2010年01月19日
ショートストーリー『靴下を履く勇気』
帰る少し前に降りだした雨はどんどん勢いを増し、もはやスコールのようだった。
今日は晴れるっていってたのに。10%だったのに。ほんと、運が無い。
菜々美は腹の底からため息をついた。
おかげで二回も洗濯機をまわして干しておいた大量の洗濯物が、ぜんぶ台無しになってしまった。
彼氏の洋司は家に着くなり服を脱ぎ捨て、風呂場を占領しやがった。
こういうときはレディファーストなんじゃないの?
10倍くらい重くなった洗濯物をやっと取り込み終わり、一息ついたら、洋司への不満が沸々と湧き上がってきた。
ていうか、うちに来るのもまだ二回目なのに、なんでそんなにアットホームなの!?
怒りの炎が燃え盛る一方、足は逆にじんじんと寒さを訴えかけてきた。
「……凍えてしまうわ」
洗濯物を取り込むとき素足だったものだから、横殴りの雨の直撃を食らっていたのだ。
1月の雨はソリッド感抜群で、無数の針で足の甲やら脛をグサグサ刺されたように感じる。
寒いというより痛い。ひどく。特に指先。
靴下履かなきゃ。
でも、私のは全部雨にやられてしまってる。
それに今日の分の靴下はない。今日はサンダルだったのだ。
洋司とひさびさのデートだったので、おろしたてのを履いて行った。なのに……
洋司のやつ、新しいサンダルにも気付かなかったわね。
菜々美は磨りガラスの向こうで鼻歌を歌いながらシャワーを浴びている洋司の影を恨めしそうにキッと睨んだ。
その瞬間、鼻歌は『サビ』に入った。
最近元気な女の子グループの曲だ。
洋司の影がリズミカルに踊る。
菜々美は力が抜け、太陽を失ったひまわりのように首を垂れた。
項垂れたまま薄目を開けると、視線の先に、黒色の靴下があった。
洋司の、今日履いていたやつだ……!
気付くと同時に足の指がズキンと疼く。
借りちゃおうかしら?
でも、男の靴下ってなんだか汚そう。
水虫だったらいやだし。
それに今日、洋司は皮靴だった。似合っていたからよく覚えている。褒められたら褒め返そうと思ってたから、とてもよく覚えている。
皮靴といえば、蒸れて臭くなるはずだ。
子供のころ、何かの拍子にリーマンだった父の靴下が顔に乗ったことがあり、それ以来あの濃縮還元したカビの匂いはトラウマになっている。
それが私の足に染みついたりしたら……。
しかしこの間も、じりじりと指先は疼き続ける。
みれば、なんだか色が悪い。アメジストドームの真ん中の方の紫に近い。
感覚もあるのかないのかはっきりしない。
このままでは普通に危ないかもしれない……。
背に腹はかえられない、か。
そろそろと手を伸ばす。
しかし葛藤に阻まれて、簡単には手がでない。
『仕方ないわ、このままじゃ凍傷になってしまうもの!』
『だめよ、絶対だめ! あの匂いを忘れたの!?』
『嗅いで、確かめればいいじゃない! 臭くなければいいじゃない!』
『だめよ汚らわしい! あの匂いはイヤ! それに、そんな姿を洋司に見られたら……!』
天使と悪魔が菜々美に訴えかける。
しかしどっちが悪魔でどっちが天使かはわからないし、そもそも天使でも悪魔でもないかもしれない。
ただ着実に菜々美の手は洋司の靴下へ伸びていく。
もう、手が届く。
黒色の靴下はもう目の前だ。
『彼の鼻歌はまだ絶好調、バレっこない、いまならいけるわ!』
『水虫の可能性を考えて! 踏みとどまるのよ菜々美!』
天使と悪魔が言い争う中、不意に、一人の牧師が手をあげ、遠慮がちに口を開いた。
『そういえば、今日の洋司の靴下の色って……灰色じゃなかったですか?』
『?』『?』
指がふれた。
ひやりとした。
人差し指と親指で、ツイとつまむ。
水気が溢れる。
持ちあげると、ずっしり重い。
「……びしょ濡れじゃない!」
「あん?」
ほんとは灰色の靴下を、風呂場の磨りガラスに向かって、思い切りブン投げた。
ベチッと張り付き、音無く垂れた。


