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北のひめゆり 樺太の戦闘と氷雪の門
hyosetsunomon

「国内最後の地上戦」
「北のひめゆり」
-樺太の戦闘と「氷雪の門」
北海道の北端、宗谷海峡をはさんで樺太の対岸に
位置する稚内市。
その西側の小高い丘陵に、
稚内公園という広大な公園がある。

別名を
「望郷の丘」
と呼ばれている。

丘の北端には
高さ8mの2つの白い塔とその間に高さ2.4mの
乙女の像がある。 
これが世に名高い「氷雪の門」
日露戦争の勝利による明治38(1905)年のポーツマス条約で、
日本領となった樺太(現在のサハリン)
には、炭鉱やパルプ工場などで働く多くの日本人が住んでいた。
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここに帰った。
戦後はその門も堅く鎖された。
それから18年。
(昭和38年建立)、
碑文には

望郷の念やみがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を
慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に・・・
とある。

当然のように行き来していた門は、突然封鎖された。
この立派で大きな「氷雪の門」の傍らに、
小さな石碑がある。
「九人の乙女の碑」
昭和20年8月20日、
樺太の真岡電話局で、9名の若い女性電話交換手が、
迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうし、
ついに青酸カリで自決した事実を知らせる慰霊碑
である。
現在の碑文には

戦いは終わった。
それから五日後
昭和二十年八月二十日ソ連軍が
樺太(サハリン)真岡に
上陸を開始しようとして
民間人を守るべく残留していた
大日本帝国軍との間に突如戦いが始まった。
戦場と化した真岡の町、
その中で交換台に向った
九人の乙女らは死を以って己の職場を
守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂
刻々迫る身の危険
“今はこれまで。”
と死の交換台に向かい
「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
の言葉を残して静かに青酸カリを呷り
夢多き若き尊き花の命を自ら絶ち職に殉じた。
戦争は再び繰り返すまじ。
平和の祈りをこめ尊
き九人の乙女の霊を慰む。

しかし、
かつての碑文は下記のようなもの。

昭和二十年八月二十日
日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する
九人の乙女は青酸苛里を渡され
最後の交換台に向かった。
ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまま
青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼって
キイを叩き
「皆さんさようなら。これが最後です。」
の言葉を残し夢多き若い命を絶った。

戦争は二度と繰り返すまじ
平和の祈りをこめて
ここに九人の乙女の霊を慰む。

事実ははどうだったのだろう。
事実はひとつであるべきで
それを政争の具にするべきではない。

一見してわかるように、純粋な「使命感」から
職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした
彼女たちの死の真実を歪曲し
「天皇制は悪であり悪い天皇の軍隊の命でやむなく
自決に追い込まれた。」

と言うかのように事実を歪曲して伝えることが行われていた。
戦後の
歪んだ価値観は事実を曲げたばかりか
純粋な乙女の行動を冒瀆(冒涜の「涜」は正しい文字
ではない俗字。さんずい+賣が正しい)
して恥じない人々を生み出したのである。
それこそ
当時で言う「国賊」である
kitanohimeyuri

(↑写真)は北のひめゆりたち。

さてまだ続きますよ。

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