佐吉大仏 ヒラメ記(代表:永田章のブログ)

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エッセイ 仏教・信仰

「般若心経」について

「般若心経」は日本仏教の中で一番よく知られたお経で、その精神を分かりやすく《か・こ・と》と説明しています。

《か・こ・と》とは「かたよらない」、「こだわらない」、「とらわれない」の頭文字を並べたもので、この三つの気持ちを忘れないようにしようということです。

私はもう少し中味に立ち入って、私の捉える「般若心経」について説明していきたいと思います。

「般若心経」は全部で262文字、お経としては大変短いものですが、その構成はお釈迦様が弟子たちの中でも知恵第一と称されている舎利子に対して、観自在菩薩がどのような心境に到達して、一切の苦厄から解放されたのかを説いたものです。

観自在菩薩は日頃の仏教では余り聞き慣れない菩薩名ですが、元のインドに辿りますと、観世音菩薩、略して観音様と同じで、中国語に訳されるときに二通りに訳されただけのことです。
ですから、ここからは観音様という親しんでいる名前で説明していこうと思います。

「般若心経」は大乗仏典ですから、お釈迦様の没後数世紀後に現れたものと思われますので、実際にお釈迦様が言われたわけではありませんが、仏典の多くはお釈迦様に仮託して、弟子たちにお釈迦様がこう説かれたという形式で書かれています。
「では本当はどなのか?」というような堅いことは言わずに、そのままに受け取りたいと思います。

さて、私は「般若心経」を詠んでいまして、舎利子という方が気になってきました。

仏教は社会的役割をほっぽらかして、ひたすら瞑想に耽る様な宗教ですから、当然出家者は知識人や思想家の集まりです。

舎利子はその中でも知恵第一であることにおいて衆目が一致しているような方ですから、今で言えば東京大学の学長とかノーベル賞を貰うような大変な知識人であるわけです。
別の言い方をすれば動く百科事典・六法全書と言えるような人です。

その彼に対して、平たく言えば、「そう知識ばかりに惑わされず、少し頭の中を空っぽにしたらどうか!」と言われたことが、『色即是空』という言葉で表されていることであると思います。

煩瑣な教理上の解釈はその類の本に任せておきまして、私の一番言いたいことは、お釈迦様の法を説く相手が私であったら、或いは、我が女房であったら、舎利子に対して言われたことと同じ様に言われたのか疑問に感じると言うことです。

「仏は人を見て法を説く」と言います。私はそれなりに本を読んでいますが、気の向くままに適当に読んでいるだけです。体系的・学術的・専門的なものは何も持っていません。私の女房はテレビは非常によく見ていますが、本など読んでいるところを見たことがありません。

場合によれば、舎利子に対して云われたこととは逆に、もう少し勉強してみたらどうかと言われるかもしれません。

そのように私が思う一つの根拠があります。

「般若心経」は観音様についてのお経であるとは、この文の最初に述べました。「般若心経」は短いものですから、観音様について総合的なことがよく分かりませんが、幸いなことに「観音経」という観音様について書かれた比較的長いお経があって、それを詠むと観音様の事がよく分かります。

私は何度もくり返し「観音経」を詠んで、観音様の一番根幹としてあるのは、次の章句であると感じています。

真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈悲観

これは人や物事を観るとき、判断と言うことでしょうが、の心構えについて述べられているものです。

当然真っ直ぐで正直なものの見方をすべきでしょうし、よこしまな気持ちや欲張りな気持ちで世間に向かってはいけないわけです。三句目ですが、当然慈悲の心、要するに思いやりの心を持って世の中に対処しなければいけないことは言うまでもないことです。

引用から分かりますように、真ん中に「広大智慧観」という文句が入っています。やはり相手のことや世の中のことを知るには相当な知識が必要であるということです。

知識と智慧は違いましょうが、広大な智慧を働かせるには、それに見合う広大な知識が必要で、それを世の中に役立たせるようにうまく活用できるのが智慧です。

観音様は広大智慧観の体得者です。

ここで「般若心経」に戻りたいと思います。

お釈迦様は決して舎利子を否定しているのでは無く、舎利子の広大な知識は前提として、その運用について、知識にとらわれすぎて自由な発想が出来ていないと仰っています。

謂わば、医者が患者の話をろくすっぽうも聞こうとせずに、戸棚から分厚い医学書や薬学事典を取り出して、この中に適正な処方があるはずで有ると必死に調べるようなことをしているとお釈迦様は指摘しているわけであります。

それでは観音様のような名医には成れません。本を一回捨てて、白紙な心で患者に向かいなさい、ということです。

これが私の考える「色即是空」の意味です。

「般若心経」を「救いの経典」と読もうとすれば<か・こ・との心>が抽出されますが、<観音様への道>が記されていると捉えますと「か・こ・との心」では済まされないものが出て来ると思います。

最後に、気休め的になるのかも知れませんが、「仏は人を見て法を説く」の「人」とは自分自身に他なりませんので、自分の状況を見据えながら文言を解釈するのが一番大切なことで、そうあって生命を前向きに捉える事に繫がります。

仏教はニヒリズムに陥るためにあるわけで有りません。


カルビニズムは何故近代資本主義を生み出したのか?

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写真の本は日本を代表する二人の社会学者のキリスト教を巡る対談で、示唆に富んだ数多くの考察が述べられていて、知的にスリリングな本です。
ご関心ある方は是非読んで欲しいのですが、このブログではその中で語られているカルビニズムと資本主義の関係について、私なりの意見を述べてみようとする試みです。

この本において先ず、カルビニズムが要約され、次にマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に記されている、カルビニズムが近代資本主義を生み出したとする、マックス・ヴェーバーの説が紹介されます。

此処までをかいつまみますと・・・。

カルビニズムはプロテスタントの一派ですが、神についての究極的な考え方をとります。

それは、「根本にあるのは神様は絶対という考え方で、救うの救われないのということは、神様が予め決めてしまっていて、人間ごときが何を努めようが、また何をしないとしても、神様の決定に影響を及ぼすようなことはあり得ない」ということで、これを予定説と言います。

《勤勉VS怠惰》という対立軸において、この考え方に適用しますと・・・

神様が地獄行きと決めていたら、どれ程勤勉に働いても地獄行きなので、怠惰の方が良い。
神様が天国行きと決めていたら、どれ程遊びまくっていても天国行きなので、働くだけ損。
と、論理的にはなるはずで、なぜこれが職業を天職として勤勉を美徳とする資本主義を生み出したのか分からない。

そこで著者の一人、橋爪大三郎氏によるマックスヴェーバーの解説では・・・

『どこに秘密があるのかというと、自分はこのゲームからはみ出していることを証明したい。

地上の自分の利益を考えて行動すると、自堕落に暮らすことが支配戦略(優先される考え方)になる。

そういう状況で、もし勤勉に働いている人がいたら、それは神の恩寵によってそうなっているのです。

勤勉に働くことは、神の命じた、隣人愛の実践である。

この状況で、勤勉なことは、神の恩寵の表れです。

となると、自分が神の恩寵を受けていると確信したければ、毎日勤勉に働くしかない。』


この説明を読んで成る程と思えたら凄い頭。私は何度も読んで考えていますが分からない。

全てが神によって決められているのならば、労働意欲を持つこと自体も、神の差配によって生まれた時には決められてしまっている。働けば傍を楽に出来て、聖書で説かれている隣人愛の実践につながるので、労働意欲を持っている人は神によって選ばれている人だ、という論理展開までは理解できます。

だからといって、神の恩寵を受けていると確信するために、毎日勤勉に働くのでは、人間としての作為性が入るので、矛盾が生じます。


私だったら、こんなアクロバティックな論理展開などせず、もっと自然に考えます。

私が思うに、マックス・ヴェーバーはキリスト教徒で、プロテスタンティズムを称楊したいから、どうしてもプロテスタントであることに積極的な理由を見出そうとして、上のような論理を組み立てたのでないかと推測します。
仏教愛好家の私はキリスト教に義理立てる必要はありませんのでここは自由です。

人間は欲のかたまりです。大抵の人にとっては、その欲の一つ一つを成就することに幸せを感じるものです。

それではいけないので、「断捨離」という流行の言葉でも知られるように、仏教は煩悩を戒めていますし、キリスト教も、恐らくイスラム教も強欲を制御する教義とか戒律を含んでいると思います。

処が、カルビニズムによって、現世での行いと神による救済の有無とは無関係と言うことになれば、神の裁きを怖れて、無心無欲や質素倹約に努めなければならない制約から自由になれます。
あの世のことなど分からなければ、今の仕事を天職と捉え、現世に全力を傾注する以外無い。

例えば、隣人愛の実践として利子を取ることを禁じられていたならば、もうそんな気遣いをする必要はなく、大いに利子を取って金持ちになればよろしくなります。

好き勝手に自堕落に暮らしていたら、今の日本で言えばフリーター、更にニートに、最後にはホームレスに堕ちてしまうでしょう。
もっと遙かに生存環境が厳しかった17,8世紀のアメリカ合衆国ではなおさらのことです。

ですから、決して橋爪大三郎(マックスヴェーバー?)氏の言うように、支配戦略は自堕落に暮らすことではなく、自力で幸福を追求することで、その内容として考えられることは現世主義、効率主義、快楽の肯定と言ったことになるでしょう。
望むべき考えとしては独立独歩、自立の精神( Self-reliance )が自ずから生まれてきます。

私見でした。

歎異抄六から『親鸞は弟子一人ももたず候ふ』の解釈

歎異抄六の中の『親鸞は弟子一人ももたず候ふ』という言葉に惹かれて歎異抄に興味を持つようになった、という文をどこかの批評家の本の中で読んだことがあります。

実は、私も歎異抄の中で一番聞くべき言葉でないかと思っています。

ただ、その解釈についてはイロイロあるようなので、正しい捉え方を述べたいと思う、と大きく出ましたが、私の説明の当否は読まれる方が自分で判断すべき事です。

多くの方が、対象は親鸞でも道元でも、お釈迦様でも良いのですが、私から見て誤解しているように思える理由は、信者の立場に立って言葉を捉えようとするからです。

親鸞は決して親鸞教の信者ではなくて、開祖・教祖なのであって、究極の師としてお釈迦様は存在していたと思いますが、自分の考えは自分で考え自分の言葉で表現しようとしたのであります。

目の前に道はなく、自分の道は自分で切り拓かれていった過程が歎異抄の言葉として残されていると捉えるべきです。

多くの人の行っていることは、親鸞の切り開いた道を、どのように歩んでいったら親鸞の辿り着いた目的地に到着できるかという、方策を論じていると言って良いと思います。

喩えてみますと、新幹線を新たにどのルートに敷設するのかを検討することと、完成してしまった後に適切なる運行を検討することでは、同じ検討でもまったく内容が違い、参考にすべき専門文献も、アプローチする意識も変わってくると思います。

私は親鸞は前者の心構えでいたに違いないと思いますので、新幹線の喩えで言えば、この地方でも新幹線を作りたいとか、もっと別の列車形態は考えられないかという、開発者や創造者の立場に立たなければ、その言動を正しく見極めることは出来ないと思います。


さて、そこで、親鸞の『弟子一人もたず』という言葉に立ち帰って考えてみますと、親鸞の教えの通りに行っていたら新しい新幹線が作れるかと言いますと、JR東海の経験をJR関東で活かすことは出来そうな気が致しますが、JR東海にない地形については自分で判断しなければなりません。

JR東海としては一々訊きに来られても困るでしょうし、第一責任の持ちようがありません。

子会社ならともかく、関東は関東で考えて欲しいと答えざるを得ないでしょう。親鸞の言葉に即して言い換えると、関東も九州も北海道も弟子ではない、ということになります。

親鸞は鎌倉時代の人で、その世相の中で生活を送られたと思いますが、信仰の道はどこに築かれたかと言いますと心の中ですね。

行いは外に現れますが、考え方の道筋はあくまで内面で作り上げられていきます。

たとえ親鸞といえども、同時的に把握できる内面は、あくまで自分自身の内面だけですから、歎異抄を表した弟子の唯円に対しても、自分の道は自分で作って欲しいと言わざるを得ないと思います。

『弟子をもたず』ということは、自分は師匠に成る気がないし、成ろうとしても成れるはずがないと言っている事に他なりません。

今度はお店で喩えてみます。

親鸞が築き上げたのはセブンイレブンかイオンのような巨大なマーケットで、私がしているのは夫婦だけで維持している田舎の小っちゃな八百屋さん程度です。

されど、経営者は経営者なので、お客さんとは立場も考え方も異なってきます。

それじゃ、自分もお寺を作るとか、祠でも建立しなければならないのかと言われるかも知れませんが、全然違います。

法灯は自分の心の中に築くものであり、誰にでもその為の敷地は確保されている筈です。

心の中に手を差し込んで、一緒になって築き上げられる人など誰もいないということです。

その覚悟を示したのが、『弟子一人持たず』という言葉だと思います。

仏縁とは何だろうか?

葬式などの法要の席や、お寺参りで昔の知人に会ったりしますと「これは仏縁ですな」とか言ったりしますが、私はもう一つ別の意味合いで捉えております。

1つの例を挙げたいと思います。

私の昔の同僚にHさんという木版画家がいます。相当活躍されているのですが、同僚だったのは相当昔で、私は美術に関心が薄いもので、友人という処まで行かず、付き合いは年賀状のやり取りぐらいでした。

私が大仏さんを始めてから、最初は写真に苦手意識があって、何事に付けても羽島市のアマチェア写真の方にお願いして写真を撮ってもらいました。

その方は相当年配の方でしたが、審美眼は確かで、ものを見る色々な事を教えて頂きました。羽島市の美術科の方とも懇意でしたので、昔の友人にこんな人がいると言って、Hさんを特集した「版画館」という冊子をお見せしたところ、大変感心されて、「羽島市の方にも紹介しなさい」と私に言われました。

私は実はそれまで何の価値も分からなかったのですが、その人の審美眼には心服していましたので、そんならHさんも大した人だと初めて思ったことでした。

8年前に始めた頃は、人の言うことは何でもかんでもやってみるという気持ちでいましたが、さすがに全く見当違いの美術展などどうしたものだ、と思い悩んでいました。

しかるに、また別の友人に連れられて竹鼻線の駅で朝の挨拶運動をしていましたら、慌てん坊の女子高生が「定期券の期限が切れているのに乗ってしまった」と笑いながら降りてきました。

気さくな女の子で定期券入れを見せてくれたのですが、そのケースの片側にHさんの版画をあしらったテレホンカードが入っていました。

「どうしてHさんのテレホンカードを持っているの?」と訊きましたら、一言、「だって私は好きなんだもん」と言いました。

この偶然に驚いて、「これは、やれ!という仏の導きだ」と思って、羽島市文化センターの2階でHさんの作品展を開催しました。そう思うととてつもないパワーも出てきました。

この頃、私の身辺には、信じられないような偶然や出来事が次々起こり、熱に浮かされているような毎日でした。
今は熱が比較的に落ち着いています。冷めたのかも知れませんが。

私は実は神の思し召しとか前世の結びつきといった超自然的なことは全く信じません。

しかしそういう表現まで否定するものではありません。

1つの偶然を仏様の導きと捉える事によって、その偶然の出会いや出来事に心を留め、適当にスルーしていたら得られなかった大切なことに気付かされることも結構あります。

結婚などでよく江戸時代に赤い糸で結ばれていたというような話を聞きます。
それをバカバカしいとは思わずに、そういうことなら、この人はきっと私にとって大切な人だとか、そんな縁なら簡単に別れてはなるまいという思いに繋げていっても良いと思います。

何事によらず、物事を大切に又意味あることに捉えてみることは決して悪いことではありません。

偶然の出会いも仏縁と思うならば、相手に対する心配りも言葉遣いも変わってくるでしょう。

そういう事に気づかせて頂けることも、やはり仏縁ならではです。

物事をその刹那刹那の自分の関心や都合だけで判断するものではないと戒める意味でも、仏縁という言い方を時にしてみるのが良いのではと思います。


宗教と信仰の違いについて

宗教と信仰の違いについて、以前にも書いたと思いますが、今一度言葉を重ねたいと思います。

宗教とは「外的様式」、信仰とは自己の「内面への取り込み」と定義したいと思います。

和英辞典で調べますと、信仰はfaithとありまして、これは信念と同じ単語です。これで行きますと、信仰も信念も同じになり「信念ならあるよ」と言われる人もいるかと思いますが、日本語の「信仰」には、どうしても宗教との関わりが感じられますので、宗教抜きには論じられないと思います。

卑近な例として「お百度参り」を採り上げてみたいと思います。

お百度参りをする以上は何か願をかけるわけです。願ついでに「ガンが治りますように」という願でも良いと思います。

お百度参りをする場所は日本中至る所にあり、誰でもできます。しかしお百度参りしてガンが治るかどうか、否定も肯定もしませんが、少なくともお百度参りするとガンが治るもしくはした方が良くなる、という思い込みがなければ、お百度参りする気にはなれません。

お百度参りの場所や形式は、自分の外に客観的に存在していますが、お百度参りすると病気が良くなるという思い込み自体は、各人が自分の心の中に植え付ける必要があります。

『お百度参りの場所や形式』の部分が宗教部分で、『各人が自分の心の中に植え付ける』部分が信仰に関わる部分と分けられると思います。

いくら熱心にお百度参りを百編繰り返しても、信仰がなければ、足腰の鍛錬には繋がっても病気治しと結びついては来ないはずです。

ここの所をはっきりと認識する必要があります。

昔は情報が少なく周りを見れば大体の人が同じ様な考え方で同じ様な行動をしていました。素直に人の意見を聞いて、自己主張などせぬ方が良い人と思われるような風潮もありました。

このような時代にあっては、宗教として提示されたことは余り疑問に感じることなくそのまま受け取られ、宗教と信仰をあえて分けて考える必要はなかったと思います。
宗教熱心と信仰熱心は同義語で、お稲荷さんを信仰していると言えば、そのまま縁日を欠かさずお稲荷さんに詣でることを意味したと思います。

しかし今は情報は大量なだけでなく多様で相矛盾するようなことも流れてきます。個性が重んじられ、主体性を持って自分で自分の道を選択することが良しとされています。

宗教組織や施設で、「こうですよ」とか「こうするとこうなりますよ」と言っていることを、そのまま自分の心の中で信じられることにスライドしていくことが不可能になりつつあると思います。

お坊さんやキリスト教の牧師さんや神父さんでも良いのですが、聖職者の言われていることを相当程度、取捨選択しながら聞いているというのが現代ではないでしょうか。

その場合、何を基準に選択するのかと言いますと、当然自分の納得ということであります。

外(宗教) ⇒ 納得(取捨選択の判断) ⇒ 内(教えを自分で信じる=信仰)

信仰を求めている場合は逆ですから、矢印を反対に向ける必要があります。

こうしますと信仰と宗教が正しく結びつくには判断力を高める以外ありません。

考えることは辛いので全部身を委ねたいという思いに応えるのが、宗教の特徴でもあったのですが、メディアで間違っていると書かれたりすると段々疑問が生じてきます。

また、宗教界も全部黙って聞きなさいというところは、人が離れていくと思います。

うまくまとまりませんが、宗教と信仰は別と心得ておかないと、宗教界が悪い場合もありますが、本当は自分自身の心の有り様が問題なのに、宗教にその解決を求めて色々なところを次から次へと尋ね歩くようなことも出て来ると思います。

また判断力を高めることによって、自分には無縁だと思っていた宗教に心を育てるヒントや方策が見つかることもあると思います。



お経を詠んでいて思ったこと

ブログの更新が滞っておりますので、穴埋め記事ですが、先日常飯の折りにお坊さんと一緒にお経を詠んでいて思ったことを書きたいと思います。

大仏さんの方は無宗派ですが、我が家の方は曹洞宗であります。

曹洞宗の方ならどなたもご存じですが、修証義というお経が中心となります。これは道元禅師が著された正法眼蔵を基にそのエキスを選び出したものと言われていますが、正法眼蔵は至って大部で難解ですから、どこまでどうなのかと言う事は私には分かりません。

この修証義は真宗の「正信偈」と違い、日本語の古文で書かれていますので、何回か読んでいるうちに自ずから意味が分かってきます。

全五章で構成されていて、順番に一章ずつ読んでいきます。法事は全部読みますが、30分ほどで済みます。さして長いものはありません。

さて、過日は第五章の「行事報恩」と題されている経文を読みました。私が少し考えを巡らしたのは次の部分です。


徒(いたずら)に百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、


設(たと)い百歳の日月(じつげつ)は聲色(しょうしき)の奴婢と馳走すとも、


その中一日の行持(ぎょうじ)を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみにあらず、


百歳の佗生をも度取(どしゅ)すべきなり


いい加減な月日を長々と送るよりも、充実した一日を送るべきとはよく聞くことですが、それならば充実した百年を送るのが一番よろしい。

普通の人間なら長生きしたいもので、これだけ日本全国健康ブームになっているのは、皆さん方一に長生き、二に幸せ、三に充実という順番で求められているからでしょう。

それで別角度から考えたいのですが、仏教は認識方法を教えるもので、最後の二行は

『一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生をも度取すべき』

どういう風なものの見方をしたら、上のように一日を広大な時間幅を持ったものとして捉えられるかを考えてみたいと思います。

そこで私が気になるのは、「佗生」の「佗」という漢字で、他と読み方も意味も同じですが見覚えがあります。

第四章の發願利生は、いわゆる菩薩の道には四種類があるということが述べられていますが、その内最後が「同事」と言って、ここに佗という漢字が使われています。

ポイントとなる文を二つ引用します。


①同事というは不違(ふい)なり自にも不違なり佗にも不違なり、譬(たと)えば人間の如来は人間に同ぜるがごとし


②自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辭せざるは同時なり、この故に能(よ)く水聚(あつ)まりて海となるなり


②について思うのですが、例えば自分を一杯のバケツの水だとしますと、川に流せば川の水と交わって、自分は川の水だと称することができますし、川が海に注げば、海の水へと変容します。

人についても同様なことが言えて、共感とか共鳴という心的作業を行うことで他人の経験や感動を自分のものとして味わうことができます。

次には時の捉え方ですが、今この一瞬はどれほど多くの人の人生を土台にして出来ていたのだろうかと思いを馳せてみるとします。

仏教はお釈迦様が開祖ですから、二千数百年の歴史があります。
道元は鎌倉時代ですが約900年の月日が流れています。

先人の教えが仏教として形作られるためには、更に非常に多くの方の思いや関与があります。

たった今ですと難しい漢字が頻出しますので、漢和辞典をひけば、先人のご苦労が偲ばれます。

ホンの今の一瞬ですが、無窮としか言えない人の動きと時の流れの中で作られているということができます。

コンサートなんかでも同じだと思いますが、1時間の演奏時間にどれだけの時間が込められているのか。作曲者だけでなく、それ以降にも多くの方の手が掛かっているわけで、そう思えば1時間が単なる1時間では終わらないように感じられてくると思います。

同事と言う作業を意識することによって、まさに「百歳の佗生を度取する」事が可能と言えます。

「今を充実して」ということとは少し違うと思いますが、多くの先人とともに自分の人生もあると思えるのであれば、それが充実していない人生になるはずがありません。

これからの宗教の可能性について考える

私たちは戦争映画を見るとする。

思いつくまま、『史上最大の作戦』でもよいし『アラビアのロレンス』でもよい。

目の前のスクリーンでいくら実感溢れた戦いが繰り広げられていたとしても、私たちはそれを映像と言うことを知っているし、実写でなく映画監督によって創られたものであることも知っている。

しかし見る人によって受け止め方は様々で、中には戦争の現場にいるような気になったり、兵士と一緒に戦っているような気になる人もいるかも知れない。

このように印象が異なるのは、映画に対する知識の違いと、見る人の気の持ち方によって捉え方が異なってくるからだろう。

宗教のこれからを考える場合、映画の例は参考になるのではないかと思う。

色々な出来事、キリスト教で言えば「アダムとイブ」や「ノアの方舟」の様な説話が、宗教の中で語られているが、それらを丁度映画を見るような捉え方をしてみたらどうかと思ったのである。


宗教の話というと、結構多く、物理的に不可能なことや、史実とは異なっていることや、効能が確かめられないようなことを、本当のことであると言ってお話しされてきた。

「信じる者は救われる」とは、子どもの頃に通っていたキリスト教会で覚えた言葉で、現実にそういう面もあるので、幸せになっている人に「それは作り話や」とか「史実とは異なっている」とお節介に否定する必要もないのだけれど、これからの宗教の可能性を探ろうとすると、自然科学の法則からはみ出ない形で未来像を描いていかないと、因習とか昔の風俗というように葬りさられかねない。

世の中を見ると、熱心に活動をしているのは新宗教に多く、社会的摩擦を起こしたときにメディアで取り上げられるので、否定的なものとして宗教が考えられることが多い。

世界的に見れば、ヨーロッパの移民問題や中東情勢でテロや戦争と結びついてイスラム教がクローズアップされていて、宗教は恐いものだという感想が出てくる。

仏教も葬式仏教で、お金がかかるだけで世間体だけのためにしているのでないかと思われる。

否定的要素ばかり集めていると宗教などない方が良いと結論づけたくなるが、ここで立ち止まって考えてみたい。

文化・芸術、哲学・倫理は宗教とともに発展してきた。宗教性を取ってしまい出来上がったものだけを享受すれば良いかも知れないが、そこはやはり宗教に対する敬愛・尊崇の念があった方が理解が深くなると思う。

又、時に私たちは宗教的感興を求めるものであって、制度化された宗教がなければ他にそれを求めたがる。

国家とか民族とかはその最たるもので、走らせると結構危ない。
現代卑近なところでは、家族、学歴、健康、お金などの中に、宗教性を帯びたような熱中度を求める。

宗教は、特にキリスト教はと強調したいのだが、多くの誤りを冒してきたが、長い過程を通して、「愛」や「慈悲」と言った人類普遍の価値に到達してきた。折角有る良いものは出来る限り活かすべきだろう。

だから私としては、自然科学や史実とよく折り合いをつけて、今まで培ってきた宗教を一層洗練させる形で、人間精神の向上と幸福に寄与できるような宗教のあり方を考えていくことが良いのでないのかと思う次第であります。



「創り上げるものとしての宗教(続)」

私たちは、大人になって必要な基礎知識を身につけるために小学校で学びます。自分の意見を発表する機会もありますが、それは考える力をつけるため、並びに発表の仕方を学ぶためで、意見そのものに期待されているわけではありません。


中学校・高校と進むにつれて学ぶ内容はより高度になり、中には全ての人が身に着ける必要がない専門的な内容も出てきます。

その傾向は大学に進みますと一層顕著になり、専門外の人には分からないことが殆どでしょう。


このように小・中・高・大と内容は異なってきますが、取り組む姿勢としては、先生から習うということで一致しています。勉強するとは言えても学問するというのはおこがましいように思います。


自分としての説を発表したり、新しい解釈や理論を打ち出そうとして初めて、学問すると言えるのでないかと思います。


上の話を宗教に当て嵌めて考えたいと思いますが、皆さん方はいつまで自分を生徒の立場に置いて、宗教と接しておられるのか疑問を感じるものがあります。


学者=聖職者と捉えますと、自分は聖職者などになるつもりはないと言われるかも知れませんが、聖職者なるもの、その話を聴くと、生活規範や生き方についての話が主です。


そんならみんな同じこと!


人生経験もある程度は必要で、先輩諸賢の意見に従うことも大切ですが、「四十にして惑わず」という言葉がありますように、四・五十歳になれば自分の生き方の良し悪しや方向性は自分で見定められるようにしたいものです。


自分自身の人生という学問は、他の誰も未到達の新しい研究分野であり、自分以外の誰も身を入れて研究できる人は存在しません。


宗教を自分の人生の根本と関わるものとして捉えようとするならば、学校における生徒の立場に身を置いていては本当のものが得られるとは思えません。


自分の宗教は自分で創り上げるものだという所以であります。


実は私が信仰に強く関心を抱いたのは57歳も半ばを過ぎてからです。佐吉大仏の傍らで育っていますので、仏教との関わりの中で信仰を考えていくことになりましたが、『一宗一派唯一人』、としてしか私の目指す仏教はあり得ないと思いました。


どこかに立派な大系というものがあり、そこに近付いていくことが正しい道とは考えませんでした。


法灯は自分の心の中に打ち立てるものであり、自分の心の中以外のどこにも存在しないものです。


そのように決意しましたし、それは今でも変わりありません。


その時と今と違ったことと言えば、それは思ったほど容易なことではないと強く感じるようになっていることです。何事にも王道はないようでした。



「創り上げるものとしての宗教」

我が家は大仏寺という正真正銘のお寺で、私はその代表者です。

この大仏寺というお寺は、単立無宗派で決まった信者も存在しません。
理解されやすく説明しますと、普通の家に極めて大きな仏壇があって、一家で世話するのもたいへんですから、岐阜県にお寺として認証して頂いていると言えると思います。

ですから大仏寺の運営については私と女房で自在に行うことができます。

きちんとした家ですと常飯があるはずで、仏壇に月ごとにお坊さんがお経を唱えに来られると思います。

私の家にもあるのですが、大仏寺も大仏寺として、我が家の方と同じお寺にお経を唱えに来て頂きます。これは恐らく佐吉大仏が建立されてからずっとそうしてきたのだろうと思います。

お経についてはお坊さん任せでしたが、よくよく考えれば代表者は私ですから、私が詠むのが一番でないのかと思うのですが、そこは付き合いもあってお願いしています。

正式な坊さんでないと有り難いとか有り難くないとか思われる方もいます。
しかし、これはよく分からない話です。

理屈をこねますと、この「正式」と言うことにも引っかかりを感じます。

「正式」を法的な側面から定義しますと、僧侶(僧尼)とは仏教系の宗教法人で教師免許を有するものとなります。教師免許を発行するのは本山(事実上はその宗務局)です。
創価学会にも、名乗るか名乗らないかの違いがあるだけで、僧侶と同様の方はいるはずで、日蓮正宗から分離しても全く困らないのです。

話はずれますが、「真如苑」という密教系の新宗教があります。聞くところでは、創価学会とはだいぶ差がありますが、実数100万余で、新宗教の中では我が国第2の信者数を誇っています。
こちらの場合は、京都の醍醐寺で修業し得度を受ける必要があるようです。伝統仏教の流れを活かして、僧侶としての信用性を獲得しているのでないかと推測しています。

大仏寺へ戻りますと、到って気楽なもので、書類を書くときに教師欄に名前を記入すれば、その人が大仏寺としての「正式」な僧侶になります。

現在は私と女房の二人です。二人ともお経も碌に詠めませんでしたので、他宗にお願いする以外になかったのですが、一応曲がりなりに詠める今は、私が詠めば良いというのが普通に導き出せる結論になります。

社会的信用性と言いましても、誰も聞いていませんから、拘る必要もありません。

しかし、以前からのお付き合いもありますので、お寺にお願いしております。

とは言いましても、私が代表者ですので、「あーしてこーして」と多少のお願いはしていますが、「聞いて貰えない」というのではなくて、お坊さんの方に習慣というのが染みついていて、そこから離れることは全く難しいと感じさせられます。

お坊さん側の意識としては、決まった形に入っていくのを良しとする考え方から離れられない様です。

タイトルに書きました「創り上げるものとしての宗教」という発想を持てないかと思うのですが、最近はそういう話をするのも諦めております。

大仏寺は私が代表だから好き勝手に出来るのでないかと言われるかも知れませんが、そんなことははなくて、お参りされる方には「南無阿弥陀仏」と言われる方もいれば「南無釈迦牟尼仏」と言われる方もいます。
中には神社のように柏手を打たれる方もいて、その方は多分神道に熱心な方で、同じ敬虔な気持ちを抱いて柏手を打ってみえると思います。

一般の家庭においても、常飯の時に僧侶は型通りにお経を詠むだけだと思いますが、ある程度自分の自由にお経を詠み、またお世話をされていると思います。

浄土真宗では般若心経が禁じられていて、お坊さんが棚経で詠めば免許取り消しになります。だからといって個々の門徒が従う必要はないはずです。
と、思ってしまったとき、実は自分の宗教は自分で創り上げるという考え方の方に、足を踏み入れています。

宗教を創るというと、如何にも傲慢で大それた行いのように思うかも知れませんが、実際日常生活の中で志の或る方は試行錯誤されながら試みておられることで、何もかも教えのままに行えるというそんな便利な導師などいないと思います。

遠藤周作氏の宗教論文を読んで

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遠藤周作氏の本を読んで、非常に根本的なところで違いを感じます。

本の感想は別のブログで書きましたが、その違いという処についての見極めを書いてみたいと思います。

自信の持てないままに思いきって書いてしまいますと、その違いの一番のポイントは、「神仏にすがる信仰」と「神仏を目指す信仰」の違いです。

遠藤周作の云う信仰は、氏は私より遙かに学識は高く文章表現は巧みですが、何処まで行っても「神仏にすがる信仰」なのです。

私の主張する信仰は、言うまでもなく後者で、自分自身が神仏になることを目指す信仰です。

このようなことを書くと、「幸福の科学」の総裁や、天理教や大本教の教祖の様に途方もなく夢物語を言っていると思われるでしょうが、そんなことはありません!

乳幼児期の子どもにとって、親は神様に匹敵します。子どもにとって本当に必要なのは、神様ではなくて親もしくは親に代わる保護者です。

良い親なら、その子にとって良い神様に巡り会えたと同じことと言えます。

大人に近付くにつれて、乳幼児期の親に当たるようなスーパーな存在は見当たりませんので、どこかに神様をみつけてすがりつきたくなりますが、素敵な異性が現れると、神様のことなどすっかり忘れて、幸福感に浸ることができます。

幸福感や安心感を与えてもらえるのが神様ならば、論理的にはそれらを人に授けることによって自分自身が神様になることが出来るはずです。

要は自分自身を保護者の立場において考えるか、被保護者の立場において考えるかの違いです。

神仏というのが、さほどにまでも素晴らしいものであるのならば、当然それらになるように努めるべきであって、頼り切ったままでは、自分自身が何かをなしたとは言えません。

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もう少し現実的に考えますと、通常の会話で良く口にする神仏はとらえどころのない存在です。

それにもかかわらず、利益を求めて神社仏閣に参拝するのは、「お参りするとしかじかの利益がありますよ」と請け負ってくれる人がいるからです。

犬山成田山に行くと、商売繁盛とか交通安全とか、細かいところではガン封じ、ボケ防止、糖尿病平癒はあったかどうかは知りませんが、100位のご利益を書いた大きな看板があります。

これが確かかどうか?をご本尊の不動明王は答えてくれませんので、代わりに答えるのが僧侶で、であるのならば、私たちがすがっているのは、不動明王ではなくて、僧侶という人間であるということになります。

裏返して言えば、たとえ人間でも、成田山の僧侶になることによって、不動明王に、又は不動明王と同じ力を持った人間になることができると言えるのではないでしょうか。

密教の僧侶になるには氷水につかるような厳しい修行があるのでトテモできないというのであるならば、不動明王など目指さなければいいだけのことです。

神仏にも色々な形があります。

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上の段は少し茶化した話になりましたが、私たちは「成る」という意識を持って生きてこそ主体的と言えるのであって、「待つ」という意識では、受動的な生き方になってしまう。

この「成る」という意識の目指す所が仏教では仏と言って、その完成した姿を如来と言います。

仏というのは、死後のことではなく、他の人を指しているのでもなくて、自分自身が日々意識して生きる到達目標のようなものであると言うことが出来ます。

ですから「神仏になることを目指す」と言っても、突拍子もない事を言っているのではなくて、仏教では本来あるべき一番普通の姿勢です。

問題とすべきはそんなところにあるのではなくて、どんな神仏を目指すのかと言うことで、私の信仰の師である秋田弘子師は『徳を積むことによって神仏の姿が変わってくる』と仰っておられます。

また、私の先祖の佐吉翁は「仏とは慈悲心に他ならない」と道歌に書いておられます。

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私が遠藤周作と異なった考えを持つ原因は、「大仏寺」という単立無宗派の仏教系宗教法人の代表者と意識することから宗教と関わりだした事もあると思います。

待っていても誰も教えてくれない。

近所のお寺で言うことは、大仏寺とはまるで違う。

全部自分で考えて、自分で納得できることしか言うことが出来ない。

上のような特殊事情があったからだと思いますが、誰においても、お坊さんや牧師さんの言われる通りに従っていれば良いとはとても思えないとも感じます。

今日は『遠藤周作氏の宗教論文を読んで』と題しまして、私との違いを表してみました。



私の仏教理解

7,8年仏教の周りを回っていて、私なりに摑んだ仏教についての私見を述べてみたいと思います。


日本の仏教は大ざっぱに次の3つに分類されるのでないかと思います。

1 般若系

2 浄土系

3 密教系


1の「般若」とは、『般若心経』の「般若」ですが、智慧という意味です。智慧と知恵がどう違うか、そういう細かい処に拘らなければ、同じ様な意味合いで捉えられると思います。

「知恵」と言えば、聖書の中のアダムとイブが知恵の実を食べて楽園を追放される逸話を思い出しますが、仏教では反対に知恵の実を大いに食べて覚りを開いていくというのが、この般若系仏教の根本的姿勢であると思います。

哲学と変わりありません。真・善・美の体得者を目指すのが仏教の目的になります。

2の「浄土系」は、仏教の数多く立ち上げられた諸尊諸仏の中から阿弥陀如来一体を取り出し、阿弥陀如来を神の如く崇拝することによって、救ってもらうことを目的とします。
構造としてはキリスト教の様な一神教に近く、「浄土」という言葉もそのまま「パラダイス」に置き換えられます。

余談ですが、明治開闢以来の営々たる伝道の努力にも関わらず、日本ではキリスト教徒の数は1%を超えないそうです。私はこの原因を日本では既に阿弥陀如来が存在していて、南蛮渡来の見慣れぬたたずまいの神様など必要としなかったからだと推理しています。

キリスト教も浄土系仏教も「救いの宗教」であることにおいて共通しています。

3の「密教系」はバラモン教の影響を強く受けたもので、インド仏教末期に生じたものです。

これが一番はやっていると思います。新しく出来た宗教も殆ど密教ですね。

その目的は「現世利益」にあります。「利益」という点で「浄土系」に似ているような感じがしますが、「利益」と「救い」では違います。

大きな意味での利益と言うことでは、1の「般若経」でも、何か自分のためになるからするので、人間の行為、須く自分のためにならないようなことはしません。

「密教」の「利益」はもっと具体的かつ現実的なもので、感覚的にも得られたような気分にさせてくれるものでなければなりません。

「お金儲け」と「病気治し」が代表的な「利益」でしょうが、その他にも「良縁」、「安全」、「合格」、「出世」、「優勝」、「男女関係に関するもろもろ」、「水子供養などの祟り封じ」等々枚挙にいとまがありません。

お参りしただけで利益が得られるか、かなり疑問ですが、多くは加持祈祷を取り入れて、何となくその気にさせてくれるところが密教の特徴と言えます。

私が知っている仏教の祈祷ですと、「大悲心陀羅尼」※というお経があり、神道ですと「大祓の祝詞」があります。

実は、共に大した事を言っているのではありませんが、中味でなくてその気にさせることが大切ですから、意味など知らない方がイイのです。多分それで密教というのだろうとおもいます。「中味は秘密」ということです。

前にも書きましたが、般若系を代表する宗派であるところの「曹洞宗」も坐禅だけでは人が集まらず第4世の瑩山(ケイザン)禅師が密教を取り入れることによって大きく教線を延ばしました。

曹洞宗のお寺にお稲荷さんがあるのが不思議なような話ですが、密教を行う以上はそういう施設が必要になります。

愛知県豊川市に妙厳寺という大きな曹洞宗の「僧堂」がありますが、それよりも付随するお稲荷さんの方が全国的に有名で、現在の永平寺の管長さんは豊川稲荷の住職さんです。
坐禅と祈祷がどうして両立できるのか不思議なような話ですが、そうなっております。

密教と言いますと弘法大師の始めた真言密教を思い浮かべますが、実際には至る所に存在しています。始めにバラモン教の影響と記しましたが、〇〇天とか〇〇王とか名前がつけられているのは全てバラモン教の神様が仏教に取り入れられたものです。

お稲荷さんも元々はダキニ天というちょっと怖い官能的な神様のようですね。その他、吉祥天、梵天、毘沙門天、不動明王、降三世明王、愛染明王など色々思い浮かぶと思いますが、これらの諸尊を祀ってあるところはすべて密教です。

世界の殆どの宗教は、なにがしか密教性を持っていて、一概に否定することは出来ませんが、一方、この密教性が知的な人を宗教から遠ざけ学校教育からはオミットされる主因になっていることも否定できません。

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ここまで私の大ざっぱな日本仏教の捉えを書いてきました。

私の思います所は、日本の多くの方は浄土系と密教系で仏教と思っている方が多いのではないだろうかということです。

私にとっての仏教は、もちろん般若系です。本道と言ってはおこがましくなりますが、これが元にあり、それだけでは多くの人を救うことも出来なければ、人気も出ないので、順次生じてきたのがこの順だろうと思います。

『般若心経』は「観自在菩薩」から始まります。「観自在」とは「精神の自由」と言い換えられます。

「精神の自由」を得られるにはよほど自立した精神を持たなければ不可能です。

仏教はかかって現代性を持った宗教であるということも知っておきたいと思います。



※ 大悲心陀羅尼(ダイヒシンダラニ)

「ナムカラタンオー トラヤートラヤー」で始まり、いくら耳をすまして聴いていても何を言っているのかサッパリ分からない経文で、曹洞宗以外でも使われている祈祷です。
経文を見ても、何か妖気漂うような漢字が並び、全く意味は分かりません。

それもそのはずで、これは元の仏典(おそらくパーリ語)をそのまま音訳したもので、「ボルガの舟歌」をロシア語のまま聴いているようなものだと思えばよろしい。

何が書かれているのかといえば、「観世音菩薩」を讃える詩句です。「観音様は素晴らしい、完全であり、無限の力がある」というようなことがずっと述べられています。

やはり観音様も密教の類かと思いかねませんが、“You are my sunshine♪”の歌のようなものだと思えば、到って身近で具体性を帯びた菩薩様に変身なさるのでないかと思います。



信仰に関して

以前にお寺の総代をしていたことがあって、その時ははっきりと自覚出来ていなかったことであるが、お寺通いをしてみたところで、信仰について考えることがなければ、何もしたことにはならない。

音楽堂や美術館の周りをぐるぐる廻っても音楽や美術に触れたことを意味しないのと同じで、係として中に入って受付で番をしていてもやはり同じと言える。

関わり方は色々あって、音楽で言えば、創作、演奏、鑑賞に分かれるのだろうけれど、そのいずれにしても或いは総合的に行うにしても、その自分に意味するところは自分の中で築き上げるほかはない。

バッハやモーツァルトが如何に学校や世間において素晴らしいと称えられたとしても、聴く気にもならずコンサートのチケットをもらっても人にあげたりするのでは、その人にとってバッハやモーツァルトは価値がないのであり存在しなくてもよい。

ここの所が非常に重要なので繰り返したいが、自分の心の中で価値を築き上げようとしなければ、どれほど多くの人が、或いは立派な人が、その価値を力説しても、意味など生じない。

ただ世の中の殆どの人、ということは私も当然その中に含まれるが、は『多く』や『立派』に関しては価値を感じているので、それに引きずられて自分では分からない事にたいしても多少の関わりを持つが、そこから先が問題で自分の外にある価値を自分の心の中に移し替えてから、自分の中にその事それ自体の意味が生じてくる。

信仰の話に戻れば、上の文の『そこから先』を指して言うのであって、関わりをいくら多くしても又熱心に行っても、信仰とは云わない。

それは世に言うところの宗教熱心ということで、宗教熱心と信仰は違う。建物ばかりいくら立派にしていてもダメなのである。

以上は、一昨日の誕生日で66歳になり、初心忘るべからずの思いもあって記してみたのである。

信仰は自分の心の中で行うことである以上、本質的には孤独な作業なのだ。



キリスト教の一特徴

DSC_0546左の本は塩野七生さんが、2011年に出された「十字軍物語」全3巻の2で、第二次十字軍遠征(1147年)と、その後のイスラム側がイスラムの英雄サラディンを擁してイェルサレムを奪還した戦いが書かれています。

東西の軍事力だけでなく文明の激突で、全く本から目が離せないほどの面白さでした。

私が塩野七生さんの本を読む目的の一つは、キリスト教を歴史事象に即して知りたいということがありますが、この本の初めの方にキリスト教の特徴のとして一つ面白いことが記されていましたので紹介します。


キリスト教徒は、苦悩する他者を見るのが、ミもフタもない言い方をするならば、大好きなのである。なぜなら、自分に代わって苦悩してくれている、と思えるからだ。そして、自分に代わって苦しんでくれているその人を、尊敬するようになる。それが神や聖人ならば、この想いは信仰になる。もしもキリスト教徒の心の奥に常にあるこの想いがなければ、十字架上に磔刑にされた姿のイエス・キリストが、ああも長く広く信仰の対象になるはずがない。キリスト教では、楽しみよりも苦悩に、人々は感動するのである。それも、自分たちを導く立場にある人であればなおのこと。

この説明の前に聖ベルナールという貴族出身の修道士の例が書かれています。
贅沢な生活を捨てて過酷と言って良い貧しく禁欲的な生活をしている彼の言葉に、国王とか高位の聖職者も耳を傾けざるを得ず、それがきっかけで第二次十字軍の遠征が決まったのだそうです。

我が国ですと比叡山の千日回峰とか円空上人の木喰き修業などが頭に浮かびますが、霊力的なものを得ようとする目的もあって少し違う様な気がします。

仏教の出家も雑念・雑事を振り払うために行うためで、決して苦しい生活自体を求めて行うものではないと思います。

やはり根底に罪意識があり、その贖罪の行為として、自分に敢えて鞭打つような苦しい生活を送るのでしょう。

と言って普通の人は贅沢もしたいし色恋にも励みたいものですから、苦しい生活を送る修道士に対しては、道楽者の亭主が、自分を犠牲にして家族を支える女房を見るときのような、後ろめたい気になるのかも知れませんネ。

違うかな



なぜお経の意味に関心を持たないのだろうか??

『般若心経』というお経がある。

ごく短いお経で、日本で1番よく知られているお経と言える。

幼い頃から何千回と多い方なら何万回と唱えたことがある人もいるだろう。

一番大切なお経として、真剣に唱えている人をよく見かけるのだが、不思議なことは、意味を知らずに詠んでみえる方が少なくないことだ。

仏壇の前や仏像に向かって、「般若心経」を唱える気持ちは誠に真摯なもので、自分が唱えている文言がどういう内容であるか自然と知りたくなるのにと思うのだが。

どうしてその意味について関心を持たないのだろうか??

前に真宗のお坊さんが『般若心経』をまるっきり誤解していて驚いたことがあるが、真宗の僧侶は『般若心経』を唱えることを禁じられているので、そういう事もあるかも知れない。

それならば、8年前のことであるが、幼なじみの真宗の僧侶に「『正真偈』はどういうことが書いてあるのか?」と訊いてみたことがある。「法脈的な事が書いてあるが、それ以上は専門的な知識が必要なのでよく分からない」が答であった。

分からなければ勉強すればよいだけのに。そういう事には関心がないのだろうか?

関心を持たない理由は、おそらく、お経を詠む目的は、書かれている内容を自分自身の人生に活かすことにあるのではなくて、お経を詠む或いは聞くことによって得られる効果に主たるねらいがあからでないかと推測している。

それは大いに考えられることで、別に悪い事とも言えない。

私達は外国の歌など聴いてみても意味など分からないものが殆どである。
まして、演奏だけの曲ならば、標題音楽でない限り、言語的に決まった意味を言うことは出来ない。抽象の世界ですネ。

しかし、音楽を聴いて心が慰められたり勇気づけられたりする。

お経も同じで、敬虔な気持ちになってお経を唱えれば心に作用する。心と体は不可分なので、場合によれば病気治しに効果が現れることも考えられよう。

皮肉に考えると、お経の内容は論理的かつ哲学的であったり、その反対に全く他愛のない事が書かれていたりするので、意味内容を知ると勝手気ままに願い事と結び付けられなくなってしまうので、知らない方がよいと言えるかも知れない。

人それぞれの道を私流に決めつけるべきでないが、一旦、意味内容を知って納得できるお経を詠もうという方向に歩を進めると、訳も分からずムニャムニャとお経を詠むのは困難になる筈。

イヤ、それはお坊さんが指し示してくれるという事かも知れないが、近代から現代に入り、もうそういう時代でなくなったというのが私の考えである。

「右は極楽、左は地獄」といくら言われても、本当にそうかどうかは、多少でも自分なりに検証してみたいということである。



「偶像崇拝禁止」という言葉のとらえ方

イスラム教は偶像崇拝が禁止されていて神像は存在していません。

キリスト教はイエスの磔刑像とか聖母マリア像とかあるようですが、元々は偶像はなかった様です。

仏教は像だらけで、私の所も「佐吉大仏」を祀って、お供えを供えたりろうそくを灯して線香をあげています。「偶像崇拝禁止」と叱られそうな気がしますが、チョット待って下さい。

仏像それ自体に秘めたる力が宿り、経文を口にすれば超自然的な現象が起きると思って、お経を詠んでいるわけではありません。

一つには優れた美術品に対するのと同じで、仏様というイメージにピッタリの佐吉大仏に、感動することがあります。

また佐吉大仏は仏陀像で胎内には観音経が入っていますので、この像の背後に有する思想・哲学に仏像を通して触れ合うことが出来ます。

更には佐吉大仏は、佐吉翁の名前が付けられている位ですから、佐吉翁の願いや思いがこの像に籠もっているという感慨が持てて、自分の人生に対する教訓や励ましを得ることができます。
それと同時に、懐かしい故人の遺影を見たときに感じるのと同じ様な気持ちにもなれます。

それやこれやで、敬うべきは敬って、大切にお守りし接していきたいと思っております。

私は「偶像崇拝禁止」という言葉を聞いたとき、像そのものは作らなくても、宗教に対する崇拝という点で、キリスト教やイスラム教の方がよほど激しい様に感じています。

浄土真宗で、阿弥陀如来像を祀って拝めば「偶像崇拝」で、像は造らず「南無阿弥陀仏」と六文字書いてそれを拝めば「偶像崇拝」に当たらないなどと言えるのかどうかを考えてみれば、両者は本質的に変わらないとしか思えません。

私ならば、何かを、像に限らず神殿や教祖や言語を、闇雲に崇め奉って、それが正しい信仰のあり方とする考え方を振り返るために「偶像崇拝禁止」という言葉を使いたい。

さりながら、一神教の場合、崇拝度を高める意味で偶像禁止ということもあるでしょうから、見当外れのことを言っているかも知れません。

あくまで仏教に照らして思う、とであります。




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