2017年10月22日
地形で歴史はすべて説明できる!?
地形で歴史はすべて説明できる!?
2014-01-1722歳自営業のブログ
今日は歴史の話をしてみようと思います。
私達が小さい頃から学校の先生に教えてもらってきた歴史はすべて文系のしてんから描かれているものです。
今日は歴史の話をしてみようと思います。
例えば信長の比叡山焼き討ちの理由は諸説あります。一般的に知られてるのは
- 戒律を守らず武装していた僧侶を成敗した。
- キリスト教を世に広めるため仏教の弾圧を行う必要があった。 などです。
しかしこのぐらいの理由で日本のトップの寺院を焼き討ちするでしょうか。
他にはなぜ桓武天皇は都を奈良から京都の方に移さなければならなかったのか。
学校で教えてもらうのは
- 奈良の仏教勢力と決別するため。
- 奈良の怨霊が怖くて京都に都をうつした などです。
これらはすべて文系の歴史学者が人文地理学の観点から編み出した研究結果です。
つまりは社会情勢、経済、人間模様から結論づけたものです。
しかしこれら日本の歴史を理系の観点から謎解きをおこなってみると非常におもしろいことが起きるのです。理系の観点とは地形、気象、インフラの面のことです。
いままで教えてもらってきた歴史のあいまいな答えが地形の観点から読みとくとすべて謎が解けてしまうのです。
まず信長の比叡山焼き討ちです。
比叡山というのは私も行ったことがあるのですが京都の北東の方角にあります。
北東の方角とは古来より鬼門と言われています。鬼や龍の通り道だという言い伝えがあります。これは中国の思想からきています。
京都がわからない都内の人は東京を思い浮かべてください。
皇居からみて北東の方角には大寺院がふたつありますよね。浅草の浅草寺と上野の寛永寺です。ここは東京の鬼門をこの二つの大寺院に守らせています。
また裏鬼門である南西の方角には芝の増上寺が配置してあります。
徳川幕府の江戸の街設計は見事なものです。
話はそれましたが京都という土地は知っての通り盆地です。周囲を山で囲まれており、京都に東から攻め込むには「逢坂」というせまい道を通らねばなりません。
現在でもこの比叡山の真下の逢坂という通り道は主要な幹線道路がしいてあります。
それだけここの逢坂という土地は東から京都の入るのに重要であり、また通らなければならない道です。ここの真上には比叡山延暦寺がありこの逢坂の狭い土地をくぐるのにはたとえ大軍であっても横に細くのびきり、横腹をつかれたら大将は首を取られてしまいます。
あの有名な桶狭間の戦いのように。信長はこの逢坂と比叡山の僧兵集団の位置関係が嫌でしょうがなかったのです。かつて3000の味方で3万の今川軍を破ったときのようになるのが信長は怖かったのです。
信長に拠点は安土です。帝のいるところは京都です。これから先、天下に号令をかけるなら何度も通らないといけない逢坂です。
さてどうしよう。比叡山の僧兵軍団。 「うんそうだ。首を取られる前にこちらから焼き払ってしまおう」 信長はやられる前にやりました。
これが比叡山の焼き討ちを地形の観点から説明したものです。
これは一例にすぎませんがこの本はとても面白いです
このほかにも
- 頼朝はなんで鎌倉に幕府をつくったのか
- 東京は昔、大湿地帯で すめるところではなかった。
- 桓武天皇遷都の謎
- 奈良はなぜ歴史の表舞台から遠ざかってしまったか
- 吉原移転の謎
これらの歴史の教科書では書いていないことを数字やデータ、グラフによってしっかりと説明してあり、説得力のある本に仕上がっています。
今までにない独自の視点から書いてあり、ページをめくるのがとまるません。
やはりいつの時代も歴史や技術を塗り替えてきたのは理系の人たちだと痛感します。
また都市の栄枯盛衰の理由も明確に記してあるので現代にも通じるものとなっています。
道路や電車など「交流軸」のない文明は衰退します。
いい言葉だと思います。