ありがたいことにネタのタレコミをいただきましたので今回はそれについてを。
中国の娯楽コンテンツの定番要素には武侠や、武侠に仙術や仙人的要素を追加した仙侠といった存在があり、特に仙侠は近年ネット小説などを始めとする中国国産コンテンツには欠かせない存在となっています。
しかしこの武侠や仙侠に関しては中国国外にはなかなか広まらない、概念が通じ難いといった悩みがあるそうです。
そんな訳で以下に中国のソッチ系のサイトで行われていた
「サムライやニンジャと比べて武侠や仙侠が広まらないのはなぜか」
といったことなどに関するやり取りを、例によって私のイイカゲンな訳で紹介させていただきます。
ウチの国のコンテンツの定番ヒーロー的な職業のイメージって広まらないよね……なぜ国外にサムライやニンジャのような感じで武侠や仙侠が広まらないのだろうか?なぜニンジャやサムライは文化的なイメージの輸出に成功したのだろうか?
よくある理由は文化的な壁が高過ぎて海外市場ウケが悪いという話だが……さすがにそれだけじゃないよね。
中国も功夫文化が輸出されているんだけど、それに関して嬉しく思っている人そんなにいないのがね
西洋社会ではサムライもニンジャも大人気だからな。文化や政治的な要素も関係しているけど、いったい何時ごろからの話なんだろうか?
サムライに関しては幕末の頃からじゃないか?あと新渡戸稲造の「武士道」が20世紀初頭にあるから、東洋の戦士という認識は広まっていたようだ。でもニンジャはよく分からんな……
ウチの国のネタだと武僧はかなり影響強いと思うんだが、皆が広まって欲しい武侠や仙侠となると厳しい。
武僧は功夫のイメージも重なって独自の派生も出ている。ゲームでも「モンク」が定番職業として扱われているし、人気はよく分からないけど広まり方についてはサムライやニンジャと比べて劣るものではないな。
外国人はカンフームービーなら受け入れるけど、武侠ムービーはさっぱりなんだよなー
何が原因なんだろう……いや、何が必要なんだろう?
以前聞いた説では武侠が万能過ぎる、弱点が無くて逆に使いにくいというのもあって、私は一理あると感じたんだけど。
世界観的には武侠をなんとかできるのは武侠だけだからね。軽功や内功を使えなければ対抗すらできない。
世の権力者さえ対抗できない権力の外側にいるというのが魅力なんだが、中国社会の文化的背景ベースを知っているからこその魅力な面もあるからね。
功夫使いなら現実で異種の強者と戦わせられるけど、武侠だと概念と言うか設定で勝ち確定であっさり終わりに?知らなければ使いにくいし感情移入もできないか……
武侠って講談ベースの発展だからかなり荒唐無稽で制限ないからな。現代の感覚で見た場合、アメコミヒーローよりも万能で雑に強いといった話にすらできる。
アメコミヒーローやニンジャなんかも万能な存在ではあるが、同時に現実的な方向での制限をかけることもできるから作品内で好きなように、都合が良いように強さを設定できる。あえて武侠を中国国外の作者が選ぶ可能性は低い。
武侠も天命に逆らって敵を倒すことはできないみたいな因果律縛りネタもあるんだけど、これは昔の講談の引き延ばしのための設定でもあるから現代で使うと批判の元になるだけか。
武侠ってポジション的にはアメコミのスーパーヒーローと同じ枠だし、サムライやニンジャのようなリアル系も混じる枠と比較するのは少々違うような気もするんだが。
扱いとしてはそうだけど、文化輸出的に考えるとそれは問題じゃない。
まぁそういう部分も含めて宣伝が足りない、国外で知られていないのは問題だが。
日本のサムライに関しては黒澤明の映画とかがあったからだよ。
武侠にはそういう映像コンテンツが無い。金庸の小説だけでは中国文化圏だけに止まってしまう。
「七人の侍」を元ネタにした西部劇とか普通に制作されているからな。
今のような広まり方、使われ方になる前の段階が普通に見て取れるから、そりゃ今も強いだろうと感じるよ。
功夫の方じゃダメなのか?あれは普通に世界レベルで広まっている文化系コンテンツだと思うけど。
だってこっちは武侠の方が娯楽の中心だし……それに過程を考えるときちんとした文化輸出だと思えんよ。歪んでいる、歪まされているのがね。
武侠は本当に輸出されないよな。世界観や倫理観が合わないと聞いたこともあるが。
アメコミ系スーパーヒーローとジャンルが微妙にかぶるのと、世界観込みでないと良さをアピールできないのが厳しいのでは。サムライやニンジャのようにキャラだけ持ち出すのが難しいという感じかな?
そうやって考えていくと武侠から発展してネット小説とかでも定番な仙侠が国外に広まってないのもしょうがないのかね。
第二次世界大戦の頃から西洋人は日本文化を研究を開始しているしその過程でサムライやニンジャに関しても広まったのでは。
西洋社会の日本研究はもっと前からじゃないの?戦争に関してはロシアに勝った時点で存在感は出たし文化に関しても行き来はあった。浮世絵とかね。
ただサムライやニンジャが娯楽扱いになるのはいつ頃かとなると……
娯楽コンテンツとしてのサムライやニンジャの普及は第二次世界大戦後じゃないか?
上で言われている黒澤明作品もだけど、アメリカの娯楽作品にも出てくるようになってから本格的に存在感が強まっていったのではないかと。
私がサムライと武侠の違いとして大きいと感じるのは、日本には本当にサムライがいたけど中国には武侠はいなかったということだ。
現代の武士をテーマにした作品は同時に史実、歴史的なテーマを扱っている。文化的な共通認識の無い外国でも創作に便利な元ネタがあるんだよ。
元ネタや実物があるということのリアリティは重要なようなそうでもないような
アメコミヒーローだって実在はしないわけで
しかし文化的な違いを飛び越えて入り込むならば、そういうリアリティの根拠がある方が有利なのも確かなのでは?
まぁ最近であれば映像作品が面白ければいけそうな気もするけど。
サムライやニンジャはそういう元ネタに触れる機会がそれなりにあるのは強いんじゃないかな。装備というかグッズもあるし。
武侠グッズとか無いぞ?コスプレする方向も不安定だ。
同意。武侠は分かりやすい単純なシンボルが無いのがね。
日本刀(和服はあった方が良いけど無くても可)でサムライ、覆面と手裏剣でニンジャだ。
それに対して武侠や仙侠には一目で分かるシンボルがないというか構築されていないというかな状態だ。文化輸出で強さを発揮するための基礎が足りないんだよ。
中山服や上半身裸でヌンチャクや素手の功夫なら……というか、国外だと武侠も仙侠も功夫使いの一カテゴリみたいな扱いなのでは?
国外だと結局は功夫になっちゃうのかね。李小龍(ブルース・リー)のコスチュームとかあるし世界的に強いモチーフなんだけど黄色トラックスーツだし……
武侠は軽功とかあまり目立たせず武術寄りの方向にすれば分かってもらえるだろうけど、仙侠方向に行くと難しい。文化の壁が明確に存在する。「修仙」の概念については欧米どころか他のアジアでも、日本でも理解されていない。
(訳注:「修仙」についてはよろしければ過去の記事などもご参照ください)
しかしサムライは映画経由とかでなんとなく見えてくるものがあるけどニンジャの現代の作品における存在感はよく分からんな……
ニンジャはゲーム経由じゃないか?日本産以外のゲームでも普通に出てくる。
ゲームでもサムライやニンジャは分かりやすい性能設定になるからなー
仙人はスキルの定義からして複雑になる。
確かニンジャは80年代初頭にアメリカでニンジャ映画ブームが起こったのが娯楽作品への影響としては大きいはず。ニンジャという存在自体はその前から広まっていたようだが。
サムライやニンジャが強いというか便利なのは、どんな世界観でもとりあえず放り込めるというイメージを獲得していることでは。
武侠や仙侠だとそういうのは難しい。日本ネタで例えるなら陰陽師や妖怪とかの扱いじゃないか?
そもそも仙侠がネタとしては比較的新しいから単独では扱いにくい、背景世界観込みで説明しないといけないのは厳しいんじゃないかな。サムライとニンジャは雑に出してもOKだ。
武侠はともかく仙侠はこの十数年での流行みたいなところもあるからな
さすがに十数年ではないぞ。前世紀のPCゲームで既にある題材だから。
確かに「仙剣奇侠伝」とかもあったけど、シリーズ初期はまだ武侠寄りな側面が強くて現代的な仙侠の扱いではなかった。概念的に固まるのは国産ネット小説の成長を待つ必要があったのでは?
「仙剣」は1が出たのが95年だけど最初はかなり武侠的な世界観でストーリー展開も旧来の武侠小説的なものだった。いわゆる仙侠っぽくなるのは3からだろうね。仙人修行的な方向が出てくるから。
国外だと武侠に関しても文化的な壁はあると感じる。金庸を代表的作品として宣伝するのは構わないんだけど、金庸が武侠の基本だと思っている外人が多いようなのは不安になる。
他に考えられるサムライやニンジャが強い理由としては、国外産のアレンジ作品を日本市場がそのまま受け入れているというのもあるんじゃないかな。
最近だと「Ghost of Tsushima」なんかも普通に人気だ。もちろん「文化的に正しくない」「外国人は日本の文化を知らない」という批判は出ているけどウチの国で最近よくあるような炎上は発生しない。
日本人はサムライやニンジャが伝わることに関して、正しさや伝統、考証というものを重視しないからね。国外どころか日本国内の作品を見ても意味不明なことになっている。
外国経由のサムライ、ニンジャのイメージを普通に再輸入して作品に出したりするからなあ……「サムライスピリッツ」とかもそうだったよね。
日本の二次元系作品を見ると正しさにこだわるよりも面白さ重視だし、正しい内容に関しては別の場所で……となっている印象を受ける。
そういう割り切った扱いがあるからニンジャやサムライが文化コンテンツとして強いのかもしれない。
それに関しては「先行して成立した」扱いだというのも大きいんじゃないかな。
もし今の時代に広まっていくものだと日本人もサムライやニンジャを今のような扱いで許容するのは難しかったはずだ。
ウチの国でも歴史観の正しさがイロイロと難しいが、欧米社会も政治的な正しさでかなりめんどくさいことになっているからなー
仙侠なんかは新しいネタだし、そういう意味でも世界的に広まるネタとしては厳しいんじゃないかな。文化と娯楽コンテンツに政治が加わる今の時代の環境ではね。
とまぁ、こんな感じで。
中国国外に伝わるかどうかといった話題だけでなく現在のサムライやニンジャネタに関する考察なども行われていました。
それにしても上のやり取りを見る限りでは「仙侠」の認識については人それぞれな所もあるようですが、現在の中国における武侠の定義や仙侠の定義、代表的な作品はどうなっているんでしょうかね。
私が仙侠に関してイロイロと教えてもらったり調べたりしたのは結構前の話になりますし、最新の状況についてはイマイチ自信がありません。
そんな訳でいつも以上にてツッコミ&情報提供お待ちしております。
中国オタク「ウチの国の伝統的な武侠小説はどうなってしまうのだろうか?」
中国オタク「仙人が題材の作品って日本人には理解できないんじゃないの?」「日本人は修仙で何やるかも知らんだろ」
中国の娯楽コンテンツの定番要素には武侠や、武侠に仙術や仙人的要素を追加した仙侠といった存在があり、特に仙侠は近年ネット小説などを始めとする中国国産コンテンツには欠かせない存在となっています。
しかしこの武侠や仙侠に関しては中国国外にはなかなか広まらない、概念が通じ難いといった悩みがあるそうです。
そんな訳で以下に中国のソッチ系のサイトで行われていた
「サムライやニンジャと比べて武侠や仙侠が広まらないのはなぜか」
といったことなどに関するやり取りを、例によって私のイイカゲンな訳で紹介させていただきます。
ウチの国のコンテンツの定番ヒーロー的な職業のイメージって広まらないよね……なぜ国外にサムライやニンジャのような感じで武侠や仙侠が広まらないのだろうか?なぜニンジャやサムライは文化的なイメージの輸出に成功したのだろうか?
よくある理由は文化的な壁が高過ぎて海外市場ウケが悪いという話だが……さすがにそれだけじゃないよね。
中国も功夫文化が輸出されているんだけど、それに関して嬉しく思っている人そんなにいないのがね
西洋社会ではサムライもニンジャも大人気だからな。文化や政治的な要素も関係しているけど、いったい何時ごろからの話なんだろうか?
サムライに関しては幕末の頃からじゃないか?あと新渡戸稲造の「武士道」が20世紀初頭にあるから、東洋の戦士という認識は広まっていたようだ。でもニンジャはよく分からんな……
ウチの国のネタだと武僧はかなり影響強いと思うんだが、皆が広まって欲しい武侠や仙侠となると厳しい。
武僧は功夫のイメージも重なって独自の派生も出ている。ゲームでも「モンク」が定番職業として扱われているし、人気はよく分からないけど広まり方についてはサムライやニンジャと比べて劣るものではないな。
外国人はカンフームービーなら受け入れるけど、武侠ムービーはさっぱりなんだよなー
何が原因なんだろう……いや、何が必要なんだろう?
以前聞いた説では武侠が万能過ぎる、弱点が無くて逆に使いにくいというのもあって、私は一理あると感じたんだけど。
世界観的には武侠をなんとかできるのは武侠だけだからね。軽功や内功を使えなければ対抗すらできない。
世の権力者さえ対抗できない権力の外側にいるというのが魅力なんだが、中国社会の文化的背景ベースを知っているからこその魅力な面もあるからね。
功夫使いなら現実で異種の強者と戦わせられるけど、武侠だと概念と言うか設定で勝ち確定であっさり終わりに?知らなければ使いにくいし感情移入もできないか……
武侠って講談ベースの発展だからかなり荒唐無稽で制限ないからな。現代の感覚で見た場合、アメコミヒーローよりも万能で雑に強いといった話にすらできる。
アメコミヒーローやニンジャなんかも万能な存在ではあるが、同時に現実的な方向での制限をかけることもできるから作品内で好きなように、都合が良いように強さを設定できる。あえて武侠を中国国外の作者が選ぶ可能性は低い。
武侠も天命に逆らって敵を倒すことはできないみたいな因果律縛りネタもあるんだけど、これは昔の講談の引き延ばしのための設定でもあるから現代で使うと批判の元になるだけか。
武侠ってポジション的にはアメコミのスーパーヒーローと同じ枠だし、サムライやニンジャのようなリアル系も混じる枠と比較するのは少々違うような気もするんだが。
扱いとしてはそうだけど、文化輸出的に考えるとそれは問題じゃない。
まぁそういう部分も含めて宣伝が足りない、国外で知られていないのは問題だが。
日本のサムライに関しては黒澤明の映画とかがあったからだよ。
武侠にはそういう映像コンテンツが無い。金庸の小説だけでは中国文化圏だけに止まってしまう。
「七人の侍」を元ネタにした西部劇とか普通に制作されているからな。
今のような広まり方、使われ方になる前の段階が普通に見て取れるから、そりゃ今も強いだろうと感じるよ。
功夫の方じゃダメなのか?あれは普通に世界レベルで広まっている文化系コンテンツだと思うけど。
だってこっちは武侠の方が娯楽の中心だし……それに過程を考えるときちんとした文化輸出だと思えんよ。歪んでいる、歪まされているのがね。
武侠は本当に輸出されないよな。世界観や倫理観が合わないと聞いたこともあるが。
アメコミ系スーパーヒーローとジャンルが微妙にかぶるのと、世界観込みでないと良さをアピールできないのが厳しいのでは。サムライやニンジャのようにキャラだけ持ち出すのが難しいという感じかな?
そうやって考えていくと武侠から発展してネット小説とかでも定番な仙侠が国外に広まってないのもしょうがないのかね。
第二次世界大戦の頃から西洋人は日本文化を研究を開始しているしその過程でサムライやニンジャに関しても広まったのでは。
西洋社会の日本研究はもっと前からじゃないの?戦争に関してはロシアに勝った時点で存在感は出たし文化に関しても行き来はあった。浮世絵とかね。
ただサムライやニンジャが娯楽扱いになるのはいつ頃かとなると……
娯楽コンテンツとしてのサムライやニンジャの普及は第二次世界大戦後じゃないか?
上で言われている黒澤明作品もだけど、アメリカの娯楽作品にも出てくるようになってから本格的に存在感が強まっていったのではないかと。
私がサムライと武侠の違いとして大きいと感じるのは、日本には本当にサムライがいたけど中国には武侠はいなかったということだ。
現代の武士をテーマにした作品は同時に史実、歴史的なテーマを扱っている。文化的な共通認識の無い外国でも創作に便利な元ネタがあるんだよ。
元ネタや実物があるということのリアリティは重要なようなそうでもないような
アメコミヒーローだって実在はしないわけで
しかし文化的な違いを飛び越えて入り込むならば、そういうリアリティの根拠がある方が有利なのも確かなのでは?
まぁ最近であれば映像作品が面白ければいけそうな気もするけど。
サムライやニンジャはそういう元ネタに触れる機会がそれなりにあるのは強いんじゃないかな。装備というかグッズもあるし。
武侠グッズとか無いぞ?コスプレする方向も不安定だ。
同意。武侠は分かりやすい単純なシンボルが無いのがね。
日本刀(和服はあった方が良いけど無くても可)でサムライ、覆面と手裏剣でニンジャだ。
それに対して武侠や仙侠には一目で分かるシンボルがないというか構築されていないというかな状態だ。文化輸出で強さを発揮するための基礎が足りないんだよ。
中山服や上半身裸でヌンチャクや素手の功夫なら……というか、国外だと武侠も仙侠も功夫使いの一カテゴリみたいな扱いなのでは?
国外だと結局は功夫になっちゃうのかね。李小龍(ブルース・リー)のコスチュームとかあるし世界的に強いモチーフなんだけど黄色トラックスーツだし……
武侠は軽功とかあまり目立たせず武術寄りの方向にすれば分かってもらえるだろうけど、仙侠方向に行くと難しい。文化の壁が明確に存在する。「修仙」の概念については欧米どころか他のアジアでも、日本でも理解されていない。
(訳注:「修仙」についてはよろしければ過去の記事などもご参照ください)
しかしサムライは映画経由とかでなんとなく見えてくるものがあるけどニンジャの現代の作品における存在感はよく分からんな……
ニンジャはゲーム経由じゃないか?日本産以外のゲームでも普通に出てくる。
ゲームでもサムライやニンジャは分かりやすい性能設定になるからなー
仙人はスキルの定義からして複雑になる。
確かニンジャは80年代初頭にアメリカでニンジャ映画ブームが起こったのが娯楽作品への影響としては大きいはず。ニンジャという存在自体はその前から広まっていたようだが。
サムライやニンジャが強いというか便利なのは、どんな世界観でもとりあえず放り込めるというイメージを獲得していることでは。
武侠や仙侠だとそういうのは難しい。日本ネタで例えるなら陰陽師や妖怪とかの扱いじゃないか?
そもそも仙侠がネタとしては比較的新しいから単独では扱いにくい、背景世界観込みで説明しないといけないのは厳しいんじゃないかな。サムライとニンジャは雑に出してもOKだ。
武侠はともかく仙侠はこの十数年での流行みたいなところもあるからな
さすがに十数年ではないぞ。前世紀のPCゲームで既にある題材だから。
確かに「仙剣奇侠伝」とかもあったけど、シリーズ初期はまだ武侠寄りな側面が強くて現代的な仙侠の扱いではなかった。概念的に固まるのは国産ネット小説の成長を待つ必要があったのでは?
「仙剣」は1が出たのが95年だけど最初はかなり武侠的な世界観でストーリー展開も旧来の武侠小説的なものだった。いわゆる仙侠っぽくなるのは3からだろうね。仙人修行的な方向が出てくるから。
国外だと武侠に関しても文化的な壁はあると感じる。金庸を代表的作品として宣伝するのは構わないんだけど、金庸が武侠の基本だと思っている外人が多いようなのは不安になる。
他に考えられるサムライやニンジャが強い理由としては、国外産のアレンジ作品を日本市場がそのまま受け入れているというのもあるんじゃないかな。
最近だと「Ghost of Tsushima」なんかも普通に人気だ。もちろん「文化的に正しくない」「外国人は日本の文化を知らない」という批判は出ているけどウチの国で最近よくあるような炎上は発生しない。
日本人はサムライやニンジャが伝わることに関して、正しさや伝統、考証というものを重視しないからね。国外どころか日本国内の作品を見ても意味不明なことになっている。
外国経由のサムライ、ニンジャのイメージを普通に再輸入して作品に出したりするからなあ……「サムライスピリッツ」とかもそうだったよね。
日本の二次元系作品を見ると正しさにこだわるよりも面白さ重視だし、正しい内容に関しては別の場所で……となっている印象を受ける。
そういう割り切った扱いがあるからニンジャやサムライが文化コンテンツとして強いのかもしれない。
それに関しては「先行して成立した」扱いだというのも大きいんじゃないかな。
もし今の時代に広まっていくものだと日本人もサムライやニンジャを今のような扱いで許容するのは難しかったはずだ。
ウチの国でも歴史観の正しさがイロイロと難しいが、欧米社会も政治的な正しさでかなりめんどくさいことになっているからなー
仙侠なんかは新しいネタだし、そういう意味でも世界的に広まるネタとしては厳しいんじゃないかな。文化と娯楽コンテンツに政治が加わる今の時代の環境ではね。
とまぁ、こんな感じで。
中国国外に伝わるかどうかといった話題だけでなく現在のサムライやニンジャネタに関する考察なども行われていました。
それにしても上のやり取りを見る限りでは「仙侠」の認識については人それぞれな所もあるようですが、現在の中国における武侠の定義や仙侠の定義、代表的な作品はどうなっているんでしょうかね。
私が仙侠に関してイロイロと教えてもらったり調べたりしたのは結構前の話になりますし、最新の状況についてはイマイチ自信がありません。
そんな訳でいつも以上にてツッコミ&情報提供お待ちしております。
中国オタク「ウチの国の伝統的な武侠小説はどうなってしまうのだろうか?」
中国オタク「仙人が題材の作品って日本人には理解できないんじゃないの?」「日本人は修仙で何やるかも知らんだろ」