コピペ日記

備忘録・メモ代わりです。意見はごく少々。

2006年11月

1990年、ブルキナファソ スイス フランス合作。
製作・監督・脚本 イドリッサ・ウエドラオゴ。

舞台はサバンナ。
恋人を村に残して旅に出た男が二年後に戻ってきたら、恋人は長老である実の父親の妻になっていたというとんでもない話。
秩序を乱す男は弟に殺されかけるが見逃されて村を出、元恋人は彼を追って一緒になって妊娠もするが、どっちの子供なのかはよくわからず、男が母親の死を聞かされて村に戻ったところで弟に殺され、弟も村を追放される。

なんかもうムチャクチャな話で、一体、いつの時代だろう、銃が出てくるところや服装からすると現代か近い過去なのだろうかと思われるが、長老の権利・権限というのが、不条理なまでに高い。その割に長老の存在感は不思議と薄い。

それにしても、二年間も何しに行っていたのだろう、とか、あちこちスジがつかみにくい。
社会派風にアフリカの前近代性を告発している、というより一種神話的な唐突さ、残酷さ、という印象。
(☆☆☆)


本ホームページ

掟(1990) - goo 映画


占いです。他の何者でもない。


本ホームページ


中学生で初めて見た時は20分で退散した。
20分間、ストーリーがまるで動いていないのだから、こういうタッチに慣れてない人間にはナニゴトかと思ったぞ。何度も見ているうちに慣れてきたが。

名画座で見た時、間違えて紛れ込んできたオヤジが、「あいつ(主人公のアッシェンバッハ)は頭がおかしいのではないか」と、ひとしきり騒いでそのうち出て行ったが、美少年趣味といい芸術家の役割についての自問自答といい、わからない人間にはおよそ理解を絶しているには違いない。
正直、こっちにとっても接点はあまり見出せない。

最初の方、リドに上陸したアッシェンバッハがまとわりつく子供を傘で追い払うような仕草を見せる。
少しあと、ホテルでエレベーターに乗ろうとすると、男の子たちがわっと騒ぎながら走り出てくるのが神経に触る。
優雅一方ではなくて、ガサツな連中にも目が行き届いている。

タジオの兄弟は全員女の子で、やたらとおとなしくお行儀がいい。
その頂点にいて優雅をきわめているのがシルヴァーナ・マンガーノの母親で、この一行がベニスの街を歩き回る場面の、タジオのアッシェンバッハを意識しているようなしていないような、誘っているような無視しているような動きのつけ方は、演出芸術そのもの。
故・淀川長治氏は、汚染された物を燃やす炎と煙の向こうのタジオが一瞬悪魔とも見えると指摘していた。

後期のヴィスコンティ作品のカメラワークはズームとパンが目立つようになるが、これは特に頻出している。頻度からいけばニュー・シネマ(死語?)並だ。
極端に主人公の主観に密着している効果はある一方、画面の奥行きとか立体的構成感、といったものが損なわれる面がある。



本ホームページ

ベニスに死す - goo 映画

ベニスに死す

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る


ミリセント・パトリックによるデザイン、バッド・ウェストモアによる特殊メイク、スーツアクターのベン・チャップマン(水上)、リコー・ブラウニング(水中)による演技によって作られたギルマンが何より見もの。

ヒレのついた手だけ見せて恐怖を煽る技法、白黒ということもあるが、口が動いてちゃんと生き物っぽく見える感じ、そして何より全身を覆った着ぐるみを着て水中を泳ぎまわる姿が壮観。ずいぶん長いカットで十メートルはある深さにじいっとしているかと思うと、水面を泳ぐ美女をえんえんと水中から追っていくなど、人間技とは思えないくらい(ブラウニングは4分間くらい潜れたらしい)。

美女が悲鳴ばかりあげているのが昔のモンスター映画っぽい。なんかイヤらしいのだね。


本ホームページ

大アマゾンの半魚人 - goo 映画


日本の刑事裁判で起訴されたうちの99.9%が有罪になるとは知っていた。
検察が有罪に持ち込める案件しか取り上げないからだろう、それでとりこぼされる事案が出るのは問題だ程度には思っていたが、どうもそこらへんではないのだね。

裁判官が無罪判決を書くということは、警察・検察に楯突くということで、国家権力という大きなくくりでいえば「お仲間」同士で事を荒立てるのは得策ではない、有罪になれば警察・検察の顔が立つが、無罪になったって喜ぶのは被告だけだ、というリクツなのです。冗談ではない、見ていて本気で腹が立ってきた。
弁護士にとっても、負けて当たり前、勝てば英雄というからある意味有利な状況ということだという。
裁判は法曹人や官憲のためにあるのであって、国民のためにあるのではないことをありありと教える。

この場合はまともな弁護士にあたるのだが、ひどいのにぶつかったらどうなるのだろうとも思わせる。いや、頭から無実を信じないで示談を勧めるひどいのも出てくるのだが、人格的な問題にとどまるのではなくそれなりの理由があってのことなので、なおさら困る。

ディテールの細かさ、充実ぶりがすごい。
護送の際、手錠に通した紐を抜く時うっかりすると摩擦熱でヤケドする、といった一見ストーリーとは関係ない微細な点まで丹念に描きこんであり、二時間半近い長尺なのだがおよそダレることがない。ほとんど全シーンにわたって何かしら知ることになる。
欲をいうと、裁判にかかる費用が全部でどの程度のものかわかると良かった。裁判そのものの生活に及ぼす有形無形のコストをまったく無視しているというのは、奇怪ですらある。

使われる言葉の特殊なことと言い、常識的な判断がまるで通じないことといい、およそ人の話を聞かない態度といい、法曹界というのは今同じ日本にあるとは思えないくらい異質な世界に見える。もっともカンケイないで済めばいいのだが、痴漢の冤罪などいくらでもありそうだ。
筆者は満員電車に乗る時、できれば両手でまわりから見えるように吊り革につかまるようにしている。そうもいかないことも多いけれど。

なお、裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著の第五章によると、痴漢の八割までは常習者によるもので、彼らの犯行は巧妙でまず捕まるようなことはなく、もともと親告罪なのだから仮に捕まっても訴えられなければ起訴されないから示談で済ませようとするし、起訴されても五万円の罰金をさっさと払って釈放されてしまう。
あくまで無実を主張するのは、それまで真面目に生活していて裁判所を信頼している者で、それゆえに拘留が長くなり、物質的・精神的に甚大な被害を受けることになるのだから理不尽としかいいようがない。
(☆☆☆★★)


本ホームページ

それでもボクはやってない スタンダード・エディション

東宝

このアイテムの詳細を見る


公式サイト


こういうリカちゃん人形があるとは思いませんでした。
慈恵医大の売店にて。



本ホームページ


1996年、イラン・フランス合作のモフセン・モフマルバク監督作。

ギャベ、とは絨毯の意味であるとともに、ヒロインの名前でもある。
野に咲く花や夕焼けに手を伸ばすと、手がその花や夕焼けの色に染まり、さらに絨毯を染める染料の色につながる大胆なモンタージュ。

ヒロインが愛する男が具体的には姿を現さず、もっぱら狼のような鳴き声で存在を知らせる象徴的な効果。
遊牧に頼る素朴な生活のようでいて、衣装や調度品のデザインの見事なこと。

ときどき極度に画面がグラフィックに固定されるような感じが、パラジャーノフをちょっと似ているように思わさせたりする。
(☆☆☆)


本ホームページ

ギャベ - goo 映画


「決め」になる二人がキスしている写真、誰が撮ったんです? 写ってるどっちかってこと、ありえないよねえ。
半分寝て見ていたせいだろうか。(註・どちらかがセルフモードで撮ったとご指摘を受けた。やはり寝ていたらしい)。

大学の友人たちがまとまって出てくるシーン、ずらっと横並びで歩いてたりするのね。戦隊ものじゃないんだから、もう少し普通に見える芝居つけたらどうかと思うのだが。
林の撮影はキレイだけれど、ディテールのリアリティ他、画面の密度はどうも薄い。

お話の仕掛けが結構無理がある、結論から逆算してみると、好きな相手が出来た時、ああゆう行動をとるかぁ、と思ってしまう。

宮崎あおいが本当に成長してないように見えるのと成長しだした姿を演じ分けているのは、いい。
丸の内の劇場で見たのだが、工事の音がガガガガガとスクリーンの裏から響いてきたのには、呆れた。
(☆☆★★★)


本ホームページ

ただ、君を愛してる - goo 映画

ただ、君を愛してる スタンダード・エディション

エイベックス・マーケティング

このアイテムの詳細を見る


ヴェルディの「トラヴァトーレ」の「武器をとれ! 武器をとれ!」という劇中の歌詞と、現実のオペラ座の三階席からイタリア独立を訴えるイタリア国旗に対応した三色のビラを撒く行動とがだぶっているように、リアリズムと様式感が、ヴィスコンティにもあまり類のない形で結合している。
(NHK BS-2の放送ではこの歌詞が訳されていなかった)

ロングに引いた絶妙なカメラ・ポジションから、ロケーションでもベネチアの街並み全体を巨大な装置のように見立てて人物を動かすセンス。
膨らんだヒロインのスカートや、中尉の軍服のマントなどの揺れ具合が、割と長めのカットの中で独特の優雅さな動きを見せる。

あるいは広壮な屋敷の中で奥行きを強調したアングルから、奥へ奥へと人物が動いていくのが、自然と自分を追い込んでいく姿になっている。
装置と衣装と役者の動きを全体として掌握している舞台演出的センスと、映像のリアリズムと、絵画的な色彩とが、渾然一体となった分厚い演出。

ストーリーはメロドラマ的だが、終始中尉の俗物性や臆病さ、安っぽさから目をそらさず、にもかかわらず彼に溺れてしまうヒロインの愚かしさからも目をそらさない厳格酷烈なリアリズム。
ヒロインの愚かしさが、人間性の深い部分からの激情から来ているのをありありと感じさせる。
蒸し風呂のような馬車の中でもベールを取らずに汗を拭っていたヒロインがベールを取られるクライマックスの効果。
アリダ・ヴァリの終盤の表情は、後年のホラーの魔女役より余程コワい。

もう少し英雄的に扱われそうな独立運動家のウッソーニ侯爵が、戦闘の中でなんだかあいまいに消えてしまうのが不思議な感じ。相当に当時の検閲で切られたせいだろうか。
(☆☆☆☆)


本ホームページ


夏の嵐 - goo 映画


ルキーノ・ヴィスコンティ DVD-BOX 3枚組 ( 揺れる大地 / 夏の嵐 / 家族の肖像 )

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る


死んだ子の歳を数えるという言葉を映画にしたみたい。

もっともそれはやっても仕方のないこと、という意味だから、主人公を精神分析医にして(イタリアにもいるのね)、他人の悩みは分析できても自分のはどうしようもないというコントラストは作っているが、「哀しみが終わるとき」みたいにうんとコワい展開にするのでもないと、他これといって展開のさせようがない。

室内の色彩の配置のモダンな感覚。
(☆☆☆)



本ホームページ

息子の部屋 - goo 映画


銀行強盗が発端でも、現金を盗むのが目的ではなくて何重にも裏がある話という点で、偶然だろうが「インサイド・マン」と共通している。

こっちの方が映像や音の処理が平準的だし、適当にドンパチや爆発も入れているので、エッジが鈍く感じられるけれど、肝腎の話がなかなか工夫を凝らしていて飽きさせない。
チエのある感じの拾い物。

カオス理論や仏陀の言葉などが散りばめられているのも、一見アクセサリーのようだが、シナリオも書いた監督からすると、結構マジメに意味を込めているのではないか。
(☆☆☆★)


本ホームページ

カオス - goo 映画


年金が足りず、家賃をためた挙句にアパートを追い出される老人の悲劇。
ヴィットリオ・デ・シーカ監督としては珍しく、世界的にコケたらしいが、無理もない感じ。気持ちよく泣いて済む話ではない。

素人俳優と犬を主役にして、ラスト近くの犬を飼うことができなくなり、捨てるに捨てられなくなるあたり、さすがに映画的なうまさを見せる。
犬をアパートで飼う方が当たり前、ベッドで一緒に寝るというのは、今の日本の感覚でいくと何だか逆みたい。

アパートの壁やベッドの中に蟻がいるというのが、何かヘン。本来ゴキブリなのが、まともに描くのが憚られたのだろうか。


本ホームページ

ウンベルトD - goo 映画


原作は読んでいないが、地下鉄を通っていくうちに過去に通じてしまうという、ジャック・フィニィの「レベル3」ばりの話。

主人公堤真一が半蔵門線永田町駅のホームで生きているとは思わなかったくらい高齢のはずの元教師に会うあたりは、田中泯の異様な眼光や佇まいから自然に現代ばなれした雰囲気が出ていて、その後、死んだはずの兄を追って地上にまで出て行くまでは永田町駅の構造を正確に捉えたリアルなつなぎなのに、地上に出た途端、衆議院議長公邸につながる246の坂道の横に出るはずが、中野新町に出てしまうという飛躍が割とうまくいっている。

もっとも、途中から地下鉄のトンネルを走るイメージ・ショットがはさまるとぽんと過去に行ってしまうというちょっとサボリぎみの処理になって、父親との和解がドラマの核なのだか、主人公が生まれる前の父親は理解しても、「現在の」父親と和解したわけではないから、どこかすっぽ抜けた印象が残る。

焼け跡などの美術セットは大掛かりに凝っているが、あまり荒れた雰囲気は出ていない。
丸の内線を、今使われていない全体が赤い車両のをちゃんと走らせている(写真参照)のは良い。

いつも主人公が商品見本の衣料品を詰めた大型のケースを持って歩いているのが、「旅」をしているような雰囲気を出していて良い感じ。
(☆☆☆)


本ホームページ

地下鉄(メトロ)に乗って - goo 映画


「プライベート・ライアン」以来、戦闘シーンの“リアリティ”は格段に向上したが、客席に銃弾が本当に飛んでくることは、当然ながら、ない。
この映画の全体にモノトーンで統一された画面では血や内臓の毒々しい色は目立たない。
代わりに最も赤が目をさすのは、宣伝で作られた兵士たちのケーキにストロベリー・ソースがかけられるカットという具合に、生理的な残虐さを強調することで戦争の悲惨さを描いたつもりでいる幼稚さは、この映画とは無縁だ。

また、どれほど戦争の悲惨さを言葉で表そうとしたところで、最大の被害者である死者たちには語る口はない。
戦争を、特にその悲惨さを映画で描こうとすると、必ずこの解けない難問が立ち塞がる。
兵士たちが口をつぐみがちなのと無関係ではないだろう。

体験していない人間には「わかったつもり」にしかなりようがないわけで、だからといって「わかるわけがありません」でうっちゃるわけにはいかない。
モラル上の心構え、という問題ではなく、近代戦が経済力・技術力・情報収集力・宣伝力ほか社会のすべての成員の能力を総動員して行われる以上、関係なしでいられる人間はありえないということだ。
それは、戦争に参加しなかった人間、戦後に生まれた人間も例外ではない。戦争を社会の中で位置づける能力もまた、問われているからだ。

だから前線である硫黄島が地獄ならば、銃後や戦後もまた自ずと地獄となる。

星条旗が立てられたのが勝利と征服のシンボルに見えるのとは裏腹に、戦いが終わったわけでもなんでもない、という皮肉に典型なように、ここでの戦場はゲーム的な構造や発展性のある陣取り合戦ではおよそない。
国債集めのための宣伝旅行に駆り出される三人の兵士たちの脳裏に閃くフラッシュバックとして描かれ(イーストウッド作品とすると「バード」の構成に近い)、「衛生兵はどこだ」という言葉が繰り返され、敵である日本軍は姿をおよそ見せないのも、悪夢のような不定形なニュアンスを強める。

インディアンの兵士に対する、あからさまに差別的か「政治的に正」しそうな態度との違いはあっても、不自然に接し方が一通り揃っている。

戦友とはどんな存在なのか、というのが今ひとつつかめないのが隔靴掻痒の観。
(☆☆☆★★)


本ホームページ

父親たちの星条旗 - goo 映画



新宿花園神社の二の酉の市に古式ゆかしい見世物小屋が出ていました。
札幌中島公園の見世物小屋と同じ小屋でした。
ただし、出演者はいくらか変わって、口上によるとハタチの小雪太夫という若いヘビ女がヘビを齧ってました。おミネさんは今回はヘビは齧らなかったけれど、同じように火を噴いてました。



本ホームページ


前作で「フルメタル・ジャケット」のハートマン鬼軍曹こと、リー・E・アーメイが保安官に扮し、アメリカの草の根保守層の気色悪さを出していたのはいい工夫だと思ったら、今回はさらに出番が増え、レザーフェイスは口がきけないから、実質主演。

例によって四人の若い男女が出てきて殺されていくのだが、そのうち二人の男がベトナム帰りと徴兵拒否者という組み合わせの兄弟なので、実際にベトナム帰りであるアーメイの引きずるベトナムが生きることになる。

オリジナル第一作「悪魔のいけにえ」が作られた1974年はまだベトナム戦争が終わっておらず、アメリカ国内の殺伐とした空気をもろに映し出していたが、アーメイが、またイラクの第二のベトナム化が進んでまたまた一段と殺伐としている今のアメリカの空気を呼吸しているかのよう。

というか、今回アメリカの根本的な肉食体質を思い切りぶちまけたようで、これくらい遠慮会釈なくチェーンソーで人を切り刻むのを見せた映画はないのではないか。
グラン・ギニョールのごとく、台に乗せた人体を台ごと真っ二つなんてホントにやるもの。ヒドいものです。
人体切り刻みと人肉食を、流行りの激盛で見せてるみたい。

あと、牛が車に撥ね殺される場面なんてのもクイックショットで処理してはいるが、はっきり見せている。描写のあくどさに関しては、ちょっと閾を越えた観。

レザーフェイスがなぜ人間の皮をかぶるようになったのか、なぜチェーンソーを振り回すようなったのか、という経緯は、ただ手近にあったからという以上の意味がないのでがっくり。
(☆☆★★★)


本ホームページ

テキサス・チェーンソー  ビギニング - goo 映画


映画の宣伝は香具師の口上みたいなものだが、もともとの「トリスタンとイゾルデ」は「ロミオとジュリエット」とは関係ない。ウソつき。

「トリスタンとイゾルデ」はもともと宮廷詩人が語り伝えたケルトの説話、「ロミオとジュリエット」の出典は複雑だが、一応十五世紀イタリアでまとめられた長々しい物語をシェイクスピアが四日間の出来事に凝集して劇化したもの。
悲恋物語というだけでごっちゃにされてはたまらない。

ジョン・ブアマンの「エクスカリバー」で、王妃グィナヴィアと騎士ランスロットとの逢引シーンで、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を流していたが、このトリスタン映画の話はアーサー王物語の方に近い。
男女二人のドラマというより、王と王妃と家臣である騎士との三角関係のドラマなのだから。
イゾルデがそれほどの美女と思えないので、どうも気がいかない。

そして何より、媚薬が出てこない。代わりにフグの毒が使われる(ホント)。
普通、「トリスタン…」といったら、惚れ薬で結ばれて離れられなくなる男女の話として通っているはずなのに。
いったん死んで蘇えるところだけ「ロミオとジュリエット」。

製作プロダクションはリドリーとトニーのスコット兄弟のスコット・フリー社だが、監督は「ロビン・フッド」のケビン・レイノルズなのに、画調が二人の監督作みたいにやたらと凝っている。
凝り過ぎというか、凝ること自体が自己目的化している感じで、ロマンチックとも神秘的とも中世的ともつかず、何を狙っているのかはっきりしない。

アイルランドがイングランドを分割統治していたという、普通見るのと逆さまの設定。
アイルランドの雲の影が荒涼とした海岸を流れている光景は魅力的だが、この王様がまことにハリウッド的単細胞な悪役なのにがっくり。

遺体を乗せた小舟を海に流して火矢で射て火葬にする、カーク・ダグラスの「バイキング」ばりの勇壮な趣向が出てきたと思ったら火が消えてしまうのだからシケている。もっともそうでないと話が終わってしまうのだが。
(☆☆☆)


本ホームページ

トリスタンとイゾルデ - goo 映画

トリスタンとイゾルデ- Amazon

NHKプレミアム10にて。ハイビジョンと衛星では放映済み。
新資料続出。

初期チャップリン作で撮影されながら使用されなかったテイクが大量に発見され、何度も実際にテイクを重ねながら場合によっては「霊泉」のように全体のストーリーすら変えてしまっていたこと。

「独裁者」の最初構想されていたラストが、独裁者配下の軍隊が武器を捨てて踊り出す、というもので、兄シドニー・チャップリンがプライベートに撮影したフィルム(カラー!)でその光景が見られる。ちらっと「ブリキの太鼓」を思わせ、また中国で日本軍が爆弾の代わりにおもちゃを降らせ、世界中ですべての人が武器を捨てるという黒澤明の「夢」でシナリオにはあったが完成作からは外された「素晴らしい夢」をも思わせる。

最後に書かれたシナリオが、「Freak」という翼がある少女(人間なのか、天使なのかわからない)が人々に恐れられて追われる物語だったというのも初公開。
少女のイラストはちらっと手塚治虫を思わせた。


本ホームページ


パレスチナ・ゲリラがウガンダのエンテベ空港にとったイスラエル人の人質をイスラエルの特殊部隊が救出したエンテベ急襲作戦を描いた実話ダネテレビ映画。1977年製作。

事件が起きたときは、たった二名の犠牲で済んだ奇跡的な救出激、これぞ映画向きの題材などと言われてさっそくテレビ化された「エンテベの勝利」は興行的にも作品的にも大失敗、さらにやはりイスラエル特殊部隊とパレスチナ・ゲリラとの戦いを描いた「ブラック・サンデー」が劇場を爆破するという脅迫により日本公開中止といった調子でケチがつき、ごく限られた範囲でしか公開されなかった。
午後のロードショーでこーゆーのを放映とは、テレビ東京ならでは。

ただし、日本語吹き替えではたしかエンテベではなくアンサベ、アミンではなくアモン、ウガンダではなくダウガンとなっていた。

アメリカ映画なのだが、イスラエ寄りなんてものではなく、立場としてはイスラエルそのもの。
もう一本、クラウス・キンスキー主演、メナハム・ゴーラン監督でイスラエル製エンテベ映画があるらしい。

9.11から後では、こういう映画はちょっと作れないだろう。ゲリラがまだ自分の命を守ろうとしているのが、今の目で見ると人間的にすら見える。


本ホームページ

特攻サンダーボルト作戦 - goo 映画


フラダンスの映画かと思ったら、どっちかというと炭鉱の映画でした。
意地の悪い見方をするが、仮にあのフラダンスのショーを生で見て、感心するかといったらそれほどでもないだろう。
欲をいうと、プロなのだから、ダンスそのもので感心させるのがスジではないか。
ややダンスのプロを甘い仕事、と炭鉱の人間に思い込まれているのをきっちり否定していないのがひっかかる。

最近の日本映画、ビンボー生活の描写がまた巧くなってきた気がする。長屋の襖などの煤けた質感は出色。
ただ一方で、解雇や労働闘争でここで描かれていない凄絶な場面はいくらでもあっただろうとは思う。
格差社会の影響とかもっともらしいことを言おうとは思わない。格差はずっーと、ここで描かれた高度成長期からあったぞ。
(☆☆☆★★)


本ホームページ

フラガール - goo 映画


まあ、なんつーか、バカにされるのをちーっとも恐れてない人の作った映画です。
毒蛇を密室と化したジャンボジェットにまき散らす、というワン・アイデアだけで押し切っていて、そんな手のこんだ真似するのだったら、爆破した方が早くないか、と思うのですが、とにかくぱっくんぱっくん毒蛇がよく人を噛みまくること。
ついでにパニックになった乗客の描写も、倒れた頭にハイヒールの踵が食い込むとか、ヘビに襲われそうになって犬を投げつけるとか、えげつないシーンだらけ。
笑ってしまうところも多いけれど、呆れるところの方が多い。
(☆☆★★★)


本ホームページ

スネーク・フライト- Amazon

スネーク・フライト - goo 映画

昔は「アメリカの」話だったのだが、今ではこういうブチ殺す以外の処理のしようのない凶悪犯、それをしたり顔でかばう人権屋などムカムカする連中が日本中跋扈していて、見ていてわかりすぎて困るくらい。
それほどドンパチはないのだが、編集のうまさ、音響効果で大いに見せ場のパンチを効かせている。

衛星放送をワイドテレビで見ると、ワイドサイズにすると字幕が見えなくなるのでセリフ中心のシーンはノーマル、アクション主体のシーンはワイドで見る。そうするとはっきりシーンがセリフ中心かアクション中心かと分かれているのに気づく。

演出はごく古典的で今のガチャガチャしたアクション演出に比べて優雅にすら見える。


本ホームページ

ダーティハリー - goo 映画


触ってみたら中の液体に見える部分は、やはり液体でした。


本ホームページ

ブルース・ウィリス主演、というとまたドタドタした騒々しいアクションか、と思うと意外なくらい渋くてあまり派手な見せ場はないがおしまいまであまりあきさせないで見せる。
(☆☆☆)

16ブロック - goo 映画


撮影ヴィルモス・ジグモンド。これを撮った時、75歳。
ダンテ・フィレッティの美術、マーク・アイシャムの音楽とともに、ハードボイルドな空気をよく出した。

もっとも、話がわかりずらいのもハードボイルド風で、原作を読んでいない人間にはなんか見ていて腑に落ちない。

ネクロフィリア志向という点では、「めまい」(それからデパルマの「愛のメモリー」)につながるもの。ヒラリー・スワンクの役名が「めまい」のヒロインと同じマデリンだし。
(☆☆☆)


本ホームページ

ブラック・ダリア - goo 映画

ブラック・ダリア - Amazon


ベルイマンはいつも同じモチーフを繰り返し変奏しているようなものだが、今回も「ある結婚の風景」の続編というだけでなく、これまでの作品の集大成的な面がある。

テーマ曲になっているバッハの無伴奏チェロ第五番の「サラバンド」は、「叫びとささやき」でも使われていた。
導入部のリヴ・ウルマンが無人の部屋を歩き回るあたりで扉が自然と閉まり、鳩時計が鳴くのは舞台での序景にあたるとともに、命が残り少ない人間の感覚を端的に示した点でやはり「叫びとささやき」を思わせ、遠く「野いちご」のモチーフとも結びつく。

音楽を介した親子の対立は「秋のソナタ」、神は沈黙しているのにも関わらず人間はすがらなくてはいられず、救いがあるのかないのかわからないまま教会の窓から光だけさしてくるのは「冬の光」、など。

同じことが繰り返される中で、若いユーリア・ダフヴェニウスの存在が目を引く。ぽってりと厚みのある下唇がいかにもベルイマン好み。
一方で、冒頭に「イングリッドへ」と献辞が出るが、故イングリッド・チューリンがユーリアの母親役で写真だけの出演を果たす。何十年も一緒に仕事(時にはそれ以上の)してきたパートナーがいる者にだけ許される、随筆的な描き方。
(後註・ベルイマンの死別した今のところ最後の夫人の名前も、イングリッドなのね)

今年の9月20日に亡くなった、これまた長年撮影を担当してきたスヴェン・ニクヴィストの不在も、いないこと自体がほとんど作品のモチーフと結びついてくる。
デジタル映像には、ニクヴィストが作り出した息を呑ませるような映像美は求めようがないが、「顔」に迫る生々しさは健在。

主人公二人、マリアンもヨハンも現在結婚相手はいないのだが、薬指に指輪をはめている。

相変わらずというか、出演者たちの演技とその引き出し方の見事さは比類がない。
(☆☆☆★★★)


本ホームページ

サラバンド - Amazon

サラバンド - goo 映画


日比谷公園で開催されているニッポン放送のイベントです。
およそこの手のことには疎いので、フジテレビの女子アナとかいうのならまだしも、ラジオ局の女子アナと握手しようっていうのどれくらいいるのでしょ。
どうでもいいことですが。


本ホームページ

大島渚の、ATGとの提携最後の作品。この後、「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス・モン・アムール」と海外と提携しての創作に移行する。

沖縄返還に合わせて、沖縄に縁はあっても本土で暮している三人組(栗田ひろみ、りりィ、殿山泰司)がやってきて、で、どんなドラマになるのかというとこれが一向に要領を得ない。
どんな縁があるのか、というか、だいたい沖縄にどんな人間がいるのか、という要素がまるで描きこまれていないため、ドラマになりようがないのだ。

沖縄のことを知ったかぶりして描いてはいけないから、というのではなくて、単に知らないで頭で描いているのではないか。返還に合わせて大急ぎで作ったみたい。今見ると風化がはなはだしい。

武満徹は、生前難しい音楽ばかり書くと思われているのに反発して、「ぼくはやろうと思ったらバカバカしいくらい甘ったるい曲を書けるんですよ」と言っていたが、さしづめこのタイトル音楽など、それに当たるのだろう。

しきりと三人が飲むのがキリンビールなのが変な感じ。今だったら、オリオンビールでしょう。
(☆☆★★★)


本ホームページ

夏の妹 - goo 映画


十年前に亡くなった夫の生まれ変わり、と称する十歳の男の子が二コール・キッドマン扮する再婚直前の女性につきまとう。

謝罪するよう親に命じられた男の子があくまで拒絶し続けたあげく失神するのをキッドマンが目撃してしまうところでどーんと音楽がかかり、その曲が続く演奏会にずれこんで、しかし演奏しているだろうオーケストラの姿を見せず、遅刻して席についたキッドマンのアップだけにかぶって内心の揺れをありありと表して長々と流れ続ける演出など、キッドマンの無言で長回しに耐えた演技とともに冴えていて、全体にヴィジュアルも音の使い方もすこぶる統制がとれている。
舞台になるニューヨークのアッパー・ミドルクラスの取り澄ました生活の雰囲気がよく出た。

一方で、ホームコンサートでブチ切れた婚約者が子供につかみかかる突発的な暴力の描き方など、キッドマンが出ているところからの連想もあってキューブリックの「バリー・リンドン」を思わせる。
子供が足をばたばたさせる苛立たしい効果も共通しているし、オープニングの大移動撮影といい、案外真似たのかもしれない。

生まれ変わり、と称する十歳の男の子の側から、死後の世界を肯定して描いたらそれなりにロマンチックな物語にまとまったろうが、あくまでこの闖入者に戸惑い続けるニコール・キッドマンの妻と家族、それから婚約者の側から描いているので、あくまで生まれ変わりを主張するのがいささか身勝手で迷惑なものに写る。
いったい、生前の前夫ってどんな性格だったのだろうと思っていると、思わぬ形で知らされることになる。伏線の張り方も納得がいくもの。

全体に死後も愛は滅びないとでもいった感動狙いではなく、もっと知的な突き放したタッチで、次第に妻が生まれ変わりを信じていく過程も、ロマンチックであるより愚かしく見える。
愛のエゴイズムと盲目性に焦点をあてたよう。

原題は‘Birth’だが、「棘」とつけた邦題は意外と感じを掴んでいて、どこか喉に小骨が刺さるよう。脚本にブニュエルとのコンビが有名なジャン=クロード・カリエールが参加しているのが目を引く。
(☆☆☆★)


本ホームページ

記憶の棘 - Amazon

記憶の棘 - goo 映画

このページのトップヘ