佐吉大仏 ヒラメ記(代表:永田章のブログ)

佐吉大仏代表永田章(ヒラメ)のブログ 佐吉大仏の他にも地域の紹介等

本 批評・評論

川口マーン恵美さんの著作

川口マーン恵美:1956年東京生まれ 日大芸術学部卒業 
           シュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科卒業 シュトゥットガルト在住

読んだ本:「ドイツは苦悩する」 草思社 (2004)
       「ドイツで、日本と東アジアはどう報じられているか」 祥伝社新書 (2013)
       「住んでみたドイツ8勝2敗で日本の勝ち」 講談社α新書 (2013)

ドイツは分かるようで分からなくて、それぞれ専門の立場で書かれたものが多く、生活者レベルでどうなっているのかと云うことを知るために、手ごろな本でないかと思います。

筆者はドイツ人と結婚し、二人娘さんがおられて、30年。親独と反独が半ば入り交じり、日本に対する思いは強く、両国を比較して悲喜こもごもの毎日を送ってみえるようです。

三書を合わせ漂ってくるドイツ人のイメージは、頑固で優越感を持ち、自己の主張を曲げないことです。
これは白人が有色人種に対して共通して持つ感覚なのでしょうが、自己を対象化し客観的に眺める視点が少なく、論理に猪突猛進な点で、日本人としての矜持の念が強い川口さんにすれば、息苦しさや反発を感じる所と言えます。

「8勝2敗で日本の勝ち」というのは、中身は決してそんなことはなく、本のタイトルで気持ちのバランスを取っていると云った感じですね。

著者は原発に関しては、相対的な価値観に立っていますので、ドイツの反原発のウネリに対してシニカルな見方をしています。
ドイツの脱原発もそう上手く云っているわけでないことは確かなようで、大変詳しく書かれていますので、一つの生資料として、非常に役立つのではないかと思います。

近年ドイツという国はあるのかなという思いがしておりました。ヨーロッパの中の非常に豊かな地域としては存在するのでしょうが、ナショナルアイデンティティを喪失してしまっている様な気がしていました。

一昔前ですと、ドイツに憧れる人は多かったと思いますが、今はそういう人は少ないのではないでしょうか。その場合はヨーロッパに憧れるという言い方に変わってしまっているのではないでしょうか。

今でも、イタリアとかフランスと云った時、くっきりとそのイメージが湧いてくるのに対して、ドイツはEUに拡散してしまい、「ドイツ精神」とか「ゲルマン魂」というかつてのインパクトある言い方は云われなくなってしまった様に思います。

「ドイツは苦悩する」を読んで、つくづく感じることは、ナチスドイツのダメージは極めて大きく、その時代を完全に否定してしまうことによって、それ以前との歴史的繫がりも希薄になり、ドイツ民族固有の栄光ある歴史としては語られなくなってしまったのでないかなと思います。

一番最近の書では、ドイツも結構国旗が溢れるようになっているそうです。それは一種の反動とも云えますが、独自性と普遍性の両面備わって、国民としての安定感を得られると思います。

三書とも読みやすい本で、あっという間に読めますので、図書館で借りて、待ち合わせの時間つなぎに読むのに楽しい本でないかと思いました。

水林章『カンディード』<戦争を前にした青年>

扱う本:水林章 理想の教室『カンディード』(戦争)を前にした青年 2005(みすず書房)

大変優れた本を読みました。

この本はヴォルテール(1694~1778)の『カンディード』(1759年発行)の第一章・第三章(全30章)を採り上げ、講義形式でその内容を紹介したものです。
大変深い内容にもかかわらず、平易な話し言葉で記されているので、理解し易い本と言えます。

ここで思いつきの挿入ですが、ヴォルテールと佐吉翁(1701~1789)はほぼ同じ年代。『カンディード』が発行された1759年に「佐吉大仏」が建立されています。本分の内容には関係ありませんが。

短い引用を、事細かく丁寧に説明してありますので、、テキストの読み方を学ぶという意味でも大変優れた本だと思います。

フランス語には単純過去と半過去があるとか、「歴史」と「物語」は英語では「history」と「story」に分かれているが、フランス語では同じ一語であるとか、考えさせられる事も知りました。

さて、ヴォルテールの『カンディード』執筆のねらいを、著者は最後に際だって優れた一節にまとめられていますので、是非ともお読み頂きたいと思います。


あるひとつの社会=言語共同体の中には、戦争について、平和について、スポーツについて、

健康について、男女関係についてなどなど、あらゆる事象について、組織された支配的な言語

が存在します。個人はそのような言説のただなかで生まれ、育つのだと言っても過言ではありま

せん。ですから、人間が多少とも自律し(ということは、自分自身の頭で考えようとすることです)、

自由であろうとすることは、そのような支配的な言説を意識化・対象化し、距離を取ること、すなわ

ち自分自身の言葉を見出すことを意味するはずです。

言語の専制的支配からの自由 ー 『カンディード』の核心には、ですから、このモティーフが彫り

込まれているように思われるのです。これはヴォルテールの時代から二百五十年たった今日に

おいても依然として重要な課題であり続けています。


『スポーツについて』と書いてあります。ソチオリンピックの最中に週間ポストが『感動の押し売りは止めよ』と大見出しの記事が出ましたが、私もどうかしていると思いました。

私も鬱陶しいので2週間、新聞・テレビから遠ざかっていましたが、フェイスブックで浅田真央が6位になったことを朝日新聞が号外で報じたことを知り、インテリが憧れる朝日新聞のすることかと唖然としました。

しかしながら真央ちゃんに憧れている人は憧れていて良いわけです。いけないのはそういう物語を作って、「日本人ならこうに決まっています」と他の発想を封じ込めてしまうことです。
この間の日本は、非常に息苦しい感じでしたね。

これは他愛もない例ですが、例えば今日は震災三周年の日に当たります。震災についても関心の深浅は当然あるわけですが、指示的言辞が横行しています。

引用にありますように、与えられた言語を自分で意識化対象化しないと、考える力は身につかないと思います。そのためには本を読むことは大切だと思います。
新聞は概ね一色ですね。「赤旗」と「産経新聞」の両方を読むくらいの意識操作が必要かも知れません。

最新コメント