2020年03月22日

かんかん森のコモンダイニングにあるテーブル9台は、ときどき表面の手入れが必要。サンダーで磨いて、蜜蝋ワックスを塗ります。

本当は年に一度ぐらい行うといいのですが、今回はちょっと久しぶり。DIYの得意な、ハウスメンテナンス係のTさんのリードで行いました。

電動サンダーは2台。コモンテラスで、パワーのある男性が主に担当。表面の汚れやシミが、だんだんきれいになっていきます。

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その後は、さらに汚れをサンドペーパーやヘラで落としてから、蜜蝋ワックスを塗っていきます。以前に塗ったワックスの残りを落とすのに、調理用のヘラがとっても役にたちました!

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脚やサイドもやって、今回は終了。2週間後に再び同じことをして、完了の予定です。きれいになったらしばらくは、赤ワインを飲むのにとっても気を使います。しずくを落としたらすぐシミになってしまうので!



(22:41)

2020年03月07日

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昨年の秋から菜園テラスで育てた9本の大根が、秋田の伝統的な漬物「いぶりがっこ」になって戻ってきました。

かんかん森でのいぶりがっこ作りは3年目。
台風続きで種まき時期を逃した一昨年、大規模修繕で日当たりの悪い北側にプランターを移動しないといけなかった昨年は大根が育たず、なかば無理やりいぶりがっこにしたものの、その出来はまるでヤマゴボウのようでした…。
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これが去年。大根も3本だけでさみしい。
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こちらがヤマゴボウにしか見えない初年度のもの。

今年は日あたりのいい菜園テラスで、これまでになく大きく育ちました。 IMG_3349 太い! FullSizeRender 長い!
2つのプランターで生育状態に差が出た理由は不明です。プランターに入れた土の違いでしょうか?
これを秋田に送っていぶりがっこにしてもらいました。

いぶりがっこの作り方
  1. 葉を落としてきれいに洗った大根をいぶして水分を抜く
  2. 砂糖、塩、ぬかに2か月ほど漬け込む
  3. 樽から取り出してぬかを落とす
FullSizeRender いつになく雪が少なかったという角館で、樽上げとパック詰めをしてきました。 IMG_3561 FullSizeRender 真空になったものがこちら。ちゃんと「いぶりがっこ」になってる!(感涙) FullSizeRender カナダから来ていたKさん、Dさん、Fくんのフェアウェルパーティでお披露目。「今年はゴボウじゃない!」とお褒めの言葉(?)をいただきました。
リンゴの木でいぶした大根は本当に香りがよくておいしいので、かんかん森にもファンがたくさんいるのです。
ガーデニング係のみなさん、来年もぜひお付き合いください♪

Special Thanks 三春と歩のがっこやさん(Facebook)/いぶりがっこう(Facebook)


(17:51)

2019年12月01日

かんかん森The Interview第23回はこの8月に誕生した息子さんと妻の3人で暮らすHさんのご登場(妻のRさんのインタビューは第6回で実施済み)。以前のHさんはとにかくお仕事が忙しいようで、あまりコモンスペースにも来られず、住人との交流にもそれほど関心がない感じがしていました。ところが、お子さんが出来てからの変貌ぶりといったら!かんかん森でも話題になるほどです。インタビューも快く引き受けてくださり、いざお話してみると、なんとまあ、話が合うじゃない!そのガッツあるチャレンジャーな生き方や父親になってからの心境の変化など、いろいろ語っていただきました。



聞き手:ご出身はどちらですか?

Hさん:埼玉県新座市です。道路を渡れば東京都東久留米市なんですけど。19歳で東京でのひとり暮らしを始めました。

聞き手:大学で東京に?

Hさん:いえ、実は大学は24歳の時に受験勉強をして25歳で入学しました。その後、4年で卒業し29歳で新卒として就職活動をしたんです。

聞き手:お〜、結構、変則的ですね!その辺の事情をお聞きしてもいいですか?

Hさん:いいですよ。高校卒業後、アルバイトをしている間にすぐ就職が決まって働き始めまして―。

聞き手:高校時代は大学に入ろうという計画がなかったんですか?

Hさん:全然なかったです。大学に行くという世界をあんまり知らなかったというか―。20歳のときに父が突然ガンを患い、入退院の繰り返しで、自分も看病したりしていたんですが、数年後に亡くなりました。また、その頃に勤めていたゲームセンターの運営やゲーム機の流通をしている会社が潰れてしまい、この先どうしようか考えました。その際、高卒の24歳というのはこれから生きていき難いのではと思ったんです。これはいったん、勉強したほうがいいだろうと。中途半端にどこかに就職するより、大学に行って足りない知識を補ったほうがいいと。それで、24歳で受験勉強して25歳で合格しました。

聞き手:お〜、強い社会に出て荒波に揉まれながら勉強が必要だと自ら悟り、受験勉強して大学に入るって強いですよ。

Hさん:自分で判断というところをちょっと美化して話すと(笑)、当時、大学に行くといってもお金に余裕があるわけでもなければ、勉強ができるわけでもない。そんなときにそんな発言をすること自体、みんな反対してくるだろうと読めていました。でも、信頼できる古くからの友人3人だけは諸手を挙げて賛成し応援してくれました。受験勉強も日々J書店と図書館に行ってました。

聞き手:ケエ〜!?すごい!

Hさん:本を買うお金も節約したかったので。まして、予備校に通うお金もないし。

聞き手:いや〜びっくり。本屋さんで毎日受験勉強とは!

Hさん:図書館も含めて結構読みました、でも、20冊くらい読んでも買うのは1冊。よろしくないけど、せっぱ詰まっていたので―。その代わり今は本を買うならその本屋でしか買っていないですよ(笑)。

聞き手:いい話!その節はお世話になりましたって気持ちですね。

Hさん:受かってから新年会で同級生に会ったときに「4月から大学に行くんだよね」と言ったら、みんなから「えっ??」と言われ、「受かるわけないじゃん」「なに考えてんの?」「無理でしょ?!」などと言われました。

聞き手:それは、まあびっくりしますよね。

Hさん:すごく疑問の声を上げられたんで「いやいや、『行こうかな』ではなくて、行くという決定事項を伝えてるんで。もう4年間(大学に)行く道筋もついているんだよ」と伝えました。でもすんなり理解してもらえなかった―。

聞き手:すんなり飲み込めなくて、まずは無理でしょと決めてかかられますよね。

Hさん:そのとき、偏った意見かもしれないけど、ちょっと付き合う人間は選んでいかないといけないなと思いました。多くは反対してくるじゃないですか、自分の決断に。

聞き手:そんなん無理だからやめろとか、卒業したら29じゃないかとかね。

Hさん:そう。とにかく反対しか言ってこない。唯一、先に挙げた3人の親友たちは「いいじゃん!」と言って後押ししてくれました。確かに、ちょっと無理のある計画ではあったんですけど、協力してくれる人はいて有り難かったです。たいてい、新しいことをやったり、人と違うことをやるときは反対されるんで―。

聞き手:反対されるというのがポイントだと思います。「反対されることをやる」ってことだと思います。事業でも何でも成功させた人はよく言いますよね、「みんなが反対したからやった」と。人は普通安心できることにしか同意しないでしょう。反対している人たちのバックグラウンドを客観的にみたほうがいいですね。

Hさん:そうですね。今ここに暮らす経緯にいたったのも、大学を卒業してひとり暮らしにちょっと飽きて、シェアハウスに行ってみようかなと思ったのが始まりです。まだ、『テラスハウス』というテレビ番組が放送される前で―。

聞き手:えっ、寺〜?

Hさん:いえ、テラスハウス(笑)。これはシェアハウスに男女が住んで恋愛するというドキュメント的なテレビ番組で、登場人物たちは結構おしゃれなところに住んでいるんです。その番組が放映されてからシェアハウスが広まり、「おしゃれ」という見方をされるようになったと思います。それ前まではシェアハウスというと、「下宿」、「貧乏」、「ちょっと気持ち悪い」、などというイメージを持たれていましたから。なので、そういった時分に、シェアハウスに住んでいると言うと、往々にして「なにそれ?」と驚かれ、反対されていました。でも、当然、シェアハウスには当時から利便性があって、4人で楽しい暮らしをしていました。2,3年そこで暮らしてから、次に40人のシェアハウスに引っ越し、1年経ってから今度は180人のシェアハウスに住んで、それから今のかんかん森に移りました。引越そうとするたびに周囲から反対されて、つくづく新しいことをやろうとするとネガティブなことを言ってくる人って世の中には多いなと思いましたね。でもそれを聞いていたら何も始まらないでしょう。

聞き手:「なにそれ?」って反対する人って、すべて想定の範囲内で収まるところで毎日生活しているんですかね?それ面白く無くないかなって思いますよね。

Hさん:そうですね。人のチャレンジは応援したほうがいいかなと思います。

聞き手:同感!それにしてもHさんは新しいことに挑むことに抵抗ないんですね。

Hさん:全然ないです。でも、自分の中ではプラスマイナスを考えて、プラスが大きいなと判断してから飛び込んでますよ。

聞き手:そう、新しいことに挑戦するからって、別に考えなくやっているわけではないんですよね。

Hさん:はい、でも回りから見たらマイナスしか見えないんだろうなと。

聞き手:でも、少なからず応援してくれる人達はいたんですね。

Hさん:そうですね。応援してくれる友達が3人いたらOKかなと思っています。全員に応援してもらわなくていい。2年前に転職しようとしたときも、前職の上長や同僚の6割くらいから反対されました。

聞き手:そのお仕事はIT系でした?

Hさん:はい。IT通信の営業会社。上場している結構大きい会社で、7年ほど在籍しました。

聞き手:どうして転職しようと?

Hさん:その会社には、同じような実績や能力の社員が複数いたら若いほうに任せる社風があるんです。年を取るほど、「支援するから独立していいよ」という雰囲気になっていく。4,50代は執行役員になるか、あるいは独立するか岐路に立たされるわけです。自分もいろいろチャンスをもらって経験を積んでいましたが、40歳近くになり、どうしようかなと考えていました。そのときやっていた事業にあまり興味を持てなかったのもありますし、やりたいことをやりきった感がありました。そんなとき、たまたま友人から「こんな会社知ってる?」と連絡がきてサイトを見たら、自分が好きな分野の会社で、偶然、求人募集していました。これはいけるんじゃないかなと思って、面接を受けたらとんとん拍子で決まって。上場企業を40歳で辞めて、イベント系のベンチャー企業に行くという決断ですから、当然、妻は心配し、結構話し合いました。前の会社はいろんな意味で知名度の高い、社員はビジネス力を磨ける会社で、最近でも商談で名刺交換したときに前職はなにかという話になって、「●●社に7年いました」と言うと、「あの会社に7年もいることができます?!」と驚かれたくらい、つまり、ブラックな企業(笑)。「あそこに7年もいたらどこでもやっていけますよね!」といわれるような、ものすごいド根性の体育会系企業なんです。

聞き手:実際それだけ大変でした?

Hさん:そうですね。多分、日本で一番有名なブラックですよ。実際に相当きつかったんですが、仕事をする力、交渉力などはつきました。すごく勉強させてもらったおかげで、それが今のベンチャーで活かせています。この会社、ブラックブラック言ってますけど、本当に芯がある真面目な会社です。会長、社長、役員とても凄い人ばかりです。株はやってないけど、株を買うとしたらまっさきにここの株を買います。今後も伸びていくと思ってます。誤解されるような言い方になっちゃいましたが、会社や仕事がいやになって辞めたわけじゃなく、尊敬する人もたくさんいる、今でも大好きな会社です。

聞き手:ある意味、とても建設的なキャリアパスですね。ブラックかもしれないけど、ちゃんと安定した上場企業で育成してもらい経験を積んで、そこで習得したことを今度はベンチャーで活かすというのは。

Hさん:本当にありがたいですね。

聞き手:今もとてもお忙しそうじゃないですか。お帰りはすごく遅いようですし。拘束時間的には前とあまり変わらないんじゃないですか?

Hさん:いや、結構、変わってはいるんです。前職で、ブラック企業と世間で騒がれ、それがホワイトに変わる瞬間というか、「午後8時以降に一般社員が残っていたら、課長、部長、執行役員全部降格だ!」みたいなルールがいきなり出てきて、上役たちが社員に「帰れ!帰れ!」と言うようになって。それで、社員は実際に帰りはするけれど、目標は達成しなければならない、労働時間が長ければいいわけでもない、さあ、どうするか、といった問題に対処してきた経験があるので、今の会社ではこういうビジネス形態にして、こういう労働環境にしてはどうかとアドバイスしています。

聞き手:なるほど、そういうアドミニストレーションのところですね。ベンチャーではまだ確立されていない部分が多いからやりがいありそう。

Hさん:そうですね。夏からは、在宅勤務制度も取り入れて、週1回は家で仕事が出来るようにしました。

聞き手:いろんな経験知を運んできてくれて、ベンチャーにとってはありがたい人材ですね。

Hさん:社長は大企業出身で、とてもビジネスが出来る人。そういう制度も知っているんですけど、社長という立場でなかなか手が回らない中、わたしが提案していろいろやらせてもらっています。もう仕事と遊びを分けられない、仕事が趣味のようになっていますよ(笑)。

聞き手:楽しそう!いいですね。

Hさん:そうですね。楽しい。あとは自分にいかに圧をかけるかという点ですね。前職のくせで、数字にコミットしたくなる。今期これくらいだから来期これくらいにあげないと会社として云々と言いたがり。やはり目標は高く持ちたいという思いがありますが、高過ぎると自分だけの問題ではないし、周囲がついて来られなくなるので、ちょっとゆるやかに。でも、「こんなふうになったら全員の給料が2倍に増えるかもしれない、2,3年以内に給料を2倍にしよう!」と言って鼓舞しています。もし売り上げが横ばいでいいのだったら早めに帰って来られていいんですけど、それだと自分の給料も上がらない。一方、子どもが小さいときは今だけだから一緒にいたいという気持ちもある。家にいて仕事をしないのか、家にいなくて仕事をするのか、こっちを取ってあっちを取らないというのではなく、家にいて仕事をしながら子どもの面倒も見るという、なんとか両立できる方法を探しています。

聞き手:それこそ、実体験しながら会社の制度に生かしていくという、それができる立ち位置にいますよね、パパとして。企業は子育て中の女性社員の意見を聞きたがるけど、お父さんの意見はあまり対象にされない気がしますし。20代〜40代の子育て期の人達が中心となるベンチャーでは本当に貴重ですね。

Hさん:今の会社は社員の半分がアラサーの女性で、みんなまだ子どもはいないんですけど、先日結婚された方もいますし、これから子育て期に入る社員が増えていくと思うので、両立させて働き続けられる環境を整えたいです。まあ、やりたい放題やっているというのが正直なところですけど(笑)。

聞き手:それができるのは素晴らしいですね。趣味も仕事のうちみたいな仕事ができていて、転職してとてもよかったわけですね。

Hさん:好きなことをビジネスにする力、現金にする力があれば、なんでも好きなことをやっていけば生活していけるんじゃないかという無駄な自信がついてしまいました(笑)。

聞き手:それはこれからとても重要なスキルだど思います。いざとなったときに自分の力で生きていけ力がどんどん必要になっていく―。ところで、かんかん森に引っ越す判断はどのように?

Hさん:子どもができれば、シェアハウスより、ここの環境が適しているだろうと想定した、それに尽きます。それで今、本当に感謝しかないくらいに快適に暮らさせていただいています。

聞き手:お子さんが出来てからの生活の激変ぶりや、心境の変化はどうでしょう?ご夫婦だけのときはおふたりの時間を大切にする若いカップルというイメージでしたけど、お子さんができて、Hさんがすごく変わったと言っている住人少なくないですよ。

Hさん:自分でも人が違うなと思っています(笑)。「親になると変わる」とよく聞くんですけど、確かにそうだなと。ふつう、自分の命が一番大切じゃないですか。結婚したら奥さんが大事だというのは真実だと思いますが、そうは言ってもやはり自分の命のほうが大切だと―。でも、子どもが出来て「自分の命より大切な生命体がここにある」と思えてきたんです。これは初めての経験です。

聞き手:災害時など命の危険がせまったら自分を犠牲にしてでも子どもを救おうとする、そういう親の気持ちがわかったと?

Hさん:そう思います。息子の3カ月前の生まれたばかりの時の写真を見ると、今は顔がもう違っていて、どんどん成長していくなあと実感します。一瞬一瞬を見れるのは今しかない、一緒にいる時間を増やさないと後悔するだろうなと。どんどん子どもに支配されていくというか―。そういう心境の中、自分より大切な生命体をみなさんが「かわいい」と言ってくださる。素直に嬉しいし、感謝しかないです。もう「ありがとう」という気持ちでいっぱい。そのあたりから変わったと言われるんじゃないかな。

聞き手:ここは先輩ママパパが大勢いらっしゃるから助かりますよね。

Hさん:本当、感謝しかないです。子どもがいると出掛けることも難しくなるでしょう。これが1軒家だったりマンションなどに住んでいたら、なかなか外に出られなくて煮詰まってしまう。でもここは一歩玄関を出ればみなさんいらっしゃって、コモンミールがあったり、パーティーがあったりするから、本当にいいなと思っています。

聞き手:他の住人の方々だって、また赤ちゃんを抱っこできたり、成長をみられたりするのでお互いに嬉しいですよね。これが多世代で住むことの醍醐味。

Hさん:そうですね。他のお子さんたちも遊んであげようかなと思うようになりました。自分家で遊びたいといってくれて、テレビゲームやりにきてくれたりしています。生活のステージにここがフィットしてきていると実感しますね。

聞き手:Hさんとしてはどういう風にお子さんを育てていきたいと思っていらっしゃいますか?

Hさん:そうですね。まず名前の話になりますけど、息子の名前は誕生した季節の夏しか表していません。妻にも言ったのですが、意味を込めたくなかったんです。親がつけた名前の意味に捕らわれず、とにかく夢中になれることを見つけて自由に生きてほしいという考えです。唯一、意味がこもっているとすれば、息子が生まれた、あの喜びに満ちた、太陽がいっぱいの夏の日のことを、子どもが大きくなっても名前から思い出せるよう自分と妻のためにつけた、ということです。

聞き手:まあ、なんて素敵なんでしょう!夢中になれることを見つける、それも大切ですね。

Hさん:わたしの場合、ファミコン世代。子どもの頃は体が小さくて、スポーツが得意ではなくて、「勉強しろ!」とうるさく言われない家庭だったのもあって、ファミコンが楽しくて好き過ぎて、ずっとやってました。親からは「早く寝なさい」と言われるのでいったん寝た振りをして、夜中の1時ごろに起きて朝5時くらいまでやって、また寝た振りをするというのを繰り返していました。そうすると必然的にクラスで一番進んでいる、上手い、ということになって、結構いい気分。とにかく、親が寝なさいという障害をどうやってクリアして継続するか試行錯誤してやってました。もう夢中でしたね。

聞き手:それがベースになって仕事につながっているわけですね。

Hさん:そうですね。一個一個クリアするための試行錯誤というのは、あの時ファミコンでやったからなと思いますね。

聞き手:なんでも夢中になって突き詰めると、それが糧になって活きてくるということですよね。

Hさん:そう思います。これはここ5年くらいでたどりついた考え方です。最近はネットでもよく書かれていますけど、「努力は夢中に勝てない」という言葉。これを初めて知ったとき、確かにそうだなと思い、以来、実感を強めています。夢中になれるものを見つけたら、いい人生になるんじゃないかなと思うので、息子にはなにか見つけてほしいと思っています。

聞き手:なるほど。「努力は夢中に勝てない」言い得てますね。Hさんご自身、仕事以外でなにか夢中になれるものってありますか?

Hさん:シナリオライティングかな。これは仕事に活かしたいと思って受講し始めたんですが、とにかく面白くて、もう趣味でもあります。半年間週1回のカリキュラムが終わって、今は月2回のゼミに参加しています。

聞き手:どうお仕事に活かせるんですか?

Hさん:イベントのストーリーを考える際に役立ちます。会社では外部発注も内製もしていますが、自分でも書きたいなと思って。それに、外部発注するにも、納品物を見てコメントする必要があるので、より的確なことを言えるようになりました。それに映画やドラマの見方が変わった。たとえば分かれ道が多い描写であれば道に思いが込められていることとか、モノひとつとってみても全部意味が込められていることを習ったので、今、映画を観ていてもすごく楽しい。

聞き手:いいですねえ。わたしも受講したいわ。

Hさん:毎週、原稿用紙20枚のシナリオを書いて提出する宿題が出ますよ!

聞き手:あかん〜。

Hさん:ホント、大変でしたけど、提出すれば添削して返してもらえるので、良い点や改善点がわかるし、見たり聞いたり経験したことを自分なりのストーリーにしてアウトプットする場所ができたのは嬉しい。いずれシナリオのコンクールに応募したいですね。

聞き手:おお、シナリオ作家としてデビューしちゃったりして!

Hさん:デビューできればすごくいいなと考えてます。今、楽しく書けているし。「世にも奇妙な物語」のシナリオとか10年後に自分で書けたら楽しそうだなと。趣味でも仕事でも書きたい。そういえば、「喜び」というタイトルのシナリオを書く宿題があったとき、息子が生まれる前後のストーリーを書いたらメチャクチャほめられました。感情表現がすばらしいと。

聞き手:喜びがほとばしっていたんでしょうねえ!将来、本当にかんかん森からシナリオ作家が出るかもしれない!

Hさん:かんかん森のドラマも書けますよ。ここのことは自分以外、誰も書けないでしょう。他にはないストーリーはコンクールにも通りやすいそうだし。

聞き手:モチーフになりそうなキャラの人いっぱいますね、ここは(笑)!シナリオライティングもぜひ続けてください。テレビのテロップでお名前を見るのを楽しみにしています。

Hさん:最後に妻の事なんですけど、本当に子どもを大切に大切に育ててくれていてとても感謝しています。自分は仕事についてはコントロールが効く思っているけど、子育てはそうはいかない。妻はちょっと真面目過ぎるところがあるので、疲れをため過ぎないかと少し心配しています。もう少し息抜きをしてもらえるよう僕も頑張るし、周囲の方たちに助けてもらいながらやっていければと思ってます。かんかん森の皆様、いつもありがとうございます。今後とも宜しくお願いします。

聞き手:まあ、感動的なドラマのエンディングみたい〜。Hさん、かっこ良すぎですよ!

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(11:31)

2019年11月17日

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年に数回ある朝ごはんコモンミール。
休日の朝が、焼きたてパンの香りから始まるってすてきじゃないですか?

プレーンとツナコーン入りの2種類のロールパン。
ゴロゴロベーコンと野菜たっぷり豆乳スープで栄養も(たぶん)バッチリ!
淹れたてのコーヒー、ドイツのハーブティー、西新井大師みやげの草団子のデザートまで。
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8時の食事時間に向けて、調理は6時からスタート(すみません、遅刻しました)!
かんかん森のパン職人Yさんと業務用オーブンのおかげで、ばっちり焼けましたよ〜。
頼れる小学生Tちゃんのアシストもあって、スープの調理も順調。
8時にはちゃんと間に合いました♪
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生クリーム&あずき、発酵カルピスバター(これホント絶品)、ツナマヨのトッピングもお好みで。

一人暮らしだと、朝ごはんを誰かと食べることってなかなかないもの。
みんなとわいわい朝食が食べられるコレクティブハウスはやっぱりいいなぁと思ったのでした。


(20:15)

2019年10月27日

※この記事の最後の方、トリックオアトリートの後にミミズの写真があるので苦手な方はご注意ください。


今年のかんかん森ハロウィンは、例年のパーティ形式ではなくコモンミールで開催しました。
といっても、参加人数58名、仮装あり、差し入れのお料理や飲み物もありで、実際には例年とさほど変わらない内容でした。

調理担当は、元記録係のMとm、そして今回が初コモンミールのKご夫妻。
メニューはラザニアとスープです。

Kご夫妻、事前にラザニアの試作をし、調理当日の工程表も準備してくれました。
これを見ただけでもハロウィン気分が高まります。かわいい!
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58人分となると、材料のどれもがすごい量です。
野菜は、最近キッチンに常備されたチョッパーを活用してみじん切り。
ミートソースも鍋からあふれんばかりですが、すべて使い切りました。
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焼き上がったラザニアをカットするのも、とにかく量が多いので一苦労です。
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スタート予定の17時頃から、仮装した参加者たちが少しずつ集まってきます。
今年も楽しい仮装がたくさん!
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食事がある程度進んだところで、子どもたちのお楽しみ「トリック・オア・トリート」がスタートです。
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今年は、お菓子の袋を持った大人(4人)のところへお菓子をもらいに行きます。
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子どもたちがお菓子をもらった後に、差し入れのデザートが追加投入されました。
ゼリーで作ったそうなのですが、見た目はミミズそのもの!
キャー!気持ち悪い!などと言いながら、でもみなさん結構食べていました。
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(22:00)

2019年09月19日

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☆今日のメニュー☆
水餃子
棒々鶏サラダ
ご飯
アイスクリーム

棒々鶏は、辛いものと辛くないもの二種類から選べました。
アイスクリームには、インドネシア土産のお菓子(住人からのお土産 かんかん森は仕事その他で海外に出かける方が多いのです)が添えられていました。


今月は、23日(月・祝)に入退去する方々の歓送迎会、29日(日)に秋まつり&16周年パーティーと、これからイベントが続きます。

秋まつりでは例年2階のコモンスペースでカフェを開きますが、今回は飲み物やケーキの提供はありません。
食事のためのスペースとして場所を開放するのみとなります。時間は10時〜14時です。
「森の文化祭」と題して、コモンスペースの壁面などに住人の作品や思い出の品を展示します。個性豊かな住人たちからさまざまな出展があります。
ぜひ遊びにいらしてくださいね。


(22:00)

2019年09月08日

かんかん森The Interview第22回は居住歴1年半の雄太さんの登場。本インタビュー第20回の志穂さんのパートナーでもあります。一瞬、ハーフかと思わせる彫りの深い顔立ちで、昨年のクリスマスパーティー時にサンタ役で登場した際はあまりに似合っていて皆大騒ぎになったことを思い出す。デジタル世代で映像の世界でお仕事をされる雄太さんと、極めて、なんというか、アナログな私とで、さてうまく交信ししあえたのでしょうか?いやいや、なかなかですよ(自画自賛?!)



聞き手:趣味はなんですか?

雄太さん:そうですね、音楽やサッカーですね。音楽はよく聴きます。

聞き手:どのジャンル?

雄太さん:Jポップが多いです。ミスチル、スピッツとか。あまり激しいロックは聴かないですね。

聞き手:若いのに、結構な熟練バンドを聴いているんですね。

雄太さん:ここ4,5年はグースハウスというユーチューブで有名なバンドもよく聴いていますよ。カバー曲をよくやっているので、それを聴いたのをきっかけに、オリジナルのシンガーを知って聞くことも多いですね。

聞き手:音楽を選ぶときはメロディー、声、歌詞などで何が決め手?

雄太さん:基本、メロディーですね。歌詞はほとんど気にしてません。ミスチルは音的にばっちり好みです。

聞き手:サッカーはご自分でもやっていたんですか?

雄太さん:高校3年までは、そこそこ真剣に部活でやっていたんですよ。大学ではサークル程度でしたけど。

聞き手:ウォ!結構、体育会系なんですね!今よりスリムでした?

雄太さん:はい、今は見る影もなく―(笑)。体重、20キロぐらい増えましたから、高校時代と比べると。

聞き手:え〜、そのルックスで、スリムで、サッカーやってるって、相当かっこいい高校生だったんじゃない?体重が増えたのは食事が変わっちゃったから?

雄太さん:そうですね、もともと太りやすい体質で甘いもの好きで、だらだら食べてしまうんです。辛いものはちょっと苦手。

聞き手:沖縄出身でしょう?上京したのはいつですか?

雄太さん:高校卒業して一浪した後、東京の大学に受かって上京しました。

聞き手:沖縄の暮らしは懐かしくないですか?雄太さんのような年代の若い人たち、町興しのために故郷にリターンする人が増えていると聞くけど。

雄太さん:同郷の友だちは半分以上帰っているけど、僕は全く帰りたいとは思わないですね。上京当時からホームシックになったこともないし。僕は4人兄弟の3番目で、家族が多いので、ひとり暮らしにあこがれていました。

聞き手:実際に東京でひとり暮らしを始めてどうでした?

雄太さん:「自由だ〜!」と言うかんじ(笑)。

聞き手:東京のどこがいいと思います?

雄太さん:電車でどこにでも行けるところ。沖縄だとどこに行くにも車が必要ですから。東京はお酒飲んでも電車で帰れるし、イベントもいろいろ開催されるし。

聞き手:そうですね。東京って便利でおもしろいところですよね。たまには帰省されたりしますか?

雄太さん:年1回くらいは帰ります。実家が自営業をやっているので、手伝ったりして。

聞き手:どんなお仕事ですか?

雄太さん:記録ビデオ撮影販売業というのかな、運動会や習い事の発表会、その他イベントを撮影して編集し販売しています。僕もたまに運動会を撮影したりするんですよ。

聞き手:そうなんですね、そこから今の編集のお仕事につながっている?

雄太さん:たぶん両親としてはそっちの方向に行ってほしいなという期待があったと思います。東京で映像の仕事ができるようバックアップしてくれましたし。

聞き手:では、大学を卒業してすぐに映像関係の仕事に?

雄太さん:2年くらいカメアシやってました。

聞き手:カメアシ??(まさに「亀の足」が思い浮かぶ!)

雄太さん:カメラアシスタント(笑)。テレビの撮影の収録現場でカメラや音声を担当している会社に入って、最初の2年くらいはカメラマンの後ろでケーブルひっぱっているようなアシスタント業をやってました。

聞き手:なるほど。大学もそういうメディア系の専攻だったんですか?

雄太さん:はい、メディア学部でした。音楽、映像、ウエブなどを幅広く学ぶ学部なんですが、最初は音楽メインに学んでいたんですけど、やはり映像をやりたいと思ってそちらに進みました。

聞き手:映像系の仕事というのはそもそもどういうものがあるんですか?

雄太さん:そうですね、媒体で分けるんだったら、テレビ、映画、CMで、職種だったら、カメラ、音声などの「撮影現場」、そして「編集」、それからそれらを統括するディレクターやプロデューサーのような「制作」と、大きく3つに分けられます。

聞き手:なるほど。ゆくゆくはご自身の作品を作りたいとお考えですか?

雄太さん:作品を自分で作ることにはあまり興味がないんです。もともと機械に触ることが好きなので、制作方面には進まず、撮影か編集かなと思って、まず、撮影の会社に入ってカメアシをやったわけです。本当のところは編集に進みたかったんですが、新卒を採ってくれるいい会社があまりなくて−。撮影では割りと大きい会社に受かったので、そちらに入りました。だけど、やっぱり編集をやりたいと考えて2年後に転職しました。

聞き手:そうですか。新卒で編集に進むのは難しいんですね。わたしのような素人から見ると、編集ってものすごい権限を持っているように思えます。映画などのクオリティって最終的には編集で決まると思うから。そう思いませんか?撮影のときって、膨大な量の映像をとっているわけでしょう。それを編集によって2,3時間の映画にするわけですから。ヒッチコックの映画を観ていても「ここでそうカットするのか!」というシーンが多々ありますよ。そういうのを任せてやらせてもらえるって、相当な感性とスキルが必要だと思います。

雄太さん:実際のところ、どうカットして、どうつなぐかという部分は制作がやる場合が多いんです。つまり、企画立案しているディレクターがそこまでやるケースが多い。編集ではそのカットしてつないできたものに、テレビ分野であれば、モザイクやテロップを入れる加工作業がメインになります。

聞き手:そうですか。では、カットする仕事はしない?

雄太さん:最近、たまにしています。前の会社は加工の仕事を専門で受けているところでしたから、僕がやるのも自ずと加工の仕事ばかりになって、あまり編集していないなという感覚がありました。それもあってフリーランスになったんです。カットや加工を含めて幅広く編集分野の仕事ができるようになりたいですから。

聞き手:会社の専門分野が特化されているんですね。

雄太さん:はい。テレビ局は複数あって24時間やっているので、放送する量が莫大になるでしょう。だから、加工ならこの会社、音声はこの会社というぐあいに業務分担が細かくなっているんです。一方、ユーチューブだと個人制作で予算も限られているので、ひとりですべてできないといけない。だから、おのずとそっちに興味が向きますね。フリーになって最初に受けた案件は、企画、収録だけはすでに行われていて、カットも含めて編集は全部まかせてもらえる案件だったので楽しくできました。

聞き手:つまり、ディレクターのだれもが自分でカットやつなぎをやるんではなくて、まかせてくれる人もいるってことですね。

雄太さん:そうですね。環境を変えなければそういう仕事は請けられなかったです。僕はフリーになってまだ1年たっていませんが、同期はほぼフリーランスになっています。受け皿もいっぱいあるので、会社でスキルを身につけてお客さんもつかめば、独立して個人で仕事を受けるケースが多いんです。手取りが全く違うし。

聞き手:フリーになると、締め切りの問題とか、面白い仕事が重なるとか、波があるとか、厳しい面もありますよね。

雄太さん:そうですね。トータルでやらせてもらえる案件は週3,4日かけてやっていたんですが、それが企画終了したので今は時間が割りと空いている状態。また別の仕事を見つけなければと思っています。だから結構波がありますね。

聞き手:そういう場合、自分のことをPRしに行くんですか?会社訪問したり?

雄太さん:いや、週1回は顔を出している編集専門の会社があるので、そこで新たなディレクターさんに会うと自己紹介しています。それで、ディレクターが手持ちの案件から仕事を個人的にオファーしてくれることもあります。

聞き手:普段は自室でPCに向かって仕事している感じですか?編集者と聞くと、フィルムをはさみで切っているシーンを想像しちゃうわけですけど(←クラシック映画の制作現場のVTRを見過ぎ!)、当然、今はそうじゃないですね(笑)。

雄太さん:専用ソフトを使ってますよ(笑)。PCに向って24時間ぶっ続けで仕事をやることもよくありますが、目が疲れたとか、肩がこるとかないですね。

聞き手:あらま、うらやましい!若いのねえ〜(笑)。わたしなんぞ、残業が続くと「助けて!」と叫びたくなるくらい肩こりに悩まされるのに。。受けるお仕事はテレビ番組?

雄太さん:そうですね。ユーチューブやabemaなどのネット配信番組のもやったりします。

聞き手:今は個人が媒体を持っている時代だものね。テレビはどんな番組を見ますか?

雄太さん:バラエティーかな。。ただ、テレビは見づらい。

聞き手:見づらいって?

雄太さん:リアルタイムで見るのはその場に居ないといけないので面倒くさいです。

聞き手:まあ、そういう時代よね〜。わたしの子どもの頃は「8時だよ全員集合!」とか言って、テレビの前に座ってその時間になるのを楽しみに待ってました(笑)。今は好きな情報しか見ないという環境を作れるものね。選挙についてもそうだけど、公平な目が持てなくなるでしょ。気づいてました?

雄太さん:気づいてました。だけど周りにも好きな情報だけしか取り入れていない人も多いです。

聞き手:今後、お仕事はどのように進めていきたいですか?自分で作品仕上げてみたいとか?

雄太さん:作品を作りたいとは特に思っていないですが、いずれ実家に戻って親の仕事を継がなければならないんです。

聞き手:え、それはいつ頃?

雄太さん:2,3年後くらいかなあ。兄弟はみな沖縄に住んでいるんですが、公務員だったり、教員だったりして、親の仕事を継げそうなのは僕だけなんです。仕事面ではまだまだ成長過程なので、しばらく東京でキャリアを積んでから帰るという話を親としています。

聞き手:そうなんですね。戻ったら経営者になるわけですね。

雄太さん:経営者ってほどでもないですけど。両親含めて4,5人の小さい会社なので。

聞き手:小さくても人を雇用するということで、マネジメントも学んでおく必要ありかもですよ。それにしても、実家に住んでおられた頃からご両親の仕事を手伝うのはご兄弟の中でも雄太さんだったわけですね。どうしてそうなったんでしょう?

雄太さん:手伝いは中学生くらいからやってましたけど、たぶん、兄弟の中でも自分が一番向いていると親が思ったのかもしれませんね。でも映像を作ることはすごく難しいものだと東京に出てくるまでは思っていたんです。実際、東京に出てきて編集作業をやってみたら結構できるもんだとわかって。それに、デスクワークの硬い仕事ではなく、フランクにできるところもいい。

聞き手:なるほど。ところで先ほど音楽が趣味というお話がありましたけど、好きなアイドルとかいます?

雄太さん:いえ。アキバや萌えキャラとかは興味ないですね、アニメも見ないです。あ、モーニング娘は好きでした。でも、誰かの大ファンになって握手会やコンサートに行くことはなかったです。ああいうのは恥ずかしくてできないですよ。そこまで自分を出せるのはすごいなと思う。前の会社の同僚に僕より4,5歳若い人が何人かいたんですが、世代が自分とは違ってアニメアイドル世代でした。一緒にカラオケに行っても、自分とは歌のジャンルが合わなくて、彼らはアニメソングをひたすら歌ってるんです。自分にはほぼわからないし、ぜんぜん違う人種のようで話も合わなかったんです。

聞き手:まあ、4,5歳違うだけで?じゃあ、雄太さんと私の年齢差を考えたら、火星人と土星人の交信が奇跡的に成立している感じ?!(笑)

雄太さん:自分の世代はアニメ好きというとオタクっぽいイメージだったんですねど、今はまわりのみんな、アニメ好きでオタク化していますね。

聞き手:オタク・メジャーになっているわけですね。海外でもオタクという言葉が使われているらしいけど、海外に関心を持つことってありますか?

雄太さん:海外は―、あんまりないですね。留学したいとか、海外旅行に行きたいとか思わないし。そういう人は周りにもいませんでした。海外志向のタイプはパートナーの志穂が初めてです。

聞き手:そうですか。異文化を見てみたいとか、世界遺産を見たいとか、ない?

雄太さん:ないです。でも、サッカー好きなので、スペインに行ってサッカーの試合を見たいとは思います。

聞き手:なるほど。世間では、若者世代の内向き傾向といわれて久しいけど、そう聞くとどう思います?

雄太さん:合っていると思います。あんまり外に興味がない。国外はもちろん、他人にもさほど興味がなくて、自分の中で完結してしまう世代かなと。海外になぜ行きたいと思わないのか、よくわかんないです。なぜだろう―。昔の人は海外の文化に興味があったってことですね?

聞き手:そう、文字情報はそこそこあっても、限られた写真とか映像だけでは満足できなくて、自分の目で見てみたいというのがありましたね。私は「人生1回きりだし、世界こんなに広いし、見てやらないと損だ!」というのがあったんですよ。

雄太さん:ないな〜。なんでだろう。以前、海外に行くのは怖いなと思ったことがありました。2回目の海外旅行先がタイで、友だちが食あたりを起して入院してしまったんです。顔面蒼白で入院して、プラス4日の滞在で帰ってきました。それで外国は大変だというイメージがついたかなと思います。それに食にあまり興味がないというのもあるかもしれない。でも、好きなサッカーチームの試合やワールドカップは見たいので、お金があればひたすら見て回ります!

聞き手:自分でもサッカーをまたやりたいと思います?

雄太さん:もう一度やりたいと思うけど、体がついていかないかな〜。場所があればやりたい。そういえば、かんかん森は運動部がないんですね。

聞き手:作ってみたら?やりたいこと、できることがあれば活かして、呼びかけてどんどんやればいいと思います。一人でもやろうという人がいたら始めれば、次第に興味ある人が集まってくるかもしれないし。

雄太さん:そうですね。フットサル的なこと、ここでも何かできるなと思いました。この共有スペースはテーブルをどかせば結構広いので、みんなで和気あいあいとゴムボールを蹴りあうのもいいな〜。

聞き手:イベント係を廃止したのでボランティアベースじゃないとイベントは実施されないことになりましたよね。自分たちからやろうと湧き上がってくるほうがいいでしょう。その流れを作るにはだれかが言い出さないと始まらない。そこですね。わざわざこういう仕組みのところに住んでいて、ここの生活をいかにおもしろくするかは自分次第だと思います。雄太さんはここの暮らしはどうですか?

雄太さん:僕には姪っ子甥っ子が7人いて、いとこにも子どもがいるので実家に集まると保育園みたいなるんです。ここ、かんかん森も大所帯で実家の雰囲気と同じような雰囲気を持てるのがいいなと思ってます。最初はうまくいくのかなと不安があったけど、実際住んでみたらそれほどでもなかった。ここのいいところは、コモンでみんなと集まれること、自分の部屋以外にもスペース、居る場があること、そしていろんな世代がいて、いろんな話が聞けるのもいいですね。

聞き手:わたしもここに来なければいろんな世代の方々にインタビューすることなんてなかったわけです。人生は面白い展開をみせるなあと思いますね。今日は有り難うございました。

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(11:20)

2019年07月21日

かんかん森The Interview第21回第2弾です。設立16年目、かんかん森は新たな局面を迎えているとも考えられます。そこで、コレクティブハウスを初めて日本でつくるための動きが始まった当初から関与されてきた坂元さんと居住歴2年の聞き手のわたしが、かんかん森のこれからについて語り合いました。



坂元さん:コレクティブハウスについては、最初から作りたいと考え活動に参加して、15年もかかったけど実現できてよかったと実感しています。コレクティブハウスを日本に最初に紹介してずっとかんかん森を支えてくださった小谷部育子さんが末期がんになったときはものすごい喪失感で、この先どうなっちゃうんだろうと思ったけれど、結局、コレクティブハウスは生き物ですよね、ちゃんと生き延びて、成長していく。賃貸だから、結構、人が入れ替わるんだけど、ちゃんと人が集まってきて、こうしてコレクティブハウスであり続けています。

聞き手:わざわざこういうシステムの暮らしのところを選んで来られるということは、コレクティブな暮らしがよいと考える人たちであるわけですよね。あらゆる世代が住んでいるというのが本当に特色。普通、シニア同士、若者同士と同じ世代で集まりがちじゃないですか。

坂元さん:そういうの、若いときから違和感があったんです。いろんな世代の人たちが混ざっていて当然だと思っていました。社会もそう出来ているわけだし。

聞き手:わたしが入居した2年前、シニアグループ(65歳以上)には8人いらっしゃいましたけど、今は4人。少なくなっていくのはバランスが悪くなるなと思っています。

坂元さん:そうですね。2013年に制作したかんかん森を紹介するビデオの中で、わたしは「これから10年、高齢期になった人たちがコレクティブハウスでどう生活していくか考えていく」と言っているんですけど、現実問題として、う〜ん、どうしようかと思ってしまいます。実際に、係や調理当番は全員でやることによってかんかん森はまわっているでしょう。それがひとり、ふたりと高齢になって出来なくなった人が出たとき、どうすればよいのか。たとえば、モリ券(かんかん森独自通貨)は今期から廃止しましたけど、以前は活動が出来なくなったシニアの人の役割を、若い方で時間のある人がいたら、モリ券と引き換えに代わってもらう、何かを返すことによって交代してもらうこともあるかなと思っていました。でも、そんなことやれる余裕がある人など今はいませんよね。1年くらい休んでもいいかもしれないけど、2年、3年と休む、しかも、そういう人が2人、3人になったら回っていかないなと思うでしょう?

聞き手:多世代という特色の維持を考えたときに今後どうするかですよね。

坂元さん:わたしは自分も高齢者だから、自分からはなかなかどうするとは言えないんです。自分は係などの役割が出来なくなったら退去するとも言えない。それは、わたしと同年輩で、わたしより役割が果たせない居住者がいたら「あなた退去しなさい」と言っているようなものでしょう。わたしはまだ調理当番や係活動はできるけど、パソコンなど打っている時など以前はしなかった間違いが増えてきているなと思うんです。先日、運転免許を返上しました。息子の車を80歳まで運転していたけど、以前はしなかったような緊張をするようになって、やはり衰えていくなと。。。

聞き手:誰しも平等に年をとっていきますね。今、若い人が永遠に若いわけではないし、誰もがいずれ感じることですよ。

坂元さん:ここからサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)などに引っ越した人もいますけど、やはりかんかん森は年をとって体が衰えてくると居づらい場所なのかもしれませんね。

聞き手:その時にどうサポートできるかですね。少なくとも自分の身の回りの世話ができるということが、介護サービスが無いかんかん森に暮らすことの前提となりますけど、それ(身の回りの世話)が出来る限り住み続けていいとわたしは思います。若い人と同じことではなく、できることを当番する、鍵当番とか、町内会の集まりに出るとか、自分の身の回りのことができる限りは何かしら出来る役割があるはず。必ずしも数時間にも及ぶ立ち仕事になるコモンミールの調理当番が出来なければ住めない、ということにはしなくてよいと思います。各年代に合った貢献の仕方があると思いますし、それが多世代を特徴とするかんかん森のよいところではないかと。たとえば、入居当初は役割を積極的にこなしていた居住者が、10年後に年をとって同じように出来なくなるというのは、とても普通だと思います。

坂元さん:ただ、やはり引っ越していった人が多いんですよ。少し前に続けて引っ越されたシニアのおふたりはサ高住に行かれたし。。

聞き手:う〜ん、そうですね。人生100年時代とか言って、健康寿命を延ばすことが重要だとよく言われています。視点を変えれば、コレクティブハウスは健康に年齢を重ねていくための要素がたくさんあるというのはアピールポイントになると思います。いろんな世代とコミュニケーションする。老人ホームで老人同士だけとしか話さないよりはずっと刺激的でしょう。今度のイベントどうしようかと話し合ったりする。それがこの住まい方のすごくいいところだと思います。多世代で住むというのは絶対的なポイント。だからこそシニアに若い層と同じようにすることを求めるのは違うと思います。何を平等だとするかですね。全員が同じ事をするのが平等だと考えるのは、今の日本の学校教育と同じじゃないですか。算数が得意でも不得意でも同じクラスに入れられて、同じ学年全員同じことを学んでいる。そうではなくて、30代、40代で仕事と子育てのピークで忙しい層があれば、子育てが終わって、ちょっと余裕が出てきて、アクティブにいろいろコミュニティーのためにできる層もある。ライフステージによって違っていい。同じことを求めるのが不自然です。

坂元さん:でもね、かんかん森の中で決まりがあるし、それから外れていくことはどうなのかなって。。

聞き手:だからルールを見直す必要があります。

坂元さん:それは難しいんですよ。

聞き手:難しくても模索していくべきテーマですよ。これまでそうだったからといって、未来永劫、変えることができないわけではないです。繰り返しますけど、多世代を重視したコレクティブな生活をしていくところで、すべての世代に同じことを求めるのは不自然で、そういうメリハリを受け入れられるコミュニティーでないと住み続けたくても住み続けられないでしょう。

坂元さん:そうね。でも、若い人は病気になっても1年、2年かかろうが治るじゃないですか。子育ては、子どもが大きくなれば余裕ができる。仕事が忙しい時期もあれば、そうでもない時期もある。でも高齢者は病気になったらそう簡単に治らないんです。すでに高齢者施設や病院で亡くなられた方も二人おいでです。末期がんで亡くなった方は入院されるまでここでゆっくりと暮らして、入院後2か月で亡くなりました。最後の1年はみんなでかなりきちんとサポートできたと思います。彼女をサポートするためにシニアグループを作って、地域包括支援センターの相談員にも来てもらいました。でも、最近は自分だけのことを考えてればいいのかしらと思わないでもない―。それでは無責任かなとも思うけど、15年経ってコレクティブハウスについては「我が事を成せり」という感じがあります。「もういいわ」みたいな。

聞き手:坂元さんご自身は役割をこなすのがつらいことがありますか?

坂元さん:最近はほとんどテレビの仕事をやらなくなったので、自由時間も増えたし、全然つらくないんです。

聞き手:そうでしょう!一口に高齢者と言ったって、まったく現役な方だっているわけだし。そこまでではないとしても、自分の身の回りのことくらいは出来るし、こういうコミュニティーで若い人達と関わっていきていきたいと考える人が1人2人いたとしてもカバーできるコミュニティーであるべきだとわたしは思います。

坂元さん:そうですね。ただ、わたしはそれなりに役割ができるじゃないですか。メールもやりとりできるし。体力があって丈夫だし。でも、それは誰にでも求めてはいけないでしょう。

聞き手:人を年齢で考える時代ではないと思います。シニアでなくても、ここの暮らしに合わない人もいるわけです。3,40代と同じことを80代にやれというのはおかしいですよ。今80代の人は、3,40代の頃は、その頃はまだかんかん森はないけれど、それぞれの場所で若手として活躍していたでしょうから。そういう想像力を持っている人が住むべきだろうなと思います。

坂元さん:でも、出来ない人が1人、2人のうちはいいけど、4人も5人にもなったらやっていけないんじゃないと若い世代の人が言っていたのを聞いたことがあります。

聞き手:出来ないというのは何を出来ないのかにもよりますよ。たとえば、夜遅く帰ってきて鍵当番なんて疲れているときにやりたくないという若い世代に代わってシニアがやるとか、現役世代が平日は仕事で出来ない役割をシニアがやるとか、そういうもちつもたれつの間柄があっていいでしょう。自分の身の回りのことができる限り、コミュニティーで何らかのことが出来るはず。シニアの方々の体験談は貴重だし、貢献の仕方はなにも身体を動かすことだけでもないでしょう。ただし、医療ケアが必要になったときにはどうしてほしいということを元気なうちに書いておく必要はあると思います。

坂元さん:そうですね−。かんかん森は今のところうまくいっているとはいいながら、先のことを考えますね。

聞き手:どの時代も住んでいる人たちが知恵を出し合ってなんとか上手くやっていくものだと思います。何かが起こればそれなりに対応するでしょう。人間同士、一時的には不協和音が起こっても最終的には協力し合ってなんとかしていくというものだと思う。そういう心構えがある人たちが集まってきているところだと思います。

坂元さん:そう思いたいですね。

聞き手:このコミュニティーを上手くまわしていけるかどうかのポイントのひとつは、ひとつの世代だけに偏らないバランスのとれた多世代であることでしょう。もうひとつは、ライフステージによって貢献度が違っていてもいいと言いましたけど、だからと言って、役割をより積極的にこなしている住人たちがいることを当たり前と思わないこともポイントだと思います。「ありがとう」の気持ちを忘れないのは、コミュニティーを上手く回してうえでとても大切ですよ。だれもが思いやりを延べあうという姿勢ですね。でも、わたしの場合、片親になったら同居することになる可能性が高くて、その場合はかんかん森を出なくてはならないだろうなと考えています。親が心身共にそれなりに健康であるかわからないし、少しでも役割ができるかわかりませんから。

坂元さん:でも、子どもである居住者がしっかりしていれば、親御さんと同居されてもいいんですよ。ヘルパーさんに来てもらう程度のケアで済むんであれば問題ないです。その場合、親御さんはかんかん森での役割を担う必要はありませんよ。

聞き手:そうですか。

坂元さん:でもお父様、お母様どちらが先とか、いつとか全然わからないでしょう。

聞き手:わからないですね〜。今のところ元気ですし。母は毎年「今年が最後」と言いながら海外旅行についてくるし!(笑)

坂元さん:人間いつ、どう死ぬかなんてぜんぜんわからないわよね。わたしの母は戦争未亡人で本当に苦労した分、とてもしっかりした人でした。日中友好協会や婦人民主クラブに長野県で参加していた人で、老後も子どもたちの世話にならず、ひとりで暮らしていましたけどー。最後の9カ月はめちゃめちゃでした。

聞き手:認知症、でしたか?

坂元さん:認知症にはならなかったけど老人ボケと言うのかしら?わたしのところに呼んで、9カ月間一緒に暮らしました。当時、わたしは仕事が忙しく帰りが夜遅かったので、ヘルパーさんだけで間に合わないときは、知り合いに頼んでわたしが帰るまで母といてもらっていました。週末仕事があれば妹に来てもらったり。あれだけしっかりしていた母がなんでこんなにダメになったのかと本当に残念でした。当時は、コレクティブハウスの実現化に向けて度々打合せをしていた頃でしたから、活動仲間のみなさんにわたしのところに来てもらってミーティングをやっていると、「会議ばかりやっていないで早くコレクティブハウス作りなさいよ」と母が言うの。「お母さんに言われなくたって作りたいのはやまやまよ」と返したり(笑)。

聞き手:でも、そういう意味では頭がしっかりしているじゃないですか。

坂元さん:まだらボケね。ある日、あまりに介護が辛いので、1週間ショートスティに行ってもらおうと思って手配したんです。母が出発する日、わたしは朝から銀座の生活科学運営の事務所で、実現が決まったコレクティブハウスの件で打合せがあったので出掛け、妹が母をタクシーでショートスティ先に送り届ける手筈でした。そうしたら、会議中に妹から電話があって、「お母さん、死んじゃった」と−。タクシーの中で亡くなったんです。ショートスティには行きたくないと拒否したんですよね。。

聞き手:そうですか−!その朝は、亡くなるような雰囲気ではなかったんでしょう?

坂元さん:そう。でも、心臓が弱っていたから−。土曜日だというのに家で親の面倒も見てあげなくて、かんかん森をつくるための会議の真っ最中で、生活科学運営の会議室にいたなあと思い出します。母親の死に目に会えなかった。。まあ、何をやっていてもそういうことはあっただろうから。

聞き手:でも、妹さんが一緒にいらっしゃったので、お母様ひとりじゃなくて。

坂元さん:そうね、妹がいたから、まだよかったわね−。とにかくどんな風に親が亡くなるかなんてわかんないでしょう。

聞き手:そう、親に限らず、命あるモノ、老若男女、いつ寿命が途切れるかわかりません。昨今の事件、事故を聞いていてもそう思いますね。わたしは、入院するまでつつがなく生活し、入院して2週間目の晩に「明日の朝は小豆アイスが食べたい」と家族に言って翌朝すっと亡くなった、享年95の祖母に「わたしも同じコースにしてください!」と毎晩お祈りして寝ます!(爆)

(おわり)

ゆるやかな団結のもと、プライベートと多世代で住まうコミュニティーの生活をお互い気持ちよく両立させていく、継続していくにはどうしたらよいか、みなさんはどうお考えでしょう?

ひまわり2





(17:15)

2019年07月07日

かんかん森The Interview第21回は居住暦15年の坂元さんのご登場。ここのシニアメンバーのお一人ですが、そのよどみない喋りと記憶力、エクササイズのクラスでも若い人に引けを取らない体力、リーダーシップ力、元祖キャリアウーマン、女性の権利活動家、それでもって料理も上手などなど、まったく、どこから切っても「アメージング!」と叫びたくなるような人にわたしには映ります。そんな坂元さんにまず聞いてみたいのが、女性は専業主婦になるのが極一般的だった時代に、そのキャリア志向はどのように始まったのかということ。恐れ多くも一刀両断させていただくことにしました!なお、かなり長編インタビューとなりましたので、2回に分けてお届けします。



聞き手:坂元さんはご出身は東京ですか?

坂元さん:東京です。東京で生まれて、行っていた幼稚園の名前が番長幼稚園(笑)。

聞き手:番長?なんて当たりなネーミング。いや、失礼!(笑)

坂元さん:笑いすぎですよ、番町ちがい、小学校も番町国民学校で1年生まで通ったんですけど、戦争で―。この前、かんかん森の若い居住者の方に「一番大変な目に遭った災害はなんですか?」と聞かれたので「東京大空襲です。」と答えたらびっくりされたんですよ。そんな時代に生きていたんだって思ったんでしょうね(笑)。あれは終戦の年、昭和20年3月10日、まだ昼間だったんですが、突然辺りが暗く、赤黒くなったのを今でもすごくよく覚えています。その頃大学の研究者だった叔父が同居していて、空襲の翌日、なんとか大学から戻ってきたんですが、黒こげになった遺体をまたぐようにして歩いてきたと言っていました。父親が昭和19年に中国に出征していたので、当時、父はいませんでした。叔父は理系の人で召集はされず、祖母、叔父、母、弟1人と妹2人と私の7人家族で暮らしていました。空襲を見て、これは大変だということで家族で急遽、長野県に疎開。結局、父は戦死し、東京の家も焼けてしまいました。戦後、疎開先から東京に戻った人も大勢いるのに、母はなぜか戻らず、結局、わたしは高校卒業まで信州にいました。だからわたしを長野県出身だと思っている人もいるようです。

聞き手:そうでしたか。お父様は戦死されたんですね。お母様はお仕事をされていたんですか?

坂元さん:母は専業主婦でしたけど、夫を亡くして、家族を養うために長野県の飯田市で市役所の職員として働き始めました。

聞き手:専業主婦だったお母さんがよくすぐに公務員になられましたね。

坂元さん:当時は、高等女学校を卒業しているくらいでも田舎では学歴があるほうだったんです。それに、本当は、母は職業を持ちたい人だったんだと思います。母は学生時代、歯科医専に入学したんですが、父親を結核で亡くして学業を中断せざるをえなくなり、その後、お嫁に行きました。

聞き手:坂元さんはお母様からかなり影響を受けていらっしゃる?

坂元さん:母は別にわたしに何を言ったわけでもないんですけど、わたしは高校生のときからずっと職業を持つと考えていました。お嫁さんになるとか一切考えていなかった。中学生くらいのときも「将来なにになりたい?」と聞かれると、お嫁さんやお母さんと答える女の子が当時は多かったけど、わたしは、「お嫁さんやお母さんとは『なにかなるもの』ではないでしょう!」と思っていました。そういえば、高校2年のときに弁論大会があって、わたしが行っていた学校はもともと男子校で―。

聞き手:男子校に行っていたんですか?

坂元さん:戦後までそれぞれの都市に中学校と女学校があって、中学校は男子校だったんです。それが、戦後高校となり徐々に共学になっていきましたが、当時は、女子生徒の数はまだとても少なかったんですよ。でも、そういった学校に行ったことで、絶対に男性同様に勉強するんだと考えていたんだと思います。

聞き手:「知力では男子に負けません!」とね(笑)

坂元さん:高校まで男子と一緒にやっていて、同じくらい勉強できればね(笑)。それで弁論大会に出ることになって、自分で選んだテーマがなんと「女性はいかに生きるべきか」だったんですよ!そうしたら優勝してしまって、次の県大会でも入賞し、全国大会まで行ってしまって、中央大学の大講堂で「女性はいかに生きるべきか」としゃべって―。「あら、わたしは人前でしゃべることは平気なんだわ」と気づきました。

聞き手:すごいですね!結果はどうだったんですか?

坂元さん:全国大会では優勝しなかったですね。

聞き手:女性はどう生きるべきだと話されたんですか?

坂元さん:もう覚えてないんですけど。

聞き手:高校生にしてそういうテーマの弁論をされるというのは、お母様以外にも影響を受けた人がいらっしゃるとか?

坂元さん:ちょっと話がややこしくなりますけど、大学にいた叔父が統計学者になって結婚し妻とともに東京で暮らしていたんですが、妻が出産とともに亡くなってしまい、祖母が70歳にして孫の赤ん坊を育てなくてはならなくなったんです。お手伝いさんと祖母だけでは大変だったので、当時中学生になる年齢だったわたしが手伝いうことになって、長野から東京の叔父の家に移って、3年間暮らしました。東京の中学に通いつつ、祖母の話し相手をしたり、赤ん坊の世話を手伝ったり。その3年間に叔父がわたしを教育したかもしれませんね。叔父の書斎から本を出して読んだり、叔父がわたしに読ませたい本を買ってきてくれたりしていました。そのうち、叔父が再婚して、その相手の女性も学者で国際会議に出席するような人でした。彼女も結構わたしを励ましてくれましたし、母も働いているし、そういう環境だったから、絶対、わたしも仕事を持つんだと考えていたと思います。そのうち大学生になるとボーヴォワール*の本を読んで、「経済的自立はなくして人間としての自立はない」という考え方に完全に影響されましたね。一生、自分で稼いで食べていくと決めました。
*シモーヌ・ド・ボーヴォワール1908-1986 フランスの哲学者、作家、フェミニスト理論か・活動家。代表作『第二の性』は20世紀西欧の女性解放思想の草分けとされる。

聞き手:「経済的自立なくして精神的自立はない」とわたしもずっと考えてきました。精神的自立はない、つまり人間としての自立はないということですね。でも、実際に社会に出ると、やはりまだ男社会なわけですよね、壁を感じたりしましたか?

坂元さん:就職ですよね。当時は大学の就職課に情報を探しに行っても「女子も可」という募集はほとんどなかったんです。新聞社か放送局に就職したかったんですけど、新聞社は男性しか採用しないし、放送局は女性を制作系の仕事には採用せず、唯一、女性に可能性があるのはアナウンサーだけでした。放送でしゃべるには少しは女性が必要だったんでしょう。わたしは別にアナウンサーになりたかったわけではないですが、人前で話すのは平気だし、標準語をしゃべれましたから、それでTBSの採用試験を受けて合格し入社しました。

聞き手:テレビニュースなどを読んでたんですか?

坂元さん:いえいえ。当時はテレビニュースなんて女性には読ませません。女性がテレビニュースを読むようになったのは1980年ですよ。

聞き手:え、そんなに遅いんですか?!(と、マイケルジャクソンのオフ・ザ・ウォールが出た頃じゃないかとMJファンの私は連想してしまう。。)

坂元さん:私が就職したのは1961年。その頃は、女性はラジオで「桜の花が咲きました」とか「おひな祭りが〜」とか、そういうものだけ読んでました。

聞き手:つまり当たり障りのない話題ってことですね。

坂元さん:わたしが仕事で1979−80年頃にニューヨーク行ったとき、女性のアンカー(メインキャスターで制作にも携わる人)が一杯いて信じられませんでした。日本では、ようやく放送局が女性に一部のニュースを読ませ始めていた頃でしたから。わたしは最初から早くアナウンサーを辞めたくて、制作部に異動させてほしいと言い続けていました。そのうち、ベトナム戦争へのアメリカの大規模介入が始まり(1964)、反戦運動を通して学生運動が再び盛んになり、成田の三里塚闘争*がおこり(1966)、全共闘(全学共闘会議、1968)があって、時代は大きく動いていました。
*三里塚闘争(さんりづかとうそう)は、千葉県成田市の農村地区である三里塚とその近辺で発生し継続している、成田市・山武郡芝山町の地元住民および新左翼活動家らによる新東京国際空港(通称:成田空港、2004年4月1日以降の正式名称は成田国際空港)の建設または存続に反対する闘争(紛争)。
1970年にわたしはTBSを辞めて、同じ思いの同僚たちとテレビマンユニオンという日本で最初の制作会社を作りました。それも、ベトナム戦争や成田の反対闘争の番組を作った記者やディレクターたちが全く関係ない部署に飛ばされたことがきっかけでもあります。ならば一緒に自分たちの会社を作ろうと。実際に番組制作の仕事ができるようになったのはそれからですね。この会社も来年の春で50年になります。

聞き手:制作会社を作ってすぐに仕事が来るようになったんですか?

坂元さん:TBSの社長もアメリカのケースを見ていて、日本もこれからは独立プロダクションが番組を制作する流れが生まれるだろうと考え、わたしたちをサポートしてくれました。それで、まずTBSの番組を2本ぐらいやって、半年後から日本テレビ系の「遠くへ行きたい」という番組を制作し、それから徐々にいろいろな民放の番組をやるようになっていきましたね。NHKをやるようになったのは随分後からです。

聞き手:番組制作の取材などで国内海外いろいろ行かれましたか?

坂元さん:海外に行くほうが多かったですね。景気の良い時代だったので制作費が沢山あったんです。だから本当にいろんな番組をやって、いろんなところに行きました。1年のうちの3分の2くらい海外に行っていたこともあります。その間に子育てもやっていました。

聞き手:わあ、それは大変ですね。

坂元さん:今でも息子はひがんでますよ、面倒みてくれなかったと(笑)。

聞き手:子育てとキャリアのピークって重なりやすいので大変ですよね。担当された番組で最も思い入れのある番組はありますか?

坂元さん:『何でもみてやろう』を書いた作家の小田実(おだまこと)さんと制作した番組が一番心に深く残っています。彼はベトナム戦争が始ると「ベトナムに平和を!市民連合」を結成して平和運動をやっていたんですが、わたしも個人的にベトナム反戦運動にすごく深く関わっていましたし、また、テレビ番組の制作者としてもベトナム戦争に関する番組にアメリカから人を呼んだりしていました。小田さんとは反戦運動を一緒にやったり、番組に出演いただいたり、取材で一緒にベトナムやアメリカ、ヨーロッパに行ったりして、公私共に付き合いがずっと続いていたんです。彼が12年前に末期がんで余命4ヵ月という状態になってしまった時、ご自宅に行ったら「まだまだ一杯言い残しておきたいことがあるから、あなた撮りなさい」と言われて。。。彼は聖路加病院で亡くなるまでずっと語り続られたんですよ。ここ(かんかん森)から聖路加までわりと近いので、「今日は体調がいい」とご家族がわたしに電話をくれると、小さいカメラを持ってタクシーに乗って駆けつけました。最後の最後まで口述筆記してもらいながら執筆している様子を撮って、「小田実 遺す言葉」という番組を作りました。その番組はもう20回くらいNHKで放送されています。賞(放送批評懇談会の「ギャラクシー選奨」と「ATP優秀番組賞」)ももらって。わたしとしてはあの番組が一番印象に残っています。

聞き手:語られた内容はベトナム戦争のことですか?

坂元さん:それも含めてあらゆることを語られていました。当時は第一次安倍内閣の頃で、「改憲、改憲」と安倍さんが言っているので、小田さんは「憲法を変えてはいけない」と話されていましたし、経済の話もしていました。

坂元さん:とにかく、わたしはベトナム戦争から離れられないんですよ。ベトナム戦争ってアメリカが北爆をして泥沼になっていくんですけれども、そのきっかけとなった「トンキン湾事件*」というのはアメリカが仕組んだフェイクだった――北ベトナムによって先に攻撃されたから北爆するんだと自分たちを正当化していたんです。*トンキン湾事件は、1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。 これをきっかけに、アメリカ合衆国連邦政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。
それをスクープしたのがニューヨークタイムズのニール・シーハンという記者ですが、彼にも戦争が終わってすぐに呼んで番組に出てもらいました。ジャーナリストとしての彼には素晴らしい話を一杯聞けて本当によかった。ついこの前も、『科捜研の女』というテレビドラマの、ベトナム戦争時一時は脱走し、後に戦場に戻った兵士が、50年経ってPTSDに苦しみ、思い出の京都に来て死ぬというストーリーの回で、脚本家やプロデューサーに資料を提供して脚本を書くのをお手伝いしました。そういうふうに、ずっと私はベトナム戦争をひきずって生きているなと思いますね。

聞き手:ベトナム戦争がベトナムにはもちろんのこと、アメリカに与えた影響も相当深刻ですよね。

坂元さん:そうですね。ベトナム戦争前は、わたしはアメリカの大国主義や世界の警察は自分たちだという大きい態度が大嫌いだったんです。でも、ベトナム戦争で初めて挫折し傷ついたということで、初めてアメリカが好きになりました。それで少しの間アメリカに行って暮らしてみようと思って行きました。今はトランプになってひどいけれど。

聞き手:私はトランプが出てきて、アメリカは普通の国になりたいと雄叫びを上げている気がしています。世界の警察だと言い続け、どこかで紛争が起こると自国の兵士を送り、戦死しても平然としてきたでしょう。本人や家族にとっては何のために命を落としたかわからないわけです。そういう意味でアメリカはとんでもない国だなと思っていました。

坂元さん:日本だって、戦前、戦中は兵隊なんて虫けらみたいな扱われ方でしたよ。わたしたちには憲法があるから戦後70年間戦争に行かない、殺さないし殺されないものだと思っている。それが当たり前になっているから、ひとりでも死んだら大変なことになります。今、わたしが一番関心があるのは、「安倍政権には退いてもらいたい、安倍さんには憲法を変えてもらいたくない」ということです。

聞き手:憲法って一般的な認識としては戦後にかなり急いで作られて、書いた人間は日本人じゃなかったりとか―。

坂元さん:押しつけだとか言われるけど、70年間自分たちが育ててきた憲法だと思います。

聞き手:確かに戦争を行わないというところは重要だと思うけど、他のところは時代の変化に伴い、より現状に適したものに変えることってアリじゃないかと思うんです。

坂元さん:安倍さんじゃなければ、未来永劫、憲法を変えてはいけないとは思いません。安倍さんの改憲はすごく危ないんです。安保法制*ができたときに、自衛隊は他国の戦争に行けるようになっています(*このサイトに安保法制についてわかりやすい説明があります)。まだ行ってないけれども、アメリカが戦争すれば同盟国として行くことになります。安保法制は違憲だと訴訟が起きていますが、安倍さんはそういうふうに言われないように改憲し、憲法でも整合性を持たせようとしているんだと思います。他の部分でも、たとえば「結婚は両性の合意のみに基づいて成立し」と今の憲法に書いてありますが、このくだりの「のみ」という文字を取ろうとしています。昔はお父さんやお兄さんが結婚を決めるケースが多かったでしょう。両性の合意だけでは結婚できなかった。だから文面に「のみ」を入れたことがとても重要なわけです。その「のみ」を取ろうとしている。安倍さんの改憲案を全部読めばそうなっていることがわかります。

聞き手:それって時代がバックしていませんか?

坂元さん:安倍さんは時代をバックさせたいんですよ。

聞き手:え、それでどんなメリットが彼にあるんですか?

坂元さん:安倍政権は「日本会議」という神社の全国組織が中心になっている保守団体にバックアップされていて、神の国とされていた昔に日本を回帰させたいわけです。

聞き手:彼の思想ということですか?

坂元さん:そうですね。だから女性天皇なんてとんでもない、皇族は万世一系の男系男子のみだとも主張しています。夫婦別姓になったら家制度が壊れるとも言います。

聞き手:じゃあ口先三寸で「女性が輝ける社会」と言っていると?

坂元さん:笑っちゃいますね(笑)。輝けると言ったってね、とにかく女には子どもを産んでもらい、労働力として働いてもらおうと考えているだけで、女性の権利を守るようなことはなにも整えていないでしょう。だからわたしは安倍改憲については反対です。そのために改憲反対の街頭署名にも立っているんですよ。

聞き手:今のところ安倍さんはある意味、世界レベルでも長期政権で、外からは安定していいるように見えるでしょう。ヨーロッパでも非常に不安定な国が多いし。

坂元さん:さらされていないからね、安倍さんは。たとえばドイツもイギリスもさらされているじゃないですか。EUに参加するとかしないとか、移民問題とか。そういう意味では、日本はアメリカに追従するだけでほとんどさらされていないですよ。だからこそ安泰っていう感じですね。

聞き手:逆に言うと野党が弱すぎるかなと思いますけど。安定を望む若者の間では、自民党、安倍さん支持者が増えていると聞きます。安倍さん、海外飛び回って、力があって、かっこいいじゃんと思っているのか――。

坂元さん:日本の若者はさらされることを避けています。就職氷河期の頃の若者は別として、今は売り手市場だし。せっかく教育を受けているのに想像力がなさすぎです。沖縄や福島がどういう状況になっているのか、本当のことを知ったら、それほど安泰ではないことがわかります。普天間の代わりに辺野古が必要だといいますけど、例えば辺野古は地盤が軟弱で、杭を打つのに膨大なお金をかけてこの先何十年もかかるんですよ。アメリカの軍事専門家には、アメリカの海兵隊は沖縄に置かなくても、グアムでもハワイでも西海岸でもいいと言っている人がいます。普天間の代わりに辺野古しかないというのは本当か、ということを若者にもっと勉強して考えてほしいです。本当のところはどうなっているのかと情報を得ようとすることがあまりになさ過ぎますね。

聞き手:これだけ情報が得られる時代に皮肉ですね。

坂元さん:隠されてしまうことはありますからね。都合の悪いものは隠され、改ざんされ、捨てられる。政府はそういうことをするもんだよと諦め、怒らない国民。私はひたすら「怒れ!怒れ!」と思っているんだけど。自衛隊の話に戻りますけど、わたしは自衛隊は戦争に行かなくても、災害大国日本としての経験値を活かして災害復旧支援で国際貢献ができるでしょう。そこがいいと思っています。アフガニスタンに水路を作った中村哲さんという医師がいますが、彼はもともと医者としてアフタニスタンに行って現地の人たちの治療に当たっていたものの、子どもの病気については、どれだけケアしたところで水がないからまた病気になってしまうのだそうです。だから肝心なのは水だということで、彼はペシャワール会という組織をつくって福岡で活動を始めました。会には何億という寄付金が集まるそうですが、それをアフガニスタンに持っていって、カラカラに乾いているところに、山から水を引いて、緑色の畑を作っています。彼はそういった活動を20〜30年やっていて、テレビ番組に出ていただいたのをきっかけにお近づきになれました。中村さんが言っていましたが、日本は軍隊を持たないので、日本人がアフガニスタンのようなところに来ても丸腰だから襲撃されないし、敵視さないと。西洋諸国から来るボランティアには襲撃されて命を落とす人がたびたび出るそうで、それは軍隊を持っている国の人間だから敵視されやすいのだそうです。だから、「日本が軍隊を持つよういなったら僕たちは安全ではない」と言っていました。そういう考え方が大事だと思います。軍隊を持っている分、敵も作りやすく、民間人でも襲撃されてしまうのです。

聞き手:そうやってこれまで活動されてきた中で、実を結んだことはありますか?

坂元さん:ベトナム戦争に育てられたという言い方はおかしいかもしれないけど、いろんな意味できっかけを与えられましたし、アメリカを好きになった部分もありました。だからニューヨークに行って暮らしてみようかという気になった。テレビマンユニオンを作るきっかけにもなりましたね。最初13人でTBSを辞めて作ったんですが、今は3〜400人の社員がいます。結婚退職や出産退職する人はいません。番組制作の現場でも子どもがいても働くのが当たり前だったから、みんな産休、育休をとってちゃんと戻ってきて仕事を続けました。生まれた子どもたちは社会人、大学生になっています。最近は男性も育児休暇を取るようになりました。それもわたしたち創業メンバーがリベラルであることを大事にしてきた成果かなと思っています。(つづく)

坂元さんインタビュー第一弾はこれまで。いかがでしたか?もうお聞きすればするほど興味深いお話、勉強になるお話、スリリングなお話がどんどん出てきて止まりません。NHK連続テレビ小説にしたらどうかって感じです!次回は多世代の共生を特色とするコレクティブハウスかんかん森の現在そして将来について熱っぽい語り合いをお届けします。ご期待ください!

べ平連
坂元さんがどこかにいらっしゃるらしいのですが、わかりますか?

(16:18)

2019年06月04日

年度の切り替え時期で慌ただしいかんかん森。
先月のコモンミールをようやくアップします。
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カレーはよく登場するメニューだけど、作り手によって具材や付け合わせのセレクトが違って、おうちで食べるのとは違う味が楽しめるのがコモンミールのいいところ。
この日は手羽元を使ったチキンカレー。
デザートはカルピスを寒天で固めたゼリー。

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30人ともなると食材の量がすごい。
でっかい大根2本はツナと合わせてサラダに。


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生ウコンでターメリックライス。すりおろしたウコンは鮮やかな黄色。
菜園テラスのローリエ、チキンブイヨンも入れて炊飯!

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炊きあがり。味が均一になるように混ぜます。
子どもたちには白米が人気。

手羽元を圧力鍋で骨から外れるほど煮込んでほろほろに。
終盤の鍋は遺跡発掘現場みたいだった…。
じゃがいもは後入れにして正解!

(22:55)

2019年06月02日

「かんかん森The Interview第20回は、パートナーのYutaさんと共にかんかん森に住んでおよそ1年のShihoさんのご登場。実は聞き手のわたしはこれまでShihoさんとあまりお話する機会がなく、どんなお話が聞けるだろうとワクワクしていました。結果、ワクワクを通り越し、「なるほど」「そうだったのか!」の連続。自分の勉強不足を猛省するとともに、こんな話を聞ける出会いをもたらしてくれるかんかん森に感謝したくなりました。ぜひ読んでほしいです。

聞き手:コモンミールにYutaさんお一人で来られることが多いですが、Shihoさんはお仕事か何かでいらっしゃらないんですか?

Shihoさん:Yutaさんは在宅の仕事なのでコモンミールによく出られるのですが、わたしの場合は土日休みとかではなく、シフト制なので。ゴールデンウイークも5月1日〜5日だけお休みでしたし。

聞き手:どんなお仕事ですか?

Shihoさん:母子自立支援施設で働いています。うちもシングル家庭だったので、母親の軌跡を感じたり、職場が人々の生活の場でもあるので、いろんな人の生活を見ることができてとても興味深いです。その前は番組制作の仕事をしていて、そこでわたしが担当していた番組の編集をYutaさんがしていて知り合いました。

聞き手:そうだったんですね。制作の仕事ってお時間が不規則だというイメージがあるんですが。

Shihoさん:わたしはNHKの番組を担当することが多かったので、多分、民放に比べてそこまで時間が不規則でもなかったと思います。

聞き手:どんな番組を担当されてたんですか?

Shihoさん:NHK BSの『世界わんわんドキュ』とか。犬の視点からその国の生活や人を知るという切り口のドキュメンタリー番組でした。

聞き手:へえ〜、では取材で海外によく行かれたんですか?

Shinoさん:わたしが行ったのは台湾だけです。台湾への留学経験があって中国語が少しできるので行きました。

聞き手:具体的にはどんな業務を担当されていたんですか?

Shihoさん:ロケ隊が出発するまでの準備もろもろ、現地コーディネーターに犬を探してもらうとか、コーディネーターへの細かい指示とか。

聞き手:なるほど。台湾に留学されていたということですけど、学生時代ですか?

Shihoさん:社会人になってからです。本当は中国に行きたかったんですけど、出発予定日のぎりぎりまで学生ビザの準備をしていなくて。。ちょうどその頃、中国のビザ申請方法が変わってしまって、間に合わなかったんです。もともと中国の南の方に行きたいと思っていたので、台湾なら近いし、一回の入国で3カ月間滞在可能で、その間に学生ビザを申請すればよいと思い、台湾に留学しました。

聞き手:そうですか。わたしはまだ台湾に行ったことがないんですが、前の勤め先の同僚が台湾はとにかく人が親切で大好きと言って、台湾での仕事を見つけてあっさり退職して行っちゃいましたよ。

Shinoさん:たぶん、日本人にとって中国大陸と比べたら台湾は住みやすいところだと思います。個人的には、人口比で考えればどの国にも優しい人はいるかなと。台湾は大きさが九州くらいで、ただ単に人口の分母が小さいから優しい人に出会う確率が高いのではないかと。中国にだって優しい人はたくさんいますし、台湾が特別ではないとわたしは思っています。

聞き手:確かに。台湾にはどれくらいの期間留学されていたんですか?

Shinoさん:1年くらいいました。留学前から台湾には何度か行ってたので台湾や日本で出会った台湾人の友たちが多くて、留学というより遊学でした。大学の語学センターに通って、知り合いのお宅に住まわせてもらって。

聞き手:台湾の好きなところは?

Shihoさん:台湾は朝ご飯のオプションが多くていいなと思います。朝早くから開店してお昼には閉まってしまうような朝ご飯専門のお店もたくさんあって。油飯と書く日本でいうと「おこわ」みたいなものや、豚の血を固めてつくったものがすごく好き。それ(後者)が入ったスープ、豬血湯と書くんですが、これが大好物でした。

聞き手:血ですか?日本ではあまり食べないですね。でも健康によさそう。

Shinoさん:そうなんです。女性は生理のときに食べるといいと張り紙がはってあるお店があったりします。あと、みんなが割と自分の好きな格好をしていますね。そこもいいなと思っています。日本は年齢に合った服装をするとか、職場に見合う服装をするとか、そういったことを期待されるところがありますけど、台湾では本人も周囲の人も何を着ていても気にしません。日本人は外見を重視するけど、あちらの人はそこまで外見にとらわれず、あまり気にしない自然体なところがいいですね。

聞き手:なるほど。では残念に思うところとかは?

Shihoさん:わたしは辛いモノ好きなんですが、台湾にはおいしいタイ料理屋がないんです。首都台北にも!台湾ではそれほど辛い料理が食べられていないのです。

聞き手:そうですか〜意外ですね。わたしも激辛好きで、タイ料理は世界一好きな料理ですからちょっと残念(笑)。

Shihoさん:それから、対中国に対するメンタリティーが台湾人と日本人とでは似ているから、日本人にとっては住みやすいのかもしれません。自国より下と思っていた国があれだけ経済発展してしまって脅威を感じ、本当は仲良くはしたくないんだけどせざるをえない―そういう中国への複雑な感情が似ているんだと思います。もちろん台湾と日本が中国と経てきた歴史は違うのですが。

聞き手:なるほど。中国にも行ったことがあるんですか?

Shihoさん:はい、実のところ、台湾より中国のほうによく行っていて。中国に通い始めて中国語を勉強しなければと思ったんです。

聞き手:初めて行ったのはいつ頃?

Shihoさん:学生時代に初めて行きました。2週間くらいピースボートに乗って南京、上海、北京などに行ったのが初めての中国。それまでに韓国に何度か行ったことがあったんですけど。

聞き手:じゃあ初めての外国は韓国だったんですね。その後、中国はいろんなところに行ったんですか?

Shihoさん:あまり観光はしたことがなくて、北京や上海、雲南などは行ったことがあるんですが、もっともよく通っていたのは中国の一番南、海南島というところです。

聞き手:えっ、「通う」ほど行っていたということですか?それは場所が素敵なところだから?

Shihoさん:そうですね―。そもそも韓国に行き始めたのも、戦争の問題に関心があったからなんです。日本語では「慰安婦」問題と言われますが、戦時性暴力の問題に特に関心があります。それで韓国のおばあさんたちに会いに行き始め、途中で中国の海南島のおばあさんたちと知り合い、それからそちらに通うようになりました。台湾も被害者の方にお会いするために何度か行っているわけです。そういうつながりで、韓国や台湾、アジア各地にお友たちが出来ていきました。

聞き手:海南島には被害者の方々が多く住んでいらっしゃるんですか?

Shihoさん:日本軍がいたところであれば、どこにでも被害者はいます。被害者たちが日本で起こした裁判に関わっている友人がいて、あるとき誘われたことをきっかけに海南島に行くようになりました。ちょうど学ぶだけではなく、自分でも行動をしたいと思っていた頃でしたし。

聞き手:それは大学の専攻と関係あります?

Shihoさん:いえ、全くないです。実家が浜松で、工業都市のため戦時中は空襲被害にあった話は祖母から聞いていました。わたしはおばあちゃん子だったので、子どもの頃に祖母がその話を度々していたことを彼女が亡くなったときに思い出し、祖母を失った喪失感から祖母の生きた時代のことを勉強してみようと考えました。それで、戦争と名のつく勉強会にひたすら通う中で、一番関心を持ったのが戦時性暴力の問題だったんです。わたしは祖母から被害を受けた話ばかりを聞いていましたが、祖母と同世代の女性が日本人の人たちに酷い目に遭わされていた、自分たちが加害者側でもあったことにびっくりし、さらに関心を持って勉強しました。

聞き手:なるほど―。そんな深いきっかけがあったんですね。

Shihoさん:おばあさんたち(現地の言葉であぽ)は海南島の山奥の農村に住んでいて、そこに行くには公共交通機関が途中までしかないので、途中からはその辺のバイクのおじさんなどに乗せていってとお願いするしかありません。もちろん、英語も日本語も話せる人などいません。それで4回ぐらい行った頃に、やっぱり中国語を勉強しないといけないなと思いました。

聞き手:いやあ、言葉も通じなくてそんな山奥に行くなんて、勇敢ですね。

Shihoさん:いえ、勇敢とかではなくて。かんかん森には向上心や目標を持って生きている人たちが多くてすごいなと思うんですけど、わたしはそういうものがないんです。ただまったり穏やかに生きたいというか。失うものが何もなかったので怖いと思うことなく行けたんだと思います。

聞き手:それにしてもどうやってコミュニケーションしたんですか?

Shihoさん:まあ、漢字で書けばなんとか分かります。それでも中国語が出来たほうがいいと思って、こつこつ勉強できないタイプなので留学しようと―。

聞き手:でも最初に行ったときに何の目的で来たのかいろいろ説明する必要がありませんでしたか?

Shihoさん:最初は日本での裁判準備で、弁護士と精神科医が聞き取り調査に行くということで、それに便乗したんです。その際、海南島の観光を管轄する部署の役人が案内をして、車移動で便利だったんですけど、その分、行動を制限されたというか―。おばあさんのふだんの生活を見に村に行きたいと言っても、「東京から来た若い子がそんな村に行っても面白くないよ」と言われて行けませんでした。だったら次から自分たちで行こうと思い、友だちと行ったり、ひとりで行ったり。それでさすがに中国語を勉強しなければと思って、冒頭でお話したようにビザの問題などがあって、結局、台湾に留学しました。。

聞き手:被害者の方々が住んでおられるところに日本人が行って拒絶されたりしませんか?

Shihoさん:「日本人には会いたくない」と言う人ももちろんいます。日本軍が帰って、初めて会った日本人がわたしだという人もいました。日本軍がいきなり来て、酷い事をして戦争が終わって帰った。心も体(人によっては日本軍の暴行で子どもが産めない身体になった)もぼろぼろだけど、泣いていても食べていけないので、働き、子どもを育て、時間が過ぎた。それでわたしが来た、という感じです。大陸の中国人でさえ来るような場所ではないので、中国語も出来ず、よくここまでひとりで来たなと受け入れてもらうことが多かったですけど。

聞き手:許してくれている―?

Shihoさん:時間が経ったからといって心や体の傷が癒えるものではないので、許す許さないということではないのかなと。コミュニティによって違うんですが、日本人から辱めを受けた人間ということで同じ村の人からも差別を受けたり、一方では、コミュニティのみんなが同情して寄り添ってくれたりと、日本だと「慰安婦」という言葉で一括りにカテゴライズされますが、あぽたちの人生は本当にひとそれぞれです。

聞き手:なるほど。「慰安婦」問題は今でもよくニュースになりますね、特に韓国で。この問題に深い知識があるわけではない者としてニュースを聞く限りでは、日本政府は、すでに解決した問題を蒸し返す韓国がおかしい、韓国はなぜ日韓合意を守らないのかという国際法上の問題だととらえている感じがします。国内で起きている騒ぎを放置している韓国政府に憤慨していますよね。その辺どうですか?

Shihoさん:日本人は謝った気になっていますね。でも、実際に何をしたの?どんな風にお金を払ったの?「日本もー充分謝ったよね」って考えている人でディティール(詳細)を理解してる人ってどのくらいいるんだろうって思います。例えば、アメリカの占領政策は、日本の非軍事化と民主化を進めていこうというものから冷戦の論理に転換されたわけですが、日本の戦後補償ってそのことに影響を受けています。それで、サンフランシスコ講和条約は― 日本の復興が遅れるとアメリカの負担になるし、冷戦の最前線だったアジアの不安定要素になっちゃうよねってことで、日本には早く経済的に立ち直ってもらって他国との関係を正常化させ、自由主義陣営側として国際社会に復帰させることを最重要視して― 無賠償と経済協力という性格のものになってるんですよね。また参加を求めた南北朝鮮や中国の参加は認められなかったりとか。戦後の状況や大国の論理によってほとんどの国が賠償を放棄させられてたり―。賠償協定をなんとか結んだ国もありましたが(インドネシアやフィリピンなど)、それは「賠償」という名の経済協力や貿易であって、被害者個人への補償はありませんでした。韓国との間に結ばれた日韓請求権協定も、日本側が朝鮮への植民地支配は合法だったという前提に立った戦後処理を想定していて、「慰安婦」問題などの戦争犯罪は想定されてないんですよね。適切な賠償がされたのかなって歴史を丁寧に見ていくと、とても解決したと言えるものではないんです。日韓合意でも被害者の人たちは置き去りにされてるんですよね。「慰安婦」制度を作った責任の主体はあいまいなままで法的責任を認めず、政府出資の10億円は支援金であって賠償ではありません。また、歴史教育などの再発防止策は一切なく、この点では河野談話より後退しています。それでもって加害者側が、被害者にお金払うから自分たちでケリつけろよ、みたいな。韓国国内での市民たちの運動に対して、お金払ったから韓国政府どうにかしろよ、みたいな日本の人の感情があるみたいです。でも、沖縄で基地反対の行動をしている人たちを日本政府が排除しようとしたら大きな問題ですよね。国と個人は別ものとして考えるべきだし、政府が個人の思想や行動を制限することはあってはならないと思います。今の日本の態度って、例えば、自分が車を運転して死亡事故を起こしお金払いました、だからもうこの事故については何も言わないでください、お金払ったし、もーたくさん謝ったのにまだ謝らないといけないんですかね?― みたいな感じでめっちゃ上からきてるし、許す許さないってそもそも加害者が決めることではないですよね。被害者の人の気持ちが癒されたり、納得いったりして、それでやっとって感じだと思うんです。もちろん、もう同じ事故は起こしませんと約束することも大切です。

聞き手:学校教育でも「慰安婦」問題は教えられていませんよね。

Shihoさん:残したくない歴史なのかなと。中国でも「慰安婦」問題は深いところまでは教えられていないから、若い子たちも言葉は知ってるけど、詳しくは知らなくて誤解している子もいます。まずは事実をちゃんと知ることが大切です。ちゃんと知ろうとしてないのに「お金を払ったし、終わった問題でしょ」という上から目線の態度はどうなのかなーって。被害者側が「もういい」というのならいいですけど、加害者側から「もーよくない?」というような態度を取るべきではないと思います。

聞き手:その通りですね。なぜ学校教育で教えられないのかしら?

Shihoさん:戦後補償の問題は、毒ガスや徴用工強制連行、731部隊の人体実験問題などいろいろあるんですけど、その中でも「慰安婦」問題に対しては過剰な反応を示す人が多いです。他の問題なら命令されてやったと言って済ませられますが、性暴力はその人個人が問われるというか。その人自身の性の問題と考えられるから英霊がそんなことするわけがないとかってなるんでしょうね。。命令されようがされまいが、慰安所に行くかどうかは自分の選択だし、命令されても従わなかった人もいるでしょう。

聞き手:そうですね。また、仕事という意味では、娼婦って世界では一番古い職業だと言われていますよね。

Shihoさん:確かにそういった男性主体の価値観は世界的なものです。でも、「慰安婦」制度は日本軍にしかない側面があります。前線までを連れてっているのは日本だけです。また、遊郭の女性たちも「慰安婦」として前線に連れてかれていて、戦地で酷い目に遭っています。そこでもやはり家庭を守らせる女と遊ぶ女とに分けているわけです。先ほど、「慰安婦」問題は日本軍がいたところにはどこでもあったと言いましたけど、その中でも韓国と台湾は日本の植民地だったので、システム的に女性たちが集められて前線まで連れていかれているんです。それ以外の中国、マレーシア、インドネシア、パフアニューギニアなどは占領地だったので、突然、兵士に出くわして性行為をされたりとか、さらわれて監禁されたりとか、近くに陣地を張られて、そこに来ないと家族全員殺すぞと言われたりとか―。昼間は軍の雑用、夜は性行為されるという経験をしている女性もいます。そんなふうに「慰安婦」問題といっても場所によっていろいろです。

聞き手:そうなんですね―。そんな愚かな行為に及んだ兵士たち、無事生きて帰って自分がそういうことをしましたとは言わないし、言えないですよね。

Shihoさん:数は少ないですが、名前を出して証言してくれた元兵士がいました。でも、その人が亡くなったら「もう証言は使ってほしくない」と家族は言うようになりました。どこにその罪の責任を求めるべきでしょう?そもそも、戦争が起こらなかったらこんな問題は無かったはずです。やはりあの戦争を始めたのは誰で、誰に責任があるのかということも考えていくべきだと思います。性暴力の問題になると日本は被害者側を責めるばかりです。あの、いとうしおりさんってご存知ですか?

聞き手:いとうしおりさん?

Shihoさん:ジャーナリストの伊藤詩織さんです。彼女は、安部首相の密着ドキュメントを書いたTBS元ワシントン支局長の男性に意識がない状態で性行為をされたんですが、政権側の意向が働き逮捕されず、加害者は無罪になりました。それでも詩織さんは頑張って民事裁判を起こしています。でも顔を出して証言したため日本に住めなくなって、現在はイギリスに住んでいます。そんなふうに、日本では被害者ががんばって立ち上がって話すと、被害者側にも問題があったのではないかといううがった見かたをされてしまう。女性を性的なものと考えている価値観が問題なんだと思います。暑ければノースリーブを着たり、短いスカートをはいたりとするけど、それは男性を誘うためじゃない。泥酔しても、性行為をしてOKだというサインではない。しかし、そうだと思ってしまう男性側の価値観がずーーっと存在している。

聞き手:根底にある価値観は今も戦時中と変わっていない―。ちゃんと反省できていないし、教育も行われていないわけですね。こういうことを知ってもらうための活動グループはあるんですか?

Shihoさん:はい、「ハイナンNET」というグループ作って、仲の良い友人たちと写真展をやったり、大学で授業をやったりしています。

聞き手:大学にも教えに行っていらっしゃるんですね。

Shihoさん:知り合いの先生が授業のコマを提供してくれるんです

聞き手:そういうときの学生の反応はどうですか?

Shihoさん:以前より今のほうがちゃんと受け止めてくれる学生が多い気がします。以前は、「聞いてきたことと違う」とか「そんなことなかったんじゃないか」と言う学生が、頭がよいとされる大学にも多かったんです。

聞き手:どうしてそういう変化が起きているのかしら?

Shihoさん:男性の中にも今まで女性が置かれていた立場を感じることができる人が増えてきたというのがあるのかなって。それは貧困化しているという意味でもあるんですけど。昔より今のほうがジェンダー問題に関心を持つ男性が増えていますし、男性自身が弱い立場になってきたから女性のことを分かってきた部分もあるのかなと思います。まあ、そうじゃないとわからないのは残念ではあるのですが。

聞き手:なるほど。これまでは一家の大黒柱として家族を養っていくのが男の甲斐性だと考える、メンタリティーが強い男性が多かったけど、今はあまりそう思っていなくて、結婚しても妻にも働いてほしいと考える男性が増えていると聞きますね。「慰安婦」問題について日本はこれからどうすべきだと思いますか?

Shihoさん:事実を公教育で伝えていくことが大事だと思います。ドイツがナチスのことを伝えているのと同じように。「慰安婦」問題だけではなくて沖縄戦のことなども含めて本当の歴史を教えていくべきかなと。今は情報が多い時代ですが、個人が「慰安婦」問題を正しく知るのは難しいなと思います。ネットで検索しても、杉田水脈(すぎたみお:月刊誌にLGBTへの差別的な寄稿をし物議を醸した自民党議員)や今の政権側の人間たちなど、マスコミに取り上げられやすい、声が大きい人たちの言い分が上位に出てくるので、それを信じてしまう人が多いんです。それに、知り合いの大学の先生から、日本人と外国人に同じ課題を出しても出来が全然違うと聞きました。そもそも日本語の情報は英語の情報と比べたらはるかに少ないですよね。それで検索して上位に出てきた声を鵜呑みにしていたのでは、視点が偏ってしまいます。日本語だけじゃなくて、他の言語でも情報を得られると、見えてくる世界や、視点、価値観が違ってくると思います。中国語が出来るとずっと多くのアジア関連の情報を得られますよ。中国人は世界中に住んでいて情報発信していますから。

聞き手:外国語を学ぶポイントはそこにもありますね。「ハイナンNET」ではサイトなどで情報提供されています?

Shihoさん:しています。今になって振り返れば、海南島に通い始めたころはまだ自分自身のことがわかっていなかったんだなって思います。国際協力やボランティア活動をしている人たちからよく聞く話かと思うんですけど、恵まれない人に何かできないかと思って行ってみたら、逆に自分が力をもらえたと。わたしも初めはそういう感じが強かった。その頃の自分には何も無くて、ちょっと大げさですけど、生きる意味を見つけるために通い続けてきたのかなと思います。海南島であぽたちに会ってわたしの人生は本当に変わりました。今は自分に余裕ができ、自分に起こったいろんな出来事を振り返ることができるようになってきました。これから海南島のことをもっと、ちゃんと発信していきたいと考えています。

聞き手:わたしもサイトを拝見して勉強していきたいと思いますし、ぜひ、活動を応援したいです。実のところ、こういったお話をお聞きできるとは全く想像していませんでした。これも多世代のさまざまな人が住むかんかん森の醍醐味だと思います。ここでも勉強会など開催できるといいですね。今日は本当にありがとうございました!

「海南島にて」
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2019年05月04日

かんかん森The Interview第19回は妻と2人の息子さんの4人家族でかんかん森に暮らして8年のSさんのご登場。スラリと長身で理知的な風貌のSさんのお仕事はどんなだろうとかねてから思っていました。そこで、やっとお聞きするチャンスが来たとばかりにズバリそこから切り込みました!



聞き手:どんなお仕事をされているんですか?

Sさん:企業の人材育成支援です。部長や執行役員対象の研修を中心に様々な階層に実施しています。強みはEラーニング(講義映像の配信)で、時流を解説した内容や各分野で実績のある方に経験を語ってもらうものまで幅広く揃えています。この講義映像と集合研修(学校スタイルの講義)を組み合わせ、各企業のニーズに適したものを提案、販売につなげていきます。

聞き手:なるほど。ご担当は?

Sさん:営業と研修内容の企画です。営業では、人事担当者から研修への期待を伺うところから始めるのですが、企業担当者自身がニーズを把握していないことがままあるんです。「〇〇部署から営業リーダー研修をしたいと言われたんですが。。。」というレベルの問いかけから必要な要素を整理してご提案する、ということが多いです。

聞き手:いろんなケースを知っていないと提案できないですよね。

Sさん:そうですね。沢山のケースを知っていることが、より適した提案につながります。研修は効果や価格比較が難しく、実際に見てから決めていただくことも出来ないので、提案の的確さや人事の方にいかに信じてもらえるかで結果が左右されますね。

聞き手:人事担当者が自分たちが求めているものだと感じてくれれば受注につながるわけですね。
Sさん:はい。会話の中からその会社の課題を引き出していく工夫が必要になります。

聞き手:何か困ることってありますか?

Sさん:最も困るのは決められない会社への営業です。研修提案を執行役員や副社長が判断する会社は5,6回企業訪問しないと決まらない。しかも、窓口の担当者から聞く話がコロコロ変わる。提案の場なのに「少し方針が変わりまして」と言われ、提案書が使えなくなる場合もあります。典型的な日本の企業といった感じですね。

聞き手:物事ひとつ決めるのにも時間がかかって、稟議をあちこち回す。これからの時代の変化に乗り切れるのかと心配ですよね。その部分を直す研修をした方がいいんじゃないかしら。現場の社員の研修をどうのこうのと言っているより、上層部の考え方を直しましょうよという研修や、自分の考えを社員にきちんと伝えるスキルを磨く研修。そういうのが必要なのは上にいるあなたでしょ、と言いたくなることあります。

Sさん:確かにそうですね!提案するのはすごく難しそうですけど。(笑)

聞き手:人材育成は肝ですけど、それこそ5G*, IoT*, AIが入ってきて、ルーティーンの仕事を機械がやるようになるという時代を迎えて、わたしはどうやって生きていけばいいんですかって心配している人も沢山いるじゃないですか。そういう質問、立場的にされたりしませんか?
*5G: 5th Generationの略で、第5世代移動通信システムのこと。現在、規格の検討が進められている次世代の通信システム。
*IoT:Internet of Thingsの略で、日本語では「モノのインターネット」と訳される。さまざまなモノがインターネットに接続され、情報交換することにより相互にコントロールする仕組み。

Sさん: AIの代替による不安の声は聞かないですが、定型業務など誰がやっても同じ処理ができる業務がなくなる分、もっと創造的なこととか、今まで時間捻出できなかった「緊急ではないけど重要なこと」に時間が割けるようになるはずなんですよね。

聞き手:あと、残業が無くなって、ワークライフバランスがよくなるとか。

Sさん:そうですね。そういうところに目が向けられるといいですよね。今のレベルの機械でもできる(パターン化されている)仕事をしているという意識があるなら、そのままで居ることは大きなリスクです。

聞き手:ただ、日本の教育がそういう変化に対応できているかというのが心配。イノベーションを生み出せる人材育成が急務とか今になって言っているじゃないですか。これからの子どもたちはそういったことを伸ばせる教育を受けられるかもしれないけど、大人で詰め込み教育、暗記教育を受けてきた人間はどうしたらいいんだという話しになりませんかね。突然、「クリエイティブなことを考えてくれ、君」といわれても。これからは、その辺の研修が求められていくんでしょうか。創造力を伸ばす研修とか?!

Sさん:そんな魔法のような研修ができたら億万長者になっているかも(笑)。でも方向性としては2つあると思います。1つはその人がやりたいと考えてきたことを出してもらう方法。こうできたらいいのになぁと思いながらも、うちの会社ではダメだと諦めていたことをとりあえず出してもらうんです。もう1つは、やりたいことがないという人へのアプローチ。本当はあるのに出したくないか、自分にはないと思い込んでいる人。そういう人には「あなたの業界や職種は5年後、10年後にはどうなると思いますか?なぜそう思いますか?」といった感じで問いかけ、未来を考えてもらうんです。意見を出しやすい環境も大事な要素ですよね。誰でも創造性はあるんですよ。

聞き手:無いわけではなく、引き出し方を学んでこなかったわけですね。

Sさん:そう思います。日本企業の多くが採用してきた減点式の人事評価は創造性を発揮しても評価されない制度です。例えば新商品を開発してもヒットしなければバツがつき、出世コースから外れる。チャレンジが評価されづらい。そういう会社ではルーティーンをしっかり回す保守的な人で経営幹部が形成されていくので、さらに保守的になっていく。

聞き手:なんか、日本企業の問題は幹部のレベルであり、幹部自体にグローバルに活躍出来る人材がどれだけいるのか、ということかと思うことがあります。日本企業は経営が上手くいかなくなると神頼み的に海外の辣腕社長を連れてきますが、日本ではスケールの大きい人材は育たないということですかね。

Sさん:今は日本にもベンチャーを立ち上げている活きのいい人が沢山いて、これからは国内でもまかなえそうな気がします。また、全般的に欧米と日本では経営者になるタイミングが違うのもポイントかと思います。欧米の場合、経営志望者はビジネススクールを卒業すると最初から経営者になるための修行の道を歩む。経営を任される年齢が早く、経営者としての成功体験を積みながら大きな事業を任されていきます。元日産のカルロス・ゴーンも30歳で300億ドルの企業のトップでしたからね。欧米では入社してから45歳くらいまでが勝負。その間に成果を上げた人が社長になり10数年は続けるのが一般的です。他方、日本の場合は50代後半まで部長職を続けてろくに経営をせず、そのあとポンポンと昇格していき、社長職は3年〜6年しかやりません。このように欧米と日本とではシステムが全く違うんです。

聞き手:日本は中間管理職にいる期間が長い分だけ、ご機嫌取りが上手い人間が昇進する傾向がまだあるでしょう?そういうところを直していかないと世界レベルでどうやって成長していけるのかと思ってしまいます。この辺、どう思います?

Sさん:ご機嫌取りは顧客ではなく社内を注視していますから、これからの時代、顧客とライバル企業の変化が激しい時代には益々足を引っ張る存在になるでしょうね。日本企業の特殊性として、海外の企業に比べて圧倒的に長寿であることが挙げられます。これは家名を残す慣習が影響していると考えていますが、瞬間的に利益を生むことより、組織を継続発展させていくことに重点を置く傾向にあります。信頼やミスのなさ、誠実さが必要でしたし、組織内の親密さも重要だったことも影響していると思います。でも今は想像もしていなかった分野から競合が現れ、2,3年で市場を席巻してしまう時代です。こういうのをディスラプトすると言うのですが、その瞬間瞬間にベストを尽くすことがより求められています。

聞き手:なるほど。精度の高い瞬発力がより重要ということですね。

Sさん:そうですね。たとえ話ですが、インドの方が面白い話をしていました。日本人がマラソン好きなのはよく分かると言うのです。序盤から集団を形成し、相手の様子を伺いながら駆け引きを続け、そのうちにトップに躍り出て(社長で)ゴールというように、マラソンを長いビジネス人生と捉えているんじゃないかと。一方、インドでは毎日が100メートル競走なんだそうです。今日負けたら終わり。瞬間瞬間の必死さが違う。マラソンだって頑張って走るわけですが、42キロあまりを走ることを前提に競争するのと、今日の100mだけに賭けて競うのとでは走り方が違います。

聞き手:インド人って世界的企業を見ても重要なポストにいるケースが多いですよね。

Sさん:そうですね。エネルギッシュですしIT系に強いですね。これも聞いた話ですが、インド人は名字でカースト制のどの階層に属すか分かるそうで、しかも階層によって職業が決まってしまうそうです。でも、新しい職種であるIT系についてはカースト制で想定されていないので、どの階層の人でもチャレンジできる。つまり、一番底辺の人達でも豊かになれる職業なので、結果、意欲のある優秀な人材が集中することになります。また、国内よりもアメリカで活躍したほうが報酬もいいし、偏見もないということのようですね。

聞き手:なるほど、勉強になります。Sさんが今一番伸ばしたいスキルは何ですか?

Sさん:そうですね。仕事のチャンスを広げるために英語力は必要だなとは思いますが、今の仕事ではロジカルシンキングや問題解決のスキルが必要だから、もっと磨いていきたいと思っています。

聞き手:ロジカルシンキングもまた日本人は苦手でしょう?なぜかしら?

Sさん:日常で求められないからじゃないでしょうか。ロジカルシンキングとは、情報を頭に入れるときの整理の仕方です。事実と憶測や感情をしっかり分けるのが基本です。日本の学教教育では決まった内容を暗記し、テストでも覚えた内容を書かせる機会が多いです。事実とされることを覚えるだけだから整理する力は鍛えられない。一方、欧米では、中高時代に様々な意見がある前提で自分の意見を問われるので、自分なりに調べ、整理し、考えをまとめ、相手に伝わるようにアウトプットします。これを民族や宗教、つまり価値観が大きく異なる人間同士で行うので、自然と鍛えられます。

聞き手:確かに。アメリカのようにいろんなバックグラウンドの人たちが住んでいるとロジカルシンキングが出来ないと伝わり合えないことになりますね。だから日本の企業の人がアメリカの企業の人と交渉し合う際、ものすごくロジカルに攻めてこられることにびっくりすることが多いと聞きます。英語はとてもロジカルで、その英語を使っている人だからロジカルになるのかなと思います。日本語はものすごくあいまい。裏表があって行間や空気を読まなければならない場合が多いです。

Sさん:日本語は、ロジカルさより感情をいかに丁寧に伝えるかに重きが置かれている気がしますね。日本人は日本語のあいまいさでもって、同一民族としての調和を保ってきたのかなと思います。

聞き手:全く同感です。ところで話が変わりますが、最近のかんかん森、どう思います?

Sさん:みんなでより暮らしやすい場所に変えていこうという雰囲気になっていると思います。今度、大きな変更がありますよね?

聞き手:係の仕分けですね。以前住んでいた人たちが作ってきた細分化された係を、現在住んでいる人たちにもっと合う形に変えていこうとするもので、たとえば、イベント係をなくし有志ベースとするというように、この変化は基本的にみんな能動的に動けることをベースとしていると思います。

Sさん:何を行うにしてもその目的、やる意義をちゃんとみんなで握れていればいいと思います。だたこの目的を決めるのは結構大変。「そこまで考えるのは面倒くさい」と言われたことが少なくないです。でも、多数決は取らないルールのかんかん森だからこそ、全体の方向感は大事ではないでしょうか。この数年は暗黙のうちにではありましたが、財政を健全化する時期でした。やっと正常化して、入居費や共益費のルールを変えることも出来る状態になりました。その一方で建物の修繕に絡み、物入りになるタイミングでもありますから、次の15年に向けて再構築するとても大切な時期だと思います。

聞き手:男性陣がもっと参加してくれるとコミュニティーももっと変わってくるかなと思いますが。

Sさん:そうですね―。でも話し合いは拘束時間が長いですよ。時間短縮と言う意味でも、大事なのは全体の方向感を握れているかです。仮に入居費(初期費用)を抑えて多様な人を受け入れる方針なのだとしたら、これを実現するお金の使い方になります。その上でさらに物質的に豊かに暮らしたいなら、収入を増やすか、余計なコストを減らすかのどちらかでしょう。場当たり的に欲しいものを買っていったら、すぐに財政破綻しますよ。

聞き手:なるほど、ぜひもっとコミュニティーにコミットして、ロジカルな視点で発言してください!

Sさん:ロジカルがすべてではないですけど、多数決では決めない議論をするには必要な要素だと思いますね。これをどうすべきか、話したかったんですね。

聞き手:そうするといろんなミーティングに出ざるを得なくなりますよ!(笑)話し合っていてもなかなか決まらないときに、さっとロジカルに話をまとめてくれる人がいると、そうか、と気づいて決まることもあるかと思います。今日は勉強になるお話をたくさん聞かせていただけて面白かったです。ありがとうございました!

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(15:03)

2019年03月31日

今年も一人一品の持ちより(お酒も可)でお花見しました🌸

まだまだ寒い日が続いていたのですが、ワイワイと食べているうちに日が指してきて、暖かくなりました。
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(13:00)

2019年03月17日

かんかん森The Interview第18回は居住歴3年のシングル女性で建築士のMOさん。常に語り口がソフトで人の話を聞くのが上手な彼女には、家を建てることがあればぜひ相談に乗ってもらいたいと誰もが思うであろう魅力がある。そんなMOさんにいろいろ聞かれてどっちがインタビュアーかわからない場面もありつつ、今回もいい仕事をしました(自画自賛?!)。同世代シングル女子同士の話、勉強になります。ぜひお楽しみください。



聞き手:広島のご出身と聞いてますけど、東京に出て来たのはいつ頃ですか?

MOさん:静岡の大学に行って、その後、就職で東京に出てきました。あの頃って、東京に出ることはかっこいいことだったでしょう。地元にずっと住んでいる同級生の中には東京は人の住むところじゃないと切り捨てる人もいるけど。

聞き手:確かに。わたしもうちの母が「ベビースターラーメンと、バービー人形と、東京はダメ」とよく言っているのを聞いて育ちました(笑)。

MOさん:へえ〜、おもしろ〜い(笑)。わたしからすれば、地元に残れるというのは、よっぽど刺激がなくても平気なタイプか、本当に考えと気持ちを一致させることができる大人の考えの人だと思うんです。わたしの場合は、どっちでもなくて、とにかく国の中心を見てやりたいという思いが強かった。それ以来、東京に住んでいるから、地元で過ごした年月より、東京で過ごした年月のほうが長いわ―。そうだ、地元愛ってある?愛知愛はある?(聞き手は愛知県出身)

聞き手:ないね!(笑)

MOさん:でも、「愛知ドビー*」愛はあるでしょ?(笑)

聞き手:ある!(爆)
*愛知ドビーを知りたい方はこちら
「バーミキュラ使ってるよ。MOさんにも売り込んだよ!がんばれドビー!」


聞き手:MOさんは?

MOさん:根底にはあるかしら。Fさん(かんかん森の居住の長いシングル男性)が岡山出身で岡山がどうとか言われると、「な〜んだ岡山。広島が中国地方では一番の大都市だよ〜」って思うし(笑)。

聞き手:地元に戻ろうと思ったことはあります?

MOさん:そうですね。親も年をとってきているから、娘が近くにいたほうが心強いだろうなとは思いますね。

聞き手:お互いに年齢的には親のことや自分の将来を考える時期ですね。MOさんは大学で建築を学ばれたんですか?

MOさん:いえ、大学は国際関係学部だったんです。言葉と専門をひとつずつ選びなさいと言われて、言葉はスペイン語、専門は国際法を選びました。スペイン語を選んだのは先生がおもしろかったから。先生は授業の途中で「バモス!」( Let’s go!)と言って、みんなでカフェに行って会話を楽しむことが多かったんですよ。あの頃は異文化にすごく魅かれてましたね。スペインではシエスタの習慣があるし、夜は遅くまで明るいから野外劇場があったりとか、ゆったり生活を楽しんでいる感じで。

聞き手:南欧の人たちは人生楽しみ方を知ってますよね。大学を卒業してから、建築業界に?

MOさん:いえ、まだです。(笑)大学を卒業してから就職したのは通信機器のメーカーで営業を担当してました。でも、ある時、一生この仕事をやっていくことは考えられないなと思って次の道を模索し始めたんです。それで、部屋の模様替えが好きだったから、インテリア関係を学ぼうと決めて、桑沢デザイン研究所(デザイン分野では有名な専門学校)の夜間のコースを受けました。そしたらパスして通うことになって。空間デザインを専攻したんですが、夜間とはいえ課題が大変。それで仕事も辞めて勉強に集中。その合間に設計事務所や版下屋さんとかでアルバイトしました。その後、企画会社や店舗デザインの会社で仕事をするなどちょっと紆余曲折を経て、知人の伝手で現在勤めている会社の社長に紹介され、「明日から来てもいいよ」という話になってアルバイトから始めた、というわけです。

聞き手:今の会社ってインテリアじゃなくて建築の会社ですよね?

MOさん:そうです。インテリアか建築か、どちらにするか葛藤はあったんですが、やっぱりスケールが大きい建築をやりたいと思って。インテリアは決められた大きさの部屋の中で考えることになりますけど、建築はその枠がない。私は天井の高さまで決めたかった。それで建築に決めました。

聞き手:主にお仕事でやることって何ですか?建築のお仕事の幅は広いと思うけど。

MOさん:老人ホームなど福祉系の公共の建物のデザインを主に担当しています。まず、クライアントからこういう事業をしてみたいという話があるんですが、土地はこのあたりで地主さんと交渉中といった状況で話が来ればその先は早く進められます。まず土地ありきなんです。その土地の条件、地域性、建物の高さなどの行政上の制限、道路にどう接しているか、近隣にどういう建物があって、正面をどちらに向けるとよいか、最低限必要な建物の面積等々、そういう細かい条件を整理しながら建物の要素を組み立てていきます。それで、これくらいのプロポーションでできます、そのためには予算がこれくらいかかります、補助金はこれくらい申請しましょうかとクライアントに提案し、相談しながら進めていく、という感じですね。

聞き手:なるほど〜。細かい作業ですね。都市計画とは分野的には違いますか?整然とした欧米の都市とは違って、日本の混沌とした都会の様子を見ると都市開発のコンセプトがないなと思います。

MOさん:日本は計画的な都市開発というところに乗っかっていないんですよね。自然発生的にいろんな村が出来て、徐々に路地や大通りができて、そこに名前がつき、というような、作っていくというより育ってきている、という感じなんです。

聞き手:なるほど!計画的に作るというより、自然に育ってきたということですね、わかりやすい表現。建築家としてのスキルは一生続けられるものだからいいですね。

MOさん:そうですね。今の会社に入って何十年も経つけど同じような案件が巡ってきたことがなくて飽きないです。日々新しい課題が出てきて、周りの人と一緒に乗り越えていく、ということをずっとやってきました。

聞き手:それは年々ニーズが変わってきているから?

MOさん:人間を相手にしているからかもしれないですね。たとえば障害者の方のためのグループホームを建設したいとき、まず近隣の方々を対象に説明会を開きます。すると必ず反対があるんです。

聞き手:その説明をする立場なんですか?

MOさん:「こういう計画があってこういった建物が建ちます。ご理解ください」というような説明を最初に事業主さんが行いますが、建物についての質問がで出た場合にはわたしたちが説明することになります。そうすると近隣の方々の中には反対を唱える人が出てきて、かなり語気強くおっしゃられる場合もあります。それに対して、慌てず正論を述べつつだんだん理解してもらっていくという行程を経ていくんですが、それが一番厳しいですね。

聞き手:なるほど。大変そうですね。

MOさん:あとは法律がどんどん変わるから、それまでよかったものが次から同じように作れなくなることもあります。

聞き手:いや、大変ですね。そういう法律を作り出している人間たちが自分の足で歩いてニーズを把握して作っているのか、役人のやる仕事ってどうなんだろと思いますね。

MOさん:建物の法律と福祉の法律があって、福祉の法律は政策によってどんどん変わっていきます。でも、建物の法律のほうはいつも一歩後になっているんです。福祉のほうでは、新しいカテゴリーに分化して今風になったところに対して、建築の捕らえ方が旧態依然のまま。だから、階段をひとりで上り下りできる人たちばかりの建物も、「障害者グループホーム」というだけで介護を想定した広い階段を付けてください、という話になったりするわけです。

聞き手:各省間の連携がとれていないんですよね。同じ国がやってんだから、省同士で話し合ってよと思いますよね。私の仕事でもそれを感じることがままあります。建築設計のお仕事を選んでよかったと思いますか?

MOさん:そう、やっぱり好きですね。そこに人々が住んで、いろんな人たちが尋ねてきて、コミュニティーができて、建物が息づき、棲家となっていく。そういうのを見るのが面白いです。建設当時に不満を口にされていた近隣の人たちも次第に協力し始めてくださったり。そういう過程が見られると、苦労したぶんだけ喜びがありますね。

聞き手:それは大きなやり甲斐になりますね〜。

MOさん:障害を持つ方の親御さんは、自分がいなくなったあと子どもはどうなるんだろうと心配されることが多いので、子どもたちを受け入れるグループホームが建つとすごく安心されるんです。そういう声を聞くと「よかったな」としみじみ思いますね。

聞き手:障害がなくても親は子どもの将来を心配するわけだから、自立が難しい子どもをもっていたらなおさらですよね。そういう施設が増えるといいなあ。

MOさん:これまで訪問した障害者施設の中でとても印象に残っているのが鹿児島の菖蒲学園で、そこでは素敵な園長先生が素敵な理念でみなさんを守っておられるんです。敷地内に中に入っていくと、お蕎麦屋さんやイタリアンレストラン、山羊が飼われている小屋、作品が展示されている建物、「木工」「陶芸」などの日中の活動室や皆さんの住まいがあって、その真ん中に広場が広がっています。菖蒲学園では、当初は利用者の方になるべく上手に作業をしてもらおう、例えば、刺繍の作業ではなるべく同じ間隔でまっすぐ縫うように教えていこうとしていたそうです。でも、障害のある方は根気よくひとつのことを続けるのを得意とする点に着目して、ある日、好きにさせてみようとやり始めたそうなんですね。そうしたら、刺繍した上にもう一度糸をかける作業を繰り返し繰り返し行って、層の厚い作品を作っていくことに皆さんとても力を発揮されたんです。わたしも拝見しましたが、色決めは自由だから、とてもカラフルで楽しい作品なんですよ。なんでも、東京から来たデザイナーの人から、自分がデザインする服の生地に使わせてもらいたいと申し入れがあって提供しているということです。こんなふうに、上手に何かをしてもらおうとするのではなく、好きなようにしてもらう。人に見せられる、商品になるレベルの作品が出来る人もいれば、そうでない場合もある。それでもいいよとしている。そこが素晴らしいと思います。

聞き手:いい話ですね。わたしも行ってみたくなりました、菖蒲学園。素晴らしい!ところで話題が変わりますけど、趣味はなんですか?

MOさん:趣味?そうですねえ〜。映画鑑賞が趣味というわけではないんですが、以前、ヒッチコックの「めまい」という映画を繰り返して観ました。主人公の女友達のミッジさんの部屋を見て、とても興味を持ったから。舞台はサンフランシスコだったと思いますが、ミッジさんはリビングでキャンパスに向って絵を描いていて、彼女の背景にとても大きな窓があって坂のある町並みが見えて、とてもいいんですね。キッチンは、ちょっとずれたところにあって。でも水周りは出てこないし、部屋側から映しているから玄関もわからない―。これ、水周りとベッドルームはどうなっているんだろうと思って、自分で描き起こして、平面図の形にして改めて頭の中で整理したりして。

聞き手:へえ〜、あの短いシーンをそんな視点から観ているんですね。びっくり!他の映画でも気になる部屋がでてくると描き起したりするんですか?

MOさん:そうですね、映画館で観ているときはムリだけど、ビデオで観る場合は繰り返し見れるので。

聞き手: 絵は描かないんですか?建築はドローイングすると思うから、通じるものがあるかと思いますけど。

MOさん:昔ケニアに行ったときに行った先で描いたのをお見せしますね。

聞き手:お上手じゃないですか!こういう建物や生活用品の絵はよく描くんですか?

MOさん:いえ、上手じゃないけど必要に迫られてお客さんと話をしながらざっくりとしたものを描くことはありますよ。

聞き手:わたし、油絵が趣味ですけど、風景画ってあまり書かないんですね。旅先でささっと描いている人がいると、ああいうことができるといいなと思うんだけど。。

MOさん:わたしには、なんでこんなデザインしたんだろうと不思議に思うものを追い求めるところがあるように思います。描くなら、抽象画を描いてみたい。具体的なものより、自分の中からでてくるものをきれいな色を使って。ただただ青の点だけを描くとか―。

聞き手:へえ〜、そうなんですね。ぜひ作って見せてください!今日はMOさんの意外な面をたくさん知ることができましたし、勉強になることも多くてとても楽しかったです。ありがとうございました。

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MOさんの似顔絵

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菖蒲学園の方々の手焼き作品(失敗作らしいけど面白い!)

(10:25)

2019年03月03日

今日は女の子の節句、雛祭り。コモンミールはとても可愛いく仕上がりました〜✨

記録係mも当番で入りました!(卵焼きしか作っていなかったですが!)


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特別仕様の花型です。

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前日からSさんが具材を仕込んでいてくれました。彩りキレイです✨

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酢飯が苦手な子ども達には、ふりかけご飯の茶巾絞りになりました。

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ウチの子が私の分まで食べるほど美味しかった茶碗蒸し。。


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3色ババロアとてもかわいいです✨


(18:00)

2019年02月23日

2月も後半になると暖かくなってきますが。。気にせずこのお題「雪の結晶をかこう!」


白のクレヨンと水彩絵の具で、それぞれの結晶が浮かび上がっていました⛄❄


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雪の結晶から時計の発想が!!

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皆、どんどん描いていって紙が足りなくなりそうなほどでした!
3枚目あたりから、一色足して描いてもらったら、そちらも自由で面白い作品が出来ていました。






(09:00)

2019年02月17日

かんかん森The Interview第17回目はかんかん森居住歴5年のシングル男性、HSさんの登場。お仕事が激務でご自宅に不在のことが多いため、かんかん森でも顔を合わせることがとても少ないのですが、月一回のコモンミール調理当番の際は、非常に凝った見事な料理を振る舞ってくれます。料理がストレス解消になっているようです。今回、お仕事に少し余裕が出来たということでインタビューに応じていただけました。さて、かんかん森内でもあまり知られていない(?)HSさんの一面をのぞいてみましょう!



聞き手:ご出身はどちらですか?

HSさん:山形です。この三連休(2019年1月)に帰省したんですが、2年ぶりだったので親が喜んでいました。わたしが滞在した週末はずっと晴れていましたが、それまでに随分雪が降ったようでまだ30cmくらい残っていました。

聞き手:雪の処理も大変ですよね。ご兄弟はいらっしゃるんですか?

HSさん:姉と妹がいます。それぞれ3歳ずつ離れて。女系家族で親戚にも女性が多いんですよ。

聞き手:そうなんですね。じゃあ、小さい頃はおままごとなんかに付き合ってあげたりしたたんですか?

HSさん:付き合うというより真剣にやってましたよ(笑)。

聞き手:やさしいんですね。小さい頃はおっとりした感じでした?

HSさん:いえ、落ち着きが無いと周囲からよく言われていました。学校では普通に大人しくしているんですけど、たとえば、家族と出掛けた先で「ここにいなさいね」と言われたのに、あちこち動いてしまって叱られたり。

聞き手:でも、それ、子どもだったら普通じゃないかな〜。逆に本当にじっとしてたら変かも?!

HSさん:そうなんですけどね。個性が出てきたのは小学校高学年になってからですかね。5年生あたりから、めちゃくちゃ本を読み始めたんです。

聞き手:いきなり一杯?きっかけは何だったんですか?

HSさん:小学校の図書室にたくさん本があって、日本の昔話や海外の童話シリーズを読み始めたらすごく面白くてハマったんです。もっと幼い頃に読んだ児童向けの昔話や童話はやさしく読めるように書き直されていて、省略されている部分が多いと気づき、図書館にある完全版を読んで、改めて「なるほど、こういう深い話だったんだ!」と感動したわけです。それで、完全版はかなり分厚いんですけど、全部読んでやろうと思って読み進めました。物語の世界が面白くて仕方が無かったですね〜。これを入り口にして、本の虫になっていきました。

聞き手:なるほど。子どもの頃に初めて出会って読む物語の世界、あの味わいや感動って子どもの頃にしか体験できないなあと思います。HSさんは、つまりインドア派だったわけですか?

HSさん:いえ、スポーツも嫌いではないです。小学生の時は、放課後2時間程度、5,6年生全員、季節毎に違うスポーツに参加することになっていました。1シーズン1スポーツで選択肢なく。冬はクロスカントリースキー。畑や山など近隣に広々とした土地があるので練習場として使って、1週数キロをひたすら歩き、山に登って降りてまた登る、の繰り返し。

聞き手:それは相当鍛えられますね。大変そうですけど、特に嫌ではなかった?

HSさん:めちゃくちゃ体力はつきますね。みんながやっていたので、やるのが普通と思ってましたから、特に嫌という気持ちもなかったと思います。

聞き手:自然にストイックな子どもたちなんですね。春はどんなスポーツをやったんですか?

HSさん:ハンドボール。スキーは毎日練習がありましたけど、ハンドボールは週3回程度だったかな。練習がない日は校庭で遊んでました。

聞き手:じゃあ、夏は水泳?

HSさん:水泳にはそこまで力を入れていませんでしたが、夏休み中は小学校のプールが毎日開放されていたので、よく行っていました。田舎ですし、特に他に遊びの選択肢があったわけでもないので。

聞き手:そう、田舎で遊ぶ場合は遊び手がクリエーティブにならざるをえないですよね。都会のように楽しませてもらえる出来合いの施設がないし、そこが田舎のいいところだと思います。じゃあ、秋は?!

HSさん:マラソン大会!運動会とは別にあって、マラソンが終わった後、地元で取れた里芋を使った芋煮会が行われて、家族の人たちもみんな出てきて、それが楽しかったですね。小学校だけじゃなくて、中学、高校までやってましたよ(笑)。

聞き手:田舎っていろんな事が学校中心に村人総出でやっているようで、そういうところも連帯感があっていいですね。で、HS少年はスポーツの後は読書に励んだわけですね。

HSさん:そうですね。

聞き手:好きな科目はありましたか?

HSさん:理科が好きでした。星の観察が特に好きで、星座にまつわるストーリーに熱中しました。

聞き手:なんだかロマンチストですね。とにかくお話を聞いていると本当に真面目で良い子だったように思いますけど―。

HSさん:けど、基本、怒られてましたね(笑)。親父は相当厳しくて、おかげで目立った反抗期もなかったと思います。

聞き手:お父様のお仕事は?

HSさん:両親で農業をやっています。だから、繁忙期に手伝わないと。地元はスイカが名産で、実家でもスイカを大量に作っていたので、特に夏場はスイカの世話を手伝ってました。もちろん、収穫時も。ご近所さんはみんなそんな感じです。両親が農家ではない子どもたちが羨ましかったですね、そんな手伝いがなくて。

聞き手:中学生になって変化はありましたか?

HSさん:読書の量がちょっと落ちて、代わりに音楽に時間を裂くようになりました。中学1,2年生の頃はJポップ、バンド系が好きで、3年生なると洋楽に目覚めて―。

聞き手:そうですか。そのきっかけは?

HSさん:好きで聴いていたバンドがシンセサイザーを使っていたので、関心を持つようになって、シンセサイザー専門の雑誌を買い始めたんです。その誌面から海外のバンドのいろんな楽曲の存在を知って聴くようになったわけです。

聞き手:なるほど。でも、なぜシンセサイザー?

HSさん:たいていの子はギターに興味を持ちますけど、自分はひねくれていたんですかね。みんなが興味あるものなんかは嫌だったんです(笑)。

聞き手:流行とは反対の方向に行くわけですね。シンセサイザーって安いものではないと思いますけど?

HSさん:高校生のときにバイトして買いました。

聞き手:その頃好きになったバンドをひとつ挙げると?

HSさん:アンダーワールド。イギリス映画の『トレインスポッティング』のテーマ曲に採用されたことでも知られてます。アンダーワールドを初めとするクラブ系の音楽にがっつりハマりました。イギリス系が多かったですね。

聞き手:初めて洋楽を聴いてどうでした?

HSさん:もう、カルチャーショックです。でも、英語だから何を言っているかわからなくて(笑)。

聞き手:でもそこで世界の扉が開いたわけですね。アンダーワールドなどの話をして盛り上がれる友達周りにいましたか?

HSさん:実家の周りにはいませんでしたが、高校生になると、高校にはいろんな地域から生徒が集まってくるので、その中にはいました。同じ趣味の者同士で集まってシンセサイザーで曲作りも一緒にやりました。

聞き手:へえ、作曲もこなしたんですか。

HSさん:市販されている楽譜を買ってきて、シンセサイザーに打ち込んで自動演奏したり、その楽曲をベースに編曲して自分色を出したりして。ベースは借り物ですけど、自分好みにアレンジを加える、そこに相当力を入れてました。友達と合宿したりして。

聞き手:合宿? ポータブルなシンセサイザー?

HSさん:ポータブルじゃなくても持ち歩いたんです! 15キロもあったけど、それをもって電車に乗ってましたよ(笑)。

聞き手:そんな大きい入れ物があるの?!

HSさん:そりゃ、むき出しで持ち歩いているんじゃなくて、ちゃんとあるんですよ(笑)。

聞き手:へえ〜。合宿はどこで?

HSさん:友達の家です。みんなで曲作りに励んで、楽しかったですよ。

聞き手:そういう曲を披露する機会はあったんですか?

HSさん:地元のライブハウスや学校祭で演奏しました。

聞き手:シンセサイザー以外の楽器も加わって?

HSさん:もちろん、ギターもドラムスも。イベントがあるとそれに向けて人を集めて演奏したわけでバンドを結成して常に一緒に活動していたわけではないです。

聞き手:読書のほうはどうなってました?

HSさん:高校生になると再びものすごく読書量が増えて、1日に1冊は読んでいました。

聞き手:ひー!すごい早読みってことですね。どうやってそんな技術を得たんですか?

HSさん:う〜ん、わかんないですけど、早読みと言っても2時間くらいはかかってましたよ。お風呂の中でもずっと読んでました。

聞き手:2時間でも早いと思うけど、借りた本をお風呂には持っていけないでしょう?

HSさん:本は古本屋で買ってたんです。高校の近くに古本屋がいっぱいあって、古本屋巡りをよくしていました。古本屋にはCDの中古も売っていたので、同時にチェックして。

聞き手:本はどうやって選んでました?

HSさん:本にかかっている帯の台詞に引かれて買うことが多かったです。ハズレで面白くない場合もありましたけど。特にジャンルは絞らず読みました。

聞き手:ノンフィクション系は?

HSさん:当時、ノンフィクションはあまり読まなかったですね。逆に今は経済系の犯罪ものを読んだり、仕事に必要な本を読んだりしますが、学生時代は頭がまだ堅くなくてフィクションを柔軟に楽しめたんだと思います。今と比較するとそう感じますね。

聞き手:わたしも本を読む時間があるんだったらニューズウィークを読もうとか、情報系になるんですよね。時間がないからフィクションには付き合ってらんないよとなってしまう。

HSさん:それ、すっごくよくわかります。

聞き手:それで、大学で東京に来たんですか?

HSさん:いえ、高校を卒業して今の会社に入ったんです。

聞き手:今の会社ってIT系の企業ですよね。 ITの分野に入ろうと思っていたんですか?

HSさん:ITについてはぜんぜん知らなかったんですが、新しい感じで、一般家庭でPCが使われるようになってまだそれほど時間が経っていなくて、これから広がるかなと思って。

聞き手:会社に入って、相当トレーニングを受けました?

HSさん:そうですね。厳しかったですけど親から離れてしっかり自活しなければと覚悟が出来ていたので頑張れたんだと思います。それと、本を大量に読む習慣がすでにあって、仕事関係の本も大量に読めたので、すごく助かりました。これは大きかったです。

聞き手:早めに社会人になったけど周囲についていけたのは読書力あったからというわけですね。情報を取り入れる力、今の時代、誰にも必要だと思いますが、教えてほしいといわれたら、どう伝えますか?

HSさん:例えば入門書を読むとき、最初のページから順序よく読み進めることが多いと思いますが、わたしの場合はまず、気になっていること、知りたいことを念頭に置きます。それでページをパラパラとめくってキーワードだけをチェックし意味内容を確認します。ただ漫然と読んでも頭に入ってこないし、記憶に残らないので、疑問を解決するための情報はどこにあるのかという目線で調べるつもりで読む、つまり目的を持って読むべきだと思います。本の中にキーワードの十分な説明がなかったらウエブで調べて、調べがついたらまた本に戻る。その繰り返しです。

聞き手:人って、覚えてられないくせに、欲張りだから最初から全部読もうとする。で、途中で止めてしまうことも多々ある。結局、何も頭に残らない。そうではなくて、この本から最低3つは覚えようと決めたら後は捨てる覚悟も必要なんですね。では、記憶力を保つ手段は何かありますか?

HSさん:インデックスを作ることですかね。仕事に関係あるIT系の分野ですが、実際に手書きのノートを作っていて、気になった単語を書きためています。そうすると後で単語と単語の関係性が見えてきたりするんです。それに、達成感や、嬉しい感情、ネガティブな感情などなんらかの感情と結びついていると単語って覚えていられますよ。

聞き手:IT系のHSさんが手書きで帳面(古い!)をつけているって、几帳面(ダジャレ!)さに感動してしまいます。IT系はどんどん新しいことが出てきて大変じゃないですか?

HSさん:そうですね。実際、文章だけで仕事を理解しようとしても難しいです。とりあえず経験してみないと解決できないことが多ですが、今までの経験値に救われることが多々あります。でも、業界的には経験値というのは嫌われます。経験の無い人もわかるようにするのが仕事だと言われるわけです。

聞き手:仕事を属人化させない、マニュアル化させるということですね。

HSさん:そうです。経験が無い人でも短期間で仕事が出来るようになるマニュアル作成に長けた人が有り難がられます。仕事が属人化しては企業にとってリスク、ちゃんとマニュアル化して後続ができるようにしとけよ、というのが企業のリスク回避であり理論。それはそれで理解できます。ただ自分は職人に憧れます。到底、他人には真似ができないような技を持つ人にすごく憧れるので、企業の理論と自分の理想とで折り合いをつけるのが大変です。

聞き手:職人と会社は相反するものかもしれないですね。融合は非常に難しい。企業に勤めている限りは葛藤が続きますね。

HSさん:何か一山の仕事に区切りがついて、ものづくりの力が前の自分より向上していること確かめようとする際、自分の中で正しい、良いと感じるものを突き詰めたくなります。でも仕事ですから、そこから離れて一定の経済性を優先させていかなければいけません。なんとか折り合いをつけてやっていく、ということになんですよね。

聞き手:HSさんが達成感を感じるのはどういうときですか?

HSさん:やはり、自分がそれまで分からなかったことが理解できて腹に落ちたときは快感ですね。学生時代、難しい数学の問題が苦労して解けたときの快感。あの快感を仕事でしばしば感じています。でもそれって、解決しなければならない問題が山積しているということでもあって、あまり一杯あるとゲップが出ますけど(笑)。

聞き手:これから生活面をどうしていきたいですか?

HSさん:こうして昔を振り返ってみると、意味も無く純粋にハマっていたことがいくつかあったことを思い出しました。ここ何年もそういうことを軽視した生活をしてきたな、ちょっと寂しいなと感じます。もう少し仕事以外で自分を語れるものを作りたいと思いますね。情報を得るための読書ではなく、学生時代のように心底楽しめる読書もしたいです。

聞き手:ぜひ、かんかん森でもHSさんのいろんな面を見せてください!今日はありがとうございました。

electone


(11:32)

2019年02月11日

今年もコモンミール用と、個人用のお味噌を造りました。
今年は米麹と麦麹を用意しまして。米麹のみのモノと、両方の麹を混ぜたモノを造りました。

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2台ある圧力鍋の片方が調子悪かったのですが、何とか茹であがり、、

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潰します。お手伝いさんも入り、皆で潰します。

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容器に詰めた画像を撮り忘れましたので、こちらを。。
大豆を茹でた後の汁です。豆の甘みが出ていて、飲んで暖まりながら味噌を造っていました。
注:手前のお酒は消毒用です。



(12:42)

2019年02月03日

今日は手作りシュウマイです!おからなどが入っていて、とってもヘルシー✨
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手作り、、いったいいく包んだのかと聞いたら150個とのこと!!(゜◇゜)おつかれ様です。。

焼売は買う物、お店で食べるものと思っていた記録係m、、手作りの焼売はふんわり柔らかく一つが大きめでとっても美味しかったです。


(18:00)

2019年02月02日

今年は一日早い節分コモンミールでした☆
いつもと違い、お肉やニンジンを入れて巻きます。
豆まき用の豆は落花生☺
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子どもも

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大人も巻き巻き。

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一本をペロリと食べてお代わりした子もいました😆

豆まきは、先日制作してくれた鬼の顔を上から吊るし。。豆を一斉に投げつけます!!
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動かない鬼はどうなのかな?と思っていましたが、意外と盛り上がり、落花生なので拾っては投げ、拾っては投げつけます👹段々フィーバーしていく子ども達🔥

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子鬼も参戦(投げる側)しました。


(18:00)