2007年12月

2007年12月31日

厳寒の成田山初詣、新車の中は氷




昭和40年。


私は写生に大きめなキャンバスを積める

トヨタ・コロナ1200CCのバンを

千葉県市川市内のディーラーで

新車を570,000円で購入した。



当時は暖房ヒーターやラジオはオプションで

現在の車には初めから取り付けられている様な

内装品も全てオプションだから一つ一つ注文しなければ

何も付いて居なかった。


後で後悔することに成るとは知らずに

オプションは何も要らないと云って納車してもらった。


若い私はラジオはポータブルラジオ、

寒かったら厚着すれば事は足りると思っていた。



その年12月31日、

新婚歩や穂やだったが私達の処へ

夕方、義兄が遊びに来た。

飲み食いしている間に夜の10時を廻った。

此れから成田山へ初詣に行こうと話が決まり

3人で暖房無しのコロナで当時住んでいた

市川市の自宅を出発した。


暫らくは別に寒いなんて想わずに快調に大晦日の夜の

ドライブを楽しんでいたのだが国道51号を佐倉の街を

過ぎた頃から段々に渋滞が始まり、酒々井辺りから

完全に渋滞に巻き込まれてしまった。


ノロノロ動いては又止まり、マニュアルミッションだから

両足と左手だけは忙しい。

並木の交差点辺りでもう新年に成った様だった。


車には時計等付いては居ないからはっきりは覚えていない。


段々と車内は寒さを超えて冷たく成りだした。

フロントガラスの内側は人の息がカチカチに凍って

タオルで拭いても凍り付いた水滴には只つるつると

空しくタオルが滑るだけだ。

息など吹き付けても白くなり直ぐに凍ってしまった。


前が全く見えないので12−3センチ四方位をライターの火で

やっと氷を溶かし、危ない運転でどうにか成田市役所近くの

駐車場に車を止められた。


その頃には午前2時を過ぎていた。

余りの時間と寒さの為、車から降りた3人は

口もきかずに只黙々と成田山の本堂に向って

人混みの中に歩いた。



帰りは初日の出を車窓から観る事が出来た。

眩しかったが気持ちは晴々と

肉体には若き血が溢れてきそうな

元旦であった。



厳寒の初詣、過ぎた日に思い出せば

何と楽しい若き時代の出来事だ。





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2007年12月30日

いすゞ・フローリアン1600cc




昭和42年。


発売間が無い、「いすゞフローリアン」

千葉市の京葉いすゞでフル装備の新車を購入した。


偶然に住まいが同じ町の営業課長がいて

何かと便宜をはかって頂いた。

誰よりも早く納車したとの話だった。



今から40年も前の車だが、ゆっくりと寛げる乗り心地で

運転席からの視界も良く、安全に運転が出来た。


メカはマニュアルミッションのギヤ比と、エンジンの回転トルクの

相性に癖が無く、神経を苛立たす事無く気持ち良く

スポーティーにもドライビングを楽しめた思い出が在る。


ただイタリア人デザインのボディは見る人により

好き嫌いがはっきりしたが私は好きだった。


納車されてから一ヵ月位からミッションやフロント周りの故障や

強度不足による補強が何回か有った。

ここいらが大型車専門メーカーの落とし穴なのかな。

後は調子が良かった。


この車で神奈川県の戸塚辺りまで仕事を兼ね

二週間余り自宅から通った。


ワンマン道路等、帰路走りながら自然にフランク永井の

「夜霧の第二国道」(S32ハツバイ)や、

公園通りで銀杏の枯葉を観ては、「公園の手品師」等を

ハンドルを握りながら一人唄ったりした。



快い記憶がのこる愛車だった。

また時がたって、(いすゞさん)

楽しい乗用車発売して呉れないかな。


其の頃には天のカッパで夜空で逆立ちしてたりして。





新聞広告でたどる60〜70年代の日本車




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2007年12月29日

懐かしい三ッ葉葵の殿様




週間新潮・新年特大号68ページ

掲載されている小さな写真を偶然目にした。



うぁぁぁぁぁぁー、「松平龍門さんだ」。


十数年前、京成電鉄津田沼駅近くの画廊で初めてお会いした。

ある地方の殿様の紹介だった。


仲の良い殿様の紹介だったのか僅かな時間で親しくなった。

殿様は個展の準備をしている最中だったが

台の上に置いて有った日本酒の一升ビンから

コップに溢れる程に酒を注ぎ、

「どうぞ」とすすめられた。



周りの作品や雰囲気から城中みたいだ。

殿様二人を前にチョット水戸黄門のテレビを

思い出して一人可笑しかった。



翌日、個展のオープングパーティーに招待された。

パーティーにはそれなりのお祝いを用意して息子と出席した。

パーティー前に奥様とお嬢さんも紹介された。



さすが松平龍門さんの奥様、上様の御方様だ。

美しい容姿をなさった方だった。

お嬢さんはしっかりした顔立ちで清々しい感じだ。



さてパーティーが始まった。

その頃は松平さんは画家でも有り、歌手でも有るらしく

カセットテープも出していた。


驚いたのは龍門さんの唄う歌詞は石見浜田のことだが

曲がまるで軍歌だ。

その軍歌っぽい曲に合わせて名高い踊り手さん

フラメンコを披露した。


本場仕込みの踊り手さん、やっぱり曲にフラメンコの

振りを付けるのには苦労したと、祝いのアルコールで

ホットしたのか私の耳元で囁いた。


殿様だから成せる業かなと不思議な踊りに酔っ払った。


私の個展のパーティーにもお嬢さんとおいで頂いた。

親子であの歌を唄って頂けば良かったのかな?



その後、平民の私は自分の仕事が忙しく成り

アトリエでの生活が増え、お城遊びも

ご無沙汰してしまった。


懐かしい顔は今でも立派な顔だ。


経済的には大変かも、

だが殿様は殿様らしく家来に良きに計らえ。


夫婦の事は解らないけれど、別れた御方様は

「きっと何処かで松平のお殿様を見守っている」、と信じて

ペンを置きます。


kappa_gallery at 01:27|Permalink日々の出来事 

2007年12月28日

家族で作った正月料理




昭和三十年代、

まだ街にはスーパーマーケットの影も無かった。


その代わり千葉市にはこの時期、おせち料理を扱う

専門店があった。

僕の家でも難しい伊達巻等は千葉の店まで

母が買い出しに行った。


冬休みに入ると母は買い物に忙しくなる。

僕の担当は七輪に炭火を熾すこと、昆布巻を巻く、

金平ごぼうの人参とゴボウを刻む、の三つの仕事だ。

大根や煮豆、数の子等は姉が、味付けは母だ。


何時の年からか年末の家族の行事に成った。


兄も築地の市場関連店から昆布巻用の磨き鰊や

生魚類を吟味して買って来るのが毎年の恒例だった。


家族の誰か一人でも体調が悪ければ楽しみな正月料理造りに

支障が出るので風邪等はひかないない様に皆気を付ける。


そんな意味では年末行事としてはよかった。


両親が新年を家族みんなで元気に祝える様に

子供達へのメッセージだったのだろか。


僕の作る昆布巻は長さがまちまちだ。

昆布の幅が違うから長さ等は揃えなかった。

昆布巻の好きな人は大きめなやつ、好きでない人は

小振りなやつ、大好きな僕は特大を頬張ると

食べた気がして満足感も一緒に味わえる。


ゴボウや人参はなるべく太さを揃えた。

味も均一に成るし、見たくれもありだ。



近年はスーパーに行くだけで殆ど揃ってしまう。

僕が遣っていた事など馬鹿らしく思う子供が

大勢を占めるだろう。

いや、思ったりもしない。



何かを父と子で作り結果を楽しむことは

悪いことでは無いな。



子供の目は母親を視てばかり、

父親は何だろうなんて思っていたりして。





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2007年12月27日

四街道市美術協会



十年ひと昔、と言われるが

私も四街道市美術協会で

理事を十年やった。


その内の四年間は事務局長補佐、

あとの四年は事務局長を押しつけられた。


今年で理事を辞めて平会員で

のんびりと制作に取り組もうかな。



政治や権力には全く無縁なカッパの世界で

絵を描く事だけに専念する「絵馬鹿男」が良いな・・・・。


そうだ今度、「仮称、日本カッパ・ファン・クラブ 」を創立しよう。

政治色、宗教色、無色で有るべし。

会員の利点は唯一つ、私のブログで最新作を観るだけです。


世の中にカッパの会員になる人、居ないな、

それでも新年からは元気ハツラツ、やるカッパ。

タマニあま酒、生酒が飲めたりして。

kappa_gallery at 16:04|Permalink日々の出来事 

屑屋で3000円 マツダクーぺ




今から40年位前の噺。


昔はクルマの修理と云えば解体屋へ

行く事から始まった。


屑屋で友達と見つけたマツダ・R360CCクーペ

その空冷エンジンやシャーシに手を入れる毎に

素晴らしい走りに変豹した。


車体は新車時は薄い黄色だった様だ。

大分、風雨に曝された為か色が抜け、白い砂の様に変色していた。

内装は外観とは違い綺麗だった。

但し、車の特に助手席の床は鉄板が腐り、地面が良く見えた。


私の友達は板金塗装や旧式な自動車の部品を集める

変わった趣味があった。

彼の集めたパーツの中にはR360クーペの部品も色々有ったので

私がアトリエに借りてあった倉庫が整備工場に一時的になった。


余り倉庫で車いじりしていると大家さんに怒られる。

車好きな私を知っている大家さんは遊んで居ないで絵を描け、

絵を描けと言っている頑固親父だったからだ。


昨今は他人の事に口出す人も少なくなった様だが大正生まれの

真直ぐな気性で頑固な人の好い私の理解者でも有ったが

それから2年程経った落ち葉が舞う日に持病が悪化して、

あの何処までも深い青空のどこかに誰かに文句でも言いに

旅達ってしまった。


今でも、その地には倉庫だけが落ち葉の中に大きな口を開けて

頑固親父の帰りを待つかの如く建っていた。


にわか自動車整備工場では、早速、車をばらばらに分解した。

自動車修理工場に勤めてる人が日曜日に朝早くから

遊びに寄ったのがその人の運の尽きだった。

夕方遅く迄エンジンの修理をする 事に成ってしまった。

顔だけ見せて帰るつもりだったその人もチョット手を出したら

最後まで止められ無くなった。


好きで遣ってる仕事なんてこんなものと、油だらけの手を振って

急いで暗く成った路を帰っていった。


その日から一ヵ月程で取り敢えず整備完了とした。

白いボディーに黄色な屋根は目玉焼きを連想させる。

マツダR360クーペが目玉焼き号に変身した。


塗装は私が受け持った。

吹き付け塗装に必要なコンプレッサーは親戚の鉄工所で借りて

吹き付け塗装の作業場迄提供してもらった。

塗料は都内下町の板金屋さんに車一台分を調合して戴いたのだが

吹き付けの途中で足らなく成りそうになった。

それでツートンカラーとなった。


運転席でエンジン鍵を回すと「カタ、カタ」と

セルモーターが回り、バッテリーが駄目に成る間際に

空冷エンジンは微かな青い煙を排気音と共に吹き上げた。


私は車外でそれを見て思わず手を叩いた。


早速助手席に乗り込んで国道16号と交差する長沼交差点を

船橋方面に向かい大神宮下まで試運転に出掛けた。

処がまだ穴の開いた助手席の床は治して無かったので

運転している友達が調子にのってスピードを上げると

足が道路にオッコチルのではないかと、スリル満点過ぎて

冷や汗をかいた。


無事、大神宮下の交差点まで着いたので帰り道は私が運転を代わり

当時はまだ海辺の千葉街道、国道14号を稲毛まで帰って来たが

ブレーキの具合が悪くなり畑の中の細道をゆっくり走り

長沼原の俄か整備工場まで辿り着いた。


治しては走り、また修理しては走行して楽しんでいたが

ある時、友達が新しい恋人と肌寒い春の日曜日、

仲良く、狭苦しい座席に二人で乗り込んで大原の植物園まで

ドライブに出掛けた。

帰りが遅いのでほんの少しだけ心配もしたが偶々飲みに行く

居酒屋の女将が野暮な心配だよと、わたしに云ったが

何故かやっぱり少し心配だった。


翌日、午前10時頃にアトリエの倉庫に行ったら

もう友達が愛称目玉焼き号のリヤのエンジンルームを

覗き込みながらキャブレターを分解していた。


大原でエンジンが不調に成ったので

知り合いのダットサントラックで牽引してもらい、

今朝早く倉庫前に帰って来たとのことだ。


昨夜の事は?野暮だから止めにした。


色々な思い出を何人かの青年に与えた目玉焼き号も

段々とその修理も難しくなりアトリエの横で

落ち葉に埋もれながら朽ち果てた。




現在、保存を望んでいる検見川送信所も

今頃は落ち葉に埋もれながら誰かが

春を持って来てくれる事を信じて

待っているのだろうな。






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2007年12月26日

絵の具屋の社長さん




私には晦日になると思い出す、

気短な絵の具屋の親父さんを・・・・


大晦日迄、一週間足らずになった。

今年最後の画材を都内の和紙専門店へ取りに

午後から車で出掛けた。


新年から成田門前画廊で展示する色紙だ。

河童を描くのに相性が良い色紙を取り寄せたのだが

製造元でも在庫が無くて今日に成った。



私が若い時から出入りしていた画材店を年末に成ると

此処何年か、必ず思い出す。

セッカチだが良い親父だった。

一ヵ月分の支払いを月末の夕方に持って行くと

必ず仕事着から背広にネクタイを締めて待っていた。

愛想は無いが実が有った。


その頃は大作の油絵を何点も制作していたから支払い金額も

数十万を下ることは無かったが、私が店長と支払いの

事務処理が終わるのを待ちかねた様に、私と店長に

「中華食べに行きましょう」と誘って呉れた。


親父さんの馴染みな近所の中華屋で三人それぞれ

自分が好きなものを食べながら談笑した。

また入手困難な外国製画材も、そんなときに探して呉れないかと

頼んだりもした。


引き受けたものは何処からか必ず探してくれる人だった。

数年前のある日、突然断りもなく天国へミサイルで捜し物に去き

何百年か経たないと地球に帰らないとさ。

その頃は私も又カッパの皿に載って地球に戻った方が良いかな。


まだまだ考える時間はたっぷり有る。

どうかな、クリスマスだからマリヤ様に聞いてみようかな。


やっぱり僕は河童に聞こう。


kappa_gallery at 19:26|Permalink日々の出来事 

今日の色紙一枚



12月26日の色紙



kappa_gallery at 16:49|Permalinkかっぱの絵・色紙 

アイスキャンデーは夏の呼び声




現在は11月に成ると灯油売りの呼び声に

曳かれるように寒い日々が遣ってくる。

拡声器の声に、ある記憶を思い出した。




昭和20年代末までは黒い自転車の荷台に

四角い木製の箱を積んで水色の布地にアイスキャンデーと

白抜きのノボリを立てて、アイスキャンデー売りの

木の柄がついた大きなベルがカランコロンと聞こえ出すと

暑い夏が近時か遣って来る。


アイスキャンデーは、あずき、メロン、いちご、ミルク等の

種類が有った。


当時は殆どのアイスキャンデーは人工着色と

化学甘味料だからダラダラと夏の暑さで

食べている処から溶けて手に付いたりするが

砂糖でないからベタベタしない利点もあった。


中には着色した色が口やシャツを染める事さえ有った。


僕は敗戦後の売り始めの頃は、買って食べたりすると

両親にお腹を壊すと困ると注意されていたが

旧農林省に勤務していた次男の兄が夏休みに千葉の海へ

僕を初めて連れて行ってくれた。その途中で栄町通りの

アイスキャンデーを製造販売しているお店で兄が

大皿に山盛りにした色々な種類のアイスキャンデーを

慢ってくれた。


何本も喉が乾いて居たので、頬張るように食べた。

だが腹など壊れず食欲さえ増した。


其のことを聞いてからは、近所の人が遊びに来ている時などに

見るからに涼しげなノボリを立てたアイスキャンデー屋が

ベルを鳴らしながら、黒い自転車に水色に塗った四角な木箱を

積んで売りに来ると20本、30本と買っては皆で食べたが

誰もがお腹等壊しはしなかった。


アイスキャンデーは食べるのにコツがある。

焼き鳥の串を食べる様に無造作に食べるもんなら

約三分の二は棒から欠け外れ落ちて、

地面や床に食べさせてしまう事になる。


コツとは経験と余りお行儀良く食べないことである。

私にはこの季節灯油売りの拡声器の声の中に

遠い子供の頃のアイスキャンデー売りのベルの音が交差する。


kappa_gallery at 01:22|Permalink昭和の風景 

2007年12月25日

押入れのワイン




コレクションのワインは押入の中に

詰め込まれていた。



私の親父は洋酒が大好きだった。

当時、和室8畳間の書院には何十本もの舶来の

スコッチウイスキーが並べられていて書院の底が

抜ける騒ぎまであった。


父は子供の僕にスコッチ・ウイスキーの産地だの

銘柄や香り、味の薀蓄を話て呉れたが

60年近く前の記憶を辿っても思い出せない。


その時はスコッチのビンの形や色にしか関心がなかったから

今に成ると銘柄を思い出せなく残念だ。

若い時は私は酒自体を自分から好んで飲むことは無かった。

誘われて仕方なく飲んでいたから全く酔っ払いの気持ち等、

理解出来る筈も無かった。


また、ブランデーを友達と二人で二本半、新宿の京王プラザの

レストランで飲んだが然程酔いもせず電車で家まで帰って来た。

友達は飛鳥山の自宅に帰る途中に酔いが頂点に達したのか

目が覚めたら警察の虎箱だったと何年か後に成ってから聞いた。



親父が僕に自慢していたワインや洋酒は

太平洋戦争前に買い集めたものだった。


僕が子供の頃は敗戦、間が無いからワインや舶来のウイスキーは

多分、上野のアメ横にでも行かなければ手に入らなかったようだった。

僕が見たワインのラベルは剥がれていたりボロボロになっていた。


戦争中は親父の大事なワイン、庭に作った防空壕の奥に

仕舞い込んだから湿気でラベルが駄目に成ったのだろう。


その後は北側の押入の涼しい所に仕舞い、大事なお客さんや

親父の親友が来ると押入や書院から出しては飲んでいた様だったが

何年、いや三十年近くも親父の目から隠れて熟成していたのが

二本有った。


それは父が70才のお祝いをする数日前に家の大掃除をした。


久し振りなので普段は開けない北側に有った押入も序でにと

私が押入の桑折(昔の衣装ケース)や段ボールだのかたずけていたら 

桑折の奥からワインが出てきた。

それには家族で未だ昔のが残って居たとビックリした。


そのワインはラベルも無く成っていたが父の70才のお祝いの日に

皆で乾杯した。

コクがあり香りも豊に 美味かった。


残りの一本は6年経った母の70才の祝いの日に家族で乾杯したが

味は全く変ってはいなかった。


未だ棚の隅にでも有ったら飲みたい、なんて欲を出したりして・・・

母に怒られた。



何時に成っても親は恐く有ってくれと思ったりして

母の顔の皺を数えようとした。





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kappa_gallery at 01:27|Permalink昭和の風景