佐吉大仏 ヒラメ記(代表:永田章のブログ)

佐吉大仏代表永田章(ヒラメ)のブログ 佐吉大仏の他にも地域の紹介等

2016年07月

『第24回萌土社小品展』のご紹介

岐阜市柳ヶ瀬「CROQUIS」2階で開催中の『第24回萌土社小品展』を鑑賞してきました。

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今や萌土社の重鎮と称すべき堀江良一さんが当番で、色々なお話を伺うことが出来ました。


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こちらは反対側で堀江さんに撮って頂いたものです。順繰りに見ていきたいと思います。



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先ず堀江さん。グルッと見回してみて「堀江さんの作品がないじゃないの?」と訊いてみたら上の作品がそうでした。いつもの版画と全く違うので面食らいました。ここでの展示会は「普段行わない試験的な作品を提供する」ことにされているとのこと。



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正面ですが真ん中の彫刻から。



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中村淳子さんの「ツリーズみゃく」という作品です。普通は「月偏」なんですが。



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自然石に拓本のようにして作られたのだそうです。非常に落ち着いて魅力的に感じたのですが、カメラがハンディなものでうまく捉えられていないですね。



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こちらももっと深くて静かな色合いの作品で、一つ上の作品と合わせて先ず目を惹いた作品でした。



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県美術館の林隆一さんの作品。上の絵が「心の中の想い」、下が自画像と解釈したら叱られるでしょうか。右の目からは血の涙。



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堀江さんと入れ替えでおみえになりましたので、カメラをお願いして堀江さんと一緒の処を。



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家田陽介さんの『表象』と呼ばれている作品です。同じ色彩でほぼ同じサイズの作品ですが、作品ごとにギコギコと心の中が変わっていくような感じで興味深いものがありました。



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作品中に現れたアルファベットが何かの記憶と結びついて、現実感を与えているとでもいう感じ。



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木の棒が横に渡してあって、「美術って一体何でしょうね??」と疑問を提示しましたら、堀江さんからピカソが表現方法を拡げていったと教えて頂きました。そう言われるとピカソを思わせられる部分も。



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忘れていけない!と思って最後に二方向から取った菅原光則さんの石彫。いつに似合わず奥津城を連想させられる作品でした。
菅原さんとは関養護学校時代の同僚でした。もうそろそろ定年を迎えられるでしょうか。みんな歳を取っていきますね。


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<付録>

堀江良一さんは木版画家で代表するのは下のような作品ですから分からなかったのも当然ですネ

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以下の2作品はポーランドのクラコワでのトリエンナーレ展(上1991)とビエンナーレ展(下1985?)に入選したものですヨ。

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岐阜市柳ヶ瀬「CROQUIS」のご紹介


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此処は岐阜市柳ヶ瀬「レンガ通り」、30メートル程進みますとお目当ての「CROQUIS」に到着


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一階が小物屋さん、二階がギャラリー-で、私はギャラリーで開催中の「萌土展」を鑑賞するために、やってきました。


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「CROQUIS」(クロッキー)正面。右の階段から直接ギャラリーへ。中の階段からも行くことが出来ます。折角ですので、今日のブログはお店のご紹介。


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一見質朴たる雰囲気。雑然としているようで緻密。グルッと一周したくなります。


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昔の家具をうまく利用して、落ち着きと引き締まった感じが漂ってきました。


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ミニチェアの銘酒ボトル。お話では置いてあるのはここだけだそうです。『ここだけ』というのが、岐阜県なのか日本なのか、はたまた世界中で、ということだったのか


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カエルに見上げられて階段を登って行きますと、二階のギャラリーに到着することになっています。


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思わず見とれた猫の絵葉書。東京八王子の画家さんがここだけに描かれているのだとか。


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個展通いで培った審美眼をフルに活かして3枚選びました。


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こちらは「猫のカレンダー」、サイコーに洒落てますね。来年覚えておきましょう。


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配電盤に心憎いイラスト。細やかな心遣いが無粋な壁をアートに変えます。



『過去は変えることはできないが、未来は変えることができる』か?

ある女性の方、結構県レヴェルで活躍されている方ですが、のフェイスブックに法話のような写真が載せられていて、『過去は変えることができないが、未来は変えることができる』とありました。

果たしてそうなのか?

確かに目標に向かって努力することによって、未来を違ったものにすることは可能なようです。

思い通りに行かないでしょうが、毎日ジョギングに励めば多少なりと血糖値を下げられるほどの変化は遂げられると思います。

では過去はどうなのか?

これは未来よりも、遙かに容易に、大胆に変えることができます。

それはとても簡単なことで、今の認識を変えることで不幸な過去を幸福な過去に変えられます。

すなわち、過去の上に今が築かれていますので、今を不幸だと思えば過去にその原因を探ろうとすると不幸だらけの過去になりますし、その逆に今を幸福だと捉えますとその幸福のタネを過去に遡って探すことにもなります。

今をどう捉えるかで、過去は変わってしまいます。

要は、事実と認識は別だということを知っておく必要があり、事実そのものという絶対的なものがあるわけではないと思います。
本当は、ある事項を事実として認識して心の中に定着させたことが一般的に事実と呼んでいるものです。

生前親に生き別れ、親が死んだと思っていたところ、二十年後に再会すれば、親が死んでいたはずの20年間も親がいたことに変わってしまいます。

人や世間に対する評価についても同様なことが言えますが、話が拡がりますので、此処で止めときます。



禁煙するとガンになる??

20年位前に猪瀬直樹の本で読んだことだ。

彼は相当はヘヴィースモーカーで、専門の医師にインタビューし「ガンが心配なのでタバコを止めなければならないと思っている」と話した。

するとその医師は、猪瀬氏に喫煙年数を訊いてから「無駄。その年数では、統計的には禁煙する人の方がガンになる確率が高い」と応えた。

私は喫煙を始めたのが30過ぎで、当時は医師の言う年数には到達していなかったが、興味ある発言として印象に残っていた。

処で昨日、ネットの放送で驚くべきグラフを見たので紹介したい。

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左のグラフが1950年からのガンの発症率で藤色をして上の方で一定に高いのが胃がん。
赤色で1980年以降急激に高いのが肺がん。

右の方が男性の喫煙率の推移。年代は不明だが、50%を超しているのは相当昔だから、左のグラフと同年代位に考えて良いだろう。

一目瞭然、これを何と捉えてよいのだろうか?

単純に考えれば、タバコを吸う人が少なくなると、肺がんになる人が多くなる。

一つの説明としては、ガンは昔の喫煙の影響が歳を取ってから現れてくるというものだが、ならば肺がん発症率が低かった1980年以前にも同様なことが言えて、昔の男性は殆どタバコを吸っていたし、今よりも遙かにニコチン・タールの強かった両切りの「新生」や「いこい」を吸っていたことの説明がつかない。

正しくは喫煙と肺がんの発症には、個人差を無視すれば、確かな相関関係はないと言うことだろう。

肺がんの発症の1番大きな原因はもっと別の所にあると見なければならない。
私の推測して思うことは自動車の増加による大気の汚染であるが、これも昨今自動車の排気ガスが規制されてずいぶんきれいになってきたように思えるので、相関関係を言うことは難しい。
都市部に人口が集中しているので、人口密度別に統計を取ると判明するかも知れない。

今一つ思うことは、寿命が延びてくると、いずれどこかがガン化するのが人間の宿命で、四六時中酷使している肺がガンになることが多いと言えるのかも知れない。推測に過ぎない。
身体は循環しているので身体全体の影響も考えるべきかも知れませんネ。

タイトルの「禁煙するとガンになる」とは、マサカ本当に言えるとは思わないけれど、仮に相関関係があるとすると、タバコを吸うというのは多くはストレス対策なので、今までタバコに依存していた人が禁煙するとストレスが高まるということは出来る。
しかし、この場合は肺がんである必然性はないので、どうかな??

人それぞれなので、分煙対策をして、余り声高に「タバコを吸うとガンになる」とは言うべきでないと思うが、そうも行かないには大きな理由がある。

「タバコを吸うとガンになる」の裏返しには「タバコを吸わなければガンにならない」もしくは「ガンになりにくい」という願意が込められている。

その結果、禁煙を徹底することでガンから遠ざかっているという一つの安心感を得られる。安心感がなくなれば不安になるので、不安対策としてどうしても「タバコはガンの元」と言い続けねばならないのである。


私の仏教理解

7,8年仏教の周りを回っていて、私なりに摑んだ仏教についての私見を述べてみたいと思います。


日本の仏教は大ざっぱに次の3つに分類されるのでないかと思います。

1 般若系

2 浄土系

3 密教系


1の「般若」とは、『般若心経』の「般若」ですが、智慧という意味です。智慧と知恵がどう違うか、そういう細かい処に拘らなければ、同じ様な意味合いで捉えられると思います。

「知恵」と言えば、聖書の中のアダムとイブが知恵の実を食べて楽園を追放される逸話を思い出しますが、仏教では反対に知恵の実を大いに食べて覚りを開いていくというのが、この般若系仏教の根本的姿勢であると思います。

哲学と変わりありません。真・善・美の体得者を目指すのが仏教の目的になります。

2の「浄土系」は、仏教の数多く立ち上げられた諸尊諸仏の中から阿弥陀如来一体を取り出し、阿弥陀如来を神の如く崇拝することによって、救ってもらうことを目的とします。
構造としてはキリスト教の様な一神教に近く、「浄土」という言葉もそのまま「パラダイス」に置き換えられます。

余談ですが、明治開闢以来の営々たる伝道の努力にも関わらず、日本ではキリスト教徒の数は1%を超えないそうです。私はこの原因を日本では既に阿弥陀如来が存在していて、南蛮渡来の見慣れぬたたずまいの神様など必要としなかったからだと推理しています。

キリスト教も浄土系仏教も「救いの宗教」であることにおいて共通しています。

3の「密教系」はバラモン教の影響を強く受けたもので、インド仏教末期に生じたものです。

これが一番はやっていると思います。新しく出来た宗教も殆ど密教ですね。

その目的は「現世利益」にあります。「利益」という点で「浄土系」に似ているような感じがしますが、「利益」と「救い」では違います。

大きな意味での利益と言うことでは、1の「般若経」でも、何か自分のためになるからするので、人間の行為、須く自分のためにならないようなことはしません。

「密教」の「利益」はもっと具体的かつ現実的なもので、感覚的にも得られたような気分にさせてくれるものでなければなりません。

「お金儲け」と「病気治し」が代表的な「利益」でしょうが、その他にも「良縁」、「安全」、「合格」、「出世」、「優勝」、「男女関係に関するもろもろ」、「水子供養などの祟り封じ」等々枚挙にいとまがありません。

お参りしただけで利益が得られるか、かなり疑問ですが、多くは加持祈祷を取り入れて、何となくその気にさせてくれるところが密教の特徴と言えます。

私が知っている仏教の祈祷ですと、「大悲心陀羅尼」※というお経があり、神道ですと「大祓の祝詞」があります。

実は、共に大した事を言っているのではありませんが、中味でなくてその気にさせることが大切ですから、意味など知らない方がイイのです。多分それで密教というのだろうとおもいます。「中味は秘密」ということです。

前にも書きましたが、般若系を代表する宗派であるところの「曹洞宗」も坐禅だけでは人が集まらず第4世の瑩山(ケイザン)禅師が密教を取り入れることによって大きく教線を延ばしました。

曹洞宗のお寺にお稲荷さんがあるのが不思議なような話ですが、密教を行う以上はそういう施設が必要になります。

愛知県豊川市に妙厳寺という大きな曹洞宗の「僧堂」がありますが、それよりも付随するお稲荷さんの方が全国的に有名で、現在の永平寺の管長さんは豊川稲荷の住職さんです。
坐禅と祈祷がどうして両立できるのか不思議なような話ですが、そうなっております。

密教と言いますと弘法大師の始めた真言密教を思い浮かべますが、実際には至る所に存在しています。始めにバラモン教の影響と記しましたが、〇〇天とか〇〇王とか名前がつけられているのは全てバラモン教の神様が仏教に取り入れられたものです。

お稲荷さんも元々はダキニ天というちょっと怖い官能的な神様のようですね。その他、吉祥天、梵天、毘沙門天、不動明王、降三世明王、愛染明王など色々思い浮かぶと思いますが、これらの諸尊を祀ってあるところはすべて密教です。

世界の殆どの宗教は、なにがしか密教性を持っていて、一概に否定することは出来ませんが、一方、この密教性が知的な人を宗教から遠ざけ学校教育からはオミットされる主因になっていることも否定できません。

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ここまで私の大ざっぱな日本仏教の捉えを書いてきました。

私の思います所は、日本の多くの方は浄土系と密教系で仏教と思っている方が多いのではないだろうかということです。

私にとっての仏教は、もちろん般若系です。本道と言ってはおこがましくなりますが、これが元にあり、それだけでは多くの人を救うことも出来なければ、人気も出ないので、順次生じてきたのがこの順だろうと思います。

『般若心経』は「観自在菩薩」から始まります。「観自在」とは「精神の自由」と言い換えられます。

「精神の自由」を得られるにはよほど自立した精神を持たなければ不可能です。

仏教はかかって現代性を持った宗教であるということも知っておきたいと思います。



※ 大悲心陀羅尼(ダイヒシンダラニ)

「ナムカラタンオー トラヤートラヤー」で始まり、いくら耳をすまして聴いていても何を言っているのかサッパリ分からない経文で、曹洞宗以外でも使われている祈祷です。
経文を見ても、何か妖気漂うような漢字が並び、全く意味は分かりません。

それもそのはずで、これは元の仏典(おそらくパーリ語)をそのまま音訳したもので、「ボルガの舟歌」をロシア語のまま聴いているようなものだと思えばよろしい。

何が書かれているのかといえば、「観世音菩薩」を讃える詩句です。「観音様は素晴らしい、完全であり、無限の力がある」というようなことがずっと述べられています。

やはり観音様も密教の類かと思いかねませんが、“You are my sunshine♪”の歌のようなものだと思えば、到って身近で具体性を帯びた菩薩様に変身なさるのでないかと思います。



信仰に関して

以前にお寺の総代をしていたことがあって、その時ははっきりと自覚出来ていなかったことであるが、お寺通いをしてみたところで、信仰について考えることがなければ、何もしたことにはならない。

音楽堂や美術館の周りをぐるぐる廻っても音楽や美術に触れたことを意味しないのと同じで、係として中に入って受付で番をしていてもやはり同じと言える。

関わり方は色々あって、音楽で言えば、創作、演奏、鑑賞に分かれるのだろうけれど、そのいずれにしても或いは総合的に行うにしても、その自分に意味するところは自分の中で築き上げるほかはない。

バッハやモーツァルトが如何に学校や世間において素晴らしいと称えられたとしても、聴く気にもならずコンサートのチケットをもらっても人にあげたりするのでは、その人にとってバッハやモーツァルトは価値がないのであり存在しなくてもよい。

ここの所が非常に重要なので繰り返したいが、自分の心の中で価値を築き上げようとしなければ、どれほど多くの人が、或いは立派な人が、その価値を力説しても、意味など生じない。

ただ世の中の殆どの人、ということは私も当然その中に含まれるが、は『多く』や『立派』に関しては価値を感じているので、それに引きずられて自分では分からない事にたいしても多少の関わりを持つが、そこから先が問題で自分の外にある価値を自分の心の中に移し替えてから、自分の中にその事それ自体の意味が生じてくる。

信仰の話に戻れば、上の文の『そこから先』を指して言うのであって、関わりをいくら多くしても又熱心に行っても、信仰とは云わない。

それは世に言うところの宗教熱心ということで、宗教熱心と信仰は違う。建物ばかりいくら立派にしていてもダメなのである。

以上は、一昨日の誕生日で66歳になり、初心忘るべからずの思いもあって記してみたのである。

信仰は自分の心の中で行うことである以上、本質的には孤独な作業なのだ。



篆刻展を観に行く

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古めかしくて何やら由緒を感じる建物。昔の16銀行岐阜店(恐らく本店)です。


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今はギャラリーになっていて、私の同僚だった方から展覧会のDMを頂き見学に来ました。


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ぴーんと張りつめた高尚な雰囲気が漂ってきました。書道展の様に思うのですが、実は違って篆刻展です。篆刻という言葉は知らなかったのですが、書の終わりに押す印鑑ですね。


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この作品は会を主催されている田中緑翠先生の作品です。真ん中に押されている四角い赤い印が篆刻です。緑翠先生は日本篆刻協会の役員をされている偉い先生ですが、若い頃岐阜聾学校の先生をしていらして、お弟子さんに私の同僚が多くて、その内のお一人から案内を受けました。

フェイスブックでもこの写真を出して、「私は分からないので感想を聞かせて下さい」と但し書きをしましたが、今の所誰も書いてくれません。私は何となくスゴイのではないだろうかと思ったのですが、それ以上のことは申し上げられません。出来ればコメント下さい。


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緑翠先生を間に挟んで記念写真を取りました。先生は90近いのでないかと思いますが、非常に元気、耳が遠くなった私よりも健聴で一芸に秀でた人は心身ともに闊達と畏れ入りました。
先生で昔聞いたことでかすかに記憶していることは、日展無審査ということですが、知らない世界ですから何とも申し上げられません。

左の女性は名前は伏せますが、実は関養護学校の時の同僚の先生です。会場でお会いしました。

私は教務をしていましたので、必要な仕事に卒業証書の準備があります。普通の人では出来ないのが卒業生の名前を墨で書くという作業で、この左の方に私は頼んでおりました。気持ちよく引き受けて貰いました。

当時は、もちっと若かったのですが、十数年経っておりますので、お互い様のことであります。


「羽島れんこん友の会」の美味しい行事

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大仏さんのお堂の入り口に大きなポスターが貼られております。同じ内容のチラシも横においてありまして、それを見て頂きます。


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羽島の名物「れんこん料理」の御案内で、併せて、佐吉大仏拝観と羽島観光交流センターへ行って美濃縞織りの体験をしようという企画であります。


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上のチラシの裏側ですが、「羽島れんこん友の会」には10軒の料理屋さんが加入しています。
地図の上の方に②竹扇さんがあって、この御主人が会長。しばしばテレビで紹介されますからご存じの方も多いと思います。


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これは以前にもご紹介した中日新聞発行「Clife6月号」です。竹鼻の名物料理として、竹扇さんが紹介されています。

気が向かれた方は是非ともご参加されますように、御案内致します。


竹鼻町の代々祭の様子

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門の前に赤提灯をつけた竹竿。7月1日は代々祭の日。子孫代々繁栄が続くことを願って江戸後期より始めた竹鼻町の商店街を中心とした行事です。


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この日はみそぎ団子を食べる習わしですが、これはそんなに古くからあるものではありません。


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我が家の隣りに青山スクエアが出来、商店街の企画行事が行われ、たいへんな人手です。


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カメラを右に回しました。ゲームコーナーも設けてあるみたいですね。


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「兎月園」というみそぎ団子を考案した饅頭屋さんが出店を開いています。


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近くへ行って写しました。たいへんな人気ですぐに売り切れ状態になりました。


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昔から子どもの頃は誰もが遊んだ金魚すくいや射的


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こちらは50メートルほど離れたところにある聞得寺の駐車場を利用した六幸市。


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一枚地元のパン屋さんの社長の西松さんと記念写真。

ここからの写真は日が暮れて7時半過ぎに撮ったものです。

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人もだいぶ少なくなってきました。


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却って風情を感じる趣もあります。


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道路から撮りました。


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マスコットキャラの「たけちゃん」です。


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こちらは聞得寺会場の「はなちゃん」。2人合わせて「たけ・はな」ですね。


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六幸市は地元産品や手作りのお店。多少なりと産業の活性化に寄与できるとイイですね。


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かくして今年の代々祭も過ぎました。一年も半分過ぎたわけです。折り返してから早く済むのは人生と同じというものか。
左の提灯は、従姉のクリーニングを営んでいる家、右に見えるは町内の秋葉神社の提灯。
大仏寺の提灯は早々と消えております。



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