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今年に入って読んだ面白い本を3つ教えて! に参加中!
ここ最近は読書不精で一ヶ月に3冊かそこらしか読まない生活を送っています(まあ、卒論書いてたというのもあったしね(卒論は無事に提出しました(パチパチ))) 。
せっかくなのでレビューをします。今年に入って読んだ面白い本を3つ教えて!という体裁なので、とりあえず3冊。今年と言わず、9月から今までで。自分は基本的にこういうところでは褒めることしかしないのでつまらないかも(で、後になってから引き合いにだして批判したりする。嫌なタイプ)。

_SX336_BO1,204,203,200_(1)伊藤計劃トリビュート(早川書房編集部編、ハヤカワ文庫JA、2015)
伊藤計劃うんぬん言う前に、まず目につくのがその分厚さ。脅威の731頁。中身はぎっちり日本SFの最先端作家達による、伊藤計劃トリビュート……とはいうけど、別の企画のものをこっちに引っ張ってきていたりしてる人もいるので、言うほど計劃計劃しているわけではない。第一、伊藤計劃まんまやったところで、それではトリビュートである意味無いですし。
そういうわけで、ただの中編SFアンソロジーとしても読める。伊藤計劃を知らなくても読める(伊藤計劃を知らずに買う人がいるとは思えないが)。

全ての中編に言及しているヒマはないので、個人的にお気に入りだった吉上亮の「未明の晩餐」だけ。主人公は死刑囚に最後の晩餐を振る舞う料理人。舞台はサイバーパンク御馴染みの荒廃した無縁都市(サカイ)。神経と一体化した情報端末(ニューラブル・デバイス)によって〈似食〉と言われる、食べずともその食材を味わうことができる技術が発達している。 「わたし」に舞い込んだ依頼はラニー・アモックの最後の晩餐を振る舞うこと。あらゆる政治的な思惑が交差して、どうしても彼が自ら死刑を強く望んだ上で処されなければならない。彼に、食事を通して死を受け入れさせるという任務を受けた「わたし」は、保護した姉弟シズクとジンクロウと共に厨房に臨む。

うまそうなメシの描写とか、SF的アイデアの面白さもそうだけど、何よりも「料理」という芸術が、なおも人を変えうる、という点がとても良かった。技術の発展とその人間の可能性、という二項対立で考えがちだけど、あくまでも人間が向き合っているのは人間の身体でしか無く、そこに踏み込めるのは諸芸術でしかない。ただひたすらに暗雲立ち込める未来ではあるものの、そこが健全な限り人間は健全だ、という希望か、或いはそこが人間存在の最終防衛ラインなんだ、という”実感”を与えてくれる作品でした。

 (2)ヨハネスブルグの天使たち(宮内悠介、ハヤカワ文庫JA、2015)_SX334_BO1,204,203,200_
単行本は2013年。前から読みたかったんだけど、いいタイミングで文庫化してくれたので、ぱっと買ってしまった。

日本製ホビーロボットDX9を巡る短編集。DX9は平たく言えば初音ミク型ロボットで、ある場所では耐久力試験のため何年も繰り返し落下させられていたり、ある場所では改造されて軍用ドローンのように扱われたり、ある時には人間の意識をインストールされる。
例えば、日本で売られた軽トラックが紛争地域に流れていき、機関銃を積まれて即席兵器になったりする。それと同じ具合で、ホビーロボットであるDX9が紛争地域に払い下げられ、イスラームの人々のもとでは顔を削られ声をもぎ取られ(偶像崇拝を禁じているため)、無人哨戒機として使われたり、自爆テロ後の意識の逃げ道となったりしている。そういう紛争とDX9の関り合いはまあ、普通におもしろい。寂れた商店街、閉じっぱなしのシャッターの前で定刻が来ると歌い出すDX9の姿も、ボーカロイドに慣れた人にとっては(ロボットものの作品をよく知る人にとっては?)ぐっと胸を突くものがあるんじゃないかと思う。

アマゾンの評価をぱっと見る限り、「ロワーサイドの幽霊たち」があんまり評判がよくない。僕はこれが1番好きだったんだけど。ここで行われているのは、9.11を再び上演しようというプロジェクト。全ての当事者(犯人、被害者)の人格をDX9に打ち込んでそれぞれの役割を負わせ、ツインタワーを再び建てた上で実際に主犯のDX9が操縦する旅客機を突っ込ませるのだ。本作品は、9.11での犠牲者ビンツの視点で描かれるんだけど、9.11.2001の時系列が突如として2040年台にすっ飛ぶ。ここでの「ビンツ」は、生身の人間ではなくDX9にインストールされた人格であることが発覚する。
定期的に挿入される参考文献の引用と、錯綜する地の文のお陰で読みにくい印象を与えているのかもしれないけど、どう考えてもこれは「リトルボーイ再び」 であって、スペクタクルの上演であるわけ。が、飛行機を繰るモハメドたるDX9は飛行機がビルに衝突するのを回避しようとする。人々は、世界貿易センタービルが倒壊するのを見たがっている。それをDX9が回避しようとする。だが、ビンツである意識がそれを阻止する──、旅客機はビルに突っ込む。
僕たちはその光景にびっくりする。 何故か……僕たちは旅客機がビルに突っ込んで欲しいと思ってしまう。いや、僕だけなのかな。正直に言うと、僕は旅客機がそのままビルに突っ込んでしまうことを望んだ。で、まあその通りになる。それは過去の出来事の反復であるのだから。「こういうことが過去にあった」と再認識するための「祭典」 なのだから、それはそれでいいのかも知れない。というか、いいとは思う。忘れないための儀礼なのだから……、でもやっぱりその驚きは消えない。びっくりする。自分に。過去を物語として上演することの、果てしない前提の多さを突き付ける、鮮烈な作品。
 
(3)ニューロマンサー(ウィリアム・ギブスン、ハヤカワ文庫SF、1986)_SX336_BO1,204,203,200_
今更オブ今更読んだ傑作。未来はぜんぶ、ここにある……といったら言い過ぎか。
「電脳空間」(サイバースペース)、「氷」(アイス)、「冬寂」(ウィンターミュート)、サムライ、「忍者」(ニンジャ)、”さらりまん”。
ニューロマンサー……。
ギブスンは日本に来たこともないのに、この作品を書いたらしい。で、日本に来た時に言った言葉が「君たちは未来に生きている」。どれだけ日本に夢を見ているの……日本はマジで未来なのか……その受け答えが伊藤計劃『虐殺器官』であり『ハーモニー』であったんじゃないかな……。(この作品を読むと三点リーダが自然と増えてしまう……)
 
あらすじ……元カウボーイのケイスは、神経に傷を負って引退状態だったけど、その傷を治すから仕事を請け負え、と言う話が舞い込み、ヤバイ仕事へ引きこまれていく。
とにかくひたすらただひたすらに、クールだ。びっくりするほどにクール。無限に広がる電脳世界を駆け、氷(セキュリティみたいなもの……)をぶち破るカウボーイ。用心棒のサムライ。暗殺者の忍者。人格を上書きされた軍人。独特の方言で話す軌道上の住民。
まあ……この作品で語れることは無限にある。一般に”伊藤計劃以後”と呼ばれるSF作家 の文章から伊藤計劃を見出してしまうのと同じように、あらゆるSF作品からギブスンを見出してしまえる。だから、なんとなく僕がここで何かを言うのは意味をなさないように思える……が。
 
ひとつだけ……。
何故、人はあれほど電脳世界に憧れるのか、入り込みたがるのか……。SAOは何故売れたのか……。ゲームをする子どもに、親は何故焦燥を抱くのか……何故音ゲーマーはキモくみえるのか……。
それは、身体がどうしても身体であるからだ。主人公ケイスは、電脳世界に没入(ジャック・イン)している時の自分の姿を目撃する。「蒼白な顔で痩せ細った姿」「男の、こけた頬には一日分の無精髭が黒々と伸び、顔は汗でぬめっている」。あれほど電脳で華々しい活躍をしていたカウボーイも、現実ではこんなにみすぼらしい姿をしているんだ、とひどく衝撃を受けるポイント。
没入すること。画面を見ていれば分かる、ゲームをしている彼は決して呆けているわけではなく、「ゲームをしている」。「こちらではない空間」に、彼の精神は存在している。 が、彼の肉体はそこにある。決してそこから逃れることはない。電脳に身を委ねる身体は、呆れるほどに間抜けなのだ──だから、電脳の表す意味を読み取れない人は、彼の身体を見て不安に思うし気持ち悪がる……その不気味さを理解するゲーマーは、完全な電脳への没入を熱望する……自分の身体を0と1の連なりに近づけるべく。
もちろん、電脳空間など夢想にすぎない。身体は身体でしかありえない。でも、ある種の身体を脱ぎ捨てるフィクションを、僕みたいなゲームに親しい人間は求めずにいられないんじゃないか……。剣と魔法。閃光と脈動。そして、物語を。
 
 
もはや作品の中身ではないものもあるけど、こんなところで。
全部SFになってしまった……しかし、いまの興味の範囲だとどうしてもSFになってしまう……。