れたのか……。ゲームをする子どもに、親は何故焦燥を抱くのか……何故音ゲーマーはキモくみえるのか……。
それは、身体がどうしても身体であるからだ。主人公ケイスは、電脳世界に没入(ジャック・イン)している時の自分の姿を目撃する。「蒼白な顔で痩せ細った姿」「男の、こけた頬には一日分の無精髭が黒々と伸び、顔は汗でぬめっている」。あれほど電脳で華々しい活躍をしていたカウボーイも、現実ではこんなにみすぼらしい姿をしているんだ、とひどく衝撃を受けるポイント。
没入すること。画面を見ていれば分かる、ゲームをしている彼は決して呆けているわけではなく、「ゲームをしている」。「こちらではない空間」に、彼の精神は存在している。 が、彼の肉体はそこにある。決してそこから逃れることはない。電脳に身を委ねる身体は、呆れるほどに間抜けなのだ──だから、電脳の表す意味を読み取れない人は、彼の身体を見て不安に思うし気持ち悪がる……その不気味さを理解するゲーマーは、完全な電脳への没入を熱望する……自分の身体を0と1の連なりに近づけるべく。
もちろん、電脳空間など夢想にすぎない。身体は身体でしかありえない。でも、ある種の身体を脱ぎ捨てるフィクションを、僕みたいなゲームに親しい人間は求めずにいられないんじゃないか……。剣と魔法。閃光と脈動。そして、物語を。
 
 
もはや作品の中身ではないものもあるけど、こんなところで。
全部SFになってしまった……しかし、いまの興味の範囲だとどうしてもSFになってしまう……。
 

IF MY CHILDHOOD....



昨年の夏(ここ大事)作ってそのままだったものを、引っ張り出してきてアレンジ。
地味に3声部にしてみたけど、全然聞こえないので次の歌モノからは廃止しました。オケなしで聞いてみると、UTAU独特の味があって良かったんだけど、ノイズが強くて単体で使うのも難しそう。
 

lyrics-------------
その夢 見つけたの いつのこと?
まだ小さかったよね 君も子どもだったから
でもね いまの僕は そうでもないんだ
夢の面影は 夢のうちに

やがて歌は憧れの色を思いだす
僕のかたちをした綺麗な雲は
もう一度 何度でも って
空に吹かれていた

よみがえる あの日の未来
どんな表情(かお)で 僕は生きていますか
夢を潰して 捨てた自分は
ちゃんと報われて いるのでしょうか

僕の夢は 切れたかもしれないが
生きる歌は ちっとも切れやしない

見違える あの日の想い
こんな気持ち 僕に似合ってますか
夢を歌って 生きた自分は
きっと報われて いるのでしょうね

どこまでも どこまでも……

僕も いつかの 歌のように 

爽やかな曲調に哀愁漂う詞をやってみたかったんですが、人によって受け取り方が変わりそうな詞ですね。 

犬を飼ったら「オンリー」って名前つけようと思った

 朝という時間は特別で、例えば「夜更かし」と言うとだらしなさが伴うが「夜明かし」と言うと達成感が伴う。友達と夜更かししてゲームをしたというよりも、ゲームで夜明かしして朝を迎えた、という方がなんだか格好がつく。サービス残業は白眼視されるが、早朝出勤は何故かもてはやされる。日が昇ったら働き、日が沈んだら帰って寝る(=働かない)というアンチ夜行性(ちなみに昼行性という。口に出すと完全に響きが中高生)な人間の本質(決して自然ではないと思うけど)的な価値観というものが伺えます。まあ、ここまではテキトーな話。
 そういうわけで、おおよそ十年前、厨房であった僕はオンラインゲームにハマっていた(REDSTONEっていまもサービスやってるの、ってググったらみんな顔が変わってるし、レベルのインフレが尋常じゃなかった)。ネトゲというものはイン時間がそいつの地位を決めるわけで、例えレベル上げをサボろうと常にオンしてギルド集会場や西の溜まり場にいつも居れば知名度が得られるし、そのツテでいろんなアイテム貰えたりするので、求められるのは純粋な強さではない。社会性だ。社会性を保つには、その社会に長くいるしかない。あそこには会社(ギルド)もあったし経済もあったし祭りもあったし(運営に怒られたやつ)、本当に文化があったといって良い。仮想世界ではなく、マジモンの現実としての文化です。が、そこに国家はないので、マジモンの法が入り込めなく、治安は悪い。身体が無いので攻撃とか恫喝とかは意味をなさないが、詐欺師とかふつうにいる。定期的に金をせびってくるフレンドとか、不快な輩もふつうにいる。そういう軽犯罪すらもひとつの戦術として機能するゲーム社会というわけで。
 何の話かというと、そういうゲーム社会にぞっこんだった自分は、なんとか地位を得ようと(それに伴う享楽を得ようと)なるべくイン率を保っておきたかった。が、夜は10時に寝るべしという親の調教のせいで、それ以降の時間帯にインできなかった。そういうわけで、当時の僕は最近はやりの朝出勤というやつを超先取りして、10時寝4時起きで、早朝にインするという貪欲さを発揮し始めた。夜4時にゲームをやっているのと、早朝4時にゲームをやっているのでは、後者のほうが圧倒的に印象が良いので、親もなにも言わなかった。もちろん朝四時なんて誰もいないので狩りの効率は悪いんだけど、たまにクッソ強い人が手伝ってくれて楽しかった思い出がある。
 で、そんなネトゲの思い出を伝えるために書いているわけではなく、それほどまで没頭していたネトゲからどうやって離れていったかという話に繋がっていくわけです。だって、朝6時起床ならともかく、朝4時起床は不健康な香りがするでしょう。それか、人生が黄昏を迎えているような香りが。それくらいハマっていたのです。
 で、そんな生活を決定的に打ち破るような劇的な話が別にあったわけではなく、友達にアニメを勧められて観たらハマって、その原作のラノベを買ったところからラノベハマり(BADハマりみたい)が始まり、ネトゲに課金している余裕がなくなって自然に離れていったわけですね。人生はシンプルにできている。ちなみに、ログインしなくなる二日前くらいに所属していたギルドの副ギルマスに任命されたんだけど、あの後あの団体はどうなったんだろう。
 以上、ラノベ原体験のコーナーでした。ラノベ的内容よりも、明らかにネトゲの話の方が長いのはどうかと思うが、思ったより膨らむ話がなかった。

 脈略がないようで脈略があるんだけど、スーパーダッシュ文庫が廃刊になったことを知らなくってびっくりしてたら、ダッシュエックス文庫になって帰ってきていた。ラノベ界隈は完全にKADOKAWAの独擅場で、ラノベといえば電撃文庫、ファンタジア文庫っていう感じがある。とはいえ、最近では電撃読むよりも、ハヤカワ文庫を始めとするSFの方がラノベっぽくなってきてるし圧倒的に面白いので、もはやラノベというものが何なのか分からない。『狼と香辛料』とか『キーリ』から出発した身からすると、ハルヒに始まる俺一人称のやる気なさげ自称普通のどこにでもいる男子高校生主人公の語りはライトノベルというより、ノベルっぽいライト(?)だと思うんだけど、どうなんでしょう。「受け止め方は人それぞれ」というなんでもござれの斬鉄剣みたいな言葉もあるけど、僕としてはこのままいくのであればライトノベル市場なんて萎んでいっても構わず、軽めの筆致な作品はメディアワークス文庫みたいなところに全部収められてくれればいいとさえ思っている。

 そういうわけで、エックス文庫の 『世界で2番目におもしろいライトノベル』(石原宙さん)を読んで思い出したのが上記の長いくだり。ここまで全て前置きです。書いているこっちですら絶望を感じるのだから、読んでいる側はさらなる絶望を抱いていることと思われる。
 あらすじは、例によって自称平凡な一般人のダウナーな感じの俺一人称男子高校生が、魔法少女、勇者、学園最強の異能、異世界の救世主と出会う。みんな普通の生活に帰りたがっているが、持った能力のせいでそういうわけにもいかないので、一番主人公に向いてない主人公に全部押し付けて日常に帰りたーい、という旨のお話です。
 世界で2番目におもしろいライトノベルかどうかは分かりませんが、少なくともこの作品自体は僕個人のライトノベル遍歴でランキングした中でも下から数えた方が良さそうなものだけど、無論、そういう意味ではなく、僕にとっての『狼と香辛料』が世界で1番であるとしたら、という話であり、そこから「わたし」が始まっているのであれば、そこに付け加える「わたし」の物語は2番目だろう、というとても真摯で謙虚なお話です。
 第一印象としては、未だにラノベ主人公界隈はみんな平穏な日常に帰りたがっているのね。仲良しこよしではないが、そこまで大変じゃない日常っていう。普通が1番!というスタンスは、もはやライトノベルに於いてはもはや普遍のプロトコルなんですね。当のラノベ作家が「普通が1番」なんて思っているわけがないと思うんですが、その前提から全国の中高生のキッズ達に自分の伝えたいことを積み上げていく手法というか。最近のラノベは全然読まないのでわからないですが。
 ディテールはともかく、展開こそベタなラノベです。出会う、葛藤する、解決する、の三点セット。その辺の好悪はどうあれ、ともかくも自らの原体験に救われる、という物語の運びは好きです。江戸時代の最も有名な学者である本居宣長先生は賀茂真淵の万葉集論を読んで「開眼した!!!!」と速攻で賀茂真淵へ弟子入りしにいったそうですが、そういう人生観をガラっと変えてしまった経験がいつまでも自分のうちに残り続けるのは間違いないですからね。残念ながら僕に狼耳(というより獣耳)属性は残らなかったが。
 だから、タイトルの「2番目」という言葉にとっても爽やかな色合いが帯びるんですね。爽やかさ、純朴さ、或いは情熱というか。「最終回」を拒むことがこの作品に通底するテーマだと思っているのですが、故に2番目というのは謙遜であり傲慢でもある。前述の続きですが、真淵先生に無事弟子入りすることのできた宣長先生は、師匠をあまりにも論破してしまうので後々反りが合わなくなっていきます。まあ、師弟関係なんてそういうものです。1番目は越えられるためにあるのです。だがこの作品では、僕にとって私にとってあんたは永遠のナンバー1や……というとってもキャッチーなところへ収まるわけです。
 まあ、その理論で言えば、僕自身という物語なんぞ世界で1000番目くらいになってしまうのだけど。ナンバーワンじゃなくてオンリーワンというけど、そんな言葉にすがらないと人間やっていけなくないですか。

わたし「ハロー!そして、グッドバイ」

劇場版「ハーモニー」を見てきました。二度目。
 いつもと違ってネタバレしないように書きますので安心してください。その代わりに、見ないとわからないような内容になってます。本末転倒ですね。

 正直、これほどまでに伊藤計劃の文体がそのまんま映像化されているとは思っていたなかったので、すごいびっくり。「屍者の帝国」は伊藤計劃を引き継いだ円城塔を引き継いだ牧原亮太郎監督の作品のようだったのに、「ハーモニー」は伊藤計劃そのものだった。
 例えば、沢城みゆきによるトァンのモノローグとか、伊藤計劃の文体の童貞っぽさ(これは黒丸尚に失礼にあたるのか)がたまらなく出ているし、ミァハがトァンのおっぱいを暴力的に揉みしだくシーンとか、伊藤が影響を受けたスピルバーグの「宇宙戦争」冒頭のキャッチボールを連想させる。装甲車が延々と広がるひまわり畑を蹴散らしていくシーンとか、ミァハがトァンとキアンを侍らせて読む本が安吾「堕落論」とかいうあたりの、そう、それだよそれ感(何様なんだ)(ちなみに原作で引用されているのは「不良少年とキリスト)。オーグメントのうざったるい感じもよーく出ているし、マネキンのように同じ見た目の人々もうまく表現されてる。というか、露骨過ぎてやり過ぎな感じも否めないが。あとは延々と人々が殺したり殺されたり自殺したり死体が転がっていたりする映像が垂れ流されるシーンとか見てて「映画だ……」とか思ったし、個人的にフーコーを読むきっかけになった「それ、誰かの言葉」「ミシェル・フーコー」のくだりもバッチリ。ラストシーンがラテン語の合唱で〆られているのも素晴らしい。っていうか、合唱うますぎ。 オペラ歌手32人って。伊藤計劃を映画化するんだから、確かにそれくらいやらないといけないけど、それにしても。エンドロールがあのまま合唱で終わってくれればよかったな、とか思ってしまうほどのクオリティ。ryoさんには是非ともあんな結末にした伊藤計劃を恨んでいただきたい。
 あとあのえげつない流血量はちょっとしたギャグだ。喉切り裂いたならともかく、ペンで目玉を突いて噴水みたいな流血はどうなんだろう。ハッピーツリーフレンズか。 それと、ミァハの幼少時代がすっげー可愛くてびっくり。そのままごちうさに出てきそう。他にも色々と思ったことがあるが、キャパオーバーなのでこの辺に。

 ミァハに「堕落論」を読ませておいて、トァンの最後のシーンの台詞はどうなんだ、って思うけど、原作とは真逆のベクトルの動機にしえたのって、実はスゴイことなんじゃないか。 「ヤロウ、ぶっ殺してやる!」と叫ばせるのは殺意として楽だし、ある意味原作『ハーモニー』では方向性としてベネットちゃん的動機であったものを、劇場版では物語の筋はそのままに、別の根拠へと変えてしまうこと、しかもなかなか理解し難く再現しにくいエモーションを、ガッチリとハーモニーの輪の中に収めてしまうのは、なかなかパッと思いついてできることじゃない。「堕落論」の趣旨から言えば、こらこらこらこらといったところですが、あんな副作用が出るとあってはそんなことも言っていられない。なんといっても最後の「いま、ここ」の瞬間、現在の価値評価を最大にしておける最後のチャンスですから、この瞬間の永遠を目指すにあたっては全く悪くはない選択なんだなあ(いや決して良くはない行為だけど)。そういう最後の非合理性を現出させることにあっては、原作以上の何かを見せることに成功しているんじゃないか。ちょっとロマンチックすぎるきらいはあるけども。どちらがより人間的なんですかね。復讐と、愛って。

 話は変わって、「ガラスの花と壊す世界」ってここさけの時から劇場広告やりまくってるし、深夜アニメ見ててもCMやりまくってるせいで、もう全編見た気になっちゃってるんだけど、これって仮想世界でのお話なのね。「楽園追放」をもっと悲観的にした世界というか、世界のバックアップそのものが舞台になっている。「マトリックス」的な。これもサイバーパンクなのか、ただのスペースオペラなのかわからないけど、この広告映像を見てたら、そういや伊藤計劃って「電脳空間」とか一切ネタにしてなかったなあ、と思った。サイバーでパンクなお人なのに。
 もちろんそれには理由があって、ちょっと長くなるが引用。制御された現実とは何かという、伊藤計劃がMGS2について語った2002年のテキスト。
 この世界が仮想現実だと分ったとき、ネオはモーフィアスに導かれて、もうひとつの「現実」へ脱出した。この世界が夢に過ぎない、とわかったとき、あたるは現実の友引高校に戻ってきた(それがまた、夢に過ぎないとしても)。しかし、雷電たちには脱出する異世界は存在しない。なぜなら、彼らが生きている「現実」こそが仮想現実になってしまい、逃れる「他の世界」は存在しないからだ。タマネギの皮のようどこまでいっても夢、というようなことすら許されない(アヴァロンはそれだけど)。この唯一無二の現実こそが、そのまま仮想現実になってしまった日、それが4月30日、MGS2の物語なのだ。
「すべてが数えられ、予測され、制御しうるとき、その世界とは一体なにか」  
という仮定を突き詰めていった結果、MGS2はこういう結論に達する。  
それは仮想現実だ、と。  
人々はすでに仮想現実の中に生きている、という認識。現実そのものが仮想的であるというヴィジョン。「この世界は夢(仮想現実)かもしれない」なんていう、ある種の逃避みたいな話とは違う。「現実などもともと存在しないのだ」という1000回ぐらい使われたフレーズとも違う。  この世界が仮想現実であっても、それが現実であること、どこにも逃げ場のない唯一無二の現実であること、そして、それでもなお仮想現実でしかないこと。
この絶望が、MGS2をどこまでも染め上げている。 

 つまるところ、あらゆるものが情報化されて読解可能なものとなり、それを制御しようと操作が加えられた時点で、世界というものは仮想的な空間になる、ということ。だって、そもそも「情報化」という時点で、その「もの」と「数値」とか「文字列」とかの関係性っていうものは、「仮定」されているわけなんだから。自明でないんだから。
 だから、別にわざわざ電脳空間とか仮想現実とかを考える必要もなく、高度な技術によって、例えばナノテクとかによって、情報化された社会というものを想定してしまえばその時点でそれが仮想現実なわけで、その「ゲーム」的な環境の中で、人々がどうやって「次の言葉」を見つけていくか、と試みていくのが伊藤計劃の賭けだったわけで。SFなんて所詮、電脳とかコンピューター上でわちゃわちゃやってるエンターテイメントなんだよね、って考えてしまうよりは、「いま、ここ」の現実が仮想化しつつある、という風に考えたほうが、よっぽど賢明なのです。そもそもの話、実はそうやって「仮想化」しつつある現実というのは、IT革命以前の大昔っからある。それは「監獄の誕生」であったり、「性の歴史」だったりで、つまり規律だとか生権力だとかの用語で、ミシェル・フーコーがその一側面を分析してしまっているんですね。例えば規律って、人々を情報化して訓育して制御(従順な身体を生産)しようとする技術だ。だから、上で引用した話を敷衍すると18世紀から「仮想現実」化する試みはあったんだ、とかいう途方も無い話になります。
 もちろん、すべてのものが情報化されて制御されるだなんてあり得ない話で、少なくとも僕が生きている間はないでしょう。というか、無理でしょう。実際にそんなことがないのであれば、別にほっといて良いんじゃないか、って思われるかもしれませんが、全然良くないですよ。結果だけ見れば良いのかもしれませんが、『ハーモニー』とか『虐殺器官』のラストって明らかにそういう意識を突くような書き方をしています。批評家の岡和田晃さんみたいな言い方をすれば、「アイロニカル」な態度に読者を突っ込むような(追記:「アイロニー」思っていたのと違ったのでここの使い方は誤りでした)。
 だから、仮想空間は現実世界の引き写しだ、というだけでは、伊藤計劃的には全然足りないんですね。現実世界は仮想現実である、と言い切らなければ(この書き方もいくつもの留保が必要な表現ではありますね)。 
 
 収集がつかなくなった上に、この文量を卒論で書けていたら、と考えて死にたくなりました。とりあえず、いつになるか知りませんが劇場版「虐殺器官」を楽しみにしていよう。