さて、年末年始ということで時間もできたので
以前から幾つも質問をいただいていた私自身のオタク的中国生活について一つ。
私は中学から十数年中国の北京におりまして、基本的に現地の学校に通い現地の大学を卒業しています。
そんな生活の中で何時の間にやらオタクになってしまったのですが、その生活がどんな感じだったのかを、私のうろ覚えな記憶と体験、そして独断と偏見に基づきちょいと書いてみます。
グダグダと長くなるかと思いますが、もしよろしければお付き合いください。
まず、私がなぜ現地校に通う事になったかと言いますと、
私の親が、外国にいるんだから
「日本人学校に行くのはもったいない」
とかなんとかで私を現地校に放り込んだからだったりします。
現地校に通う為の準備についてはほとんど無いに等しかったですね。
言葉なんかも子供だからそのうち覚えるだろうという感じでした。
私の親だけあって、私と同じようにイイカゲンなのがなんとも……
おかげで、行った当初は
「你好」(ニーハオ)「再見」(ザイジェン)「謝謝」(シエシエ)
の3つ以外中国語を知らない状態でした。
それに加えて当時は日本で言えば終戦50周年ですが、
中国から見れば抗日戦争勝利50周年にかぶっておりまして……
いや、もう、愛国主義教育が燃え上がっちゃってタイヘンでした。
日本でもガイジンの子供がいじめられるケースは少なくないと思いますが、
私の場合は歴史上の悪役、伝説の悪者である
「日本人」
が目の前に現れたわけですからこれはもういじめられない方がおかしいですね、はい。
そんな訳で、望む望まないに関わらず日本人と言う「記号」となってしまった私は
かーなり苦しい中学生活を送る事に……
中学(中国で言えば初中ですね)時代、マトモに名前で呼ばれる事自体少なく、
ほとんど「日本人」とか、「小日本」呼ばわりでしたな。
愛国主義教育の催しは有るわ、
学校の授業内容もソレに沿ったものが出てくるわでもう、何と言いますか。
歴史の授業なんかでは私=日本人で、教師と他の生徒一緒になっての吊るし上げ状態。
クラス全体のチームプレーが光っていました。
そして
「神聖抗日戦争勝利50周年」
(ホントに「神聖」の2文字が付いていたのが印象的でした)
という学校の記念式典では、当然ながら日本人は私一人。
「針のむしろ」という慣用句がどういうものかを理解できるとても貴重な経験をしました、はい。
それに加えて上の方で書いたように言葉の問題がのしかかります。
最初は何が何だか分からずいじめられる、ちょっと言葉が理解できるようになってくると、内容は分かるもののうまく言い返せずにまたいじめられる、言い返せるようになってくると、完全アウェー状態なのでまたまたいじめられるという状態にございました。
しかし当時、大人というか、商売関係で来られている方は
「日中友好バンザイ」
とか何とかで歓迎されていまして、
経済関連では歓迎ムードというのは変わっていませんでした。
ただそういった所とは別の一般の社会では抗日戦争勝利50周年と、それに前後した愛国主義教育の燃え上がりで反日ムードが形成されていきました。私の周囲、私の通っていた学校なんかもズンドコ燃え上がっていき、私もズンドコ追い詰められることに。
日本の政治家が中国関連で放言する
→中国で大々的に報道
→私が学校で吊るし上げに遭う
という、とばっちり的なコンボも頻繁にくらっておりました。
中国の愛国主義教育では、まぁ、何と言いますか、
「自国の輝ける歴史を教えて自分の国を誇るべきスバラシイ国だと自覚させる」
という側面が有ります。
その中国の輝ける歴史というのは、当然ながら極悪非道の侵略者である日本をぶっ倒したというのが結構な部分を占めます。敵が分かり易ければ、それだけ結束も強まるというものでしょうし。
そんな訳で、「日本」という記号は悪役として強調され、
中国の皆さんはモノスンゴイひどい目に合わされ、
そしてその悪を、皆で力を合わせて倒したのだ!
という感じのノリになっていました。
国内のメディアもそうですが、教育なんかは特にそのノリが激しかったみたいですね。
2005年の反日デモから、日本国内でも中国の反日感情が強く意識されるようになったかと思いますが、その反日感情はこの時期から加速しだした様にも思えます。
言ってしまえば幼稚園から大学まで、
この時期に教育を受けた中国の方は多かれ少なかれ日本のことが嫌いですね。
つまり、今の中国の若い世代は大抵日本が嫌いとも言えるかと。
中学の頃の私は、自分は日本人に生まれたというだけで、なんでこの連中に正義の味方ヅラされて、さも「正しい事をしているんだ」という感じでヒドイ目にあわされにゃならんのか……とかそんな感じで、日々自分の存在価値っぽいものに悩んでおりました。
この辺については当時、中国の学生生活が受験戦争社会へと転換していた時期で、放課後や休みの日に遊ぶ、または遊べる子供がどんどん少なくなっていく時期でもあったので、今考えてみるとそういったことについての不満の捌け口にされたという側面も有るんでしょうかね。
しかし、当時の中国で外で友達と遊ぶという選択肢を無くすと娯楽、特に子供が楽しめるものは非常に少なくなります。治安の関係上、中学生の子供が一人で出歩くのも難しかったですしね。
そんなこともあって、私は休みの日を手持ちの数少ないゲームや漫画や小説でどうにかやり過ごしていました。
同じ本やゲームを何度も繰り返して読み返したり遊んだりしたので何時の間にやらオタク趣味にもはまっていました。更に私が当時北京に持って行ったゲーム機がPCエンジンだった為にギャルゲーにもはまってしまったり。
当時はギャルゲーの金字塔
「ときめきメモリアル」
が発売された時期だったりしまして、
「少しでも長く遊べるゲームを」
ということで、私は夏休みに日本に帰国した時にこれを買っておりました。
ゲームの出来自体が非常に良い事もあり、どっぷりはまる事になりました。
私がオタクになったのはたぶんこの時期からなんでしょうね。
と、この様な感じで、中学時代は私の人生における大ピンチな時期でした。
親の仕事の都合で連行されてきたので、逃げる場所も無かったですしね。
我ながらあんまり思い出したくない事が多かったりします。
とりあえず、ここまでで一区切りとさせていただきます。
その2の高校デビュー編(?)へ続きます。
わがオタク的青春の北京 その2
以前から幾つも質問をいただいていた私自身のオタク的中国生活について一つ。
私は中学から十数年中国の北京におりまして、基本的に現地の学校に通い現地の大学を卒業しています。
そんな生活の中で何時の間にやらオタクになってしまったのですが、その生活がどんな感じだったのかを、私のうろ覚えな記憶と体験、そして独断と偏見に基づきちょいと書いてみます。
グダグダと長くなるかと思いますが、もしよろしければお付き合いください。
まず、私がなぜ現地校に通う事になったかと言いますと、
私の親が、外国にいるんだから
「日本人学校に行くのはもったいない」
とかなんとかで私を現地校に放り込んだからだったりします。
現地校に通う為の準備についてはほとんど無いに等しかったですね。
言葉なんかも子供だからそのうち覚えるだろうという感じでした。
私の親だけあって、私と同じようにイイカゲンなのがなんとも……
おかげで、行った当初は
「你好」(ニーハオ)「再見」(ザイジェン)「謝謝」(シエシエ)
の3つ以外中国語を知らない状態でした。
それに加えて当時は日本で言えば終戦50周年ですが、
中国から見れば抗日戦争勝利50周年にかぶっておりまして……
いや、もう、愛国主義教育が燃え上がっちゃってタイヘンでした。
日本でもガイジンの子供がいじめられるケースは少なくないと思いますが、
私の場合は歴史上の悪役、伝説の悪者である
「日本人」
が目の前に現れたわけですからこれはもういじめられない方がおかしいですね、はい。
そんな訳で、望む望まないに関わらず日本人と言う「記号」となってしまった私は
かーなり苦しい中学生活を送る事に……
中学(中国で言えば初中ですね)時代、マトモに名前で呼ばれる事自体少なく、
ほとんど「日本人」とか、「小日本」呼ばわりでしたな。
愛国主義教育の催しは有るわ、
学校の授業内容もソレに沿ったものが出てくるわでもう、何と言いますか。
歴史の授業なんかでは私=日本人で、教師と他の生徒一緒になっての吊るし上げ状態。
クラス全体のチームプレーが光っていました。
そして
「神聖抗日戦争勝利50周年」
(ホントに「神聖」の2文字が付いていたのが印象的でした)
という学校の記念式典では、当然ながら日本人は私一人。
「針のむしろ」という慣用句がどういうものかを理解できるとても貴重な経験をしました、はい。
それに加えて上の方で書いたように言葉の問題がのしかかります。
最初は何が何だか分からずいじめられる、ちょっと言葉が理解できるようになってくると、内容は分かるもののうまく言い返せずにまたいじめられる、言い返せるようになってくると、完全アウェー状態なのでまたまたいじめられるという状態にございました。
しかし当時、大人というか、商売関係で来られている方は
「日中友好バンザイ」
とか何とかで歓迎されていまして、
経済関連では歓迎ムードというのは変わっていませんでした。
ただそういった所とは別の一般の社会では抗日戦争勝利50周年と、それに前後した愛国主義教育の燃え上がりで反日ムードが形成されていきました。私の周囲、私の通っていた学校なんかもズンドコ燃え上がっていき、私もズンドコ追い詰められることに。
日本の政治家が中国関連で放言する
→中国で大々的に報道
→私が学校で吊るし上げに遭う
という、とばっちり的なコンボも頻繁にくらっておりました。
中国の愛国主義教育では、まぁ、何と言いますか、
「自国の輝ける歴史を教えて自分の国を誇るべきスバラシイ国だと自覚させる」
という側面が有ります。
その中国の輝ける歴史というのは、当然ながら極悪非道の侵略者である日本をぶっ倒したというのが結構な部分を占めます。敵が分かり易ければ、それだけ結束も強まるというものでしょうし。
そんな訳で、「日本」という記号は悪役として強調され、
中国の皆さんはモノスンゴイひどい目に合わされ、
そしてその悪を、皆で力を合わせて倒したのだ!
という感じのノリになっていました。
国内のメディアもそうですが、教育なんかは特にそのノリが激しかったみたいですね。
2005年の反日デモから、日本国内でも中国の反日感情が強く意識されるようになったかと思いますが、その反日感情はこの時期から加速しだした様にも思えます。
言ってしまえば幼稚園から大学まで、
この時期に教育を受けた中国の方は多かれ少なかれ日本のことが嫌いですね。
つまり、今の中国の若い世代は大抵日本が嫌いとも言えるかと。
中学の頃の私は、自分は日本人に生まれたというだけで、なんでこの連中に正義の味方ヅラされて、さも「正しい事をしているんだ」という感じでヒドイ目にあわされにゃならんのか……とかそんな感じで、日々自分の存在価値っぽいものに悩んでおりました。
この辺については当時、中国の学生生活が受験戦争社会へと転換していた時期で、放課後や休みの日に遊ぶ、または遊べる子供がどんどん少なくなっていく時期でもあったので、今考えてみるとそういったことについての不満の捌け口にされたという側面も有るんでしょうかね。
しかし、当時の中国で外で友達と遊ぶという選択肢を無くすと娯楽、特に子供が楽しめるものは非常に少なくなります。治安の関係上、中学生の子供が一人で出歩くのも難しかったですしね。
そんなこともあって、私は休みの日を手持ちの数少ないゲームや漫画や小説でどうにかやり過ごしていました。
同じ本やゲームを何度も繰り返して読み返したり遊んだりしたので何時の間にやらオタク趣味にもはまっていました。更に私が当時北京に持って行ったゲーム機がPCエンジンだった為にギャルゲーにもはまってしまったり。
当時はギャルゲーの金字塔
「ときめきメモリアル」
が発売された時期だったりしまして、
「少しでも長く遊べるゲームを」
ということで、私は夏休みに日本に帰国した時にこれを買っておりました。
ゲームの出来自体が非常に良い事もあり、どっぷりはまる事になりました。
私がオタクになったのはたぶんこの時期からなんでしょうね。
と、この様な感じで、中学時代は私の人生における大ピンチな時期でした。
親の仕事の都合で連行されてきたので、逃げる場所も無かったですしね。
我ながらあんまり思い出したくない事が多かったりします。
とりあえず、ここまでで一区切りとさせていただきます。
その2の高校デビュー編(?)へ続きます。
わがオタク的青春の北京 その2