アニマルの徒然

京都を中心に歴史を見つめてみたいと思います

2011年03月

粟田神社

東山区の蹴上げにある神社です

この粟田口といいます

粟田口とは京の七口のひとつです
七口とは京の出入り口を表す言葉です

豊臣秀吉が実権を握ると京を大改造しました
それまでは京は風水と呪術によって守護されてきましたが、それを御土居という土塁を築くことによって、構造的に守る方法を取りました
その御土居の切れ目の関所のあるところが七口になります

江戸の見付と同様です

七口には、鞍馬口、大原口、荒神口、粟田口、伏見口、竹田口、東寺口、丹波口、長坂口があります
七つ以上あるではないかと、お気づきだと思いますが、実際のところこの中のどれが七口に含まれているのかわかっていないのが実情です

筆者は長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、丹波口、荒神口の六口と、伏見口、竹田口、東寺口はひとまとめになって一口と呼ばれていたのではないかと考えています

理由としては、伏見口、竹田口、東寺口は伏見城に続く道であり、伏見城は東西の水路と街道の要として作られた城なので、この三口は同様の役目をしていたのではないかと思われるからです

粟田神社は神幸祭が行われる神社です
粟田祭りと呼ばれています
20101008152652awata


神幸祭とは依り代を立てて練り歩く祭りのことで、粟田祭りは祇園祭の原型ではないかといわれています

御祭神は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)、八大王子命(ハチダイオオジノミコト)(前回出てきた八王子です)、櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)、神大市比賣命(カムオオイチヒメノミコト)、佐須良比賣命(サスラヒメノミコト)で全ての神が鬼であり、そして産鉄に関与した神です

このことからもこの周辺の地は産鉄が行われてのではないかと推測されます

雛祭り

流し雛は和歌山市にある淡島神社が発祥の地であるといわれています
800px-Kada_Awashima_shrine

淡島神社の御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこ)です

古事記では、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加したと書かれています

少彦名神は、海の向こうの常世の国から光り輝きながらやってきた小人神であるともいわれており、非常に小さな神であったようです

現在の淡島神社は人形供養の神社として有名で、全国から毎年供養を目的とした人形が集まってきます
800px-淡島神社人形_203

また針供養としての神社でもあります
この針というものが深い意味があり、針は産鉄民族を表しているといわれています

雛流しという儀式も産鉄民族と深い関わりがあったのかもしれません

雛流しというものは、穢れを人形に託して海に流すという儀式です

補陀落渡海と同じように、本来は人形ではなく人間を流していたと推測できます

少彦名神も最期は海を渡ります

少彦名神が日本で最初の雛流しであったのかもしれません



雛祭り

三月三日、女の子の節句ですね

三が「み」ということで、巳すなわち蛇を表します
蛇を祓う日ということで、巳の日の祓(みのひのはらえ)と呼ばれていました

また、桃の節句ともいわれています

古事記には、桃は伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が黄泉比良坂(よもつひらさか)にて桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたもので、伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたと記述されています

これだけを読むと桃は神聖な邪気祓いの果物ということになりますが、黄泉比良坂(よもつひらさか)という場所は黄泉の国にあります

すなわち、桃は黄泉の国の食べ物ということになります

百と書いて「もも」と読みますよね
百は一の下に白と書きます
白は髑髏を表す文字です
このことからも桃という文字は決して縁起が良いものではないということがわかります

巳の日の祓(みのひのはらえ)を大辞泉で調べると

陰暦3月上の巳の日に、人形(ひとがた)に身のけがれなどを移して川や海に流し捨てた行事。上巳(じょうし)の祓。その名残が流し雛(びな)にみられる。みのひのはらい。《季 春》

と書かれています

京都の下賀茂神社では、毎年三月三日に流し雛の行事があります
001

さんだわらに乗せたひな人形をみたらし川に流し、子供たちの無病息災を祈る神事で、もともとケガレを雛に託して祓う神事であった流し雛の風習は、現在でも地方に残っているところもあります
流し雛に使用される人形は簡素なものが多く、通常は色紙などを使って作られた雛人形が用いられているそうです

雛祭りの原型が流し雛、すなわち雛流しであり、この行事は決して縁起の良いものではなく、黄泉の国と関わる儀式であるということがわかります

続く


吉田神社 其の三

京都に神として復活の呪術を施した豊臣秀吉
そして、その呪術は吉田神社の神主、吉田兼見が秘密裏に行いました

しかし、その呪術は徳川家康に知られることとなります
その呪術を知らせた人物が 吉田兼見の弟 神龍院 梵舜(しんりゅういん ぼんしゅん)であったのです

神龍院 梵舜は吉田兼見の二つ違いの弟でした
吉田家の次男は氏寺である神龍院に入ることが習わしであったため、梵舜も神流院の住職となりました
そしてその後は神龍院を名乗っています

神龍院 梵舜は兄と共に、豊臣秀吉の復活のシナリオを尽力してきました
そして、その呪術の全てを知る立場にありました

豊臣秀吉の死後、神龍院 梵舜は徳川家康に引き抜かれます
徳川家康の3人のブレーンの一人となります
3人のブレーンとは神龍院 梵舜、金地院崇伝そして南光坊天海です

吉田神道を広めていきたい神龍院 梵舜を上手く利用したのが徳川家康であったのです

徳川家康は神龍院 梵舜より、豊臣大明神の復活のシナリオを聞き出しました

そして、その呪術を破壊するべき行動を取りました

これが東本願寺の復活、智積院、新日吉神社です

徳川家康は豊臣大明神の復活のラインをこれらを建てることで完全に分断しました

なぜこれが分断なのかと もうひとつピンとこないかもしれませんが、風水権という言葉は聞いたことがあるかもしれません

風水の気脈に対する権利です
日本ではあまり言われませんが、韓国や中国ではごく一般的な権利です
気脈を分断されることに対しての権利になります

これと同じようにわざわざライン上に東本願寺を建てることによって、豊臣大明神の気脈を分断したのです

神龍院 梵舜にとっては、兄と共に創った呪術を破壊されることは不本意であったかもしれません

これは徳川家康が一癖もニ癖も上手であったということでしょう

吉田神道はこのあと家康の大名神を画策していきますが、南光坊天海により山王権現が主流を締めていくことになります

もし、神龍院 梵舜が徳川家康に仕えることがなかったとしたら、今の京都はそして日本は大きく変わっていたことでしょう
060127


プロフィール

アニマル

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ