学生の頃から、当たり前のように片貝まつりで揚がっている真昼の三尺玉。
世界中で唯一ここ片貝町でしか揚がっていない存在。
二日目、午後2時にサイレンの後、打ち揚がる。
黒い玉が昇っていくのが見える。
当たり前の光景で、私自身当時は、気にもしていなかったのですが。
なぜ昼の三尺玉を揚げるようになったのだろう。
戦後、片貝町で夜の三尺玉の打ち揚げが復活したのが、昭和44年。
片貝中学校第17回卒業となかいが成人のお祝いで奉納したものでした。
その翌年には、昭生会が三尺玉の筒を寄贈し、毎年三尺玉が打ち揚がるようになりました。
そして昭和55年、真昼の三尺玉が『復活』。
片貝中学校第18回卒業永遠会が奉納しました。
その後、昭和56年から昭和59年まで、片貝中学校第4回卒業伸竹会が奉納し、その後歴代の古希の皆さんが古希のお祝いとして奉納を続けてこられました。
コロナ禍での片貝まつり中止を挟み、令和4年にはマツダオートザム小千谷様から奉納いただき、翌年は弊社が奉納、令和6年より片貝花火サポーターズ倶楽部が発起人となり現在の真昼の三尺玉奉納協賛会で奉納いただいています。
ここで、『復活』と書きましたが、なぜ、真昼の三尺玉を揚げているかの理由。
片貝町は明治24年の番付に三尺玉の記載があり、これより最古の資料がないため、三尺玉発祥の地としています。
その番付には、三尺玉4発の記載があり、その中の1発は昼の三尺玉でした。
そこで、当時の煙火協会長だった本田善治(弊社初代)が昼の三尺玉を復活させてこそ、本当の三尺玉復活だとの思いから永遠会の皆さんの力を借りて奉納に至ったとのことのようです。
以来、唯一無二の存在として、片貝町の昼の花火を彩っています。
現在、真昼の三尺玉奉納協賛会では、協賛者を募集しています。
この伝統が今後も継続できますよう、是非皆様からのお力添えをいただけると助かります。
よろしくお願いいたします。
【真昼の三尺玉奉納協賛】
申込は
■公式オンラインショップ(BASE)
http://hounouenka.thebase.in
■片貝館
協賛金を添えてのお申込みのみ



世界中で唯一ここ片貝町でしか揚がっていない存在。
二日目、午後2時にサイレンの後、打ち揚がる。
黒い玉が昇っていくのが見える。
当たり前の光景で、私自身当時は、気にもしていなかったのですが。
なぜ昼の三尺玉を揚げるようになったのだろう。
戦後、片貝町で夜の三尺玉の打ち揚げが復活したのが、昭和44年。
片貝中学校第17回卒業となかいが成人のお祝いで奉納したものでした。
その翌年には、昭生会が三尺玉の筒を寄贈し、毎年三尺玉が打ち揚がるようになりました。
そして昭和55年、真昼の三尺玉が『復活』。
片貝中学校第18回卒業永遠会が奉納しました。
その後、昭和56年から昭和59年まで、片貝中学校第4回卒業伸竹会が奉納し、その後歴代の古希の皆さんが古希のお祝いとして奉納を続けてこられました。
コロナ禍での片貝まつり中止を挟み、令和4年にはマツダオートザム小千谷様から奉納いただき、翌年は弊社が奉納、令和6年より片貝花火サポーターズ倶楽部が発起人となり現在の真昼の三尺玉奉納協賛会で奉納いただいています。
ここで、『復活』と書きましたが、なぜ、真昼の三尺玉を揚げているかの理由。
片貝町は明治24年の番付に三尺玉の記載があり、これより最古の資料がないため、三尺玉発祥の地としています。
その番付には、三尺玉4発の記載があり、その中の1発は昼の三尺玉でした。
そこで、当時の煙火協会長だった本田善治(弊社初代)が昼の三尺玉を復活させてこそ、本当の三尺玉復活だとの思いから永遠会の皆さんの力を借りて奉納に至ったとのことのようです。
以来、唯一無二の存在として、片貝町の昼の花火を彩っています。
現在、真昼の三尺玉奉納協賛会では、協賛者を募集しています。
この伝統が今後も継続できますよう、是非皆様からのお力添えをいただけると助かります。
よろしくお願いいたします。
【真昼の三尺玉奉納協賛】
申込は
■公式オンラインショップ(BASE)
http://hounouenka.thebase.in
■片貝館
協賛金を添えてのお申込みのみ


