非凡と言う以上は、少しぐらい優れている程度では言いません。他に隔絶した能力や業績があってこそ、「あの人は非凡である」と評価されるのでないかと思います。

であるとすると、割合としては千人か一万人に一人ぐらいの率でないでしょうか。

さて、私が「凡人より非凡な人の方が素晴らしい」と定義づける論拠を述べさせて頂きます。

普通は理由があって結論が出てくると思います。しかし、この場合は逆です。先ず始めに「凡人は非凡な人より素晴らしい」という結論がありまして、後からその理由付けを考えるという作業をしなければなりません。

ですからこのブログを書いている今の今も、説得力のある理由をうまく拵えられるか、かなり半信半疑でおります。

加えて思いますに、理由付けというのは謂わば白黒分かれて行うディベート合戦のようなもので、言葉遊びの類いのような気もしています。

むしろ私が凡人の側を選択した理由を述べる方が適切だと思いますし、その中に本質的な答えも含まれているような気がしています。

私が何故凡人の側を選んだのかと言いますと、先ず第一に、私が他ならない凡人だからです。

68歳になった今更、自分に対してひっくり返ったような夢を描いて、他人に優越することばかり求めていても、無理という以外有りません。

それよりも、「凡人である方が非凡人より良い」と定義した方が、心安らかですし、自分なりのレヴェルで自分を活かすことも出来ると思います。

これが第一。先ず自分をありのままに受け入れることが肝心です。

もう一つ理由があります。非凡人は多く見積もっても千人に一人です。世間ではその一人が異常に褒め称えられて誠に世の中不公平です。

仏教と関わって思うことは、そんな千人に一人のことよりも、その他大勢の999人が納得して満足できる考え方を提示していくことがもっと大切ということです。

その他大勢も個別に能力を発揮できれば非凡かと言いますと、仮に全員が非凡な能力を発揮したら、その非凡人は普通並みになりますから、やはり世の中の大多数は凡人です。

スマップに「世界に一つだけの花」という大ヒット曲がありますが、これもどちらかと言えば非凡の方にウエイトを置いた内容です。

「ミンナと同じ」と「ミンナと違う」のどちらが良いのか、言葉の綾のようなものですが、「同じ」が「違う」よりもイイという見方も出来ます。大勢の人と同じというのは、人間として一番の大通りを歩んでいますので、こんな良いことはないと言えないこともありません。

大変理屈っぽくなりました。仏教も元はめちゃくちゃ理屈っぽい宗教で、私にピッタリです。

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さて、ここから凡人の方が非凡人より優れている理由付けです。

私は教員をやっている35年間慢性的なノイローゼ状態で生活をゆったりと楽しむことが出来ませんでした。

夏休みに家族旅行に言っても、二学期からの授業が心配で、景色など上の空でした。実に勿体ない時間の過ごし方をしたなぁと悔やまれますが、過ぎた時間を悔やんでも仕方がありません。

今は年金と幾ばくかの貯金を下ろしながらカツカツの生活をしていますが、時間を豊かに楽しむことが一番大切だと思っていますので、仕事など決してしたくありません。

退職してから色々な人との繋がりが生じて、美術展に行ったりジャズやクラシックのコンサートに行ったりするようになりました。

そこでいつも思うことは、自分が楽しむことが出来るのは、自分が凡人だからに他ならないということです。

つまり、優れたものに接した方が当然楽しいですし時間も有効に活用できたと言える訳ですから、凡人であればあるほど、理屈の上からは、廻りが優れものばかりになり、楽しむことが出来る材料になります。

要は人生の目標は楽しむことで、色々なものを豊かに、且つ自分勝手に、適当に、味わうためには、凡人である方が都合が良いと結論づけられます。