A!Blog of SALLY


 SALLY解散から、20年。
 あの蒼い「夏」は永遠に終わらない…。
 『バージンブルー』『愛しのマリア』
 『HEARTはキュートなままでいて』などのヒットで80年代を駆け抜けたロックバンド、
 SALLYのリードヴォーカル/ギタリスト 加藤喜一が語るSALLYのこと
 
 

2006年11月

ラジオ好きでした。サイン近藤でした。

 SALLYはテレビですでに品行方正にして清廉潔白なイメージを定着させていたが、ラジオに関しては顔が見えない分その方正ぶりにはさらに拍車がかかり、もはやブレーキをかけてみようなどという考えが頭をかすめることも、またチラリとよぎることもなかった。
「なんつったっていちばん楽しい仕事はラジオだぜ!」
 と、これはメンバー全員が一致していた。険悪な仲になった解散前でさえこれだけは一致していた。
 トークでの過剰とも云えるサーヴィスぶりは、リスナーから大きな反響を得ていた。またアイドルから遠く離れたその微笑ましいトーク内容は、局のパーソナリティーやDJ、ディレクターたちのウケもよかったようだ。

 レギュラーを獲得した文化放送以外では、ニッポン放送の明石家さんまのラジオをはじめTBSでは所ジョージのバホバホ隊など何度も出演した番組も多い。夏木ゆたかの番組にも何度も出ている。
 ラジオ日本の「曽根幸ののってる気分」では、パーソナリティーの作曲家・曽根幸明さんに「GSで云うならチェッカーズがタイガースできみたちはテンプターズだね」と云われたりした。
 テンプターズはあのショーケンがいたグループである。
 オレなんかはウレシイに決まっている。
 ちなみにSALLYが解散した86年、大晦日に放送されたショーケンこと萩原健一と佐藤浩市が主演したドラマで、ドラマに出演するバンドにショーケン自らがSALLYを指名したと聞いたときは、オレは解散したのを死ぬほど後悔した。そしてSALLYに代わってそのドラマに出演したのがCCBだったのをこの目で見てオレはCCBのコンサートに行って自爆テロをしてやろうと思ったがすんでのところで思いとどまり現在に至っている。

 そんなラジオ出演が毎週何本か入っていた。
 そして古くから付き合いのあったバーディー企画というラジオ番組制作会社からはさらなるレギュラー番組を持ちかけられた。零細企業特有の強引さとしつこさでSALLYに食い込み、だがオレたちもなかなかどうしてバーディーの人たちとは不思議にウマがあった。寡黙なディレクターだったが、オレたちがどんなに激烈な品行方正ぶりを披露してもカットすることはなかった。その番組のひとつが「SALLYのバッドボーイズクラブ」。だがこれ、なんと東京ではオンエアされず聞けなかったのである。ゆえにオレはこの番組を一度も聞いたことがない。
 放送していたのは北日本放送、西日本放送、長崎放送。しかも10分の番組だ。ここでも例によってモーファーやらダンボーラー、ペーパー(←忘れてました、ぼーさんありがと!)についてのトークをしていたのだろう。もちろん下ネタ、エッチネタ、コワイ話も満載だったと思う。
 構成作家がつくった台本があるにはあったがたいていは脱線し、フリートークにして無法トークとなっていた。たまにマネージャーの近藤も出演することもあり、やがて近藤のファンや追っかけさえ現れるようになった。
 
 その近藤、あろうことかファンからのプレゼントを相当数搾取していたようだ。オレあてに届いたプレゼントをいかにもマネージャー然として開封、点検し、金目のモノや高価でお洒落な衣類、アクセサリーなどは近藤がそっくりそのまま戴いていた。
「あれ〜、キーチくんに贈ったセーター、なんでコンちゃんが着てるの?」
 と贈ったファンに指摘され彼の犯行が発覚したことはたびたびあった。それでも近藤、のらりくらりとかわしたあげく、図々しくも自分のファンにしていたのだから呆れて言葉も出ない。そしてオレはと云えば近藤がいらないものをただただ恵んでもらっていたのである。

 また近藤はSALLYメンバーのサインを完璧に書くことができた。
 テレビ局やラジオ局に行くと、楽屋には山と積まれた色紙が待っていた。それ全部にサインしろということなのだが、いかんせん疲れているし、打ち合わせはあるし、弁当を食わなければならないし、ときに下痢でトイレにこもりっきりになることもある。前夜の酒がたたることは当時から多かったのである。そういう際にサインなんぞ出来ない。近藤の出番であった。

 全員のサインを完璧にこなす近藤。
 だからSALLY全員のサインが書かれた色紙のうち、何割かは近藤ひとりの手によるものである。
 だが今となっては近藤はこの世にいないわけで、むしろそれの方がオレたちなんぞのものより値打ちがあるかもしれない。
 ところであいつのサインはあったのだろうか。見たことはないがなんだかありそうな気がする。

(BGM bad boys come tonight/sally)

非日常と日常が生んだ世間を甘くみる会

 全国ツアー「SALLY’S MAGICAL TOUR」は後半に突入。5月4日岩手県民会館、5日青森市文化会館、11日宇都宮市文化会館、19日山梨県民会館、26日越ヶ谷市民ホールと続いていく。そしてもちろんツアーだけではなく、その他のスケジュールもぎっしり入っている。こういうところがミュージシャンではなくアイドル的スケジュールである。
 
 3月で終了した文化放送深夜枠での「いきなり絶快調」は終了し、引き続き同局「吉田照美のふっかいあな」の隔週水曜に出演。吉田照美と過激トークを展開している。
 当時、放送禁止用語が非常にうるさく、ラジオ出演にあたりB4ペラ3枚にぎっしり書かれたその一覧を渡された。
 こんなのもダメなの?というのがやたらと多く、たとえば「おまわり」はダメであった。「おまわりさん」ならOK。「ちんどん屋」もダメである。「ちんどん屋さん」ならOK。「床屋」もダメである。「床屋さん」あるいは「理髪店」と云わなければならない。
 そして「乞食」がダメだった。
 これは、さすがに「乞食さん」でもダメであった。
 だが言い換えの言葉が書かれていない。こうなるとどうにも気になってしょうがない。勉強熱心な連中である。そして云いたくてうずうずし、どうにも我慢できなくなる。
「ああ、乞食〜!!って思いっきり云ってみて〜」
 このとき、まだ「ホームレス」という言葉はなかったのだ。

 乞食、をどう言い表すか。ラジオの醍醐味でもある。そうでもないか。
 苦心惨憺した末、オレたちは遂にクリアすることに成功した。その言い換えた名前は、
「モーファー」
 その頃ボロボロの毛布をカラダに巻きつけた乞食を都市部で多く見かけていた。毛布を巻きつけた人=モーファー、である。勘の良い人はもちろん相当鈍い人でもわかっていることと思うが、これはもちろんサーファーに引っ掛けている。

「あなたのそばのモーファーを教えてください!」
 ラジオではそんな脳天気にして危険極まりないコーナーをつくったりした。ところがこれが意外にウケ、女のコたちはつぶさにモーファーを観察し、中でも相当アブナイ性癖、習性を持つモーファーたちを報告してきた。
 報告のほかには「モーファーにならないように」、「モーファーのカッコしてください」というものから、「いいとも」に出たせいか「モーファーの輪を広めてください」などと云ってきたりするコもいた。さらには「今度いっしょにモーファーしましょう」と大胆なハガキも来たりしていた。(今思うと別の意味と捉えることもできたな。チ、オシイことをした)

 さて、ツアーの合間のスケジュールはさらにテレビ出演「ヤンヤン歌うスタジオ」「歌謡アンナイト」「おはスタ」「夜ヒットDX」「ドレミファドン」などなど、またレギュラー以外のラジオのゲスト出演も多かった。
 特にオレと洋介2人での出演が頻繁になってきた頃でもあった。たとえば5月11日宇都宮市民会館のコンサートのあとでは2人でニッポン放送23:30からの明石家さんまの番組に生出演している。その次の日はほかのメンバーはオフでオレたちだけがHBCの電話インタヴューに出演。ほかのメンバーはいったいナニをしていたのであろうか。

 また5月9日はつくば万博プラザホールで2回ステージを行っている。
 この年はつくば博という科学万博が開かれた年でもあった。
 このつくば博では講談社館のイメージソングとして「君の瞳に恋してる」を歌った。これはこの年の秋発売のシングルだったはずだが、このときには歌っていたことになるのか。記憶が定かでないな。
 大阪万博以来の国際博覧会で、結構盛りあがったようだったがオレたちは醒めていた。ラジオでの告知でも「つくば・ひろし」だの「かがくまん・ひろし」だの適当なことを云っていたはずだ。

 ベストテンのチャートインは外れてはいたが、その活動は早くも安定期を迎えていた。
 レコード屋に行けばきちんとSALLYのコーナーはあったし、外を歩けば女のコに指を差された。オレと洋介はタクシーで渋谷に向かう途中、六本木通りのどこだったか、信号待ちで止まっていたら、横断歩道を渡っていた女子高生に騒がれてしまった。
 門前仲町のホームで地下鉄を待っていたら向かいのホームで騒がれだし、あわてて改札を出た。
 地元の中学校では一日中、オレあての電話が鳴りっぱなしになり、職員室がパニックになることもあった。
 家への電話は深夜でも鳴り止まず、最低でも3分おきにかかっていた。
 法政一高のオレたちの卒業アルバムは高値で取引されていた。メンバーの住所、電話番号は売られていた。オレたちに逢えるとだまし、淫行三昧の同級生がいた。

 こんな非日常が日常になっていた。
 SALLYはテングになってきていた。オレと洋介は入ってきた印税でムダな買い物もよくした。
 年上のスタッフを呼び捨てにすることなど日常であった。
「世間ってちょろいな」
 そう嘯いてみたりした。
 だがもちろん理性は保っていた。これは、非日常的なことが日常になったことへの警告としてお互い「世間ってちょろいな」と声に出すことで戒めていたのだ。
 だがそれでもすぐに悪ノリするのがオレたちだった。なにしろパーフェクトなほどに品行方正な連中である。ついには、
「世間を甘くみる会」
 なんぞを結成し、その品行方正ぶりに磨きかけていったのであった。ちなみに会長は洋介で副会長はオレ、会員は近藤であった。

(BGM the best/SALLY)

Lonely Dreamers meets 井上尭之.

 1985年3月11日付オリコンLPチャートで「SALLY’S MAGIC」は赤丸初登場であるがこれが最高位で30位。
 3月18日付シングルチャート、「愛しのマリア」は13位。これもまた最高位はここまで。以後19→28→45→65と落ちてきて4月22日付では78位。だが4月21日からは森永のCMがオンエアを始めている。
 SALLYのテレビへの露出はコンスタントに続いていた。4月25日はフジの特番「ポップスベスト100」でビーチボーイズの「surfin’ USA」を生演奏している。テレビでこういうカヴァーのロックンロールを演れることはウレシかった。
 3枚続いたマイナー歌謡ロックンロールのシングル曲がSALLYのイメージであったのかもしれないが、バンドとしてのスタンスは当然ながらもっと洋楽寄りであった。いやいやそうじゃあない。邦楽ロックの影響ももちろん受けていた。
 ミュージシャンとして憧れていたミュージシャンそしてバンドはいくつかあったが、それらとは別格のカタチで尊敬していたのが井上尭之バンドである。

 井上尭之さんと云えば、オレにとっての最初の出逢いは「太陽にほえろ!」、「傷だらけの天使」、「前略おふくろ様」の音楽であり、すなわちショーケンこと萩原健一を通して知った部分が大きい。映画ではやはりショーケン主演の「青春の蹉跌」、「アフリカの光」などなど。また全盛期の沢田研二のバックバンドとしても有名だった。ソロ歌手の専属バックバンドを日本で最初にやったのは井上尭之バンドである。オレは小学生のときからテレビでそのプレイをよく目にしていたし、ギターフレーズも耳にしていた。

 その井上尭之さんとなんと一緒に演れることとなった。
 井上さんが司会のFM東京の公開ライヴで、今はなき新宿「ルイード」からの生演奏で生放送。毎週ゲストを招いてライヴを行い、それに必ず井上さんがギターで絡むというスタイルの番組だった。
 森本さんが長年沢田研二のマネージャーを務めていたということで、この番組への出演の機会が訪れたのは間違いないところだろう。
 絡む曲は「Lonely Dreamer」と決まった。ビートルズの「oh,darlin’」風3連ロッカバラードだ。ロッカバラードって今云わないか。云うか?
 ちなみにR&Bの匂いのするこの曲は、オレは今でもソロライヴのときでも演っている。
 当時、ヴォーカルは洋介だった。この曲、Aメロは洋介、Bメロはオレの作曲で共作した。デビュー前にすでに出来あがっていた。
 このルイードでのライヴでは、エンディングのギターソロを倍にして井上さんと絡むこととなった。もちろん井上さんのギターは歌中にも入ってきた。

 とにかく緊張と同時に異常にテンションが高くなったことを憶えている。このときの模様を録音したテープは当時も聴いたが、つい2年くらい前にもファンの人からもらって聴いた。
 あらためて聴いてみると、ギターで絡んだオレだけではなく、洋介のヴォーカルもハイになっているのがわかる。いやSALLY全員がハイテンションの演奏だった。かなり荒っぽいのだがそれはしょうがない。
 弱冠20歳である。尊敬する大先輩との競演にハイにならない方がおかしい。

 オレの大好きな女優でありエッセイストでもあった高峰秀子が、料理でも芸術でもまず一流を知っておくことと云っているが、オレもその通りだと思う。
 一流に触れる機会というのは、だがなかなかどうしてムズカシイところでもある。
 行けば、そして逢えば、誰もが触れられるかというとそう単純なハナシではない。
 かつて吉見佑子も云っていたが一流と逢うにはタイミングが重要なのだ。人ももちろん作品もだ。こちらのアンテナの状態がダメならば、いくら一流と逢っても何もインプットされずに終わってしまう。
 かつて、ある親が大勢の一流の芸術家と懇意にしていて、子供に少しでもと、出逢う機会を与えたのであるが何も身につかなかったという、失礼だがそう見えた人間を、オレは知っている。いくら与えても本人がインプットできる状態にならなければどうにもしょうがない。

 この頃のSALLYはみなそれぞれインプットしやすい状況であり精神状態であった。流行りの音楽はもちろん、逢う人からの影響、映画、美術、詩、料理、酒、ファッション、性風俗などなどすべて素直に受け入れていた。最後のは特に素直過ぎたと云っても過言ではないかもしれない。
 それまで、好きなことだけ演っていたら、きっとそうはなっていなかっただろう。
 3枚のマイナー歌謡的ロックンロールへの音楽的不満、山田パンダをはじめ人間的確執から来る不満、怒涛の日常における数々の不満、だがそれが結果的にあらゆることをインプットするための重要な受け入れ口となった。
 要するに必然的不満だったと云っても好かったのかもしれない。
 
 井上さんはそんなSALLYの演奏をどう思っただろうか。
 だがこの1年後、ふたたび同じ番組で逢う機会が訪れる。
 さらには近藤が独立して事務所を立ち上げた際、井上尭之さんはそこに音楽顧問として迎えられる。
 そして2001年、その近藤慶一の通夜の席で、オレは自分の斜め前に座った井上さんの細い顔を眺めることになる。

(BGM リユニオンライヴ05/cream)

アタマはキューティクルなままでいて

「バージンブルー」のヒットのおかげで、今度は歌だけではなくその姿カタチも登場することとなった。
 CM出演である。大手である。森永である。ところで今夜も韓国である。ソウルである。
 何度も口を酸っぱく連呼しているのですでに耳にタコかもしれないとは思うが敢えて云わせてもらうならば、不幸にも愛くるしくてチャーミングさらにはキュートにしてセクシーなルックスを持ったのが災いし、森永製菓からどうしてもとせがまれたオレたちはオンナコドモ向けの商品は柄じゃあないからと何度も突っぱねたのだがそれでもどうしてもと懇願されては厭とは云えない。じゃあ、ってんでコマーシャルへの登場を厭々ながら受諾したのであった、というのはウソである。
 
 森永からのオファーはすでに84年に来ていた。だが不幸にも(これはホント)江崎グリコと森永製菓に対し商品に毒物を混入したという脅迫状が届き、特にグリコの社長は誘拐されたこともあって当時世間は上へ下への大騒ぎとなっていた。
 両社のCMは当然のことながら自粛された。そしてこれこそ不幸になことに事件前に契約を結んでいたSALLYは無期限の延期状態に置かれた。それがめでたく85年になってようやく解除されたのであった。ただし事件の真相はいまだ闇であり、犯人も捕まっていない。

 今でこそ甘いモノが大好きになったオレであるが、当時はそれこそ1年に1g砂糖を舐めればもう十分というほどに甘いモノを毛嫌いしていた。アイスクリームなんぞ地球上から消えてしまっても一向に構わないと思っていたくらいだ。そんなヤツがCMに出るんだからなんともはや世の中わからんものである。だがこういうことは往々にしてある。たとえばコーヒー嫌いの店主が喫茶店をやっているという店をオレはかつて知っていた。

 撮影場所となったのは後楽園ゆうえんちのメリーゴーランド。オレたちはクルクル廻りながら新商品のアイス「ぱふぇてりあ」を手に、アイドル笑顔全開バリバリで、
「ぱふぇっ!」
「てりあ〜!」
 と叫ぶこと数万回。今生はもとより来世の分まで舐め尽くしたと云って好いほど「ぱふぇてりあ」を舐めまくった。
 このCM、バンドのフロントマンであるオレと洋介以上にドラムの全次郎にスポットが当たった。全次郎のナレーションもあり、オレたちは云わば刺身のツマ的存在と成り下がった。
 また全次郎はこのシングルのジャケ写撮りでもカメラマンの立木義浩さんに、
「キミ、昔のショーケンみたいだねえ」
 と云われ、オレは非常に強いジェラシーを感じたことをここに白状いたします。そんなもの感じてもムダとは思いつつも昔からのショーケンファンだったオレとしてはフクザツな心境であったのだ。

 シングルはオレと洋介のオリジナルで「HEARTがキュートなままでいて」。
 SALLYでは初の明るい曲調で、それに合わせて衣裳も明るくなった。いや明るくなり過ぎた。「バージンブルー」でデビューしたときはモノトーンだったが、派手なメイクまでするようになり、しかもオレの髪の毛はトップ部分が赤く染められた。
 最初は染める予定はなかった。
 原宿SASHUでやってもらったのだが、「キーチくん、染めてみない?」と云われて、軽くオレはOKしてしまった。それが運の尽きであった。

 その赤い染料はロンドンから空輸されていたシロモノで、だが5日もすれば色は落ちてくると云われていた。オレは余分に数本買い、ヘアメイク担当の古久保英人さんに染め方を教わり、自分でもやっていた。ところが森本さんから髪の色をもとに戻せと通達があり、黒く染め直し、さらにはパーマまでかけた。
 そしてこのとき、かつてないほどに大量に髪が抜け落ちたのであった。
 1回の洗髪でびっくりするくらいバサバサと抜け(中略)、現在に至っている。今残っているのは奇蹟的と云っても好いかもしれない。

 さて、明日はようやく帰国の途につく。
 韓国はソウルからの送信はこれにて終了。やれやれ。

(BGM nothing)

カムサハムニダはこの街角で

 このブログ、韓国はソウル市麻浦区stay7mapoというレジデンスホテルで書いている。同室はスズキダイスケ。彼は今、葛飾ホックニーとともに夜の街に消えて行こうとしている。
 さて昨日はソウル市内の「空中キャンプ」にて24:30から加藤キーチmeets日野友香で40分ほどのステージをやった。韓国人のお客さんにも受け入れられたようでウレシかった。
 その前はAX koreaにてParis matchのライヴを観に行った。
 終わって楽屋で洋介と逢ったが、異国の地で逢うなんて初めてのことでありなんだか照れくさいのと、まるで自分が追っかけのような気になってきてどうにもバツが悪く、あまり言葉をかけられなかったことを少し後悔している。
 それが昨日2006年11月24日のことだ。そしてこれから21年前の1985年の洋介やオレ、ほかの連中とのことを書こうとしている。オレのアタマの中はタイムマシン状態と云っても好いかもしれない。Paris matchの残像とSALLYのそれが交互にフラッシュバックしている。それにしても韓国のクルマの運転は乱暴だ。危なくてしょうがない。

「SALLY'S MAGICAL TOUR」は1985年4月1日からは愛知勤労会館、2日大阪万博ホール、3日京都勤労会館、4日広島郵便貯金ホール、5日福岡電気ホール、7日静岡市民館と続いていた。
 10日は取材で初めて吉見佑子と会っている。
 音楽評論家の吉見さんにはこの直後からしばらくオレは音楽的なことから個人的なことまでいろいろサジェスチョンを受けることになる。ちょうど歌詞について悩んでいた時期でもあり、詞の書き方についてはずいぶん影響を受けたしアドヴァイスしてもらった。
 またいろんなコンサートに連れて行かれたり、いろんな人に紹介されたり、流行りの店を一緒に覗きに行くことも多かった。
 
 あるとき六本木の交差点そばの焼肉屋で、オレと洋介と吉見さんでメシを食ったことがあった。その頃はまだ洋介も煙草を喫っていた。ビールを飲みながらの食事。焼肉にビビンバ、その合間にビールに煙草。当然のように煙草に火を点け、ぷか〜と一服。
「ちょっとあんたたち!こっちはまだ食べてるのよ。煙草やめなさいよ」
「え」
「もしかして彼女とデートするときなんかも、そんなふうに無遠慮に煙吐き出してるわけ?」
「いけなかったですか」
「あたりまえでしょ。デリカシーのない人たちね」
 飲みながらのメシ。酒。合間に煙草。
 それまでオレたちは何の疑問も持たずにそうしていた。誰も文句は云わなかった。それはマナーに反することだと、それまで付き合ったオレと洋介それぞれのいずれの彼女も指摘することはなかった。なんということ。品行方正にして清廉潔白だったオレたち。そんな大事なことを指摘しなかった女たちと付き合っていたオレたちの不幸は察するに余りある。
 吉見佑子の前で赤面し、喫った煙草にむせ返り、口に残っていたビビンパを吐き飛ばし、あまりの恥ずかしさに号泣したのは云うを俟たない。無知の涙by永山則夫。後悔すでに遅し。覆水盆に還らず。ビビンバもちろん丼に戻らず。
 それでもオレそしてSALLYに興味を持った吉見さんは21日の千葉県文化会館に来ることを約束した。

 そしてこの頃、4枚目となるシングルにようやくyosuke&keachのオリジナルでいくことが決まった。まずはそのB面となる「Good vibrationはあの街角に」のレコーディングから始まった。アレンジャーは椎名和夫。
 椎名さんはかつてムーンライダースのギタリストであり、ムーンライダースはアグネスチャンのバックを務めていたこともあり、詳しいことはオレもわからないが、アグネスのアレンジをやっていた溝渕さんとはそのあたりで知り合ったのだろうと思う。
 溝渕さんこと溝渕新一郎はメリーゴーランドでオレたちの音楽アレンジを担当していた人だ。
 また椎名和夫は85年当時は山下達郎のバンドのギタリストでもあり、ゆえにこの曲、および次のアルバムは音色が豊かにになり、オレたちはシーケンサーを使った同期モノにトライすることになる。
「Good Vibration〜」はテレビで何度か演奏した。全次郎がヘッドフォンをしてシーケンサーの音とクリックを聴きながら叩くことになったのだが、本番で何度もリズムがずれ、そのたびにテレビカメラを止めさせたりした。
 
 B面からスタートと書いたが、今手帳を見たらA面の「HEARTはキュートなままでいて」。これのレコーディングは終わっていたようだ。3月25日にテレ東「おはスタ」出演のあと、後楽園遊園地のメリーゴーランドでのCM撮影に臨んでいる。この曲は森永のアイス「ぱふぇてりあ」のCMに起用されている。
 ちょうど前年、グリコ・森永事件があり、両社のCMが自粛されていた。それが解禁になったのがこの頃であったのだ。

(bgm nothing 目の前の窓から見えるのはソウルの夜景、遠くにライトアップされたNソウルタワーが見える)
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