私は美術がサッパリ分かりません。

音楽ですと、フルトヴェングラーやヘルベルトフォンカラヤンは単に名前を知っているだけですが、エルヴィスプレスリーやビートルズなら非常に熱心に聴きました。
都はるみさんや美空ひばりさんを聴いていた時期もあります。

歌謡曲やロックもミュージックであるにはクラシックと同じで、はるか低級なのかも知れませんが、CDも沢山持っていて私は結構な音楽愛好家であります。

それに比べて美術は一体何が良いのか、価値とか意味とかいうものが私には全くつかめません。

たとえゴッホだろうとフェルメールだろうが、絶対に金もうけしてはならないという条件を付けられたら、要りません。邪魔なだけです。

まして自分が創作するとなると、苦痛以外の何物でもなく、時間の無駄遣いとしか思えません。

それではなぜ観に行くのかと言いますと、知り合いから案内状が送られてきて義理で観に行くということがありますが、もう少し積極的な理由を挙げてみたいと思います。

一つには「人間に興味がある」ことが言えます。

非常に熱心に創作に励んでいる方は、個性のある人が多く、面白い生き方をされています。

殆どの人は世間的な価値に従って、妥協してといった方が良いかも知れません、生活しています。それは社会的な地位の向上と金銭の取得という二つの価値に集約されると思います。

具体的にしていることは個々マチマチであっても、追い求めていることが同じですから、自由で拡がりのある考え方に出会うことが稀です。

その点、美術の方には、地方の無名の人であっても、世間的価値観だけ追い求めていては創作できませんし、自分を見つめなければいけませんので、個性的で刺激的な人格の持ち主が多いと思います。作品を通してそういう人に触れることは得難い人生経験と言えます。

また今日の芸術は、昔よりも自我の内面を表現することが重んじられますので、絵とか彫刻から、文学や思想関係の一冊の本を読むのと同じ様な感興を持つこともできます。

以上は、人間に対する関心からギャラリーや美術館に行くということです。

もう一つ更に重要だと思っていることを挙げたいと思います。

私達は何も分かる世界ばかりと付き合って生きているのではありません。

私達の周りを取り巻いている世界は、好きなこと、楽しいこと、存在理由が分かるものばかりで成り立っているのではありません。嫌なこともありますが無関係なことがほとんどです。

私は美術館に行っても他の方のように楽しめませんし、ちっとも幸せな気分にはなれません。

どんな感想を言って良いのか、どう感じたら良いのか、正直なところ途方に暮れます。

中にはルノアールやルドンのように世界的価値のあるものもあれば、知り合いの方が余暇を利用して描かれたものもあります。

私にとっては、どっちも同じで、なくてもイイものばかりです。

しかしそれはあくまで私という固有の人生経路を辿った者の感想で、観に来ておられる方の多くは、人生の豊かさを満喫しておられると思います。

創作された方にとっては、命の次、更には命そのものと作品を捉えている方もみえると思います。

ですから当然、私にとって価値がないということは、目の前に有る作品に価値がないということではありません。

私も、私という個別に閉ざされた自我を捨て、意識をもっと上の処、大層な言葉を使えば、天とか神のような視点に立って、この美術館全体を見下ろしてみるならば、意味がわからず途方に暮れている人間もいれば、感動のあまり身体全体を振るわせている人間もともに見出すことができるでしょう。

その様な視点でもう一度自分の目にしているものを捉えてみますと、感動している人もあくびをしている人も、早く帰ろうと駄々をこねている子どもも、みんなが私です。

そう言った全てを総合した中に、ヒラメという一個の人間も含まれて存在している訳です。

この世界が大変豊かなものであり多様性に満ちていることを実感するには、分からない事とも触れ合って、その全体世界の中にいることを体感してみなければなりません。

ですから美術館にもギャラリーにも、クラシック音楽専門のコンサートホールにも足を運んで、何か分からず途方に暮れる事も必要なことなのです。

これは、いつかはその価値が分かるために足を運ぶのではなくて、私がサッパリ分からないと云うことは、その反対に、よぉーく分かるという人もいるはずで、世界はその両者、並びにどっちつかずの人もいて、多様に成り立っているということです。