佐吉大仏 ヒラメ記(代表:永田章のブログ)

佐吉大仏代表永田章(ヒラメ)のブログ 佐吉大仏の他にも地域の紹介等

佐吉大仏全体説明

「なでしこの会」佐吉大仏を写生

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今大佛寺のお堂には、竹鼻町コミュニティセンターで開かれている絵手紙サークルの「なでしこの会」の皆様の作品が展示されています。


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4月1日に「なでしこの会」の皆様が「佐吉大仏」を写生するために訪問していただけました。


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絵を描き始める前には私の方から佐吉翁のお話しを10分程度させて頂きました。


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いつも不思議に思うのですが、70前後になれば男も仕事を終えて暇な人も多いと思いますが、どういう訳か趣味のサークルは女性ばっかりです。


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男は仕事で疲れてしまうのか、自分が中心になることで無いとやる気が起きないのか、どちらか分かりませんが、残念なことです。


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絵が完成したら、お堂の中に展示して頂けると嬉しいですね。



佐吉大仏 新しい看板の設置

通常のお寺ですと寺歴に当たる「佐吉大仏」説明用の看板を新しく作り直しました。

今までの手作りのものが古くなりました。それで、看板屋さんに頼んでステキな看板が出来上がりましたので、写真と共にそのご紹介をさせて頂きます。


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説明文が少し小さいので、日本文の説明だけ拡大して下に載せさせて頂きます。


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お読みの様に佐吉大仏は昭和21年10月26日天皇陛下の御行幸の栄誉を賜りますが、これは前日、笠松でお泊りの時に翌日桑原の牧場に行く時にお立ち寄りになられると急遽決定されたものです。郷土史の本を読みますと、当時は着るものも揃わず慌てた様子が書かれております。陛下の御巡幸が思い付きで決められるとは到底思えませんので、当時は全てマッカーサー司令部の支配下でしたので、大仏にお立ち寄りと言う事を前もって公に出されにくかった事情もあったのではないのかと推測している次第です。歴代の天皇陛下が竹鼻の地に足を踏み入れられた最初の時であると聞いております。栄誉に恥じない様に今後とも精進に努めていく所存です。

佐吉大仏へのオリエンテーション

◎佐吉大仏について説明する機会が何回かありました。

10分程度時間が頂けた場合、大体下記のようにお話します。大体は本からの知識ですが、研究レポートでありませんので、どこからとは記載しませんので、その点ご斟酌お願いします。


1 佐吉大仏はお釈迦様
佐吉大仏は永田佐吉翁が建立した釈迦如来坐像です。佐吉翁が建立した大仏という事で佐吉大仏と言っていますが、これは通称です。


2 仏像の起こり
仏教は初めは何にもない所でお経を読んでいました。お経と言うのはお釈迦様の教えを基に、詩の様に読みやすく覚えやすくしたものです。
おそらくは集中できない理由からでないかと思いますが、塔婆を設けてお経を読むようにしましたが、やがて開祖である釈迦の像を作り、その前で読むよむようになりました。
これが仏像の始まりであるとともに、それ以降の仏教の基本的な礼拝スタイルとなりました。
これは古代インドの事で、日本に仏教が入ってきた頃には、お釈迦様のイメージも膨らみ、お経も色々な考え方が入ってきたと思います。


3 佐吉大仏は丈六青銅製の釈迦如来坐像
一丈六尺と言う長さの単位が非常に重要です。大体4.8mですが、これは古代の日本人がお釈迦様に抱いた身長です。座像の場合はその半分の高さになります。台は仏像の高さに含まれません。

本格的な寺院は丈六の大きさの仏像を本尊として祀るのが通常だそうです。しかし一般のお寺ではとても無理ですので、丈六に1/3とか1/5をかけて仏像の大きさを決めます。


4 大仏の定義
大仏とは「巨大仏」と考えればよく、決まり事としましては、丈六が基本単位となってこれを越えた場合大仏と称することが出来ます。奈良や鎌倉の大仏はまさにそうですね。
所が江戸時代に入り丈六の大きさでも大仏と称するものが多く作られるようになり、丈六仏が大仏の主流となっていきます。

・この場合は4つの条件があります。
1 如来像(釈迦、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来または廬遮那仏)であること
2 青銅製である事
3 座像である事
4 露座である事(お堂に入らなくて外から見える事)


5 佐吉大仏は本当は大仏でなく、一番普通の大きさの釈迦像
佐吉大仏は大仏として作られたわけでなく、単なる普通の釈迦像として作られました。ですから元の通称も佐吉翁が作った仏様と言う意味で「佐吉仏」(さきちぼとけ)と言いました。
所が明治24年の濃尾震災でお堂が焼失し、それ以降露座になり外から見て大仏イメージが出てきますので、竹鼻大仏と言うもう一つの呼び名が出てきます。この部分は私が言っている事で本に書いてあることではありません。
1997年に美濃竹鼻まちづくり委員会が「仏佐吉の画伝」という本を作りました。この本の中で「佐吉大仏」と言う名称が初めて使用されました。
私としては佐吉翁と大仏さんの両方ともに落とせないと思いますので、ここで作られた名称を頂き、佐吉大仏と言う名称に統一しています。尚、岐阜県の史跡登録名は「佐吉佛」です。


6 佐吉大仏は宝暦9年(1759)に建立された
佐吉大仏は長らく1750(寛延三年)に建立されたと言われて来ました。岐阜県の文化財一覧ではまだそうなっているはずです。
間違えられた原因は仏像の背中に寛延三年と刻んであるからです。
佐吉大仏は江戸で鋳造し、5艘の船で22の部品に分けられ、当地で一体にされました。搬送台帳には宝暦8年の十月からその年の暮れにかけて運んだと明記されていますので翌年宝暦9年に建立と捉えるのが適切です。


7 何故寛延三年と刻んであるのか
ここは私の推測が入ります。最初首から上を他の荷物とともに太平洋を渡っていた時に遠州灘で嵐に遭い、転覆を避けるために荷物と一緒に海に投げ入れました。
首から下は残っていて、背中部分にはできた年の寛延三年と刻まれています。

首から上を作るのに十年近くかかるのですが、その理由はお金がなかったと言う事も考えられますし、作るのをいったん中止したとも考えられます。ここの所は推測しかないのですが、場合によれば製作に時間がかかったという事もあろうかと思います。

(首から上を運んできた事は台帳に載っていませんので、当地竹鼻で製作したと仮定します。その場合大仏を作った経験はありませんので、作り方を学び設備を整え、何回も試作を繰り返しと言う事が考えられますので、相当な時間がかかる事が予想されます。これはあくまでも推論で、普通は言いません)


8 仏像建立の目的
「仏恩報謝」と言う言葉で説明しています。お釈迦様に対する感謝のためにと言う事です。物語によれば旅に出て病気が治ったお礼のためと書かれていますが、それはきっかけの一つだと思います。
何故かと言いますと、佐吉翁は釈迦像を本尊とした一堂伽藍を当時の竹ヶ鼻村に寄進していて、世話をするのも本覚寺になっていますので、自分の病気御礼だけであったら村に寄進するわけはありませんので、村人全体の為と言う事は当初からあったと思います。


9 永田佐吉翁と大仏寺の説明
「今までの説明は序論で一番大切な事は建立者の佐吉翁がどんな方か知って頂くことです。それは資料が一杯置いてありますので是非お持ち帰りください」と言ってごく簡単なお話で切り上げます。
最後に大仏寺が単立無宗派のお寺で、特に決まった宗律や戒律はなく気楽に考えて下さいと言って説明を終りにします。


今日は文ばかりの内容になりました。明日は市内の中学生が260名見学に来ます。明日の説明要旨をまとめたようなブログになりました。


佐吉大仏(大仏寺)全景補足 表看板(野口雨情・柳原白蓮)

11月23日の記事は「佐吉大仏全景」と題して大仏寺の全体写真を紹介した記事です。

今回は新しい看板が出来上がりましたので、前回には触れなかった道路に面した看板をご紹介したいと思います。


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こういった様に色々なものがフェンスにぶら下がっております。まだ固定化したものではなくて、段段と取り替えていき中身も見栄えも充実させていきたいと考えています。

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新しく作り直したのはこの野口雨情に関するものです。野口雨情は竹鼻が好きと言うか佐吉翁を相当慕っていたのか、佐吉翁を讃える詩を作っています。「仏佐吉さま 仏で暮らす 誰も仏で 世をおくれ」と書いてあります。

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これなんかは単に「竹鼻へ行きたい、雀の翼が欲しい」と言っているだけの歌で、註を見るとそのわけは、佐吉さんに会うためなのかと推測されます。
この看板は写真をラミネートで包みアクリル板に貼っただけですから大分悪くなってきました。余裕が出来たら取り替えたいと思っています。



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これは柳原白蓮の説明パネルです。この方は大変な方ですね。大正三美人。大正天皇の従妹。悪いことは書かないのですが、筑紫の炭鉱王と結婚し「筑紫の女王」と呼ばれました。それで駆け落ちして新聞一面にでかでかと記事が出ます。大変なスキャンダラスでした。

次はこれは「白洲正子自伝」に、興味本意の内容ですけど、書いてあった事です。美智子様の結婚前に関するエピソード。
白蓮から夜白洲正子に電話があり、「こんな事を許してよいか!阻止したいので協力して欲しい」と言われました。彼女は断る口実をあれこれ言っていたら、ガチャンと電話を切られてしまったそうです。
それで白洲正子は「社会主義者と駆け落ちしたからといって、赤いのは表面だけで、根は華族意識の固まり」と書いています。白蓮没後の一方的な批判ですけどね。
白蓮は与謝野晶子と並ぶ日本を代表する歌人ですから、美智子様も白蓮に相当泣かされたかなと、畏れ多いことながら、お察し申し上げる次第です。

「里人の 心に見えて なつかしや 佐吉が残す 仏心は」この歌は非常にいい歌だと思います。白蓮が童心に帰ったかのようで、佐吉翁の分け隔てのない感化の力を感じさせます。


最後に何故人名辞典の様な看板を作ったのか?その理由を述べたいと思います。

[ 市内の某小学校の百数十名の児童が数名の先生に引率されて見学に来ました ]

私は前に立ち次のように説明しました。
「野口雨情さんの様な立派な人がこんなに佐吉さんを尊敬しているのですよ!皆さん野口雨情さんを知っていますか?」 ・・・シーン・・・ これは仕方がありません。小3では普通です。
「では先生方に聞いてみましょうネ」 ・・・シーン・・・ (40代の方もみえました)
「では皆さん、シャボン玉って歌を知っていますか?」 ・・・ハァーイ 全員(先生も児童も一緒)

その時、これでは佐吉さんのことが忘れ去られるのも無理がないと思いました。
「そんなことで小学校の先生が務まるのか!!」と叱ってみても仕方が無いので、白蓮と雨情の手製の説明看板を作りました。

今回、両名とも揃って綺麗な看板に付け替える事が出来たました。
今度佐吉大仏に来られた時には、是非、表の看板の方もお読みいただけると嬉しい限りです。

佐吉大仏(10) 大仏の胎内

◎ 佐吉大仏(大仏寺本尊釈迦牟尼仏)の胎内について


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「背中の中はどうなっているのですか?」とよく質問を受けます。「何でしたらお入り下さい」とお答えしますと、多くの方ビックリされます。
実は、お堂が再建されるまで大仏は露座でしたから、私も含めて、子ども達は中へ入って遊んでいましたので余り抵抗はないのです。
扉は半世紀閉められていたのですが、或る大学の調査に協力して開きましたら、閉まらなくなってしまいました。
これは大仏様の思し召しと捉えさせて頂き、再び胎内へ入れる様にしました。

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胎内には幾つか箱が入れられています。向こうに茶色のものが四個、手前に青いものが一個。
茶色のものはお堂が再建された時入れられたもので、青いものは私が最近置いたものです。
子ども達が遊んでいた頃は、中には何も無く、下は土の状態でした。

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左から三つの箱は観音経を書いた小石が入っています。
元々宝暦九年(1759)に佐吉翁が観音経を書いて入れられた事に習って、新たに書いて入れたものです。
これこそ佐吉大仏の中心部分と言って良く、観音経の精神が今の言葉で言えば佐吉大仏のアイデンティティであると思います。
佐吉翁直筆のものは殆ど散逸し、羽島市歴史民俗資料館に三個、大仏寺に五個あるだけです。
以下の写真は大仏寺保管のものです。

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左上から「有」、「佛」、「菩」(菩薩の菩)、下に来て「不」、「音」(観世音菩薩の音)

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胎内の右側にある二つですが、茶色の方はお堂を建てた時に寄付して頂いた方の名前を書いた奉加帳です。青い方は、大仏寺に来られて記帳された方の用紙を最終的に大仏の胎内に納めさせて頂く事に致しました。
記帳ノートには子ども達にも自由に書いて頂いております。
中にはトンデモナイものもありますが、思いの籠められたものが多く、私だけ見て納めてしまうのは勿体ありませんので、名前が分からないものを幾つか選びまして、今後順次ご紹介したいと思います。
最後に記帳ノートを一ページ開いて、その写真をご紹介します。

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本当に多くの方のお志でお堂も再建でき、お陰様で佐吉大仏を風雨から護ることが出来る様になりました。
江戸時代と変わらない瑞々しい状態です。皆様方のご参詣をお待ち申し上げます。

佐吉大仏 ご紹介(1)

今回は佐吉大仏紹介の第一回として、写真を中心に短い説明を加えていきますので、よろしくお願いします。

① 仏像の種類と高さ 建立者 建立意図 建立年月日

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  佐吉大仏は「丈六青銅製」の「釈迦如来座像」です。かつては美濃聖人と讃えられた永田佐吉(1701~1789)によって、「仏恩報謝」(仏教の開祖であるお釈迦様への感謝)のために、宝暦九年(1759)に建立されました。
高さは石の台座を含めて五メートル弱、膝から上の仏像部分だけですとその半分になります。

② 丈六(じょうろく)とは?
丈六とは約4.8メートルで、仏像を考える時最も重要な長さの単位です。
仏教は元々は何も無い所でお経を唱えていましたが、やがて開祖であるお釈迦様の像を造り、その像の前でお経を唱えるようになりました。これが仏像の始まりです。これが日本に伝わります。
人物像を例に考えると分かりますように、生きたままの姿である等身大が一番気持ちが伝わります。それでお釈迦様はさすがに開祖ですから思いが大きくふくらみ、お釈迦様の身長を丈六と定めたのです。座像の場合はその半分です。

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佐吉大仏は丈六仏ですから、日本人が心に描いた【等身大のお釈迦様の覚りの姿】を表しています。又、組んでいる足を伸ばすと丁度丈六になるように台座を調整しています。
佐吉大仏は大仏でなく、本尊として一番普通の大きさの釈迦像として建立されましたが、いつしかそのどっしりとした量感から自然発生的に大仏と呼ばれるようになりました。


③ 表情に伝わる思い

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昔から決められた大仏の定義は、丈六(座像約2.4メートル)を基準に、これを超えた如来像(釈迦如来・阿弥陀如来・・)を大仏と称しました。観音像や仁王様は幾ら大きくても大仏とは言いません。
しかし、江戸時代からは「丈六・青銅製・如来座像・露座の四条件」を満たしたものを大仏と称する事が多くなりました。佐吉大仏は最初から総けやきの本堂に鎮座していますので、「露座」の条件に合っていません。
佐吉大仏は多くの大仏のように目を開けて、下を見下ろしてはいません。
写真でお分かりのように、真っ直ぐと正面を向いた半眼覚りの表情です。
その柔和な表情の中に建立者永田佐吉の慈悲の精神がよく感じられて、思わず合掌せずにはおられない、それが佐吉大仏です。
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