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昨日、名女さんからのコメントに「雨情の歌は憂いに満ちているものが多いがどうしてか?」という質問がありました。それで、買ったままで開かなかった本を読むことにしました。

質問に対する直接の答にはならないと思いますが、本の中に童謡十講(抄)という項目があり、その中に雨情の童謡観が記されていますので、いくつか引用したいと思います。

①一体日本の国民ぐらい詩とか音楽とかについて感覚の鈍い国民は、世界中、他に類例がないかも知れないと私は思っています。欧米各国では、タイピストがタイプライターを打つにも、カフェーのコックが調理するにも、道路工夫が道普請をするにも、何れも詩的感興と音楽のリズムによって手を動かし、仕事をする様に自然となっていると言うことであります。
 そんなわけですから、ピアノの音を聞けばすぐに詩を想い浮かべ、詩を吟じているのを聞けばすぐに踊りを思い浮かべる様になるのであります。かくて音楽と詩と舞踊とは、彼らの生活から片時も離すことが出来ない、切実な必要事になっているのであります。

②ある人はこの滑稽味と諧謔とを混同して考えている様でありますが、それは大変な間違いであります。滑稽と諧謔とは全然別種のものに属しているのであります。
 童謡に滑稽味の含まれていることは、その童謡をして無価値な、唾棄すべき作品としてしまうことであり、淡い諧謔の含まれていることは、その童謡をしてますます光を増さしめるものとなるの相違あります。童謡をして、淡い諧謔が含まれていなかったなら、その童謡の価値は半ば減ぜられるといっても、過言でないと思います。
 しかしそうは云っても、必ずしも淡い諧謔が含まれていなければ真の童謡で無いというのではありません。子供の感情に訴えて、その感動を誘発するに足るだけの力あるものなら、立派な正風童謡と見て差し支えないのであります。何となれば、諧謔は真摯な、涙ぐましいまでに率直な感情から出発しているものであり、その真感情こそ、子供の心に触れて、彼等を動かしていく力であるからであります。
 現今の多くの童謡を見ると、子供の感情に訴えずに、まず理知に訴えていこうとするものが多いのです。そのためか、内容にのみ腐心して、調律を無視して、童謡の本質に触れていない、或いはまた民謡の境地に近いものや、小唄の範囲に入るべきものを、しかも堂々と童謡と銘打って発表し、恬として恥じない人があるのです。

③童謡は子供にも大人にも分かり易い言葉で唄った、子供の生活を土台とした謡であります。そしてそれは勿論現代語で、お話しの際に用いるものと同じものを指すのです。それは童謡は唄うものであって決して読んだり味わったり、理知に訴えて、その善悪を判断したりするものではないのであります。

④私は優れたる詩は、優れたる言葉の音楽であると考えて居ります。童謡はあらゆる詩のうちでも、最も純真な詩でありますから、唄いまた、踊ることはその本質でなければなりません。

⑤子供の作品に多く見るような、唄うことの出来ない童謡は、童謡としての価値のないものであります。それらの作品は、単に童謡の境地を云い現した自由綴り方の範疇に入るべきものでありまして、童謡として名付けることは出来ないと思います。

⑥繰り返して申しますが、童謡は童心性の表現であります。

⑦とにかく子供の心に理知を以て判断する余裕を与えないほどまでに直接感情に訴えていく力のこもった熱のあるものが正しい作品であり、正風の童謡なのであります。このことに関しては、幾度か繰り返し申しました。そしてこの本全体もまた、、要すにるにこのことの繰り返しになるかも知れません。

⑧ですから、私の主張する童謡教育の必要は、現在教育の欠陥から出発することになるのであります。
 では何が現代教育の欠陥でありましょうか。
 現代の教育は(勿論小学校教育です)、主知主義から来た物質教育だと、私は思います。反対の方から云いますと、情操教育が欠けている、理知の教育ばかりしかない、と言うことに帰するのであります。
 その結果はどうなるでしょうか?考えただけでも恐ろしいことではありませんか。何も知らない、天真無垢な児童は、理知一遍の教育から、どんなに荒々しい、がさがさした、利己的人間に育て上げられていくことでしょう。

⑨童謡はうたうべきものであって、決して読んで味わうものでありません。だから第一に気をつけなければならないことは、その階調であります。・・・
 第二には児童の感情から入って、その核心に触れて行くものでなければならないと思います。理知に訴えて後、感情を動かしていく様な童謡は、極力排斥しなければなりません。何故かと申しますと、それは児童の情操陶冶には、何の益もないからであります。・・・
 理知にひからびている彼等の心に清い水を与えるところに、私の童謡教育の目的があります。

⑩人間はいつでも物質生活以外に、何らかの慰安なしに生きていけないものであります。・・・
 児童が童謡をうたったからといって、直接学校の成績はよくならないけれども、間接的に考えてみますと、直接的の効果にもまさって大なる利益があるのです。田の稲は農夫の手と肥料ばかりによって生育するのではありません。日光と空気と水がなければなりません。この表裏両用のものが一つとなって、はじめて稲は完全に生育し成熟するのであります。児童もまた表面的な成績の良否によってばかり人間となっていくのではないのであります。

⑪真の童謡は子供の目をよろこばすような綺麗な言葉のみ選んで並べたもの、則ち玩具のようなものであってはなりません。又、子供の好奇心をそそることばかり重きを置いた、手品や魔術のようなものであってもなりません。・・・
 苟も童謡作家として立ったからには、手品師や玩具作りの真似はしなくてもいいのです。・・・童謡作家には童謡作家としての本分があるからであります。
 もう一つ童謡作家として避けねばならないことは、香水のような匂いを発する童謡を作ることであります。香水は一時は香しい匂いを発して美感らしいものを与えますけれど、程過ぎると匂いを失ってしまって、何の残るところもなくなってしまいます。童謡にしましても、そうした香水童謡は、一時は非常に美しい新しいもののような気がしますが、何度も何度も読み返し、唄い返しているうちには、すっかり香気が失せてしまって、はじめは美しく、新しいと感じたものが、いつか嫌味の多い、古くさいもので、耳について仕方がないようなものとなってしまうのであります。