コピペ日記

備忘録・メモ代わりです。意見はごく少々。

2006年05月


向こう側に見える建設中の建物は、文部科学省です。作らんでいいっての。



なんだか、日活ロマンポルノみたいだな、と思って見た。こういう、悪意に満ち満ちた創作って、けっこう日本にもありましたよ。今だとホラーの方に行っている感じだが。
男が自分で直接手を下さないのが、一段と「悪い」感じ。



悪い男

エスピーオー

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長いこと右翼反動映画め、と思ってそっぽを向いていた映画(1982年製作)。
で、それをわざわざ見る気になったのは、こちらが「右傾化」した、というか「進歩派」に愛想をつかしたせいもあるが、一番大きいのは脚本の笠原和夫のインタビュー集「昭和の劇」を読んで、作者がどれだけ真剣に「戦争」を描こうとしていたか知ったから。

もっとも、脚本にこめられた意図がそのまま画になればいいのだが、そうはいかないのが映画の難しいところ。
特に戦争の凄惨さの表現については、「プライベート・ライアン」あたりを見ているとどうしても作りもの臭さが目についてしまう。飢えてるはずなのにみんな栄養いい顔してる、とか、機銃掃射で撃たれたらあの程度の傷で済むわけがない、とか。
日本の監督は「リアリズムが身についていない」というのが笠原の主張だが、首肯せざるをえない。演出だけでなく、役者の芝居の質のせいもある。

市村萬次郎の昭和天皇が、メイクから発声からそっくり。
インタビューを読むと、はっきり天皇批判を意図しているのがわかる。「御聖断で戦争が終わるんだったら、なんで早く下してくれなかったんだべ」「天子さまは宮城だよ、ずーっと」「天皇陛下、お先に参ります」「大元帥閣下が、アメリカと手を組むはずがありません」などなど。
フツーに見てこれが天皇批判でないわけないのだが(なんなら「右翼」の側からの)、未だにソクーロフの「太陽」を公開できないこの国の空気の中で見ると不思議とそう見えないところがある。見る側が批判を受け取ろうとしない、というか、直視しようとしないというか(後註・「太陽」公開決定)。

もっともこちらがそれほど天皇を批判的に見ているかというとそうでもなくて、「天皇の戦争責任」(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣の鼎談集)で提出された、昭和天皇を日本の近代国家としての基礎を作るための立憲君主制に忠実な君主であろうとした存在、と位置づける考えに割と納得したりもしているのだが。

夏目雅子(!)のニ役の一つがクリスチャンで、もう一つが南方のマリアという現地人という作意。恋人の篠田三郎が自分がやったわけでない罪で裁かれて死ぬのは、偽キリストみたい。

なんでも、田原総一郎が公開当時反動映画と呼んでいたのが、後年反戦映画と言い出したらしい。節操がないには違いないが、それだけ重層的な造りということでもある。

やたらとみんな死にたがる。素直に生きのびたがったり、論理的に勝つための工夫をするより美意識に殉じようとする傾向が強くて、非常に自閉的。
(☆☆☆)



大日本帝国 - goo 映画

大日本帝国

東映ビデオ

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意外とイケルのですね、これが。
オリジナルは数え方によっては9本もあるらしいのだけれど、テレビで断片的に見ただけだったからいちいち比較しないで済んだせいもある。
スティーブ・マーティンのクルーゾーは、ピーター・セラーズのよりスマート。セラーズは精錬された演技もできるのだが、クルーゾーではやたら泥臭くやっていた。変な東洋人の召使ケイトー(加藤のつもりらしい)との空手ともカンフーともつかないドタバタがないのは助かる。

マーティンは脚本にも参加していて、おバカギャグの羅列かと思って軽く見ていると、意外なところで前のギャグが後で生きているように作っている。

フランス人の設定だが喋るのは英語、ときどき単語の頭のH音が抜けてたりするからフランス語なまりの英語みたい。そのせいか逆にずいぶんと聞き取りやすい発音だった。
(☆☆☆★)



ピンクパンサー - goo 映画

ピンク・パンサー

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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疎外された者同士の、ほとんど格闘に近い感情のぶつけあい。
傷をなめあったり、互いにいたわりあったりする、ありがちな描写、差別という言い方が連想させる弱さ、可愛げがまるでない、きわめて厳しいタッチ。
疎外とか差別というより、自分から他人(家族も)をはねつけているよう。

ムン・ソリの脳性マヒの演技は、ソル・ギョングのとことんゴクツブシに徹した役とともに、よくチャレンジしたなと思わせる。
ただ勇気は別として不随意運動を演技という随意運動で再現しなくてはいけないという本質的なムリがある。その限界を逆手にとるように、ときどきふっとイメージ・シーンで健常者の地を出して自由に動き回ってみせるのが、なんともパセティックな情感を出して、利いている。
手鏡で照らした光がハトや蝶に化けるCGの使い方のセンスの良さ。

ギョングが高速道路でバイクを飛ばしながらドラマの撮影隊のトラックをからかっているうちに転倒するのを、カットを割らずに撮っているのにびっくり。
(☆☆☆★★)



オアシス - goo 映画

オアシス

バンダイビジュアル

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ライト・コメディ感覚のクライム・サスペンスとはまた難しい題材を選んだもの。
今どき銀行強盗しても、あまり実入りは良くないだろうなあ、と思ってしまう。政府の政策一つで銀行がどれくらい儲けたか思うと、たかが数千万と何兆と金額の桁が5つも違うのだから。
かといってバーチャルな世界の取引で儲けたところを描いたところで、ちっとも見ていてそれこそロマンがないわけで。じゃあ、何がロマンかというと、これが難しい。一番難しいのではないか。

それで、か、衣装・美術ほかこれが作り物の世界であることを強調して、「ルパン三世」ばりのマンガチックなトーンになっている。ただ、カーアクションはCGだとわかるのだから、もっと徹底して現実にはありえない走法をさせた方がよくなかったか。
キザなセリフが多いのは、結構ひやひやもの。わからない外国語で聞くのと比べて不利。
各キャラクターの特殊能力はそれほど生かされていない。

観客をひっかける仕掛けが随所にあって、シーンの組み立て、カット割りともにずいぶん凝っているが、よくあるMTV風の表面だけ凝ってみせるのではなく、ずっと見ていて初めて、あ、そういうことねと思わせるように構成できている。
主役陣も豪華な顔ぶれだが、脇もストーリー上でひっかけがきくようにキャスティングに気を配っているのに注目。

ちなみに、キリンを冷蔵庫に入れる四つの条件、というのは見ていてどういうものかわかった。どこかで聞いていたのかな。
(☆☆☆)



陽気なギャングが地球を回す - goo 映画

陽気なギャングが地球を回す プレミアム・エディション

ジェネオン エンタテインメント

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1972年 製作・監督・脚本 新藤兼人。

題名の「鉄輪」(かなわ)とは、能の演目であり、丑の刻参りで五寸釘を藁人形に打ち込む時に頭に戴くロウソクを立てる台のこと。
男の浮気と女の嫉妬がモチーフで、能の上演の情景と、平安時代の浮気した夫を呪う丑の刻参りと、現代(といっても34年前)の夫の浮気現場に執拗に電話がかかる(今だったら、ストーカーだな)さまとが交互にカットバックされて描かれ、時には現代の風景に平安時代の扮装をした人物が現れて文字通りキャッチボールをしたりする。

最近では流行らない実験的な作りだが、色々な要素を混ぜたが化学反応はしないで分離したままという印象。
シナリオを先に読んでいたが、正直文字で読んでいた方がイメージを喚起された。

渋谷駅前のロケーションがあるが、基本的な地形は変わらないのにビルが見事に全部入れ替わっている。

女優だけ白塗りのメイク。どういうわけか、新藤作品はこういう不自然な白塗りが多い。
(☆☆★★★)



鉄輪 - goo 映画


出演者は全員なじみがないが、見事な歌唱力を見せる。
無名というところで役と重なるのは、「フェーム」、ミュージカルではないが「グリニッジ・ビレッジの青春」などを思わせる。オープニングなど「コーラスライン」っぽい。
ただ、彼らがサクセスするかどうかは相当不透明で、金持ちの娘と結婚した黒人の扱いなど、成功すればしたで堕落は免れないのを匂わせているよう。

かたかたいう音とともに、フィルム上映が始まるオープニングで、時代が出る(黒澤の「乱」(1985)のポスターがちらっと見える)。ビデオではないのだね。
ソーホーに貧乏なアーティストの卵がたむろしている情景って、今どうなのだろう。劇中でも不動産屋がしきりと再開発したがっていたが。
エイズは今でも蔓延しているのには違いないが、悲劇性に限って言えば風化した観あり。

最近多いMTV風のちゃかちゃかした映像処理でないのはありがたい。あまり踊りはなくて歌中心のミュージカルなので、カット割りには苦心した感じ。部分的に監督のクリス・コロンバスの初期の「ファンダンゴ」を思わせる音楽処理を見せる。

広告には全然出なかったけれど、ロバート・デ・ニーロが製作に噛んでるのね。
(☆☆☆★)



レント - goo 映画

レント

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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テリー・ギリアムという人も、「ブラジル」といい「バロン」といい、よくよくトラブルに見舞われる星の下に生まれているみたい。よく今でもまがりなりに映画を作れているもの。

撮影現場の上空をやたらジェット戦闘機が飛びまわったり豪雨にみまわれたり主役が椎間板ヘルニアになったり、ギャグでやってるのではないかと思うくらい次々とトラブルに襲われるのに、悪いと思いながら笑ってしまう。
何が悪い誰が悪いというより、悪い方に物事が転がりだした時の収拾のつかない感じに、見ていてちょっと冷や汗が出る。

保険会社がthe act of God(不可抗力)に対しては保険金を支払わなくていいと主張するところで、「トラ!トラ!トラ!」で、日本側プロダクションサイドが黒澤明が「精神的病気」になったのをthe act of Godとして監督更迭の理由としようとしたが、保険会社に認定されなかったケースと、ちょうど逆だなと思う。
the act of Godだったら支払うというのと支払わないというのと。

出資者Investerを撮影現場に呼んで見学させるなんて場面があるが、数が多いのと割と若いのといやに明るいのとで、記念写真など撮ったりしてまったく観光客のノリ。彼らに出資金は戻ったのかね。
当初の製作費1600万ドル(あとでもっと膨れ上がったみたい)は大金には違いないが、ハリウッドで作ったら低予算だ。今だったらジョニー・デップのギャラでとんでしまうのではないか。

でぶ三人組をあおって撮って巨人に見せるテストフィルムや、数珠繋ぎに枷をかけられた男たち、魚相手にマジメに喧嘩するジョニーなど、断片的に見られる場面だけでもどこを切ってもギリアム印。
どういうつもりか、「鼓動」と書かれたシャツを着ている。「ブラジル」で鎧武者が出てきた時はびっくりけれど、あれはサムライとSam lie サム(主人公の名前)の嘘 にひっかけているとか聞いたけれど(うろ覚え)。



ロスト・イン・ラ・マンチャ - goo 映画

ロスト・イン・ラ・マンチャ

東北新社

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ガメラが脱ぎ捨てた後の殻らしい赤い石がガメラの力の源になるらしいのだが、なぜそうなるのかわからず、ガメラを育てる少年がどうやってそれを知ったのかがまたわからず、少年が石を戦うガメラのもとに届けようとするところで、なぜか突然見ず知らずの子供たちが現れて石をリレーして少年のもとに持ってくるのだが、彼らが何者なのかどうやって石のことを知ったのか、少年の仲間の場所をどうやって知ったのか、これまたわからない。
まるで判じ物。

ガメラは何を食べたのかわからないまま突然でかくなるのだが、変な科学者が成長に必要な物質とかいうのを注入しようとして効果があがらないまま、ガメラが外に出るとまた突然でかくなる。「なぜか」大きくなるという設定で通していいのに、なまじっか変に理由をつけようとして、ボロが出た。

少年はしきりとガメラを助けるとかいって、命を大切にしろとかいうわけだが、それで怪獣同士が戦っている危険な場所に近づいて自分の命を危険に曝すとは何事か。男手ひとつで育ててくれている父親だっているだろうが。人の(亀の)命を心配するより、まず自分の命を大切にするのを覚えろよ。

「亀という生物はいない」伊藤和典=金子修介コンビ三部作の世界観を完全に否定して(オープニングだけギャオスが出てきて、三部作風のハードな描写が見られる)、亀を育てたらガメラになっちゃったというハナシは悪くないし、子供の味方にした作りは旧シリーズよりスマートになってはいるが、いかになんでも基本的なスジの通し方がぐちゃぐちゃ。

前半のひなびた海辺の町の風景や、ゲームやパソコン、携帯のない世界にしているのはいい。シーダスとかいう新しい怪獣はまるで魅力なし。ガメラがあまり強くないのはともかく、ここぞという時にいいところを見せる呼吸が今ひとつ。
(☆☆★★)



小さき勇者たち〜ガメラ〜 - goo 映画

小さき勇者たち~ガメラ~ スペシャル・エディション

角川エンタテインメント

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レイチェル・ワイズはこれでアカデミー助演女優賞を取って臨月姿でオスカー像を受け取ったわけだが、映画の中でも臨月のヌードを見せている。もちろんこっちは特殊メイクによるものだろうが、強い印像を残す。
やたら正義感が強くて常に正論を吐いて周囲を辟易させるようなキャラクターだが、それが干からびた教条性ではなくて、生命全般に対するシンパシーから来るものであることが一見してわかる。

イギリスなどのレイフ・ファインズの生活空間はモノトーンに近く、アフリカの原色の画面とコントラストをなしている。原色も、アフリカの自然の原色と、工場廃液みたいな毒々しい汚染色とを微妙に使い分けている巧みな色彩設計。
時制がひんぱんに交錯して、すでに死んでいる妻を絶えず甦らせて見せる演出。
ファインズが庭先で号泣する場面は、抑制と激情をないまぜて秀逸。
ヒロインの惨死体を見て嘔吐する男が、実は半ば陰謀の片棒を担いでいたことがわかるアイロニー。

製薬会社がアフリカに薬を寄付するのは、使用期限を過ぎた薬を処分するのと税金対策からで、実際には酷暑の中ですぐ使い物にならなくなるというあたり、行き過ぎた資本の論理の非人間性をまざまざと教える。
(☆☆☆★★)



ナイロビの蜂 - goo 映画

ナイロビの蜂

日活

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焼け太りというのか、わざとコケる芝居を作ることがプロデューサーサイドとしては儲かるという摩訶不思議なシステムをメインに据えたオリジナル映画のアイデアがなんといっても素晴らしい(余談ながら拙作「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」はこのオリジナルのアイデアをヒントにしている。興味のある方は読まれたし)。
もっとも、当時に比べてリスクヘッジがヘッジを通り越してマネーゲームになるというのは、ショー・ビジネスみたいな特殊とされる世界だけでなくごく一般的になっている観あり。
今だったら、弁護士が確実に顔を出してくるだろう。

「ヒットラーの春」なんてトンデモなミュージカルを、ユダヤ人であることを売り物にしているメル・ブルックスが考えた、ということ自体、もろに差別を裏返した笑い。
ラストカットでちらっと顔を出すが、さすがに老けたが、油っ気は十分。若い客だと誰だかわからない向きも多いのではないか。作詞作曲まで堂々とこなしているのだから、すごい。

海千山千という言葉を画にかいたようなプロデューサー、“ピーナッツ”のライナスのように毛布にしがみついている会計士、夫の遺産で男遊びに耽る85歳以上の未亡人たち、ヒットラーかぶれの劇作家、オカマの巣窟みたいな役者と演出家とスタッフたち、と、まあよくこれだけアクの強い連中を集めたもの。
ゲテすれすれだが、役者がみんな指先までみっちり芝居している感じで、見せること。

無理に映画的にしないで、場の感覚を大切にしてがっちり芝居を重ねていくような演出。

ネイサン・レインの部屋に‘KING LEER’というポスターが貼ってある。「リア王」KING LEARのもじりなのはもちろんだが、LEERというのは、「横目、色目、流し目」という意味。未亡人を誘って金を集めているのに合わせているというわけ。
(☆☆☆★★)



プロデューサーズ - goo 映画

プロデューサーズ

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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東京芸術大学美術館にて。

全体としてまず一つの形、一つの流れ、一つのベクトルを成しているような造形。
同じ「苦行僧」を小さな漆喰像、大きな胡桃材像を並べて見ると、前者に比べて木そのものが持っていた全体としての流れ、ベクトルがより豊かに移されたかのよう。
多くが、当時すでに彫刻の素材としては廃れていた木像というのも、そのせいか。

多くの全体としての形が底辺の広い三角形をなし、足を広げて踏ん張っている人物に対応している。人=像の持つ流れが、何か上から降りてくる大きな力に耐えているとも受けとめているともとれる形。

表現主義とはいっても、映画の「カリガリ博士」のような異様な圧迫感や不安感、歪みとは別物。全体としてのデフォルメはともかく。



女が落とした携帯を隠して、かかってきたところを勝手に出たり、返しもしないで新しく買わせる男を、アナタ信用できますか? 
そんなわけで序盤でつまずいて、ベタな笑いにうんざりし、画面も薄いしで我慢できなくなって、途中で出た。

「四月の雪」でもそうだったが、韓国だと病院でも携帯切らないのだろうか。



連理の枝 - goo 映画

連理の枝 - Amazon


「生きる」ばりに末期癌の宣告を受けた主人公が生あるうちに何をするかという話だが、ゲイという設定なのが面白くて、子孫という一番わかりやすい形で自分の死後に何かしら残せる可能性のないところをどういうものを残そうとするのか、あるいは残せないのだろうかという興味を持ったが、答えの出し方とするとちょっとズルい。
それにあれだとタネなしの亭主が養育費を出す余地すらなくなってしまうみたいで、立場なくなるぞ。
写真家なのに作品を残そうとはまったくしないのは、後で考えて見ると不思議。

すっかりお婆さんになったジャンヌ・モローの祖母みたいに、死ぬまで(おそらく)徹底して孤独に生きるという生き方もあったわけだろうが、そうするには彼は若すぎたということか。
(☆☆☆)



ぼくを葬る - goo 映画

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前作は見てないけれど、ストーリー上はあまり気にならなかった。

氷河期が終わって氷が解けるのだから人間の世紀が来そうなところを、逆に「出エジプト記」ばりの動物たちの苦難の脱出行に仕立てている。
ラスト近く、巨大な氷山が割れて水が流れ込んでいくのは「十戒」で紅海が割れるシーンのアレンジみたいだし、ノアの箱舟そっくりの船に動物たちが乗り込んでいて助かっていたりするなど、人間は出てこなくても聖書色バリバリ。
さらにリスがまるっきりキリスト教式の天国に行ったりするのだから、いささか鼻白む。

ラスト、絶滅しかけていたとか言われていたマンモスがぞろぞろ出てくるけど、こっちはどうやって助かったんだ?
キリスト教的世界観べったりというのは、今の時期どうもひっかかる。

リスとドングリとの格闘は楽しめた。
(☆☆★★★)



アイス・エイジ2<日本語吹替版> - goo 映画

アイス・エイジ2 - Amazon

フォーク歌手・高石ともやが某浄土真宗のお寺の境内でNHK−BS用のライブを行った時の記録です。


設営前。


トラックを入れる際、参道の石畳を傷めないように。


同上。


会場完成。


リハーサル。


本番。


台本。



主人公が数々の背徳的な行為を行うたびに、「神の声」を聞こうとするようにゲルマニウム・ラジオのイヤホンを耳に入れるが、何も聞こえない。神は沈黙している。

豚の交尾や去勢、屠殺、解体などをもろに見せ、鳥小屋の糞掃除、残飯運び、痰にゲロ舐め、神父による少年の性的虐待など汚らしい場面がこれでもかこれでもかと続く。
スクリーンからはあいにくと匂いは出ないが、それを嗅ぎ続けただろう作り手とは、だいぶ穢れたるものに相対する気負いに落差が出てしまっているだろう。

主人公は罰がないところに罪はないと、ますます背徳的な行為を繰り返す。そして佐藤慶の老神父を巻き込んでシスターが懐妊するのを「予言」したあと、実際に襲うが、犯すところは画面に出ない。
この出さないところがミソで、「予言」通り懐妊したのが処女懐胎=神の降臨を暗示しているよう。それをシスターが告げるが、イヤホンを耳に入れたままの主人公には、妊娠しているはずのお腹に反対の耳を当てているにも拘わらず何も聞こえない。
彼にとっては神はついに沈黙したままだ。

罰が下されないのが不満なように涜神的行為を繰り返すのも、逆説的にそれだけ神を求めているということだろう。
こういうアイロニーのパターンは、無神論者にはよく見られた。ドストエフスキー「悪霊」のスタヴローギン、遠藤周作「海と毒薬」の戸田、ウィリアム・スタイロン「ソフィーの選択」のナチスの医者、など。
ただ、舞台が日本の北海道なので、キリスト教的タブーが社会的な重圧感を感じさせるというほどではなく適当な軽みがあって、ラスト近くの展開など初期の山上たつひこみたいで笑ってしまった。

殺人を犯すような人間はポテンツが高いように思ってしまうが、意外なことに童貞という設定。
その初体験の相手の早良めぐみが「童貞」になるのを目標にしているというのが、ちょっと聞くと妙な感じだが、聖人に叙せられたテレーズ童貞のように女性に使う場合もある。
もう一人のヒロイン・広田レオナの役名がテレーズというのも、偶然ではないのかも。
性交場面で女の方が上の騎上位というのも、ふさわしい感じ。
女の全裸は正面から見せているが、男のは性器が写ってしまうからか避けている。そのあたりも、男はちと及び腰。
映倫マークが入っていなかった。やはり荒戸源次郎製作でドーム映画館で上映した「ツィゴイネルワイゼン」もたしか映倫は通していない。
(後註・映倫を通さないからこそ、うっかり見せられないのだという。現像所から出せなくなるかもしれないから。デジタル技術でぼかしているのだそう)
(☆☆☆★★★)



ゲルマニウムの夜 - goo 映画

ゲルマニウムの夜 デラックス版

ジェネオン エンタテインメント

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上野松竹デパートビル。映画館の上野セントラルは5月14日をもって閉館しますと出ていました。上野囲碁センターも、古本屋も、やたらごたごたひしめいた小さい店も、みんなこの中にあります。


上野のれん街は、ひと足前に閉鎖されていました。


上野公園。左手には青テント村があったのですが、すっかり撤去されていました。数ヶ月前には、この奥の方でホームレスの集団が整列させられていました。


閉鎖された博物館動物園駅。降りていくと、洞窟のように暗い構内には電球がついていて木製のベンチが置いてあるという、レトロというのも違う異様な空間が広がっていました。とある詩人が、ここで朗読会を開いたこともあったそうです。

紀伊国屋ホールにて。前売りは完売、当日も10分で完売。

1時間30分、すべて即興。
脳の話をしているのが、そのまま人の欲望と行動についての法則の解説になっていくから、ありとあらゆるジャンルに話がとんでもちゃんと全部つながっている。
喋ることが詰まっていて、いくらでも出てくる感じ(実際、10分の1も喋れなかったとのこと)。

なぜ今、脳が話題になるかというと、現代ではcreativityとcommunicationというメタなレベルの能力が要求されるようになっているからで、だから不安だからだろうとのこと。
脳年齢を計ったりする方法っていうのは、アレ小学生の勉強の再現みたいなもので、回想療法なんじゃないかとも。

とはいえ、脳というのは欲望に向かって働くこと自体に快楽を感じるようにできているので、その欲望を高い次元のものに耕していくことが大事と語る。
少し今の日本、いい意味での欲望を押さえつけすぎとも。

聖心女子大での授業でドストエフスキーの名前を知っていたのが100人中2,3人だった、ここは大丈夫ですねというと、ちょっと勝ち誇ったような笑い声がホール内から響く。周囲に、熱心にノートをとっている人が何人もいた。質疑応答も盛ん。還暦前という人が熱心に話すこと。



冒頭の室内をのしのしとなぜかアオサギが羽を広げて歩き回って、それを女がまるで意に介さないで電話しながら、メイドに手を出した亭主を怒鳴っているといったフシギなセンスにひきつけられるが、二時間近いのはいささか長すぎて飽きる。
フランス映画ながら監督のイオセリアーニはグルジア出身で、ロシアのソクーロフの「ストーン」でもなぜかチェーホフ(らしき人物)の部屋にアオサギが歩き回っていたが、あっちの文化圏で何かの意味があるのだろうか。

船と歌というより、二輪車とワインが頻繁に出てくる。二輪車が走り回るのをパンで捕らえたり、誰もいない部屋でも鉄道模型が走り回っているのを見せるなど、横の動きが目立っていて画面を様式化している。
玉突きみたいにとりとめないようで妙にぶつかったりする人物風景。
(☆☆☆)



素敵な歌と舟はゆく - goo 映画

素敵な歌と舟はゆく - Amazon





草月会館前に展示されていた作品です。うーむ。



イラク人質事件で起こった日本国内での人質とその家族へのバッシングをモチーフにしているのは明白だが、冒頭に「これはフィクションであり、直接の人物や事件とは関係ありません」云々の字幕が出て、作中のセリフでも「例の事件」といった言われ方をしていて、直接的な言及は避けられている。

だから、なぜ一家が叩かれるのかというのが全然説明されないまま、バッシングによってヒロインと父親が職を失い、父親が自殺して、という八方陰惨な話をえんえんと見せられることになる。
何度も古いアパートの階段を昇ったり、小さなベッドに倒れこんだりといったアクションを繰り返すことで一種の様式化をしているので、ただ陰惨な話につきあわされるだけというわけでもないが、しかし相当に生理的にしんどかったというのが本音。

説明しないことで、日本人ひとりひとりにあたるところの観客に、その時自分はどうしていたか思い出させて考えさせる、という狙いなのかな、とも思う。
実際のところ、事件の時、まさかバッシングに参加はしなかったが、同情もあまりしなかったというのが本当のところ。バッシングされた元人質たちに対して、「弱者」という認識はなかったように思う。乱暴に言うと「ご立派なことをやっていられる結構なご身分」くらいか。何の落ち度もなくて理不尽な被害にあって、それで面白半分な攻撃をされている人間は、他にいくらもいるよ、とも。
あと、いかにも形式的だがやれやれとりあえず助かって良かったというのと。
映画そのものは現実とのアナロジーで語られるのを嫌っている感じだが。

なんでああいうバッシングが起こったかについての分析や評論もいくつか読んだが、日本人のナショナリズムの復活だとか、弱者への同情の欠落、長いものには巻かれろ意識といったよくある公式的なのが多くて、あまり釈然とするものはなかった。直感的になんか、違うなあと思っている。
自分の「正しさ」に疑問を持たない人間への違和感というか。
この映画でも主人公に対する批評的な見方が欠けている。

実際、バッシングする側の説得力ある描写抜きでバッシングというのが描けるのだろうか。
近しい人間が離れていく時ももう少し見かけは取り繕うのではないかと思って、元恋人や上司の冷たい態度もああ世の中イヤな奴が多いなあという程度の認識をあまり出ず、コレが日本人の分析だとか自分を鏡に写した姿だとは(たとえ傍から見てそうであっても)まず思えない。
(☆☆☆)



バッシング

GPミュージアムソフト

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虫の鳴き声だけのタイトルバックなんて、およそ昨今のアメリカ映画離れした作り方。
テレンス・マリックらしい一種アニミズム的な映像表現が全編に貫徹されている。これだけ大掛かりな映画でも作家性は一点も曲げないのが、芸術家としてちょっと別格扱いされているゆえんかもしれない。
代わりにストーリー性や一般的なキャラクター描写は大幅に犠牲になっている。
いくら宣伝とはいえ、ラブストーリー寄りにして「タイタニック」と比較するというのは、ウソが過ぎますぞ。

しきりとカメラは太陽を仰ぐ。イギリス人ジョン・スミスとポカホンタスとの最初の頃の会話でも、「太陽」がキーワードになっていた。
水の中から原住民を捕らえたショットなど、「天国の日々」でリチャード・ギアが撃ち殺された姿を水の中から捕らえたショット同様、人間以外の何者かの視点。
続けて見るとイギリスの庭園の極端に幾何学的な造形は、ほとんど異様に見える。

もっとも、アニミズム寄りとはいっても原住民の素朴な生活を称え、西洋近代を批判するといった作りというわけでもない。ポカホンタスは結局、近代の生活に同化していくのだし。
ナレーションが多用されるのもマリックのスタイルだが、場面によって語り手が変わっているのも、世界が引き裂かれた感じを出しているよう、「シン・レッド・ライン」ほど違和感なし。
(☆☆☆★★)



ニュー・ワールド - goo 映画

ニュー・ワールド コレクターズ・エディション

ポニーキャニオン

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なんとか、読了。
眠り薬代わりに読むといいとか、石のサンドイッチなんて言われる超難物だとは聞いていたが、大げさではないね。

題名に「諸学」とついているように、哲学以外の学問、特に心理学と幾何学についての言及が目立つ。
ただ、この場合の心理学が今でいう心理学とどの程度同じなのか、違うのか判断がつかず。
なんでこの本読むようになったのかというと、もともと自然科学とか数学みたいに哲学とは全然関係なさそうな学問の方法が多分に哲学・形而上学から出ていると聞いたから。
あるいは幾何学的な世界観から近代哲学が発達したのでもある。

話はそれるが、当たり前みたいに理科系・文科系という具合に人間の思考法の傾向を分けてしまうのに違和感がずっとあった。
なんでそういう分け方ができたかというと明治になって教育機関を作るのに、まず近代国家の格好を作るための官僚機構を育てるのに法学部・産業を興すのに農学部などを作ることから始めて、ヨーロッパの大学にはそれ以前になくてはならなかった思考法の基礎としての哲学がすっぽ抜けていたから。

哲学という言葉はフィロソフィー(知を愛する学)の訳語として西周が中国の文献から希哲学=知を望む学という言葉をあてはめようとして作りかけたところで、どういうわけか希が抜けてしまって意味が通じなくなったのだという。

ごく最近まで、哲学書などまるで読んだことがなくて、それでとりあえず困りもしなかったが、いざぽつぽつ読んでみると、やたら細分化してしまった学問をつなぐ今まで抜けていた部分が少しは見えてきたみたい。



ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 - Amazon


初回で15分500円とは安いっ。だけど「ホディケア」ってなんでしょうね。



江戸カルチャーセンターですって。コレ、東京にあるんですよ。



続編ものなのだが、前編の内容をまるで覚えていなかったので、どうつながっているのかよくわからない。わからなくて困るというハナシでもなくて、要するに善玉が悪玉をやっつけるだけなのだが、吸血鬼と狼男の対決なのだから、本当はどっちが良いも悪いもなくて、要するに美人がついている方が勝つという次第。

アクション、アクションでつないでいて、血みどろの描写だらけだが、スタイリッシュな処理をしていてあまり毒々しい感じはしない。
ケイト・ベッキンセールの黒のぴったり身体の線が見えるコスチュームとそれと対照的に青白い肌がセクシー。
(☆☆☆)



アンダーワールド:エボリューション - goo 映画

アンダーワールド2 エボリューション コレクターズ・エディション

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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生前の伊丹十三が、常連出演者だった津川雅彦に「あんたも監督してみなよ」と言っていたことがあった。
それが実現したわけだが、モチーフとしては同じ「お葬式」。伊丹が監督としては二代目だけれど、津川ならぬマキノ雅彦は三代目ということになる。
本来不謹慎な話なのだが、お祭りの一種として華やかに見せてよく笑わせるところや、死者の目みたいなアングルでぐるりを取り囲んだ通夜の客を下から見上げた画面なども共通している。
漢文の返り点みたいな構成で死んだ人間が回想で何度でも蘇ってくるわけだし、死体にかんかんのうを躍らせても陰にこもった感じはない。

木村佳乃がおそ×を見せるところで、スカートの裾をちょっと噛んだりする動作のつけ方はなるほど叔父マキノ雅弘譲りというか、芝居の「型」から入る芸人一家出身らしい演出。藤純子だったか、男を待っている芝居で足の親指で「の」の字を書かせて艶っぽさを出した、という例に近いみたい。
酒を飲みすぎていつもお腹がゆるいというあたり、原作の中島らも自身の姿がうかがえるよう。

下ネタだらけと聞いていて実際そうだけれど、キャスティングのせいか思ったほど関西色が強くない。
(☆☆☆★★)



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寝ずの番

角川ヘラルド映画

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製作・監督・脚本・音楽チャールズ・チャップリン、ただし主演だけしていないシリアスドラマ。
わざわざ冒頭の字幕で「私は出ていません」と断っていた。そのせいかどうか(に決まっているが)興行的に失敗したもので、シリアス路線はおあずけになり、1923年の初公開以来、60年以上封印されていたらしい。
チャップリンがヒロインに長年短編でパートナーをつとめてもらったエドナ・パーヴィアンスを起用し、言ってみればこの映画を捧げたわけ。彼女が引退してからも終生年金を払っていたともいう。

出だしのヒロインとその貧しい恋人の父親が両方ともやたら厳しい、というよりほとんど子供を憎んでいるのではないかと思わせるあたり、かなりコワい。娘が親の目を盗んで男のところに逢い引きに行ったと知ると、家中の鍵をかけて締め出し、「その男にベッドを用意してもらえばよかろう」と言い放つといった調子。
サイレント映画なのだが、パントマイム調の大げさな演技はあまりせず、リアリズム・タッチ。

巴里の金持ちたちの享楽的な生活の描写にずいぶん熱が入っている。本当だったらヌードが現れるところを巧みに省略しているのは、ソフィティケーションという以上に好色な感じ。
トリュフのシャンパン煮なんてのが出てくるところで、翻訳(清水俊二、えっ!)では出なかったがトリュフを取る豚とgentlemanをあえて並べていた。

ヒロインがどんな生業をしているのか、引き出しから落ちたハンカチ一つで見せる脚本と演出の冴え。
女友だちと会話を交わす間、ずうっとマッサージを続ける雇い人の表情を追い続け、その欺瞞に満ち満ちた内実を余すところなく暴露している。
アドルフ・マンジューがいつもにやにやしているのが余裕たっぷりのようでもあり、白痴的(‘idiot’と呼ばれたりする)でもある。
この頃の女性たちは、今の目で見るとずいぶんコロコロしている。
太ったウェイター役、見た顔だと思ったら「サーカス」で先輩のピエロ役をしていた Henry Bergmanという人。



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