あの日の朝から24年が経った。
24年…信じられない長い時間だ
あの日のことを知らない人がたくさんいること…
あの日のことを伝え、繋いでいくことを懸命に謳ってる人がいること…
私には不思議な気がしてピンとこない。
みんなあの日のことを知ってて
誰が伝えなくとも繋がなくとも痛みを知ってるのが当然と感じてたから。
でも、それは私の中で時間が止まってたということなんでしょう
知らないうちに時間は正確に刻まれ
当時子供だった人は大人になり、30代の人は50代に、
50代の人は70代に、70代の人は90代に…
中には亡くなられた人もいらっしゃるということであの日を体験した人が
減る一方ということなんですね。
24年ってそういうことなんだ…
しかし、あの日のことは鮮明すぎて色褪せず、私の中では24年前のことではない。

ベッドから振り飛ばされ
目ざめ、夢か現実かわからない気がした。
暗闇の中、目を凝らして見た散乱した部屋。
何が起こったかわからなかった。
足の踏み場もない部屋から窓を開けた時、外が白い煙で覆われてた。
この煙の正体は、周りの家の崩壊で出た土煙だった。

その瞬間には、
既に近くに住む叔母は
家の下敷きになり亡くなってたんですが、私は家族の無事を確認し
叔母の安否を確認する為、
叔母の家に…
途中の道が無くなってた。
瓦礫で道がない…
戦争直後の教科書で見た景色のようだった。5分で行ける叔母宅に30分以上かかり辿り着くが
瓦礫の山で家は無かった。
ここにあったはずの家が…
何もない…
叔母は逃げれたのか?
それともこの下にいるのか?
夕方近く自衛隊の方に叔母を発見してもらい甲南病院に…
死亡確認。
灘高校に遺体安置。

広い広い灘高の体育館の中に安置された叔母。
私は、その時に初めて叔母と対面した。少し鼻血が出てたけど眠ってるように綺麗でした。
毛布に包まったままの状態。
電気、ガス、水道全てのライフラインが止まってるので体育館の中は
日が落ちると真っ暗になり
冷蔵庫の中にいるように寒かった。
体育館と自宅の往復が何度か続いた。
体育館に行くたびに安置された場所に叔母がいない…
次々と運ばれるご遺体が隙間なく詰め込まれていく。
そのためどんどんすし詰め状態になり遺体と遺体の間隔がない。
身元が確認された遺体には名前が胸元に書かれてた。

真っ暗な体育館、
遺体だらけ…
懐中電灯で遺体に書かれた名前を探す…
そんな状態の中でも、
気が張ってたので怖いという感情は全く湧かなかった。
震災5日目、京都まで運び荼毘に伏せた。
その日、叔父も自衛隊の方に発見され御影商業に安置された。
京都に行くのも帰ってくるのも
あの時は1日がかり…
めまぐるしい時間だった…
悲惨としかいいようがない時間を
当時過ごしたが、それを知らない人にどうわかってもらえるのか?
私は本当のところ無理だと思う。
伝える、繋げる姿勢は大切だけど
体験してない人にあの辛さはわからないと思ってしまう。
でも、体験したからこそ次に備えることは教えられると思います。
平凡な毎日が明日も明後日も続くなんて平和ボケしてるとダメなんだということ。
何もないこの日がどれだけありがたく幸せなことなのかということ。
人間は一人では生きれないということ。
現実的な地震の備えももちろんですが、
人間は助け合うことができる生き物です。
優しい気持ちを忘れたらダメなんですよね
私自身、いつも1月17日は自分に対して戒める日でもある
世界中の人が平和で穏やかな生活が送れるように…
そう願います。
24年…信じられない長い時間だ
あの日のことを知らない人がたくさんいること…
あの日のことを伝え、繋いでいくことを懸命に謳ってる人がいること…
私には不思議な気がしてピンとこない。
みんなあの日のことを知ってて
誰が伝えなくとも繋がなくとも痛みを知ってるのが当然と感じてたから。
でも、それは私の中で時間が止まってたということなんでしょう
知らないうちに時間は正確に刻まれ
当時子供だった人は大人になり、30代の人は50代に、
50代の人は70代に、70代の人は90代に…
中には亡くなられた人もいらっしゃるということであの日を体験した人が
減る一方ということなんですね。
24年ってそういうことなんだ…
しかし、あの日のことは鮮明すぎて色褪せず、私の中では24年前のことではない。

ベッドから振り飛ばされ
目ざめ、夢か現実かわからない気がした。
暗闇の中、目を凝らして見た散乱した部屋。
何が起こったかわからなかった。
足の踏み場もない部屋から窓を開けた時、外が白い煙で覆われてた。
この煙の正体は、周りの家の崩壊で出た土煙だった。

その瞬間には、
既に近くに住む叔母は
家の下敷きになり亡くなってたんですが、私は家族の無事を確認し
叔母の安否を確認する為、
叔母の家に…
途中の道が無くなってた。
瓦礫で道がない…
戦争直後の教科書で見た景色のようだった。5分で行ける叔母宅に30分以上かかり辿り着くが
瓦礫の山で家は無かった。
ここにあったはずの家が…
何もない…
叔母は逃げれたのか?
それともこの下にいるのか?
夕方近く自衛隊の方に叔母を発見してもらい甲南病院に…
死亡確認。
灘高校に遺体安置。

広い広い灘高の体育館の中に安置された叔母。
私は、その時に初めて叔母と対面した。少し鼻血が出てたけど眠ってるように綺麗でした。
毛布に包まったままの状態。
電気、ガス、水道全てのライフラインが止まってるので体育館の中は
日が落ちると真っ暗になり
冷蔵庫の中にいるように寒かった。
体育館と自宅の往復が何度か続いた。
体育館に行くたびに安置された場所に叔母がいない…
次々と運ばれるご遺体が隙間なく詰め込まれていく。
そのためどんどんすし詰め状態になり遺体と遺体の間隔がない。
身元が確認された遺体には名前が胸元に書かれてた。

真っ暗な体育館、
遺体だらけ…
懐中電灯で遺体に書かれた名前を探す…
そんな状態の中でも、
気が張ってたので怖いという感情は全く湧かなかった。
震災5日目、京都まで運び荼毘に伏せた。
その日、叔父も自衛隊の方に発見され御影商業に安置された。
京都に行くのも帰ってくるのも
あの時は1日がかり…
めまぐるしい時間だった…
悲惨としかいいようがない時間を
当時過ごしたが、それを知らない人にどうわかってもらえるのか?
私は本当のところ無理だと思う。
伝える、繋げる姿勢は大切だけど
体験してない人にあの辛さはわからないと思ってしまう。
でも、体験したからこそ次に備えることは教えられると思います。
平凡な毎日が明日も明後日も続くなんて平和ボケしてるとダメなんだということ。
何もないこの日がどれだけありがたく幸せなことなのかということ。
人間は一人では生きれないということ。
現実的な地震の備えももちろんですが、
人間は助け合うことができる生き物です。
優しい気持ちを忘れたらダメなんですよね
私自身、いつも1月17日は自分に対して戒める日でもある
世界中の人が平和で穏やかな生活が送れるように…
そう願います。