佐吉大仏 ヒラメ記(代表:永田章のブログ)

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エッセイ 日々雑感

定義:凡人は非凡な人より素晴らしい

非凡と言う以上は、少しぐらい優れている程度では言いません。他に隔絶した能力や業績があってこそ、「あの人は非凡である」と評価されるのでないかと思います。

であるとすると、割合としては千人か一万人に一人ぐらいの率でないでしょうか。

さて、私が「凡人より非凡な人の方が素晴らしい」と定義づける論拠を述べさせて頂きます。

普通は理由があって結論が出てくると思います。しかし、この場合は逆です。先ず始めに「凡人は非凡な人より素晴らしい」という結論がありまして、後からその理由付けを考えるという作業をしなければなりません。

ですからこのブログを書いている今の今も、説得力のある理由をうまく拵えられるか、かなり半信半疑でおります。

加えて思いますに、理由付けというのは謂わば白黒分かれて行うディベート合戦のようなもので、言葉遊びの類いのような気もしています。

むしろ私が凡人の側を選択した理由を述べる方が適切だと思いますし、その中に本質的な答えも含まれているような気がしています。

私が何故凡人の側を選んだのかと言いますと、先ず第一に、私が他ならない凡人だからです。

68歳になった今更、自分に対してひっくり返ったような夢を描いて、他人に優越することばかり求めていても、無理という以外有りません。

それよりも、「凡人である方が非凡人より良い」と定義した方が、心安らかですし、自分なりのレヴェルで自分を活かすことも出来ると思います。

これが第一。先ず自分をありのままに受け入れることが肝心です。

もう一つ理由があります。非凡人は多く見積もっても千人に一人です。世間ではその一人が異常に褒め称えられて誠に世の中不公平です。

仏教と関わって思うことは、そんな千人に一人のことよりも、その他大勢の999人が納得して満足できる考え方を提示していくことがもっと大切ということです。

その他大勢も個別に能力を発揮できれば非凡かと言いますと、仮に全員が非凡な能力を発揮したら、その非凡人は普通並みになりますから、やはり世の中の大多数は凡人です。

スマップに「世界に一つだけの花」という大ヒット曲がありますが、これもどちらかと言えば非凡の方にウエイトを置いた内容です。

「ミンナと同じ」と「ミンナと違う」のどちらが良いのか、言葉の綾のようなものですが、「同じ」が「違う」よりもイイという見方も出来ます。大勢の人と同じというのは、人間として一番の大通りを歩んでいますので、こんな良いことはないと言えないこともありません。

大変理屈っぽくなりました。仏教も元はめちゃくちゃ理屈っぽい宗教で、私にピッタリです。

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さて、ここから凡人の方が非凡人より優れている理由付けです。

私は教員をやっている35年間慢性的なノイローゼ状態で生活をゆったりと楽しむことが出来ませんでした。

夏休みに家族旅行に言っても、二学期からの授業が心配で、景色など上の空でした。実に勿体ない時間の過ごし方をしたなぁと悔やまれますが、過ぎた時間を悔やんでも仕方がありません。

今は年金と幾ばくかの貯金を下ろしながらカツカツの生活をしていますが、時間を豊かに楽しむことが一番大切だと思っていますので、仕事など決してしたくありません。

退職してから色々な人との繋がりが生じて、美術展に行ったりジャズやクラシックのコンサートに行ったりするようになりました。

そこでいつも思うことは、自分が楽しむことが出来るのは、自分が凡人だからに他ならないということです。

つまり、優れたものに接した方が当然楽しいですし時間も有効に活用できたと言える訳ですから、凡人であればあるほど、理屈の上からは、廻りが優れものばかりになり、楽しむことが出来る材料になります。

要は人生の目標は楽しむことで、色々なものを豊かに、且つ自分勝手に、適当に、味わうためには、凡人である方が都合が良いと結論づけられます。



何も書くことがない。

時々コメントを頂くつけものさんから、私のブログを読んでいる人がいるから、何でも良いので書けというコメントをもらいました。

先ずは深く御礼申し上げたいと思います。

私は人生振り返りまして、廻りの方の期待に応じて動くというのが基本的行動パターンでありまして、何もなければブログも続けられません。

好きなことなら続けられるのですが、今夢中のボウリングでも、昔嵌まったテレビゲームも、勿論読書も、全て一人で行えることです。

好きなことで今チョット思いついたのですが、色恋はどうか?これには相手が要りますが、その替わり公に書くことは許されません。

そこで本題ですが、いざ書こうとしても特段書くべき事は何もありません。

ブログを一生懸命書いたのは始めの間だけで、種が尽きてしまいました。

自分並びに他人に対する愚痴や批評・批判ならいくらでも思いつきますが、そういうことを書いてどうするのかという気がしています。

『物言えば唇寒し秋の風』、『言わぬが花』がイイのだ・・・と言って既に愚痴ごとに堕しております。

しかしマァ万一期待してみえる方がおられるのでしたら、内容のリクエストや質問等をして下さいませ。

あたうる限り誠意を持ってお答えするつもりであります。


凡人であると言う事

最近でこそ、本を読んでもニュース解説を聞いても、自分なりに意見を言えるようになってきたが、以前ははっきりとしたことなど何も言えなかった。

私の知識の仕入れ先は主に本が中心だったが、どんな本を読んでも、私には到底これほどのものは書けないと思ったし、そもそも自分を比べようとなどとは考えたこともなかった。

今の時代は私の若い頃より全体的に年齢層も上がり、30代だと如何にも若手という感じがするが、40代・50代になれば世の中の中心として自己をしっかりと打ち出されている。

60代後半の私はそういう人達を見ていると、自分は凡人だったなぁという思いに駆られる。

他から評価される形有るものを残せなかったとしても、そうあろうと努力することもなかったし、志もなかった。そういう意味でも凡人であったと言える。

私は、優秀、栄誉、充足なる道を歩んでこなかった。思い出すと残念だったことばかりだ。

これを、もし肯定的に捉えようとするならば、たいていの人間は凡人なので、自分は人間であると言う事ができる。

残念なることを積み重ねて、自分が人間である事を知る。




グローバリズムについて考えてみる

つい先頃まではグローバリズムが大いに喧伝されていましたが、ドイツの移民・難民問題から始まり、英国のEU離脱投票結果、トランプ大統領の選出と、ナショナリズムの巻き返しの時代に変わりつつあります。

そこで、グローバリズムについて感じているところを述べるのが当記事の目的ですが、結論を先に書いてしまいますと、グローバリズムもナショナリズムも一緒というのが私の考えです。

要するに集団と個人との関係でいいますと、国家という形でこれが正しいと迫ってこられたらナショナリズムで、それが世界ならグローバリズムということです。

一例挙げますと、反捕鯨運動というのがあります。

別に西洋人も鯨を食べなさいと言っているわけではありませんから、鯨を食べようが食べまいが日本人の勝手と言いたいところですが、それを食べたらいけないと強要されるのは、反捕鯨団体にグローバリズムの考えがあるからです。

鯨食禁止を全ての人間に適用されるべきであると言い得るには、グローバリズムを背景にしなければできないことであります。

今の日本人に鯨をどうしても食べたいという人は少ないでしょうが、それでも反捕鯨に反発を抱くのはグローバリズム的発想に対するナショナリズムの反発と言えます。

江戸時代の日本人は、殆どの人が藩が生活の全てだったでしょうから、藩イズムに生きていたと言って良いと思いますが、藩の外の世界を全く知らないのであれば、藩イズムがそのままナショナリズムであり、グローバリズムであるとも言えます。

真実は誰でも自分が好きなように生きたいわけで、国家と一体化している人はナショナリズムを持て囃すでしょうし、世界と一体化している人や世界が一つである方が都合がよい人は、グローバリズムを讃えると思います。

ソ連がコミンテルンを作って世界革命を目指しているときはグローバりズムであったでしょうが、途中から一国社会主義に変更されて、ナショナリズムが強調されるようになりました。

聞いている方は、目的が狭小化されて何となく堕落したような感じに思いますが、共産主義に恐怖感を抱いている人にはホッと胸をなで下ろすことになります。

グローバリズムとナショナリズムという言葉自体に価値の優劣はなくて、本当に重要な事は推し進めようとする中味と個々人に対する適用の仕方です。

タバコなどはひどいもので世界一致団結して禁煙を強制しています。それぞれその人なりの考えがあって、私はダメだと思うのであれば、それは思想の自由ですが、問答無用にダメに決まっているというのであればグローバリズムの悪しき押しつけだと感じます。

私は禁煙を考えないでもありませんが、そういう締め上げ方が嫌いで、喫煙を止めてはいけないと思っている次第です。

<自分はこうありたい>、<日本人はこうでありたい>、<世界人類はこうありたい>と三つ並べて考えますと、最初の<自分はこうありたい>が一番重要であることは誰にも言えることだと思いますが、問題は<自分>の中に<日本人>とか<世界人類>という思いが自我の不可欠の要素として入り込んでいることです。

グローバリズムとかナショナリズムとか、更にはリージョナりズムやセクショナリズムもあるかも知れませんが、自分を一観念には押し込められない訳で、そこを固定的に一つの観念を強制されますと息苦しさを感じてきます。

私の言いたいことは、グローバリズムとナショナリズムを対立的に考える視点だけではなくて、個人の自由意志と集団の規範との間の関係性の問題という視点も併せ持って、自分個人として主体的に判断していくことが大切であるということです。




新年の決意


みなさま明けましてお目出とう御座います

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                                          写真の墨絵は松原智子作『富士星図屏風』

「新年の決意」と、取り敢えず、タイトルを書きましてこれから考えようと思います。

人生なかなか自分の思い通りに行かない。ついイライラして社会の所為にしたり、必要以上に暗い思いに浸ったり、反対に、理想を書き連ねて、あたかも自分がその言葉通りの人物になっているかのような幻想に耽ったり、自分を正しく捉えるのは誠に難しいものであります。

考えてみれば当たり前の事でありまして、自分自身そう確かなものでないのに加えて、それを見極めようとする片一方の自分の方も、その都度一定している訳でありませんので、変数に変数を掛ければその答がどうなるのか、見通しはつきかねます。


「人生思い通りに行かない」のは、他人が自分の思い通りに動いてくれないからそう思うのですが、この他人というのは自分以外の全てを指します。

しかしこれもその根底にあるのは、自分自身が自分の思い通りにはならない、ということに他なりませんので、それを他人の所為にしてはなりません。

「成るようにしか成らない」のが人生ですが、時には「成るように成る」こともあり、「成るようにしか成らない」結果、自分の期待以上のことが起こることもあります。

人生を、或いはこの一年をと言いかえてもよろしいのですが、できるだけ満足できるものにしたいというのは、誰しも願うことであります。
理知的な側面から同じことを言いますと、納得できるものにしたいということですネ。

結局新年の決意としましては、自己の満足を他人に依存しないことで、自分の胸の中において、自己の思いの決着は図られるべきということになります。


ロシアプーチン大統領との交渉に関するネットニュースの一節に思った!

<ネットニュースの一節>

『日本にとってロシアと言えば、第一に「北方領土」であり、次は「石油、天然ガス」である。』

私がピッ!、ピッ!と来たのは、上の一節です。

私にとってロシアと言えば、先ず何と言っても第一にドストエフスキーであり、夏目漱石、谷崎在潤一郎、川端康成、三島由紀夫、大江健三郎、これで五名になりますが、この五名を併せたより大きいと云って良い存在でした。

よく読んでいるのはドストエフスキー一人ですが、トルストイとチェーホフは少しかじりました。

最近では、音楽のチャイコフスキーとラフマニノフが入りかかり、プロコフィエフは今の所は未定。

話の筋が違うじゃないかと言われるかも知れませんが、政治・経済の関心ばかりではなくて、も少し文化的な面とか歴史的な面に目を向けられないかと思います。

どれ程日本がロシアから文学・芸術方面で恩恵を蒙っているのかを考えますと、北方領土の比ではないのでないかと思います。

だから北方領土は差し上げて良いというのではなくて、多方面にわたる関心があって、本当の繫がりが生じてくると思います。

思えば我が岐阜県出身のピアニスト、上原彩子さんはチャイコフスキーコンクールでピアノ部門でグランプリを受賞しています。
同じくヴァイオリン部門でグランプリを取った諏訪内晶子さんを招聘し、歓迎の演奏会でロシア曲を演奏し、全ロシアに放送したならば、相当受けたのではないかと思います。

日本が科学技術や経済だけの国でもないということを示されたと思います。

残念なことでした。




優等生という落ちこぼれ

今の学校制度では、成績の優秀な生徒は褒められ良い気持ちで学校生活を送ることができる。

しかしそれはごく一部なのであって、たいていの子供は目立たない褒められない状態で毎日を過ごさねばならない。これが並みの児童生徒であって、殆どはそうである。

中には勉強について行けず、できない子供とレッテルを貼られ、自分のことをダメ人間と思わねばならない子供もいるかも知れない。

成績さえなければ自分について、「末は博士か大臣か」というのは昔の言葉であるのだが、少なくとも子供の間は限りない夢、インポッシブルドリームを見ることができるであろう。

日本の殆どの子供は10歳満たずして、言わば人生の落魄、自分は凡人であるという自覚を持たねばならぬ。

だが、よくよく考えてみるが良い。

一体凡人でない人間などいるのだろうか。

私たちは自分を知り、自分を受け入れ、その背丈にあった自分なりの目標を持って着実に人生を歩んでいくことが大人になると言うことで、その自覚は早ければ早い程良い。

処がクラスでいつも一番とか、学年で10番以下に落ちたことはないというような子供は、いつも褒められて、叱られるべき時にもしばしば見逃され、自尊心ばかりふくれあがらせ、社会に出たら当然受けるべき叱責や低評価に対する耐性を身に着けるチャンスを失う。

端から見るに、ずいぶん頑張って羨ましくさえ思われる人生を送られた人の中に、自分が酬われないことを嘆き、社会に対する怨みや怒りを投げかける人がいる。
よほど芥川賞か文化勲章でも受けねば、自分に値する人生でなかったかのような口吻だが、そんな栄華に浴せる人など能力に加えて運も味方したごく一部の人なのだ。

自分の人生の成否を決めるのは自分次第で、自分を素直に受け入れられず、他人と比較して、ましてやメディアでチヤホヤされる人を引き合いに出して、自分に悔しく思うことなど馬鹿げていると思わざるを得ない。

今の学校制度、成績の上の人だけが酬われ多くの一般生は早くから人生の悲哀を味わわねばならない、そこに真に学ぶのは一般生の方で、自分に対する過大な評価とうぬぼれから解放される。

優等生の陥りがちなことは、一番重要なこと、自分に能力の限界があり、出来る事しか出来ないという当たり前のことを知るに遅れ、大抵の人にとっては挫折とも言えない事に敗北感を抱き、出来ることが出来た時に当然味わうべき幸福感に浸られず、周囲に対する感謝の念を抱くことが出来ないことだ。

自分を知るということが学校で最も学ぶべきこととすると、優等生はその落ちこぼれになる怖れがあることを知っておいた方がよい。


文学について思うこと

「永田さんは文学が専門だから」とたまに言われることもあり、怪訝な感じに襲われます。

英文科卒ですが、大学の文学部など遊んでいるだけで関係ありません。

実際最近本をよく読むようになったのですが、小説など殆ど読みません。文学の精華と言ってよい詩に到っては、少年の頃より今日に到るまで、興味を持って読んだことは一度もありません。綺麗な言葉だけ並べて何が面白いのか私には分かりません。

以上の事実から、この一文は文学無関心を表明するもののように思われましょうが、実はその逆で「永田さんは文学が専門」というコメントを肯定的に受け入れてみようとするものです。

文学には色々な要素があると思いますが、私が文学的と言うことであれば、それは書くこと、話すこと、思うことの主たるテーマが自己に関する事に収斂されていく所にあると思います。

音楽でも歴史でも本を読んでいて、書いている方の思いが自分自身の人間性への洞察に触れられているのか否かで、文学的かどうかが判断できると思います。

コンサート批評でも、結局、自分自身の批評になってしまうのが文学的批評で、多くの方はなさりません。

自分自身に目を向けるのが困難な理由は、自分をよく見ると、闇の部分や邪悪な要素、怯懦な性格、卑猥感、およそ駄目なものを集めたスーパーのように思われてくるからです。勿論その反対の崇高な部分も人は持っているのですが、それで悩むことはありませんので、文学的に何か表そうとするとどうしてもマイナスの所に目を多く向けることになります。

また、高潔な人になれば、判断基準が上がりますから、やはり、自分は何たる悪の権化と苦しみに苛まれるざるを得ません。

しかしいくら自分を悪く思おうと、それは同事に自己探求という価値ある行為を行っていると言うことでもありますので、出てきた結果に挫けることがないのも文学的自己批評の特徴です。

こういう事に慣れていない人ですと、自分を悪く表現すると、或いは、他人から批評めいた事を言われたりすると、本当に自分が悪くなってしまったような気になるでしょうから、美文で言葉を飾らねばなりません。たいていの本はなにがしか自分を横に置いて書かれていると思われます。そうしないと書けないのも事実でしょうが。


自己に刃を向けるのが私が言うところの文学的な特徴ですが、止せばいいのに他人に対してもその思いが発動されまして、『綺麗なことを書いておられるあなたは綺麗なのだろうか。心の闇から目を逸らしていては自分自身を語ったことにならない』というようなことを書いたりしますので、方々から敬遠されて、ネット友だちが増えません。

物言えば唇寂し、黙っているに如くはなけれど、ほらり漏らして嫌われる
せめてタバコに束の間の憩いを求めんにも、ビシッと戸を閉める音が聞こえ、漏らした紫煙に嫌われる。

我が女房殿が幾分か想像力を有し、多少の寛容の精神を働かせてくれたならば、人生はもっと違っていたのにと、いつも思うことですが、人生は孤独だと思い切るより仕方がないでしょうネ。

禁煙するとガンになる??

20年位前に猪瀬直樹の本で読んだことだ。

彼は相当はヘヴィースモーカーで、専門の医師にインタビューし「ガンが心配なのでタバコを止めなければならないと思っている」と話した。

するとその医師は、猪瀬氏に喫煙年数を訊いてから「無駄。その年数では、統計的には禁煙する人の方がガンになる確率が高い」と応えた。

私は喫煙を始めたのが30過ぎで、当時は医師の言う年数には到達していなかったが、興味ある発言として印象に残っていた。

処で昨日、ネットの放送で驚くべきグラフを見たので紹介したい。

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左のグラフが1950年からのガンの発症率で藤色をして上の方で一定に高いのが胃がん。
赤色で1980年以降急激に高いのが肺がん。

右の方が男性の喫煙率の推移。年代は不明だが、50%を超しているのは相当昔だから、左のグラフと同年代位に考えて良いだろう。

一目瞭然、これを何と捉えてよいのだろうか?

単純に考えれば、タバコを吸う人が少なくなると、肺がんになる人が多くなる。

一つの説明としては、ガンは昔の喫煙の影響が歳を取ってから現れてくるというものだが、ならば肺がん発症率が低かった1980年以前にも同様なことが言えて、昔の男性は殆どタバコを吸っていたし、今よりも遙かにニコチン・タールの強かった両切りの「新生」や「いこい」を吸っていたことの説明がつかない。

正しくは喫煙と肺がんの発症には、個人差を無視すれば、確かな相関関係はないと言うことだろう。

肺がんの発症の1番大きな原因はもっと別の所にあると見なければならない。
私の推測して思うことは自動車の増加による大気の汚染であるが、これも昨今自動車の排気ガスが規制されてずいぶんきれいになってきたように思えるので、相関関係を言うことは難しい。
都市部に人口が集中しているので、人口密度別に統計を取ると判明するかも知れない。

今一つ思うことは、寿命が延びてくると、いずれどこかがガン化するのが人間の宿命で、四六時中酷使している肺がガンになることが多いと言えるのかも知れない。推測に過ぎない。
身体は循環しているので身体全体の影響も考えるべきかも知れませんネ。

タイトルの「禁煙するとガンになる」とは、マサカ本当に言えるとは思わないけれど、仮に相関関係があるとすると、タバコを吸うというのは多くはストレス対策なので、今までタバコに依存していた人が禁煙するとストレスが高まるということは出来る。
しかし、この場合は肺がんである必然性はないので、どうかな??

人それぞれなので、分煙対策をして、余り声高に「タバコを吸うとガンになる」とは言うべきでないと思うが、そうも行かないには大きな理由がある。

「タバコを吸うとガンになる」の裏返しには「タバコを吸わなければガンにならない」もしくは「ガンになりにくい」という願意が込められている。

その結果、禁煙を徹底することでガンから遠ざかっているという一つの安心感を得られる。安心感がなくなれば不安になるので、不安対策としてどうしても「タバコはガンの元」と言い続けねばならないのである。


出来ないことの価値

自分を知るためには、人より優れて結果を出していることよりも、自分が出来ないことや日頃能力がないと嘆いているようなことを見た方がよい。

私自身の思いつく例を挙げてみたい。

皆川博子さんに「倒立する塔の殺人」というミステリーがある。大変よく出来た小説だと思うが、これをコメントするのが目的でないのでそれは省かせて頂く。

問題は、その中で一般的なこととして述べられていたことが、『出来ないことの価値』という思いにつながってくる。

『小説好きの人なら、自分でも小説を書いてみようと思うのが自然』というのが問題の箇所で、小説では友だち同士が一冊のノートに連続小説を書き始め、それが謎解きの根幹をなしてくるので、ミステリーとしても問題の箇所であるがそれは別の事である。

自分自身を翻ってみると、登場人物達の年頃、中学から高校にかけて、私は本当に小説好きの少年であった。
しかるに私は自分で小説を書けると思ったことは一度もないし、書きたいとも思わなかった。

確かに人に見せるほどのものを書くには、それなりの才能がいる。しかし、書きたいと思うだけであれば誰でも思えることであるし、同級生には文芸部に入って自分なりの小説を書いている人もいた。

私は読む専門であった。

小説どころか、私は文を書くことが苦手であったし、ノートをとることも、英文を写すことも、数学の式を書くことも、全て書くことは面倒臭くて、ノートに書いた字も乱雑で後から読んで参考に出来るような代物でなかった。

大学の時に外国に留学したゼミの先生に手紙を出したら、帰国後その先生から、「もっとこなれた文を書くかと思っていたが、中学生の作文の様なたどたどしい文で、ほほえましい」、という感想をもらった。

自分でもそう思っているので、それで傷つくことはなかったが、それ以来文章は人より下手だ決めつけた。

小説や評論を読むとなんて素晴らしい、自分では到底思いつかないような文面に溢れていることか!何度読んでも理解出来ない難解な文章は、読んで理解できないことを書くことが出来るとは、私とは空前絶後に懸け離れた能力の持ち主と判断した。

本を著すことは人間の業績の中でも一番立派なことであり、同時に、私には不可能なことであると思っていたので、たとえ自費出版であっても本を出した人には後光が差して見えたものだった。

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さて、今自分はどのように思っているのか?

私は文が書けるようになった。別に名文とか流麗な文とか思っているわけでない。
実際今この瞬間に私は文を書いていて、文が書けなければこのブログも書けるわけないのだし、文が書けるということは文が書けるというだけのことであり、それ以上の意味はない。

要は、他人がどう思うとか人と比べてみてどんな程度の文とかという評価を気にしなくなれば、どんな人でも知っているだけの日本語は並べられる。

他人を誹謗する様な事は書いてはいけないが、それでも傍迷惑な文なら傍は読まないだけのことである。

自分に正直に書いて人から敬遠されたり憎まれたりするということは、自分がそういう人間であることからもたらされることなのだから、それは文が悪いのではなくて私が悪いのだ。

とは言え、実際の所は、1000字足らずの原稿でも、広報などに頼まれれば呻吟して簡単には書くことが出来ないのが普通であろう。
その「書けない」ということの中には、自分自身の性格や世の中の捉え方や他人との関係が潜んでいる。

ここでタイトルに戻るが、出来ないことにぶつかって、知ることがある。
出来ることばかり追ってはいけない。


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始めに書いた小説の例に戻ろう。

迂回して絵画について記すが、私はこの頃人間関係が拡がり、結構画廊や文化会館での展覧会を見てまわる機会が多い。

絵も小説と同じで自分では全く描く気にならない。小説と違って元々興味がない世界なので見ていてもチットモ面白くない。

だから、私の見方は愛好家とは全く真反対で、「人はなぜこんなことに一生懸命になるのか?」と問いかけながら、見ることになる。

作品そのものには惹き付けられることも感動することもないので、私の関心は専ら、絵を通じて窺われる作家の人柄や絵との関係に向けられる。

反語的に言えば、分からないから分かることもあるし、出来ないから出来ることもある。

私は絵はなくても生きることが出来るし、絵描きは絵なしでは生きることが出来ない

優れた絵は社会的に価値を持つので、「絵は私の命です」と言っても顰蹙を買うこともないが、「絵」の替わりに道楽の類を入れてみたらどうであろうか。

「ギャンブル」、「セックス」その他もろもろある。
「絵とギャンブルとは違う!」という反論はあるだろう。では、どう違うのか?

描いた絵の様々な違いから感じられることもある。
また、この人は描くのに夢中だが発表には熱意がないという人もいるであろうし、見てもらうことに生き甲斐を見出す人もいるだろう。

私は絵に関して何も出来ないから、絵の出来る人たちが無意識に行っている事の中に、性格形成や人生過程を読もうとする。

翻って絵がなくても今日まで生きてこられた自分についても、性格形成や人生過程上の工夫や困難はあったわけで、自分を相対的に、言い換えれば広い視野の中に置いて自分を見直すことが出来る。

小説について言えば、私は相当な空想家であるが、全ては頭の中で終わり、あえてそれを外に出して描き出したいとは思わないし、ましてや、その話を人から読んでもらいたいとは思わない。

後者については話がおぞましく短絡的で有り過ぎるので当然だが、脳内世界の圧倒的優位という点に私の特徴があると言えるし、そうなったにはそうなった理由があったはずである。

ともあれ今日のブログのまとめとして言いたいことは、出来ないことから拡がっていく世界もあり、格別、自分自身を振り返るには、出来ない時の方が一層その気になるということだ。



英国のEU離脱投票について一番思うこと

一番根本的に考えるべき事は、EUをどう捉えるかという点である。

ヨーロッパは陸続きで、歴史的にもローマ帝国や神聖ローマ帝国、又キリスト教世界といった国家を越えた共同体の伝統があるので、日本と同様に考えることはできないが、取り敢えずそのアナロジーで考えてみたい。

EUにはEUの大統領もあり外務大臣もいる。するとEU諸国の人は自分を何人としてまず捉える事になるのだろうか?

世界には国連という組織があるが、世界の誰も自分を国連に所属しているとは思わず、国連はそれぞれ所属する国家の調整機関として捉えられているだけだ。

私自身もピンと来ない言葉になっているが、忠誠とか愛国の対象として、EUの人たちはEUになるのかそれぞれの単位国家になるのか、どちらなのだろうか?

東欧諸国がソヴィエト時代、ソヴィエトからの支配に抵抗してどれ程多くの犠牲を支払ったのか、自国には愛着があり守りたいものなのだ。

今は経済的な誘因が圧倒的で、弱小国もEUに流れ込んでいるけれど、人と物更にはお金が自由に動き回り始めたら、気がついてみたら、自分の国などどこにもなくなってしまっていたということにならないだろうか。

当然混血も進み、ゲルマン魂とかラテン気質とか言われているような民族ごとの気風も拡散して混ざり合っていくだろう。

結局、生活の快適性や利便性だけが共通の価値となり、魂の問題が国や民族と言うことと切り離されてなおざりになっていくのではないだろうかと危惧する。

そこで私の一番言いたかったことはここからなのであるが、国というのはそう簡単に捨てられるものではない。

私達もEUの大都市であるパリやローマに行きたいわけでなく、フランスのパリやイタリアのローマに憧れる。

EU人である前にフランス人だ!、イタリア人だ!というアイデンティティを持っていると思うし、日本人である私はそうとしか考えられない。

処がここに一国、国民国家を消してEU人であることを目指す国があり、他でもないドイツである。

EUにおけるドイツの存在は、大相撲における白鵬のように圧倒的で、今のEUはドイツを中核としたヨーロッパ連合と言える。

直感的に思うことだけれど、ドイツはついにナチスドイツの精算を済ませることができず、ドイツの名を捨てて、EUを拡大して支配することにナショナリズムの方向を見出したというのが、私の仮説である。

精算を済ませることができなかったということの意味は、謝罪が足らないという意味では全然なくて、ナチスドイツの犯罪をヒットラー一味の個人的犯罪にしてしまったために、ナチス政権下のドイツ人と自分たちとの継続性を述べることができなくなってしまったということである。

それだけ罪が大きすぎたと言うことだけれど、東ドイツを例にとると分かりやすい。

東ドイツでは、国民の多数なのか過半なのか、少なくとも権限のある人は殆どが秘密警察の手先であった。それ以外生きようがなかったとは言えるが、論理と生き方を一致させたいという国民性にあっては、反省するに反省できない。

罪は償ってから正しい生き方も追究できるであろうが、親子・夫婦・兄弟・親友がそれぞれのスパイだった事実を眼にしては、反省しようがない。

出来る事と言えば名前のある大ボスに罪を被せて、後は知らない振りをすることだけであろう。

東ドイツという国は無かったことにしようというのが、今のドイツ人の考えていることでないだろうか。

国の歴史を消すと言うことは、同時にそこに住んでいた人の歴史も消すことで、それと同じことがヒットラーの第三帝国に対しても言えるというのが私の推論である。

私達日本人は、確かに軍国主義の犠牲になったと思っているが、その軍国主義者たちも他ならない自分達の仲間であるという意識がある。

だから批判したとしても、中途半端な批判になる。自分達にも罪があると思えば、完全な否定などできるはずがない。中韓からは責められるが、その分自分達の苦難の歴史として、今の時代と継続性を持って戦争時代を振り返ることができるのである。

ドイツ第三帝国の前の、第一と第二というのがよく知らないが、隠された第四帝国としてのEUという矜持があるのでないだろうか。

イギリスが分離を選んだのは当然の様に思えるし、次ぎに我慢できなくなるのは、普通ならフランスだと思えるが、さぁどうであろうか???



アイデンティティの問題

「アイデンティティ」という言葉を知るきっかけは、朧気な記憶であるが、高校生になってから江藤淳と石原慎太郎の対談を読んで、その中でくり返し言われていたからである。


辞書でひくと自己同一性といういかにも翻訳用語の訳が載っているが、「アイデンティティ」はそれ以降の私にとって「愛とは何か?」よりもよほど切実性を帯びた追究事項となった。


「アイデンティティ」とは、自己を自己たらしめているものの総体のことであろうが、感覚的或いは感情的な面における認識も必要とするので、他人が捉えるところの「私」と、自分で思っているところの「私」では異なるし、その違いは自我意識が強い人ほど大きいものとなる。

昨日世界の話題をさらったイギリスのEU離脱投票も、一番本質的な問題はアイデンティティを巡る問いであったと思う。

私達で言えば、「私は日本人である」という言い方は、相当深く自己に入り込んでいて、アイデンティティの一部を形成していると言える。

平成の市町村の大合併時に、羽島市は岐阜市への編入を拒否したのであるが、仮に羽島市竹鼻町が岐阜市竹鼻町となってもさほど痛痒を感じないのは、市への所属が国と比べてみてアイデンティティの不可欠の要素でないので、経済的側面からのみドライに割り切って考えられるからである。

また、併合した側とされる方では意識は当然異なってくる事も考慮しなければならない。
併合する方は、自己意識はそのまま継続されて更に一層大きな自己へと飛躍することになり、歓迎すべきであり、される方は真反対である。

良い例が日本の朝鮮併合で、現韓国の近代化に大きく貢献したのであるから感謝せよと言っても、それは無理な話で、日本の栄光は朝鮮の喪失であった。

イギリスの場合は、イングランド地域が離脱多数でスコットランドが逆と言うことは、スコットランド人にとってイギリスというのはどうでも良いことで、もし同様な事態が日本を含んだ地域に生じていたと仮定したら、本土人離脱、沖縄県民残留と言う投票結果に、大いになり得るだろう。

たまたま歴史的な事件があったもので、横道に逸れてしまった。私が書きたいのはもっと私的なことである。


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私達はアイデンティティが保証され、明日も又同じアイデンティティが継続されるという意識があって、今を安心して生きることができる。

自己の死を怖れざるを得ないのは、アイデンティティの消滅という事態に対処する心がけができていないからで、これはほぼ全員に当て嵌まる苦しみである。

一方他人の死は受け入れることができるのは、その事により自己のアイデンティティが消滅したり阻害されたりすることがないからで、時には歓迎すべきことでもある。人間は自分勝手なものなのだ。

不謹慎な話となるが、他人の死を考えた場合、この他人が誰であるのかということで苦しみの度合いは完全に異なってくる。最悪の場合には生きる力を失い、後追い自殺のような事態も発生する。

アメリカ女性の本に書いてあったことだけれど、どんな好きな人でも、どんなに大切な人であっても、その人の消滅(必ずしも死によって消える訳ではない)は、時間の経過と共に打撃はやわらげられていき、生き続けることができるとある。

しかしこれは精神的に自立できている人の場合であって、依存性の強い人、言い換えれば自己のアイデンティティの根幹を他者の存在に委ねている人の場合には、立ち直れない。

ここで思い出すことは30年ほど前にテレビで見た舟木一夫のインタビュウである。彼は『高校三年生』でデビューし一世を風靡したが、後年自殺未遂を起こしている。

『僕の場合は極端でしたから』とテレビで語った言葉が印象に残っている。
ファンが離れると言ってもデビューする前はファンなど存在していないのだから、自殺を図るほどのこととは到底考えられないのが普通人の感想だろう。

察するに、多くの熱狂的なファンから熱い声援を浴び、その時の強烈な高揚感が、一種の自己完成のような境地に誘ったのではないだろうか。
ファンが離れ無関心な人が増える中で、徐々に自己崩壊していく様な気持ちになり、その辛さとみじめさに耐えられなくなったと言える。

舟木一夫さんだけでなく、若くして脚光を浴びた人が必ずしも幸福な晩年を送られないのは、脚光が自己のアイデンティティの一部又はアイデンティティを支える不可欠な要素、プライドと言い換えても良いが、となっているからでないかと思う。

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私の様な普通人の場合、世の中から脚光を浴びることなどないので、舟木一夫さんの例は関係が無いように思われるかも知れないが、ファンの声援を他人からの認知や評価と一般化して捉えてみると、同列のこととして考えることが可能になる。

私達の全てが脚光とは無縁でないのである。

すぐ思いつくことは、高校や大学受験で、「合格おめでとう」と褒め立てられることがある。志望校に合格したこと以上にお父さんやお母さんに「よく頑張ったね!」と言われたことがうれしいという感想を抱く人も少なくないだろう。

その他、就職、結婚、子どもの誕生と、社会の中で評価される行程を歩んでいる。

実は親の葬式も子供にとっては隠れた晴れ舞台で、昔の人はその機微をよくわきまえていた。

孫の誕生というのは果たして自己実現と言えるのかどうか、疑わしいところもあるが、めでたい出来事であることには違いなかろう。

男の場合、女性も多く増えているが、立身出世というのも自己を懸けるに価する事柄である。

私が職とした教員は、生徒が第一で関係ないと思われようがそんなことは決してない。

細かく挙げてみると、職務に違いがあって、生徒指導、進路指導、教務等々があって、それぞれに主任が設けられている。全員で行う会議が職員会議なら、管理職と主任が集まって行うのを企画委員会と言い、大抵のことはここで決めてしまい、栄達の一歩であって、拘る人は徹底的に拘る。

私はこんなことに執着しなかったけれど、企画委員会のメンバーであることは長らく当たり前という状態であったので、公正な判断とは言えない。

ただ驚くことは、中には企画委員会のメンバーから外れることが極めて大きな精神的ダメージを受ける人がいることで、その人達が見た目がゴリゴリの権力主義者であるのなら分かるのだけれど、日頃は協調的で他者思いの人でも同様に当て嵌まる。

自分自身の掛け替えのない要素として、そういう部署にいることが入り込んでいると思わざるを得ない。

ハンコ一つ飛ばす、或いは根回しを怠ることが、途轍もない大事件になる。

私自身の経験では、職員会議の直前に教頭から頼まれたことを会議で言ったら、教務主任に呼ばれて「教員になってこんな悔しい思いをしたことがない」と叱られた。
ことは全く他愛のないことで、「教頭から言われて仕方がなかった」と言い訳したら、「お前の上は誰や!」と言われた。

私も私で別の人の名前を挙げ、あとは喧嘩。
「お前を一生見捨てる」と仰ったので、「あなたはどうしてそんなに威張りたいのか。勝手にして下さい」と応答して、これが長い教員生活で私の唯一といえる争いごとだった。

一部の男にとって沽券がいかに守るべき事か、如実に表す例と云えよう。

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「私は『先生』である」、と、「私の職業は先生である」との間には越えがたい溝がある。

この『先生』の処に、『日本人』、『父』、『夫』、親が生きている間は『子ども』も入った。

正しくは「私の国籍は日本である」、「〇〇は私の妻・長男・親である」と言うべきであろう。

後者で言おうとしていることは、私は、私の妻・長男・親に対しては、相応の社会的責任を有するものであるということで、彼らの言動や存在の有り様によって、私自身の性格や考え方が左右されてしまうことはないということだ。

少し前に初孫が誕生したけれど、私は「お祖父さん」と呼ばれることに非常に抵抗を感じる。

「いつまでも青春だ」などと思っているわけでない。初孫の誕生によって、それまでの自分とは違った何かに自分がなるとは到底思えないので、そう呼ぶことが出来るのはその関係が当該する当人、すなわち孫、だけにして頂きたいと思っている。
但し、「お爺さん」ということならば受け入れるべきで、実はそういう自分でありたいとも願う。

これらの拘りは、下の人の立場にたって人の呼び方を決める日本語の特徴で、そういうものだと割り切って過ごせばよい様にも思われるが、言葉に拘ろうとすると、「先生」とか「お父さん」とか「旦那さん」とか呼ばれるとなにがしか自分が規定されて、精神的自由がなくなる。

但しそう呼ばれることを求めている人もいて、アナタとか〇〇さんとか呼ばれると屈辱感や不安感を感じる人もいて、こちらの方が日本人としては多数派であろう。
処世術として妥協も必要なことではある。

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私の場合、「先生」、「お父さん」、「夫」など全て取り替え可能な仮面の様なものとしてしか意識されていない。

「私は私である」としか言いようがないのだけれど、そういった仮面を全部取っ払ってしまった「私」は一体どういう「私」なんだろう?と考え直してみると、確としたことは言えなくて、やはり社会的関係の中で培ってきた「私」も、本当の私の様にも感じる。

今の所は、結論的に仏教用語に逃げてしまうことになるが、『天上天下唯我独尊』としてしか自己は存立しえないという覚悟を抱いて、生き抜いていくということになるであろう。




初孫誕生に思う

チチとハハに濁点をつけると、そのまま爺と婆になる。


爺と婆の語源は、チチとハハにあるのか?


私は女房から「おじいさん」などと呼ばれたくないが、その心配はないだろう。


何故なら私は「おとうさん」と呼ばれたことがないからだ。


「おとうさん」でなかった人間が「おじいさん」になるのはむりだろう。


私はいつも私であって今も変わらない。


気負ったことを書いているが、こういうのはけっこう疲れるのであって、廻りもそうだろう。



パソ・コンワク??

どこかでミスタッチをしたのか、ウインドウズ8が10に入れ替わり、暫くブログの管理画面に辿り着くことができませんでした。

甥の処に行って操作を教えて貰ってきました。

私が丁度その甥くらいの歳でしょうか、職場にもパソコンの話題が出てきて、教員研修会でもパソコンの講座が開設されるようになりました。

当時はベーシックと言いまして、チョコチョコとアルファベットを入れますと、○を書いたり三角形が現れたりして、一体これが何の役に立つのか、サッパリ見当がつきませんでした。

やがて、と言いましても数年後のことですが、ワープロが登場してきまして、ワープロ専用機が電化用品店の大きなウエイトを占めるようになりました。

私のパソコンとの関わりは専らゲーム専門で、PC88とかPC98を買って、ゲームソフトをダビングして遊んでばかりいました。

その他テレビゲームも熱中しておりまして、買った機種はファミコン、スーパーファミコン、任天堂デジタルシステム、ソニープレステーション、ソニープレステ2。

ワープロ専用機も3種類程買いましたから、合わせると10台程になります。

ワープロ専用機はいつ頃からパソコンに入れ替わったのか、定かに覚えておりませんが、教員の世界では「一太郎」というソフトを使っていまして、これに慣れすぎてしまい私は未だ一太郎であります。Wordというのは使えません。

パソコンに関することは、止むに止まれず覚えるだけで、新たなことは頭に入ってきません。用語もサッパリ分からずチンプンカンプンです。

上記のことは40年の歳月を経て起こった事ですが、あっと言う間の出来事でした。

教員になった頃、街頭テレビで力道山のプロレス中継に人が群がった話をしたものでしたが、テレビは10年後にはカラーテレビが当たり前になりました。

それを思えばパソコンの進化もさほど速い訳でありませんが、変化について行くのは至難です。

よろしくお願いいたします。




指導と感化

指導と感化は教育の二本柱で、どちらに惹かれるかは、その人の性格に左右されます。

感化の方を理想とする先生が、その通りにできるかと言えば大変難しくて、実際には指導的な姿勢に終始する場合も少なくありません。

一つの理由は学校教育は指導に重点が置かれていて、そのノルマを達成しない限り、個人的な意見を言うことなど許されないからです。

もう一つのもっと本質的な理由は、感化の力を持つには、先生自身が相当な情熱を持って人生を生き抜いていないと、生徒の心に憧れを抱かせられないからです。これは至難の業ですね。

私の場合は、率直に書きますと、指導は最初から放棄し、感化は自分自身が感化力を持てる人間だとは全く信じられませんでしたので、逃避的教員生活を送ってきたと言えます。

しかし逃避的と言うことに関しては一貫しておりましたので、どことなく人間的だぁというような捉え方のできる生徒には結構受けも良かったと言えます。

私が仕事をしていたのは実質54歳の誕生日まででした。全く誇りにできるようなものはありません。

性に合わない職業を選んだとも言えますし、教員だから54歳まで続けられたとも言えます。

以上は与える立場に立って言っていることですが、翻ってみて受ける立場で考えてみるとどうでしょうか?

学校教育というと20代も後半になれば関係なくなりますが、一例を挙げますと宗教ですと指導者は聖職者で信者は被指導者になるかと思います。

ここで私は非常に強く感じることですが、被指導者である信者側は、指導して貰うことを求めすぎていないでしょうか。
先生の例で言ったことと同じことが受け手の場合にも言えて、感化されるためには感化されるだけのものを自分の中に持っていないと、感化されることもできません。

指導者側に立って考えると、相手は指導されること専門でいて貰った方が楽に決まっていますから、素直に人の意見に従うことを良しとすると思います。
その点、お坊さんも先生も一緒です。

しかし指導されてばっかりでは、自分の心に自分自身の生きる指針の源を生み出すことは不可能で、どこかで自分のことは自分で決める、自分の頭で考えると言うように姿勢を切り替えていかねばなりません。

そうすると今まで気付かなかった人に新たな魅力を発見し、より主体的な生き方が出来る様になると思います。

同時に、受け手側の素直な姿勢に頼って指導に専心している人には魅力は失せるはずです。

私は、お坊さんに衣を脱いで、ジャーパンかジャージーで常飯に来てほしいと言ったことがあります。
衣の権威に頼っていてはいけないと思ったからです。

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