ジャズのライブに行くようになりチョット厭だなと思うことは、手拍子やノリを強制されることです。

講談や落語もそうですが、此方は笑わないといけない様な雰囲気があります。

自分の好きに楽しんでいるだけなのですが、「白けないで!」とか叱られそうでチト居心地が悪い。

その点クラシックは有り難く、静かにしていさえすれば、問題ありません。終わってからも無理に拍手する必要がなく、自分の思った通りで良いようです。

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と言うようなことを考えていて、それが以前から疑問に思っていた修証義の中の一句に結びついてきました。

修証義は曹洞宗の一番詠まれる日常勤行で、浄土真宗ならば正信偈に当たります。違いは漢文でなく文語文で書かれていますので、何度か詠んでいるうちに意味が分かってくるところです。

私が疑問に思っていたところは第四章の「発願利生」(ほつがんりしょう)に書かれています。

この第四章に書かれていることを簡単に説明しますと、私達が一般的に「菩薩道」と言っている仏教者としての実践すべき四つの事柄が記されています。

四つの項目とは、布施・愛語・利行・同事です。

私がよく分からなかったことは四つ目の同事に関する事です。

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「同事」というのは、お経に書かれている説明では『自他の区別なく相手の立場に立って同化し慈悲を実践する』とあります。

要するに相手と気持ちを一つとすることが同事ということで、この説明自体は難しいことはありません。

私がよく分からなかったことは『佗(た:他と同じ)をして自に同ぜしめて、後に自をして佗に同ぜしむる道理あるべし』と書かれている点です。

私が疑問に感じた理由の一つは、「観音経」に書かれていることと反対でないかと思ったからです。

相手の立場に身を変化させて説法を行うのが観音様の説法の一番大きな特徴です。

相手が仏様なら仏様、妖怪なら妖怪、子どもなら子どもの姿に身を変えてお話しすることから、観音様の自由自在で多種多様な姿を見るわけです。

所が「修証義」を読みますと、先ず侘(=他人)を自分に同ぜさせよと書いてあって、これでは反対ではないか!と思っていました。

なんとなく「俺についてこい!」という様な、いわゆる上から目線の言い方に感じていました。

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ここで始めの話に戻りますが、ジャズやクラシックの演奏について思いを巡らしている時、フト「他をして自に同ぜしむる」ということは、音楽の鑑賞の様な事を指すのでないかと思ったのです。

例えば今私はモーツァルトの協奏曲を聴きながら小文を綴っていますが、この音楽はどこで鳴っているのかと言えば、目の前のステレオ装置からです。

しかし目を瞑ればステレオ装置など消えてしまいます。音の大きさから1メートル離れたところからといっても良いのですが、飛躍した言い方をすれば私の頭の中、感情も考慮すれば心の中で鳴っていると言ってもよろしいのでないでしょうか。

つまり「佗をして自に同ぜしむる」というのは、今ピアノを弾いておられる方の演奏が自分の心の中で鳴り響いているかのように、他人を変えたり自分の支配下に置くようなことではなく、その人が自分の心の中に生きる姿として存在することであると言えます。

大音響のロックコンサートのように立ち上がって大声で踊って騒ぐような聴き方では、始めから自分を捨てて相手に同化させてしまっていると言えますので、修証義の述べるところの同時にはなりません。

また、相手を自分の心の中に入れるためには、入れることができる自分を持たねばなりませんので、はなから自分を捨ててしまっては菩薩道にはなっていかれません。

順としては相手を受け入れて、その後に、自分から相手に対する働きかけが生じてくることになります。

これが自由自在にできるのが観音様で、言うは易し、その道はまだまだ遠いところにあります。